後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

細川呉港著、「桜旅」(愛育社出版)のご紹介

2020年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム
2017年の2月に細川呉港さんから一冊の新刊書が送られて来ました。
細川呉港著、「桜旅」(愛育社出版)という2016年4月11日出版の本です。ネットで簡単に購入出来ます。1800円です。
この本は桜のことが出て来ますが、主題は無名の人々のせつなく美しい生き方を描いた本なのです。12の章に分かれていて、それぞれに桜を植え、育てた無名の人々の美しい生き方が描いてあるのです。

1、千島桜、2、桜が美しいと思うようになったころ、3、河津桜発見から伊豆の「町おこし」顛末記、4、しぐれ桜、5、小督の桜と女の一生、6、、京都金閣寺の奥の桜の谷にひそむ秘密、7、小督の桜を訪ねて、その後、8、台湾で桜を植え続ける老人ーある日本語族、9、奈良の都の八重桜とは?、10、ノモンハン桜(蒙古桜)、11、冬桜の発見、12、西行桜を見て死ぬ。

このように各章の見出しを書いていると細川呉港氏がそれぞれの桜に関係した人々へ暖かい心を寄せているのがしみじみと分かってきます。
例えば、1、千島桜の章では、国鉄が国有鉄道だった時代の職員が皆勤勉で実直な人柄だったと書いています。生涯、ただひたすら勤務に忠実に、真面目に生きて行くのです。その一例として北海道の国鉄職員だった佐々木栄松という実在の人物を紹介しています。彼が先輩のT老人から千島桜の鉢植えを譲り受け、庭に植えかえたら見事な大木になったという話です。
このような話が12章に渡って書いてあるのです。
その中で「2、桜が美しいと思うようになったころ、」だけは趣が少し変わっています。自分の幼少のころから見てきた呉の高台に見事に咲いていた桜並木の話なのです。彼は呉に生まれ育ったのです。
呉といえば海軍の港があり、そこから数多くの将兵が桜花を見上げて出撃して行ったのです。戦艦武蔵や戦艦大和や数多くの巡洋艦、駆逐艦、潜水艦が出て行きました。桜に見送らて出て行きました。そして2度と帰って来なかったのです。
その桜並木が近年、全て切り倒され、切株だけが残っているのです。高台まで住宅が出来てしまい、桜並木の近所の家の主婦が落ち葉の掃除に困ると言い出したのです。自治体の役所は主婦たちの言いなりに全て切り倒してしまったのです。淋しい心です。

こんなことも書いてある本が細川呉港氏の「桜旅」という本です。
細川呉港氏の過去の出版の『満ちてくる湖』 (平河出版)、『草原のラーゲリ』 (文藝春秋) などの主題も全て無名の人々の感動的な生き方です。

ある民族の歴史の記録にとって一般庶民の暮らし方や喜怒哀楽の記録も重要なことは論を待ちません。
細川呉港氏の興味と関心はそこにあるのです。そして無名の人々の美しい人生を探しては本にして世に送り出しているのです。
それは大変重要な歴史書です。将来、その重要さが高く評価される歴史書です。

しかし細川呉港氏はそんな気で書いていません。ただひたすら美しい人生を探して、探して彷徨っているのです。そんな細川呉港氏の人生もせつない、そしてひたむきな生き方として人々の胸を打つのです。
細川呉港著、「桜旅」とはそんな内容の本なのです。

今日の挿し絵代わりの写真は小金井公園の桜の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「細川呉港著『舞鶴に散る桜』の書評」その三

2020年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム
細川呉港著『舞鶴に散る桜』は飛鳥新社が出版した 352ページの本です。目次は次の通りです。
序章 舞鶴の丘に新しい桜を植える
一章 真珠湾に落ちたゼロ戦
二章 進駐軍と舞鶴 日系アメリカ情報部隊MISとCIC
三章 「かえり船」の港の見える丘
四章 フジオ高木 はじめて死の淵に立つ
五章 受け継がれる桜を植えた人の心

前回の「書評、その二」では三章「かえり船」の港の見える丘、までの内容をご紹介しました。今回は四章と五章の内容をご紹介します。
三章では昭和48年、1975年に舞鶴市の市会議長の矢野健之助が「ハワイ日系二世をしのぶ友好平和のサクラ」の石碑を立てたと記しました。しかし昭和24年にフジオ高木がソメイヨシノを植えてから24年も経過したので誰が植えたかわかりません。そこで矢野健之助と関係者はハワイの日系新聞の協力で徹底的に桜を植えた日系兵を探します。
数年以上も探しますが桜を植えた人が分らなかったのです。

四章 フジオ高木 はじめて死の淵に立つ、では桜を植えたフジオ高木の一生を詳しく説明してあります。そしてハワイの新聞で知っていながら、何故名のり出なかったか理由が書いてあります。フジオ高木は舞鶴で知り合った日本人と結婚し、そのご朝鮮動乱の戦場に出てベトナム戦争に参戦し1973年に除隊しました。除隊後、妻の実家のあった舞鶴を訪問します。若かった妻と当時の舞鶴を思い出し歩きまわります。そして「一章 真珠湾に落ちたゼロ戦」にある戦死したパイロットの奥さんを訪問し最後の様子を報告したのです。
この章には自分がハワイで貯めたお金で桜を植えたのにフジオ高木が名乗り出なかった理由も書いてあります。それは名乗り出るほどのことではないと思っていたからです。これこそ日系二世のつつましさです。

五章 受け継がれる桜を植えた人の心、ではいよいよ桜を植えたのがフジオ高木だったと判明します。きっかけは1992年の真珠湾攻撃50周年の行事でした。読売新聞が「真珠湾の人々、あれから50年」という7回の詳しい連載記事を掲載したのです。
その7回目の記事で舞鶴に桜を植えたフジオ高木と妻、弥生のインタビュー記事が出たのです。この新聞の日づけは1991年、平成3年12月8日でした。舞鶴に植えたのが1949年でしから実に43年たってからフジオ高木が植えたと確定したのです。
そして舞舞鶴市は1994年に高木夫妻を招待し感謝の宴を開いたのです。この行事は日本の全ての大新聞が報じ、テレビも特集番組をいろいろ組みました。
現在舞舞鶴市のその桜はアロハ桜保存会によって植え継がれ名所になっています。
フジオ高木は2004年に亡くなりました。享年84歳でした。

細川呉港さんが何故この本を書いたのでしょうか?何故こんなにも丹念に根気よく忘れられた事を調べ上げたのでしょうか?この本は太平洋戦争に巻き込まれた人々の記録です。歴史書です。細川呉港さんこの本を書いたのは桜花に対する深い愛があったからです。
彼は本の終わりに書いています。・・・何故舞鶴の人々は70年以上も前に植えられた桜にこだわり大切に保存するのか? それは桜を愛する人にとっては、かけがいのない大きな大きな心の財産だからである。桜を愛でる人の気持ち・心は、愛でない人には全く分からない。・・・
この言葉の意味は細川呉港著、「桜旅ー心の歴史秘話を歩く」を読むと一層深く理解出来ます。

さて長くなったので関連の写真を示して終わりにします。

1番目の写真は日本に進駐したころの若かりしフジオ高木です。

2番目の写真は行進する日系兵の第442連隊戦闘団の様子です。(1944年、フランス)

3番目の写真は日系兵の第442連隊戦闘団を閲兵するトルーマン大統領(1946年7月15日)です。トルーマン大統領はソフト帽をかぶりレインコートを着て中央を歩いています。

