後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ブログとベンチャー企業の隆盛(4)ブログの有効的役割

2008年01月31日 | 社会・経済

今回はブログを上手に使うとベンチャー企業が成功しますという一例をご紹介します。神戸に住み技術士事務所を開業している鈴木裕氏です。

日産自動車から数年前にスピンアウトして事務所を開設したベンチャー起業家です。ものづくり産業とサービス産業の経営者へマーケティング戦略と技術問題解決の助言をする事務所です。

筆者がある役所に依頼されベンチャー起業促進の手伝いをしていたころ彼と一夕お酒を共にしました。数年前の名古屋の夜の街でした。

「何故ニッサンを辞めて独立するのですか?」「自分らしい人生を送りたいためです」「自分らしい人生とは?」「国際自動車競技ライセンスを持った日本で唯一の技術士です。その趣味を広げ多くの人へラリーの面白さを広げたいのです」

実に明朗闊達で、情熱にあふれる黒い目が印象的でした。

筆者とは親子ほど歳が違うがすぐに友人になりました。それ以来折りにふれて付き合いを重ねてきました。最近ブログを始めたので、彼に「ブログとベンチャー企業の隆盛」について記事執筆を依頼したところ、すぐに原稿がきました。鈴木氏へ感謝しつつ、下記に、原稿をそのまま掲載します。なお彼のブログのURLは;http://blog.suzukiyutaka.com です。

下記の内容のお問い合わせは;http://blog.suzukiyutaka.com/archives/cat29/index.html へ直接お送り

下さい。

「営業を成功させるためのブログの使い方」 技術士、鈴木 裕

ブログは、今や中小企業のビジネスにとっては必須のツール。

これは、よく言われていることだと思います。

残念なことに、うまく生かしきっていない企業が多いと思います。

やってみたけれど、あまり効果がなかった、と言うような声もあります。

実は、ブログはちょっとしたコツで、企業から顧客への情報発信だけではなく、集客ツールとしても使えます。

その事について、私と、私のクライアントの事例を交えながらお話したいと思います。

ブログをビジネスに使う場合、顧客との間のコミュニケーションツールとしての役割が主になります。

これは、インターネット以前の紙の媒体で言えば、ニュースレターに相当するものです。

ニュースレターは、既存顧客との関係を保ちながら、そこに顧客のコミュニティーを築く、言うなれば、既存顧客を固定客化する、と言う効果があります。

また、ブログは、検索エンジンとの親和性が良く、いわゆるSEO対策が自動的に出来てしまう、と言うツールでもあります。

つまり、新規顧客を集めるためのチラシや広告の効果も併せ持っている、と言うことです。

後者の、検索エンジン最適化(SEO)の例については、例えば、私のブログは、Yahooの「神戸 技術士」で一位表示されます。

具体的にどのようなしくみになっているかはよく知りませんが、タイトルや記事の内容を少し工夫すれば欲しいキーワードで一位表示されることは難しいことではありません。

ただし、検索結果の一位に表示されるだけでは、購買には結びつきません。

私が、検索エンジンで一位表示されることよりも重要と考えているのは、コミュニケーションツールとしての役割です。

私のクライアントで、ゴルフクラブの製造販売をしている人がいるのですが、彼はこの点でとてもうまくブログを使っています。

彼のブログは、お客さんたちのコミュニティとなっていて、既存のお客さん同志、あるいは、お客さんとお店のコミュニケーションがとれるようになっています。

これもよく言われていることですが、中小企業にとっては、お客さんのコミュニティがある、と言うことは重要なブランドとなります。

コミュニティがあることによって、お客との関係が保たれます。

そうすると、またお店に訪問しやすくなり、リピート購買に結びつきます。

また、たまたま検索エンジンなどからブログを訪れた人が、その楽しそうな雰囲気についお店を訪れる、と言う効果もあります。

もちろん、何でもいいからブログがあれば売上が伸びる、と言うものではありません。

これは紙の媒体でもインターネットでも同じですが、集客のしくみづくりと文章力は必要です。

重要なことは、ブログは顧客との間のコミュニケーションツールである、と言うことです。

インターネットで検索する人のほとんどが何らかの情報を求めていると言われています。

ブログであれ、ホームページであれ、それが売り込みである、とわかったとたんに3秒で他のページに行ってしまいます。

ただ商品を列挙したようなブログもよく見かけますが、売上はあがらないと思います。

そこに、例えば、商品についてのお店のスタッフの意見や、実際に自分も使っています、と言うようなパーソナルな情報が、さらにはそのコメントとしてお客様の声が入ってくると売上は全く違ってくると思います。

