後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

富山県、雨晴海岸からの立山連峰の絶景の写真をご紹介します

2010年04月30日 | 写真

趣味人倶楽部というSNSのマイフレにヤマチャンさんという方がいます。富山県の海岸に住んでいらっしゃって近所の雨晴海岸からの傑作写真を沢山掲載しています。いつも感心して見ています。今日は雨晴海岸からの立山連峰の絶景の写真を3枚ご紹介いたします。望遠レンズで撮った鮮明な山岳風景をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。転載を許可下さいましたヤマチャンさんへ感謝します。

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現在の日本は史上最も良い時代(2)組織より個人が輝く時代

2010年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新以来、日本は欧米文化を必死で取入れ、富国強兵に専念してきました。第二次大戦で荒廃した日本を復興させる為に人々は歯をくいしばって頑張りました。このような時代が1990年のバブル経済の崩壊まで続いたのです。

このような社会では個人の自由より組織の強大化が優先されるのが自然な成り行きです。戦後は民主主義になりましたが社会の実態は個人の自由と平等には大きな制限があったのです。それは組織の利益を増進する限りに許された自由と平等でした。私個人は日本に真の民主主義が浸透し始めたのは1990年からと理解しています。それ以来、より多くの日本人が世界中の国々へ個人の責任で住み込み、個人的に活躍し、尊敬を集めるようになって来ました。その事を私は誇りに思い、心が豊かになります。各国で芸術活動をする。植林をする。貧困な人々を救援する。個人的な商取引きや企業活動を現地の人と共同で行う。日本人の職人技を伝える。枚挙にいとまの無いほど多種多様な活躍です。大会社から派遣されるのでは無く個人として活躍し輝いているのです。

そのように派手な称賛を浴びる人々とは別に、各国へ移住して静かに暮らしている人々もいます。ごく普通の生活をしています。この「ごく普通の生活」を見た外国人が日本人への親近感を持つのです。日本人が好きになるのです。そのような人々が増加しました。一つだけ実例を上げます。タイのチェンマイにご夫婦で住んでいるGAKUさんです。引退後、タイの人々と仲よく静かに暮らしています。下の写真はご夫婦でタイの地方へ旅をした時の写真です。

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皆様に注意してよく見て頂きたいのは左の方に写っているおばさんの顔です。何かを買いに来た母子へ優しい笑顔を向けています。GAKUさんがカメラを向けても表情を変えていません。それはGAKUさんの顔もオバサンの顔と同じ雰囲気だからです。GAKUさん夫婦が現地の人々に溶け込んでいるのです。オバサンは車でブラブラ旅をしている夫婦へ親しみを感じて歓迎しています。(写真の出典はhttp://gaku404.exblog.jp/13500729/ です)

外国へ住み、その国の人々と親しくなる。立派な人生です。そんな気楽な交流も非常に重要ではないでしょうか?肩肘張った組織の利益優先を大事にする時代が去って本当に良かった。良い時代になったとシミジミ思う今日この頃です。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人


隣のヨットの船長との惜別

2010年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は強風で船が出せません。近くに係留してあるヨットのオーナー達が暇、で2、3人が遊びに来てくれました。私の隣に係留してある下の写真のYamaha25の船長のY本さんは昨年白血病で急に亡くなりました。彼を良く知っている人も来て、Y本さんがとても良い人でしたといろいろ思い出を話してくれました。隣に係留していた私も20年も彼に親切にして貰いました。一緒に霞ヶ浦でセイリングもしました。しかし白血病と仲よくなってしまいました。もうヨットには乗れません。後をついでくれたI島さんをよろしくというメールをくれて旅立って行きました。そそくさとした旅立ちでした。話していると惜別の情が湧きあがり目の前がかすんで来ました。Y本さんのご冥福をお祈りします。

