後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「北海道大学の低温科学研究所と小島先生の思い出」

2024年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム
寺田寅彦と内田百閒は夏目漱石の門下生でした。この寺田寅彦の門下生に中谷宇吉郎がいました。
中谷宇吉郎は北海道大学の雪の結晶の研究者です。彼が北大の低温科学研究所を作ったのです。

1番目の写真は北大の低温科学研究所です。
続けて美しい雪の結晶の写真をお送りしましょう。写真の出典は以下の通りです。
https://www.gettyimages.co.jp/写真/雪の結晶?sort=mostpopular&mediatype=photography&phrase=%E9%9B%AA%E3%81%AE%E7%B5%90%E6%99%B6
このように美しい結晶が冬の空から舞い降りてくるのです。想像しただけで楽しくなります。
ところで話は変わりますが、私は北大の低温科学研究所で一生研究をしていた小島先生を知っています。懐かしい方です。
1960年から留学した私はオハイオ州のコロンバスで小島先生一家に大変お世話になったのです。
その小島先生夫妻には当時小学生だった治子さんとその弟晶君がいました。この姉弟は可愛い利発な子でしたのでよく一緒に遊んでいたのです。年賀状が治子さんからきます。私たちの思い出も書いてあります。
治子さんは札幌のミッションスクールで38年間英語の先生をし、YWCAの顧問だったそうです。
小島先生一家と別れてから茫々60余年。
私自身はこの間一度だけ北大の低温研究所を訪れ小島先生にお会いしたことがあります。その後、小島先生は旅立ってしまいました。お料理上手でお優しかった奥様も2年前に帰天なさいました。
邯鄲の夢の一つのエピソードです。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「哀愁漂う小樽の写真」

2024年07月31日 | 写真
小樽は何度行っても旧懐の情や哀愁の情が掻き立てられます。郷愁というかノスタルジアというか、心の奥の方にささやかな赤い火がポッと灯ります。
まず暗い運河の写真を示します。2010年の6月17日の夕暮れに家内が撮りまた。
1番目の写真は暗い運河と石造りの倉庫です。この倉庫の中は土産物屋になっています。

2番目の写真は土産物屋になっている倉庫の外壁です。蔦や雑草に覆われていますが内部には明るい照明が輝き綺麗な商品が並んでいるのです。倉庫群がそのまま商業施設になっています。
小樽のその他の商店の風景を示します。
3番目の写真は石造りの倉庫がそのまま菓子店になっている風景です。内部は明るい色彩に溢れています。
4番目の写真は海運業者のビルをそのままガラス細工の土産物屋に使っている風景です。内部にはベネチアから運んで来たゴンドラが飾ってあり華やかな雰囲気です。

5番目の写真は明治時代の役所のような建物です。中の1階部分は公開してありました。
小樽の暗い印象の原因の一つは1933年に特高に殺された小林多喜二を思い出すからです。享年29歳でした。小林多喜二の『蟹工船』を思い出すのです。
そんなことを思い出したので、小樽では小林多喜二がよく行った店で食事をしました。
私は共産主義は嫌いです。しかし以下は日本の歴史の一つの裏面としてご紹介したいと思います。
小林多喜二は1903年10月13日、秋田県に生まれ4歳のときに一家で小樽に移住し小樽で育ち作家として立ちました。プロレタリア文学の旗手と目され1930年に上京、翌年、当時非合法であった日本共産党に入党、困難な地下生活を余儀なくされながらも旺盛に執筆活動を展開しました。そして1933年2月20日に29歳で没しました。

以上のような暗い歴史を暗示するような小樽の冬景色を示します。

6番目の写真は塔のある古い建物です。雪を被って寒々としています。
写真の出典は、https://ovo.kyodo.co.jp/news/life/travel-news/a-1397278 です。

7番目の写真は雪のある明治時代の役所のような建物です。冬でも観光客が沢山います。小樽は独特な魅力があるので四季折々観光客が絶えないのです。写真の出典は、https://ovo.kyodo.co.jp/news/life/travel-news/a-1397278 です。

今日は哀愁漂う小樽への旅をご紹介しました。そして『蟹工船』という小説で有名な小林多喜二をご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 


「フランス人が建てた函館のカトリック教会の写真」

2024年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム

私が好きな教会は、北ヨーロッパ風のゴチック建築で、内部が縦長で、祭壇にイエス様やマリア様が美しく飾ってある古臭い教会です。

1969年から70年にかけてドイツで通った教会がゴチック様式の造りでした。帰国して洗礼を受けたカトリック立川教会も木造ながらその古い構造でした。

カトリックでは常に、入り口の扉が開いていて誰でも歓迎しています。内部に静かに入り、しばしお祈りをします。そして教会の中をゆっくり見物して回るのです。

私が好きだと感じ、印象の深かった教会はいろいろあります。

長崎の大浦天主堂と浦上天主堂、火事になる前の山口市にあった聖ザビエル記念聖堂、カトリック津和野教会、改築前の東京の聖イグナチオ教会、山形県のカトリック鶴岡教会、そして2度訪問した函館のカトリック元町教会などは私の大好きな教会です。