ブログは、使い方次第で、とても強力な集客ツールになる、と言うお話をいたしました。(鈴木氏の原稿の終わり)

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蛇足かもしれませんが鈴木さんから来た手紙の一部と彼が撮った写真を入れます。

藤山杜人

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先週、寒波が来たので有馬に出かけました。
有馬温泉から六甲山頂に抜ける登山道沿いの滝が、冬場凍るのです。
冬に訪れるのは10年ぶりくらいですが、以前に比べて氷が明らかに少ないように感じます。
温暖化の影響かも知れません。
後になるほど氷は増えるので、また2月に行ってみようと思っています。

 鈴木裕


あるテレビマンの死

2008年01月29日 | 社会・経済

村木良彦が死んだ。筆者の中学の同級生である。TBS社から独立し同志3人とともにテレビマンユニオンを1969年につくった。村木良彦という名で検索すると、「遠くへ行きたい」、「世界不思議発見」、「海は甦える」など歴史的な作品のプロデューサーの仕事をしたという輝かしい業績が並んでいる。そんなことは一切知らなかった。同窓会で何度も会って話したが、彼は自分の仕事のことは話さない。ニコニコ笑ってこちらの話を聞くだけであった。今日、都内のあるお寺で葬儀があった。弔辞を読んだのは昔の同志の今野氏であった。村木氏の業績のことは殆ど触れない。やさしく、穏やかで、決して怒らず。いつもまわりの人々に愛されていたと話す。ただ仕事のことになると、視聴率がもの言うテレビ番組作りへ鋭い批判を繰り返し、何時も良質の番組をつくる情熱に溢れていたそうだ。その思いでテレビ番組制作者連盟という組織を創り、自ら理事長を務めていた。日本のテレビ番組の質的向上へ意欲を燃やし続けてきたそうである。

どんな業界にも良識派という人々が居る。しかし彼らはとかく同業者を批判はするが自分は手を汚さない。今野氏の弔辞によると村木氏は番組を作る仕事で手を汚しながら低俗な番組に果敢に立ち向かったらしい。よほど情熱を燃やし続けないとうまく行かない。そんな内容の弔辞であった。

死んだ人の輝かしい業績だけを羅列する弔辞も多い。しかし、死者の優れた人間性を賞賛する弔辞ほど生き残った人々へ勇気を与えるものは無い。

昔、仙台にいたころ村木君の家へよく遊びに行ったことを思い出しながら葬儀会場を後にした。知人、恩人の葬儀のことをブログに書くのは憚られるが、マスコミの業績のみを羅列した短い記事へささやかな補足をしたいと思う。

            合掌。                     藤山杜人


武田信玄の隠し湯は山梨、長野、東京に

2008年01月28日 | うんちく・小ネタ

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武川の山小屋に泊まると温泉へ行きたくなる。近くの増富鉱泉へ行く。珍しいラジューム温泉だ。聞くと「信玄公の隠し湯」と教えてくれた。戦国時代の壮大なロマンを連想しながら湯船につかる。山小屋へ通いながら武田信玄の隠し湯を全て訪ねてみようと思った。下部、河浦、湯村、積翠寺、西山、橋倉とまわり、これで全てと思っていた。信玄公の隠し湯は山梨県にのみ有ると思っていた。しかしある時、武田信玄の活躍の範囲を調べていたら、隠し湯は長野、神奈川、静岡、岐阜、東京の広範囲にわたっていることが分かった。

特に長野県に多く、松代、蓼科、渋、唐沢、小谷、毒沢、宝の湯などなど。

信玄公の隠し湯の特徴は、湯船が岩造りで、多くは雑木林の尾根に囲まれた谷にある。敵に見つからないような土地にある。しかし湯量は少ないものが多い。合戦の傷を癒したのだろう。温泉や鉱泉の風呂場には「成分は打ち身や傷に効く」と書いてある。

甲府市の西郊の釜無川へ行くと規模雄大な信玄堤が現存している。信玄堤の内側は広大な公園になっている。残雪輝く南アルプスの景色と一体になり当時の武田氏の隆盛がしのばれる。信玄は治山治水に尽力し領民の生活の安定に努力した。

しかしその後、江戸時代の甲斐の国は幕府の直轄領になり、武田一族の歴史的評価は意図的に小さくされた。現在の歴史の教科書もその流れにあり、武田信玄の広範、多岐にわたる功績があまりにも簡略に記述されている。

甲州の空の下で隠し湯につかりながら、学校の歴史教育は地方の歴史をあまり教えていないと思う。明治維新の富国強兵策では地方の歴史をゆっくり顧みる余裕がなかったのであろう。(この稿の終わり)


