後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

昔の農家の暗さ寒さと花々の明るさ暖かさの対比

2013年03月31日 | 写真

きょうは朝から曇っていて暗く、寒くて、憂鬱です。復活祭のミサの後で、小平ふるさと村の昔の農家に行き、暗く、寒くて、憂鬱な感じを写真に写し撮ろうとしてみました。それにしても昔の日本の家は暗くて寒かったですね。

そしてその暗さ、寒さを強調しようと暖かい色で咲いている菜の花とポピーの写真撮ってきました。その組み合わせを下に示します。私の意図は成功したでしょうか?失敗でしょうか?

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イチゴ狩りの夢と現実

2013年03月31日 | うんちく・小ネタ

孫の男の子が春休みにイチゴ狩りに行きたいと言ってました。ネットで山梨のイチゴ狩りを検索し、数カ所見つけました。

イチゴ狩りに夢をもっている子供たちが多いのか、何カ所へか電話しましたが満員で予約がなかなかとれません。やっと予約が取れた所があったので皆で行きました。

料金は30分の時間制限で食べ放題で大人も子供も1500円前後です。

食べ終わった孫たちが言ったことは、「面白かったが、摘んだイチゴは美味いのと不味いのとが入り混じっていた」です。

少々ガッカリした様子でした。結局、スーパーで買うイチゴのほうが安くて美味しいという結論になりました。

子供心に夢と現実の落差を味わい、いささか落胆した様子が可哀そうでした。

イチゴを苦労して栽培している農家の事情も思いやられて複雑な気持ちで帰ってきました。下に巨大なビニールハウスでイチゴを栽培している様子を示します。

行かれる方は、電話で予約なさることをお薦め致します。

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人間は高齢になると驚異的に考えが変わります(5)全ての宗教を尊敬するように変わりました

2013年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム

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宗教には原始宗教や高等宗教があると言います。

意味も無い大石や滝や大樹を神様と思い、拝む信心もあります。

あるいは利己心だけのご利益信仰もあります。

なにも考えないで習俗として神様へ祈る習慣もあります

大変恥ずかしい話ですが、私は若い間、仏教とカトリックだけを高等宗教と信じて、原始宗教をなんとなく見下していました。習俗として神様へ祈る習慣を軽く考えていました。

ところが70歳になって仕事を止めてからそんな狭量な考えがまったく間違っていることに気がつきました。愕然としました

その後は全ての宗教は平等に重要であり、どんな宗教や宗派にも優劣が無いと信じています。

この私の個人的な大転換にはいろいろな原因があります。しかし一番大きなキッカケはローマ法王、ヨハネ・パウロ2世の教えと活動を知ったことです。

そして神田のニコライ堂を建てたロシア正教のニコライ・カサートキンという人のことを詳しく調べたことも原因になりました。

そこで以下にこの2人の簡略な紹介をいたします。

それにしても、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

=====傑出していたローマ法王、ヨハネ・パウロ2世のこと======

上の2枚の写真の左は1920年にポーランドで生まれ、12歳の時の写真で右はローマ法王当時の写真です。(2005年4月2日、84歳で旅立ちました)

このパウロ2世が2011年に福者に列せられる事がローマ法王、ベネディクト16世から正式に発表されました。福者とはカトリックの聖者の次の名誉称号であり、いずれ聖者になる可能性が大きいのです。

パウロ2世が死後6年足らずで福者に列せられるのは異例のことで、如何に傑出した法王だったかの証です。

彼の偉大な功績は、何と言っても世界中を隅々まで、法王なのに巡礼のような旅をして各地の言葉でミサをたて、洗礼式や叙階式をした事です。これほどローマ法王が身近に感じ、親しく感じた事はありません。ポーランドの連帯代表のワルサさんに会いに行きポーランドの自由化を支援した事も忘れられません。

もう一つの偉大な功績は、いろいろな宗教間の和解運動を進めたことです。カトリック教会の過去の間違いにも謝罪しました。ガリレオの裁判も間違いだったと謝罪したのです。本当に温かい血の通ったローマ法王でした。

パウロ2世のお葬式へは世界中の国家元主が出席しましたが、日本政府からは首相クラスの人は出席しなかったのです。ヨハネ・パウロ2世は偉大でした。傑出していました。熱い血の通った人でした。これでヨハネ・パウロ2世の話は終わりにします。

次は、ロシア正教のニコライ・カサートキンという人のことをご紹介します。

====神田のニコライ堂を建てたあるロシア人の物語=====

ロシア正教は他の東方教会とともにマルチン・ルターの宗教改革の洗礼を受けなかった、古いタイプの宗派です。古いから間違っていると理解したら大きな間違いです。そんな事を考えながら以下の紹介文をお読み頂ければ嬉しく思います。

ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。もっとも短期間、2度、祖国へ帰ったことはありましたが。

 着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。

函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。

ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。

今日はその中から一つをご紹介します。

1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。

残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。

ニコライは教書を発表し信徒を慰めます、

「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」

ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。

1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。(葬列の写真10枚ほどを見ながら書いています)。 今日はこの辺で止めます。(続く)

WikipedeaNikolaikasatkin1 でニコライ・カサートキンを検索すると以下の紹介があります。ここに転載しご紹介いたします。

==ニコライの訪日と日本での死=========

ニコライは1861年に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、新島襄らから日本語を教わる。以後精力的に正教の布教に努めた。

懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行った。1869年、1879年に二度帰国。それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、神田駿河台の正教会本会で没した。谷中墓地に葬られる。

1970年谷中墓地改修の折、棺を開けると不朽体が現れた。同年ロシア正教会はニコライを「日本の亜使徒・大主教・ニコライ」、日本の守護聖人として列聖した。日本教会が聖自治教会となったのはこのときである。ニコライの不朽体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっている。

関東大震災で焼失したといわれていたニコライの日記の日本語全訳は2007年に刊行(『宣教師ニコライの全日記』教文館全9巻)。

列聖以降、日本の亜使徒聖ニコライ、聖ニコライ大主教と呼ばれる。記憶日(祭日)は2月16日(ニコライ祭)。


はるか遠くへの旅(4)ひめゆりの塔の沖縄へ・・・糸満、宜野湾、名護、古宇利島、万座ビーチ

2013年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム

沖縄へは家内と一緒に3回ほど行きました。糸満、宜野湾、名護、古宇利島、万座ビーチなどなど沖縄本島はくまなくレンタカーで走りました。それから石垣島や西表島へも渡りました。

沖縄は何処へ行ってもサンゴ礁に囲まれた海岸の景観が美しく、またその海水が他では見られない魅惑的な色合いで、あくまでも透明です。

しかし少し沖縄の歴史を調べてから行ったので、薩摩藩の琉球王朝の圧迫や明治維新後の琉球処分を考えながらの旅になりました。

その上、家内も私も戦前生まれなので昭和20年3月26日から6月20日間まで3ケ月続いた壮絶な沖縄戦の地上戦のことが頭から離れません。猛烈なアメリカ軍の攻撃で軍人はもとより多数の民間人が殺されたのです。

男子中学生や師範学校の男子学生は動員され戦闘に参加し、多数が犠牲になりました。その慰霊碑は「健児の塔」として多くの参拝者が訪れています。

そして女子師範学校や女学校の生徒が戦場看護婦として動員され、多くの犠牲者が出たのです。その慰霊塔は粗末な石で、「ひめゆりの塔」と刻んであります。

この刻文と同じ題名の映画や本が戦後出来ました。ある年代以上のほとんどの日本人がその映画を見ました。

そのようなわけで、沖縄旅行は単純に楽しいものではなく、何処へ行っても胸が痛む旅でした。

下に沖縄本島南端の糸満市にある「ひめゆりの塔」の写真を示します。

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この写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%82%81%E3%82%86%E3%82%8A%E3%81%AE%E5%A1%94です。この出典の文章の抜粋を示します。

・・・・1945年3月24日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍しました。しかしその後激しい戦闘が続き、日本軍の防衛戦が前田高地附近に撤退した4月24日頃には山容が変わるほどの激しい砲撃にさらされるようになったため、5月25日には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜んだのです。・・・・

・・・慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなみます。「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、もとは「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになりました。

「塔」と名はついていますが、実物は高さ数十センチメートルでそれほど高くないのです。

これは、終戦直後の物資難な時代に建立された事と、アメリカ軍統治下に建立されたという事情によるものです。

しかし、1949年に石野径一郎によって碑に関する逸話が小説化されると、直後に戯曲化され、さらに同名の映画が作られ有名となりました。沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして大変有名になり、現在でも参拝する人が絶えません。

映画作品:

『ひめゆりの塔』 - 東映・1953年作品。今井正監督。

『太平洋戦争とひめゆり部隊』 - 大蔵・1962年作品。小森白監督。

『あゝひめゆりの塔』 - 日活・1968年作品。舛田利雄監督。

『ひめゆりの塔』 - 芸苑社/東宝・1982年作品。今井正監督。

『ひめゆりの塔』 - 東宝・1995年作品。神山征二郎監督。

『ひめゆり』 - プロダクション・エイシア・2007年作品。柴田昌平監督。

この「ひめゆりの塔」のある摩文仁の丘からの風景は下の通りです。

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そしてこの地域は沖縄戦跡国定公園に指定され保護、管理されています。

この中には「平和の礎」など100程の慰霊碑があります。

「平和の礎」は、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人・民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなった全ての人々の氏名を刻んだ祈念碑です。1995年(平成7年)6月に太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して建立されました。海岸線を見渡す平和の広場に建てられ、屏風型の花崗岩に銘が刻まれています。現在も追加刻銘を受け付けており、刻銘者数は2009年(平成21年)6月21日時点で24万856人に達しているそうです。下にその写真を示します。上の海岸の写真と下の写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6%E8%B7%A1%E5%9B%BD%E5%AE%9A%E5%85%AC%E5%9C%92です。

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沖縄戦では「ひめゆりの塔」だけが突出して有名になりましたが、実際には数多くの民間人が軍人から自決を強要されたり、想像を絶する悲劇が起きたのです。

それは悪夢のような悲惨な地上戦でした。

犠牲者は約25万人でした。その詳細はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6にあります。この25万人の中にはアメリカ側の死者12520人も含まれています。