函館には何度か行きましたがそのたびにこのカトリック元町教会を訪問しています。

この教会は1859年(安政6年)にフランス人の司祭、カション神父によって建てられた古い教会です。

明治維新の起きる前の江戸時代です。キリシタン禁教は厳しく、明治政府になってから7年間もキリシタン禁教が続けられたのです。

新しい明治政府によってもキリシタンが逮捕され、遠方に流され、多数の死亡者も出たのです。特に九州の大浦では多数の隠れキリシタンが逮捕され本州の各地の僻地へ送る流罪になったのです。津和野のように、流された先の人々によって殺された例も多いのです。

明治政府がキリシタン禁止の高札を撤去したのは1875年なのです。ですから教会が出来ても隠れキリシタンがそこを訪れることが出来ませんでした。

そんな古い時代に函館のカトリック教会が造られたのです。フランス人神父によって。

このカトリック元町教会は、以後、3度の火事にあいます。

現在、数多くの観光客が訪れる建物は1924年(大正13年)に出来たものです。

この教会の内部の中央祭壇と、会堂の内壁に飾ってある14個の木造彫刻はイタリーのチロル地方の作品です。ときのローマ法王ベネディクト15世が寄贈してたものです。力強い作品です。美しい作品です。この教会全体が調和を持った一個の美術的な作品になっています。

今日は函館のカトリック元町教会をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は函館のカトリック元町教会です。

2番目の写真は内部の左右の壁に飾ってある14個の彫刻の一つです。

3番目の写真は祭壇に向かって右側の壁です。左端のマリア様の像の右側に4つの彫刻が写っています。そして彫刻の下の壁に説明板が張り付けてあります。

4番目の写真は祭壇と左右の壁に幾つかの彫刻が飾ってあります。


「北海道の最果てトドワラ、ナラワラの不気味さ」

2024年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の東部根室市の北に、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。その南に幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た野付半島が、湾曲しながら26kmも伸び野付湾を囲んでいます。砂洲の上には舗装道路が延々と続き、野付灯台まで車で入れます。
そして野付灯台の手前にはトドワラとナラワラという枯れたトドマツの原とナラの原が広がっている場所があります。地盤沈下で海水に漬かってしまったトドマツの木とナラの木が枯れて、白い骸骨のように立っています。不気味です。
その白骨のような林が野付湾を一層荒涼とさせています。人間の住む世界ではありません。
しかし野付湾には美味しい縞エビが棲んでいて、夏と秋にはその味を楽しむことが出来ます。
今日は荒涼とした最果てのトドワラ、ナラワラの不気味な風景と野付湾の縞エビ漁の白帆の打瀬帆舟の写真をご紹介したいと思います。そしてそこから見える国後島への想いを記しました。
まず下にの野付湾の全体の風景写真を示します。
1番目の写真は野付湾です。この野付湾の写真の出典は、http://betsukai.jp/blog/0001/archives/2009/06/images/1245371831.jpg です。
写真のような野付湾を右手に見ながら細い砂洲の上の舗装道路をえんえんと辿って行くとやがて右手にナラワラがあります。下にその光景を示します。
2番目の写真はナラワラの光景です。自分で撮った写真です。よく見ると写真のようにナラ林全てが立ち枯れになっている場所です。ナラワラを通り過ぎ、野付灯台の傍まで行くと立派なビジターセンターがあります。
その駐車場に車を停めて、ハマナスの紅い花と実を見ながら、ぬかるみの小道を1.2kmほど歩くとトドワラがあります。下の写真です。
3番目の写真はトドワラです。自分で撮った写真です。立ち枯れたトドマツの木があります。木道は高く狭いので、強い海風が吹き付けると落ちそうになり怖かったです。
4番目の写真は木道の先端から見た荒涼としたトドワラの風景です。
トドワラのある半島を野付半島と言いますが、その内側は野付湾と言います。地元では尾岱沼(おだいとう)と呼んでいます。その野付湾では帆舟の打瀬帆舟による縞エビ漁が盛んなのです。
初夏と秋が北海シマエビ漁の漁期です。舟の舳先から船尾にかけて幅の広い網を海中に降ろし、船を横向きにして幅広い網を帆の受ける風の力で静かにゆっくり引っ張って行くのです。雄大な海の中に浮かんだ白帆の風景が素晴らしいのです。
5番目の写真は北海シマエビ漁の打瀬帆舟です。出典は、http://ugk70671.blog117.fc2.com/blog-entry-282.html です。夏漁は例年6月中旬~7月中旬で、秋漁は例年10月中旬~11月上旬です。
6番目の写真は野付湾に散らばった打瀬帆舟のの風景です。この打瀬帆舟の風景は季節の風物詩として有名なのです。出典は、http://www.hokkaidolikers.com/articles/180 です。
ビジターセンターに戻って、シマエビ定食を昼食として食べました。茹でたシマエビが美味しかったです。
この野付半島の向かい側、16km沖には国後島があります。野付港は国後島の町や村に行く船の発着場として昔は賑わっていたそうです。
訪れたビシターセンターの2階には昔の択捉島や国後島の町や村落の写真が沢山置いてあります。丁寧に見て行くと択捉・国後には多くの日本人が住み、鮭やニシンを取っていたことが判ります。
7番目の写真は野付半島のビシターセンターの2階から撮った国後島です。自分で撮った写真です。日本人の先祖代々のお墓も沢山残っているに違いありません。ロシアは返還しません。
墓参りくらいは行けるのでしょうか?そんな事を考えながら砂洲にに伸びた道を帰って来ました。
今日は荒涼とした最果てのトドワラ、ナラワラの不気味な風景写真と野付湾の縞エビ漁の帆船の写真をご紹介しました。そしてそこから見える国後島への想いを記しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りします。後藤和弘(藤山杜人)

