黒人のオバマさんが大統領になってアメリカの黒人差別も無くなったと思っていました。オバマさんが大統領になったことは黒人の為に本当に良かったと感じていました。
ところが最近、ある事件の裁判で黒人差別的な判決がでました。
それを受けて全米で黒人たちが抗議デモを繰り広げたのです。
それを見ていると、キング牧師がかつてのガンジーにならって非暴力の差別反対運動をしていた頃を思い出します。悲しい気持ちになります。
そんなキッカケもあって最近、人間が差別し、差別されることを深く考えています。そして結論を先に書けば、神様だけが人間を差別しないという事実に想いが至ったのです。
そこで今回より数回の連載記事として人間同士の差別について幾つかの実例を挙げて考えて行きたいと思います。
第一回目の今日は身近な差別体験を書きます。それは簡単明瞭な差別です。
我が家では妻が私を差別します。仙台で生まれ、24歳までそこに暮らして居て、仙台弁を使うからです。東京にもう50年以上住んでいますが仙台弁のアクセントはそのままです。「橋」と「箸」の区別が分かりません。
若い頃は田舎言葉を恥ずかしいと思っていましたが中年以降はむしろ誇りにさえ思っています。ですから仙台弁は夫婦喧嘩の原因になりません。
しかし特有の許せない特徴があるらしいのです。気が利かない。社交的でない。鈍重です。洋服の趣味が悪い。塩っぱい食べ物を好んで食べる。食事のマナーが悪い。とにかく全てのことに洗練されていないのです。
これらは私の個人的な特徴であって別に田舎育ちが原因でこのようになったのではありません。
同じ様に地方で育っても社交的で、趣味が良く、洗練されている人も沢山います。
しかし私はおおらかに構えて、とりあいません。嫌なら離婚すれば良いのですが、一向にその気配がありません。
そうして変なことを言い出します。ロシア人は趣味が悪いと漏らすのです。何故かというとせっかく購入したフランスの油絵をロシア人好みに修正して展示しているからというのです。最近、日本で行っているプーシキン美術館展示会を暗に非難しているフシがあるのです。
このように家族のなかで人を差別することは許せます。笑い話です。
しかし社会的に地方の人を差別するのは絶対に悪いことです。止めるべきです。
例えば東京の人は千葉県や埼玉県の人を冗談で田舎者と蔑んでいます。埼玉を「ださいたま」と云って笑います。千葉はもっと田舎です。ところが神奈川は軽蔑しません。
こういう社会的な差別は、差別された県民にとっては不愉快なものです。
東京にも地方出身者は多いのです。このような差別は笑止千万なばかりでなく他県の人々の心を傷つけるから絶対にやめるべきなのです。
心の中に差別の感情が出てきたら下の写真のような大らかな気持ちになりましょう。
この風景は津軽半島の竜飛岬の風景です。そして小さな漁港は津軽半島最北端の港です。このような所でも努力して生きている人々を田舎者と笑えますか?
私には真似の出来ない生活なので、尊敬しながらこの写真を5月31日に撮りました。
これから、人間社会にあるいろいろな差別の実例を取上げて、連載記事を掲載する予定です。
人間はいろいろな差別を無意識にしている場合が多いものです。しかし差別された方は気がつきます。心に傷を受けます。
ですからいろいろな差別の種類を明快にし、少しでも差別を無くそうとするのが、この連載の目的です。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
あれは茫々、40年ほど前のことです。
カトリック立川教会と進駐軍の立川基地のカトリック教会が友好親善のために交流会を開きました。主任司祭の塚本金明神父さんが熱心に交流していました。
そのとき知り合ったのはMr./Mrs. James and Santa Pero さん一家です。当時は可愛い息子が一人居ました。私の家でも一緒に食事しました。
そのうち間もなくPeroさん一家はコロラドの空軍基地へ帰って行きました。
しかし小柄で可愛い奥さんは毎年、長い文章のついたChristmass Card を必ず送ってくれます。いかにも優しい女性らしく、その年に家庭内で起きたいろいろな楽しいことが書いてありました。Santaさんは病院で医療技師として働いていました。
もうJames も Santa も悠々自適の年齢になります。
Jim さんは時々、ユーモアあふれる面白いメールを送ってくれます。
今日は久しぶりに彼からメールが来ました。
ビールの好きなドイツ人が、どんどんビールを飲んで、溜まったビールの空き瓶を面白いことに使っているという動画です。
Subject: Fwd: What do Germans do with their empty beer bottles? という題目の動画です。http://www.youtube.com/watch?v=k26nt3Y4cmg をクリックすると出てきます。2分たらずの動画でので、是非お楽しみください。
この動画の背景にはドイツ人の度を越したビール好きがあります。
昔、私もドイツの研究所に留学したことがありますが、その研究室の冷蔵庫にいつもビッシリと ビール瓶が詰っていて、彼等は実験中にビールを飲んでいるのです。この光景にはビール好きの私ですら度肝を抜かれました。
1960年に留学したアメリカの大学は厳重な禁酒体制がしかれていて、ビールの空瓶が見つかっても処罰されていたのです。
Jim さんの今日のメールはそんな事を思い出させる楽しいものでした。
ドイツ人のビール好きを想像しながら、上のURLの動画をお楽しみ下さい。(終わり)
戦前に生まれ、戦後に成長した私にとっては、「笈を負って郷関を出ず」という言葉は私の心の中で生涯響いています。仙台で生まれ育った私はこの言葉によって東京に出て来ました。そしてこの言葉を懐かしく思っています。
この言葉には何故か若者を奮い立たせるロマンがあります。一介の青年が徒手空拳で故郷を離れ、中央で大きな仕事をするという意味ですから善い言葉には違いありません。
しかしその動機には、中央に出て偉くなろう、都会の生活を楽しもうという俗っぽい欲望も混じっているもです。
私は30歳を過ぎた頃、この言葉には悪い側面もあることに気がつきました。
郷関を出るよりも田舎に踏みとどまって、その地方の文化を豊かにする仕事をしたほうが人間として偉いと思うようになったのです。
そのような理由で、このブログではそのような方々をご紹介してきました。
福島県の郡山で画家として活躍している村田 旭さん、愛知県で陶芸家として活躍している尾張裕峯さん、同じく愛知県の画家の三輪 修さんなどの作品と活躍の様子を何度もご紹介して来ました。