是非、このWikipedea「沖縄戦」をお読みになって全ての死者のご冥福を祈ってあげて下さい。そして平和の貴さをもう一度噛みしみて頂きたいと祈っています。

最後に私が撮った平和な沖縄の風景写真を3点お送りいたします。

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上は万座ビーチです。下は宜野湾マリーナです。

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そして下は名護市のシンボル的なガジュマルの大樹です。

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人間は高齢になると驚異的に考えが変わります(4)お世話になった方々への感謝が年々深くなる

2013年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム

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上の写真は昨日行った新緑の浅間山です。こういう小道を独りで歩きながら、この文章の構成を考えました。仕事の上で、お世話になった方々ひとり、ひとりのお顔を思い出して有難う御座いましたとつぶやいていました。

どういう訳か私は新制中学校のころに科学者になると決心しました。そして中学校の先生から親や親類に頼らずに自分の道は自分の力で切開きなさいと強く教わりました。

その後大学を終えると、私は「徒手空拳」という言葉を背中に背負って、アメリカへと故郷を飛び出しました。

留学先のアメリカ人の先生が月給を出してくれて、結婚のときは親代わりになって披露宴のお世話をしてくれました。

そこで偶然お会いした東京大学のMY先生は私を本郷へ招んでくれて指導してくれました。その上、大岡山の東京工業大学に送り込んでくれたのです。そのMY先生は一生私の支援をしてくれたのです。

一方、日本鉄鋼協会の理事長だったTS氏は何かにつけて私の研究を評価して、支援して下さいました。このTS氏の奥様はピアニストで時々リサイタルを開きました。そんな折にはMY先生夫妻とともに私共夫婦も招待して頂き、食事にも一緒に招待して下さいました。

ドイツや中国と国際研究会を開催しようという私の提案を取り上げ、実行しくれたのもTS氏とMY先生でした。

TS氏ご夫妻は、MY先生ご夫妻と一緒に家内も中国まで招んで下さいました。北京の郊外の香山村という別荘地で数日宿泊し、開催した日中鉄鋼研究会は楽しい思い出になりました。

こんな私的なことを書くのは「徒手空拳」という心がけが人生にとって重要だと強調したいからです。

上に書いたMY先生もTS理事長も東京大学の卒業生です。私は仙台の大学を出たので後輩ではありません。アメリカで偶然MY先生に会うまでは全く見ず知らずの関係でした。TS理事長とも無縁でした。

しかし何故かMY先生もTS理事長も私を一生助けてくれたのです。今思うと「徒手空拳」を心に秘めて一生懸命生きている一介の若者を助けてやりたくなったのかも知れません。

こんなふうに私を支援し、助けてくれた人々が沢山いてくれたのです。

このようにお世話になった方々への感謝の気持ちは年々歳々深くなります。一層強くなります。若いころは自分の力で道を切り開いたと思っていました。

それが老境になるととんでも無い間違いだったことに思いが至るのです。私は数多くの方々のお蔭でやっと仕事が出来たのです。

「人間は高齢になると驚異的に考えが変わります」とはこういう事なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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昨日上の写真のような山道で、お名前を思い出して感謝した方々の実名を以下に記し、あらためて深い感謝の意を表します。

松下幸雄氏、田畑新太郎氏、セント・ピエール氏、的場幸雄氏、染野 檀氏、作井誠太氏、田中良平氏、春山志郎氏、斎藤安俊氏、ロバート・ラップ氏、ボルフガング・プルッシュケル氏、カール・ワーグナー氏、森田善一郎氏、荻野和巳氏、井上道雄氏、森一美氏、大谷正康氏、周栄章氏、金応培氏、岩瀬正則氏、川上正博氏、永田和宏氏、雀部 実氏、山口 周氏、ジョージ・オートン氏、ジム・バトル氏、ゴードン・パウエル氏、など。

尚、これらの支援者のお蔭で出来た私の仕事は以下のサイトに御座います。

http://sc.chat-shuffle.net/human/id:1214447;

http://gazo.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/gakui/cgi-bin/gazo.cgi?no=200395

http://sc.chat-shuffle.net/human/id:1243089

http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC/s?ie=UTF8&field-author=%E5%BE%8C%E8%97%A4%20%E5%92%8C%E5%BC%98&page=1&rh=n%3A465392%2Cp_27%3A%E5%BE%8C%E8%97%A4%20%E5%92%8C%E5%BC%98

2010/12/27:Solid state electrochemistry and its applications to sensors and electronic devices. By K. S. Goto

感謝の気持ちを込めて下に昨日撮った山桜の写真をお送り申し上げます。

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バードウオッチングの世界への入門HPをご紹介します

2013年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム

バードウオッチングは気持ちの上で憧れていますが、とても敷居の高い趣味のようで気軽には手が出せません。

第一、何千とある鳥の名前を覚えなければなりません。その上暑さ、寒さに負けずに野外へ出て根気よく野鳥を探さなければなりません。

そこで何か入門案内になるようなブログやHPを探しています。

先日来、「日本野鳥の会」のHPをご紹介し、そこから何枚かの美しい写真を転載させて頂きました。以下の記事をご覧ください:渡り鳥、旅鳥、漂鳥、留鳥そして迷鳥・・・区別して考えて見る

しかしそのような美しい写真はどのようにして撮るのでしょうか?