4番目の写真は日系兵の元兵士らの前で議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名するオバマ大統領(2010年)です。
この本の内容をもう一度総括します。焼け跡で多くの日本人が食うや食わずの時、舞鶴の丘の上に桜を植えたのは誰か? 43年間名乗り出なかった日系2世の兵隊とは?。この問題を丹念に調べその結果を書いた本です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料========================
(1)日系兵士の第442連隊戦闘団について
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC442%E9%80%A3%E9%9A%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E5%9B%A3
第442連隊戦闘団は、第二次世界大戦中のアメリカ陸軍が有した連隊規模の部隊である。士官などを除くほとんどの隊員が日系アメリカ人により構成されていた。ヨーロッパ戦線に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘した。その激闘ぶりは連隊に従軍した約14,000人のうち、死傷率は314%であり、この数字は一人平均三回以上死ぬような大けがをしたということを示している。そして9,486人がパープルハート章(日本語では名誉負傷章、名誉戦傷章、名誉戦死傷章などとも訳される)を獲得した。アメリカ合衆国史上もっとも多くの勲章を受けた部隊としても知られる。
第二次世界大戦中、約33,000人の日系二世がアメリカ軍に従軍し、そのほとんどは本団、第100歩兵大隊、アメリカ陸軍情報部の3部隊のいずれかに配属された。

(2)著者プロフィール
細川呉港 は広島県呉市出身。1944(昭和19)年生まれ。出版社を経て現在フリー。現代中国、満洲、モンゴル研究は長い。東洋文化研究会の運営は今年で35年目になる。歴史に生きた無名の人物を掘り起こす作業を続けている。
著者に『満ちてくる湖』(平河出版)、『ノモンハンの地平』(光人社)、『日本人は鰯の群れ』(光人社)、『草原のラーゲリ』(文藝春秋社。中文版、モンゴル縦文字版、キリル文字版の翻訳書がある)、『紫の花伝書』(集広社)、『桜旅』(愛育出版)、『花人情(はなひとなさけ)』(愛育出版)、近刊『柔術の遺恨』などのほか、編著として『台湾万葉集』『バイコフの森』『孔子画伝』『西チベット ピアンとトンガの仏教遺跡』(いずれも集英社)など。

「カトリック小金井教会、今日は待降節第1主日でした」

2020年11月29日 | インポート
今日のミサは待降節第1主日のミサでした。もう今年も待降節になったのです。2日後には師走になります。クリスマスがやって来て年が暮れます。
皆様にも楽しいクリスマスが来ますように祈ります。今日のカトリック小金井教会の写真をお送ります。









「昨年の今頃はフランシスコ法王がご来日下さいました」

2020年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム
昨年の今頃はフランシスコ法王が来日して下さいました。法王は日本へ優しさと平和を持って来ました。日本人もそんな法王を大歓迎しました。人々が幸せな気分になりました。
今日はその思い出の記事です。
昨年の今頃は新聞やテレビは連日この楽しいニュースを報道し社会が明るい雰囲気になりました。フランシスコ法王は日本に「幸福」をおみやげに持って来たのです。
今日は日本での法王の様子を写した去年の写真をお送りします。写真はインターネットを検索してお借りしたものです。

1番目の写真は長崎にある26聖人像に花輪を供えてお香を焚いている場面です。殉教した日本人やスペイン人、ポルトガル人、メキシコ人を敬い祈ったのです。
日本に着いてすぐに長崎に飛んで来て26聖人像に祈ったのです。26聖人の中にはフランシスコ法王と同じイエズス会のパウロ三木がいるのです。日本への旅は法王にとって巡礼の旅でもあったのです。

2番目の写真は東京ドームで赤ん坊にキスしているフランシスコ法王です。赤ん坊はいささか迷惑そうな表情をしています。微笑ましい写真です。

3番目の写真は東京ドームでのミサの前に会場をトヨタの水素自動車で回っているローマ法王です。
数十人の赤ん坊や幼児にキスをしました。身障者や弱者の所では車を下りて優しい言葉をかけていました。

4番目の写真は文京区関口の東京カテドラルでの青年との集いで法被を着た法王です。青年たちがフランシスコ教皇と襟に染め抜いた法被を贈ったら直ぐに着たのです。そして嬉しそうに笑っていました。

5番目の写真は天皇陛下と会談中のローマ法王です。天皇は東日本大震災の被災者に会ったフランシスコ教皇へ感謝の言葉を伝えたそうです。そして地球の水や環境を大切することを話し合ったのです。
以上の写真は去年のローマ法王の日本での写真のほんの一部に過ぎません。
詳しくは以下の動画をご覧下さい。
フランシスコ法王の日本での活動の動画配信の全ては、
https://popeinjapan2019.jp/assets/file/live_sch.pdf にあります。
この中から例を示します。
長崎県営野球場での野外ミサの動画は、
https://www.youtube.com/watch?v=5ZcxoOlrsbY にあります。
長崎26聖人への表敬とメッセージは、
https://www.youtube.com/watch?v=vTc2sAiMOA8 にあります。
そして東京ドームでのミサは
https://www.youtube.com/watch?v=j_fLDeW2p98 にあります。

その他いろいろあります。いずれもカトリック中央協議会が配信しています。
それにしてももう一年たってしまったのです。月日の流れの早さに驚きます。
フランシスコ法王が日本を早く再度訪問して下さるように祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「細川呉港著『舞鶴に散る桜』の書評」その二

2020年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
細川呉港著『舞鶴に散る桜』は飛鳥新社が出版した 352ページの本です。
この本の内容はハワイの日系兵のフジオ高木が舞鶴に進駐した時に港の見える公園に桜の木を植えたという話です。フジオ高木は大阪から自分のお金で桜の苗木を取り寄せて植えたのです。
この本には「日系兵が舞鶴に桜を植えた」という本筋に関係の無い数多くのエピソードが書かれていて、その全てが興味深いのです。
それは戦後に人々は何を考えて生きて来たかという歴史的な記録になっているのです。
昨日の「書評、その一」では私自身が会った戦争花嫁と進駐軍の混血児を育てた沢田美喜にまつわるエピソードだけを取り上げご紹介しました。
しかしエピソードだけを紹介して行ってもこの本の全体像が分りません。そこで今日はこの本の目次を示し各章の内容を説明したいと思います。目次は以下の通りです。
目次
序章 舞鶴の丘に新しい桜を植える
一章 真珠湾に落ちたゼロ戦
二章 進駐軍と舞鶴 日系アメリカ情報部隊MISとCIC
三章 「かえり船」の港の見える丘
四章 フジオ高木 はじめて死の淵に立つ
五章 受け継がれる桜を植えた人の心
それでは上の各章の内容を簡単に紹介します。
「序章 舞鶴の丘に新しい桜を植える」の内容は2018年に舞鶴での桜の植樹イベントの開催の様子です。著者の細川呉港さんもハワイから来た9人の元日系兵と共に植樹の行事に参加しました。
戦後舞鶴に進駐して桜を植えたのがフジオ高木とその仲間だったのです。
これがこの本の文字通りの序章でした。
「一章 真珠湾に落ちたゼロ戦」では細川さんの故郷の呉市の戦後の状況を書いています。
町には進駐軍のジープが走り、それを見ると子供達が群がりチューインガムやチョコレ-トを貰ったものです。貧しげなヤミ市がたち復員服を着た男たちが何か売ってます。進駐軍の相手をするパンパンやオンリーさん達が沢山いました。戦争に負けるとはそういうことなのです。
そしてこの章ではフジオ高木が真珠湾攻撃の時、日本の戦闘機が海に不時着したのを目撃したことが書いてあります。フジオ高木が助けに行くと日本兵は飛行服を残し自殺したように海の中に沈んで行ったのです。フジオ高木は後に日本に招待された時、死んだ戦闘機のパイロットの遺族を訪れて報告します。この部分はこの章に書いてありませんが本の重要な出来事です。
この章には日本人のハワイとアメリカ本土の移民の実態と真珠湾攻撃による厳しい運命が具体的に書いてあります。

「二章 進駐軍と舞鶴 日系アメリカ情報部隊MISとCIC」ではフジオ高木が所属していたアメリカ陸軍情報部隊の活動が紹介してあります。情報部隊とは平服で隠密に活動するスパイの部隊なのです。舞鶴に進駐したのはシベリア抑留から帰国する日本兵からソ連の軍事情報や経済状態を聞き出すためだったのです。
このアメリカ陸軍情報部隊は太平洋戦争で拡声器を使い日本兵の投降を呼びかけ多数の日本兵の無駄死を防いだのです。全て日系兵でした。