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今日は強風で船を出せませんでした

2010年04月29日 | 写真

久しぶりに家内とヨットへ行きました。温かい南風がものすごく吹いていて船は出せません。キャビンの中でコーヒーを淹れてサンドウイッチの昼食です。マリーナのS藤さんへエンジンの調整の謝礼を届けに行きました。連休明けにヨットを上架し、船底を塗り直す相談をして来ました。エンジンも再調整をする事になりました。

久しぶりにヨットへ行き、春風に吹かれ、キャビンの中でゆっくりした時間を楽しんで来ました。つまらない写真ですが2枚掲載します。

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日本共産党の歴史へ対する2つの素朴な疑問

2010年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム

昭和11年生まれの私にとっては共産主義へ対してずっと関心がありました。共鳴したとか信じるという意味でなく、「考える問題」として常に小さな頭痛のようにつきまとっていました。それが1989年のベルリンの壁の崩壊によってこの小さな頭痛も消えてしまいました。やっぱり共産主義には本質的な欠陥があったのです。共産国であった東欧の国々も資本主義体制に転換したのです。

ところが最近ある共産主義の人に会い、いろいろ話を聞きました。それで改めてその主義のことを考えなおして見ることにしました。

Wikipediaの「日本共産党」の項目にはその設立以来の歴史が詳細に書いてあります。それを読んで素朴な疑問が湧いてきました。

第一に設立に参加した荒畑寒村や徳田球一などには日本へ対する愛国心が何故完全に無かったのでしょうか?何故、マルクスやエンゲルスのような元祖を尊敬し、直接学びに行かなかったのでしょうか?自分たちが設立した共産党を、日本が戦争をした相手のロシアの共産党の作った国際共産主義連盟(コミンテルン)の日本支部としたのでしょうか?この行為は見方によっては自分が生まれ育った国を敵国へ売り渡したのと同じ行為です。

日本を、多くの人々にとって住みやすい平和な国家にする政治活動としての共産党の結成ではなかったのしょうか?

明治維新以来、自我の確立の無いまま西欧崇拝主義の染まったインテリ達が日本共産党を設立したからでしょうか?

第二の素朴な疑問は、何故党内に権力闘争が絶えなかったのでしょうか?人々の差別を撤廃し、自由で平等な社会を作るという目的の共産党が内部では陰険な権力闘争が何故えんえんと続いたのでしょうか?それは特高や公安警察の弾圧が原因ではないようです。共産主義に基づいて政党を作ると何故、独裁政権が生まれ粛清や暗い権力闘争が起きるのでしょうか?

以上2つの疑問について何方か教えてくだされば大変嬉しく思います。(続く)


私の趣味は車のドライブです・・・意味もなくあちこち走ります

2010年04月29日 | うんちく・小ネタ

あちこち走りまわるのが趣味ですが、やはり風景の良い所、車を止めてゆっくり何時間でもボンヤリ出来る所へは何回も行きます。8人乗りの車からすこし小さいニッサンのLafesta(2000cc7人乗りセダン)に4月12日に替えてからは面白くで毎日のようにドライブへ出ています。

下の写真がこの新車です。その下の写真はよく行く相模湖の上流の端の上野原町の川岸です。右後ろから鶴川が流れ込み、真ん中の山すそから桂川が流れて来てここで合流します。回りの土地が開けていて気持ちの良い所です。昔は鵜飼で鮎を取り、客に供して大変賑わった時代もあったそうです。中央高速道路の上野原ICを出て南側の斜面をゆったり降りて川岸に出ます。川岸は水辺まで車を入れて駐車できるように整地されています。お時間のある方は是非一度お出かけになってみて下さい。

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高齢者がヨットを独り楽しむ方法・・・無理せずゆっくり走る、別荘代わりに泊る

2010年04月29日 | うんちく・小ネタ

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今日はこれから朝食をとり、車で常磐高速を走って霞が浦のヨットへ行きます。