その実際的なヒントになるようなHPを見つけました。「森に届いた鳥だより」というHPで、「牛久とりの会」の会員の方の鳥の写真を撮った時の文章と写真が掲載されています。URLは、http://ubird.blog98.fc2.com/です。

写真を撮る時、どのような旅をして、どうすると野鳥の写真が撮れるかがかなり実際的に分かります。野鳥にご関心のある方へお薦めしたい野鳥の情報満載のHPです。下にこのHPから美しいオオルリとブッポウソウの写真をお借りしてご紹介いたします。

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・写真の出典:http://ubird.blog98.fc2.com/page-7.html

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・写真の出典:http://ubird.blog98.fc2.com/page-6.html


過ぎゆく春を惜しむ・・・桜、桜、そして桜

2013年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム

東京の西の郊外にある櫻木は満開が過ぎて、少しずつ散りはじめました。

桜の散る風情もそこはかとない淋しい雰囲気もあり良いものです。

今朝は花曇りです。小金井公園、桜堤団地、国際キリスト教大学、野川公園、武蔵野公園と巡りながら過ぎゆく春を惜しんできました。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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・上と下の写真は小金井公園です。9時頃でしたので桜の下で宴会する人もいなくて静かに桜花を楽しめました。

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・下は武蔵境の桜堤団地の通りの桜です。木が大きくなり過ぎて黒い幹が目立ちます。しかし団地の奥の方には若い櫻木が沢山植えてありました。

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・下は国際キリスト教大学の桜並木です。この桜の季節だけ車での入構を許可しています。

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・下は野川公園の駐車場の桜です。この付近に毎年見事なレンギョウが一面に咲くのでその写真を撮りに行きました。しかし今年は急にレンギョウの数が少なくなっていました。

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下の写真は野川公園に接している場所にある武蔵野公園の桜です。周りに鉄塔や電線があるので桜の写真は苦労しました。

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・下の写真は武蔵野公園の野川の向う側の桜です。

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・下の武蔵野公では、幼児が沢山来て桜の下で楽しそうに遊んでいました。

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(写真の上から4枚目までは自分で撮った写真ですが、その下の3枚は家内が撮ったものです。)


ブログには賢そうなことは書かない・・・黙って写真を掲載する

2013年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム

上にある題目は自分へ言っていることです。一昨日、横浜の丘の上の教会の写真を撮ってきたので黙って写真だけを掲載いたします

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・この建物のことを知りたい方は以下の説明文をどうぞ。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


下田、函館、横浜の外人墓地の風景写真・・・遺族は来ないが日本人が供養しています

2013年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム

遠く異郷のはてで亡くなった外人たちの墓地は日本人によって大切にされ、供養されています。その風景を私はいろいろな感慨を持って眺めています。

遺族は来ませんが日本人が供養しているのです。そして、不運にも異郷の地で果てた人々の冥福を私も祈っています。

下に、田(アメリカ水兵5人、ロシア水兵3人)、函館(ロシア人)、横浜(イギリス人多数、他)の外人墓地の風景写真を示します。

下田の外人墓地は日本で初めての欧米人の外人墓地になります。

外人墓地といえば普通欧米人の聖職者でない人々の墓地のことです。聖職者の墓地は別にあります。

ちなみに中国人や百済、新羅、高句麗の人々の墓地は外人墓地とは言いません。埼玉県の高麗郡にある高麗王の墓地は古いほうです。高麗王は戦いに敗れ、日本へ亡命し、大和朝廷から埼玉県に領地を貰ったのです。

そして唐の僧、鑑真のお墓は何処にあるのでしょう。

外人墓地を見るたびにいろいろと考えさせられます。何故かとても切ない気持になるのです。

下に示した下田の写真は2008年に私が撮った写真です。

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・下田の玉泉寺にあるアメリカ水兵5名(上)とロシア水兵3名(下)の墓です。

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・上と下は函館のロシア人墓地です。正教徒の日本人のお墓も隣にあります。K_0411

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上と下は横浜の山の手にある外人墓地です。主にイギリス人ですが、他の国の人々も一緒に眠っています。

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=====参考資料:高麗王の墓===============

朝鮮半島にあった高句麗が新羅と唐の連合軍によって668年に滅ぼされました。その時、使者として日本に居た王族の若光は帰国できなくなり、日本へ亡命しました。

703年に文武天皇から従五位下に叙せられ、高麗王の姓を賜はりました。この事は続日本書記に明記してあります。

そして13年後の716年に大和朝廷は武蔵国に新たに高麗郡を作り、高麗王をそこの郡司に任命しました。高麗王は高句麗から従って来た1799名の家来を連れて高麗郡に移住しました。

高麗郡は現在の埼玉県西部から東京都の多摩地方にまたがっています。

高麗王の部下に農産物の増産を指導する人もいたらしく高麗郡は豊かになったそうです。そして無理な増税は強制しなかったようです。要するに大変評判の良い統治をしたのです。

高麗王は武蔵国の高麗郡に移住する前は神奈川県の大磯を治めていました。そこでも評判が良く、高麗郡へ去ったあと大磯の人々は高麗寺(現在は廃寺)と高来神社を作りました。