その延長にあるのが、「書家、間山陵風の生涯」と題する8回の連載記事です。
陵風は東京に出ず、故郷の青森で書家として生涯を終えた人です。そこでさっそく彼の紹介をこのブログですることにしました。執筆はネットで知り合った間山陵風の息子の陵行さんにお願いしました。
その陵行さんも現在、書家として青森でご活躍中です。
その陵行さんが補足的な説明をメールで送って下さいましたので、以下に転載します。
=====陵行さんからのメールの抜粋============
蘭川師匠のいう蘭川流なのですが、そもそもその蘭川流を名乗ってはいけないという師のことばですね。一流一派に続せず、総合的に学べという教えで、いかにも不利な立場です。
いわば一匹狼、無所属ですね。俳句でいえば種田山頭火のようなものでしょうか。
晩年には空転飛躍する独特の世界で、どっちかといえば私は空海の書に近いかなと思っています。
空海の書はhttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8e/Saishi_gyokuza_yumei.jpg/200px-Saishi_gyokuza_yumei.jpg にあります。
また父の弟子で画家としてアメリカで活躍している工藤藤村正(ムラマサ・クドー)は、その経歴書の中でで父が最大の恩師と力説しています。
彼は泣いてごめんなさい!と謝った。
その晩に彼の叔母が訪ねてきて、「叱ってくれて感謝します、言う事を聞かない子で、これからも親のように叱って下さい」と言って帰った。・・・・
それで父に内緒で、私は独断で彼の勤務先に乗りこんだ。
ドアを開けてすぐに、挨拶もなく「何ですか?あの内容は!私たちは何ヶ月も懸命に学んで発表したんです。中央中央って、何なんですか?あなたはそれだけ偉いんですか!もっと書道の根本から見直したらいかかですか?」
言葉は丁寧かもしれないが、いきなり青年が表れて会社の部下の前で怒鳴られて、驚いたことでしょう。・・・・・
この部分は長兄の沢一の知り合いの書家の蘭山が間山陵風へ、一緒に東京へ出て出世しようと誘った部分です。それを断ったので後に蘭山が意趣返しをしたという話です。
地方に居る青年が東京を憧れる気持ちと、それを諌めた間山陵風の気持ちを想像すると何故か切ない気分になります。どちらの気持ちもわかるので切ないのです。それは東京で生まれ、育った人々には理解出来ない心の揺らぎなのです。
下に「轟による」と題する間山陵風の前衛書の写真を示します。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====第八章(最終章) 『陵風』書と民謡の関わり===========
書道会にはイデオロギーを超えて人々が集まっています。
一つのものに偏っての意識はもたないという方向に私は父の影響があります。
それがいいのか悪いのか、だから名声や地位とは無関係になっています。
書道は青森県内ではまずまずの知名度を持った陵風でしたが、中央とのパイプが薄いために損をしてるという事実は否めなかった。
社中展での高評を作家に書いて頂くのが通常でしたので、ある年は蘭山氏に頼むことになった。
この頃は蘭山氏も父との関わりは以前とは違い、互いに展覧会でや会議では交流を深めていたので、父は蘭山氏にも頼んだのだった。しかし原稿の事前の報告もなく載った記事は、私や会員には屈辱的で蔑んだような内容に思えた。
それで父に内緒で、私は独断で彼の勤務先に乗りこんだ。
ドアを開けてすぐに、挨拶もなく「何ですか?あの内容は!私たちは何ヶ月も懸命に学んで発表したんです。中央中央って、何なんですか?あなたはそれだけ偉いんですか!もっと書道の根本から見直したらいかかですか?」
言葉は丁寧かもしれないが、いきなり青年が表れて会社の部下の前で怒鳴られて、驚いたことでしょう。
若気の至りですね。27歳ころの無鉄砲で礼儀しらずのバカ者でした。
父にめっぽう怒られるかと思ったが、その話は別の場所で聞いたらしいがお咎めはありませんでした。
水茎書道の道場は他に珠算教室にも使い、父の兄の澤義=雲龍氏が津軽民謡でも使っていました。
昭和34年から発足会には師匠の『成田雲竹師』がおいでになり、津軽山唄、謙良節、りんご節など歌いました。
伴奏はまだ無名の高橋定蔵=竹山師が一緒についてきました。
叔父の民謡道場は「日本民謡協会支部、成田雲竹流民謡外ヶ濱会」が正しい名称でした。
私の家の玄関には最高で三つの木の看板が掲げられていました。三つ目は竹山津軽三味線研究会でした。
毎週水曜日高橋竹山さんがバスで小湊からおいでになるので、迎えに行く役が兄貴か私でした。
目の不自由な先生がバスから降りて駆け寄ると、「おぅ居たが・・」と独特のしわがれ声で言った。
お稽古には現在師匠になっている方々がまだ初々しく習っていました。西川洋子、楠美竹善、水上幸子、神戸で活躍の長崎栄山、二代目になった高橋竹与、内弟子の先輩の方々、そして私の兄、弟、母、妹もでした。
書道の研修会で年一回八甲田山の蔦温泉で大々的に開催されるときは、(毎年書道民謡総勢40~80名)、高橋竹山師は必ず顧問として来てくれました。
蔦沼や長沼の前で静まり返った中で、尺八や笛の独奏、雲龍先生や弟子の工藤竹風氏、後藤吟竹氏などが木挽唄や津軽山唄を歌ってくれました。
書道の子供達が唱歌を歌って和ませたあとに、沼によびかけをさせますと、その声が沼に響き渡り鳥たちも静かになるほどでした。
旅館にもどってからは書法要義の臨読や陵風の講義が始まり、その内容は自然から音楽から書の奥義を学ぶ方法などでした。
そして大きな紙への揮毫などをします。皆さんが書いている合間に、高橋竹山師は伴奏を低く演奏してくれたものでした。
しあわせな弟子たちだったと思います。
この蔦研修会は15回ほど開催し、蔦の恒例の行事として社長の小笠原氏は心に刻まれていたことでしょう。
昔、大町桂月がこよなく愛し、田中智学の御曹司『蘭川先生』も2度ほど研修会を行ったのです。
間山陵風が蔦にこだわった気持ちがよく分かります。
これらの経験から高橋竹山師はのちに寒撥(カンバチ)での賞に繋がり、津軽三味線の独奏曲の作曲の源になったと伝えております。
民謡の例会が終わると母八重の手料理を楽しみにしていた竹山師、いろんな過去や現在の思い出や悩みを打ち明けて陵風やその兄の雲龍と涙したり、手を握り合って友情を噛み締めたと話していました。
雲龍が自分の道場を建設するまで15年もの間、間山陵風と民謡外ヶ濱会は一心同体でありました。
今、父も雲龍も高橋竹山もこの世の人ではありませんが、きっとあの世で笑って酒を酌み交わしてるのではないでしょうか。
