後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本にいた少数民族、アイヌ民族の文化と私のアイヌの友人への追憶」

2024年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道に旅をすると、あちこちにあるアイヌ民族の博物館を見ます。
昔アイヌ村落のあった日高の平取や白老、そして旭川の郊外などには民族博物館があります。アイヌ村落を復元した展示もあります。北海道大学の付属植物園の中にある博物館にはアイヌ民族関連の数多くの展示物もあります。函館市にもアイヌ文化を展示した博物館もあります。
博物館の展示だけではありません。第二次大戦の終戦までは、北海道にはアイヌ人達だけの村落があちこちにあったのです。しかし戦後、アイヌ人だけの村落は次第に消えて行ったのです。
アイヌ人は土地を奪われ、狩猟を禁止され、川を遡るサケを捕ることさえも、禁止されたのです。ここで北海道のアイヌ民族の写真を示します。
(1)北海道に以前住んでいたアイヌ民族の写真
写真は順に、アイヌ人の家、丸木舟、家の中、正装した男達、踊っている女達、2枚の集合写真です。
写真で正装したアイヌ人達だけですが、普段は日本人と同じ着物を着ていました。


写真にあるようなアイヌ独特の着物は鎌倉時代以降にアイヌ文化が成立していくうちに出来たアイヌの正装です。この服装はアイヌ部落が消滅して行く終戦後まで北海道で見られたのです。
しかし1945年の終戦になると、北海道のアイヌ人たちはより良い生活環境を求めて東北地方の開拓地などに移住して来たのです。その結果、私は一人のアイヌ人と友人になったのです。以下でその話を致します。
(2)私のアイヌ人の友人の追憶
私は仙台市に生まれ育ちました。その仙台へもアイヌ人一家が移住して来たのです。私の家の近所の雑木林を切り開いて生活をしようとしていたのです。私はそのアイヌ人の一家の少年と仲良くなります。
仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまいました。二度と会えません。87歳になった現在でも、その頃の事をよく思い出します。
終戦後の小学5、6年のころ、私は仙台市の郊外の向山という所に住んでいました。小学校の裏山にある開拓部落の一軒にアイヌ人家族が移住して来たのです。その一家には同じ年ごろの少年がいたのでよく遊びに行きました。トタン屋根に板壁、天井の無い粗末な家の奥は寝室。前半分には囲炉裏があり、炊事や食事をしています。建坪が10坪くらいの小さな家でした。
父親は白い顔に黒い大きな目で豊かな黒髪に黒髭でした。母親も黒髪で肌の色はあくまでも白いのです。
私の付き合っていたアイヌ一家の夫は最後の写真の右端の男のような風貌でした。私の友人は真ん中の少年たちのように見えました。
一家の人々の服装は日本人と同じでしたが、色が白く、目鼻立ちの彫りが深く、滅多に声をあげない静かな人々でした。
私が仲良くなった少年は学校に来ません。遊びに行くと、1人で家の整理や庭先の畑の仕事をしています。無愛想でしたが歓迎してくれているのが眼で分かります。夕方、何処かに、賃仕事に行っていた両親が帰って来ます。父親が息子と仲良くしている和人の私へほほ笑んでくれました。それ以来時々遊びに行くようになります。アイヌの一家はいつも温かく迎えてくれます。いつの間にか、アイヌの少年と一緒に裏山を走り回って遊ぶようになりました。
夏が過ぎて紅葉になり、落ち葉が風に舞う季節になった頃、開拓部落の彼の家へ行きました。無い。何も無いのです。忽然と家も物置も消えているのです。白けた広場があるだけです。囲炉裏のあった場所が黒くなっています。黒い燃え残りの雑木の薪が2,3本転がっています。
アイヌ一家にはなにか事情があったのでしょう。さよならも言ないで消えてしまったのです。これが、私がアイヌと直接交わった唯一回の出来事でありました。70年以上たった今でもあの一家の顔を鮮明に覚えています。
消えてしまった私の友人一家も住み慣れた北海道に帰ったのでしょう。

今日は今は消滅したアイヌ民族の写真を示しました。そして私のアイヌの友人への追憶を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「生涯続けた面白い趣味の話と台湾の少数民族」