兎に角、大磯でも高麗郡でも高麗王は農民を大切にする善い政治をしたのです。

その高麗王、若光は一度も朝鮮へ帰ることが出来ませんでした。故郷から遠く離れた異境の土になったのです。

高麗王の没後、三男の聖雲が、現在の聖天院を建立し、一族の菩提寺にしたのです。

聖天院の後には高麗神社があり高麗王、若光が祀られています。そしてその神主は代々、現在に至るまで高麗王の子孫が務めて来ました。

朝鮮から亡命した王様が日本の武蔵国の高麗郡を見事に治め、現在も人々に慕われているのです。少し話をした住職さんの大黒さん(奥さん)が若光さんのお墓も忘れないで拝んでいって下さいと言いながら場所を教えてくれました。

時空を超えた、何か大きな歴史ロマンを感じながら境内の写真を撮って来ました。

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はるか遠くへの旅(3)北海道、渡島当別(おしまとうべつ)のトラピスト修道院

2013年03月28日 | 旅行記

2012年の6月に函館の湯の川温泉に3連泊して、4日間、レンタカーで道南の一部を丁寧に見て回りました。

函館の西の松前は日本海に面しています。南は津軽海峡です。東の恵山道立公園から北は太平洋に面しています。

2日目には津軽海峡沿いに西へ丁寧にたどり松前の城下町を訪ねました。

次の日は東海岸太平洋沿いの海岸を根気よく森町まで北上しまさした。

特に東海岸は、函館、恵山道立公園、白尻町縄文土器展示館、森、大沼公園、とかなり丁寧に見て回りました。

何処も最果ての地のような感じでした。生活が厳しそうで胸が痛みます。

その中で特に強烈な印象を受けたのがシトー派のトラピスト修道院でした。函館の西、30km程のJR渡島当別駅から奥に入った寒冷な原野にあるのです。

1896年、明治29年に津軽海峡を越えてやって来ましたフランスの厳律シトー派の流れを汲むトラピスト派の数人の修道士が作った修道院です

石ころの多い熊笹の原野や深い森を切り開いて、何年もかけて乳牛の放牧場を作り、レンガ造りの建物を建設したのです。

レンタカーを駆って訪問してみると、観光客の少ない深閑とした林の中に修道院本館と大きな牛舎が高い塀の中に見えます。その外は一面に牧草が生えた放牧場です。

何故か深い印象を受けたので、4日間に4回も訪問しました。周囲の景観が素晴らしいだけでなくこの修道院の苦難の歴史に感動したからです。

以下はトラピスト修道院の古いほうのHPhttp://www3.ocn.ne.jp/~trappist/index.htmlから引用しました。

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 - 祈り -
 「聖務日祷の時刻には、合図が聞こえるや否や、どのような仕事に携わっていても即座にこれを差し置き、急いで集合しなければならない」(戒律43章)観想修道者の最大の務めは、一日に7回の祈りをささげることです。「神は霊である。だから神を礼拝する者は、霊と真理とをもって礼拝しなければならない」(ヨハネ4.24)と主イエスは仰せられました。したがって、修道者は常に真理の霊に生かされ、主によって示された教えに基づいて、神をたたえ、いただいた恵みを感謝し、必要な恵みを願い、犯した罪やあやまちの赦しを願うのです。神はどこにでもおられますし、すべてを知っておられますが、とりわけ聖体の安置されている聖堂で全員集まって熱心な祈りをささげる時、神が必ずこれをきき入れてくださることを確信しています。修道者の祈りは自分たちのためだけではなく、神の助けを必要とするすべての人のためにささげられているのです。

 - 労働 -
 「怠慢は霊魂の敵である。われわれは師父たちや使徒の例にならって、みずからの手で労作し生活してこそ、まことの修道者といえるのである」(戒律48章)と聖ベネディクトは戒律の中で言っています。絶え間ない祈りの生活を続けていくためには、自分たちの働きで生計を維持し、同時に精神的、肉体的健康を保っていく必要があります。修道者たちは毎日数時間を労働にあて、互いに健康と技能を分かち合い、責任を分担しあって共同体の運営に寄与しています。自然界の中での労働(酪農・菜園・果樹園・庭園)、牧畜や農作業は、観想生活を助け、常に神の働きを体験する貴重な場になっています。「自然を見る者は神を見る」と言われているとおりです。修道者たちは、酪農のほかに、バターやクッキー、バター飴やジャムを製造し、つつましい仕事の中にも労働の価値を世にあかしする者になりたいと思っています。

 - 渡島当別 -  
 当別修道院は、函館から西方に約30・、JR江差線「渡島当別駅(おしまとうべつ)」で下車して徒歩25分のところにある。この地にヨーロッパから数名の修道者が来て、生活をはじめた。広大な敷地は今でこそ肥沃な美しい土地であるが、当時は「石倉野」と言われていた程、石ころが多く、熊笹の生い茂る荒涼たる原野であった。
 渡来した修道士たちは徐々に入会者を得て、苦労しながらこの原野を開拓し、道を作り、丘を平らにし谷をうずめて畑にかえ、今日の姿にしていったのである。生活の糧としては、トラピストの伝統である農耕、牧畜酪農に力を入れた。トラピストにとって、土地を耕したり、牛と共にすごす日々は神への賛美であり、感謝でもあった。
 当初、乳製品は日本人になじみ少なく製酪工場の経営は困難をきわめた。加えて、創立当初多国籍の当別修道院は、数知れぬ困難にあったが、院長を中心に一致団結してよくこれに耐え抜いた。第二次大戦後、酪農事業も日本人の生活水準が向上すると共に発展した。====以下省略=====