玉川上水冬木立の写真集(続き)

2008年01月28日 | 写真

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玉川上水への取水口の羽村の堰(写真の右方向)付近の多摩川本流と奥多摩の山並みです。以下に6枚の写真を示します。クリックすると大きくなります。

始めの4枚は、左から順に、「玉川兄弟の銅像」、「玉川上水の最上端」、「福生の 

 まぼろしの酒、嘉泉」の醸造所付近の風景を2枚です。

そして右下の2枚は、立川、砂川の見影橋の上流と下流の風景写真2枚です。上流側の左手に源五右衛門分水堰を開閉する鉄のハンドルが見えます。玉川上水は江戸の生活用水として重要でしたが、分水口が数多く設置され武蔵野の灌漑用水としても重要な役割を果たしてきました。

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中古ヨットの見分けかたの写真集(2)

2008年01月25日 | 写真

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フォトアルバムの中の「中古ヨットの見分けかたの写真集」のアクセス数が2083件にもなりました。そこで自分の恥ずかしい失敗を説明しながら中古ヨット購入後のトラブルをご紹介したいと思います。中古ヨットの見分けかたのご参考になれば幸いです。

この3枚の写真は順に(1)マストに取り付けたレージイ・ジャックの写真、(2)キャビン入り口の右にスピードメーター、左にコンパスの写真、(3)三番目はプレイデッキを上から見た写真です。中古艇を購入するときはレージイ・ジャックがついていなく、購入後5万円ほど支払って取り付けました。スピードメーターは接触不良で文字が出ませんでしたが自分で接触を良くしました。コンパスの電灯も切れていたので自分で取り付けました。プレイデッキは楽しいのですが、この写真のプレイデッキ上部と後甲板の繋ぎ目が老化し雨水が漏っていました。これも自分で修理しました。

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キャビン内部から後方のコックピトの床下を見ると左右に大人一人ずつが眠れる

簡易ベットのスペースが有ります。その奥はコックピットの後ろにある後甲板の下になっています。潜り込んで後甲板の下を見るとその後ろ半分の真ん中に舵の心棒が入っているFRPの筒が立っています。その様子を写したのが、(1)左端の写真です。白い粘着テープで透明なプラスチック箱を止めて、コックピット下部とビニュール管の接合部からの雨漏りを発見しました。連結部を金具で締め付けて雨漏りを止めました。(2)二番目の写真は後甲板の前半分の下側です。コックピット下部からの排水管の連結部から雨漏りしていました。手前の太い蛇腹管はエンジンルームの排水ポンプの排水チューブです。(3)三番目の写真の黒く太いゴム管はエンジンの排気と冷却水の混合物を喫水線の下に排出する管です。この部分からの漏水は有りませんでした。またコックピットからの水平の排水管の船底との連結部からの漏水も有りませんでした。(4)四番目の写真は後甲板の最後部を下から見上げた写真です。電線はスターンランプの電線です。甲板とプレイデッキの水平な繋ぎ目から雨水が漏水していました。

以上の漏水トラブルから言えることは、船底の貫通穴と船内管との連結部分は流石に手堅く、気密工事が完璧で漏水は無い。しかし、喫水線より上は漏水対策は甘く、中古艇の漏水の主な原因になっていることが分かりました。中古艇のご購入の時にご参考になればと思いご報告いたします。

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(1)始めの写真は右舷コックピット下の簡易ベットの下の軽油タンクです。湯量メーターは正常かチェックしましょう。(2)2番目の写真は中古艇購入後、アメリカ製の新品のマリーン・バッテリーを16000円で設置した様子を示しました。しかしすぐバッテーリーが上がってしまったので(3)三番目の写真のようにもう一つの新品のマリーン・バッテーリーと車用のバッテリーを購入してトイレの向かいの木製の棚の中段に設置し、秋葉原で買って来た太いリードワイヤーでスターンのバッテリーへ並列に繋ぎました。でもバッテーリーはすぐ上がります。車をヨットの前にとめエンジンを前開し発電し、太いリードワイヤーで連結し、船のエンジンを始動していました。これで2年間くらい使っていましたが、昔、真空管ラジオを作っていたころテスターを使っていたことを思い出しました。早速購入しあちこちの電圧を測定し、発電機が機能していないことに気がつきました。リードワイヤーを止めるナット・ボルトが外れていました。何年もそうだったらしく前のオーナーもバッテリーを良く交換していたそうです。しかし、もう一つ根本的な原因を発見しました。長年の使用でエンジンのバルブ類が磨耗して吸気圧縮の圧力が上がらない。したがって始動しないことです。これは近くのマリーナで懇意にしていた S さんから教わりました。

