雑賀雄二さんの「天主堂」という美しい写真集をご紹介致します。http://www.ne.jp/asahi/saiga/yuji/gallary/tens/top-j.html です。
その中から数枚を以下に示します。
雑賀雄二さんの「天主堂」という美しい写真集をご紹介致します。http://www.ne.jp/asahi/saiga/yuji/gallary/tens/top-j.html です。
その中から数枚を以下に示します。
退職後は時間があるので日本全国をおちこち、家内と一緒に旅しました。海外へ行く元気が無いのでもっぱら国内旅行です。団体旅行も個人的な旅も取り混ぜながら楽しみました。
それで、つくづく思うのですが、日本は本当に広い。そして地方地方には特有の文化があって味わい深いのです。
関東平野は奈良や京都のような古い文化遺産が無いのでつまらないと思いがちです。しかし丁寧に見て行くと興味深い文化があるのです。
その小さな旅を思い出しながら、幾つかの土地とその文化をご紹介したいと思います。
今日は行田市を取上げます。そして日本で一番古い学校である足利学校のある足利市を明日、ご紹介いたします。続けて奈良井宿、そして諏訪城のある諏訪地方もご紹介したいと思います。
皆様も訪問した場所かも知れません。行かれた方々は楽しかった旅をもう一度思い出して、お楽しみ下さい。まだの方々へは訪問されることをお薦め致します。
東北自動車道を加須ICで降り、17km西へ走れば行田市に着きます。ところが道の左右は茫々たる水田と畑が広がっています。人家が遥か遠方に散在するばかりで心細くなるのです。行田は水田に浮かぶ孤島のようで、本当に遠いところにあります。
美しい忍城(おしじょう)という城があります。
その城のある水城公園に入ると、行田名物「ゼリーフライ」の看板の店があります。これが奇妙な食べ物で、秘密の名物らしいのです。ジャガイモ粉、おから、小麦粉を混ぜ、葱少々をいれ、木の串に笹かまぼこのような形につけて、油で揚げ、ソースに漬けたものです。おやつに行田の人々が好んで食べるのです。味は材料と製法からご想像下さい。微妙な味です。
これの妹のようなおやつに「フライ」がある。簡単に言えば薄いお好み焼きのようなものです。
味の好みは習慣によると言います。行田の人は子供の頃おやつとして食べ、習慣で好みの味になり、大人も老人も気軽に食べているのです。市内にゼリーフライやフライを売る店が数十軒ある。これが行田市のローカル文化です。
好奇心の強い観光客が買っています。味はどうですか?と聞くと、買うのは2本だけにしたほうが良いですよ、と忠告してくれます。自分で食べた後で忠告に感謝しました。
行田の人には合言葉があります。「うまい。うまい!、うま過ぎる!」と呼びかけると、「十万石饅頭!」と答えるのです。答えられない人は行田の人でないとすぐ分かるそうです。よそ者を見分ける方法yです。上の最後の写真がこの十万石の店の写真です。
テレビの「秘密のケンミンショー」で取り上げられたのでご承知の方も多いと思います。地方テレビ局のコマーシャルで、この文章が30年間変えずに流れているから自然に出来た合言葉なのです。
たまたま入ったウナギ店の隣が「十万石」の菓子店でした。ウナギを丁寧に焼いている間に家人がそれを偶然見つけて饅頭を十分過ぎるくらい買ってきました。上質の小豆をつかった、じょうよ饅頭で「花園饅頭」の行田版です。
関東平野の広さとローカル文化の面白さを実感した小さな旅です。
下に行田のお城、忍城の写真も示します。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人
・・・石川五右衛門の名をはじめて耳にしたのは遥か幼い日のことだ。母の実家で祖母と風呂に入ったら釜底が熱い。「これは大泥棒石川五右衛門を釜ゆでにした五右衛門風呂じゃもの」。ぞっとした。・・・磯田道史さんの「五右衛門 反体制の熱弁」と題する記事の書き出しの文章です。流れるような文章の上、祖母と孫が風呂に一緒に入っている幸せな光景が短い文でいきいきと描いてあります。この文章に誘われて、終わりまで読みました。私が幼少の頃、兵庫県の祖父が住職をしていたお寺の五右衛門風呂を思いだしながら読みました。