この修道院はローマ法王傘下のカトリック組織の一部で、戒律が厳しい事で有名です。修道士は一生の間、修道院敷地から出ません。早朝から夜まで、祈りと牧畜の労働だけで過ごします。

生産される乳製品の一部を外部へ売り、衣服や光熱費をねん出します。その製品はトラピスト・バターやトラピスト・クッキーとして現在でこそ有名ですが、昔は苦しい生活が続いたそうです。現在の修道士は外国人も居ますが、殆ど日本人男性です。

修道院の見学は女性禁止で、男子のみ往復ハガキで申請すれば可能です。

下の写真と共にご紹介いたします。

K_095_2

上は修道院の牧草地から見降ろした津軽海峡です。

K_067

正面入り口までは坂を登って一般の人も行けます。小さなレンガ造りの建物が開放されていて修道院の歴史や厳しい牧畜の様子の写真が展示してあります。

K_152

修道院の本館は木々のかげになって見えません。そこで500m位離れた場所からズームで撮った写真が上のものです。

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修道院の高い塀に沿って裏の方へ回ると古い木造の牛舎が数個あります。大きな扉を開くと乳牛が外に広がる牧草地へそのまま出て行けるような配置になっています。

下に修道院周辺の風景写真と歴史の説明板を示したます。

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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以下はトラピスト修道院の新しいHPから引用した写真です。

上の4枚の写真の出典は、http://www3.ocn.ne.jp/~trappist/ です。

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黒い頭巾を被った修道士が無言で食事をしている光景です。手話だけです。

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ミサの光景です。

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牧草地の冬景色です。

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朝焼けの風景です。

朝3時30分に起床し、以下のような日課が続き午後8時に寝てしまいます。

3:30 Rise        起床
3:45 Vigils        読書課
  silent prayer, reading,
5:30 Lauds        朝の祈り
5:45 Mass         ミサ聖祭
7:00 Breakfast      朝食
8:00 Tierce         昼の祈り
            午前中の労働
      Sext         六時課
11:30 Dinner        昼食
13:10 Nones        九時課
            午後の労働
17:30 Supper        夕食
19:15 Vespers and Compline 晩の祈り、寝る前の祈り
20:00 Retire        就寝


いろいろな桃の花々

2013年03月27日 | 写真

神代植物公園には桃の園があります。先週撮った写真です。お楽しみ下さい。

梅の清冽な美しさ、桜の優艶さとまた違うおもむきがあります。可憐な乙女のような親しみを感じます。紅、薄桃色、白。ひとえ、八重。咲き分け。枝垂れなど様々な園芸種」がありました。私はやはり山梨県の、実を採るために栽培している桃畑の桃色の桃の花が一番好きです。

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氷川丸の輝きと残照・・・係留されたままの50余年の淋しい風景

2013年03月27日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、久しぶりに横浜、山下公園に係留、展示してある日本郵船の氷川丸の船内を見て回りました。

1930年に横浜ドックで建造され、それ以来1961年まで31年間、シアトル、サンフランシスコ、ハワイなどと横浜の間を往復する豪華客船として華やかな航海を続けたのです。当時の日本の花形客船として輝いていたのです。

しかし1961年からは山下公園に係留されたままで、再び太平洋へ乗り出すことはありませんでした。

あちこち痛んだ巨大な船体を残照の中に横たえているような趣きです。

船は航海を続けてこそ活き活きしていますが、引退してしまうと何故か大変淋しい風景の一部になってしまいます。

昨日は、全長163メートル、総トン数、11622トンの大きな客船の中をくまなく歩き、昭和という時代のあれこれを懐かしく思い出してきました。老人の懐古趣味です。

しかし現在の豪華客船に比較すると氷川丸の内装がなんとなく貧弱です。日本が貧しかったころに精一杯頑張って作り上げた客船という感慨に打たれます。

こうして日本は無理をして欧米と大戦争をしてしまったのです。戦後に氷川丸が復員兵を満載して帰って来た様子も思い出しました。

それはそれとして下に昨日撮ってきた写真をお送りします。

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余談ながら私がオハイオで親しくなった小林 實さんはこの氷川丸に乗って渡米しました。

昨年、小林さんに頼んでその時の思い出の記を寄稿して頂きました。

以下はその記録です。小林さんも氷川丸も元気で活き活きしていました。茫々50年前のことです。

====1959年、氷川丸に乗ってアメリカへ留学した小林 實さんの乗船記===

氷川丸のこと

私が始めてアメリカへ行ったのは昭和34年、1959年のことですが、このことを書く際にどうしても素通りできないひとつの想い出があります。それは、現在横浜港に赤錆で船体が無残な姿でつながれている「氷川丸」のことなのです。今の大型客船に見慣れている方にとって、あのわずかに1万トンを超えたかぐらいの貨客船が太平洋を横断していたことは想像ができにくいかもわかりません。船体の安定装置のスタビライザーにしても、ハイテクのなかった当時のことですから、アリューシャン沖あたりで結構派手に揺れた記憶があります。<stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas></formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f><path o:extrusionok="f" gradientshapeok="t" o:connecttype="rect"></path><lock v:ext="edit" aspectratio="t"></lock><shape id="_x0000_i1025" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 247.2pt; HEIGHT: 162.6pt"></shape><imagedata src="file:///C:UsersGotoAppDataLocalTempmsohtmlclip11clip_image001.jpg" o:title="59-2氷川丸"></imagedata>

