後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「興味深い地方の歴史(6)丹波篠山市の歴史とお寺の思い出」

2022年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム
丹波の篠山は東京から離れた地方の小さな町ですが何故か有名です。盆踊りでよく歌われるデカンショ節の発祥の地です。丹波特有の恵まれた気候風土により農業が盛んな所です。よく知られている産物として、「丹波黒大豆」「丹波栗」「猪肉」「丹波山の芋」「丹波松茸」「丹波篠山牛」などが有名です。そして篠山城を中心とした城下町は歴史の面影が色濃く残る町並みです。
今日は丹波篠山の歴史をご紹介し、私の個人的な思い出も少し書きたいと思います。町の名前は昔は「篠山」でしたが町議会の決議で「丹波篠山」と改名しています。
さて篠山城は慶長14年(1609)、徳川家康の命によって西国諸大名への抑えを目的として築城されました。出来た篠山城は山陰道の交通の要衝である篠山盆地の中央に位置し西国諸大名を牽制します。
丹波篠山の歴史は下記の資料に詳しく出ております。
その資料は、https://tourism.sasayama.jp/history-tambasasayama/ やhttps://www.city.tambasasayama.lg.jp/photo_history/2/rekishi/index.html やhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E7%AF%A0%E5%B1%B1%E5%B8%82 などにあります。
篠山藩の歴史を簡略に書くと徳川幕府の直轄の藩の歴史になります。石高は5万石ほどの小さな藩でした。篠山城は畿内近国や山陽道・山陰道・南海道に沿った15カ国20大名の賦役によって築城されたのです。
歴代の藩主は松井松平家康重から始まって代々徳川家の親類が務めました。
康重は、藩政の基礎を固めましたが元和5年(1619年)に和泉岸和田藩5万石へ移封されました。
代わって上野高崎藩5万石より藤井松平信吉(徳川家康の異父妹の子)が5万石で入っいましたが、信吉は翌年の元和6年(1620年)に死去しました。その後を継いだ第2代藩主は松平忠国です。その後のことは冗長になるので省略します。
結局、篠山藩の藩主は徳川幕府によって短期間で交代され藩主は後世に残るような大きな事業をしませんでした。徳川幕府直轄の甲州藩と同じような典型的な直轄藩でした。そんな篠山藩関連の写真を示します。
写真の出典は、https://tourism.sasayama.jp/history-tambasasayama/ やhttps://www.city.tambasasayama.lg.jp/photo_history/2/rekishi/index.html などです。
1番目の写真は丹波篠山町の航空写真です。
丹波篠山市の中心には篠山城跡があります。今も立派な石垣が当時のまま残っており、それを取り囲むようにして城下町の町並みが広がっています。 
2番目の写真は河原町妻入商家群です。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されております。 
3番目の写真は武家屋敷安間家史料館です。 
4番目の写真は武家屋敷地区の通りの風景です。

5番目の写真は以前の笹山町の役場です。現在は大正ロマン館になっております。
丹波篠山町は鉄道が通っていません。人口も減少しつつある淋しい町です。
昨日ご紹介した北海道の松前町のように淋しい町です。しかし私はそんな町に強い魅力を感じるのです。人々が幸せそうに静かに暮らしているのです。
さて私の個人的な思い出を少し書きます。この町の郊外に父方の祖父や叔父が住職をしていた曹洞宗の法福寺というお寺があるのです。

6番目の写真は丹波篠山市谷山 の曹洞宗、法福寺の写真です。写真の出典は、http://aokou.net/trail_20201129.html です。
祖父は若い頃にこの写真の法福寺の住職をしていました。
しかし私が祖父と会ったのは祖父が当時に住職をしていた曹洞宗の正林寺でした。その正林寺は兵庫県の宝塚から能勢電鉄で入った山の村落にありました。

7番目の写真は兵庫県の宝塚から能勢電鉄で入った山の村落にある正林寺です。写真は正林寺のHPからお借りした写真です。
この正林寺で幼い私は祖父に可愛いがられました。よく美味しい煎餅を貰ったことを覚えています。
祖父は戦前に亡くなり、父の弟の叔父が後を継ぎ孝元和尚になりました。祖父の戒名は高天秀嶽大和尚といいます。
 
