後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

随筆、大月 雄喜章著、「落水ーヘリコプターが神様に見えた」

2021年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム
はじめに、
今日ご紹介する随筆は『ヘリコプター・ジャパン』の2021年02月・03月 合併号に掲載されたものです。私の友人の大月 雄喜章さんが書いたものですが、この欄にも転載して頂くようにお願いいたしました。
落水という海難事故にあったらどのように対処したら良いか書いてあります。そして救助活動をした千葉県警水上警察や海上保安庁の働きぶりが正確に書いてあります。
この随筆は海難事故に関する貴重な体験記です。転載を快く許可してくれた大月 雄喜章さんへ感謝しつつ以下にお送りいたします。後藤和弘

===随筆、大月 雄喜章著、「落水ーヘリコプターが神様に見えた」===
平成16(2004)年7月25日(日)は晴天で暑く、東京湾北部は風が強かった。気象に関する注意報、警報は出ていない。仲間のドタキャンで、私は一人で自艇「ロスミナ-Ⅱ」に乗り、千葉市いなげの浜沖5㎞、観潮塔付近の海上にいた。ギラつく真昼の太陽がまぶしい。
数日前から直前までの天気予報でも、稲毛沖で南西から南南西の風最高7 m/s、波高1.5~2m、満潮10時、干潮18時。出港届は出港11時、帰港16時ごろ、乗員1名、緊急連絡先自宅、携帯電話番号、航行範囲はいなげの浜周辺、燃料20リッター満タン・・・etc。
今日はソロだが、気象海象はこれ以上悪くはなるまいと判断する。

1番目の写真は大月 雄喜章さんのヨットの「ロスミナ-Ⅱ」です。

主帆を揚げるのにかなり苦労したくらい波がきついので、前帆は安全のため揚げない。しかし危険なほど悪い情況とは思えず、主帆のみで飛ぶように走る。海面はかなり悪く、出港直後からしぶきが激しくてびしょぬれ。しかし、ジャジャ馬慣らしのような操縦感覚は捨てがたい。私はまだ豪快なオーシャンスポーツと、ワインを楽しむ余裕があった。
フネを止めて昼食にするも、ゆれが激しく食べられない。走り始めたら、食べかけの弁当を吹っ飛ばされた。そういえば以前、冷やし中華のスープを飛ばされて、仕方なくビールをかけて食ったが、あれは不味かった。カップホルダーのワイングラスから、せっかくの赤ワインがこぼれだす。

この時点で風は南南西およそ10 m/s、波高2mくらいか。危険とはいえないが、かなりハードな海面状況である。一面の白波で、学生たちの小型艇は引き上げたのか見えない。
早めに切りあげるべく、千葉港口の5番ブイ方面に向かう。キャビン内はもまれてメチャクチャだが、フネには特に異常はない。エンジンを微速前進に入れ、風に正対し帰港準備にかかった。舵はゴムひもで結んであるが、それでも波がきつく直進してくれない。
帆を降ろしにかかったが、風が振れて途中で引っかかった。暴れまわるフネを立直しながら、コックピットとデッキの間を何度も往復した。何度目かに引っかかった帆を解いているうち、大きい横波を食って体が右舷側に落ちかかった。

「やばい!」と立て直そうとしたが、ワインの酔いもあって踏ん張れず、体は水中に落ちた。フネのライフラインをつかんでとにかく離れないようにしたが、次の波を食らったときはあっという間に1m近く離れてしまった。15時過ぎ、引き潮の始まる時刻である。

微速とはいえ前進に入れてあるエンジンと、降ろしかけで半効きの主帆でフネは結構速い。ライフジャケットをつけ衣服を着たままでは、追いつけるものではない。体力の消耗する方を恐れた。こんなときに限ってフネは正直に直進し、港の奥に向かっている。
海水は暖かく、風と波は激しいがとにかく浮いていられる。水を飲まないように気をつけた。水を飲むと、急速に体力を失うものらしい。ライフジャケットだけが頼りだ。いつまで浮いていられるのか。幸い何処もケガや、ぶつけたりはしていないようだ。岸からはおよそ3 km、ブイまで700m位あるだろうか。

意を決して5番ブイに向かう。風と波は真向かいの方角になる。果たして行き着けるか、たどり着ければ助かる。幸い日没まではかなり時間の余裕はある。泳いでみても進んでいるのかどうか、全く判らない。少しでも疲れないように、波の静まったときを見ては「ちょっとタンマ」と休んだ。

干潮時に入り、少しずつブイが大きく見え出した。引き潮はブイへの接近を助けてくれるが、つかまりそこなったら、沖に流されてしまう。抜き手を切る腕がだるくなった。およそ50分泳いで、ブイまで数10 mにせまったが、自分自身に「あと100m」と何度も言い聞かせる。CHIBA-5GREENの標識とはしごが付いているのが見えた。1回でつかまないと、再度挑戦する気力体力が残っているか。波と風を見計らって慎重に接近した。

ブイのはしごに取りついて時計を見たら15時50分。
ブイは港の本船航路を示すもので、海底に鎖で繋がれている。頂上にはソーラーパネルを備え、夜間はグリーンの照明が点滅するという。滑りやすいはしごを注意深く登り頂きに着いたが、海面上10mではゆれはさらに大きい。ブイの頂上は腰をおろせるくらいのスペースがあり、周囲は手すりで囲まれていて、ゆれてもつかまっていれば危険はない。問題は日没である。今日はおよそ18時半ごろ。