S さんに紹介して貰った漁船のエンジン修理の専門家に依頼して修理しました。中古ヨットのジーゼルエンジンのトラブルの原因の例をご参考までにご報告いたします。(続く)


zebra1192 さん、玲さん、 鈴木裕さん、有難う御座います

2008年01月24日 | 写真

zebra1192 さん、玲さん、 鈴木裕さんへ:

コメントを頂きまして有難う御座います。玉川上水へご関心を寄せて頂き嬉しく思います。さっそくカメラを持出して写真を撮って来ました。現在は景観のためだけに少量の水を流しています。江戸時代の水量は非常に多く、江戸の生活用水のみでなく熊川分水、福生分水、立川分水、野火止用水、千川上水など数多く分岐され、武蔵野の田畑の灌漑用水としても使われてきました。明治維新直後の2年間は舟の運行が許可され東京へ農産物が運ばれたそうです。船着場の賑わいもあちこちに伝わっています。

江戸時代の水量は、現在からは想像もつかない大きな川のような光景だったそうです。

皆様ご存知のように、太宰治氏が入水自殺したのは三鷹駅付近の玉川上水です。そんなことを思い出しながら、時々上水両岸の雑木林の中を散策しています。

下記のコメントを頂きまして有難う御座いました。草々、藤山杜人

コメント

やっと本来の冬がやって来た様な、久し振りの雪景色でした。武蔵野の面影を残す玉川上水の雪景色もなかなかのものですね。北海道で何年か暮らし、雄大な雪景色も体験していますが、こうした箱庭的なのも良いものです。貴殿の住いの近くにこのような所のあるのも羨ましいですね。今時の東京の雪は直ぐに解けてなくなり問題ありませんが、これが北海道となると、積雪が減ってきたとは言え、やはり除雪・雪下ろしには大変な労力いる訳ですから。その上このオイル高の中、暖房対策含め大変なことだと、元住人としては思うところです。
 やはりこうした自然的ハンディーのある、しかし広大な土地があり、考え様によっては、日本の食糧基地としても重要と思う故、国としての適切な施策を施してゆくべきと思うのだが。
 チョッと的外れのコメントとなってしまい、申し訳ありません。

お早うございます。
先日はコメントを頂き有難うございました。

昨日は東京の方が雪になりましたね、わが方は先日初雪をみましたが
この度は雨になりました。
玉川上水は文学その他良く聞く地名ですが
まだ訪れた事はありません、雪の風景は更に想像をかき立てられる思いがいたします。
とてもいい雰囲気が出ていましてさぞいい所なのでしょうね。

ご無沙汰しております。
東京は結構降ったようですね。
今週、こちらでも雪の予報でしたが、さっぱりでした。


玉川上水冬木立の写真集

2008年01月24日 | 写真

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玉川上水の昨日の雪は一日で溶けてしまいました。今日は晴天にになり、くぬぎ、こなら、けやき、えごのき、しで などの梢が冬空で揺れていました。西風の強い日で白い雲が早く流れています。玉川上水はJRの三鷹駅から青梅線の昭島付近まで30Kmくらいにわたり両岸に散策道路があります。樹木もよく保存されていて巨大な公園のようになっています。この写真は小平市の津田塾大学付近で撮りました。

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玉川上水の初雪景色

2008年01月23日 | 写真

  今年の冬の初雪が今朝から降りだしました。近所の玉川上水の雪景色を4枚示します。

写真の暗い下のほうには水が悠々と流れ、大きな鯉が多数棲息しています。近所の幼児が与える餌で太っています。 餌のやり過ぎのように思います。

玉川上水は江戸初期に江戸へ生活用水を送るため、多摩川上流の羽村から取水し四ツ谷まで43Kmの堀を作ったものです。江戸幕府から委託され、工事を完成させた玉川兄弟の銅像は羽村の堰の岸辺に立っています。(終わり)

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外国体験のいろいろ(28)

2008年01月22日 | 旅行記

◎何故アメリカに骨を埋める日本人がいるのか?