「北海道の圧倒的な釧路湿原のシラルトロ湖、塘路湖、達古武湖などの湖」

2024年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム
何が圧倒的かといえば、その広さと、湿地故に人間を寄せ付けない大自然そのままの景観が他に無いのです。少なくとも日本には無いのです。
北にある屈斜路湖から流れ出した釧路川が釧路に近い大平野でシラルトロ湖、塘路湖、達古武湖に注ぎ、その湖沼群一帯が巨大な湿原になっています。
人間が入れない湿地なので高い展望台から景観を眺めます。カヌーで湖沼を渡ったり釧路川を下ったりします。少しだけの距離の木道を歩きます。あるいは釧路・網走間の釧網本線の観光列車「ノロッコ号」に乗って車窓から湿原の景観を楽しみます。
ここは10年ほど前に2回訪れた曾遊の地です。川湯から釧路川に沿って、車で行きました。
北からシラルトロ湖、塘路湖、達古武湖の順番でご紹介いたします。
川湯から弟子屈町、標茶町と国道を南下するとまず広大なシラルトロ湖が右側に見えて来ます。

1番目の写真はシラルトロ湖です。
岸辺に駐車場があるのでしばし散歩をしながら写真を撮りました。
シラルトロ湖を過ぎて、しばらく走ると今度は左側に「塘路湖入口」という看板があります。見落とさないで車を入れます。すると塘路湖があります。

2番目の写真はと塘路湖です。
この湖はカヌーを漕ぎながら景観を楽しめます。今回は風が強すぎるので舟を出すことが出来ず乗れませんでしたが、大小さまざまなカヌーを見てその形状の美しさを楽しみました。

3番目の写真は大小さまざまなカヌーです。
塘路湖から再び国道に上がり、さらに南下すると「達古武湖キャンプ場入口」という看板が右手に見えます。そこを入り、2km位行くと達古武湖が広がっています。

4番目の写真は釧路湿原の看板です。
カヌーに乗る時間を充分とって置くことが重要であると気が付きます。
ここには立派なビジターセンターがあり釧路湿原の案内を丁寧にしてくれます。純朴そうな小父さんがこちらのスケジュールや時間的余裕を聞いた上で、細岡展望台へ行くのが一番と教えてくれました。
そしてそこへ行くのは途中から舗装道路でなく悪路になるが根気良く車を走らせなさいと教えてくれるのです。
教えられた通り悪路をゆっくり3kmほど行くと車に乗ったまま高い細岡展望台に行きつきました。生憎、霧がかかっていて写真はぼんやりしたものになりました。

5番目の写真は霧がかかった釧路湿原です。
この展望台の下には釧網本線の「ほそおか駅」がありノロッコ号も停まります。若者が一人ホームの隅でうずくまって待っていました。間もなく釧路湿原が乗っていきました。

6番目の写真はノロッコ号を待っていた若者です。

7番目の写真は出て行くノロッコ号です。大きな窓をご覧下さい。楽しそうですね。

そしてこの駅の近所にはカヌーを釧路川へ上げ下ろし出来るようにスロープがついています。折しも車で牽引した台車に積んだカヌーを引き揚げていました。
2002年と2003年に行ってときはサルボ展望台と細岡展望台から風景を楽しみ、丁寧にシラルウトロ湖、塘路湖、達古武湖を回れたので充実感がありました。

ご参考になればと少し長くご紹介致しました。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「北海道の魅力、摩周湖、オンネトー、阿寒湖などの湖」

2024年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の魅力の一つは摩周湖、オンネトー、阿寒湖などの静かな湖です。私は何故か北海道にある湖に憧れていました。白樺の樹々に囲まれた静かな湖というイメージが心に一生焼き付いているのです。そんな風景を求めて旅に出ると必ずのように湖を訪れます。
仕事を止めた後は北海道に魅せられてしまい何度も行きました。
特に北海道には美しい湖が沢山あります。訪れたところを書くと次のようなります。洞爺湖、摩周湖、知床五湖、オンネトー、阿寒湖、支笏湖、屈斜路湖、サロマ湖、網走湖、大沼、風蓮湖、塘路湖など。
今日は紅葉した摩周湖、オンネトー、阿寒湖の風景写真をお送りいたします。自分で撮った写真は下手なのでインターネットでいろいろ検索して美しい写真を探しました。
丁寧に探すとインターネットには鮮明で綺麗な写真があります。北国の湖の周囲は美しい紅葉の風景が広がっているのです。今日は摩周湖、オンネトー、阿寒湖だけの紅葉風景の写真をお送りします。

1番目の写真は摩周湖の紅葉です。摩周湖は絶景なので四季折々何度も行きました。写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=25488016070 です。


2番目の写真はオンネトーの紅葉です。オネントーとは不思議な名前です。多分アイヌ語なのでしょう。オンネトー写真の出典は、https://hokkaido-koyo.blog.ss-blog.jp/onneto です。