2番目の写真は落水した場所と警水上警察や海上保安庁のある場所を示す見取り図です。

フネが港内方向に無人で走っていたのは確かなので、いずれは発見され落水事故として捜索されるだろう、という希望的観測はある。落水したとき、眼鏡を失わなかったのは、全くのラッキーだった。幸い寒くはないが風が強く、夜間になったらどうなるか。手元にあるのはブルーのタオルのみ。作業船や釣り舟が、操舵している船長の顔がはっきり見えるくらいの位置を通過し、躍起になって手を振ったが全く気づかない。

ブイは相変らず激しくゆれる。乗り物酔いはしないほうだが、このゆれ方は体験した事がない。時間だけが過ぎ16時40分、太陽は大分低くなってきた。このまま日没になったら、ここで徹夜せねばならないか。ゆれるから眠るどころではないだろう。
 海上保安庁の巡視艇らしい船や大型ヘリコプター(エアロスパシアルAS332L)、千葉県警の小型ヘリ(ベル206Bジェットレンジャー)などが、稲毛観潮塔付近を行き来しているのが見える。2機のヘリはエリアを分担したのか、観潮塔あたりの沖合いから二手に分かれて旋回し始めた。やはり捜索が始まったのだろうか。

3番目の写真は救助に来た海上保安庁のヘリコプターと同型機の写真です。

海上保安庁機は、洋上を往復しながら次第に近づいてくる。まだかなり遠いが、こちらを向いたときに遭難信号を送り続けた。しかし激しく揺れるブイ上で両手を振るのは、かなり難しい。せめて鏡でもあれば、まだ日光があるので、反射信号を送る事は出来るのだが。何回か繰り返しているうち、突然ヘリがまっすぐこちらに向かってきた。ランディングライトを点滅させている。発見された!! 17時22分。
私はヘリで捜索救助やその取材に従事した事はあるが、救助される方になってみると、ヘリが神様に見える。そのうち2艘のランチが高速で、まっすぐこちらに向かってきた。
助かった!!

千葉県警水上警察の巡視艇「いぬぼう」の新田艇長は大男で、ご自身もヨットマンだそうだ。「ヨットは水警の桟橋に繋いでありますよ。損傷はありません」という。艇内を調べて、船舶検査証から私の連絡先その他を把握したらしい。すぐに雄和マリーナに連絡が行き、出港届がチェックされた。海上の事故なので、海上保安庁の所管だそうだ。
海難事故として海上保安庁千葉支部で事情聴取を受けたが、係官は親切で応対は丁寧だった。「この電話で、まず家族に知らせなさい。こちらからすでに連絡はしてある」という。
事情聴取が終わって辞するとき「表はマスコミが詰めているから、裏から出なさい」と心遣いを見せてくれる。
そして、水警も海保も“海のおまわりさん”たちは粋でもある。新田艇長は「赤ワインの瓶が空いていましたな」とニヤリと白い歯を見せたのが、印象に残った。(終わり)

追記;落水はシーマンとして恥にこそなれ、決して自慢できる事ではない。
  後日、お世話になった千葉県警や海上保安庁に、改めて“お礼参り”に伺ったのは
  言うまでもない。(深く反省)

4番目の写真は『ヘリコプター・ジャパン』の表紙です。この雑誌のことは別の記事出ご紹介する予定です。


「今日の小金井公園の桜、満開ですが散り始めた木々も」

2021年03月29日 | 写真
青空の下の櫻花は美しいものです。今日の小金井公園の桜はまだ満開ですが散り始めた木々もあります。季節は移ろいやすく淋しく感じました。先程撮って来た写真をお送り致します。









「中国の覇権主義と欧米列強の租界への中国人の怨念」

2021年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は現在の中国の覇権主義と欧米列強の租界への中国人の怨念の関係を考えたいと思います。租界とは1840年の清国と英国の阿片(アヘン)戦争による清国の敗北後、欧米列強が中国の上海などの都会に作った治外法権の植民地のような区域です。その公園には、「犬とシナ人は入るべからず」という看板が掲げてありました。酷い差別が横行していたのです。
さて始めに4枚の上海の風景写真を見ましょう。始めの2枚は1920年代の租界のあった上海の風景です。イギリスの租界があったのでロンドンのような風景です。そして続く2枚は経済発展後の現在の上海の風景です。植民地のような上海の面影を一新しています。







イギリスは、インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得ていました。ところがアヘン販売を禁止していた清は、アヘンの蔓延に対してその全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・処分してしまいます。反発したイギリスとの間でアヘン戦争となったのは当然です。このアヘン戦争はイギリスの勝利に終わり1842年に南京条約が締結されます。イギリスへの香港の割譲の他、清にとって不平等条約でした。

5番目の写真はイギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク兵船を描いた絵です。
このアヘン戦争以後に欧米列強は中国の各地に租界を作ったのです。これで清国は欧米列強の呵責無い簒奪を受けるようになったのです。
租界とは、清国内の治外法権の外国人居留地です。阿片戦争後の1840年代以降に中国大陸各地の条約港に設けられたもので、列強各国が行政自治権や治外法権を持っていました。
大きな租界では工部局と称する自治行政組織が住民から住民税や営業税などの租税を徴収して宗主国へ上納していました。

中国のあった租界の一覧を示します。

欧州各国の租界;
イギリス - 上海(のちにアメリカ租界と合併して上海共同租界)、天津、漢口、広州(沙面島)、鎮江、九江、廈門
フランス - 上海、天津、漢口、広州(沙面島)
ドイツ - 天津、漢口
オーストリア=ハンガリー - 天津
イタリア - 天津
ロシア - 天津、漢口
ベルギー - 天津

日本の租界;
上海(公式には上海共同租界の一部)、天津、漢口、杭州、蘇州、重慶、沙市

アメリカの租界;
アメリカ - 上海(のちにイギリス租界と合併して上海共同租界)、天津

(出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E7%A7%9F%E7%95%8C です。)