日本人が外国に生活し、その地に骨を埋める決心をする。これにはいろいろ個人的な事情があり一般的な議論は意味が無い。そこである特殊な例として、敗戦後のアメリカのフルブライト留学制度が関係したケースを紹介したいと思う。

オハイオ州コロンバス郊外には、ホンダの工場に納入する部品を製造している会社がいくつもある。その中に、ウエルナーカンパニーという会社があった。社長は佐伯さん。よく遊びに行った工場である。労働者は黒人、アジア系、白人と雑多な人種構成であった。

「なぜいろいろな人種が混じっているのですか?」との質問に、「人種によって得意な分野が違いますね。それで仕事の種類を分けて人種ごとに分担して頼んでいます」と佐伯さん。

「でも、こんなに混じっていたら管理が大変でしょう?」「すべてうまくいくのです。工場の生産目標さえ明快にしておけば、お互いに気を使い合って、結構生産性が上がるのですよ」

佐伯さんには自宅へも招待してもらった。アジア系の奥さんがいるだけで、子供はいない。

「会社の名前がなぜウエルナーなのですか?」「私は1960年代にアメリカに来ました。敗戦諸国の学生をアメリカへ留学させるフルブライト制度のおかげです。苦しい生活のとき、親のように世話をしてくださったのがウエルナー夫妻でした。亡くなったあと、工場と全財産を下さいました。子供がいなかったからです」

「日本には帰らないのですか?」「ウエルナー夫妻は私へ人種の壁を感じさせないで面倒をみてくれました」佐伯さんが続ける、「ウエルナー夫妻は人種差別を超越する生き方を教えてくれました。その恩義を思うと、帰れません」「それで工場では種々の人種構成にしているのですね?」「そうです。そして人種差別を絶対にしないと決めてから、工場の管理が楽になりました」

いろいろな人種で成立しているアメリカの会社の生産性を上げるのは社長の考えかた次第である。「人種差別を絶対にしないという信念とその実行力」が社長にあれば成功する。

アメリカには高給な就職口がある。そんな理由で定住した日本人は大勢いる。しかし、人種差別の処し方を身をもって教えてくれた人への恩義のために、アメリカに骨を埋める決心をした日本人はそう多くはないと思う。

@中国残留した技術者

1980年代末、北京でのこと。日本の新聞には戦争残留孤児が続々と帰って来たというニュースが溢れていた。

筆者を北京へ招待した周教授が庶民向けの北京ダック専門店へ招待してくれた。「ここは観光客が来ないので北京ダックが安くて美味しいですよ」、周教授が観光客の来ない所に案内する時には決まって本音の話が出る。

「日本の新聞には残留孤児帰国の記事が多いそうだが、どう思う?」「大変結構なことではないですか」「それが中国では困るのです。中国人に大切に育てられた日本人の子供は帰る決心がつかないのです。生みの親より育ての親というでしょう。日本に帰れば経済的に助かる。それが分かっていても、名乗らない孤児の方が多いと思いますよ。私の知り合いにも名乗らない人がいます。帰らないで中国に骨を埋める決心をしている残留孤児を中国人は尊敬しています」

日本の新聞はニセの残留孤児も名乗り出たと報ずる。しかし、名乗り出ない残留孤児も多くいることを、なぜ報道しないのだろう。報道のバランスとは両方の事実を報じることではないか。

自分の残留事情を日本の本屋から出版した人もいる。岩波新書の「北京生活三十年」を書いた市川氏である。満州にいた市川氏が残留技術者として北京市へ移り、三十年間、同市重工業部で機械技術の仕事をしてきた体験記である。

市川氏は東北大学の同じ研究室の先輩であったため、M教授から中国で消息不明になった市川さんの安否を調べてくれと頼まれた。1981年のことである。北京へ行った折に中国政府の金属工業省に調査を頼んだ。4、5日して開催された人民大会堂での歓迎会の折、市川氏が現れた。小生は市川氏へM教授が心配していることを伝えた。

「恩師のご恩は忘れたことがありません。しかし、中国に骨を埋めることにしたとお伝えください」と言って、並んでご馳走を食べた。あまり話さず、ニコニコして食べるだけである。

彼は帰ろうと思えばいつでも帰れる立場にあったはずである。そうしなかったのは余人にうかがい知れない事情があったに違いない。これも日本の敗戦が関係して外国に骨を埋めることになった日本人の例である。

(この稿の終わり)

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外国体験のいろいろ(28)の補足

2008年01月22日 | 旅行記

@1960年当時のアメリカの人種差別のすさまじさ!