3番目の写真もオンネトーの紅葉です。オンネトーは小さい湖ですが神秘的な美しさがあります。写真の出典は、https://photoin.exblog.jp/19121491/ です。


4番目の写真は広い阿寒湖の一部の紅葉風景です。写真の出典は、https://www.tabido.jp/ja/article/1159/ です。

阿寒湖の岸にはアイヌ部落が再現してあり土産物の店も多いので何度も行きました。懐かしい大きな湖です。


5番目の写真は大沼国定公園の紅葉と駒ケ岳です。ここもよく行きました。
写真の出典は、https://www.tabido.jp/ja/article/1159/ です。


6番目の写真は屈斜路湖の紅葉です。屈斜路湖は日本最大のカルデラ湖です。この近くの川湯に何日が連泊して野付半島にも行きました。写真の出典は、https://tripeditor.com/359970 です。

7番目の写真は支笏湖の紅葉です。
写真の出典は、https://www.travel.co.jp/guide/article/35312/ です。

今日は北海道の湖の周辺の美しい紅葉の風景写真をお送り致しました。皆様も紅葉の北海道に旅をしたことがあるかと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「北海道の日本一、秋サケの遡る川」

2024年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム
その川は北海道の東海岸にある標津川です。毎年30万匹の鮭や鱒が遡上することで有名です。中標津町という町に流れているあまり大きくない平凡な川です。
しかしサケやマスの遡上する量は日本一と言われています。
下にその標津川の河口の写真を示します。写真の上の方にはるかに太平洋が写っています。
この写真は2012年9月に撮りました。

上の写真は「サーモン科学館」の高い塔の頂上から撮ったものです。
標津町は鮭漁からの収入で立派な「サーモン科学館」を作りました。
そこには遡上する鮭や鱒を観光客へそのまま見せる魚道があります。標津川から魚道を「サーモン科学館」の中へ導き、そしてその側面をガラスにした施設です。下にその魚道の側面の写真を示します。

お客はその日に海から標津川へ遡上してした鮭や鱒をガラスの向こうに見ることが出来るのです。いろいろな種類の鮭や鱒が大小混じって遡ってくるのです。前日の雨で魚道を流れ下る水が濁っていました。大きな鮭や鱒が勢い良く登ってくる姿には感動しました。
魚道は標津川に直接つながっていて、サーモン科学館の館内へ導き入れてあるのです。河口からその日に遡って来た鮭や鱒がその魚道を通って下の写真のように館内で見ることが出来ます。

よく見ると樺太マスや青サケや鼻曲がり鮭などいろいろな種類の魚が混じっているようです
館内には巨大な水槽があり、鮭や鱒、そしてイトウやチョウザメなどを飼って、展示しています。
下は北海道の湿原にいるマボロシの魚のイトウです。2メートルにもなるそうです。

なおサーモン科学館の庭は広い公園になっていて池には白鳥も遊んでいます。
そして館内には取れたての鮭を売っていて、全国へ発送してくれます。
また館内には立派な和食処があり海鮮を中心にした食事も出来ます。
東北海道に行ったら是非寄るべきスポットとしてお薦めの場所です。
詳しい情報は下のHPに出ています。
~人・サケ・自然の共存を目指した「標津サーモンパーク」~(http://www.shibetsutown.jp/town/machi-3.htmlより)
サケの全てがわかる「サーモン科学館」は平成3年9月にオープンされました。
標津川から人工魚道によりサケを館内に誘導し、上からではなく横から遡上の様子を観察できるほか、ビデオやスライド、模型などによりサケに関するすべてを展示しています。また、ふ化実習室や学習室も充実しており、サケ学習を行うこともできます。
下はこのサーモン科学館の全景です。2012年9月に撮った写真です。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「北海道の広い平原と緑の牧場」

2024年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の魅力は本州に無い広々とした平原の風景です。緑の牧場です。そこで今日はそんな風景をご紹介したいと思います。まず写真をお送り致します。1番目の写真は長万部町の静狩の牧草地の平原の風景です。丸加高原を入り口付近から見た風景です。ここの平原には「牛」「馬」「羊」が放牧されているそうです。写真の出典は、http://15.pro.tok2.com/~satoubin/index.htm です。2番目の写真は北海道の稲作地の平原です。北海道は現在日本一の米の産地です。水田の背景に平原が美しく広がっています。写真の出典は、http://15.pro.tok2.com/~satoubin/index.htm です。  3番目の写真は北海道の牧場です。ホルシュタイン種の牛がのんびりと草を食んでいます。4番目の写真は平原に咲いていたルピナスやマーガレットの花です。私が2016年に撮った写真です。5番目の写真は平原の道端に咲いていたアヤメです。同じく2016年5月に撮った写真です。

北海道の野原では5月頃からルピナスやマーガレットやアヤメの花などが咲きだして美しい平原が広がっています。そして街の中も街路樹のアカシアも咲き出します。本州では季節ごとにずれて咲く花々が5月や6月に一斉に開くのです。白樺や楡の木やブナノキの若葉が萌え、北海道の風景は急に華やかになります。富良野の富田ファームのラベンダー畑も一面に咲きます。北海道には梅雨が無いのです。梅雨前線が北海道迄北上して行かないからです。北海道は四季折々すべて爽快な天気なのです。北海道に梅雨の季節がないのは羨ましいです。このような北海道の風景に魅了され何度も行きました。北海道の写真を見ていると憂鬱な気分が吹き飛んでしまいます。