本当に五右衛門は釜ゆでにされたのか?一緒に処刑された家族や手下は何人だったのか?何故か石川五右衛門に関する本は禁書になっています。不思議に思った磯田道史さんは根気よく調べます。そして江戸時代の禁書の「賊禁秘誠談」の写本を丁寧に探しました。写本にはいろいろ沢山あって真実から遠い内容のものも多いからです。
そしてついに1669年(寛文7年)の写本が保管されている所を知るのです。寛文時代は五右衛門のの死後70年程です。その内容と1802年(享和2年)の写本とつきあわせて見ると、何故、「賊禁秘誠談」が江戸時代に禁書になっていたかが明らかになったのです。
謎を明かすのは磯田道史さんに悪いので止めます。今朝の読売新聞の24ページ目にあります。尚、磯田道史さんは映画になった、「武士の家計簿」の著者です。権力者の歴史ではなく、時代、時代に生きた一般の人々の生活を研究する歴史学者です。
もう一つの面白い記事は読売の文化部の岡本公樹さんが書いた「五畿七道 大揺れ 三連動か」と題する記事です。
869年の貞観地震に続いて、関東地震、火山の噴火があり、そして887年(仁和3年)には平安京(京都市)を大地震が襲ったのです。京都だけでなく日本全国の五畿七道が大揺れした大規模地震だったのです。時の天皇、光孝天皇は皇居から逃げ出し、庭にご在所を作り、そこで仕事をしたのです。家屋や役所が倒壊し、多数が圧死し、津波が各所を襲ったのです。特に大阪湾の北岸は大きな被災地になったのです。その後の史実に記録されている大地震を紹介しています。そして貞観地震に関する明治時代の吉田東伍さんの研究発表の公開URLを紹介しています。
早速、そのhttp://wind.ap.teacup.com/togo/100.html を開いてみました。大津波が陸奥国の多賀城の城下まで襲い人家が押し流され、死者多数という研究発表文を読む事ができました。
仙台に生まれ育った私は多賀城は塩釜港よりは随分と内陸に入った所にあることを知っています。今回の大津波でも多賀城一帯は津波に襲われたのです。今回の大津波の襲った地域は、実にこの貞観津波の襲った地域と非常によく一致しているのです。
このように大地震と大津波の明確な記録が沢山あるのに何故、原子力発電所建設ではそれを無視したのでしょうか?原因はいろいろあるでしょうが、一つの大きなものに明治維新以来の日本の学校教育にあると思います。理科と文学、そして歴史学を別々に教えたからです。その上、大学では理系の人間と文系の人間を分けて、差別したからです。理系の人間は文系の人を見下していたのです。原発を作った日立や東芝の技術者は歴史学者を見下げて、無視していたのです。実は昔の私はそうでした。文系の人を見下していたのです。
しかし原発事故が起きてみると技術者の歴史の勉強不足が明らかになったのです。歴史を無視すると又大災害が起きます。そんな事を考えさせるのが岡本公樹さんが書いた「五畿七道 大揺れ 三連動か」と題する記事です。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人
下に現在の多賀城跡から仙台平野を見た写真を掲載します。出典は上に示したURLです。
高速道路を設計し、造っている土木会社の文化には自然の景観の美を大切にする思想が皆無です。それよりも自社の高度な土木技術を誇示、宣伝したいのでわざわざ高い立体交叉の構造物を作りあげます。碧い空にそびえたつ立体交叉を見る度に困ったものだと思いながら通り過ぎて行きます。もう少し目立たないように、控え目に立体交叉の構造物が造れないものなのでしょうか?
東京の真ん中の美しい「日本橋」の上を高速道路で覆った、あの思想ですね。残念です。下の写真は、八王子から中央高速道路を走り高尾山の美しい山に差し掛かった所の風景です。それを数Km登ると、とたんに下2枚の写真のような立体交叉の構造物が目の中に飛び込んで来ます。ギョットします。不快感に襲われます。
しかし中央高速道路と圏央道の立体交叉の構造物は交通の利便性のために必要です。更に圏央道と甲州街道をつなぐ立体交叉の構造物もその近くで造っています。
この2つの立体交差の構造物で美しい高尾山の尾根、尾根はズタズタに切られ、無残な姿に変わり果てました。しかし交通は便利になります。それにしてももう少し控え目な設計が出来ないのでしょうか?皆様のご意見はいかがでしょうか?