「三章 「かえり船」の港の見える丘」では現在桜の名所になっている共楽公園に昭和24年にフジオ高木が日本人の迫水周吉の協力で100本のソメイヨシノを植えたことが書かれています。
昭和48年、1975年に舞鶴市の市会議長の矢野健之助が「ハワイ日系二世をしのぶ友好平和のサクラ」の石碑を立てます。
しかし昭和24年にフジオ高木がソメイヨシノを植えてから24年も経過したので誰が植えたかわかりません。石碑の碑文は間違いだらけでした。細川呉港さんはその間違いを丹念に調べあげたのです。
この細川呉港さんの間違いの謎解きがミステリー小説のように面白いのです。

さて記事が長くなりましたのでこの辺で止めます。
今日は以下の各章の内容のご紹介をいたしました。
序章 舞鶴の丘に新しい桜を植える
一章 真珠湾に落ちたゼロ戦
二章 進駐軍と舞鶴 日系アメリカ情報部隊MISとCIC
三章 「かえり船」の港の見える丘
続きは「書評、その三」で書きます。

今日の挿絵代わりの写真は先日撮って来た清瀬市の金山緑地公園の紅葉風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「細川呉港著『舞鶴に散る桜』の書評」その一

2020年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム
細川呉港著『舞鶴に散る桜』は飛鳥新社が出版した 352ページの本です。詳しくは版元のHPにあります。(https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784864107877 )
数日かけて読んでみて非常に面白かったので内容をご紹介しながら書評を書いてみたいと思います。私は書評を書く場合に他の人々の書評を検索して調べます。他の書評は大筋を紹介し差しさわりの無い書評をしていす。しかしこの本の面白さは本筋よりも部分的に散りばめたエピソードが非常に面白いのです。そこで私はいろいろなエピソードを紹介し、その書評をしたいと思います。
この本の内容はハワイの日系兵のフジオ高木が舞鶴に進駐した時に港の見える公園に桜の木を植えたという話です。進駐軍として舞鶴に来たフジオ高木がハワイから来たのでアロハ桜と呼ばれましたが、桜の苗木は大阪の池田から取り寄せました。

1番目の写真は細川呉港著『舞鶴に散る桜』です。
さて私は何故この本は非常に面白いと感動したのでしょうか。それは単に「日系兵が舞鶴に桜を植えた」という本筋に関係の無い枝葉末節の全てが興味深いのです。それは戦後の一人一人の日本人の心の動きの歴史的な記録になっているのです。戦後に人々は何を考えて生きたという歴史的な記録になっているのです。
その一例として今日の「書評、その一」では第一章の細川さんの故郷の呉市の戦後の状況を書いた部分をご紹介します。

彼は昭和9年生まれですから終戦の時は小学校でした。町には進駐軍のジープが走り、それを見ると子供達が群がりチューインガムやチョコレ-トを貰ったものです。貧しげなヤミ市がたち復員服を着た男たちが何か売ってます。進駐軍の相手をするパンパンやオンリーさん達が沢山いました。戦争に負けるとはそういうことなのです。
細川さんは彼女らを非難しません。細川さんは彼女達へ温かい目を向けています。世間が冷たい目を向けている戦争花嫁に同情しています。
ある戦争花嫁が渡米するため家を出る時、母親が言うのです。「今まで敵だったアメリカ人と一緒になるなら二度とこの家の敷居を跨ぐな!」と。花嫁は泣きながら横浜港を出港します。細川さんはそんな戦争花嫁の写真の展覧会で同情のあまり泣いてしまうのです。
以前の私は戦争花嫁をさげすんでいました。しかし1960年に留学したオハイオで何人かの戦争花嫁に会いました。ビールを飲みに行ったバーのカンターの向こうに戦争花嫁がいたのです。話を聞くと皆家庭の主婦でした。夫や子供の自慢をするのでです。私はさげすむのを止めました。

そしてして第一章にはこんなことも書いてありました。
1965年に細川さんは南米行の移民船にのります。そこで南米へ進駐軍の混血児たちを送って行く沢田美喜さんに会うのです。私は最近、「昭和時代を考える(6)進駐軍の混血児と沢田美喜の愛の美しさ」(2020年11月19日掲載記事)と言うものを書きました。
その中で、「1962年にはブラジルのアマゾン川流域の開拓を始め、聖ステパノ農場を設立し、孤児院の卒園生を数多く移住させました。そして1980年にスペインのマヨルカ島にて心臓発作のため急死しました。享年78歳でした。」と書きました。
1965年に細川さんが会った沢田美喜さんは聖ステパノ農場へ混血児を送って行く途中だったのでしょう。細川さんの記述は続きます。その20年後に南米に渡った混血児の生涯を調べたのです。しかし消息はありません。おそらく聖ステパノ農場は閉鎖されたのでしょぅ。ステパノは戦死した美喜さんの息子の洗礼名でした。
以上は『舞鶴に散る桜』の第一章の一部です。もっと沢山エピソードが書いてありますが長くなるので止めます。
この様に『舞鶴に散る桜』という本は本筋に関係の無い枝葉末節の全てが興味深いのです。
それは細川さんが会う全ての人々に心を寄せ誠実に付き合うからです。細川さんは宗教を語りません。政治やイデオロギーも語りません。そんなものとは無縁の世界の人々の美しさを描いているのです。是非皆様へお薦めしたい本です。

今日の挿絵代わりの写真は昨日、日野市の蚕糸の森公園で撮った紅葉です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===補足、「聖ステパノ農場」のその後=====
ペガサスAさん からのご投稿です。2020年11月27日 11:53

沢田美喜さんの開設した農場ははベレンから軽飛行機で数十分飛んで当時トメアスから奥に入った海外移住事業団トメアス移住地にあり、私は当時トメアス移住地に勤務していた(Aug./1967~ Jul./1969)ので2回程事務所でお会いしました。移住したエリザベスサンダースホームの若者達は次々と独立して行きました。50年ほど前のことですから現在は閉所処分されていると思います。





「今年もシクラメンの花を買ってきました」

2020年11月26日 | 写真
例年11月下旬になるとシクラメンの花を買いに行きます。今日は三鷹市のコーナンという大きなホームセンターに買いに行きました。毎年シクラメンの花を買うとすぐ師走になります。今年も足早に暮れ行くのでせしょう。
今日のシクラメンの花の写真をお送りいたします。最後の3枚目の写真は買って来たシクラメンです。





細川呉港著「草原のラーゲリ」という美しき物語

2020年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
数日前に細川呉港さんから「舞鶴に散る桜」という本を頂きました。以前に「草原のラーゲリ」という本と「桜物語」という本も頂きましたので細川呉港さんの力作の3部作が揃いました。
この3部作の本の写真をお送りします。





これら3つの本には戦争に振り回されながらも美しく生きようとする人間の心の動きがしみじみと描かれています。嗚呼、人間はこうも美しい心を持っているだと思わず涙を流します。歴史に現れない無名の人々の生き方を丹念に探し歩きそれぞれの人生を描いているのです。そのいろいろな人々を結ぶ縦糸は桜の花です。細川呉港さんは人間を愛しているのです。細川呉港さんは桜花を愛しているのです。
いずれ「舞鶴に散る桜」という本の書評を掲載するつもりですが、今日はまず「草原のラーゲリ」という本をご紹介いたさいます。
「草原のラーゲリ」は美しくもせつないモンゴル人、ソヨルジャブと日本人との絆を書いた本です。
嗚呼、何故モンゴル人はこんなにも純粋なのでしょう?一度日本人を信頼してしまったソヨルジャブは一生変節しないでせつないまでに日本人へ忠誠をつくします。
何故、ソヨルジョブさんはそんなに日本人との絆を大切にしたのでしょうか?
その絆には国境も政治も宗教も介在しません。純粋で一途な美しい絆です。ソヨルジャブさんが日本人との絆を生涯守ったのは何故でしょうか。深い感慨にとらわれます。
この本は大学時代の友人の竹内義信さんにお教えて頂いた一冊でした。は細川呉港氏の書いた『草原のラーゲリ』」(文藝春秋社、2600円)という本のことです。
細川呉港氏は1944年広島県生まれ。集英社勤務を経てフリーになった人です。
モンゴル人、ソヨルジャブは1925年、満州西部のハイラル(海拉爾)近傍の村に生まれました。優秀だった彼はハルピン学院を卒業し、満州国の官吏になり、ハイラル県公署(県庁)のエリート青年職員として働いていました。
昭和20年(1945年)8月9日未明、突如飛来したソ連軍機の空襲があります。
数日もすれば、ソ満国境を突破して怒涛のようにソ連戦車が押し寄せてくるに違いない。彼は南の草原に逃れて難を避けたが、それは苦難の始まりに過ぎなかった。
ソ連支配の外モンゴルと中国支配の内モンゴルの間で、興安四省のモンゴル人は右往左往する。結局、ヤルタ会談の密約があって独立できず、外モンゴル統合もかなわず、中国領内にとめおかれる。ソヨルジャブは社会主義を学ぼうとウランバートルに留学します。

