日本の3世紀は「古墳時代」の始めの頃です。その頃日本には邪馬台国があり女王の卑弥呼が治めていました。中国の3世紀の「魏志倭人伝」にこの邪馬台国と卑弥呼のことが具体的に書かれています。当時の日本には文字が存在していないので「魏志倭人伝」は實に貴重な記録です。
今日は「魏志倭人伝」と卑弥呼と邪馬台国のことをご紹介したいと思います。読み易く箇条書きにしました。
(1)魏志倭人伝とは?
魏志倭人伝は中国の歴史書『三国志』中の第30巻です。第30巻の倭人条の略称です。当時、日本列島にいた民族の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている中国の歴史書です。その歴史書は『三国志』と呼ばれています。西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれました。陳寿の死後、中国では正史として重んじられた歴史書です。
詳細は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D#:~:text=%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D%EF%BC%88%E3%81%8E,%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82 をご覧下さい。
(2)卑弥呼はどんな女王だったか?
魏志倭人伝には日本と卑弥呼について以下のように書いてあります。
邪馬台国では元々は男子を王として70 - 80年を経たのです。たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が続いたのです。そこで、卑弥呼と言う一人の女子を王にすることによってようやく混乱が鎮まったのです。この女王はが卑弥呼です。
卑弥呼は鬼道に仕え衆を指導します。占いと政治が一体だったのです。卑弥呼は年をとっていて独身でした。そして弟が国政を補佐していました。女王となってからは人と会うことは少なくなります。1000人の従者が仕えていましたが、居所である宮室にはただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをしました。館には城柵が厳めしく設けられ、常に兵士が守衛していました。
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1番目の写真は卑弥呼の再現像(大阪府立弥生文化博物館)です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC#%E4%BA%BA%E7%89%A9%E6%AF%94%E5%AE%9A です。
卑弥呼は景初2年(238年)以降、魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられます。正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、中国から張政が派遣されて紛争が止まります。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していたと書かれています。
卑弥呼の生年は不明ですが正始8年(247年)頃に亡くなりました。卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬されました。その後再び卑弥呼の一族の女性である13歳の壹與が女王になったのです。詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC#%E4%BA%BA%E7%89%A9%E6%AF%94%E5%AE%9A をご覧下さい。
(3)邪馬台国の場所
邪馬台国は、2世紀 - 3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつです。邪馬台国は倭の女王の卑弥呼の女王国であり、倭国連合(邪馬台国連合)の都があったとされています。
邪馬台国の場所は大和説や九州説などがあり明確になっていません。しかし私は九州にあったと思います。大和説は現在の日本の天皇制につながるので天皇を重視する人々が支持します。しかし当時は天皇制が無かったのですから大和説は疑問です。
4)邪馬台国の風俗
邪馬台国の風俗は以下のように書かれています。
1、男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。入墨は国ごとに左右、大小などが異なり、階級によって差が有る。
2,その風俗は淫らではない。
3,男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
4,着物は幅広い布を横で結び合わせているだけである。
5,稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。
6,牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
7,兵器は矛、盾、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。
8,土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
9,家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は籩豆(たかつき)を用い、手づかみで食べる。
10,人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
11,倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
12,真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、タブノキ)、杼(ちょ、トチ)、櫲樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投橿(とうきょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。
13,特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。(太占)
14,集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。
15,敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。
16,長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
17,身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。
18,女は慎み深く嫉妬しない。
19,盗みは無く、訴訟も少ない。
20,法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
21,宗族には尊卑の序列があり、上の者の言い付けはよく守られる。
なお邪馬台国の詳細は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD をご覧下さい。
今日は「魏志倭人伝」と卑弥呼と邪馬台国のことをご紹介致しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)