今日の東京地方は朝からカンカン照りの夏日です。庭の温度計は35度になり室内は33度ありました。
しかし冷房装置の電源を入れないで扇風機で頑張ってしのいでいます。
そこで心配なのが東京電力管内の電力の使用状況です。
早速、http://www.tepco.co.jp/forecast/index-j.html をクリックして見ました。供給可能電力の85%までゆくようです。
現在の使用状況とは15分位前のデータだそうです。
供給可能電力以上になっても急には停電しないで水力発電所を動かすそうです。しかし運転可能な時間はダムにある水に限りがあり、いつかは停電します。
この夏はこの現在の東京電力管内の電力の使用状況グラフを毎日見ながら冷房装置を動かしたり、止めたりする事にしました。
皆様も是非、「現在の東京電力管内の電力の使用状況グラフ」 をご覧下さい
梅雨時は日本中にアジサイが咲いているのではないでしょうか?ぼんぼりのように丸く咲いた花々が、次第に大きくなりながら、色が鮮やかになっていきます。
箱根の登山電車に乗ると強羅に着く手前の数キロの沿線にアジサイが延々と咲いていて、「アジサイ電車」と呼ばれています。特に夜にアジサイに照明をあて、電車をゆっくり走らせ夜の花々を観賞することもしています。
五日市街道の小金井橋付近の玉川上水沿いにアジサイが延々と植えてあります。車で通るとアジサイがどんどん後の方へ流れて行きます。箱根登山鉄道のアジサイ電車を思い出しました。
家内が車の窓を開けて、撮った写真です。花影が後(左)の方向へ流れています。アジサイのお好きな方々へお送りする写真です。失礼しました。
1962年にアメリカ留学から帰って来た後、日本民族の文化をもう一度深く考えるようになりました。在米中にアメリカ人からいろいろ質問され返事に窮した経験がその原因でした。広い分野の本を読みましたが、その中に隠れキリシタン関連の本がありました。
上の写真は長崎で1597年、慶長元年にに処刑された26聖人の像です。外国人6名と日本人20名がキリスト教を捨てなかったので処刑されたのです。
処刑は26名だけではありませんでした。棄教しないキリスト教徒を拷問にかけ30万人も処刑したのです。(30万人については確証はありません)。当時、日本に広がっていたキリスト教は、1549年にザビエルが伝えた天主教(カトリック)で、棄教は恥と思われていました。
1614年、慶長18年の大禁教令が出て、日本中のキリスト教徒は隠れて信仰を守る行動に入ったのです。それが隠れキリシタンです。
幕府は隠れキリシタンを摘発する為に「踏絵」を毎年、明治4年まで続行したのです。
この江戸幕府の厳しい禁教政策にも拘わらず、隠れキリシタンは251年も信仰を守ったのです。
1614年、慶長18年の大禁教令から251年目の1865年、元治2年に隠れキリシタン達が、下の写真のような大浦天主堂に現れたのです。そしてフランスから来ていたプチジャン神父へ、ザビエルの伝えた天主教(カトリック)を信じてきたことを告げたのです。
そのように信仰に誠実な日本人が居たのです。私は迷わず彼等の宗派に近づきました。そして1971年に家内と一緒に、カトリック立川教会の塚本金明神父から洗礼を受けました。その辺の経緯は又書きたいと思います。
それはそれれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人
下に隠れキリシタン関連の本を少しご紹介しておきます。
(1)片岡弥吉著、「踏絵―禁教の歴史」、日本放送出版協会、昭和44年6月初版発行。
(2)片岡弥吉著、「長崎の殉教者」角川選書33、角川書店、昭和45年3月初版発行。
(3)ルイス・フロイス著、柳谷武夫訳、東洋文庫4「日本史1、キリシタン伝来のころ」、平凡社、昭和38年10月、初版発行。
(4)平川祐弘著、東洋文庫141「マッテオ・リッチ伝、1」、平凡社、昭和44年6月、初版発行。
(5)岡田章雄著、「バテレンの道」、淡交社、昭和45年12月、初版発行。
(6)松田毅一著、「キリシタン時代を歩く」、中央公論社、昭和56年7月、初版発行。