不肖むすこの私が父の果たせなかった個展を『遺墨展』として開催するのが責務だと思っております。
長く拙い文章でも最後まで読んで下さった皆様と、この機会を与えてくださった後藤様に深く感謝申し上げて筆を置きたいと思います。(完結)
下の写真は揮毫中の間山陵風と津軽三味線をひいている高橋竹山の写真と間山陵風の書の写真です。
今日は「般若心経」の話を書いてみたいと思います。お釈迦様の教えた知恵のエッセンスです。
私の祖父は曹洞宗のお寺の住職でした。その後は叔父が住職になりました。
父は一生大学で働いていましたが、大学の停年後やはりある曹洞宗の住職になりました。父の死後は、弟がその寺の住職になりました。弟は一生大学で働いていましたが、その間に曹洞宗の本山で修業をして住職の資格を取っていたのです。
一方、私は中年になってからカトリックの信者になりました。
そうしてもう一度、「般若心経」を考えてみると、これほど偉大な哲学はないと思うようになりました。気宇壮大な哲学です。すべての宇宙で起きる現象を「空」という考え方で説明しているのです。
・・・・五薀は皆な空であると照見して一切の苦厄を救いたまえり、
舎利子よ 色は空に異ならず 空は色に異ならず 色は即ち是れ空 空は即ち是れ色・・・・・・
上の文中の舎利子とはお釈迦様の弟子のシャーリプトラのことです。玄奘三蔵法師がこのように漢字で書いたのです。
この般若心経の漢語と日本語は下に参考までにつけてあります。
さて欧米人には「般若心経」は理解出来ないのです。勿論例外的に少数の欧米人は深く理解しているとは思います。
欧米人が理解出来ない理由は、彼らは仏教的訓練を受けていないからです。かれらはキリスト教的な訓練しか受けていないのです。
私は幼少のころから「般若心経」を何百回も唱えました。意味も分からず唱えました。住職だった祖父も叔父も父も「般若心経」の意味を一度も説明してくれませんでした。成人して疑問に思ったのでその意味を調べたのです。
そして気がつきました。それを理解出来たのは幼少のころから何百回も唱えるという仏教的な訓練があったお蔭だと気が付いたのです。
仏教的な訓練とはお墓詣りに行く、お葬式に出る、線香を上げる、などなどの全ての行為をすることです。このような訓練をすると、「般若心経」が体で理解できます。それは理屈で理解するような浅薄な理解ではありません。
さて一方、キリスト教でも宗教的訓練が重要視されるのは同じことです。聖書を朗読する。聖歌を歌う。苦しい巡礼の旅をする。意味の分からない難しい説教を根気良く聞く。すべてがキリスト教の宗教的訓練です。
その訓練は神とイエス様が人間を愛していることを確信させるような内容の訓練です。
カトリックの私はカトリック的な訓練を毎日少しずつ、そして毎週の日曜日に教会で受けます。その訓練にはマリア様の重要性を悟らせる訓練も加味されています。
この体験をしてみると仏教の訓練方法は「すべての生命も物質界も空である」ということを理解させ、悟らせるように設計されています。一見無意味な修行をさせるのは「人間の行為も空である」ことを体験させているのです。
欧米人がこのような仏教的訓練を重ねて行けば、必ず「般若心経」を理解できます。
最後に一行だけ書かせて下さい。私にとって仏教は感動的な哲学です。そしてキリスト教は頼りになる宗教です。哲学と宗教は矛盾しません。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料====================
(http://oshikoku88.web.fc2.com/newpage1-2-1.html)より引用しました。
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
ぶっせつまかはんにゃはらみったしんぎょう
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五薀皆空 度一切苦厄
かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくう どいっさいくやく
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是
しゃりし しきふいく くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減
しゃりし ぜしょほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん
是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界
ぜこくうちゅう むしきむじゅそうぎょうしき むげんにびぜつしんに むしきしょうこうみそくほう むげんかいないしむいしきかい
無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽
むむみょうやくむむみょうじん ないしむろうしやくむろうしじん
無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故
むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ
菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖
ぼだいさった えはんにゃはらみったこ しんむけげ むけげこ むうくふ
遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい
故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚
こちはんにゃはらみった ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうじゅ のうじょいっさいく しんじつふこ
故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
こせつはんにゃはらみったしゅ そくせしゅわつ
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
ぎゃていぎゃていはらぎゃていはらそうぎゃていぼじそわか
般若心経
はんにゃしんぎょう
======意味========
仏が説かれた「悟りの智慧を完成させる偉大な真言」の教え
観自在菩薩が深般若波羅蜜多を修行し時に
五薀は皆な空であると照見して一切の苦厄を救いたまえり
舎利子よ 色は空に異ならず 空は色に異ならず 色は即ち是れ空 空は即ち是れ色