だが、スターリニズムは決してユートピアでないことに気づく。そこから運命は暗転したのです。留学を終えた1947年、公安に逮捕されたのです。日本の対ソ要員育成施設だったハルピン学院で学んだ経歴が、スパイと疑われたのだ。懲役25年。首都の南にあるラーゲリに放りこまれる。囚人の中には、ドイツ帰りの知識人や詩人もいたという。
彼はそこに7年いて突然、中国への引き渡しが言い渡された。やっと帰郷できるかと思いきや、国境を越えると「反革命」「反中国」の烙印を押され、内モンゴルのフフホトの監獄に入れられる。一難去ってまた一難。ラーゲリのたらい回しである。
ソヨルジャブは56年、青海省の西寧労働改造所へ移送された。モンゴル人囚人のなかで彼だけ、北京から1800キロ、チベットの裾にある高原地帯に送られたのだ。郷里はいよいよ遠い。そこからはは9年半後、65年にやっと仮釈放が実現した。ラーゲリ暮らしは合わせて17年である。ところが、文化大革命が始まろうとしていた。流浪はまだ終わらない。

国家の崩壊を目のあたりにするのは一生に一度あるかないかだが、日本撤退後の中ソの谷間で翻弄されたこんな人生もあったのか、と驚かされる。満蒙開拓団の悲劇は語り伝えられても、日本の傀儡国家に忠誠を誓い協力した多くの人々の運命は知られていない。
ソヨルジャブが正式に帰郷できたのは、ハイラルを離れてから36年後である。気が遠くなるような歳月だ。
文革大革命も終り名誉回復したソヨルジャブはフフホトで日本語塾を開き、のち民主化されたモンゴルでも日本語学校(展望大学)を開校しました。
そしてその後、中国領のフフホトで暮らし、日本へ何度も来たうえ、モンゴル人の研修生を日本に多数送ったのです。
彼は偶然にも満州国の官吏になったお陰で苦難の人生を歩むことになったのです。
しかし強制収容所の生活を17年もしても日本人を裏切らなかったのです。
このような人は数多く居たに違いありません。

何故、ソヨルジョブさんはそんなに日本人との絆を大切にしたのでしょうか?
その絆には国境も政治も宗教も介在しません。純粋で一途な美しい絆です。ソヨルジャブさんが日本人との絆を生涯守ったのは何故でしょうか?その理由は謎です。
しかし人としての絆を守り抜く人の人生は燦然として輝いています。彼にとっては美しい人生とはそんなものでした。
彼は2011年に86歳で人生を終わります。その後、日本で開催された「ソヨルジャブさんを偲ぶ会」には奥さんが出席しました。
ソヨルジャップは昭和17年に生まれ故郷の満洲蒙古、ハイラルの省公署に勤務しました。その役所は興安北省公署だったのです。省長はモンゴル人、その下に日本人の参事官や職員もいたが、実質的には参事官がすべて行政をとり仕切っていたそうです。
その興安北省公署の参事官が藤田藤一だったのです。そこでソヨルジャップが人格者の藤田の下で働き強い絆で結ばれたのです。
しかし終戦3ケ月前に藤田は召集され関東軍の少尉になったのです。
その藤田少尉がソ連侵攻の日の8月9日、興安北省公署へ戻って来て、日本人へ汽車でチチハルへ避難するように指示し、自分はソ連軍を迎え討つために前線へ向かいます。
そしてソヨルジャップに自分の家族を頼み、永遠の別れをするのです。その場面を細川呉港の本に次のようにかいてあります。
・・・・そのとき、省公署の広い庭に一台の日本軍のトラックがエンジンの音を唸らせて入ってきた。荷台に武装した日本兵を30人ほど乗せていた。トラックは、庭を半分まわりながら爆撃された省公署の建物を確認して停まった。助手席から降り立ったのは、金の帯3本に星のついた襟章の少尉だった。
 それは3カ月前に教育召集された藤田参事官だった。誰もが、あっと声を上げた。日本軍が来たと思ったら、参事官だったからだ。藤田はトラックを降りるなり、駆け寄った何人の省職員の中から、ソヨルジャブを見つけ、ちょっと来いといって、建物に入り、階段を駆け上がった。いうまでもなく2階のエルヒム・バトウのいる省長室だった。モンゴル語も日本語も、ロシア語もしゃべれるソヨルジャブは、しばしば日本語のしゃべれないエルヒム・バトウや他のモンゴル人の通訳として使われていたのである。
 省長は次長とともに正面に座っていた。藤田は軍靴を響かせて省長に近づき、居住まいを正して大きな声で言った。
「省長閣下にお伺いいたします。今朝未明、ソ連軍が侵攻してきました。北と西、そして南からも満ソ国境を突破、目下各地で、日本軍が抵抗しておりますが、ソ連の戦車隊はまもなくハイラル市内にも入ってくると思われます」
 藤田参事官は、軍人口調で事実を報告し、これからの対策を省長に告げた。
「われわれ日本軍は、これから陣地に入って、ソ連軍に応戦します。ソ連軍のハイラル市内への侵入を一刻でも遅らせなければなりません。省公署の日本人職員は、まちの邦人全員ハイラル駅から列車に乗せ、チチハルまで避難させてください。そのあと日本人の男の職員は日本軍の地下陣地に入るように。また、省長閣下は車を用意します。南の草原にお帰りください」
 それだけ言って、藤田は再び音を立てて軍靴をそろえ、ちょっと声の調子を落として
「省長閣下、これが最後のお別れになるかもしれません。御達者で――」
と言うなり、踵を返し、部屋を出て階段を駆け下りた。通訳をしていたソヨルジャブもあわててついていく。
「おい、お前も故郷の草原に帰りなさい。これは日本とソ連との戦争なんだ。お前たちモンゴル人には関係ない。私は日本人だから死んでもいい。しかしお前はこれから先モンゴル人のために頑張るんだ」
 藤田は、階段を降りながら若いソヨルジャブにそういった。高飛車だが愛情のこもった言い方だった。
 広場に出た藤田は、振り返って省公署の建物を見た。3カ月前まで勤めていた省公署だ。が、すぐに広場に停めてあるトラックに急いだ。ソヨルジャブも急ぎ足で藤田についていく。 藤田が、トラックに乗り込もうとして、助手席のステップに足をかけたところで、彼はふと振り向いてソヨルジャブに言った。
 「僕は、このまま前線に行く。西山陣地に入るつもりだ。家族には会わないでいくけれど、よろしく頼む」・・・

これがソヨルジャップが聞いた藤田の最後の言葉になったのです。
ソ連軍戦車へ飛び込んだ藤田藤一少尉の物語は、「夏が来ると思い出す太平洋戦争(5)満州での日本人の大きな悲劇」(2018年07月26日掲載記事)にあります。

 藤田の家族は4人いましたた。奥さんと、7歳を頭にかわいい3人の娘たちだったのです。
しかしソ連軍の侵入で混乱したハイラルで、ソヨルジャップは藤田の妻と娘を見失ってしまうのです。その後、数十年間も探すのです。そして日本まで探しに来たソヨルジャップはついに藤田の妻と娘に会います。