そこで一人の老人がヨットを独りで楽しむ方法を書いてみたいと思います。ご参考になれば嬉しく思います。

上の写真は一昨年に土浦港の岸壁から家内が撮影したものです。今日はこのヨットへ乗りに行きます。

老人がヨットを楽しむ場合のまず第一は、風が強くて危険な時は船を出さないのが鉄則です。

第二に体力の衰えた老人は荒れやすい海ではなく、霞ヶ浦のような湖でセイリングするのがより安全です。その様子の写真を掲載します。湖でセイリングしている限り、60歳以上の人でも楽しく遊べる趣味です。

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第三は、全ての操作はゆっくりと確実にすることが重要です。メインセイルもゆっくり引っ張り上げます。すると、青空に白帆が高く輝きます。前の帆のジブセイルも主帆のメインセイルもゆっくり目いっぱい上まで上げます。従って裾は下の写真のようになっています。

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第四に、急に風が強くなり船が下のように傾いたらセイルを風下に流し、船体を起こします。傾け過ぎると体力を消耗します。無理せずゆっくり帆走することが重要です。

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それでも風が強くて傾きが大きくなる場合には、前の帆(ジブ)とメインセイルを半分位に小さくします。すると船の傾きが無くなり安全に走ります。下の写真が小さくした帆の様子です。風の力を半分だけ受けて帆走します。高齢者は決して必死で速く帆走してはいけません。体力を温存しながら悠々と楽しみます。ヨットをいつまでも趣味として楽しむ為には決して無理せず、ゆっくりと帆走する事です。

第五に、湖上のヨットは別荘代わりに泊って楽しむことが出来ます。

猪苗代湖に係留してある友人のクルーザーでビールパーティーをした時は満月でした。後ろの磐梯山もよく見えました。

霞ヶ浦はそれ程風光明媚ではありませんが毎年数回別荘のように泊りに行きます。クルーザーには2口ガスコンロ、流し、調理台、食器や鍋を収納する食器棚が付いているので料理を作ります。電動水洗トイレもついていますので泊れます。夕方から闇が迫りくる湖上の夜、翌朝の靄が漂う光景など一泊しなくては味わえぬ楽しみです。

ヨットだけに限らず、体力が必要な趣味は動作をゆっくりして無理さえしなければ最後まで楽しめると信じています。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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都立桜ケ丘公園と明治天皇の記念館

2010年04月28日 | うんちく・小ネタ

いつも良い時代になったと感心します。東京都の公園整備の予算が潤沢で、何処の公園も実に緑豊かに素晴らし整備ぶりです。都立公園は23区内に39、そして多摩地区に27、合計66ケ所もあります。その他、都立庭園や動物園、植物園、海上公園などを合計すると100ケ所以上になります。ついでに言えば公園が良く整備されているのは東京都に限りません。全国何処に旅をしても綺麗に整備された公園が多いものです。敗戦の荒廃から65年。日本もここまで豊かになったのです。感慨無量です。

今日は京王線の府中の先の聖跡桜ケ丘駅からバスで行ける都立桜ケ丘公園を散歩しました。そこにある明治天皇記念館(正式名称は、旧多摩聖跡記念館)も訪問しました。中には明治天皇の騎馬像と幕末から明治にかけての志士や政治家の書や手紙が展示してあります。この公園一帯へは明治天皇がたびたび兎狩りに来られた所で、明治時代の名所のようなものだったそうです。明治天皇を偲ぶ建物は昭和5年、1930年に建てられた西洋館で多摩市の指定有形文化財になっています。この公園には川崎街道から連光寺方面に入ってすぐの交差点を曲がると広い無料駐車場があります。その駐車場も森に囲まれていて私のお好みの場所です。近所には桜ケ丘ゴルフ場もあり散策に良いところです。晴天の日にお出掛になると良いところです。公園のご案内でした。詳しくは東京都立公園で検索すると出てきます。

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ある共産党員、善良な山村工作員の死を悼む碑文

2010年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム

政治家は悪人だと言う人が居ます。それは大変な間違いです。善い政治家と悪い政治家といるだけです。それと同じように共産主義者は全て悪いというのも間違いです。善い者と悪い者が居るだけです。その判別は簡単です。皆様の直感で決められます。私も直感で判別しています。しかし直感が正しいかったどうか後でよく考えます。

その人は権力が好きか否か?愛国者か否か?他人の心の痛みが分かるか否か?