受も想も行も識も またまた是の如し
舎利子よ この諸法は空の相にして 生ずることなし滅することなし
垢ならず浄ならず 増えず減せず
是の故に空の中に色は無く 受も想も行も識も無し
眼耳鼻舌身意も無く 色声香味触法も無く 眼界も無くそれから意識界までもすべて無し
無明も無く亦た無明が尽きることも無くそれから 老死に至るすべても無し
苦集滅道も無く 得る所無しを以ての故に 智も無くまた得も無し
菩提薩埵は 般若波羅蜜多に依るが故に 心のくもり無く
くもり無きが故に 恐怖も無し
一切の顚倒した夢のような想いを遠く離して 涅槃を達成した
現在過去未来のすべての仏も 般若波羅蜜多によるが故に 大いなる悟りを得られた
故に知るべし
般若波羅蜜多の是れ大いなる真言 是れ大いなる悟りの真言 是れ無上の真言 是れ比類なき真言
能く一切苦しみを除き 真実にして虚偽なし
故に般若波羅蜜多の真言を説く 即ち真言を説いて曰く
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボディ スヴァーハー
般若心経
昨夕と今夕、小金井市で阿波踊りを中心にした夏祭りがあります。
暑い夏の夕方、人をかき分けて写真を撮るのは難儀なことなので、勘弁してもらいました。
そこで、小学6年生の男の孫を呼んで、写真を撮って来てくださいと頼みました。
自分の級友も踊っていると言いながら、駅前へとんで行きました。
彼は保育園にいるあいだ、「ホームラン音頭」や「おばQ音頭」も踊っていた。
「阿波踊り」でも何でも踊っている人々と、見てる人々が楽しければ良いのです。
・
文化的節操の無さが日本を経済的に発展させた という記事で書いた「文化的節操」なんて忘れたほうが良いのです。まさしく「老いては孫に従え」です。私もこれで狭量さから一つ解放されました。
つまらない独り言で失礼しました。(終わり)
今日は日曜日なので、宇宙を知る、そして神を感じる、そのうえ神の存在を信じるという事は別々なことですということを書いてみます。
それらは違っていますが、お互に関連がある場合があります。
宇宙を知ることの実例として、アポロ計画で人間が6回も月面に着陸して岩石を持ち帰ったことを考えて見ます。
その結果、人類は今まで知らなかった月の表面の岩石の化学成分と結晶系が初めて分かったのです。
下に1969年7月20日、初めて月面に立ったアメリカ人のバズ・オルドリンの姿と1972年12月13日、最後になった6回目に月面に立ったハリソン・シュミットの写真を示します。
出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%83%AD%E8%A8%88%E7%94%BBです。
さて地球から別面までの40時間ほどの間に宇宙飛行士たちは窓の外に何を見たでしょうか。
きっと深い闇のなかに輝く太陽と、青い地球と、無数の星を眺めていたに違いありません。星々は違った色合いと、不思議な形の星雲になって、360度の大宇宙にはてしなく輝いているのです。
これを眺めた宇宙飛行士の多くは神の存在を感じたといいます。
全知全能の神がはてしなく広がる星雲のかなたに住みたまうて、この大宇宙を作ったに違いないと感じたのです。
とても自然現象だけで宇宙が出来たとは思えないのです。
地球を見下ろして、青く輝く水の惑星に生まれた自分の幸せも感じたとも言います。
宇宙飛行士たちは神の近くに飛んでいくのです。ですから神を感じます。
しかし神の存在を信じる飛行士は、神を感じた人の一部だけです。
信じることは、神の存在を疑いながらも、その存在を実感する瞬間的な体験を重ね、「私は神を信じる」と他人へ公言することなのです。
神を感じ、その後で信じるためには宗教的な訓練が必要と思います。
この宗教的訓練については明日書いて見たいと思います。
それはそれとして、宇宙飛行士の何人かは、その後、牧師や宣教師になって神の存在を人々に語る人生を送ったと言います。そのような報道を何度か読みました。
神を感じる。そして神の存在を信じる。これは宇宙飛行士でなくとも日常生活の中でごく自然に起きることです。私は平凡な生活を送りながら神を感じ、信じています。
今日もこれからミサに行ってきます。
そして皆様のご健康と平和も祈ってまいります。
================================
下に参考資料として6回のアポロ計画で月から持ち帰った岩石の量と写真を示します。
・・・・・・ | ||
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アポロ11号 | 22 kg | |
アポロ12号 | 34 kg | |
アポロ14号 | 43 kg | |
アポロ15号 | 77 kg | |
アポロ16号 | 95 kg | |
アポロ17号 | 111 kg |
=====第七章、家庭の苦難と書塾の発展==============
多くの人の支援で始まった市内中心地、長島地域での生活は順調で、二年が経った11月に妻の八重が第三子(長女)を出産した。
念願の女の子に父浅市は『澄子』と命名した。しかしその澄子は一歳になる頃百日咳にかかり、近所の医師から県立病院に移された。
家事に困った浅市は、親戚に頼んで炊事洗濯料理などすべてやってもらった。
澄子の病は重く、医師からは治っても死ぬか生きるかのヤマ場ですが、助かっても脳に障害が生ずるおそれがありますと告げられた。
思わぬ苦難に、母つゑに相談したら毎日お題目を唱えなさいと言われた。朝晩祈り続けたその甲斐があったのか、澄子は無事助かった。
しかしそれから無理がたたった八重は、病気がちになった。
病み上がりの家事はきついので、経済的には余裕のあった浅市は、「あだこ=津軽ではお守り役をあだこ」当時中学を終わったばかりの女の子を住み込みで家事手伝いに雇った。二年くらいで別のあだこが入れ替わりやってきた。
私がまだ7~8歳のころ、母がよく倒れて苦しみ出すと父は「おい!すぐに婆ちゃんば呼んでこいへ!」
私はすぐ猛スピードで走り抜けて父の実家に行ったものだった。
ある日は近所の5人くらいのいじめっ子が通せんぼするときもあった。しかし泣き虫の私でもその時ばかりは母の命に関わるので、ものすごい形相で体当たり突破して婆ちゃんの元へ走ったものだった。
婆ちゃんは「おしおし、今いぐからなぁ」と頭を撫でてくれた。
神様のように思えた祖母だった。
母のお題目を聞いてさすられると20分ほどで嘘のように落ち着く母であった。
一方水茎書道塾は弟子は増える一方で、父(陵風)はあちこちの展覧会に出品しては団体賞や個人賞など取る様になった。