昭和11年生まれの私は毎年、夏になると一家でその正林寺に帰省し、お寺の暮らしを体験しました。暮らしが珍しい上に、お盆には施餓鬼供養という一大イベントを毎年見ました。
近隣のお寺から多くのお坊さんが集まって、本堂でお経を唱和し、そして銅鑼を鳴らしながら輪になって歩き回るのです。その前に叔父の住職の孝元和尚と一緒に小坊主の法衣を着て、村落の一軒、一軒を回り、お盆のお経を詠んだのです。その後数年して正林寺の孝元和尚はお寺替えで今度は丹波篠山市の法福寺の住職になったのです。孝元和尚の父が若い頃住職をしていた寺です。
私も何度も法福寺に泊まりに行きました。行くと孝元和尚が篠山町へ買い物に行ってくれと私に頼みます。夏の暑い日に篠山の町を歩いて豆腐などを買って来たことを覚えています。孝元和尚が亡くなってから年月が随分流れてある時私は法福寺を訪れました。孝元和尚の奥さんと2人の娘が法福寺を守っていました。現在は娘の旦那さんが住職をしています。
なお私の父は東北大学の定年後に島根県の吉賀町の宗安寺の住職になりました。(https://sotozenーnavi.com/detail/index_320327.html )

今日は丹波篠山の歴史をご紹介し、私の個人的な思い出も少し書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「暑さ強いサンパラソルという花の写真をお送りいたします」

2022年06月29日 | 写真
「サンパラソル」という花は暑さと乾燥に強く、2~3日水やりをしなくても良い夏の花です。
トロピカルな色の花が夏から秋まで長く咲くのでまさに暑い季節におすすめです。キョウチクトウ科 / チリソケイ属(マンデビラ属)です。
写真の出典は、https://www.suntory.co.jp/flower/asuhana/53.html です。





「興味深い地方の歴史(4)会津、鶴ヶ城の歴史と猪苗代湖の思い出」

2022年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム
一般に歴史には込み入った細かい話がつきものです。今日はそんな細かい話の前に美しい会津の鶴ヶ城の写真をお送りいたします。

1番目の写真は会津の鶴ヶ城の写真です。4枚の鶴ヶ城の写真の出典は、
2番目の写真は城門から外の堀端の桜を撮った風景写真です。
3番目の写真は夜にライトアップされた鶴ヶ城の写真です。

4番目の写真は鶴ヶ城の中にある千利休の子、少庵が建てた茶室「麟閣」です。この茶室で以前に家内とお茶を頂きました。上品な老婦人がお茶を点ててくれました。
天正19(1591)年、会津藩主・蒲生氏郷は利休が利休の子の少庵を会津にかくまいました。麟閣は、その恩義に報い少庵が建てました。福島県の指定重要文化財です。

さて鶴ヶ城の歴史の概略です。
(https://www.histrip.jp/170714fukushima-aizuwakamatsu-1/ )
鶴ヶ城の歴史は歴代の城主をみるとわかります。
城主は、徳川の時代に京都守護職として活躍した松平容保が有名ですが、時代の流れに従って順々に葦名・伊達・蒲生・上杉・保科・松平と数多くの大名が会津若松を治めた歴史があったのです。
鶴ヶ城は、1384年の南北朝時代に蘆名直盛(あしな なおもり)が作りました。当時は黒川城といいました。
1589年に蘆名氏を滅ぼした伊達政宗が黒川城に入城します。翌年、豊臣秀吉は政宗から城を取り上げ、政宗の代わりに秀吉の信頼が厚かった蒲生氏郷が入城したのです。4番目の写真の茶室は蒲生氏郷のために少庵が作ったのです。
黒川城に入城した蒲生氏郷は、城を5層から7層へ近世城郭へと改造し、城の名前を「黒川城」から蒲生家の家紋の舞鶴にちなみ「鶴ヶ城」と改名しました。城下町も同時に整備し会津の繁栄に努めます。