2024年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム
生涯、面白くてやめられない趣味があります。趣味にはいろいろありますが、私が続けてる趣味は少数民族の暮らし方を調べる趣味です。
例えばアイヌや琉球人の歴史や暮らし方を調べます。中国の少数民族のことを調べます。
そして日本人の歴史や現在の暮らし方と比較します。
以前はアイヌや琉球人や他の少数民族に関する本を手当たり次第買って読んでいましたが、最近はインターネットを駆使して調べています。便利な世の中になったものです。
この興味が尽きない趣味は若い頃読んだルース・ベネデクト著の「菊と刀――日本文化の型」によって始まったのです。火が付けられたのです。
この趣味は一般にはつまらない趣味と思われるかも知れません。しかし私にとっては一生、興味が尽きない趣味なのです。私に元気と勇気も与えてくれる趣味なのです。
今日は少数民族の暮らし方を調べる趣味とはどういうことなのか分かり易く説明しようと思います。
さてルース・ベネディクト(Ruth Benedict)は1887年にニューヨークで生まれ、1948年に61歳で亡くなりました。
日本文化を説明した『菊と刀ー日本文化の型』の著者として戦後の日本で大変有名なった人です。
私はこの本を読んで衝撃的な感動を受けました。この一冊の本が私の趣味の出発点になったのです。
なお『菊と刀ー日本文化の型』 の概略は末尾の参考資料に紹介してあります。
世界の少数民族の一つの例として以下に台湾の少数民族をご紹介したいと思います。
台湾には16民族、49万人の原住民がいて専用のテレビ局もあり保護されているのです。
台湾の中華民国の政府もこれらの少数民族を丁寧に保護した結果、その総数は増加しています。1929年に14万人余りでしたが現在は49万人まで増加しています。
台湾は1600年代オランダの植民地になると対岸の福建省から多数の漢人の移住が起きましたが、それ以前は原住民だけが住んでいたのです。なお原住民は差別用語として日本のマスコミでは先住民と呼んでいます。しかし台湾では原住民と呼んでいるので、それに従いました。他意が無いことをご理解下さい。
それでは早速、現在の台湾の原住民の写真をご覧ください。
1番目の写真はある原住民族の写真で、その出典は、「台湾の少数民族の写真」からです。
台湾の原住民族の写真に写っている人々は心から楽しそうにしています。屈託の無い表情をしています。
2番目の写真はアミ族の陳海琳さん(21歳)の写真です。写真の出典は、http://hosyusokuhou.jp/archives/45019854.html です。
台湾を代表する美女を選出する「第8回ミス台湾」決勝大会が2015年に高雄市内で行われ、台湾原住民のアミ族の陳海琳さん(21歳)がグランプリに選ばれたのです。 そしてミス世界コンテストへ中華民国代表として参加したのです。
以下は台湾政府認定の16の少数民族と人口です。

セデック族統計無し。
アミ族(阿美族、アミス族とも、大部分は自称を流用して「パンツァハ族」とも呼ばれる) 175,157人
パイワン族(排湾族) 84,446人
タイヤル族(泰雅族、アタヤル族とも) 82,273人
タロコ族(太魯閣族、トゥルク族とも、アタヤル族に含められることもあったセデック族の一支) 24,001人
ブヌン族(布農族) 49,529人
プユマ族(卑南族) 11,100人
ルカイ族(魯凱族) 11,509人
ツォウ族(鄒族) 6,517人
サイシャット族(賽夏族) 5,623人
タオ族(達悟族、雅美族〈ヤミ族〉とも) 3,448人
クバラン族(噶瑪蘭族)(カヴァラン族) 1,124人
サオ族(邵族) 637人
サキザヤ族(撒奇莱雅族) 5,000 - 10,000人
セデック族(賽徳克族) 6,000 - 7,000人?
カナカナブ族(卡那卡那富族) 500 - 600人?
サアロア族(拉阿魯哇族) 400人?
その他 265人
申告なし 32,859人
そして地図に各民族の主な居住地を示しています。
3番目の写真は各民族の主な居住地です。この図面の出典は、「台湾原住民」です。