また書友で作った会派で『北門書道』や前衛で有名だった『奎星』(上田桑鳩)の競書に出品、学生は翠軒流の『星雲』などへ出した。
陵風は書家として若手のホープとして期待された。陵風一派の作品が機関紙の写真版を半分独占することもあって、他団体から妨害を受けることもあったそうだ。
本家の兄の沢一の友人に蘭山という書家がいて、「どうだ俺と一緒に中央へ行かないか?」と誘われたそうだ。
しかし断ったがために、その影響がしばらくあったそうだ。蘭山氏はその後青森県の書の重鎮としての地位を築いてゆく。
妻、八重は毎日紙に埋もれている夫に懸命に仕えていたが、すぐに妊娠してしまう。(当時男性に避妊という判断はなかったのだろうか、特に父にはなかったようだ)。
第四子の間までに何度も中絶手術をしたそうだ。
それが後の母の健康に深く傷となって残っている。
だから私たち子供は母が一年の半分は床に伏している母しか思い出せない。
一方書塾に、ある少年が入った。眼が精悍で色黒で、泣き虫の私には怖そうな先輩だった。
でも意外に私を優しく守ってくれる少年だった。名は工藤隆。
ある習字のお稽古中、父がいきなり怒って彼に罵声を上げて鬼のようになり、私らを怒るように彼を何度も叩いた。
彼は泣いてごめんなさい!と謝った。
その晩に彼の叔母が訪ねてきて、「叱ってくれて感謝します、言う事を聞かない子で、これからも親のように叱って下さい」と言って帰った。
隆君は母を亡くして福島から叔母を頼って単身青森に来たのだった。父のような存在の習字の先生にますます慕うようになって、書道の腕を上げていった。
後に彼は世界を放浪しアメリカで画家として名声をあげ『工藤村正』として現在も活躍している。
経歴には恩師はただ一人『間山陵風』と書いてある。
その後偉くなっても何度か帰国すると陵風に会いにきて、真っ黒な顔で侍のような瞳を輝かせて武勇伝を語っては帰っていった。
父が亡くなってからも、彼からはたまに連絡があり、父の作品を貸してくれという依頼がある。
とくに彼が好きな作品は父の『轟による』だった。
その後、陵風は街の書道の先生と提携して機関紙を作ったり、毎年のように社中展を開き、北門書道でお世話になった。
宮川松子先生を顧問にして、他団体の会主の賛助出品をもらったり、県展や市民展にも力を尽くし審査員として活躍するようになった。
文化的な活躍が多いために、政治運動は疎くなり一時、養正会や国柱会からは批判されたことも多々あった。
道場をつかって決起大会などあると、陵風は同志の先輩に叩かれたこともあって、民謡の兄の雲龍が止めたこともしばしばだった。その後文化事業の成果を認めるようになり、国柱会も口をはさまずに一部の会員は支援してくれるようになった。
それらを見て育った私たち兄弟は、国柱会を良く思うはずはありません。(第八章へ続く)
めいこ さんは89歳でホームに入っています。しかしホームに入る前とぜんぜん変わらないで、活発に絵画を制作して「80歳の生活」というブログに楽しい文章とともに発表していらっしゃいます。
以前もその絵画をこのブログで何度もご紹介してきました。今日は久しぶりに最近作を以下にご紹介いたします。
出典は、http://www.geocities.jp/hyoutannjima0/index.htm です。
「海外旅行」
蒙古に行っていると聞いていた三十歳の、五人の孫娘中、四番目の子が、小さい羊のぬいぐるみを持ってホームにやってきた。土地の手工芸品で白いフエルトをかがって作られている。高校時代の友人三人と行ったそうで、私の若い時代には考えもしなかった場所だ。
私が最初に海外にいったのは、昭和五十一年の頃、それまで一般の人には難しかった海外旅行が解禁となり、役所の仲間が早速、団体旅行を計画した。約百人、駆け足で、ヨーロッパの主な都市を回った。職場が裁判所なので英国の裁判所を訪問してお話を伺った。一番印象に残ったのはパリの凱旋門付近の、歴史のある街並み、流石と圧倒された。レマン湖の綺麗な白鳥も眼にのこる。英国ではケンジントンホテルといいうところに泊まったが、古めかしいホテルだったので、今あるかどうか。その後、夫とハワイ、カナダとコロンビアに行った。
私が六十六歳の時、夫がなくなってからは、友人とアメリカ、エジプトとトルコ、東南アジア、墨絵の展覧会のために行ったロマンチック街道、ウイーン。
旅行していると、私は、同年配の人達と比べて体力の無いのが判った。旅行会社が計画するコースどおりに参加すると疲れる。夜の、照明を受けたナイヤガラの滝や、夜の水中宮殿は、パスして宿にいた。一日がかりのアメリカのヨセミテ公園は自信がなく二人で留守番し、夜遅く元気に帰ってきた人達から話を羨ましく聞いた。
蚤の市へ行く途中に少し、ふらつき、添乗員に、私一人をタクシーに乗せてもらい、宿泊ホテルに戻った。鍵をかけ、べッドで休んでいると、とつぜん、大きな黒人のボーイが部屋の中を歩いているのでギヨッとした。週刊誌を取替えにきたと動作で示した。
七十歳のとき、友人とスペインとポルトガルに行くツアーに申し込んだ。海外旅行は八回目で、これで最後と決め、三歳年上の元気な友人と、今まで乗ったことのないビジネスクラスで頼んだ。かかりつけの医者の、OKも貰った。しかし、出発日の十二日前、私が心筋梗塞をおこし、急遽、近くの大学病院に入院、手術した。外国の不便な田舎道で発病したら助からなかっただろう。しばらくしてご近所の奥様が、アンコールワットから白木の箱で帰国されたので、自分は運が良かったのだと思った。
今、私たちの時代には殆ど聞くことの少なかったマチュピチとか、イエローローストーンなどの名を聞く。時代がずんずん変わってくる。
=======めいこ さんの自己紹介============= 1923(大正12)年11月20日生
女子大時代(昭和19年)学徒動員で電波関係の仕事をしましたが、それがきっかけで、老年になってあまり抵抗無くパソコンを触るようになりました。技術的に難しいことは一切解かりません。自分の出来る範囲でH.Pを作っています。続けているうちに日記のようになってきました。現在、体力的にやっとですが、エッセイと水彩画の教室に行っています。
高齢な日本人なら戦前、戦後に食糧難にあった経験を持ってます。
食料の補給がなかった戦地の軍隊だけでなく、本土に住んでいた一般人までひどい食糧難にあったのです。
その体験をした人は食品を捨てることが出来ないのです。捨てることに罪悪感を感じるのです。南方の島々で食料が絶えて死んでいった兵隊さんたちのことを思い出すのです。
ですから我が家の冷凍庫には食べない古い食品が溜まっています。しかし捨てることが出来ません。