蒲生氏郷の死後、上杉景勝が入城しますが、関ケ原の戦いで徳川家康に敗れ米沢に追い出されてしまいます。その後、蒲生氏や加藤氏が入り、1643年に徳川秀忠の子、保科正之が入り、保科家の三代目正容の代に松平の姓が許され、幕末まで松平氏が領主として君臨することとなりました。
 
そして戊辰戦争が起き会津戦争が続いたのです。鶴ヶ城の最期の城主、松平容保が藩主の時に会津戦争が起きました。会津戦争では約1ヵ月もの間籠城戦をになったのです。
1868年の明治の新政府軍と松平容保の会津藩の戦いが会津戦争です。会津が負けて鶴ヶ城が落城します。しかし天守閣は破壊されずに残ったのです。そして少年の白虎隊も自決しました。
以上が鶴ヶ城の歴史の概略です。
このお城の近くに美しい猪苗代湖が広がっているのです。この湖にまつわる思い出を少し書きます。
この美しい湖で今は亡き星野君とヨットをして楽しんだのです。

5番目の写真は冬の猪苗代湖と磐梯山です。冬になると白鳥が群れをなしてシベリアから渡って来るのです。写真の出典は、http://find-travel.jp/article/6221です。

6番目の写真は夏の猪苗代湖のヨットの写真です。出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/theearth99/17541627.html です。
自分も今は亡き友人の星野君のヨットで猪苗代湖の花春カップレースに数回出たのです。

7番目の写真は猪苗代湖の西南岸のヨットの係留風景です。写真の出典は、http://ameblo.jp/normanhiga/entry-11034780813.html です。星野君もここにヨットを係留していました。
星野君とは、仙台の大学の専門課程の1957 年と1958年に机を並べました。
卒業と同時に彼は父が経営する精密鋳物会社の仕事をするために福島へ行ってしまいます。それから15年間くらいはお互いに多忙で会うこともありませんでした。ところがある時の同級会の折、彼がヨットの話をしていました。猪苗代湖で大きなキャビンのクルーザーでセイリングしていたのです。
そして「花春カップ」というクルーザーレースへ3回ほど私を招待してくれたのです。花春カップとは猪苗代湖のそばの大きな酒造会社、花春が主宰するレースなのです。
星野君のヨットはヤマハ29という楽しい構造のクルーザーです。
船尾のキャビンが大きく湾曲して張り出していて、そこに大きなガラス窓が横並びについているのです。シャンパンやビールを飲みながら、美しい猪苗代湖が風波を立てている様子が眺められのです。

残雪の磐梯山を眺めながらの花春カップは終生忘れられない思い出になりました。

その星野君は2011年の9月に病で亡くなりました。彼の白いデッキシューズだけが残りました。
彼の住む彼方の国の湖にも、白い鳥が舞っているでしょうか?

今日は会津、鶴ヶ城の歴史と猪苗代湖の思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「興味深い地方の歴史(3)岩手県の南部鉄瓶の歴史」

2022年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム
昔はどの家にも鉄瓶がありました。鋳鉄で出来ているので重く使いにくいので次第に無くなりました。しかし茶道では今でも鋳鉄の風炉と釜を使っています。夏になると炉と釜の代わりに風炉釜を使うのです。この鉄瓶や風炉釜の大部分は岩手県、南部藩で作られて来ました。ですから南部鉄瓶と言います。
今日はこの南部鉄瓶の歴史をご紹介したいと思います。
南部鉄瓶は江戸時代の南部藩の各地で作らていました。現在の奥州市の水沢地区でも盛んに作られていました。そこで水沢南部鉄器の歴史を見て見ましょう。
( https://kitchengoods-yanagiya.com/nanbutekki/history/mizusawa.html )
現在の岩手県水沢地方で作られていた鋳物の歴史は南部鉄器よりも古く、910年近くさかのぼります。
平安末期の「後三年の役」が終ると、勝者の藤原清衡は現在の岩手県奥州市に居を構えました。そして近江国から鋳物師を招き、鍋や釜などを主に鋳造させました。
そして1090年代になると寺社、仏閣の様々な装飾鋳物を作り、”平泉文化”の発展に貢献したのです。これらの鋳物を”水沢鋳物”と言います。
それでは水沢鋳物の「おいげん」社に関連した写真を示します。写真の出典は、 https://oigen.jp/aboutoigen/creation です。 








