丹波の篠山は東京から離れた地方の小さな町ですが何故か有名です。盆踊りでよく歌われるデカンショ節の発祥の地です。丹波特有の恵まれた気候風土により農業が盛んな所です。よく知られている産物として、「丹波黒大豆」「丹波栗」「猪肉」「丹波山の芋」「丹波松茸」「丹波篠山牛」などが有名です。そして篠山城を中心とした城下町は歴史の面影が色濃く残る町並みです。
今日は丹波篠山の歴史をご紹介し、私の個人的な思い出も少し書きたいと思います。町の名前は昔は「篠山」でしたが町議会の決議で「丹波篠山」と改名しています。
さて篠山城は慶長14年(1609)、徳川家康の命によって西国諸大名への抑えを目的として築城されました。出来た篠山城は山陰道の交通の要衝である篠山盆地の中央に位置し西国諸大名を牽制します。
丹波篠山の歴史は下記の資料に詳しく出ております。
その資料は、https://tourism.sasayama.jp/history-tambasasayama/ やhttps://www.city.tambasasayama.lg.jp/photo_history/2/rekishi/index.html やhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E7%AF%A0%E5%B1%B1%E5%B8%82 などにあります。
篠山藩の歴史を簡略に書くと徳川幕府の直轄の藩の歴史になります。石高は5万石ほどの小さな藩でした。篠山城は畿内近国や山陽道・山陰道・南海道に沿った15カ国20大名の賦役によって築城されたのです。
歴代の藩主は松井松平家康重から始まって代々徳川家の親類が務めました。
康重は、藩政の基礎を固めましたが元和5年(1619年)に和泉岸和田藩5万石へ移封されました。
代わって上野高崎藩5万石より藤井松平信吉(徳川家康の異父妹の子)が5万石で入っいましたが、信吉は翌年の元和6年(1620年)に死去しました。その後を継いだ第2代藩主は松平忠国です。その後のことは冗長になるので省略します。
結局、篠山藩の藩主は徳川幕府によって短期間で交代され藩主は後世に残るような大きな事業をしませんでした。徳川幕府直轄の甲州藩と同じような典型的な直轄藩でした。そんな篠山藩関連の写真を示します。
写真の出典は、https://tourism.sasayama.jp/history-tambasasayama/ やhttps://www.city.tambasasayama.lg.jp/photo_history/2/rekishi/index.html などです。
1番目の写真は丹波篠山町の航空写真です。
丹波篠山市の中心には篠山城跡があります。今も立派な石垣が当時のまま残っており、それを取り囲むようにして城下町の町並みが広がっています。
丹波篠山市の中心には篠山城跡があります。今も立派な石垣が当時のまま残っており、それを取り囲むようにして城下町の町並みが広がっています。
2番目の写真は河原町妻入商家群です。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されております。
3番目の写真は武家屋敷安間家史料館です。
4番目の写真は武家屋敷地区の通りの風景です。
5番目の写真は以前の笹山町の役場です。現在は大正ロマン館になっております。
丹波篠山町は鉄道が通っていません。人口も減少しつつある淋しい町です。
昨日ご紹介した北海道の松前町のように淋しい町です。しかし私はそんな町に強い魅力を感じるのです。人々が幸せそうに静かに暮らしているのです。
さて私の個人的な思い出を少し書きます。この町の郊外に父方の祖父や叔父が住職をしていた曹洞宗の法福寺というお寺があるのです。
6番目の写真は丹波篠山市谷山 の曹洞宗、法福寺の写真です。写真の出典は、http://aokou.net/trail_20201129.html です。
祖父は若い頃にこの写真の法福寺の住職をしていました。
しかし私が祖父と会ったのは祖父が当時に住職をしていた曹洞宗の正林寺でした。その正林寺は兵庫県の宝塚から能勢電鉄で入った山の村落にありました。
7番目の写真は兵庫県の宝塚から能勢電鉄で入った山の村落にある正林寺です。写真は正林寺のHPからお借りした写真です。
この正林寺で幼い私は祖父に可愛いがられました。よく美味しい煎餅を貰ったことを覚えています。
祖父は戦前に亡くなり、父の弟の叔父が後を継ぎ孝元和尚になりました。祖父の戒名は高天秀嶽大和尚といいます。
昭和11年生まれの私は毎年、夏になると一家でその正林寺に帰省し、お寺の暮らしを体験しました。暮らしが珍しい上に、お盆には施餓鬼供養という一大イベントを毎年見ました。
近隣のお寺から多くのお坊さんが集まって、本堂でお経を唱和し、そして銅鑼を鳴らしながら輪になって歩き回るのです。その前に叔父の住職の孝元和尚と一緒に小坊主の法衣を着て、村落の一軒、一軒を回り、お盆のお経を詠んだのです。その後数年して正林寺の孝元和尚はお寺替えで今度は丹波篠山市の法福寺の住職になったのです。孝元和尚の父が若い頃住職をしていた寺です。
私も何度も法福寺に泊まりに行きました。行くと孝元和尚が篠山町へ買い物に行ってくれと私に頼みます。夏の暑い日に篠山の町を歩いて豆腐などを買って来たことを覚えています。孝元和尚が亡くなってから年月が随分流れてある時私は法福寺を訪れました。孝元和尚の奥さんと2人の娘が法福寺を守っていました。現在は娘の旦那さんが住職をしています。
なお私の父は東北大学の定年後に島根県の吉賀町の宗安寺の住職になりました。(https://sotozenーnavi.com/detail/index_320327.html )
今日は丹波篠山の歴史をご紹介し、私の個人的な思い出も少し書きました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)