日本は中国各地に租界を持っていましたが、日中戦争と太平洋戦争の武力占領により欧米列強の租界を全て解消したのです。その歴史をかいつまんで説明します。

日本の租界接収と租界の終焉;
蒋介石による北伐が開始されると、従来の権益を失うことを恐れた日本は上海租界などに対する干渉を繰り返しました。そして1931年の満州事変と翌1932年の上海事変の後に1937年にはついに中華民国との全面戦争に突入したのです。日中戦争です。
中華民国は上海を爆撃し多くの市民を殺傷するなどしましたが、緒戦の奮戦も空しく南京、武漢を相次いで失い、上海より長江を2000キロも遡った重慶に立て籠もりました。租界都市上海は日本軍の占領地になったのです。
そして1941年12月に太平洋戦争が勃発して、英米の共同租界とフランス租界が日本軍に接収されます。
こうして租界都市上海の歴史が閉じたのです。
しかし、1945年に日本が敗れまもなく国共内戦が勃発し、上海は再び戦禍を被ることとなったのです。
1949年10月1日に中華人民共和国が成立すると、数10万人の外国人資本家や、秘密結社の構成員、文化人・技術者・熟練工などが、香港に渡って行きました。そのため香港がかつての租界都市上海の繁栄を承継したのです。
その後1976年に鄧小平による改革開放政策が始まると、香港に隣接する深圳市に経済特区が建設され、香港は繁栄を謳歌するようになり急成長します。

以上のような中国の屈辱の近代史を顧みると中国の覇権主義の中には欧米列強の租界への中国人の怨念があると理解するのが自然な理解でははいでしょうか。
勿論、現在の中国の覇権主義の原因にはいろいろな国際的事情や経済的理由が含まれます。欧米列強への中国人の怨念だけではありません。
しかしある民族の屈辱の歴史を無視することは正しい歴史認識ではありません。それは危険な歴史観です。それを続けていると戦争が起き一層不幸な事態になるのです。
現在の日本は平和が76年も続いています。しかし正しい歴史認識を常に持つことが重要でないでしょうか。将来の平和を祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「日本人を愛し美味しいソーメンを作ったド・ロさまの話」

2021年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので日本人を愛し美味しいソーメンを作ったド・ロ神父さまの話をお送り致します。
話はいきなり個人的になりますが私はソーメンが好きで一生懸命たべます。家内が何故そんなにお好きなのですかと不思議がります。ソーメンが好きなので揖保の糸そうめんは勿論、三輪ソーメン、小豆島ソーメン、氷見ソーメン、などなどいろいろ買ってきて食べています。ですから九州には美味しいド・ロさまそうめんがあることを以前から知っていました。
ド・ロさまそうめんを現在でも製造している会社が長崎にあります。
その会社とは、長崎の株式会社サンフリード、http://www.sunflead.co.jp/  です。

1番目の写真にド・ロさまそうめんの写真を示します。
このそうめんは明治時代にカトリックの神父のド・ロさまによって作り始められたのです。
ド・ロさまは、明治12年(1879年)に現在の長崎市の旧黒崎村出津の里に赴任したフランス人宣教師のマルク・マリー・ド・ロ神父(1840~1914)のことです。
彼は、村人たちの暮らしが、あまりにも貧しいのに驚き、村人の生活の向上のために布教活動のかたわら障害者の為の授産所や救助院を設けます。その上、故国、フランスから小麦粉を取り寄せ、フランスに残してあった私財を投じてパン、マカロニ、ソーメン作りの工場を建て製造技術を教えました。
ド・ロさまは72歳で亡くなるまでの42年間、故郷のフランスに一度も帰りませんでした。終生、長崎の貧しい人々に優しく接したのです。信者でない人々へも等しく支援したのです。
ですから長崎の人々は今でもド・ロさまの話を言い伝え、感謝しているのです。決っしてド・ロ神父さまとは呼ばずに親しみを込めてド・ロ・さまと呼びます。
私はソーメンを食べる度に、ド・ロそうめんのことを思い出します。
話は飛びますが私の祖父は兵庫県の山郷にある曹洞宗のお寺の住職でした。
毎年、夏になると一家でこの祖父のお寺に帰省したものです。戦前、戦後の頃でした。このお寺で最高のご馳走はソーメンでした。
揖保の糸でした。祖母が大量のそうめんを茹でて大きな器に冷たい水をはり、そうめんを漬けて出すのです。祖父、祖母、そして私たちの一家5人がその器を囲んで座り、めいめいが箸でそうめんを掬いガラスのコップの中のカツブシ味のツユに漬けて食べるのです。
食べられるだけ食べてよいのです。その美味しさが私のそうめん好きの原因になったのです。
そのような事情があったのでド・ロさまそうめんには強い興味をもっていました。
そしてそれを作り出したド・ロさまにも興味がありました。
調べるとド・ロ神父さまの活躍の詳細や彼の記念館のことがネット上に非常に沢山あります。「ド・ロ神父」で検索すると出てきます。
詳しい情報は一切省略して一言で彼の行動を記します。「信者であるなしに関係なく苦しむ人々の味方になって助けたのです。徹底的に助けたのです。精魂を込めて助けたのです。」

2番目の写真はマルク・マリー・ド・ロ神父です。フランス語ではMarc Marie de Rotzと書きます、 1840年3月27日 に生まれ 1914年11月7日に亡くなりました。

3番目の写真は出津教会です。ド・ロ神父はパリ外国宣教会所属で、1868年(慶応4年)6月に来日し、長崎市外海地区において布教活動の傍ら、貧困に苦しむ人達のため、社会福祉活動に尽力しました。