こんなことが書いてあるのが細川呉港著「草原のラーゲリ」という本なのです。

「親友、近藤君が旅立った」

2020年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
歳を取ると昔仲良くしていた友人が一人、また一人と旅立って行きます。惜別の悲しみとともにその友人との楽しい思い出の場面が走馬燈の絵のように浮かび上がって来ます。
最近亡くなった近藤君は仙台の大学時代の同級生の友人でした。何事にも情熱的で夢多いロマンチストでした。大学の建物の屋上での私が撮った近藤君の学生服の姿の写真を思い出します。
やがて卒業し就職しました。東海村の日本原子力研究所で金属の腐食の研究を始めました。私は何度か東海村の近藤君の所に遊びに行きました。新婚だった彼の家に泊ったこともありました。
そして私がいたオハイオ州立大学への留学を誘ったのです。彼も奥さんもオハイオに来て博士号を取りました。そして東海村の研究所で生涯を過ごしたのです。我が家にも泊まりに来てくれました。旧友と学生時代の話をしながら酌み交わした酒はしみじみ美味しかったのを思い出しています。
定年後、近藤君は霞ヶ浦の私のヨットに何度か遊びに来ました。水戸から特急に乗ってやって来たのです。

1番目の写真は近藤君と霞ヶ浦でセイリングした時の写真です。今から15年ほど前でした。

2番目の写真は土浦港に係留してあった私のヨットです。
夜は近藤君とヨットに中でビールを飲みます。その時彼が言ったのです。「こんな面白いものに仙台時代の同級生も誘ったら良い」と言うのです。

3番目の写真はそうして開いたヨットの中のパーティです。近藤君を含めて同級生が6人来ました。皆は土浦駅前のホテルに泊まり次の日は霞ヶ浦でセイリングを楽しみました。この時参加した星野君も大友君もその後旅立ってしまったのです。
近藤君は研究所を止めてからも元気でした。畑でいいろな野菜を作り宅急便で送って来ました。新鮮な野菜は美味しいと分ったのは近藤君のお陰です。
彼は原子力発電は重要な技術だから止めるべきではないという講演をあちこちでしていました。
以下はこの欄に2011年08月06日に掲載した記事です。
「原子力の先進技術から日本が徹退する手はない・・・近藤達男さんの主張」
このブログでは何度も私は「段階的脱原発論」を展開して来ました。
しかしその反対意見も時々掲載してきました。今回は元日本原子力研究所で原子力の平和利用の研究をして来た近藤達男さんの、銚子市文化講演会の様子の写真をお送りします。

4番目の写真は記事が掲載された新聞の誌面の写真です。新聞は銚子市に古くからある新聞、「大衆日報」です。その2011年8月3日の紙面の写真です。
新聞の見出しを見ただけで彼の気持ちが痛いほど分かります。非常に数多くの研究者が一生を捧げて築いてきた日本の原子力利用の技術をムザムザ捨てても良いのですか?それは技術立国にしようと、えいえいとして努力して来た日本にとっては取り返しのつかない禍根になりませんか?原発からの撤退でなく、より安全な原発を開発すべきではないでしょうか?というような趣旨でした。(終わり)
近藤君は最後まで情熱家でした。ロマンチストでした。私の人生を豊かにしてくれました。
そして同じように大学時代の同級生の星野君も大友君も亡くなってしまったのです。
彼等への追悼の記事は次のとうりです。
「猪苗代湖の白鳥とヨット、そして今は亡き星野君を想う」(2014年12月17日 掲載)
「数日前、富士山で遭難した旧友(大友君)の思い出」(2018年09月15日 掲載)
「我が友人、星野君と大友君との最後のセイリングの写真と思い出」(2020年09月28日 掲載)
仙台の大学の同級生は30人でした。もう7,8人旅立ってしまいました。大学時代の彼等の若い元気な顔を思い出します。
悲しみながらも楽しかった場面をいろいろ思い出します。老境の悲しみと楽しみです。

それはそれとして、
今日は縁あってこの拙文をお読みになった皆様の長寿をお祈り申し上げます。  後藤和弘

「東京と埼玉を流れる黒目川源流の雑木林の紅葉」

2020年11月22日 | 写真
黒目川は東京都東久留米市と小平市にまたがる小平霊園内の「さいかち窪」の雑木林に源流があります。川そのものは東久留米市、埼玉県新座市、朝霞市を流れ朝霞市大字根岸で新河岸川へ合流し、その先は荒川に流れ落ちます。
源流の雑木林が昔の武蔵野のように良く保存されて美しいので四季折々何度もその林を眺めに行きます。昨日も行ったら源流の雑木林が美しく紅葉していました。昨日撮って来た写真です。お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。







竹内義信著「遥かなるハイラルと仙台の大学生活」

2020年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム
竹内義信君は私の仙台の大学時代の友人です。満州で生まれ育ち終戦後に引揚げてきました。
数年前にこの欄にハイラルでの小学校の思い出やイタリア駐在時代の記事を寄稿してくれました。今日は満州の建国の記事を掲載したので関連の記事としてこれをお送りします。
この竹内君の文章を読むと満州の実態や戦後の新制大学の混乱ぶりがあぶり出されています。これは民衆の立場から見た日本の敗戦にまつわるささやかな歴史書になっています。
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竹内義信著「遥かなるハイラルと仙台の大学生活」

(1)遥かなるハイラルの小学校
海拉爾(ハイラル)とは満州の北西の端にある町です。
当時の住民はロシア人と満州人の漢民族が主で、他に蒙古人でした。そこに関東軍が堅固な陣地を構築し、多数の日本人が住んでいたのです。
ハイラル駅付近を新市街と称し、多くの日本人が住み役所を置きハイラル地方を統治していたのです。
純然たるロシア人は5000人ほどで、道路は広く、区画は整然としていたそうです。
北側に城壁と大門があり、東、南、西側には城壁がありませんでした。東に伊敏河(イミンホー)が流れ、西に西土山があります。南は茫々たる草原でした。
私はこのハイラルに存在していた日本の小学校で4年生まで勉強していました。ハイラル小学校は昭和8年4月1日に開校され昭和20年8月9日のソ連軍の侵攻で消滅します。最盛時の昭和19年には児童数は400人にも増大し、職員数も20人以上いたそうです。それが昭和20年8月9日のソ連軍侵攻で消えてしまったのです。昭和8年の開校以来12年4ケ月の短い命でした。
ハイラルの小学校は楽しい思い出ばかりです。その上郊外は一面の草原でした。
 私は昭和20年8月9日のソ連侵攻まで、ハイラルで平和に暮らしていたのです。
その海拉爾(ハイラル)の西側の砂山は西山と呼ばれてました。そこに生えていた赤松を「樟子松」と言います。
西山には樟子松が沢山生えており、20メートルを超えるものも少なくありませんでした。神社や忠霊塔の後背地になっており神々しさを与えるのに役立っていました。
学校から帰るとそんな場所が遊び場でした。
この平和な楽しい生活が昭和20年8月9日のソ連軍侵攻で突如崩壊してしまったのです。
苦難の引き揚げの後、郷里の新潟県の小千谷町に帰って来ました。
そこの小千谷高校から仙台の東北大学へ入学したのです。

(2)東北大学に入学出来て一番喜んだのは母
私は昭和29年(1954年)に東北大学に入学して、工学部応用化学科を昭和33年に卒業して、昭和35年に修士課程を終えました。昭和29年と言うのは戦後9年目で新制大学制度になってから5年目でした。
化学をやりたいと中学の時から決めていましたが、理学部にするか工学部にする迷いましたが、就職のことを考えて工学部にしました。
私が卒業した新潟県立の小千谷高校からは前年工学部に三人、農学部に一人と四人も東北大学に受かっておりましたので、何とか入れるだろうと受験しました。
東北大に合格して母が一番喜びました。母は大正時代に東北大学医学部の看護婦養成所を出ていました。
満洲から引き揚げてからずっと小千谷で看護婦をやっておりました。私の入学式には「杜の都 仙台」が見たいと約30年ぶりに仙台を訪れましたが、戦災で街路樹が消失しており大変残念がっておりました。