今日は広々とした平原の風景と緑の牧場の風景をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

「ロマンティックな風景の札幌の素晴らしさ」

2024年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム
仕事をやめてから観光旅行で日本の各地をいろいろ訪れました。それぞれの地方には違う歴史がありいろいろな魅力があります。妻も一緒に旅を楽しんでいました。

まず初めに北海道に行きました。札幌を訪れました。札幌はロマンティックな風景に富んだ北の都です。名所が沢山あり感動的な街です。

今日はロマンあふれる札幌をご紹介したいと思います。

札幌の街の真ん中に広大な大通り公園があります。そして観光名所がたくさんあるのです。明治期の道庁の建物、美しい時計台、北海道大学のポプラ並木と植物園、広い開拓村、手稲山のジャンプ台、サッポロビール園、そしてアイヌ文化の博物館などなどです。

何度か札幌へ行ってこれらの所を丁寧に見てまわりました。 まず北海道大学 のポプラ並木の写真と大通り公園のイルミネーションの写真を示しす。その後であまり人の行かない開拓村のことを詳しくご紹介したいと思います。そして北海道の原住民のアイヌ民族の明治期以後の苦難の運命も書きたいと思います。

1番目の写真は有名な北海道大学のポプラ並木です。ここに示す写真は「北海道大学 ポプラ並木」を検索して綺麗に写っている写真を選んでお借り致しました。

2番目の写真は大通り公園の冬のイルミネーションです。2014年12月8日に家内が撮った写真です。

さて札幌の郊外にある北海道開拓村をご紹介したいと思います。明治の北海道開拓時代の札幌の街並みや北海道各地の古い建物が移築され展示してあります。政府が建てた役所は堂々として立派ですが一般の民家は木造の小さな家です。冬の北海道は寒く貧しく厳しい生活だったろうと思い暗い気持ちになったものです。それが北海道の現実です。

写真の出典は、岩見沢市にお住まいの方の北海道開拓の村の雪景色、(https://bunblo09.exblog.jp/30617618/ )です。

3番目の写真は北海道開拓村の中心の大通りです。通りの左右に明治の北海道開拓時代の建物が移築されています。当時の札幌の街の雰囲気です。写真の出典は、岩見沢市にお住まいの方の北海道開拓の村の雪景色、(https://bunblo09.exblog.jp/30617618/ )です。

4番目の写真は北海道開拓村の馬に引かれた乗り合い橇です。写真の出典は、「北海道開拓の昔の冬のくらし」、https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2345/ です。開拓村では冬の体験をさせる企画がいろいろ行われています。

5番目の写真は立派な政府の建物です。日本が本気で北海道を開拓しようという意気込みが感じられます。

6番目の写真は北海道開拓時代の一般の民家です。一般の民家は小さく粗末なものでした。

7番目の写真はキリスト教の小さな教会です。
これらの北海道開拓村の雪景色を見ると南から北海道に移住し開拓に努力した明治期の人々の苦労が偲ばれます。北海道の開拓は生易しいものではなかったのです。

しかし一方、そこに昔から平和に住んでいたアイヌ民族にとっては日本人による開拓は悲劇の始まりでした。アイヌ民族の人権は蹂躙され生活が困窮したのです。

現在の北海道には人々が豊かな暮らしをしています。幸せな土地になりました。しかしアイヌ民族の悲劇的な運命を忘れることが出来ません。

北海道には明治32年から平成9年、1997年まで北海道土民保護法という法律が存在していました。

具体的には 次のことを実行するための法的根拠だったのです。
1、アイヌの土地の没収
2、アイヌの収入源である漁業・狩猟の禁止
3、アイヌ固有の習慣風習の禁止
4、日本語使用の義務
5、日本風氏名への改名による戸籍への編入

1997年5月の「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(略称,アイヌ文化振興法)の成立にともない廃止となりました。

しかし北海道土民保護法は長い間、アイヌ民族の人権を蹂躙しアイヌ民族の財産を収奪して来たのです。1997年の廃止は遅すぎました。

明治の開拓以後は次第に伝統的なアイヌ民族の文化が消えて行きました。北海道開拓のために入植した日本人によって土地を奪われ、狩猟を禁止され、川を遡るサケを捕ることさえも禁じられたのです。アイヌの村落は貧しい生活を強いられていました。

しかし、第二次大戦直後までは、北海道にはアイヌ人達だけの村落があちこちにあったのです。そして、昔アイヌ村落のあった日高の平取や白老、そして旭川の郊外などには現在は民族博物館があります。アイヌ村落を復元した展示もあります。

特に白老の国立アイヌ民族博物館は2020年7月からウポポイというアイヌ民族の芸能や生活を再現して見せる活動を大規模に実施しています。

以前、私は、北海道・日高の平取町二風谷で、町営のアイヌ歴史博物館を見ました。その向かいには、純血のアイヌ人が個人的に経営しているアイヌ文化の博物館もありました。

アイヌ民族と和人は縄文時代までは同じで一緒でした。弥生時代以後、和人とアイヌ民族は離れ離れになり独自の文化を育てていったのです。この話は長くなるので止します。

今日は北海道開拓村の雪景色の写真を示しました。そしてアイヌ民族の悲劇的な運命を少しご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「26歳で夭折した石川啄木の詩の世界」