この3つの事を考えて善い共産主義者か悪い共産主義者か判定しています。先日、山小屋の庭で焚火をしながら話を聞いたある共産主義者は善いと判断しました。そこで、共産主義者として昭和時代を生きたある人の話 という記事を昨日、掲載したのです。

いずれ共産主義の悪口を書くつもりでいます。悪口を信じて貰いたいので、もう一つ善い共産主義者の例を書いて公平を期したいと思います。

それは40年位以前の話です。週末になると、子供をつれて奥多摩に遊びに行っていました。ある日多摩川の支流へ遡って小さな山里のへ行きました。車の入れる道が尽きた所に真鍮製の大きな看板が掲げてあります。高さ50cm、幅70cmくらいの部厚い真鍮の板に達筆な字が彫り込んであります。丁寧に読んでみると次のような事が書いてあったのです。

1人の共産党の若い「山村工作員」がお寺に住みこんで村人の生活が楽になるように献身的に尽くした。しかし突然の病を得て、2年後にお寺の部屋で独りで死んで行った。村人が憐れんでこのような碑文を書いて出すように言うので寺の住職がこの文章を書いた。お寺のある所はこの碑文からさらに山に登ったにある。そんな文章です。当時は共産党がマッカーサーによって非合法化された後で、官権の取り締まりが厳しい時代でした。共産党は全国に武力闘争を展開しながら「山村工作員」を全国の山里へ送り込んだ時代だったのです。従って碑文には死んだ共産党員の名前も住職の名前も無く、ただある寺の住職これを記すとだけ文末に彫り込んでありました。

私は感動したものです。数年後また其処へ行った時、その立派な真鍮製の碑文を探してみました。影も形もありません。山に棲むキツネが持ち去ったのでしょうか?あるいはキツネではなく右翼団体かも知れません。もっと怖いのは「武装闘争」や「山村工作員」を推進した共産党内部の一派が失脚し、権力を握った一派が目障りな碑文を破壊したのかも分かりません。そいう疑いを持たせるのが共産党の宿命なのです。その悪い宿命はいずれ説明したいと思います。しかし私は善良な共産党員も居たことを決して忘れません。(続く)


現在の日本は史上最も良い時代(1)差別や蔑みの無い社会になった

2010年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム

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(写真は浜離宮から新橋方面の新しいビル街を見た風景です。小生が撮った写真です)

現在の日本の社会に生きる人々の幸福さを客観的に考える時、2つの方法があります。と書くと幸福か不幸かは心の持ち方によるからそんな事を考えるのは無駄と言う人が必ずいます。しかしこの先も少し読んで下さい。世界の人々が一番住んで見たいと思う国々はカナダ、スウェーデン、フィンランド、ニュージーランド、オーストラリアなどと言う人がいるそうです。日本に住んでみたいという外国人の数は少ないそうです。その理由はよく分かりませんが、このように他国と比較して日本という国の幸福さを考えるのも一つの客観的な評価の方法です。

もう一つの比較の方法は現在の社会を江戸時代、明治時代、戦争前の昭和時代、戦後時代、高度成長期、そしてバブル経済の崩壊から現在までの時期と比較すると非常に明快な評価が出来ます。

結論を先に言ってしまうと「現在の日本は史上最も良い時代」という事になります。より多くの日本人が史上で一番幸せな生活を送れる時代という意味です。勿論、何時の時代でも、どこの国でも不幸で悲しい人生を送っている人々は必ず居ます。