(3)仙台での下宿生活が始まる
受験の時は長町の早坂医院に小千谷高から7名が宿泊して、二年上の加藤先輩と一年上の斉藤先輩のお二人がお世話をして下さいました。入学してからも私は早坂医院に下宿したので、小千谷高校の卒業生が6名となり、早坂医院の下宿生総勢17名の一大勢力となりました。
早坂医院と言うのは開業医だったのですが、先生が年を取られ廃業して、病室と診察室を利用した食事つきの学生下宿となっておりました。食事は一組8~9人の二交代制で、女中のオチヨサン(清子)が声を掛けると座式の食卓に並びました。奥さんのオバンゲルとお嬢さんのマスミさんも手伝っていました。
入学して早坂医院の昔の診察室に新潟県出身の三名が割り当てられました。長岡高出身の中川君と新発田高出身の佐藤君でした。12畳ほどの畳の大部屋に三人が机と布団を並べて暮らしました。
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こうして竹内君は応用化学科へ進学しますが、その専門教育については続編の、竹内義信著、「イタリアの魅力と大学の専門教育」という記事に続きます。

今日の挿し絵代わりの写真はハイラル郊外の草原と樟子松の林の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)





「昭和時代を考える(7)国際的に非難を浴びた満州の建国」

2020年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は昭和7年に満州を独立した国として建国しました。しかしこれに対してアメリカなど西洋の国々が強く非難をし、国際連盟はリットン調査団を派遣します。
この満州建国は後の昭和16年に始まったアメリカ連合軍との太平洋戦争の原因になったのです。
誕生から僅か13年で滅亡した満州国は日本を破滅に導いたのです。
今日は満州の建国と滅亡の歴史を説明したいと思います。
昭和6年の柳条湖事件を発端にし満州事変が起きます。そして短期間に満州を占領した日本軍によって満州国が建国されたのです。この満州の建国の経緯を箇条書きにして分かり易くします。

(1)満州事変とは?
満州事変は、https://ja.wikipedia.org/wiki/満州事変 に詳細な説明があります。分かりやすく抜粋を示します。

満州事変は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件 「柳条湖事件」に端を発し、関東軍による満州(中国東北部)全土の占領した軍事行動である。1933年5月31日の塘沽協定成立で終わった。日本と中華民国との間の戦争だった。中国側の呼称は九一八事変だ。 関東軍は約5か月で満州全土を占領した。
関東軍は奉天、長春、営口の各都市も占領した。奉天占領後すぐに奉天特務機関長土肥原賢二大佐が臨時市長となった。土肥原の下で民間特務機関である甘粕機関を運営していた甘粕正彦元大尉は、ハルピン出兵の口実作りのため、奉天市内数箇所に爆弾を投げ込む工作を行った。

(2)清朝皇帝だった溥儀の擁立
関東軍は、国際世論の批判を避けるため、あるいは陸軍中央からの支持を得るために、満洲全土の領土化ではなく、傀儡政権の樹立へと方針を早々に転換した。事変勃発から4日目のことである。
昭和6年9月22日、当時馮玉祥と孫岳により紫禁城から強制的に退去させられ、天津の日本租界に避難していた清朝の最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀に決起を促し、代表者を派遣するよう連絡した。

1番目の写真は天津時代の溥儀と婉容です。
昭和6年9月23日、羅振玉が奉天の軍司令部を訪れ、板垣大佐に面会して宣統帝の復辟を嘆願し、吉林の煕洽、洮南の張海鵬、蒙古諸王を決起させることを約束した。羅振玉は宗社党の決起を促して回り、鄭孝胥ら清朝宗社党一派は復辟運動を展開した。
特務機関長の土肥原賢二大佐は、溥儀に日本軍に協力するよう説得にかかった。満洲民族の国家である清朝の復興を条件に、溥儀は新国家の皇帝となることに同意した。11月10日に溥儀は天津の自宅を出て、昭和6年11月13日に営口に到着し、旅順の日本軍の元にとどまった。

(3)満州国の建国
1932年(昭和7年)2月初め頃には、関東軍は満洲全土をほぼ占領した。

2番目の写真は錦州の裕民洋服店附近を行く日本軍です。
3月1日、満洲国の建国が宣言された。国家元首にあたる「執政」には、清朝の廃帝愛新覚羅溥儀が就いた。国務総理には鄭孝胥が就き、首都は新京(現在の長春)、元号は大同とされた。これらの発表は、東北最高行政委員会委員長張景恵の公館において行われた。
3月9日には、溥儀の執政就任式が新京で行なわれた。1932年3月4日、熱河省都承徳を占領し、4月に長城線を確保し、万里の長城が満州国と中華民国の境界線になった。
昭和7年5月に五・一五事件が起き、政府の満洲国承認に慎重であった犬養は、反乱部隊の一人に暗殺された。

(4)日本の国際連盟脱退との関係
中華民国側は日本軍の軍事行動を侵略行為として国際連盟に提訴し、昭和7年、1932年3月、リットン調査団が派遣され、10月2日に日本の主張を認めない報告を発表した。
熱河作戦は満洲国領土を確定するための熱河省と河北省への進出作戦であった。陸軍中央では万里の長城以北に作戦範囲を限定し、悪化する欧米諸国との関係を局限して国際連盟脱退を防ごうと考えていた。
しかし、1933年(昭和8年)2月20日に閣議決定により日本国の国際連盟脱退が決定され、24日にはジュネーブで松岡全権大使が国際連盟の総会議場より退場した。

(5)満州国の滅亡と溥儀の逮捕(https://ja.wikipedia.org/wiki/満州国 )
皇帝溥儀をはじめとする国家首脳たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い、通化省臨江県大栗子に8月13日夕刻到着。同地に避難していたが、8月15日に行われた日本の昭和天皇による「玉音放送」で戦争と自らの帝国の終焉を知った。
2日後の8月17日に、国務総理大臣の張景恵が主宰する重臣会議は通化で満洲国の廃止を決定、翌18日未明には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満洲国は誕生から僅か13年で滅亡した。
溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場から飛行機で日本に亡命する途中、奉天でソ連軍の空挺部隊によって拘束され、通遼を経由してソ連のチタの収容施設に護送された。そのほか、旧政府要人も8月31日に一斉に逮捕された。

(6)日本兵と日本人入植者の悲劇と苦難

戦闘終了後、ソ連軍はほとんどの関東軍兵士を武装解除して捕虜とし、シベリアや中央アジアなどの強制収容所に送り、過酷な強制労働を課した。18歳から45歳までの民間人男性が収容され、65万人以上が極度の栄養失調状態で極寒の環境にさらされた。このシベリア抑留と引揚に苦難によって、25万人以上の日本人が帰国できずに死亡したといわれる。中華民国政府に協力した日本人数千名が中国共産党に虐殺された通化事件も発生した。
また、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った中国残留日本人孤児が数多く発生した。その後、日本人は新京や大連などの大都市に集められたが、日本本国への引き揚げ作業は遅れ、ようやく1946年から開始された(葫芦島在留日本人大送還)。さらに、帰国した「引揚者」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、苦しい生活を強いられた。政府が満蒙開拓団や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者らは後々まで困窮した。

以上が満州の建国と滅亡後の苦難の歴史です。最後にこの満州国の様子を示す写真を5枚お送りいたします。
写真の出典は、「満州写真館」(http://geo.d51498.com/ramopcommand/page035.html )です。
この「満州写真館」という写真集には数千枚の満州の写真が分類整理されていて貴重な歴史的記録となっています。

3番目の写真は大連の街の様子です。街の雰囲気が平和です。

4番目の写真は瀋陽です。満州時代は奉天と呼ばれていた市です。私ごとですが、1981年に、ここにある東北工学院へ集中講義に行ったことがあります。1981年当時は満州時代の街並みがそのまま残っていました。

5番目の写真は満鉄の「あじあ号」の写真です。

6番目の写真は「あじあ号」の食堂車の様子です。当時のモダンな女性が食事をしている光景です。

7番目の写真は「あじあ号」の最後尾の展望車の光景です。裕福そうな乗客が寛いでいます。
写真が示すように満州には良い時代もあったのです。
それにしても終戦後の、ソ連軍による蹂躙と、シベリア抑留、そして悲惨な引揚げの歴史によって満州のことは昭和時代の大きな悲劇でした。
現在の平和な日本がしみじみ良い国になったと感慨無量です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)