2024年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
石川啄木は1886年(明治19年)岩手県日戸村で住職の長男に生まれ、翌年渋民村へ移った。 1912年(明治45年)に結核で没した。享年26歳。
まず彼が作ったを短歌を読んでみよう。短歌を三行書きにするという新しい形を産み出した。歌われたのは孤独・望郷・貧困など自己の内面を描き出したものが多い。
 
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる 
 
たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず
 
 はたらけど
はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
ぢつと手を見る
 
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ
 
ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく
 
かにかくに渋民村は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川 
 
やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに 
 
ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな 
 
不来方の
お城の草に寝転びて
空に吸はれし十五の心
 
次に石川啄木に関連した5枚の写真をご覧下さい。全ての写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%95%84%E6%9C%A8 です。
1番目の写真は1908年10月4日撮影の石川啄木です。
2番目の写真は盛岡市内に残る「啄木新婚の家」 です。啄木は1905年に満19歳 で堀合節子 と結婚しました。
3番目の写真は啄木(右)と親友の金田一京助(左)です。1908年(明治41年)10月4日、『明星』終刊の際の写真です。 
4番目の写真は1904年(明治37年)婚約時代の啄木と節子です。 2人は啄木の中学生時代から親しかったのです。 節子は明治19年 生まれ大正2年(1913年)に肺結核で没しました。享年28歳。 
5番目の写真は石川啄木一族の墓です。函館の大森浜を望む立待岬 にある一族の墓です。
 
さて石川啄木の有名な短歌を掲載し、関連の写真をご紹介した後は、彼の26歳で夭折するまでの略歴をご紹介したいのです。
一言で言えば彼は円満な穏健な人でなかったのです。転々とした職場で上司と物議をかもし周囲との人間関係も良くなったのです。気が多く小説や随筆や評論も書きました。その上、政治にも関心が強く大逆事件に深い興味を持っていたのです。多くの女性と遊びました。借金を友人知人から繰り返し、返済はしませんでした。そして娘が2人も出来た妻の節子の不貞を疑い離婚を申し渡したのです。
石川啄木の詩は賞賛すべきですが彼の実生活には問題が多かったのです。要するに石川啄木の生活はいろいろな意味で悲惨だったのです。
しかし啄木は天才です。エネルギーに溢れていました。数多くの本も出版しました。
以下の通りです。
(1)『あこがれ』 詩集、1905(明治38)、
(2)『小天地』 文芸誌、1905(明治38)、
(3)『黄草集』 詩稿ノート(詩36篇)1905(明治38)、
(4)『閑天地』 随筆、岩手日報に21回連載 1905(明治38)、
(5)『葬列』 小説、「明星」明治39年12月号掲載 1906(明治39)、(6)『一握の砂』 歌集、東雲堂書店、1910(明治43)、
(7)『悲しき玩具』 歌集、東雲堂書店、1912(明治45)、
(8)『呼子と口笛』 詩集(詩8篇)、1913(大正2)など。
 
このように石川啄木は多くの文学作品を創造した人でした。しかし100年後の現在は彼の短歌だけが有名なのです。彼の詩だけは現在でも輝いているのです。何故か考えさせられます。嗚呼。
 
今日は26歳で肺結核で夭折した石川啄木の詩の世界をご紹介致しました。
 
それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「宮沢賢治の少年の頃の写真」

2024年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
岩手の誇りはなんといっても宮沢賢治です。賢治の作品は現在読んでも胸が熱くなります。随分と昔に亡くなった人ですが、彼の作品は時代を越えて現在の日本人の心に澄んだ美しい鐘の音を打ち鳴らし続けています。
賢治は悲しい美しい物語を沢山書きました。物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」というものでした。38歳で亡くなるまでの短い人生を苦しんだのです。
宮沢賢治の少年の頃の写真をお送りいたします。宮沢賢治の生家跡と幼い頃や学生の頃の賢治です。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BB です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は花巻市豊川町にある賢治の生家跡地です。賢治の頃の建物は現存していません。 
2番目の写真は1902年の小正月、 5歳の賢治(右)と3歳のトシ(左) です。
3番目の写真は盛岡高等農林在学時、同人誌『アザリア』のメンバーと一緒の賢治(後列右)です。 
4番目の写真は田の中に立つ花巻農学校教諭時代の賢治です。

「宮沢賢治の初版本『注文の多い料理店』、そして『銀河鉄道の夜』」

2024年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
宮沢賢治の初版本『注文の多い料理店』を出版した会社は盛岡の北上川にそった場所にある光原社です。光原社の創業者は宮沢賢治と親交があり賢治の「注文の多い料理店」を出版しました。この本が賢治の生前のたった一つの出版本だったのです。
1番目の写真は「注文の多い料理店」の初版本です。
 