4番目の写真は旧長崎大司教館です。
ド・ロ神父が設計した出津教会堂、大野教会堂、旧羅典神学校、旧大司教館および、社会福祉事業に関連する遺跡(ド・ロ神父遺跡、旧出津救助院)は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定一覧表へ登録された「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に加えられています。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/マルク・マリー・ド・ロ です。

九州の人々とフランス人のド・ロさまの絆の強さを想うと不思議でなりません。そしてソーメンのお蔭で私がド・ロさまを親しく感じるのも不思議です。このような不思議な絆がこの世にあるのですね。
今日は日曜日なのでド・ロさまの話をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「今日のカトリックの受難の主日の動画ミサ」

2021年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム
今週も教会のミサには出ません。その代わりカトリック関口教会かイグナチオ教会の動画配信ミサにあずかります。
今日は受難の主日です。2021年3月28日(日)に限定公開で行われる 『受難の主日』のライブ配信です。
10時から始まるカトリック関口教会の動画配信は、「関口教会受難の主日 - YouTube」を検索してご覧下さい。
イグナチオ教会のミサは、https://www.ignatius.gr.jp/news/streaming.html にあります。2021年3月28日(日)に行われる 『受難の主日』のライブ配信です。
イグナチオ教会はイエズス会の創始者で初代総長のイグナチオ・ロペス・デ・ロヨラの名前にちなむ名称です。
今日教会に行かない方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

今日はフランシスコ教皇の写真と略歴をお送り致します。

1番目の写真はフランシスコ法王です。(2014年8月撮影)教皇就任 は2013年3月13日でした。

2番目の写真は長崎市の原爆落下中心碑です。法王は2019年11月23日から11月26日まで日本を訪問した。ローマ教皇の来日はヨハネ・パウロ2世以来38年ぶりになった。日本二十六聖人の殉教の地である長崎市西坂の船越保武作の日本二十六聖人像「昇天の祈り」の前に安置された聖遺物「聖パウロ三木、聖ディエゴ喜斎、聖ヨハネ五島の骨」に献花し、蝋燭に灯を点け、沈黙のうちに祈り献香した。「私はこの瞬間を待ちわびていました。私は一巡礼者として祈るため、信仰を確かめるため、また自らの証しと献身で道を示すこの兄弟たちの信仰に強められるために来ました」「この場所から、世界のさまざまな場所で、信仰ゆえに今日も苦しみ、殉教の苦しみを味わうキリスト者とも心を合わせよう」と呼びかけ、ラテン語で「お告げの祈り」を唱えた。

3番目の写真は光化門広場での列福式に臨むフランシスコです。2014年8月14日にフランシスコは大韓民国を訪問した。朝鮮王朝時代の殉教者の列福の儀式をとりおこなうことと、13日から開催されている「アジア青年の日」に参加するのが主な目的である。フランシスコにとって初めての東アジア訪問であり、韓国にとっては1989年のヨハネ・パウロ2世訪問以来25年ぶりである。韓国は人口の1割に当たるおよそ500万人がカトリック信者である。

生い立ち、
ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(Jorge Mario Bergoglio)は、1936年にアルゼンチンの首都ブエノスアイレス特別区フローレス区で、イタリア系移民の子として生まれた。父のマリオ・ホセ・ベルゴリオは、ピエモンテ州のポルタコマーロ出身の鉄道職員であり、母のレジーナ・マリア・シヴォリもまたイタリア系移民の子で、ブエノスアイレス出身である。夫婦は中流の労働者階層で5子をもうけた。サレジオ会が経営するラモス・メジア・サレジオ学院(現ウィルフリド・バロン学院)を経て、ブエノスアイレス大学で化学を学び学士号を取得した。

イエズス会入会とアルゼンチン管区長に任ぜられる、
ベルゴリオは1958年3月11日にイエズス会に入会し、ブエノスアイレス特別区ビジャ・デボート区の神学校で司祭になるための勉強を始め、1963年チリで教養課程終了後、ブエノスアイレス州サンミゲル市のサン・ホセ神学院で哲学を学んだ。その後1964年から1965年にかけて、サンタフェ州の無原罪(インマクラーダ)学院で文学と心理学の教鞭を執ることになり、1966年にはブエノスアイレスのサルバドーレ学院でも同じ教科を教えた。 1967年、ベルゴリオは本格的に神学の勉強を再開し、ブエノスアイレス州のサン・ミゲル神学院に進学。

1969年12月13日に司祭に叙階された。1970年には修士号を取得。1972年から1973年の間、サン・ミゲルのヴッラ・バリラリ修練院修練長を経て、神学の教授、管区顧問、神学院院長に就任した 。 その指導力を高く評価されたベルゴリオは、1973年7月31日にアルゼンチン管区に任ぜられ、1979年までの6年間この職を務めた。・・・続きは来週に掲載します。

「小金井公園の満開の桜と花見客の写真です」

2021年03月27日 | 日記・エッセイ・コラム
先程、小金井公園に行きました。櫻は満開で花見客が大勢いました。
人々が櫻を楽しんでいます。平和な光景です。私も櫻花に酔い心地でのんびりして来ました。
今日の小金井公園の写真をお送り致します。









