今日も気持ちの良い晴天なので武蔵野と野川の写真を撮りに行きました。自宅から3Kmくらいの距離です。電動車椅子で時速6Kmで片道30分かかりました。
この頃は秋の晴天が続いているの毎日、電動車椅子で遊んでいます。電動車椅子の良いことは、そのまま店やスーパーに入って行け、買い物が出来ることです。
サギソウ(鷺草) ...
サンカヨウ(山荷葉) ...
ハナイカダ ...
トケイソウ(時計草/パッションフラワー) ...
タイツリソウ(ケマンソウ) ...
カタクリ(片栗)、などなど。
しかしこの他にも珍しい花は沢山あります。クマガイソウ(熊谷草)も珍しい花です。そこでクマガイソウの花の写真をお送りいたします。
写真の出典は、https://fukutubu.jp/2015054888 などです。
北海道の野に咲く小さい花々お写真をお送りいたします。
写真の出典は、
https://www.pref.hokkaido.lg.jp/kn/tkn/hana/flowerlist/index.html
です。
1番目の写真はエゾエンゴサク(蝦夷延胡索)です。
北海道から東北地方の日本海側に分布し、主に落葉広葉樹の湿った森林内に生える多年草である。群落を作り、早春の森林を一面青紫色に染める様はすばらしい。
2番目の写真はエゾスカシユリ(蝦夷透百合)です。
スカシユリの近縁種であり、北海道の海岸草地や山地の岩場などに生える多年草。ユリは横向きに咲くものが多いが、エゾスカシユリは上向きに咲く。
3番目の写真はエゾノリュウキンカ(蝦夷立金花)です。
春先、湿地などでよく見かける多年草で、北海道や東北地方など寒い地域に分布している。湿地の好きなミズバショウと一緒に咲いていることも多く、黄金色の美しい花の姿は春を感じさせてくれる。
4番目の写真はエゾリンドウ(蝦夷竜胆)です。
北海道各地の山地や北方の湿地に生える植物。花は茎の上部につく葉の付け根に1個から数個の釣鐘状の花をつける。
北海道には他に無い魅力が沢山あります。不思議な風景もあります。ロマンチックで美しい風景があります。
今日は道東の野付半島の不思議なトドワラ、ナラワラの風景と白帆の海老漁の美しい風景をご紹介したいと思います。まず野付半島ですが、北海道の東の根室市の北にあります。多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)の南です。野付半島は幅が数百メートルしか無い砂洲で出来た半島です。湾曲しながら26kmも伸び、野付湾を囲んでいます。半島の砂洲の上には舗装道路が延々と続き、野付灯台まで車で入れます。
そして野付灯台の手前にはトドワラとナラワラという枯れたトドマツの原とナラの原が広がっている場所があります。地盤沈下で海水に漬かってしまったトドマツの木とナラの木が枯れて、白い骸骨のように立っています。不気味です。不思議な風景です。その白骨のような林が怖い雰囲気です。それが野付湾を一層荒涼とさせています。人間の住む世界ではありません。
しかしその一方、野付湾には縞エビ漁の白帆の打瀬帆舟の美しい風景が広がっているのです。美味しい縞エビが棲んでいて、夏と秋にはその味を楽しむことが出来るのです。
まず下に野付湾の全体の風景写真を示します。
1番目の写真は野付湾です。この野付湾の写真の出典は、http://betsukai.jp/blog/0001/archives/2009/06/images/1245371831.jpg です。
写真のような野付湾を右手に見ながら細い砂洲の上の舗装道路をえんえんと辿って行くとやがて右手にナラワラがあります。下にその光景を示します。
2番目の写真はナラワラの光景です。写真のようにナラ林全てが立ち枯れになっている場所です。ナラワラを通り過ぎ、野付灯台の傍まで行くと立派なビジターセンターがあります。
その駐車場に車を停めて、ハマナスの紅い花と実を見ながら、ぬかるみの小道を1.2kmほど歩くとトドワラがあります。下の写真です。
3番目の写真はトドワラです。立ち枯れたトドマツの木があります。木道は高く狭いので、強い海風が吹き付けると落ちそうになり怖かったです。写真は家内が撮りました。
4番目の写真は木道の先端から見た荒涼としたトドワラの風景です。
トドワラのある半島を野付半島と言いますが、その内側が野付湾です。地元では尾岱沼(おだいとう)と呼んでいます。その野付湾では帆舟の打瀬帆舟による縞エビ漁が盛んなのです。