その一方でスーパーやコンビニ店では賞味期限のきれた食品を毎日、大量に捨てています。一部は家畜の飼料にするらしいのですが、兎に角捨ててしまいます。
随分と以前から日本はそんな時代になっているのです。そこで今朝。家内と相談して冷凍庫の古い食品を捨てる決心をしました。まだ腐っていない食品を捨てるのです。それは罪悪です。
そこでその罪滅ぼしに戦前、戦後の飢餓体験を書いて遺したいと思います。
経済の高度成長が始まった1970年頃以後、日本から「食糧難」ということが無くなりました。しかし1943年頃から1960年頃までは食べることに困った人々が沢山いたのです。
今日は特に酷かった1944年から1951年の頃までの私自身の体験を書いてみました。
少年のころ過ごした仙台では昭和19年ころから戦後の昭和26年頃まで食糧難の時代でした。仙台だけでなく全国の都市は全て食糧難に遭遇したのです。特に1944年、45年、46年には餓死者も沢山出ました。しかし、食糧難の時代も遥か昔になり、60年近くなると日本人は全て忘れてしまったようです。最近は、誰も食糧難のことは話さなくなったのです。
昭和19年になると米の配給も不足し、お粥や大根の葉を刻みこんだご飯になりました。サツマイモやジャガイモの蒸かしたものに塩を付けて昼食にするのです。庭でとれたカボチャを夜のご飯へ混ぜて炊きます。肉などは何ケ月も見たことがありません。だだし、仙台は塩釜漁港に近いので腐った臭いのする激塩のタラ、ホッケ、ニシン、イワシ、が一品だけ何日か間をおいて魚屋に並びました。三陸沖で取れるクジラ肉も並ぶ日もありました。製氷機が無いのですべて塩を多量に使った塩漬けです。それでも腐り、凄い臭いがします。今書きながら臭いの酷さと塩辛さを思い出して生唾がほとばしります。そのせいで塩味の濃い料理が好きになりました。臭い魚は腐っているのではなく、発酵している場合が多いので食べられるのです。
そんな食生活も敗戦の8月15日の後に一変しました。悪くなったのです。社会の秩序がなくなると食料の輸送や流通経路が途絶し、店からは食料関係の商品が消えてしまったのです。毎日、食べるものが無い日が続きました。
ひもじさの余り、友達に教わったアカザ、スカンポ、ハコベ、オオバコなどの葉や茎を野山から採ってきて醤油で煮付けたり、おひたしにして食べました。そんなものでは空腹はおさまりません。米を精米するとき出る糠に少しの小麦粉を混ぜてフライパンで焼いたパンも食べたものです。
しかし、不味い物は喉につかえるのです。赤い高粱もゆでて食べました。
戦後しばらくして進駐軍の食糧援助で軍隊用の豆のケチャップ煮の大きな缶詰めが配給になりました。不味くはないし、栄養があって元気が少し出たものです。それに加えて、精製していない赤っぽい砂糖が多量に配給になったのです。米の配給の代用品です。カルメ焼きという玉杓子のような形の銅の小鍋で砂糖を溶かし、溶けたら重曹を付けた棒でかき回し、冷やすと、フックラと膨れ上がった砂糖菓子が出来るのです。子供でも面白いように出来、食べるとサクサクとして実に美味しいのです。しかしいくら食べても米のご飯の代わりにはならないで、すぐ飽きます。人間は砂糖だけでは生きて行けないという体験をしました。
肉に餓えていたので、何処の家でも鶏やウサギを飼っています。毎日2個の鶏卵を5人の家族が分けて食べました。卵を産まなくなったら殺して鶏肉を食べ、ウサギも殺して食べるのです。大人が殺して皮を剥いで、肉を鍋にするのですが、美味しくないのです。いくら食糧難でも、可愛がっていた鶏やウサギを食べて美味しいはずはありません。
1960年にアメリカへ留学したとき、毎日肉が好きなだけ食べられることに吃驚した。それは大きなショックでした。
こんな国と戦争すれば負けるのが道理だと胃袋が教えてくれたのです。
現在でもレストランやパーティで綺麗に盛り付けられた肉料理が出ると、その有難さに思わず頭が垂れるのです。そして、ひもじかった仙台での日々が、悲しい追憶として思い出されるのです。
敗戦には必ず飢餓体験が伴なうのです。後年、親しくなったドイツ人に私の飢餓体験を話しました。ドイツも全く同じだったと悲しそうに話していました。
そんな時代も昔のことになり忘れ去られてしまいました。
しかしどんな時代になっても食べ物があることに感謝して、生き物の命を戴くことに感謝し、それを作った人々へ感謝することは人間が幸せになるためにも重要なことです。
食事の前に私は声をあげて祈ります。「主、ねがわくば我らが食せんとする、このたまものを祝したまえ。父と子と聖霊の み名によってアーメン」と唱え十字を切ります。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
下に挿絵がわりに京王フローラルガーゼンで撮った花園の写真をお送りいたします。
以下は「カトリック初心者」さんからの、「永遠の命」についてのご質問です。
まず質問を紹介し、その後で私の考えを書きたいと思います。
====カトリック初心者さんからの「永遠の命」に関する質問======
コメントの前の部分は省略します。
このブログの、人間は老人になると善い顔、明るい顔、平安な顔になる・・・20回の連続観察の結果より という記事に書いてあったことについてまず感想を書きます。
『余命がそんなに長くないことを知っています。悲しい筈ですが、その事が今日も元気に横浜で会えたことを楽しくさせるのです。今日も生きていることに心が弾みます。当然、明るい顔になります。老いの華やぎという表情になります。』
この文章がとても心に残ります。名言だと思いました。老いへの不安が軽くなりました。
そして、私がこれから一生をかけて理解していくことを後藤さんに訊ねてみたいと思いました。
教理を学ぶにつれ“永遠の命”という言葉が聖書に出てきました。
・ヨハネ3:16神はその独り子(イエス様)を(人間へ)お与えになったほどに、世を愛された。独り子(イエス様)を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
・ヨハネ5:13神の子(イエス様)の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、(あなたがたは)永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。
・ヨハネ10:28私(神)は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、誰も彼らを私(神)の手から奪うことはできない。
などです。“永遠の命”とは、どういうことを意味するとお考えですか?