「老化した機能を補強する道具を使うと老境が輝く」

2021年03月27日 | 日記・エッセイ・コラム
高齢者は知らず知らずのうちに体のあちこちが老化して不幸になりがちます。目が弱くなり新聞が読み難くなります。聴力も衰えクラシック音楽の高音部が聞こえなくなります。テレビの音声も聞きづらくなります。足が衰えて遠くの公園で満開になっている櫻花を観に行けなくなります。言葉を明瞭に言えなくなり妻との会話が円滑に行かない時もあります。これは全て天の摂理ですから私は心安らかに受け入れています。
しかしその一方、老化した機能を補強する道具も幾つかあます。驚異的に素晴らしい道具です。
今日はその道具に中から補聴器という小さな道具をご紹介したいと思います。
耳が遠くなると春の庭で小鳥が美しい声で鳴いていても気が付きません。テレビの音量を次第に上げるのでコマーシャルの騒音が家中に響き渡ります。  
困った私は4年前に試しに補聴器をつけました。そうしたら、途端に日々の暮らしが一段と楽しくなったのです。
クラシック音楽の響きが感動的に美しく聞こえるのです。秋になると庭の虫の声が聞こえるのです。野山に行けば蝉や鳥の声が明瞭に聞こえるのです。車を運転している時、同乗している家内と明快に話が出来るのです。大きなテレビの騒音も防げます。高齢になると知らず知らずのうちに聞く機能が次第に低下して来るものなのです。そこで私は補聴器を買うことにしました。それ以来、4年間ほど使っています。
ところがこの補聴器の調整と使い方が難しいのです。そこで今日は補聴器とはどういうものかをご説明しようと思います。そして私が補聴器を買った専門店のブルーム武蔵小金井店をご紹介したいと思います。

1番目の写真は今私が耳につけているドイツのシーメンスの補聴器の写真です。両耳につけると音が立体的に聞こえます。この補聴器は実に軽く出来ていて四六時中耳にかけていても違和感がありません。使う場所の騒がしさによって感度を自分で調整するボタンがついています。
ブルーム武蔵小金井店ではコンピューターを使って高周波の耳ざわりな音を消してくれます。耳障りな金属音を抑えると音が心地良くなってきます。この微調整は非常に重要なのです。

2番目の写真は人間の聴力と音の周波数の関係図です。この図で重要なことは人間の聴力は年齢とともに確実に低下しているということです。そして高い音が聞こえなくなっているのです。
例えば75歳以上になれば2キロサイクル以上の音は若者に比べると非常に聞きにくくなっているのです。勿論、人間の聴力には個人差がありますが、この図面は平均値として参考にすべきではないでしょうか。85歳の私が音楽の高音部分が聞こえず、秋の虫の声が聞こえないのは自然の摂理なのです。
ブルーム武蔵小金井店は小金井駅から小金井街道を北へ300mほど歩いた「けやき通り」との交差点を右に曲がって2軒目にある店です。

3番目の写真は店長の桑原麻朝さんさんです。補聴器の専門家です。この店にはもう一人の補聴器専門のスタッフがいます。

4番目の写真は補聴器専門のスタッフの下田美保さんです。下田美保さんが無音室でいろいろな周波数の音の聴力を測定をしている光景です。その後で補聴器の感度の音声周波数特性を個人、個人の好みに合わせて調整してくれます。
補聴器を使うことの難しさは、この周波数特性を個人、個人の好みに合わせて調整することにあるのです。これを親切、丁寧にしてくれる専門家が常駐している店から買うことが重要なのです。
さて補聴器は両耳でだいたい20万円から50万円します。
ドイツ製のシーメンス補聴器は両耳で20万円からありますが、もっと高価な補聴器もあります。組み込んである微細なマイクとイヤホンの性能がより繊細に出来ているのです。そして雑音を消去する微小なコンピューターの性能がより良いのです。
補聴器は調整無しでそのまま耳につけると高周波の雑音が大きくて、すぐに気分が悪くなってしまうのが普通です。ここで諦めて、買うのを止める人も多いようです。しかし、それば20分位の調整で問題が解消します。
調整した補聴器でも、どうしても気分の悪くなる種類の雑音もあります。例えば食器とナイフ・フォークの触れ合うカチャカチャいう音は意外にも耳障りなのです。地下鉄車内の騒音、駅構内の騒音、スーパーなどの騒音などのような複雑な音は店の無音室のコンピューターが再現します。それらを聴きながら桑原麻朝さんや下田美保さんと会話をします。そうして補聴器の周波数特性を変えてもらうことが非常に重要なのです。

5番目の写真はより高級な補聴器の写真です。高価な補聴器は小さいだけでなく、嫌な騒音を制御するプログラムが搭載されています。私はドイツのシーメンスの補聴器を4年間毎日使っていますが、雑音が気になりません。快適に全ての周波数の音が聞こえます。
ですから高齢者の皆様には一度、自分の聴力の周波数依存性の測定をお薦め致します。そして試しに一週間ほど補聴器を借りて実生活でお使いになることをお薦めします。補聴器には無料の使用期間があります。
老化した聴力を補強する補聴器を使うと老境が輝くのです。補聴器を耳につけると老境がまた一段と楽しくなるのです。
詳しくは、https://www.bloomhearing.jp/ja-jp/web-campaign-all?gclid=EAIaIQobChMIlc6WxbnN7wIVwsKWCh1cigkEEAAYASAAEgJwv_D_BwE をご覧下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「深遠な愛国心(3)日本人を愛し日本の土になったニコライ」

2021年03月25日 | 日記・エッセイ・コラム
深遠な愛国心はその民族を幸せにし、浅薄な愛国心はその民族を不幸にします。これは原理原則です。
今日は日本人を愛し、日本の土になったロシア正教のニコライ・カサートキンという人をご紹介したいと思います。日本人を愛しながら彼は終生ロシアも愛していたのです。これも深遠な愛国心の一例ではないでしょうか。
ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。もっともロシアへの愛が断ち難く2度ほど懐かしい祖国へ帰ったのです。
日本に着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、上野の谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。
函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。
ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。今日はその中から一つをご紹介します。