1960年にオハイオ州へ留学した当時の黒人差別の様子を思いだすと嘘のように思える。公共のバスや汽車にのれば白人は前の席、黒人は後ろの席と決まっていた。居住区も場末は黒人、郊外の住宅街は白人。学校もレストランも違う。私がバスへ乗って後ろの黒人席へ座る。と、白人が来て前の白人席の一番後ろへ座れと言う。街路で黒人へ道を聞こうとすると通りすがりの白人がやめろと注意する。大学には黒人学生が独りも居ない。黒人の英語は変になまっていて独特な言葉である。今回「外国体験のいろいろ(28)」で紹介したウエルナー夫妻と佐伯さんの話はそんな時代の話である。小生がこの話を紹介したのは「アメリカには人種差別が無かった!」と主張するためではない。

「どんな国にも必ず立派な人々が居る!」と主張したいためである。

現実には自分もアメリカやヨーロッパで人種差別をされて不愉快千万な思いをしたこともあった。

そんな折に後でよく考えてみると、自分が相手を差別していたので差別された場合が結構多い。勿論理由など無くて相手の生物的本能で差別されることも多い。そんな目に会わせるのは空港の航空会社のカウンターで、格好良い制服を着て働いている人々に多かった。思慮分別のある人々は露骨な人種差別はしない。

@日本人の人種差別の特徴

日本に住んでいる外国人は他の諸国に比較して圧倒的に少ない。江戸時代からの鎖国思想が無意識のうちに働いて外国人の移住を困難にする法律や習慣が存在する。外国人移住者が増加すると日本の将来へ災いが生まれると感じている。

これは「外国人を忌み嫌うという人種差別」である。日本人という人種以外は絶対に国内に入れたくない。これが日本の人種差別の特徴である。

ドイツに住んでみるとトルコ人、ギリシャ人、ルーマニア人、ブルガリヤ人が多いのに驚く。種々の業種で働いている。イギリスに旅すれば旧植民地のインド人や香港人の多いのに驚く。フランスには旧植民地のアフリカの黒人がいる。

最近、外国人が増えたのも事実であるが、日本人ほど外国人と一緒に働く経験を少なく持っている国は無い。

外国人を差別してもその悪に気が付かない。外人差別で酷い目に会ったアジア人留学生が日本人を恨みながら帰国して行くのを現役のころ職場でよく見てきた。

日本人の人種差別は白人種、黄色人種、黒人種の3種類をこの順序で差別する特徴がある。一緒に住んだり働いたりした経験が極端に少ないので人種を単純にしか理解できない。それだけにこの3種の分け方の厳しさと差別の激しさは他の国々では見られない現象である。日本人はよく「日本には人種差別が無い」と言う。あるいは「アメリカの黒人差別に比較すれば日本は立派なものだ」とも言う。

外国人を差別して日本国の国籍を与えないから外国人が少ないという単純明瞭で強烈な差別を忘れている。

結論を急げば、人種差別はどの国にも、どんな個人にも有る。その強弱を比較し議論するよりも自分個人の人種観を正しくする努力をするほうが良い。

そんなに努力しても自分にも人種差別をしようとする気持ちが時々出る。皆様は人種差別という厄介な問題をどの様にお考えでしょうか?(この項の終わり)


中古ヨットの見分けかたの写真集へ写真を追加しました

2008年01月21日 | 写真

筆者のヨットの全体の感じを示す写真を2枚追加しました。不鮮明な写真ですみません。

いつも独りで帆走しているので写真が撮れません。昨年の秋に家人が一緒に行って岸壁から撮ったものです。時々付き合ってくれてジブ操作を担当してくれます。

船の長さが26Feet なのに横広のキャビンがついているので、30Feet くらいの高さのマストが付いています。独りでメインセールを上げるのが大変なのでディンギー用のセールを特注して上げていました。ところが色々なヨットマンにそんなバカなことはやめろと叱られたのでまた元々の大きなセールで走っています。風の強いときはメインかジブのどちらか1枚だけで走ります。1枚だけも気楽で楽しいものですね。草々、藤山杜人


外国体験のいろいろ(27)の補足

2008年01月20日 | 旅行記

@学歴による差別は文化の貧困と思う

アメリカ大学の日本校の撤収後、カナダのある州の認可を受けた東京にある高等学校で働いた。文部省の法律の外にある高等学校である。これらの体験を経てはじめて理解出来たことがある。日本の文部省が認めた学校以外の在日の学校は、如何に立派な学校でも学歴として認められないという事である。それとは対照的に外国にある学校を卒業すれば学歴として認められる。

1990年頃は、日本国内にあるアメリカ大学の日本分校の卒業生は日本の大学の受験資格は原則的に無かった。

アメリカ大学の日本校の卒業生は大学受験者資格検定試験を受け、合格すると受験できる。しかしそれは高校卒業の学歴にはならない。現在、流石に改善されたようであるが。

日本の神戸や横浜、東京にはキリスト教の修道会の経営する小、中学校があった。また調布市にはアメリカンスクールも有るし、江東区にはフランスの9年制の学校もある。台湾の小、中学校もあり朝鮮学校もある。