もしよろしければ、気が向かれた時でもお考えを聞かせていただけたら嬉しいです。
昨日の朝、山本神父さまに洗礼を授けていただきたい旨を申し出ました。本日ご連絡があり、近いうちお目にかかって相談する運びとなりました。またご報告させていただきます。
(上の文中でカッコとその中の言葉は私が分かりやすくするために追加しました)
さて、神が人間へ与える永遠の命とはどういうことなのでしょうか?
それは人間が死ぬと、神様がその人間をご自分の足もとによびよせて永遠に生きさて下さるということです。神を信じる人は例外なく全部呼び寄せて下さいます。そして永遠の命をさずけてくださるのです。
この事実を科学的に実験して証明することは不可能です。ですからキリスト教を信じているヨーロッパ人もアジア人もみんなこの教えを信じません。疑います。しかしある瞬間、本当にそれ信じるをことがあるのです。
よく信仰は99%との疑いと1%の確信ですと言います。この1%の確信があるので私はキリスト教徒ですと公言してはばからないのです。
永遠の命の意味を探すのは無駄な努力です。それを信じるように努力するほうが良いのです。
それは毎日、朝、昼、晩の食事の前に毎回短く声をあげて祈ると、信じられる瞬間が増えて行きます。
私は家で食事をするときは必ず、「食前の祈り」を声をあげてします。外食のときは声を上げません。
その時、「私は永遠の命を信じます」と唱えて下さい。
すると少し信じられるようになります。
ですからこの文章を書いている間だけは、「永遠の命」を信じています。
信仰は訓練で少しずつ得られます。ミサに出席することも宗教的訓練です。祈りを唱えることも訓練です。聖歌の練習も宗教的な訓練です。
訓練や修行で悟るのはすべての宗教で共通なことです。
洗礼を受けることも訓練です。
信仰とは理論的に考えるよりは、宗教的な訓練をすると得られると私は信じています。
これが答えになっていない私のお答えです。
ご質問を頂いて有難う御座いました。(終わり)
下の写真は長崎の大浦天主堂を少し変わったアングルから私が今年、撮った写真です。
昨日、日本の豪華客船は海外に比較してひどく弱小過ぎる・・・その文化的背景を考える という記事を書きました。そして何故、日本には豪華客船があまり受け入れられないかという文化的背景を書くつもりでした。しかし紙面の都合でこの問題は今日、ここで書くことにします。
豪華客船に乗って楽しむ趣味は日本人にはなじみにくい趣味と思います。
世界の豪華客船の年間利用者は2000万人と言われていますが、日本人はたったの18万人前後です。その数は過去25年間横ばいです。増加しないのです。
海外の豪華客船は22万トンと巨大な船を含めて数百隻もありますが、日本には4隻しかありません。
一方、私はヨットの趣味を25年間していました。
その25年間で日本にあるヨットの数が増加しないのです。急に絶滅する趣味ではありませんが、ヨットの数が少しずつ減っているようです。私は何故ヨットの趣味が日本人になじまないか深く考えてきました。
何故豪華客船やヨットの趣味が日本文化になじまないのでしょうか?
まず結論を書きます。
その原因は、日本人が1ケ月あるいは2ケ月という長期のバカンスを許さない社会文化を持っていることです。それが長期の船旅やヨットの趣味が増えない直接的な原因だと思います。
それでは、何故長期のバカンスが日本で普及しなのでしょうか?