さて賢治は悲しい美しい物語を沢山書きました。物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」というものでした。38歳で亡くなるまでの短い人生を苦しんだのです。
「銀河鉄道の夜」の物語は、星祭りの夜のカンパネルラの水死から始まります。
そしてストーリーは夏の夜空にかがやく銀河の列車に乗ってくるいろいろな人の話として展開して行きます。
人間は死んで天に登り、星になります。ですから銀河鉄道の汽車に乗って来る人は皆な死んだ人です。
主人公のジョバンニ少年も水死した親友のカンパネルラを探すため銀河の列車に乗るのです。
星祭りの夜にカンパネルラは水に落ちた友人のザネリを助け自分は水死してしまうのです。
川に飛び込み消えてしまったカンパネルラの捜索を見ながら、カンパネルラの父が自分の時計を凝視して、キッパリ言うのです。「もう駄目です。落ちてから45分たちましたから。」
この一言に父の悲しみが溢れています。
 
その後でジョバンニは死んだカンパネルラをもう一度銀河鉄道の中で見つけるのです。そしてジョバンニとカンパネルラは一緒に汽車の旅をします。
その列車にはいろいろな人が乗ってきます。
ただ一つの例だけご紹介すれば、大きな氷山にぶつかった豪華客船の沈没の時です。他人を助けれために、人で溢れる救命ボートに無理に乗らずに死んでしまった少女と弟がぬれ鼠で乗って来るのです。大学生の家庭教師も一緒です。
3人は皆、沈没の衝撃で靴を失い、裸足です。それがいつの間にか温かい柔らかい靴を履いています。それがこの汽車の不思議なところです。童話ですから「タイタニック號」と書いてありませんが、そのように想像出来ます。
最後に一緒に乗っていたカンパネルラも他の乗客もみんなも銀河鉄道の列車から消えて行きます。ジョバンニは胸を打ちながらカンパネルラの名を叫びます。銀河鉄道の列車の窓から暗い星空に向かって。
親友のカンパネルラと永遠の別れです。ジョバンニは現世に戻り病気の母親を助けながら真の幸福を求めて元気よく生きて行きます。
この童話の一行、一行がしみじみとしています。一行、一行にこの世の悲しみが滲んでいるのです。
 
この作品のキーは死んでしまった親友と再会するという奇蹟です。再会出来るために重要なのは、ジョバンニとカンパネルラの心温まる強い絆です。カンパネルラは友人を救って自分が死んでしまうのです。友のために死んだ者は天国へ行くのです。
 
今日の挿し絵代わりの写真としてハップル宇宙望遠鏡から撮った星々の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/15/327803/040900003/ です。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
 
====下は宮沢賢治についての私のブログの掲載記事です====
(後藤和弘のブログ、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama)
(1)宮沢賢治の作品を気楽に読む・・・注文の多い料理店、風の又三郎、オッペルと象、ドングリと山猫、よだかの星、、、掲載年月日:2013/10/27
(2)あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(2)北十字、鳥捕り、豪華客船沈没など 2013/10/26
(3)あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(1)星祭りの夜のカンパネルラの水死と再会 2013/10/25
(4)宮沢賢治、「銀河鉄道の夜」・・・あなたの銀河鉄道、私の銀河鉄道、2013/10/24
(5)「風の又三郎」・・・あなたの又三郎、私の又三郎 2013/10/24
(6)金子みすずの童謡詩と鯨の戒名  13/04/10 
(7)みにくいヨタカの姿・・・宮沢賢治の童話「よだかの星」の鳥 、13/04/04
(8)宮沢賢治の作品を気楽に読む(11)完結編:注文の多い料理店、風の又三郎、オッペルと象、ドングリと山猫、よだかの星、、、12/06/01
(9)日本人の手で全世界を佛教国にするという発想は悪くない・・・そして宮沢賢治のこと、    2012/05/09
(10)宮沢賢治の作品を気楽に読む(9)「雨ニモマケズ」は法華経から生まれた詩、       12/05/09
(11)宮沢賢治の信奉していた法華経と国柱会の説明、12/05/08
(12)宮沢賢治の信奉した法華経の特徴は何でしょうか?  2012/05/08 
(13)宮沢賢治が終生会員だった国柱会とは何か?  12/05/08
(14)宮沢賢治の作品を気楽に読む(8)「注文の多い料理店」の序、12/05/08
(15)37歳で逝った賢治の親不幸・・・そして残された原稿の山、12/05/04
(16)宮沢賢治の作品を気楽に読む(7)数多くの旅をしていた宮沢賢治、12/05/03
(17)宮沢賢治の作品を気楽に読む(6)膨大な作品群に踏み迷う、 12/05/02
(18)宮沢賢治の童話集、「注文の多い料理店」の出版、2012/04/20
(19)宮沢賢治の作品を気楽に読む(5)大正13年出版の「春と修羅」から、12/04/20
(20)宮沢賢治の活躍始まる・・・農学校、羅須地人協会、東北砕石工場技師、そして東京、樺太、大島への旅、12/04/17
(21)宮沢賢治の作品を気楽に読む(4)盛岡高等農林学校時代の作品、12/04/16
(22)宮沢賢治の作品を気楽に読む(3)盛岡中学卒業し、病気で岩手病院に入院、  12/04/15
(21)宮沢賢治の作品を気楽に読む(2)盛岡中学3年の頃、2012/04/05
(22)盛岡高等農林学校と宮沢賢治、12/04/04 
(23)宮沢賢治の作品を気楽に読む(1)盛岡中学の頃、12/04/03
(24)突然ですが、宮沢賢治の「慟哭」という詩とその朗読をお送りします、11/11/01
(25) 時代が変わっても宮沢賢治の作品は愛されている 2015年12月16日