これらの学校には日本人も多数入学している。両親が日本の学校より子供の教育には良いと確信しているからである。それが学歴にならないと知らない人も多いと聞いた。

これらの学校は文部省は日本の学校とはみなさない。従って日本の学歴にはならない。卒業生は一生不合理な差別に悩ませられるという。

アメリカ連邦政府には文部省がない。各州の教育委員会が州立学校の教育方針へアドバイスをする。外国の高校の卒業生を無試験で入学させるか否かはそれぞれの州立大学が独自に決めている。高卒でなくともある分野で優秀であれば入学を認める大学もあると聞く。連邦政府に文部省の無いアメリカと比較すると日本は文部省の権限が強すぎる。

日本の社会は学歴社会であった。現在もその傾向が強い。中学校しか卒業してない人々が後に通信教育で大学を卒業しても大学卒と認められないという。全く理由のない差別で就職、昇進、転勤、解雇の全ての場面で学歴が影響するという。

学校を出るには親の経済力と本人の暗記能力が有れば良い。それらが何故人間の価値を決定できるのであろうか?

人間は元来他人を差別し、自分を高みに置きたい衝動的本能を持つ。

問題はどのような基準で差別するかという尺度に問題がある。欧米の文化が優れているとすれば差別の仕方が複雑多岐にわたっている点にある。単純に学歴だけで人を軽蔑するという残酷さが無い。人間の価値を判断する視点や評価方法が多数あり、学歴が無いだけで日本のように一生酷い目に会うことが少ない。これこそが文化の豊かさの証左であろう。

最近、大学卒で就職した若者が5年以内に転職する割合は33%を越すという。また派遣社員やフリーターとして働く若者も増大しているという。これらの社会現象は心配すべき側面も有するが、一方では日本の学歴社会を緩和している。文化が成熟しつつあるのではないか?それにしてもまだまだ学歴重視が強すぎると思うのが筆者だけであろうか?

皆様はどの様にお思いでしょうか?(続く)

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外国体験のいろいろ(27)

2008年01月20日 | 旅行記

◎アメリカ大学の日本校騒動

1980年代、対米貿易黒字が膨大になり、アメリカ政府は日本へ経済分野での完全自由化を迫った。その結果、アメリカの大学が日本国内に自由に分校を作り、収入はアメリカへ送金してもよいことになった。

それまで、国内の大学新設には文部省が厳重な設置基準を設け、簡単に大学はつくれない。その規制を無視し、文部省とは何の関係もなく、アメリカの大学が分校をつくってもよいという日米合意ができた。

アメリカ側は、日本に分校をつくれば大勢の学生が集まり、その月謝収入で大きな利潤が上がると信じていた。つまり、教育プログラムの対日輸出によって儲けようという計画であった。

1988年ごろから、全国に30校以上のアメリカ大学の日本校が展開。アメリカの大学教育が優れていると信じていた筆者は、新しい教育制度に感動し、関西に開校した日本校の副学長として働き始めた。1990年春のことであった。本校から派遣された約四十名のアメリカ人教員が本校と同じ科目を英語で教える。素晴らしい試みに興奮した。

しかし、悲劇はバブルの崩壊によって始まる。日本側経営者の多くは土地の転売で利潤を上げた人々である。本校へアメリカ人教員の給料と月謝収入の一部を毎月送金する契約になっていたが、そのお金がない。来月こそは送金するという契約は何度も破棄された。日本側の契約不履行にたいして本校の学長、理事会メンバーは怒る。

 @平然として行われていた卒業式

日本人学生は閉校の恐れで騒然となる。日本側副学長は在校生が日本の他大学へ転校できるか否か、文部省へ相談に行く、「お困りの事情はよく分かります。でも日本の教育に関する法律の外にあるアメリカの大学のことはどうにもできないのです」、もっともな論理である。

副学長の仕事は、在学生の本校への転学や、経営が安定している他のアメリカ大学日本分校への転校の面倒を見ることがすべてになった。また、在校生の親になぜ文部省が支援できないのか、日本の大学へ転校できないのか、条理を尽くして説明しなければならない。

そんな仕事をしていたら、北海道にあるあるアメリカ大学が閉校するので学生と両親の対応を手伝ってくれと頼まれた。現地へ行ったのは1992年3月。春浅い太陽の光に大雪山連峰が遠方にかすかに輝いていた。