それは欧米人と日本人の人生観や職業観の大きな相違に由来するのです。
江戸時代の末期まで、働く日本人は盆暮れ以外は休みません。
明治の文明開化で土曜日が半ドン、日曜日は休みになりました。最近は国民の祝日も数が増え、休みになりました。しかし現役の日本人は長期のバカンスをとれません。とると出世しないのです。会社で白い目で見られるのです。
そして昔も現在も、日本人にとって職業はその人の人生の全てを捧げるべきものなのです。ですから仕事の邪魔になるような趣味は罪悪でした。
勿論、日本人もいろいろですから、趣味に一生を費やす人もいます。そかしその数は非常に少ないのです。
一方欧米人の多くの人は、趣味こそが自分の個性を発揮できる重要なものと信じています。個性を大切にする文化です。
すると職業はその趣味の費用を得る手段になります。当然、全人生を職業へ捧げる人は非常に少なくなります。
長期のバカンスは個人の権利として認められる文化なのです。
勿論、どんな国にも例外はあります。職業へ人生を捧げる欧米人も沢山います。しかし大多数はそうではありません。
以上の理由に加えてもう一つの彼我の文化の大きな相違があります。
欧米人は船に乗って楽しむという文化を持っています。
日本人は船は漁業に使うか物資を運ぶ仕事以外に使ってはいけないという牢固とした伝統を持っています。
この違いは25年間のヨットの趣味をしている間に身に沁みて体験しました。
ヨットに乗っていると海上では漁船や貨物船が優先です。欧米では帆船であるヨットが航路の優先権をもっているのに、日本ではヨットが舵を切って、航路をあけなければいけません。ヨットは遊びで、他の船は仕事をしているので当然と考えます。
港に入ればヨットは一番不便な、港口に近い岸壁に停めるのが原則です。絶対に漁船の邪魔をしてはいけません。
岸壁で舫いロープを整理していると、釣り人が近づいてきます。
そしてこの船は沖で釣りを楽しむために持っているのかと聞いてきます。
私が釣りはしません。帆走を楽しむのですと答えると、いささか軽蔑したようにあいまいな笑顔をして去って行きます。釣りをしないのに船を持っていることがどうしても理解できないのです。
豪華客船に乗って遠洋を渡りながら美味しい食事を楽しむ。レストランの大きな窓の外には果てしない海が白波を立てている。船の上ではゆったりと時間が流れて行きます。それだけを楽しむのが客船に乗る趣味です。
その上豪華客船は一日5万円くらいするのです。
日本人は揺れる船上よりも温泉地の高級な旅館に泊まったほうが良いと考えます。そのせいで日本の客船にだけは大海が見えるように大きな窓をつけた大浴場がついています。
欧米人と日本人の趣味の違いは人生観の違いによって生じるのです。根が深いのです。ですから船会社が豪華客船の旅をいくら宣伝してもお客は急には増えません。それは金額のせいではないのです。
それぞれの国々に違った文化を大切にすると、この地球は住んで楽しい惑星になると私は信じています。しかし他国の趣味も理解することも大切なことと信じています。
下に横浜の大桟橋に停泊しているサン・プリンセス号の写真と私が帆走を楽しんでいたヨットの写真を示します。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
上の写真は、横浜の大桟橋に停泊しているサン・プリンセス号です。
下の写真は、私が帆走を楽しんでいたヨットの写真です。
この前の記事で水木りょうさんのお兄さんがシベリア抑留で洗脳されたと書いています。
そこで以下に、JJ太郎著、「赤化洗脳された日本人」 をお送りいたします。
出典は、http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2011/08/post-cea9.htmlです。
昭和20年(1945年)の終戦後、日本軍人、民間人約60万人がソ連のシベリア、モスクワ近郊、北極近く、中央ロシアなど約2000箇所に抑留されました。抑留者には強制労働だけではなく、赤化洗脳の嵐が待っていました。昭和21年(1946年)から「民主運動」の名目で実施されました。「スターリンを選ぶか天皇を選ぶか」と問われ、天皇と答えたものは「帰国させない」「反動は白樺の肥料だ」と脅迫を受けました。食事、睡眠、用便の時間を与えないなどの拷問も行われています。洗脳されてしまった人は内地に引き揚げた後、東京代々木の日本共産党本部に大挙して挨拶に行きました。
静岡市の大木幸雄さんはシベリア抑留中、「友の会」という共産主義の勉強会がはじまり、「友の会」の指導で「青年行動隊」が組織され入隊していたそうです。しかし、「一緒に祖国の土を踏もう」と誓い合った戦友が「桜劇団」(資本主義の産物と言われた)を組織しました。「友の会」の幹部は戦友に対して「反動分子」のレッテルを貼り、圧力・嫌がらせが陰に陽に露骨になっていきました。大木さんは悩み、そして自決を決意し、まさに実行に移そうとしたそのとき、戦友が「彼らの圧力に屈するな」「民主運動は要領よくやればよい。日本へ生きて帰ることを考えよう」と励まされ、思いとどまったといいます。大木さんの手記では収容所内は「革命だ!祖国日本を救え!」で埋め尽くされ、まさに革命の坩堝(るつぼ)と化したと述べています。
この洗脳はシベリアに抑留された兵士だけでなく、中共でも行われています。山西省の日本軍は敗戦後も国府軍として居残り共産党ゲリラと戦い、これが滅法強かったため、毛沢東は恨みに思い、ソ連に抑留されていた日本軍精鋭の残存兵を強引に引き取ります。そして撫順(ぶじゅん)に洗脳学校を作り徹底的に洗脳します。共産党を礼賛し、毛沢東革命をたたえ、日本を貶める。改竄された歴史を教え込みます。日本人将校の中には自尊心が許さないとして自決するものも何人か出ました。こうして洗脳された日本人は帰国して731部隊、万人杭、三光作戦など組織的に流布されるようになります。ちなみに三光作戦の「光」に殲滅、皆殺しの意味を持つのは支那語であり、日本語には明るい意味しかありません。中日辞典をひけばわかります。日本軍は支那語の作戦名などつけません。
こうして洗脳された日本人はやがて引き揚げて日本の地を踏むと「赤旗の歌」や「インターナショナル」を歌い、排除しようとすると「天皇島上陸」などと叫んで、肩を組んで歌う者や、ソ連仕込みの怪しげなコザック踊りを始めたといいます。迎えにきた共産党員や労働組合員たちが一緒に騒いで全く手がつけられなかったといいます。
もっとも皆が皆、洗脳されたというわけではなく、ノーボイリンスカヤに抑留されていた上田宗雄さんの手記によると洗脳は「壁新聞」からはじまり、「ソビエト人民の歩んだ道」という本を回し読みさせられ、ちょっとでも批判すると吊るし上げられるので、理解したフリをしたと述べています。誰も「民主運動」家たちのいうことは信用せず、引き揚げ船にのる前のナホトカの収容所でも「民主運動」の波はひどいものでしたが、一応、かみしめたように見せかけガマンしていたそうです。
参考文献
オークラ出版「拉致と侵略の真実」西村幸祐(編集)
産経新聞社 別冊正論「遥かなる昭和」
参考サイト
平和祈念展示資料館 シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦(抑留編) http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/index.html
WikiPedia 「中国山西省日本軍残留問題」