問題は幸いな人生を送っている人の数が不幸な人よりもどのくらい多いか?という問題です。ここまで問題を整理すると結論は簡単に出ます。江戸時代は士農工商という身分差別があり武士階級だけが威張っていました。現在の日本には階級制度が無いのです。ですから現在のほうがより多くの人々が幸せな人生を送れるのです。

しかしこのような見方は雑過ぎます。そこでもう少し詳しく書いて行くことにしました。そこのため、「現在の日本は史上最も良い時代」という随筆シリーズを始めることにしました。そして何故そのような結論になるか?という理由を幾つか書いて行きたいと思います。

現在を高度成長期と比較してみます。現在の若者と、中年や老年の人々と比較すると大きな違いを発見します。

若者は職業上の差別感が持っていないのです。大会社の社員が中小企業の社員を蔑まなくなったのです。高度成長期までは、お役人が偉くて民間人を蔑んでいたのです。私は当時の職場の関係上、通産省のお役人とお付き合いがありました。言葉のはしはしに民間人を低く見る雰囲気を何度も感じました。民間人だけでなく県庁の役人を自分の部下のように思っているのです。

土木建築業に従事する人々を蔑む差別用語も多くありました。家庭のゴミ集める人々をも差別して蔑んでいました。当然そういう分野で働いている人々が卑屈になります。

私と家内は、家にゴミ集めに来るトラックの人に必ず「有難う御座います」と言います。するとそれに答える若者の明朗さにこちらまでが明るい気分になります。自分が元気を貰う為に声をかけているのです。

現在の日本は史上稀にみる差別や蔑みの無い最良の社会になっているのです。

そう言うと必ず反論する人が居ます。しかし戦前や戦後の社会と比較すれば明らかです。現在の社会ほど、より多くの人々が幸福になったのです。そんな社会を作ってくれた中年や若い日本人へ深く感謝しています。

今日も皆様のご健康と幸多い日々をお祈り申し上げます。藤山杜人


山林の中の小屋へ一泊の紙上体験へのご招待です

2010年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム

二日前に、山林を100坪程買って、小屋を作る方法を説明しました。山林の中に小屋を作り、楽しむ趣味について という記事です。今日はその小屋へ一泊するとどのような体験をするかご説明いたします。皆様を紙上体験へご招待したいと思います。

下の写真の順序にしたがって説明します。東京を午後12時に出発し中央高速道路を須玉で下り、約2時間30分で着きました。着いた時は午後の日差しが小屋を明るく照らしていました。下の写真がその様子です。

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小屋に着いたら早速2つの部屋を箒で掃いて綺麗にします。窓をすべて開け放ってカビの臭いを出し、新鮮な山の空気を小屋中にみたします。

それが終わったら下左の写真の庭の小川から水汲みをします。飲み水は東京から持って行きますが、洗い用の水と水洗トイレの水を多量に汲み込みます。夜になると真っ暗になり水汲みが出来ないのです。

それが終わったら、下右のように焚火を始めます。持参したチキンスープなどを温める炭火を作るためです。ここまで来れば後はゆっくりした気分で小川のそばの椅子に座ります。持参したオツマミを出してビールを飲み始めます。皆様も椅子に座ってビールを飲んで頂きます。(想像だけで済みません!)

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家内と小川の水音を楽しんでいたら近所に独り住んでいる方が遊びに寄ってくれました。この下の記事、共産主義者として昭和時代を生きたある人の話 に書いたような話を、問わず語りにしてくれます。徳田球一さんや野坂参三さんの下で働いていたときの話が面白くて夕闇の迫ったのに気が付きませんでした。彼を送って行って、帰ってくると暗い林の向こうに甲斐駒が黒いシルエットを作っています。小屋の周りも急に暗くなってしまいました。下の2枚の写真がそんな様子を示しています。