1904年と1905年には日露戦争が続きました。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。
残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えられています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。
この時、ニコライは教書を発表し信徒を慰めます、
「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」
ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。
1912年、持病の心臓病が悪化し、天に帰りました。駿河台のニコライが住んでいたニコライ堂から上野の谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。多くの日本人がニコライの死を悲しんだのです。
明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の写真に見えます。私は葬列と沿道の人々の光景の写真を10枚持っています。ニコライ堂の売店から買って来たのです。
ニコライは明治天皇を尊敬し、深く日本の信者を愛していたのです。日本人を愛すことは「隣人を愛せ」というイエス様の教えなのです。私はニコライの愛は日本民族に対する「深遠な愛の心」だったと信じています。

今日の挿絵代わりの写真は近所の野川の櫻の花の写真です。昨日、家内が撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=======ニコライの生い立ち=========
WikipedeaNikolaikasatkin1 でニコライ・カサートキンを検索すると以下の紹介があります。ここに転載しご紹介いたします。
スモレンスク県ベリスク郡ベリョーザ村の輔祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として生まれる。母は五歳のときに死亡。ベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学。在学中、ヴァーシリー・ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられたニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、志願してその任につくことになった。在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなる。同年7月12日(ロシア暦)修道司祭に叙聖された。

翌1861年に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、新島襄らから日本語を教わる。以後精力的に正教の布教に努めた。函館にて日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)で後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨らを獲得したのち、懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行った。1869年、1879年に二度帰国。それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、神田駿河台のニコライ堂で没した。谷中墓地に葬られる。

1970年谷中墓地改修の折、棺を開けると不朽体が現れた。ニコライの不朽体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっている。

関東大震災で焼失したといわれていたニコライの日記は中村健之介によって発見され、ロシア語原文版が2004年に刊行された(Dnevniki Sviatogo Nikolaia Iaponskogo, 5 vols. St. Petersburg: Giperion, 2004)サ。注解を加えた日本語全訳は2007年に刊行(『宣教師ニコライの全日記』教文館、全9巻)。









「深遠な愛国心(1)偏狭な愛国心は不幸を招く」

2021年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前生まれの私は愛国心というものを小学校で教わりました。戦争に負けて愛国心は禍を招くと知り、愛国心を忘れようとしました。それなのにアメリカに留学したころから私の心に愛国心がふつふつと湧いてきました。それ以来いろいろな形の愛国心を考えるようになりました。そうして愛国心は折に触れて考える私の生涯の問題になりました。
今日から私が考えた愛国心にまつわる話を「深遠な愛国心」という連載記事にして書きたいと思います。その第一回は偏狭な愛国心は不幸を招くということです。
さて「偏狭な愛国心」とは自国を愛するあまり隣国を非難、罵倒し、軍事力だけに頼る愛国心のことです。それは日本へ禍いを招き、日本人を不幸にする危険な愛国心です。
それに対して「深遠な愛国心」とは国際社会の連帯のなかで同盟国と調和を取りながら、仮想敵国の危険性を最小にするという愛国心です。一番重要なことは国際社会のなかで賢明な外交を展開し、仮想敵国が攻撃出来ないようにすることです。そして軍備は戦争の抑止力になる現実を理解し、それを常に増強し維持する努力も大切です。
一方日本人は仏教に馴染んでいます。ですから深遠な愛国心ではお釈迦様の教えを思い出しながら行動をとることが良いと信じています。
お釈迦様は人や動物や全ての生き物を殺すなと教えました。ですから戦争も禁止です。
しかし敵国が日本へ攻め込んで来たら私は銃を取り戦う決心をしています。お釈迦様の教えに反して戦います。
しかし戦いながら以下のように先の大戦の間に、反戦を主張した僧侶が居たことを考えています。そして悲しみながら銃を撃ちます。
私の「深遠な愛国心」とはそのようなものです。矛盾に満ちています。
さて戦争中に国家目標に逆らって、お釈迦様の教えの尊厳を守ったある二人の僧侶をご紹介しましょう。はじめは竹中彰元住職のことです。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B8%AD%E5%BD%B0%E5%85%83 に掲載されています。
昭和12年に日中戦争反対を公言して、昭和20年の敗戦までその主張を変えませんでした。
軍刑法の流言飛語罪で禁固4か月の刑をうけましたが、仏の教えに従ってまでなので考えは変わらないと敗戦まで主張続けたのです。
さらに詳しくは「竹中彰元」を検索すると沢山の資料が出てきます。
竹中彰元を破門した大谷派は70年後に破門が間違いだったとして竹中師の名誉回復をしたのです。

さて、続いて戦争反対を主張した僧侶をもう一人を、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9C%A8%E5%BE%B9%E8%AA%A0 からご紹介します。
彼は2007年3月に80歳で亡くなった植木等さんの父親でした。知る人は少なかったのですが、植木等さんの父は筋金入りの反戦平和主義の僧侶だったのです。名前は植木徹誠と言います。三重県伊勢市の大谷派の常念寺の住職でした。
「戦争というものは集団殺人だ」などと説教していたのです。当然、治安維持法違反で逮捕です。そして4年間も投獄されていたのです。
植木等は小学生でしたが牢屋にいる父の住職の仕事を代行して、お経をあげたり檀家の世話をしていたそうです。そして牢屋にいる父へために毎日自転車で鶏卵を差し入れに行っていたそうです。
父は息子へ「等、いいか、戦場に行っても絶対に銃を撃つんじゃないぞ」と言っていたそうです。
植木等がコメディアンとして有名になった後も父の話を忘れませんでした。大部分の芸能人が自衛隊の後援会に入っていますが、植木等だけは終生入会しませんでした。
ちなみに等(ひとし)という名前は人間はお釈迦様の前ではみんな等しいのだということで父の徹誠がつけた名前だそうです。
植木等はコメディアンとして実に面白い芸を見せてくれました。
それにしても竹中彰元住職と植木徹誠住職は立派な人でした。私は深遠な愛国心というものを考える時、必ずのように思い浮かべます。
愛国心は人それぞれにその中身は違います。他人へ愛国心を持てと言ったとたん怪しい中身になってしまいます。ですから私の連載記事に賛成して下さいとは絶対に言いません。そんな気持は始めから毛頭ありません。
ただ言いたかったことは各自が深く考えた方が良いのではないかということだけです。
それにしても日本ではどうも偏狭な愛国心を叫ぶ人が多いようです。困ったものです。