「盛岡と北上川、そして小岩井牧場、石川啄木と宮沢賢治」

2024年07月29日 | 写真
岩手は文学者の故郷です。彼等の関連のある盛岡を何度も訪問しました。小岩井牧場にも行きました。盛岡城跡の高い石垣を登ると広い草原になっています。青草の上にあおむけに寝て大空を見ていたら家内が詠います。石川啄木の短歌です。
 
「不来方の
お城の草に
寝転びて
空に吸はれし
十五の心」
 
盛岡では「石割桜」の巨大な石に手をついて何故か感慨に耽りました。
 
滔々と水量豊かに流れる北上川の岸辺にたたずみ口ずさみました。
「やはらかに
柳あをめる
北上の
岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに      (石川啄木の短歌です。)
 
岩手は宮沢賢治の故郷です。
そこで今日は宮沢賢がよく散歩した盛岡城や石割桜や小岩井農場や北上川などの写真をお送り致します。
写真の出典は、https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2396/ です。
 
1番目の写真は「盛岡城跡公園」です。
盛岡城は、江戸時代の藩主である南部家の居城として嘉永10(1633)年に完成しました。
2番目の写真は岩を割って咲く 「石割桜」 です。盛岡の観光名所です。 
 
賢治に関連した土地をめぐる旅では賢治の作品を初めて出版した盛岡市の光原社を訪問し、賢治がよく行った小岩井牧場に行き、その後で花巻市の羅須地人協会などを訪ねました。 写真を示します。全てインターネットに出ている写真をお借りしました。
3番目の写真は北上川の流れる盛岡市です。岩手山の見える非常に美しい町です。
4番目の写真は北上川にそった場所にある光原社です。光原社の創業者は宮沢賢治と親交があり賢治の「注文の多い料理店」を出版しました。また光原社という社名も宮沢賢治が名付けました。「注文の多い料理店」の初版本が展示してあり、家内は手にとらせてもらって大喜びしていました。
5番目の写真は賢治がよく遊んだ盛岡の郊外の小岩井牧場です。ゆっくり散策して来ました。
ついでに花巻市ある賢治が設立した羅須地人協会も訪問しました。賢治は大正15年に花巻農学校を退職し、花巻市に農業技術などを講義するため羅須地人協会を開設したのです。
 
今日は石川啄木や宮沢賢がよく散歩した盛岡城や石割桜や小岩井農場や北上川などの写真をお送り致しました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「岡倉天心が愛した五浦海岸の岡倉天心美術館」

2024年07月28日 | 日記・エッセイ・コラム

太平洋を一望できる美しい五浦海岸に建つ美術館です。岡倉天心や横山大観をはじめとする五浦ゆかりの作家たちの業績を顕彰するとともに、優れた作品を鑑賞することができます。

また展望ロビーやカフェテリアからは、大小の入江と美しい松林が見事な景観の五浦海岸や六角堂の眺望も楽しむことができます。
近現代の日本画を中心とした企画展を随時開催するほか、館内の岡倉天心記念室では、近代日本美術の発展に貢献した岡倉天心の生涯を書簡や遺品などによって紹介しています。

そして横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山ら五浦ゆかりの作家たちの作品も紹介しています。

美術館の近くには有名な六角堂もあります。

岡倉天心はその生涯の前半において日本文化の近代化に努め、華々しく活躍しました。そして生涯の後半においては西洋を追いかけるばかりの近代化の動きに疑問を投げかけます。

天心は、アジアには西洋と異なる文化の原理があると考えたのです。近代化著しかった東京を離れ、移り住んだ自然豊かな五浦は、天心の人生における第二のスタートラインであり新たな思想の発信地でした。

そして、アジア文化の象徴として六角堂を建てました。

天心が五浦海岸に出会ったのは明治三十六(一九〇三)年、天心四十歳の頃のことでした。

明治三十八年にはみずからの設計により邸宅と六角堂を建築し、翌年には、横山大観らを呼び寄せます。精力的に活動しながら、天心は終生この地を拠点としました。

昭和十七年、天心偉績顕彰会が遺族より当地の管理を引き継いだのち、昭和三十年に茨城大学に寄贈されたのを受けて、同年、五浦美術研究所(後に五浦美術文化研究所と改称)が設立され、現在へと続いています。

写真は五浦海岸にある岡倉天心美術館です。私どもも以前に訪問し周囲の風景の美しさをたのしみました。続く写真は展示してある日本画です。

そして最後の写真は天心の設計した六角堂です。大震災の津波で崩壊しましたが、地元の方々の努力で2012年に再建されました。


「東京のカトリック松原教会のミサにあずかりました」

2024年07月28日 | 日記
今日はカトリック松原教会のミサにあずかりました。
 
東京のカトリック松原教会の今日の動画配信は下記です。
 
カトリック松原教会、
〒156-0043東京都世田谷区松原2丁目28番5号
TEL. 03-3321-0941
FAX. 03-3321-0009
matsubara-church@gray.plala.or.jp
京王線・井の頭線「明大前」駅下車 徒歩4分