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すっかり暗くなる前に500m程離れてた林の中に独り住んでいる鬼家(オニイエ)さんへオミヤゲを届けに行きました。帰宅後、持参のチキンスープを家の中のコンロで温めて夕食にしました。

夕食後しばらくして外を覗いたら、月夜で明るいのです。夜は外へ出なようにしていますが満月の光に誘われて林の中を少し散歩しました。室内に戻り、古い雑誌を丁寧に読みます。家内は隣室でジャンアンツ戦の実況放送のラジオを聞いています。9時30分に寝ました。家内もジャイアンツが勝って機嫌良く床につきました。

翌朝はコーヒー、ソーセージ目玉焼き、野菜サラダにパンの食事をしました。外に一歩出ると隣の別荘の庭にツツジの花が朝日を浴びて咲いていました。下の写真です。

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この花に誘われて、近所の花々の写真を撮りに行くことにしました。昨日、共産主義のことを話してくれた人を誘って、家内と3人で花で有名な「H井」さんを訪問しました。広い庭一面に色々な花が植えてあります。その写真は、一昨日に、甲斐駒岳の麓の山里の花々の写真を沢山撮ってきました という記事でご紹介しました。昼食は小屋の庭で持参した「こだわりラーメン」を茹でてモヤシ、焼豚、メンマなどを入れて食べました。

午後は、高速道路を使わないで、甲州街道を根気よくドライブして芽ぶきの風景を楽しみながら上野原まで来ました。上野原で中央高速道路に上がり帰宅しました。

このようなものが今回の山小屋への一泊旅行でした。皆様も想像しながら一緒にお楽しみ頂ければ嬉しく思います。実際小屋に泊るとつらい事がいろいろあります。紙上体験だけにするほうが良いとも思っています。つまらない話で失礼致しました。(終り)


共産主義者として昭和時代を生きたある人の話

2010年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム

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この写真には右の方に登っている坂道の白いガードレールが写っています。すぐに舗装道路がつきて、荒れた山道が2kmほど続きます。その道の先に20年以上独りで住んでいる人が居ます。私の小屋の近所なので時々会います。彼は、いつもニコニコしていて、優しそうな老境の人です。なにか気品があり背筋が通ったような雰囲気で、雑木林の中を独りでよく歩いています。出会うと私は山小屋の近所の出来事を少し聞きます。何でも知っていて農家の人々にも愛されている様子です。

今回は陽気が良いので家内と泊りに行きました。小川のほとりで焚火をしてビールを飲んでいました。彼がタラの芽を持って寄ってくれました。椅子をすすめ話をします。山に来たら、前歴や職業のことを聞くのは御法度です。ですから20年以上彼と交流がありましたが、何をしてきた人なのか一切分かりませんでした。特に強く聞いた訳ではありませんが、彼が自分の前歴を話し出しました。ニコニコしながら、「私は共産主義者でした」と静かに言います。

大正13年生まれ。都内の旧制中学、旧制高校を卒業後、山岳部のある帝国大学へ進みます。中学時代から山岳部でクラシック登山をしていたので山岳部のある大学を選んだのです。その大学で共産主義に出合うのです。純粋で、ロマンチストの彼は乾いた紙が水を吸うようにすっかり共産主義を吸いこんでしまったのです。

卒業後は代々木の本部でも働きました。徳田球一さんや、野坂参三さんや、志賀さんなどの部下として働いたのです。この3人の性格の違いを話してくれました。

それからソ連の共産党や中国の共産党の話も興味が尽きませんでした。共産党は代々木に現在も本部があります。差しさわりのありそうな事は聞かないように、話題をこちらから変えました。

彼はある帝国大学の学生時代に下宿していた家のお嬢さんと結婚します。娘が2人できました。しかし官憲の取り締まりが奥さんの親族全てに及ぶのを見て、離婚を決意します。「主義者」が親類に一人でも居ると一族が酷い目に会う時代だったのです。