(7)加賀乙彦著、「ザビエルとその弟子」、講談社、2004年7月、初版発行。
最近、クルーザーを独りで帆走させる趣味を始めたいと言う人に会いました。その技術を習いたいと言うのです。私は25年間、独りでヨットを楽しんで来たので、独り帆走のコツのようなテクニックを教えることにしました。
6月4日、18日、25日と3回の訓練を致しました。
その方は50歳位のKBさんと言う方です。子供も大きくなり、気持ちに余裕が出来たのでキャビンのあるヨットの趣味を始める決心をしたのです。何年も前からヨットの趣味の為の準備としていろいろな本を読んでいました。実技は初めてだと言います。
6月4日は、まったくの初めての体験なので私も手伝いながら帆走しました。ジブとメインの両方のセールを出して、遠方の沖までセイリングを楽しみました。舵は初めからKBさんが握りました。
2回目の6月18日はKBさんが、エンジンを始動させ、セール・カバーを取り外して、それを畳んで仕舞うところから全てを行いました。係留から船を出すところも完全に独りでしました。私は船の一番後ろに坐って、見ているだけです。見事に港の外に出て、独りでメイン・セールを上げて、それからジブ・セールを出しました。風が非常に弱い日でしたので危険はありません。しかし風が弱過ぎて訓練になりません。エンジンで走りながら左右に方向を変えるタッキングの練習をしました。あまりにも風がないので、早目に帰港しました。係留も独りでします。
3回目の6月18日は凄い強風でした。独りでメインとジブの2枚を上げるのは無理です。そこでジブだけ出してタッキングンの練習をしました。ジブだけで風上へどれだけ登れるかを知る事も練習の目的です。
その後はジブを降ろして、メインを上げ、クローズ・ホールドの練習とランニングの練習を繰り返しました。3回目の訓練の終り頃には完全に独りで帆走できるようになりました。見事、合格ですと私が言って卒業しました。
何故、3回だけの訓練で卒業出来たのか不思議です。その理由は後から考えて見ると2つあるような気がします。
(1)KBさんはヨットの構造を本を読んで、良く知っていました。その上、帆走技術も本で読んで、頭の中では完全に出来るようになって居たのです。頭脳明晰なのです。
(2)実際の訓練では私の指示通り、敏捷に動くのです。その上、船が強風で傾いても恐れないのです。落ち着いて舵を操作するのです。性格が沈着で、その上注意深いのです。精神的な安定性があるのです。この精神力こそヨットを趣味にする為に一番重要な事と思いました。
とても尊敬すべきヨットの弟子を持った気分で、3回の訓練が楽しかったのです。年を取るとこんな楽しい経験もできるという話です。
下に荒れ模様の3回目の訓練の様子の写真を示します。
私の山の小屋の近所に鬼家(オニイエ)さんという方が独りで山荘に住んでいます。大きな松林の中の小道をたどって行くと上の写真のような山荘が少しずつ見えてきます。青いものは夏の夜を楽しもうと昨年作ったウッドデッキです。山荘はその奥に2、3棟並んでいる建物で、季節によって使い分けています。
確かなことは忘れてしまいましたが、横浜から引っ越してきて、20年以上になるようです。四季折々、訪ねては山荘の生活の話を聞きます。
山林の奥深く、住んでいるので寂しいだろうと考えながら訪ねて行くと、何時も笑顔で楽しそうにしています。
この鬼家(オニイエ)さんとの淡い交友も長くなりました。昔、漢文で、「君子の交わりは淡きこと、水如し」と習いました。鬼家さんを訪問するたびにこれを思い出します。
ヤマメの棲んでいる庭の小川のほとりで一緒にビールを飲んだこともあります。冬の夜は彼の手作りの暖炉に薪を燃やしてビールを飲みました。話題は何時も彼の山荘の周りの自然の営みについてです。私の小屋へご招待したこともありました。
春にはクリンソウの鉢植えを貰ったり、シイタケの菌を植えこんだクヌギの丸太を何本も貰ったこともありました。彼の山荘の周りに生えているクリタケを採ってきてバターで炒めて食べたこともありました。