さて台湾も日本も中国の東の大海に浮かぶ大きな島です。日本では大和朝廷が遣隋使や遣唐使を送り中国の政治や文化を導入しました。漢字も導入しました。
しかし台湾は17世紀まで文字の無い文化圏だったのです。この比較を考えるといろいろな感慨を覚えます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==========================
「ルース・ベネディクトの『菊と刀――日本文化の型』 の内容の概略」
(http://digitalword.seesaa.net/article/33551448.html より抜粋、転載)

題名の『菊と刀』の「菊」とは「美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす」ということであり、「刀」とは「刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する」ということである。「菊の優美」と「刀の殺伐」のシニカルな二項対立を浮き彫りにしている。ルース・ベネディクトは『日本人の矛盾した二面性』を象徴的に表現するために菊と刀というシンボルを選択したわけだが、『日本人は類例のないほど礼儀正しいが、同時に、この上なく不遜で尊大である』という風に日本人の二面性を文章化している。日本文化に歴史的に根付いているこの二面性・矛盾性の特徴は、東洋的な中庸の徳を実現しようとする複雑な人生のあり方をティピカルに示唆したものでもある。日本人は両極的な価値観を呈示しながら、その均衡点あるいは逸脱点(死)に独自の透徹した美学を見出したのである。
・・・・・キリスト教文明圏に生きる西欧人の行動規律が『罪の文化』にあるとすれば、儒教文明圏に生きる日本人の行動規律は『恥の文化』にある。西欧人は神と一対一で向かい合って『内面的な罪悪感(罪を恐れる去勢不安)』によって自律的(自発的)に善悪を判断するが、日本人は社会(世間)の人々の視線を感じ取り『外面的な世間体(恥を恐れるプライド)』によって他律的(強制的)に善悪を判断する。日本人にとって最も重要なのは、自分がその行為を悪いと思うか否かではなく、社会生活を営む周囲の他者が『自分のことをどう評価しているか?自分のことを軽蔑したり批判していないか?』である。 ・・・以下省略。
ついでに中国の少数民族の一つ、の写真を示します。

4番目の写真は中国にいる多数の少数民族の一例です。写真の出典は、https://www.afpbb.com/articles/-/3318342?pno=2&pid=22864460 です。

「山に咲く桜を探して秘境、檜原村に分け入った思い出」

2024年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
何年も前のことですが、妻が吉野山の桜を見たいと言うので、はるばる訪れたことがあります。遠方の山の中に桜木が程良く散在し、満開になっているのです。険し過ぎない山並みの暗い色の樹々が白や薄紅色の桜の花を浮きたてています。その風景は華麗でもあり、心を雄大な気分にもさせてくれます。
それ以来、東京の近隣の奥多摩や高尾山系の山々の桜を注意深く見るようになりました。
そうしたら吉野山のように山林の中にソメイヨシノの木を植林して櫻花を楽しんでいる場所を数カ所見つけました。その場所は人の住む集落の傍です。ソメイヨシノは種からは育ちません。ですから野鳥が運んだ種で育った桜木ではないのです。里人が何十年もかけて苗木を植え、周囲の雑草を刈って育てたのです。その上、山の形や雑木林のたたずまいに調和するように配置して植えたのです。山里の人々の心の豊かさが偲ばれます。
そんな山の桜の写真をお送りいたします。全て自分が撮った写真です、
1番目の写真は東京の西端にある檜原村へ入ってすぐの、養沢の展望台から見た対岸の山林の中に咲いている桜の写真です。
2番目の写真は山の桜の近影です。もっと近くから山の桜の写真を撮ろうと養沢を遡っていったら沢の向こうの暗い針葉樹林の中に燦然と咲いているソメイヨシノを見つけました。
3番目の写真はマスのルアー釣りの場所に差し掛かる桜の写真です。この養沢に沿って集落が幾つかありますが桜が好きな人々が住んでいたらしく、道路沿いに桜の花が沢山咲いているのです。その桜が養沢の方にも伸びて風情ある風景を見せてくれます。
4番目の写真も養沢の向こう岸の林の中に最近、植林した桜の写真です。まだ木が若いので花も楚々としています。
5番目の写真は養沢に沿った道路の風景です。山里らしい倉のある家とその足元の紫色が美しいミツバツツジと、さらに遠方にサクラの花が写っています。