1番目の写真は「おいげん」社の南部鉄瓶です。使い易いように軽く作ってあります。

2番目の写真は鋳鉄製の風炉釜です。茶道のため家内が使っている風炉釜はこの型です。
3番目の写真は「おいげん」社の店先の戦前の出荷の風景です。鋳鉄の製品は重いので牛で運んでいたのです。

4番目の写真は水沢を流れている北上川です。鋳鉄の製品は重いので舟でも運んでいました。

5番目の写真は「おいげん」社の店の中の様子です。鋳鉄の鉄瓶がいろいろ展示してあります。

6番目の写真は岩手県の奥州市水沢区の見分森集落の風景写真です。

なお盛岡南部鉄器の詳しい歴史は下記にあります。
さて「おいげん」社の社名について説明します。この会社は代々、及川源右衛門というように源の字がつく名前の人が経営しているのです。
私の大学時代の同級生に及川源悦郎さんという友人がいました。ふくよかな体格で、いかにも優しい父親のような感じの男でした。他人の面倒見の良い人で彼のお世話で奥州市の水沢で大学の同級会をしたこともありました。
ある時は私の家に泊ってくれたこともありました。まだ新婚だった我々に気を使い朝早く出て行きました。朝食も食べないで布団をキチンと畳んで出ていきました。なるほど他人の家に泊った時は「朝食を食べてず出て行く」のが礼儀作法だと教わりました。そんなこまやかに気を使う優しさのある男でした。現在も「おいげん」社の社長でしょうか。あるいは息子に社長をゆずり自分は悠々自適の境地でしょうか。懐かしいです。

今日は南部鉄瓶をご紹介し、その歴史を説明しました。そして南部鉄瓶を作ってた友人の及川源悦郎さんの思い出を少し書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



「今日梅雨明け宣言がありました、ヒマワリの花の写真をお楽しみ下さい」

2022年06月27日 | 写真
今日梅雨明け宣言がありました。いよいよ夏です。
ヒマワリの花の写真をお楽しみ下さい。
写真は「ヒマワリの花の写真」を検索して、インターネットからお借りしました。





「興味深い地方の歴史(2)奥州藤原氏と写真で見る平泉文化」

2022年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の東北地方のほぼ全体を所領にした豪族は奥州藤原氏だけでした。
奥州藤原氏は寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの102年間、岩手県の平泉を中心に現在の東北地方一帯に勢力を張った豪族でした。 
 初代の藤原清衡(きよひら)から始まり、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)、泰衡(やすひら)と4代続きましたが、鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝に攻められて滅亡しました。源義経をかくまったのが征伐の口実になったのでした。
藤原氏の支配の確立は下記に詳しく説明されています。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F
清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を欠かしませんでした。そのため朝廷は奥州藤原氏を信頼し、彼らの事実上の奥州支配を容認したのです。その上、奥州藤原氏は中央から来る国司を拒まず受け入れ、奥州第一の有力者としてそれに協力するという姿勢を最後まで崩さなかったです。
奥州藤原氏は奥州17万騎と言われた強大な武力を背景に源平合戦の最中も平穏の中で独自の政権と文化を確立していたのです。
この奥州藤原氏が平泉文化を隆盛させたのです。
その結果、中尊寺を中心にして平泉文化は、「平泉の文化遺産」として2011年に世界遺産に登録されました。 「中尊寺金色堂」も国宝建造物第1号と1951年に認定されています。
平泉には17院により構成される天台宗の寺院があります。嘉祥3年(850年)に慈覚大師円仁によって開山されたと伝えられます。その後、奥州藤原氏が再建し平泉文化を華やかなものにしたのです。
それでは写真で平泉文化をご紹介したいと思います。写真の出典は、
1番目の写真は国宝の「中尊寺金色堂」 の全体写真です。私は1958年に初めて見た時はみすぼらしいお堂だなとガッカリしました。しかしこれは鞘堂で、中に入ると燦然と輝く阿弥陀堂があったのです。
2番目の写真は1124年に藤原清衡が建立した阿弥陀堂 です。「五月雨の降り残してや光堂(ひかりどう)」、松尾芭蕉 。光堂の文字通りまばやく輝いていました。成程、国宝だと思いました。中尊寺には金色堂をはじめとして約3,000点もの文化財があり讃衡蔵(さんこうぞう)と呼ばれる宝物館に一部が展示されています。
3番目の写真はは重要文化財に指定されている白山神社の能舞台 です。近世能舞台遺構としては東日本で唯一の能舞台です。 
4番目の写真は毛越寺庭園 です。「毛越寺庭園」は奥州藤原氏が仏の浄土をこの世に再現しようとして造ったものです。 私は1958年にこの広い池の回りをゆっくり歩きながら無常感をおぼえていました。荒れた庭園以外何も無いのです。豪華な毛越寺が跡形も無く消え失せているのです。
5番目の写真は801年に征夷大将軍の坂上田村麿が創建したと伝えられる達谷窟毘沙門堂 です。自然の洞窟を覆うように建てられた懸崖造りの御堂で す。
6番目の写真は近くにある厳美渓(げんびけい)です。 この渓谷は後に家内と一緒に行きました。