「奥多摩へ紅葉狩りに行きました」

2020年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム
秋も深まりました。東京の奥多摩も紅葉黄葉が美しい季節になりました。昨日その奥多摩へ紅葉狩りに行きました。JR奥多摩線の御岳駅から多摩川を遡りながら鳩ノ巣まで行き、あちこちに車を停めて紅葉の写真を撮りました。5枚の写真をお送りします。お楽しみ頂けたら嬉しいです。









紅葉を眺めて楽しむことを何故紅葉狩りと言うのでしょうか?
現在の紅葉狩りは単に紅葉を眺めるだけですが平安時代の貴族たちは紅葉を求めて山や渓谷へ行き真っ赤なもみじの木を手折り実際に手に取って楽しんでいたのです。
つまり昔の紅葉狩りは実際に紅葉を採っていたのです。ですから自然に紅葉狩りと呼んだと言われています。しかし自然保護を大切にする現代では実際に紅葉の木を折ることはしません。
現在は紅葉を求めて山や渓谷へ行き紅葉した美しい風景を楽しむことを紅葉狩りと言います。
紅葉狩りの由来にはもう一つ紅葉伝説があります。
平安時代に紅葉という名前の鬼女がいました。その鬼女を朝廷の命令で平維茂が討伐したのです。この話が由来になっているという説もあるのです。
この鬼女紅葉の伝説は能や歌舞伎や神楽の演目のひとつになっているのです。
詳しくは、「紅葉伝説」、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89%E4%BC%9D%E8%AA%AC に掲載されています。
さて紅葉の風景を楽しむのは日本人だけではありません。中国は勿論、紅葉風景が美しくなる国々の人は同じように眺め楽しむのです。
私は昔、スエーデンの大学で働いていたことがあります。季節は晩秋で、赤レンガの建物でした。その廊下に長い横窓がついています。窓の下に幅30cm位の棚が長くついています。その赤レンガの棚の上に枯れた麦が穂のついたまま無造作に置いてあったのです。
殺風景な廊下を通る度に私は一面に広がる麦畑を連想して心がほのぼのとしました。そして遥かな日本の紅葉風景を想いました。
穂のついたままの麦を飾っていたのは秘書の女性でした。季節によって飾るものを変えるそうです。
私は風流なのものが好きなのは人類共通であると思ったのです。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「昭和時代を考える(6)進駐軍の混血児と沢田美喜の愛の美しさ」

2020年11月19日 | 日記・エッセイ・コラム
この「昭和時代を考える」という連載では、私は日本の歴史の中で昭和時代にしか無かった大きな出来事を書いています。今日は戦後の進駐軍兵士の混血児を育んだ沢田美喜の愛を書きたいと思います。沢田美喜という女性の優しさと2000人に及ぶ恵まれない子供たちに対する深い愛情はきっと読む人に感動を与えるでしょう。
2018年の3月に私は大磯駅前にある沢田 美喜記念館を訪れました。そこは樹木の生い茂る山で、同じ敷地に孤児院エリザベス・サンダース・ホームがありました。そして現在、聖ステパノ学園小学校、中学校もあります。ステパノとは戦死した三男の晃の洗礼名です。
沢田 美喜はこの大磯駅前にエリザベス・サンダースホームを創設しました。それは終戦直後の1948年のことでした。
そして進駐軍兵士との混血孤児を育て上げたのです。その数は2000人近くと言われています。
始めは進駐軍と日本政府の両方から迫害をうけ、経営は窮乏を極めたそうです。しかし次第に沢田 美喜の愛の力が実り社会から賞賛されるようになります。
そして設立7年後の1955年に 昭和天皇陛下と皇后さまがエリザベス・サンダース・ホームを訪れたのです。
これがエリザベス・サンダース・ホームの社会的意義を決定づけたのです。
沢田 美喜の豊かな愛情は次の2009年のテレビ東京の番組で元の孤児によって語られています。
・・・「60代の元・孤児たちが、『ママちゃま』と呼ぶ沢田 美喜、2009-03-28」
(https://blog.goo.ne.jp/amesyun-goo/e/5ff48f5b9c297d19c9aaab67f07a9e84 )
親に捨てられた往年の孤児たちが、カメラの前で堂々と、「私たちの育った家庭は、サンダース・ホームであり、沢田 美喜さんが、ママちゃまです。ママちゃまは素晴しい人でした。いま、僕らがどれほど感謝しているか言葉では表せません。・・・」と語ったのです。
人間が一人育つこと、育てることはとても大変なことです。それを、二千人も相手にやり遂げた沢田 美喜さんの愛の力は美しく偉大でした。撮って来た写真を示します。

1番目の写真は沢田 美喜記念館とエリザベス・サンダース・ホームの入り口です。この右の奥には聖ステパノ学園小学校、中学校もあります。

2番目の写真は沢田 美喜の記念碑です。彼女は三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎の孫娘として生まれ、外交官の沢田廉三と結婚しました。4人の子に恵まれるますが三男、ステパノ晃は南方で戦死しました。敗戦直の1948年にエリザベス・サンダースホームを創設しました。エリザベス・サンダースは最初に寄付してくれたアメリカ女性の名前です。

3番目の写真は沢田美喜記念館です。一階が展示室になっていて、2階が礼拝堂になっています。

4番目の写真は沢田美喜が世界各国から集めたいろいろなデザインの十字架です。

5番目の写真は沢田美喜を紹介した新聞などの展示です。なお彼女は隠れキリシタンの遺物の収集家としても有名で展示には隠れキリシタンの遺物も沢山あります。
沢田美喜は1901年に三菱財閥の3代目総帥・男爵岩崎久弥の長女として現在の東京都文京区に生まれました。1922年にクリスチャンの外交官・沢田廉三と結婚してカトリックの洗礼を受けました。1962年にはブラジルのアマゾン川流域の開拓を始め、聖ステパノ農場を設立し、孤児院の卒園生を数多く移住させました。そして1980年にスペインのマヨルカ島にて心臓発作のため急死しました。享年78歳でした。

それにしても沢田美喜の愛の力は偉大でした。女性の強く美しい優しさです。
時代が流れて進駐軍兵士の混血児問題も無くなりました。その後はエリザベス・サンダース・ホームと聖ステパノ学園小学校・中学校は孤児を含め幸の少ない子供達に愛をふり注いできました。大磯の山の上で沢田美喜の愛の美しさを今に伝える場所です。
尚ここに示した写真は妻が撮ったものです。沢田 美喜記念館は山の上にあり足の弱い私は登るのを勘弁してもらったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料=============
(1)エリザベス・サンダース・ホームと聖ステパノ学園小学校・中学校とは?
第二次世界大戦後に日本占領のためにやってきたアメリカ軍兵士を中心とした連合国軍兵士と日本人女性の間に生まれたものの両親はおろか周囲からも見捨てられた混血孤児たちのための施設として、1948年三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫娘である沢田美喜が、財産税として物納されていた岩崎家大磯別邸を募金を集めて400万円で買い戻して設立した。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0 よりの抜粋)
施設の名前は、ホーム設立後に最初の寄付をしてくれた聖公会の信者エリザベス・サンダースにちなみ、「エリザベス・サンダース・ホーム」と名付けた。

聖ステパノ学園小学校・中学校
孤児院出身の子どもたちが、小学校、中学校に上がる年齢になり、周囲の「混血児」への偏見迫害や、学校生活との折り合いの問題などへの対応から、ホームの中に小学校・中学校も設立した。小学校は、1953年に創立され、美喜の戦死した三男の晃の洗礼名から、聖ステパノ学園小学校と命名された。中学校は1959年に併設された。1993年よりは、外部の一般家庭の子弟も募集するようになった。