数年前までは、都内のサクラが散ってしまった頃に奥多摩に山のサクラを見に行きました。我が家の恒例の行事のようなものでした。
ヤマザクラはもっと後に咲き出します。若葉のかげからちらちら櫻花が見えるヤマザクラも良いものです。

檜原村(ひのはらむら)は、東京都の多摩地域西部にある村で、島嶼部を除いた東京都の本州における唯一の村です。
村は山地の中にあり、多摩川の支流である秋川上流の周辺に集落が散在しています。
運転免許を返上したのでもう奥多摩の山に咲く桜は見に行けません。山に咲く桜を探して檜原村に分け入った思い出だけを楽しんでいます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日は都立野川公園まで行って来ました」

2024年04月29日 | 日記
都立武蔵野公園を根気良く東へ行き、都立野川公園まで行って来ました。野川公園は遠いのでたまにしか行きません。
今日は新緑が綺麗なので遠方まで行って来ました。
爽快な気持ちになりました。
写真は都立野川公園の西口付近の風景です。

野川公園の東西を東八道路が横切り、その北側を野川が西から東に流れています。この公園には武蔵野の雑木林が多く残っています。

「庭の卯の花の写真をお送り致します」

2024年04月29日 | 写真
今年も庭の卯の花の咲く季節になりました。
この花を見ると、卯の花の匂う垣根に…という歌を小声で唄います。良い季節です。
『夏は来ぬ』
卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ

『夏は来ぬ』は、作詞:佐佐木信綱、作曲:小山作之助により1896年に発表されました。


「花々が咲く季節、日本人が好きな花のランキング」

2024年04月29日 | うんちく・小ネタ

花々が咲く季節になりました。良い季節です。うちの狭い庭にも10種以上の花が咲いています。花の好きな家内が植えた草花や木です。

そこで日本人が好きな花は何か考えてみました。日本人が好きな花のランキングを調べてみました。そしたらNHKの放送文化研究所の調査を見つけました。
2007年に全国300地点、16歳以上の国民3,600人を対象に今の日本人が好きだと感じているものの調査です。
好きな花ベスト20のランクです。ランクの高い順に示します。
桜、チューリップ、ばら、コスモス、ひまわり、梅、らん、すずらん、ゆり、あじさい、カーネーション、すみれ、朝顔、菊、シクラメン、つつじ、すいせん、菜の花、ふじ、桃でした。
こういう統計では桜が必ず1位になるのが特徴です。前の1983年と比較すると順位の変化もさることながら、桜以外の花が好きだと回答した人の比率がいずれも低下しているのがまず目立っています。
 順位の変化としては、「花」では、らんやすみれなどの上昇と菊やつつじなどの低下が目立ちます。要するに昔流行った菊やつつじなどに代わって洋花が人気なのです。

1番目の写真はNHKの放送文化研究所の調査結果です。花々の他に好きな木の調査結果も示してあります。

さて考えてみるとこのような調査結果は年齢層や男女によって大きく変ると思います。そこでいろいろな組織が行った調査結果を調べてみました。そうしたらどれも櫻の花が1位でした。しかしその他の花は順位が入れ替わっています。一つだけ例として示します。

2番目の写真は日本リサーチセンターの調査結果です。(https://www.nrc.co.jp/report/191119.html#:~:text=1%E4%BD%8D%E3%80%・・・)

櫻の花が1位ですが他の花の順位は変わっています。

どの調査でも櫻の花が1位という事実は驚きです。日本人は桜に関する歌や物語を幼少の頃から知っています。第二次世界大戦の時は特攻隊は桜が散るように自分の命を犠牲にしたのです。小学校に初めて入学する頃は桜が咲いています。桜花はいろいろと日本人の心に深く刻みこんでいるのです。