今日の挿絵代わりの写真は近所の野川の岸に咲く桜と黄梅の花です。昨日、家内が撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「小金井公園の桜、今日の開花状況です」

2021年03月22日 | 写真
咲いている桜木、まだ咲いていない木が混じっていました。全体的には小金井公園の桜の開花状況は3分咲きという状況でした。しかし気の早い人々は桜の下に敷物を敷いて花見をしていました。
先程撮って来た写真をお送りいたします。









「いきなりドイツでワインの洗礼を受けワインが好きになる」

2021年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム
1969年から1年余、南ドイツに住んだ経験がありました。私が33歳の時でした。その時ドイツで初めて本物のワインを沢山飲みました。はじめて本物のワインの洗礼を受けたのです。
それまでは日本酒とビールは飲んだことはありましたが、ワインといえば甘い赤玉ポートワインだけでした。甘過ぎて小さなグラスに一杯しか飲めません。当時の日本ではワインという言葉は一般的でなく葡萄酒と言っていました。
ドイツでワインの味に魅了された私はその後、フランスのボルドーもイタリアのワインも、そして世界中のワインが好きになりました。特にワインは産地によって違う美味しさがあることに驚きました。

今日は葡萄から作ったワインの話を書きたいと思います。
私のワイン遍歴はドイツのローテンブルグという中世の町から始まりました。
酒場のガストフという古いカフェに入ると、中は暗いのですがワインの香りがふんぷんとします。「グリュ-スゴット!」(神のお加護を!)と主人へ声を掛けて、早速ワインを注文します。渋みの効いた地元のワインを注文します。
奥の左手のテーブルは男だけの地元常連客が何時もワインを飲むテーブルなのです。こうして毎晩飲んでいると、次第にドイツワインの深みが分かるようになります。
ドイツに住んでいる時、2週間の全国旅行へ出ました。フンボルト財団の主催した団体旅行で色々な国の人々15人位でした。
旅行中の全ての宿は伝統的な民宿で、地下室にケーラーというワインの貯蔵倉を持っているのです。夕食時には必ず年代物のワインの栓を2,3本抜きます。栓を抜くのは民宿のご主人で、重々しい顔でラベルの年代を読み、コルクを抜きます。
始めに一杯だけグラスに注ぎ、「主客」に出します。主客が一口飲み、しばし考えて、「美味い。少しドライだがそこはかとない葡萄の甘味もあり結構じゃないですか」などと誉めます。主人が満足げに全員のワイングラスに注いで飲み始める。
ワインに使った葡萄の品種やその年の天候などが主人から説明があり、それが終われば飲み始める前の儀式が終わるのです。この部分はあくまでも伝統的な作法であり、間違っても少し味が良くないなどと言ってはいけないのです。
南ドイツではワインの飲み方にも伝統的な儀式が出てくるのです。
この様にして私はドイツでいきなりドイツワインの洗礼を受けたのです。3枚の写真でローテンブルグという中世の町の風景をお送りします。写真のように町をぐるりと囲んで城壁の内側には遊歩道がついています。毎日のように散歩しては中世の暮らしぶりを偲んだものです。





ワインの話を書き出したら話が長くなります。全て割愛してその後に日本が本格的なワイン文化を導入した様子を示す4枚の写真をお送りします。
4枚の写真は山梨県の勝沼の「ぶどうの丘」にあるワイン・ケラーです。山梨の美味しいワインを試し飲みをしながら写真を撮りました。







最後の写真は私が買って来たフジクレール「マスカットベリーA]2008年ものの赤の写真です。勝沼町のフジッコワイナリーの醸造ワインです。廉価なワインですがマスカットの香りがして、透明なソプラノの歌声を連想させる味でした。

一般にワインの好みは人それぞれです。フランスにもイタリアにも南米にも美味なワインが多種多様にあります。とくにオーストラリアやカルフォルニアには時々アッと驚くように美味なワインがあるのです。産地が違うと葡萄の種類と味が違います。発酵の仕方や熟成の長短によっても風味が変わります。日本では近年美味しいワイン用の葡萄の品種を輸入しワインを作っています。日本のワインが外国でも評判が良いそうです。

今日はいきなりドイツでワインの洗礼を受けた体験をご紹介しました。そしてワインにまつわる話を少しだけ書きまさいた。
皆様はワインに対して何かごご意見がございますでしょうか。是非ご意見をお聞かせください。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「今日のカトリックの四旬節の第5主日の動画ミサ」

2021年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今週も教会のミサには出ません。その代わりカトリック関口教会かイグナチオ教会の動画配信ミサにあずかります。

今日は四旬節第5主日です。2021年3月21日(日)に限定公開で行われる 『四旬節第5主日ミサ (B年)』のライブ配信です。
10時から始まるカトリック関口教会の動画配信は、「関口教会 2021年四旬節第5主日ミサ動画配信」を検索してご覧下さい。

イグナチオ教会のミサは、https://www.ignatius.gr.jp/news/streaming.html にあります。2021年3月21日(日)に行われる 『四旬節第5主日ミサ (B年)』のライブ配信です。イグナチオ教会はイエズス会の創始者で初代総長のイグナチオ・ロペス・デ・ロヨラの名前にちなむ名称です。