私は1980年以降にソ連や中国の学者の訪問を受けたことがしばしばありました。そのたびに公安警察の人が来て見張っています。話し合ったこともあります。公安の人は皆紳士的で立派な人が多いと思いました。その話を彼にしましたところ、「それは時代が違い過ぎますね」と笑っています。

フッと気が付くと周りの林に夕闇がせまっています。足元が暗くなると危ないので、家内とともに彼を小川の渡り場の所まで送って行きました。「またお会いしましょう!」と言って別れました。小川の向こうの雑木林の中に彼の後ろ姿が次第に小さくなって行きます。振り返って見ると、私の小屋へ帰る道だけがほの白く見えます。情熱的に過ごした彼の夢多い人生も静かになりました。雑木林の中に悠々自適の境地です。(続く)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人


日本人として生まれた自分の責任をどのように取るか?

2010年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム

貴方は日本人に生まれたことに責任を感じていますか?多民族が混じって暮らしているアメリカに25年在住して来たモンタギューさんから頂いたメールを転載致します。こういう良心的な日本人も居るのです。ご参考になれば嬉しく思います。

======モンタギューさんからの頂いたメール=======

藤山様
そんな風に言って頂けると光栄です。こんな拙文でよろしければ、どうぞブログにお使いください。ただ私は一気に文章を書いて、特にメールやブログの場合はろくに読み返す手間をせず送信することが多いので、今読み返してみますと脱字が多いですね。それで以下のように校正しました。いつも拙ブログの応援ありがとうございます。ご意見や転載とても励みになります。

======在米25年で感じたこと==========

確かに何度もあれっと思った事がありますが、私は、特に自分の心の持ちようも多くの場合に原因になっていると思います。
しかし実際、アフリカ系、カリブ系の黒人の友人の中にはその場その場の事態に過敏に反応して、なんでも人種差別のセイにしてしまう人も居ます。そして、verse racism、すなわち逆人種差別をして、肌の色で付き合いの範囲を決め,自分の境遇を嘆いている人々も、アメリカには多くいます。ご存知とは思いますが、普通の人種差別は多数派とされるヨーロッバ系が他の人種を差別しますが、その反対少数派が白人を寄せ付けない差別行為をverse racismと言います。

そんな中、アフリカから、世界中で癒しや、亡くなった身内や親しいものときちんとお別れをするgrief workが広がっています。これはガーナブルキナファッソに伝わる儀式ですが、欧米の国々で執り行われるようになりました。それを行っている「癒し人」の友人はアメリカの黒人の中に潜む傷こそが、先祖からの嘆きの根源だとして、彼等のその傷の癒し作業をしています。(詳しくは拙ブログにも掲載していますし、築地書館出版の「ぼくのイニシエーション体験ー男の子魂が育つとき」をご参考ください)。(拙ブログ:
「モンタギューたより」http://cyamazaki-heineman.blogspot.com/ )
人種差別の行為には一言でかたずけられない様々な問題が潜んでいると思います。
以前貴ブログで怠惰は個人の責任という記事がありました。わたしも以前はそう考えていましたが、確かに努力しても、境遇に恵まれない人、何をやっても裏目に出てしまう人が、肌の色や自分の出自を怨んでしまうことは努力が足りないだけでは解決出来ないようであります。
私自身、日本を出て初めて見えて来る自分の出自の責任(日本人が日本人としてどう世界に責任をとるか)が鮮明に理解出来るようになりました。アジアで日本の国がしてきたことへ対して、
自分になにができるかと考えて来ました。アメリカの大学院の修士論文の主題は、「日本のアジア侵略の歴史と、アジアにおける帝国主義」でした。
外に向けて語られる事の少ない日本の歴史を発表することで、少しでも自分の責任が果たせるかなとも考え、在日韓国・朝鮮の方々の活動をお手伝いしたりしています。
またこれからも貴ブログを拝見しながら勉強していきます。

このご縁に感謝。モンタギュー

======メールの終り==============