他の花々は庭や家の中の花瓶にある身近な花です。好きな花です。それでは美しい花々の写真を示します。写真は順順にチューリップ、ばら、コスモス、らん、すずらん、ゆり、すみれの花々です。

今日は日本人が好きな花のランキングをご紹介致しました。

それにしても花々が咲く季節になりましたね。良い季節になったのです。嬉しいです。 

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


「今日の復活節第5主日のミサは広島市のカトリック幟町教会からの動画配信であずかりました」

2024年04月28日 | ブログ
カトリック幟町教会の今日の復活節第5主日のミサにあずかりました。
司式は伊藤正広神父さまでした。
カトリック幟町教会のミサの風景写真をお送り致します。

「2024年4月28日 復活節第5主日のミサ動画配信」

2024年04月28日 | ブログ
2024年4月28日 復活節第5主日のミサ動画配信です。
広島市のカトリック幟町教会のミサ動画配信,のご案内です。

今日のミサの動画配信は、
https://www.youtube.com/@noboricho です。
第1朗読 使徒言行録 9章26~31節
第2朗読 ヨハネの手紙一 3章18~24節
福音朗読 ヨハネによる福音書 15章1~8節

添付の写真は広島市のカトリック幟町教会です。
広島県広島市中区幟町4-42
電話 082-221-0621 FAX 082-221-8486



「北海道にあった幻のまちキラク」

2024年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の東部の野付半島の先端にキラクという幻のまちがありました。「江戸時代から明治の初期にかけて、野付半島の先端に港町として栄えた「キラク」という街があったのです。武家屋敷が立ち並ぶ街の道は敷石で整備され、遊郭があって女性もたくさん住んでいたのです。
 
それを説明した文章をご紹介致します。
https://kai-hokkaido.com/feature_vol44_episode1/ にあります。

「幻のまちキラク」
知床半島と根室半島のちょうど中間あたりに、地図上で見ると釣り針のような形をした全長28km、日本最大の砂嘴、野付半島がある。ドドワラ・ナラワラの特異な景観、水と緑と野生鳥獣、湾内に生息するホッカイシマエビの打瀬舟漁などの風景は多くの観光客を魅了している。

今でこそ人けのない荒涼としたこの半島に、かつては人々の喧騒が存在したという言い伝えが残っている。昭和39(1964)年に北海道大学探検部が行った調査報告書によると、「地元の人々にキラク町と呼ばれている場所ある。キラクの由来は気が楽になるところと言う意味で、この附近の人々のための歓楽の場があったことに由来するらしい」と記載されている。

野付が文献に現れる記録として、『津軽一統誌』(寛文10年)がある。その22、3年前の記録として、「みむろよりのしけ着。是よりらっこ島くなしりへわたり申候」、野付崎から国後島へ渡っていたことを示すものである。寛政10(1798)年、択捉島に「大日本恵登呂府」の木碑を建てた近藤重蔵の一行も帰路野付に渡っており、この時、ニシベツ(別海町本別海)や標津から働きにくる人々の漁番屋が多く野付にあったと記録している。

寛政11(1799)年に蝦夷地を直轄した幕府は、陸路・海路の整備を急務とし、野付には国後島へ渡るための中継点として野付通行屋が設置された。通行屋のほかに蔵などもあり、ロシア南下に備えて警備した武士もいたようである。通行屋には、支配人(番人)がいて、妻同伴で仕事をし、ほかにアイヌが8ほど詰めていた。渡海用の船が用意してあり、賃銭も決まっていた。「加賀家文書」のほとんどを書き残した加賀伝蔵は、安政年間頃(1854~1859)支配人を勤めている。

国後島へ渡海する武士たち、箱館奉行の蝦夷地巡回一行、蝦夷地を探検していた松浦武四郎、種痘のために江戸から来た医師、商人の世話など数々の業務をこなし、アイヌの人々と畑を拓いていたことなどを記録に残している。