7番目の写真は厳美渓の遊覧船です。12月~2月末はこたつ舟が出ているので寒い時期でも舟下りを楽しめます。藤原一族らもこの景観を楽しんだのでしょう。
1958年の平泉の旅は卒業研究を指導していた的場幸雄教授の引率でした。的場研究室の全員で行った旅でした。平泉を訪れたとき中尊寺で私の新品の革靴が盗まれました。当時は下駄や革靴がよく盗まれる世相でした。仕方なく寺で古下駄を借りて仙台に戻ることになりました。
私の革靴が盗まれことに的場先生はひどく同情して下さり、平泉駅前で私に立派な革靴を買ってくれたのです。当時、革靴は高価でした。的場先生は穏健で優しい先生でした。
この記事であらためて故的場先生への感謝を表したいと思います。
先生はその後に 東北大学名誉教授になり富士製鉄の代表取締役副社長や日本金属学会会長になった方でした。 

話が奥州藤原氏と平泉文化からそれてしまい御免なさい。平泉文化のことを書いていたら的場先生のことを思い出したのです。お許し下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「興味深い地方の歴史(1)甲府盆地の30基の巨大古墳」

2022年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の歴史を学校で教える時は大和朝廷から平安時代、鎌倉時代、室町時代と順に中央政権の変遷の歴史を中心にして教えます。しかし全国の地方、地方にはそれぞれの歴史があります。興味深い地方の歴史があります。
そこで今日から「興味深い地方の歴史」という連載を始めます。今日の第一回は甲府盆地の古墳時代の話です。甲府盆地には30基の巨大古墳があるのです。
さて甲府盆地の石器時代と縄文時代には、現在の北杜市の八ヶ岳南麓には人々が沢山住んでいました。見事な装飾のついた縄文土器を生産していました。
そして西暦前300年以後の弥生時代に入ると八ヶ岳山麓の縄文人達は現在の韮崎市より東に広がる甲府盆地へと移動してしまいます。釜無川や笛吹川の周囲に水田を作るために甲府盆地の東部分に移住して行ったのです。
時は流れ、西暦後300年以後の古墳時代になると甲府盆地の釜無川と笛吹川の両側の稲作地帯に人々が定住していました。その様子は30基の古墳の分布から分かります。
この甲府盆地の古墳の写真を示します。大部分の写真は2013年1月17日に家内と私が撮ったものです。

1番目の写真は丸山古墳と甲斐銚子塚古墳の現在の光景です。銚子塚古墳は笛吹川の傍にあり全長170mの巨大な前方後円墳です。この古墳は西暦350から400年に造営されたと言われています。