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   出航準備の氷川丸(今よりもきれいな船体だった)<shapetype id="_x0000_t75" coordsize="21600,21600" o:spt="75" o:preferrelative="t" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" filled="f" stroked="f"></shapetype>

この船は日本郵船のそれこそフラッグシップとして横浜-シアトル間の定期航路の貨客船として活躍しました。戦時中、真っ白な船体に塗り替えられ、病院船として働いたこともあります。幸い、戦争で沈没を免れた数少ない貴重な船のひとつです。建造は昭和5年、アールヌーボーの雰囲気の1等客室が好評で、戦前、チャップリンはじめ日本贔屓(びいき)の有名人が数多くこの船を利用したようです。昭和30年代から宝塚のアメリカ公演、これから申し上げるフルブライト留学生、高校生の留学などを一手に引き受けました。今、私の手元に残っている氷川丸の「乗船案内」と題したパンフレットがあります。そこには、「すててこ姿で船内を歩くな!」とありましたが、まだ海外旅行が解禁になるだいぶ前でしたから、船旅に慣れない日本人がこんな姿で外国人と出会うのを船会社が危惧したからなのでしょうか。

      Img_0678   <shape id="_x0000_i1027" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 156.6pt; HEIGHT: 228.6pt"></shape> <imagedata src="file:///C:UsersGotoAppDataLocalTempmsohtmlclip11clip_image003.jpg" o:title="59-3氷川丸"></imagedata>

     出航風景(日本を後にするのでテープが飛び交った)

当時はまだジェット旅客機がなかったころでしたから、今ではもうお目にかかれないパンナム(Pan American Airways)のターボプロップ「空飛ぶ2階建て」のストラトクルーザーが羽田サンフランシスコ間に就航していました。航続距離がもたないので給油のため羽田からウエーキ、ミッドウエイそしてホノルルで1泊しなくてはなりませんでした。今から思うと、アメリカはすなわち遠い国というイメージが強かったかと思います。

当時まだ渡航制限が厳しく自費留学は極めて少なくそれもアメリカに身元保証人が居り、生活の保障がドルでできなければならなかった時代です。1ドル360円しかも日本には外貨であるドルが少なく、持ち出しは一人50ドルまででしたから、それこそ闇で500円もしたものを補充しなくてはなりませんでした。こうした意味からも、政府が保証する交換留学生制度というのは人気があったわけです。横浜シアトル間は13日かかりますから一日1時間時計の針を遅らせればちょうど時差分に当たりまったく時差ぼけはこの航路では発生しません。 <shapetype id="_x0000_t75" coordsize="21600,21600" o:spt="75" o:preferrelative="t" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" filled="f" stroked="f"></shapetype>

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     洋上の氷川丸で(若かった小林さんの姿)

    Img_0680  <shape id="_x0000_i1029" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 141pt; HEIGHT: 201pt"></shape> <imagedata src="file:///C:UsersGotoAppDataLocalTempmsohtmlclip11clip_image007.jpg" o:title="59-5氷川丸2日目"></imagedata>

洋上の氷川丸(この写真は貴重です)

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 Img_0681

二等船室からの眺め(かなり閉塞感があります)

フルブライト留学制度というのは、アメリカの上院議員であったフルブライト氏が提案し1946年に法律として議会を通過しました。彼の発想は、わが国への原爆の投下にその大きな理由があったということです。氏は、世界の人がお互いにもっと知り合う機会を作れば無残な戦争など避けられる、すべてのアメリカ人に外国を知ってもらうのは無理だから、次世代を担う世界の若者たちにアメリカを見てもらう、いわゆる国際体験の機会を与えようというのがその発想です。

ですから、単に休暇であわただしく見て回るのではなく2,3年という定住型の留学をしてもらい、アメリカの生活になじむことに狙いがありました。この法律が当時まだ伝統的に教育や文化事業に関心の薄いアメリカ合衆国において、ましてや旧敵国人を招くなどという発想は議会を通るはずがなかったことは至極当然でしたでしょう。そこで、彼は名案を考えます。海外ことに戦敗国に残っているアメリカの在外資産をそれぞれの国に売却し、その支払いという形で留学生をアメリカに送る経費としてそれぞれの国にこれを負担させるというものでした。

戦後どの国もドル不足に悩んでいましたし、その支払いは自国の通貨で対応可能ということですから払うほうも楽なわけです。つまり、この法案が議会をうまく通過した最大の理由はアメリカの在外資産をうまく処理できるということをうたい文句とし、留学生制度をつけたしたのです。この法案がほとんど抵抗なく上下両院を通過し、1946年に法律として大統領が署名して成立しました。日本は1951年に1回目の留学生を送り込みました。(終)

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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


水力発電の面白さ(2)水力発電所の総数といろいろなランキング

2013年03月25日 | 日記・エッセイ・コラム

ここ数日、日本にある水力発電所の総数とその構造別の数を調べていますが、全然分かりません。気持が落ち着きません。そこで下の絵を見て心を静めています。絵は鹿之助の「雪の発電所」で、出典は:http://www.us-vocal-school.com/weblog/music_life/archives/images/2012/01/120108_snow.jpg です。