野付通行屋の南側にあたる外海は鰊漁場で、春になると根室場所の各番屋から人々が集まり漁に従事した。漁番屋や蔵などを建て、50~60軒前後の建物が立ち並んでいたようである。
人々の言い伝えによって「キラク」と呼ばれている場所は、平成15(2003)年~17(2005)年に別海町教育委員会により発掘調査が行われ野付通行屋跡と確証を得ている。鰊漁の漁番屋も漁業施設と思われる遺構や生活用品などの遺物から野付番屋跡の存在を裏付けるものである。

このように文献資料には「キラク」についての記録はなく、地元の人々によって語り継がれている言い伝えということでしか、説明ができない。現段階では、こういった経緯が幻の所以というところであろうか。・・・

写真は野付通行屋跡遺跡(1999年)です。
 

「世界遺産の知床半島周辺の美しい風景写真」

2024年04月27日 | 写真
道東の知床半島は世界遺産に登録されている国立公園です。
知床半島周辺の美しい風景は知床五湖、オシンコシンやカムイワッカの滝、夕陽の綺麗なプユニ岬、秘境感満載の羅臼湖などがあります。
ここでは、イワウベツ川、知床五湖、オシンコシンの滝、羅臼湖・三の沼の順に写真をお送り致します。
写真の出典は、https://www.pixpot.net/al_lists/dview/117/hokkaido-sp です。
夏になると知床半島に美しい花々が咲きます。その写真もお送り致します。
写真は「知床半島に咲く花々」を検索してインターネットにある写真をお借りしました。
 


「覚えていらっしゃるでしょうか下村湖人の書いた『次郎物語』」

2024年04月26日 | 写真
昔、下村湖人の書いた『次郎物語』読んで感動しました。しかし内容の具体的なことは忘れました。小金井市には下村湖人が『次郎物語』を執筆した家があります。「浴恩館」は小金井市が保存し公開しています。その屋敷跡には巨木が茂り大きなツツジが綺麗な花を咲かせています。新宿から開館と同時に移植したツツジです。先程「浴恩館」とツツジと巨木の写真を撮って来ました。その写真をお送り致します。


次郎物語の簡単なあらすじ;
内容説明 次郎は生後まもなく里子にだされ、五、六歳になって実家に帰ってくるが、自分に対する家庭の空気が非常に冷たく感じられ、乳母が恋しくてたまらない。 大人の愛に飢える次郎は、周囲に対して反感をいだいて、わざと噓をついたり、乱暴をするようになる。 つらい運命に耐えながら成長する次郎の姿を深く見つめて描く不朽の名作。
昭和11年に書き始め、昭和29年に完成しました。

 下村湖人
明治17年(1884)佐賀県神埼郡千歳村(現神埼市千代田町)に内田家の次男として生まれる。  下村は婿養子先の姓、湖人はペンネーム。
生母が病弱で母乳が足りなかったため里子に出され、4歳のときに戻された。
 中学時代から内田夕闇(うちだゆうあん)の名で中央の文芸雑誌に詩歌や短歌を寄稿、年少詩人として認められ、文学者を志したが大学卒業後、家庭の事情で大いに嘱望された文学の道を断念し、帰郷して学校教育に専念した。
 母校佐賀中学校教師や鹿島中学校校長等を歴任。教職辞任後は、同郷で高校・大学同窓の田澤義鋪(たざわよしはる)に従い、小金井市の日本青年館別館[浴恩館」に設置された大日本青年団講習所の所長となる。
 その後の半生は、勤労青年を対象にした社会教育と文筆の世界に生き、文学と教育の両分野に大きな功績を残した。
また、鹿島高等学校、唐津高等学校の校歌の作詞もてがけている。
 湖人の代表作「次郎物語」は、自伝的小説といわれ、ラジオ放送や映画化もされ、ベストセラーとなった。
 「次郎者語」は第7部までを予定していたが病を患ったため果たせなかった。昭和30年(1955年)71歳で病没す。 

次郎物語の原文は下記にあります。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001097/files/42692_21002.html 

「北海道の野付半島に咲くハマナスと赤い実の写真」

2024年04月26日 | 写真
野付半島のトドワラに咲くハマナスと赤い実の写真をお送り致します。
背景に16Km沖にある国後島が写っている写真もあります。
写真は「野付半島に咲くハマナス」を検索してインターネットにある写真をお借りしました。