2番目の写真は丸山古墳の近景です。写真は2013年1月17日に家内が撮ったものです。
3番目の写真は銚子塚古墳の近景です。家内が撮りました。
写真のような古墳が甲府盆地に30もあるのです。
このように古墳は3世紀から5世紀にかけて全国に造られました。大和地方や機内の前方後円墳だけが教科書に載っているので、巨大な古墳が全国にあったという事実を知らない人も多いようです。しかし甲府盆地だけでも30基も作られていたのです。古墳は北海道の江別古墳群から九州の鹿児島まで全国にあったのです。
ここで全国の古墳の一例として埼玉県の古墳を示します。なお全国の古墳の詳細な分布図とそれぞれの古墳の形状や大きさは「古墳マップ」(http://kofun.info/)に詳しく掲載されています。

4番目の写真は「さきたま古墳群」の航空写真です。出典は「さきたま古墳群」を検索すると出てきます。
『日本書紀』によると534年、安閑天皇より笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が武蔵国国造を任命され、埼玉郡笠原(現在の鴻巣市笠原)に着任しました。そして畿内に匹敵する中型前方後円墳を作ったのです。このから出土した鉄剣の銘から武蔵国国造の墓ではないかと推定されています。

5番目の写真はさきたま古墳群の将軍塚前方後円墳です。2008年の6月に自分で撮った写真です。 前方後円墳の形を横から見たもので左が後円で右が前方です。

6番目の写真は将軍塚前方後円墳を取り囲んでいる濠の写真です。 古墳の巨大さが分かります。

全国には古墳が3853基あると言います。
私は古墳に何故かロマンを感じています。それで暇になると「古墳マップ」を開いて全国の古墳の写真を眺めています。
古墳の作られたころはまだ文字が無かったので誰の古墳なのか分からいのです。それ故、想像が自由です。
弥生時代から大和朝廷が全国を統一するまでの間には地方、地方に武力を持った豪族が割拠していて、数多くの独立領土を持っていた時代でした。
全国の古墳はこのような地方、地方の豪族の墓なのです。
今日はその実例として、自分が何度も訪問した山梨県の古墳と埼玉県の古墳をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「イグナチオ教会の今日の 『第13主日ミサ 』 の写真」

2022年06月26日 | インポート
今日は『第13主日ミサ 』です。
朝10時からミサの動画配信でミサにあずかりました。
今日のミサの写真をお送り致します。
なお今日の 『第13主日ミサ 』 の動画配信は以下にあります。
https://www.youtube.com/watch?v=-9M_16uvEec





「イグナチオ教会の今日の 『第13主日ミサ 』 の動画配信」

2022年06月26日 | 日記
今日は『第13主日ミサ 』です。
6月26日朝10時以後でしたらミサの動画配信で何時でもミサにあずかることが出来ます。
イグナチオ教会の今日の 『第13主日ミサ 』 の動画配信は以下にあります。
https://www.youtube.com/watch?v=-9M_16uvEec
なお関口教会からも動画配信があります。
写真は五島列島の教会です。順に井持浦天主堂、堂崎天主堂、青砂ケ浦天主堂、中ノ浦天主堂です。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りきたします。後藤和弘(藤山杜人)





「遥かなる我が故郷、仙台のバラ園の写真」

2022年06月25日 | 写真
遥かなる我が故郷、仙台のバラ園の写真をお送り致します。
このバラ園は仙台市荒井切新田13−1にある「せんだい農業園芸センター」の中にあります。電話は、 022-288-0811 です。
写真の出典は、https://miyagi-kankou.info/senndai-rose/ です。




 

「庭の白いユリが華麗に咲きました」

2022年06月24日 | 写真
庭の白いユリが華麗に咲きました。
ここ数年次第に球根が大きくなって花も大きく華麗に咲きます。高さ130cm位の幹2本に合計20個以上の蕾をつけ次ぎ次ぎに咲いていきます。このコンピューターの窓の外です。何度も眺めては豊かな気分になっております。






「夏の花々の写真」

2022年06月24日 | 写真
夏の花々の写真です。
写真の出典は、https://provenwinners.jp/product/reccomend/recommend_summer/ です。

1番目の写真はスーパートレニア カタリーナです。

2番目の写真はエボルブルス ブルーラグーンです。

3番目の写真はスーパーベナ ホワイトです。

4番目の写真はスーパーベル ホーリースモークです。