(2)沢田美喜記念館とは
沢田美喜は、隠れキリシタンの遺物の収集家でもあった。 日本全国から集められた貴重な資料851点のうち、370点あまりが沢田美喜記念館に展示されている。沢田美喜記念館は1階が展示室と受付、2階に礼拝堂といった構成である。

(3)沢田 美喜(1901年9月19日 - 1980年5月12日)は、日本の社会事業家。本名は澤田 美喜。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E7%94%B0%E7%BE%8E%E5%96%9C より抜粋)
三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫娘として生まれ、外交官の沢田廉三と結婚。4人の子に恵まれる。敗戦後、エリザベス・サンダースホームを創設し、2000人近くの混血孤児を育て上げた。
1901年9月19日:三菱財閥の3代目総帥・男爵岩崎久弥の長女として現在の東京都文京区に生まれる。岩崎家の宗教は真言宗だった。母の寧子は子爵保科正益(飯野藩第10代目藩主)の長女。
1922年7月:クリスチャンの外交官・沢田廉三と結婚してキリスト教の洗礼を受ける。
1923年:夫、廉三のアルゼンチン・ブエノスアイレスへの転任に伴い同行。長男・信一誕生。
1931年:夫、廉三の英国・ロンドンへの転任に伴い同行、孤児院ドクター・バーナードス・ホーム訪問。院長の『捨てられた子を引っ張りだこになるような人間に変えるのは、素晴らしい魔法だ』という言葉に感銘を受ける。
1945年:三男・晃がインドシナ沖で戦死。海軍志願兵だった。
1948年2月:孤児院エリザベス・サンダース・ホームを設立する。進駐軍と日本政府から迫害をうけ、経営は窮乏を極めた。
1953年:学校法人聖ステパノ学園を創立。ホームの小学校と中学校である。
三男の晃の洗礼名ステパノのが聖ステパノ学園及び聖ステパノ農場の名の由来になった。
1955年: 昭和天皇・皇后訪園。12月2日:父・久弥死去。
1962年:ブラジルのアマゾン川流域の開拓を始め、聖ステパノ農場を設立。孤児院の卒園生が数多く移住。
1980年5月12日:スペインのマヨルカ島にて心臓発作のため78歳で急死。

「昭和時代を考える(5)灰燼の中から高度成長を遂げた日本」

2020年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和時代を考えると驚くべき出来事に気が付きます。昭和20年の敗戦の直前に全国200都市が大空襲と原爆投下で灰燼に帰したのです。その何も無い灰燼の中から日本民族は立ち上がりました、そして経済の高度成長成長を遂げたのです。
今日はアメリカ軍による全国200都市の大空襲の様子とその後の経済の高度成長成長についてご報告したいと思います。

第二次大戦の間のアメリカ空軍による日本本土の空襲による死者は、33万人で負傷者は43万人でした。アメリカ空軍のB29が束になった焼夷弾を空中で分散させ、日本の 200の都市を焼き尽くしたのです。沖縄へはアメリカ海兵隊が上陸し凄惨な地上戦後、厳しい占領をしたのです。

1番目の写真はB29が束になった焼夷弾を投下している様子です。
周囲にゴミのように無数見えるのが100ポンド焼夷弾で。さらにこの中に子焼夷弾が3~4ダースが入っていて、火を噴いて落下するという仕掛けでした。写真の出典は、http://touyoko-ensen.com/mini‐info/cook/ht-txt/724kuusyuu-4.html です
その後、広島と長崎に原子爆弾を落としてとどめを刺したのです。その結果1945年8月15日に終戦になりアメリカ軍が日本全土を占領したのです。

2番目の写真は東京大空襲で焦土と化した東京です。 本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもので、右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館です。(米軍撮影、出所:Wikipedia、https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59594 )
日本本土空襲は1944年(昭和19年)末頃から熾烈となり、最終的には無差別爆撃(絨毯爆撃)として行われました。
攻撃は、B29に代表される長距離爆撃機による爆撃のみならず、機動部隊の艦載機や近くの硫黄島などから飛来する単発機による爆撃や機銃掃射というかたちでも行われました。
また太平洋沿岸部の都市では、釜石や室蘭や日立市のように艦砲射撃によっても攻撃されたところもあります。

3番目の写真は広島への原爆投下後の写真です。出典は、https://www.pinterest.de/pin/830773462481342811/ です。
これらの写真が示すように全国200都市が焼け野原になってしまったのです。なお全国200都市のリストは末尾の参考資料にあります。
日本人は灰燼の中から立ち上がり20年以上努力しました。そして経済の高度成長を遂げたのです。

4番目の図面は戦後、1955年からの日本の国内総支出の推移を示しています。
出典は、https://www.smapholab.com/economics/JapanStatistics.html です。
さて以下では日本のGDPと各国のGDPを比較してみましょう。図面は「主要国のGDPをグラフ化してみる(最新)」から転載いたしました。(http://www.garbagenews.net/archives/1335765.html )

5番目の図面は2019年時点の上位10か国の名目GDPの推移です。(IMF予想含む、兆米ドル)
名目GDPの上での最大の国家はアメリカ合衆国、次いで中国が示しています。
この2国だけで世界全体のおおよそ4割。次いで日本、ドイツ、インド、フランスが続きます。
これらの国のみで世界全体の約2/3のGDPを有していることになりります。

6番目の図面は国民一人あたり名目GDP(主要国、含むIMF予想、万米ドル)です。
アメリカ、日本、ドイツのグループが非常に大きいのに比べて中国、インド、インドネシアのグループが小さいのが分かります。
中国は共産党独裁、インドは階級制度が強い社会でインドネシアはイスラム教の国です。
ここで明確なことは自由な民主主義の社会体制の国々の国民一人あたり名目GDPが非常に大きいことです。

7番目の図面は番目の図面は↑世界全体に占める各国名目GDP比です。(IMF予想、2019年)

今日はアメリカ軍による全国200都市の大空襲の様子とその後の経済の高度成長成長についてご報告しました。何か奇跡を見ているようで感慨無量です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料======================================-
アメリカ空軍のB29の編隊による焼夷弾攻撃で焼きつくされた都市、200の一覧:
戦後すぐに吉田首相はその中から115市町村を選び復興事業の予算を交付します。1946年10月に次の内閣告示第30号を発布しました。日本全国のほとんど全ての都市がB29の焼夷弾で焼きつくされたのです。現在の若い方々にご想像して頂き、日本の過去の苦難の歴史を民族の共通の記憶として子々孫々まで伝承して頂きたいと思います。
内閣告示第30号:特別都市計画方第1条第3項の規定によって次のように市町村を指定する。昭和21年10月9日 内閣総理大臣 吉田茂

根室市,釧路市,函館市,本別町、青森市 、釜石市,宮古市,盛岡市,花巻市、仙台市,塩竈市 、郡山市,平市 、
東京都の23区,八王子市 、横浜市,川崎市,平塚市,小田原市、千葉市,銚子市 、熊谷市 、水戸市,日立市,高萩町,多賀町,豊浦町 、宇都宮市,鹿沼町、前橋市,高崎市,伊勢崎市、長岡市、甲府市。

名古屋市,豊橋市,岡崎市,一宮市 、静岡市,浜松市,清水市,沼津市、岐阜市,大垣市、津市,四日市市,桑名市,宇治山田市 、富山市、
大阪市,堺市,布施市 、神戸市,西宮市,姫路市,明石市,尼崎市,魚崎町,鳴尾村,本山村,住吉村,本庄村、和歌山市,海南市,田辺市,新宮市,勝浦町、福井市,敦賀市 、

広島市,呉市,福山市 、岡山市、下関市,宇根氏,徳山市,岩国市、堺町、
高松市 、 徳島市 、松山市,宇和島市,宇治市 、高知市、
福岡市,門司市,八幡市,大牟田市,久留米市、長崎市,佐世保市 、熊本市,荒尾市,水俣町,宇土町 、大分市 、宮崎市,延岡市,都城市,高鍋町,油津町 、鹿児島市,川内市,串木野町,阿久根町,加治木町、枕崎町、山川町、垂水町、東市来町、西ノ表町
(当時、沖縄は米国領だったので沖縄の市町村は含まれていませんでした。)