老境になると自分の人生を振り返っていろいろ大切な発見をします。その一つに中学校以来、変わらぬ友情をよせててくれるS君がとても重要で、有難いことに気が付きました。私がいろいろな失敗をしても彼の私へ対する好意にはいつも変わりません。いつ会ってもニコニコして勇気づけてくれます。
S君と知り合ったのは茫々63年前の昭和23年です。戦災で焼け野原になった仙台に、進駐軍の命令で新制中学校が出来たのは昭和22年でした。
その2回生として入学し、S君と知り合ったのです。とても利発な少年で、絵が上手で何故か魅力的な性格です。すぐに仲良しになり、彼の家にしょっちゅう遊びに行きました。彼も私の家に来て一緒に鉱石ラジオを作ったり、忍者ごっこをして遊んだものです。
私の家は仙台の郊外の向山という所にありましたが、彼の家は土樋町の近くにあり、とても都会的な雰囲気でした。家が都会的な感じなだけでなくS君は東京言葉に近い話し方をします。そんな彼に洗練された都会の雰囲気を感じていました。絵画が得意だったせいか、彼は一生アート関係の仕事をしました。
新制中学校とはそれまで存在していなかった学校です。校舎も机もありません。しかし進駐軍の命令で全国に急造されたのです。校舎が有りませんから、我々の中学校は荒町小学校の教室を借りました。机も椅子も無いので家からミカン箱を持って行って机にしました。仙台第十中学校と言っていましたが、そのうち校舎が愛宕山のそばの遠藤山に新築され、愛宕中学校と名前が変わりました。
新しい校舎が完成したのは1年生の終り頃でした。その頃は流石に机と椅子が出来ていました。新校舎への引越しは生徒が全員自分の机と椅子を背負って2往復したものです。それはとても嬉しい出来事でした。木の香りのする校舎には生徒たちの笑い声が溢れます。そして先生達も嬉しそうに色々な部活を指導してくれるのです。
踏査部とか演劇部とか歴史研究部のようなものから庭球部、野球部、バレー部などなど全てが活発に動き出しました。S君は演劇部とバレー部で活躍していました。私も彼と一層親しくなったのは演劇部で一緒にいろいろな事をしてからです。
高校は仙台一校に入り、また演劇部で共に活動しました。一緒に松島湾でカッターを漕ぎ、カキ棚に乗り上げて青くなったりしたものです。
中学と高校の演劇部にはテレビマンユニオンの創立メンバーの村木良彦君もいました。残念ながら彼は亡くなってしまい、このブログで追悼記を書く巡り合わせになってしまいました。(あるテレビマンの死 )
村木君のお葬式でもS君に会いました。芝の増上寺でガッカリしている私を慰めてくれました。とにかく優しいのです。昭和35年に私が初めてアメリカへ留学するとき羽田空港まで送りにも来てくれました。
このブログを3年前に始めて以来、S君は、「もえじい」というハンドルネームで、好意に溢れるコメントを何度も送ってくれました。
S君の事を今振り返って考えると、それこそ「男の友情」と言うものなのだと理解出来ます。
私は彼の為に何もして上げませんでした。助けてあげた事もありません。勇気づけた事もありません。一切は利害を超えているのです。不思議です。と、ともに頭が下がります。
茫々63年前、焼け野原の仙台で知り合って以来、彼の友情は変わりません。こんな貴重なものはありません。S君、本当に長い間有難う御座いました。(続く)
下の写真はS君から頂いた今年の年賀状の絵です。