モリアオガエルの飼育を熱心にしていた年もありました。モリアオガエルは美しい、そして神秘的な生き物でした。
毎年、夏が近づくと山林の中に独り住んでいる鬼家さんはどうしているかなと思い出します。来週はちょっと行ってみようかなと思いつつ雨のため順延を繰り返しています。
その代わりのつもりで、今日は彼の四季折々に撮った写真を春、夏、秋、冬の順にご紹介します。
彼も以前は車を運転して、近辺の南アルプスや八ヶ岳の山麓、霧ケ峰、美ケ原美術館などへ旅を楽しんでいました。そして自然の写真を熱心に撮っていました。
彼の撮った写真を静かに見ていると、彼の物静かな性格を思い出します。皆さまも写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人
春の庭 (サクラソウとヤエヤマブキ)
夏の蓼科と明野への小さな旅
秋の美ケ森美術館への遠い旅
山荘の近所から見た冬の甲斐駒岳と八ヶ岳
写真の出典は「里山に住んで」(http://ihcuik69.web.fc2.com/) です。転載させて頂きまして、鬼家(オニイエ)雅雄さん、有難う御座います。
上の3枚の写真を見ると2人の神父さんが写っています。白髪の混じった中年の神父さんと若い黒髪の神父さんです。ベトナム出身のゴ・クアン・ディン神父さんと最近、神父に叙階された谷口神父さんです。
この2人の温かい関係を見て、信者達が感銘を受けたのです。先輩が後輩を尊敬して、育てていたのです。弟子を尊敬しながら指導している様子を見ると感動するものです。
2年程前に神学生だった谷口さんが毎週日曜日、小金井教会へ来てミサを手伝ってきました。若い神学生でしたが時々説教もしました。ユーモア溢れる説教にはイエス様への信頼が詰まっていて信者たちから評判の良い若人でした。
そのような小金井教会へ、昨年11月に外国人だったゴ・クアン・ディン神父さんが主任司祭として着任して来ました。谷口神学生との関係はどうなるかなと私は少し心配していました。それは信心の浅い私の俗な心配です。ディン神父さんは事ごとに谷口さんを引き立て、ミサの時には説教のチャンスを与えて、それとなく面倒を見ているのです。
そして3月に谷口さんの出身地の福岡で叙階式をする事になりました。それを一番喜んでいたのがディン神父さんです。ミサの度に叙階式の場所と日時を嬉しそうに話していました。そして叙階式の時には遠方の福岡まで出かけて行ったのです。
そして若い谷口神父様を始めての着任先の福岡県の新田原カトリック教会からご招待して、昨日と今日のミサの司式をして頂いたのです。今日のミサの後、小金井教会信者一同からの花束と記念品代を贈呈しました。そして屋外で歓迎パーティをしたのです。これらはディン神父さんが先頭だって行ったに違いありません。一番嬉しそうにしていたのがディン神父さんだったので私が勝手にそう考えているだけですが。
考えて見るとディン神父さんと若い谷口さんとの関係は昨年11月から今年の2月末までのたった4ケ月間だけだったのです。それなのにこのような温かい絆で結ばれたのです。人間の絆は不思議なものです。その温かい絆を見て、小金井の信者は深い感銘を受けているのです。神父さんを一層尊敬したくなります。一層親しみを感じます。
谷口神父の今日の説教もユーモアあるものでした。高校時代に野球をし過ぎて、今でも時々腰に痛みが出るそうです。新しく着任した福岡県東部の新田原カトリック教会の信者に素晴らしい整体師が居て、腰を揉んで治療をしてくれるそうです。そしてイエス様の聖体は私たちの体の中に入って来て、体の内側から心の悪い所や痛みを整体師のように癒してくれるのです。「聖体と整体のダジャレなのです。お分かりですか?」と話を続けます。一同、大笑いします。そう言えば私たちは「イエスの体」とパンを頂き、食べます。上から3番目の写真がディン神父と谷口神父が並んで「イエスの体」と言いながら一人一人へ小さな圧縮パンを手渡している場面の写真です。