その日本校は豪華な建物に入っていた。3名の日本人事務担当者も、20名ほどのアメリカ人教員も平静に仕事をしている。40名ぐらいの学生相手に授業が行われている。聞くと、日本人もアメリカ人も4ケ月前から給料を貰っていないそうである。

「いろいろ困っているということで、閉校のお手伝いにきたのですが」、この申し出に教員も学生も微笑むだけである。私のする事はただ一つ、学生の親に事情を正直に説明するだけである。最後に行ったとき一人の事務員が「私は留守番ですが、他の全員は今講堂で卒業式をしています」と言う。

講堂の後ろから静かに入ると、アメリカ流の卒業式が全員黒い角帽とガウン姿で行われていた。アメリカ人は給料が無くても働くのだ!これが師弟愛というものなのか?本当の教育者は洋の東西を問わず同じなのだ。見守る筆者の目が涙でうるむ。

こんなに感動的な卒業式は見たことが無い。卒業生は一生忘れないと思う。

それから程なくして、約30校もあったアメリカ大学のほとんどが日本から撤収して行った。日米の政治家が軽々しく教育商品の売買を考えた結果の騒動であった。アメリカ人の教官と日本人学生は現在どんな思いでいるのであろうか?

(終わり)


山林の中に小屋を作る方法(7)

2008年01月19日 | うんちく・小ネタ

Dscn0948 @近所の農家に挨拶に行こう!

武川村の山小屋は1973年の暮れに完成した。翌年の早春の頃に初めて妻に娘、息子の一家4人で山林の東側で乳牛牧場をしているIさん一家へ挨拶に行く。

小屋のそばの清流の向う岸を登れば一面の白樺林。その下草を分けて道なき林を進むと突然青々とした牧草地に飛び出る。はるか向うに二十頭以上の乳牛が黒と白のまだら模様を浮き上がらせている。西側には残雪で白く輝く甲斐駒、下の岸壁が蒼く光っている。牧場のIさん一家へ挨拶をする。「西の方の白樺林の下に山小屋を作った藤山と申します。これから良く来ますので宜しく御願いします」同行した妻が東京からのみやげを出し、長女、長男も挨拶する。Iさんが「うちの牛は皆おとなしいから近くに行って見ても良いよ」小学6年と4年の子供たちが歓声を上げて牛のそばへ走って行く。ウグイスの声がこだまして空気が甘い。Iさんが言う「山小屋の完成のお祝いに明日の朝、絞りたての牛乳を届けるよ」。

翌朝、牛乳を一升瓶2本に入れて届けてくれたのは牧場のお婆さん。「今絞ったばかりだから温かいよ。でも生の牛乳は必ず沸騰させてから飲んでください」

絞りたての牛乳!朝食の時、沸騰させて飲む。気のせいかレモンの香のようでもあるし何か新鮮な果物と野菜の香が漂い、山小屋の中の空気が一気にほのかな匂いに満たされる。その後I牧場には随分世話になった。絞りたての牛乳の他にも色々珍しい食べ物も貰った。取れたての竹の子、白菜、豆餅、甘い赤飯など縁側でご馳走になったのも懐かしい。

何時行っても一家はニコニコして歓迎くれる。

牧場より少し登ったところにH養鶏場があった。孵化させてヒヨコにする種卵を生産していた。普通の卵の3倍くらい大きく、親鳥へ与える餌の栄養が良いので卵の味が一段と良い。何度も貰って朝食の卵料理にした。養鶏場のおばさんは花が好きで庭一面に色々な花が咲いていた。切花を頂き山小屋に飾った。椎茸も胡桃も貰った。みんな自分の手で作った物なのに、こちらからの土産の品は全て店から買った物なのが恥ずかしい。

4、5年して、ある時訪ねてみる。「おばさんも、おじさんもお元気ですか?」おばさんが奥の座敷にある新しい仏壇を指して言う「あんなふうになってしまいました」

急病であっという間に亡くなったという。淋しそうながら庭の花の話をしてくれた。

その後、ブルド-ザーなどの特殊車両の運転で収入を上げた独り息子が立派な家を建てあばさんと同居してりる。最近久ぶりに行って見る。留守で誰も居なかったが、庭一面に咲き誇る花々は昔のままである。花々が「おばさんは元気だよ」と言ってくれる。

山林の中に小屋を作るときには必ず近所の農家へ挨拶に行くのが良い。地元の人々は実に親切で山小屋へ行く楽しみも大きくしてくれる。山林に道が無くて、牧場と養鶏場へ挨拶に行ったのは小屋の完成後であった。しかし小屋を作る前に挨拶に行くのが礼儀であったと反省している。(続く)