120108_snow11

さて総数はエレクトリカル・ジャパンのHP(http://agora.ex.nii.ac.jp/earthquake/201103-eastjapan/energy/electrical-japan/type/4.html.ja)に1973カ所まで明記してあります。

しかしこの1973ケ所の発電所には昭和電工や揖斐川電工のような民間会社の所有する水力発電所は含まれていません。

戦前からカーバイト製造や溶融アルミ電解製錬や高温合成化学などの製造をしていた民間会社は自分で水力発電所を持っていたのです。現在でも多くの民間会社が水力発電所を所有していると思われますので1973カ所より数百ケ所多いと考えるのが適切と思います。

さてそれはそれとして、水力発電所には水路式発電所とダム発電があります。

ですから水路式が&&&ケ所、そしてダム発電が&&&ケ所なので総計は&&&&ケ所と明記してあると思いさんざん探しました。

しかしそんな資料が何処にも無いのです。

下に水路式水力発電所とダム式水力発電所の見取り図を示します。

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  左が水路式で               右がダム式です。

この構造上の違いを頭に入れておいて水力発電のいろいろなランキングを見てみましょう。出典は「水力ランキング」(http://www.enecho.meti.go.jp/hydraulic/kid/learning/top.html)です。

発電所の最大出力のランキングは以下のようになります。

最大出力の左は完成当時のもので、右のは現在の最大出力です。右の数字の出典は、http://agora.ex.nii.ac.jp/earthquake/201103-eastjapan/energy/electrical-japan/type/4.html.jaです。

1位、田子倉           38万Kw   40万Kw

2位、奥只見           36万Kw   56万Kw  

3位、佐久間           35万Kw   40万Kw

4位、黒4             33万Kw   33万Kw

5位、有峰第一(成願寺川)  26万Kw   26万Kw

上の5つはダム式です。

上の最大出力の40万Kwや50万Kwという値は普通一個の火力発電所の出力が120万Kwという値に比べるとかなり小さな値です。

水力発電が日本の全電力の10%以下しか発電していないのはこの小さな最大出力能力のせいなのです。

さて最大出力が大きい発電所でも水がすぐに枯渇するようなところは頼りになりません。

そこで各発電所の年間総発電量のランキングを見る必要があります。

1位、佐久間    年間発電量:143万MWh

2位、信濃川    年間発電量:119万MWh

3位、黒4      年間発電量:93万MWh

4位、新小千谷   年間発電量:85万MWh

5位、千手      年間発電量:72万MWh

・・・・・・

9位、奥只見     年間発電量:61万MWh

10位、田子倉    年間発電量:59万MKh

上のランキングを見るとJR東日本の所有する新小千谷発電所や千手発電所が良い発電効率を上げていることに驚きます。

その事情は、水力発電の面白さ(1)JRの電車の電気を発電している信濃川発電所 で説明しました。

さてここからが頭の痛くなる話です。

ダム式水力発電所には上でご紹介した水力発電所の他に揚水式水力発電所が沢山あるのです。

電力の要らない夜間に火力発電が余るのでその電力でダムの下から上へ水を上げて置くのです。そして夏場の昼間の電力不足が起きそうな時にドッと上の水を流し、大電力を得るのです。

ダムの上流からの水の補給が無い場合には、夜間に使う電力より昼間の発電量が少なくなります。上流からの水の供給が無ければ揚水式水力発電所は正味の発電量がマイナスになります。ですから揚水式発電所は厳密な意味で発電所ではありません。

しかし巨大な蓄電池の役割をするので電力危機を救う重要な役目があるのです。

その最大出力ランキングは以下のようになります。

1位、奥多々良木        193万Kw

2位、奥清津第二        160万Kw

3位、奥美濃           150万Kw

4位、新高瀬川          128万Kw

5位、大河内            120万Kw

以下省略、詳しくは、http://www.enecho.meti.go.jp/hydraulic/kid/learning/top.htmlにあります。

さて以上のようにいろいろなランキングが理解できると水力発電の分類の仕方がいろいろあることが分かります。

分類方法が理路整然と一つに統一しにくいのです。

統計を取る人々によって分類の仕方が変わります。数の勘定の仕方も大電力会社の所有する水力発電所だけにしたり、小規模な発電所は数えなかったりします。民間会社の所有のものは統計に入れません。そのような事情で科学的に明快な統計が無いのです。困ったものです。

どなたかこの方面に詳しい方のご指導を頂ければ嬉しく思います。(続く)

下に美しい磐梯熱海の水路式水力発電所の写真を示します。

出典は、http://blog.goo.ne.jp/i_haruo/e/70b0386d0dabe9e4217685ec7a8660b7です。

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熱海町(福島県郡山市)には水力発電所は3ヶ所あり、猪苗代湖の水を通し発電している。磐梯熱海温泉街から見える丸守発電所は大正10年に建設され、当時は大峰発電所と呼ばれていた。ちなみに、猪苗代湖(福島県)に最も近い沼上発電所は、福島県内で2番目に作られた発電所。発電機3台で合計出力5900kW、最大使用水量は毎秒8.18トン、有効落差は87.36m、。