谷口神父が着任した福岡県の東部の教会には五島列島から集団で移住して来た人々が多いとも言っていました。信者の数が多くて教会名簿には2500人も居るそうです。しかし名前ばかりで教会に来ない人も多いようです。その人々を谷口神父は隠れキリシタンと言ってました、また一同笑います。隠れキリシタンの子孫がまた隠れたのです。可笑しくありませんか?蛇足でした。失礼しました。(終り)
尚、ゴ・クアン・ディン神父さんの事については下の2つの記事をご覧下さい。
日本にはキリスト教徒が3%しかいません。3%もいますと書くべきかもしれませんが。
教義が難しいとか、お釈迦さまの教えとはなじまないとかいろいろな意見もあります。そのような意見や評論は一見、本質的なように見えます。
しかし私はそのような評論は宗教の本質を見誤った机上の空論と信じています。
子供のころから神社の境内で遊び回る。お寺の裏の墓地で悪戯遊びをする。それを神主さんや住職さんが叱らないで、ニコニコして見ている。
神社やお寺さんの祭礼の日には出店が出て、子供の喜ぶようなモノを沢山売っている。夜店はカンテラの灯があやしく輝き子供心を躍らせる。
宗教は習俗です。伝承です。日本の神社やお寺はそのようにして増えていったのです。お釈迦様の教えは、誰も教えません。大人になってから本を読んで勉強します。
キリスト教組織の致命的な欠陥は、気軽な遊び場を提供しないで、いきなりイエス様の教えの説明をする事にあります。
そのように思っていた私は昨年、神学校や修道院へ遊びに行きました。
車で40くらいの所にありました。途中の車の中で私は昔の神社の境内や夜店の楽しさを思い出して、とても幸せな気分でした。ああ、訪問するのが遅すぎたとも思いました。でも懐かしい親類の家に遊びに行くように楽しい気分でした。
下に神学校と修道院の訪問記をご紹介いたします。お気軽に読み流して頂ければ嬉しく存じます。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人
=========神学院の学園祭===============
昨年の11月に、練馬区の関町にあるカトリックの神学院で学園祭がありました。他の大学の学園祭と違う所は数百人の参加者による大きなミサから始まります。神学生の家族や、いろいろな教会からの信者が一堂に集まって捧げるミサです。全て初対面の人々ですが何故か昔からの知り合いのような気がします。思いがけず楽しいミサに参加出来て幸福感に包まれました。その後は普通の大学の学園祭と同じようにカレーやホットドックの店などがずらりと並んでいます。ヤキトリ、ヤキイモ、ポップコーン、もあります。建物に入ると教室には各神学生の作った展示物が並んでいます。神学校の歴史を説明した展示もあります。いつも小金井教会へ来て助けてくれているTG神学生の写真や略歴も貼ってありました。
=========イエズス会石神井修道院===========
昨年の5月に思い立って、イエズス会石神井修道院を訪問しました。
ところが、お会いして下さった塩谷恵策神父様に感銘を受け気楽な遊びの気分が無くなりました。博識な上、学問的に体系化された修道院の歴史を明快にご説明して下さいました。何も知らない小生へ分かり易くお話して下さったのです。
イエズス会士にお会いするのは初めてでした。昔から東洋文庫で中国や日本のイエズス会の会員の活躍を読んでいました。イエズス会士に会えるだけで興奮したのですが、お話の内容があまりにも感動的でした。これから少し調べたり、考えたりしてから記事として数回に纏めて見たいと思います。イエズス会の歴史、修道院の種類とそれぞれの役割、ヨーロッパ文化が投影されている教会組織と修道院の関係などを考えて、整理して記事に出来れば幸いと思っています。
今日は取りあえず、4枚の写真をお送りいたします。
上から順に、石神井修道院の書面玄関、船越保武氏作の和風姿のマリア様、石神井修道院の主聖堂、塩谷恵策神父様の御写真の4枚です。
なお船越保武氏は長崎の公園にある26聖人像を造った芸術家で、それに対して高村光太郎賞が1962年に与えられています。敬虔なカトリック信者で東京芸大の教授も務めました。