今日教会に行かない方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。


今日の写真はフランシスコ教皇です。東京での「青年との集い」で若者から法被を贈られるフランシスコ教皇です。2019年11月25日に東京都文京区で福留庸友さんが撮影しました。
カトリック教会のトップのフランシスコ教皇は2019年11月23日に来日しました。教皇の日本訪問は1981年のヨハネ・パウロ二世法王の訪日以来、38年ぶり2回目でした。被爆地の広島と長崎などを巡礼しました。


「遂に小金井公園の桜が咲き出しました」

2021年03月20日 | 写真
そろそろ桜も咲き出す頃と思い、小金井公園に行ってきました。まだチラチラ咲き出したばかりの様子でした。これから数日すると満開になります。毎日のように小金井公園を訪れる季節になりました。ただ今、撮って来た写真をお送り致します。









「スコッチウイスキーへの憧れと、そのロマンに酔う」

2021年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
スコッチウイスキーはスコットランドの誇りです。世界の名酒です。戦前,戦後の日本では大変高価な幻のようなお酒でした。
私は長い間ただ憧れているだけで飲んだことがありませんでした。サントリーやニッカという国産のウイスキーを飲んでいました。しかし最近は毎晩のようピートの香り豊なスコッチウイスキーを賞味しています。時代の変化に感謝しながら少し酔い、スコットランドの風景を想像しています。

今日はウイスキー工場をご紹介します。北海道の余市ニッカ工場と仙台のニッカ工場と山梨県の白州サントリー工場です。そしてウイスキーにまつわる話を少しだけ書いてみようと思います。
まず私が訪れた3つのウイスキー工場の写真をご覧下さい。

1番目の写真は北海道の余市町にあるニッカの工場です。麦を発酵させ蒸留してアルコールを濃縮しています。
竹鶴政孝さんがサントリーの技師として日本で初めて大阪府山崎で工場を作り、「サントリー白札」を発売したのは1929年でした。しかし竹鶴政孝さんはその後、サントリーを退社して、北海道の余市にニッカウイスキー工場を作りました。1940年に初めてのニッカウイスキーを発売したのです。この写真は私が訪れた時に撮りました。

2番目の写真は仙台の西、作並温泉に近い山峡にあるニッカの工場です。
この宮城峡蒸溜所は竹鶴政孝さんが北海道の余市蒸溜所に次いで1969年に作りました。広大な敷地内には乾燥棟「キルン塔」や蒸溜棟、貯蔵庫など20以上もの施設が立ち並んでいます。

3番目の写真は山梨県の甲斐駒岳の麓にあるサントリー白州蒸溜所です。
ウイスキーの香りを楽しみながら壮大なモルトウイスキー製造工程を見学出来ます。ゲストルームでシングルモルトウイスキー「白州」とモルト原酒(非売品)をテイスティング出来ます。白州蒸溜所と「白州」両方の魅力を存分に体感いただくツアーです。
さてその他、私が訪れた北海道の余市ニッカ工場の風景とウイスキーの写真をお送り致します。

4番目の写真は余市町にあるニッカの工場にあるウイスキーの熟成倉庫です。ウイスキーの味と香りはこの熟成にとって決まるのです。非常に重要な工程です。

5番目の写真はウイスキーの熟成倉庫の中に並んでいるウイスキーの樽です。樽の材質が重要です。

6番目の写真は余市ニッカ工場の風景です。北海道らしく広々としていて白樺林が散在しロマンチックな風景です。

7番目の写真は私が毎晩のように賞味しているTeacher's というスコッチの写真です。ピート味が効いた香りの高いスコッチです。
酒の好みは人それぞれです。私は有名でないスコッチウイスキーのTeacher's という銘柄をもっぱら飲んでいます。味はスコッチのカティサークのように軽快です。年をとってくるとジョニ赤もジョニ黒もオールドパーも味が重すぎます。

ここでスコッチウイスキーの起源を少し書いておきます。
大麦や小麦や唐黍を発酵して蒸留する酒は世界中にあります。日本では麦焼酎です。ロシアではウオッカです。アメリカではバーボンです。同じものがスコットランドで作られるとスコッチウイスキーになるのです。しかし味は非常に違います。
大麦を原料にした蒸留酒の製法がスコットランドに伝わった時期は、遅くとも12世紀から13世紀にかけてと言われています。
製法の要の一つである蒸留技術はアイルランドからキリスト教とともに伝来したそうです。その原料の大麦をピートという泥炭で乾燥、燻蒸したのでウイスキーと呼ばれる蒸留酒になったのです。
スコットランドにおけるウイスキーに関する現存する最も古い記録は、1494年のスコットランド財務省の記録で、「修道士ジョン・コーに8ボルのモルトを与え、アクアヴィテ(aqua vitae)を造らしむ」という内容です。アクアヴィテはラテン語で「生命の水」という意味で、これをゲール語で表すと「ウシュクベーハ」(uisge beatha、ウシュクは水、ベーハは生命の意)となり、そこから「ウイスキー」という英語が生まれたそうです。ウイスキーという単語に関する最古の記録は1736年にスコットランド人が書いた手紙で、1755年には英語辞典に登場しました。
以上要約するとスコッチの特徴は原料の大麦を泥炭のピートで乾燥、燻蒸し独特の風味をを付けることが特徴です。
当然ながらサントリーとニッカは泥炭をイギリスから輸入して泥炭を使いウイスキーを製造しています。

今日はウイスキー工場をご紹介しました。北海道の余市ニッカ工場と仙台のニッカ工場と山梨県の白州サントリー工場です。そしてウイスキーの歴史を少しだけ書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)