初夏と秋が北海シマエビ漁の猟期です。舟の舳先から船尾にかけて幅の広い網を海中に降ろし、船を横向きにして幅広い網を帆の受ける風の力で静かにゆっくり引っ張って行くのです。雄大な海の中に浮かんだ白帆の風景が素晴らしいのです。
5番目の写真は北海シマエビ漁の打瀬帆舟です。出典は、http://ugk70671.blog117.fc2.com/blog-entry-282.html です。夏漁は例年6月中旬~7月中旬で、秋漁は例年10月中旬~11月上旬です。
6番目の写真は野付湾に散らばった打瀬帆舟のの風景です。この打瀬帆舟の風景は季節の風物詩として有名なのです。出典は、http://www.hokkaidolikers.com/articles/180 です。
ビジターセンターに戻って、シマエビ定食を昼食として食べました。茹でたシマエビが美味しかったです。
この野付半島の向かい側、16km沖には国後島があります。野付港は国後島の町や村に行く船の発着場として昔は賑わっていたそうです。
訪れたビシターセンターの2階には昔の択捉島や国後島の町や村落の写真が沢山置いてあります。丁寧に見て行くと択捉・国後にかつては多くの日本人が住み、鮭やニシンを取っていたことが判ります。
7番目の写真は野付半島のビシターセンターの2階から撮ったロシア領の国後島です。国後島には日本人の先祖代々のお墓も沢山残っているに違いありません。
墓参くらいは行けるのでしょうか?そんな事を考えながら砂洲にに伸びた道を帰って来ました。
今日は荒涼とした最果てのトドワラ、ナラワラの不気味な風景写真と野付湾の縞エビ漁の帆船の美しい写真をご紹介しました。そしてそこから見える国後島への想いを記しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りします。後藤和弘(藤山杜人)
====樺太、千島のロシアによる占領=======================
(出典は、http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h13/jog203.html です。)
1945年8月24日早朝、アリモフ少将が戦車隊を従えて、豊原に到着し、日本軍の施設をすべて接収し、樺太庁の行政も停止させた。これにて樺太の占領は完了した。
千島列島に関しては、24日以降、順次、日本軍将校を同船させて小型艦艇数隻からなる偵察部隊が南下し、各島で日本軍の降伏を受け入れながら占領を続けていった。
択捉、国後については、当初は「アメリカ軍がやってくるはずだから我々は手をつけずにかえるのだ」と言って、上陸しなかった。この二島はかつてロシア領になった事はなく、日本固有の領土であった。したがって、ヤルタ協定でソ連に「手渡される」ことになっていた千島列島にこの2島が入っておらず、日本本土の一部として、アメリカ軍の占領地域に入っていたと 解釈されても不思議はなかった。
しかし、アメリカ軍が来ていないと知ると、ソ連軍は8月28日に択捉島に、9月1日に国後島に上陸した。さらに千島列 島に含まれず北海道根室半島の延長である歯舞諸島、色丹島にも、ソ連軍はそれぞれ9月1日、4日に占領した。歯舞諸島占領が行われた9月4日は、降伏文書正式調印の二日後である。
「イグナチオ教会の今日の『年間第31主日ミサ 』の動画配信のご案内です。
今日のミサは 10:00 時から『年間第31主日ミサ 』です。
動画配信のご案内をお送り致します。
https://www.youtube.com/watch?v=dXzu8CRie2c
なお関口教会からも動画配信があります。
写真は丸い外形のイグナチオ教会の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。 後藤和弘(藤山杜人)
火山が爆発して目の前に突如山が出来る。これも北海道の魅力です。非常に驚異的なことなので今日は麦畑に突如出来た昭和新山と、火山爆発を繰り返す有珠岳のことを書きたいと思います。
北海道の洞爺湖の傍に昭和新山があります。昭和18年から20年の2年間で17回もの火山爆発が起き、平らな麦畑に突如火山が出来たのです。土地の郵便局長だった三松正夫さんが火山一帯を購入し、私有地にしました。毎日、観測し、火山の成長を観測したことで世界中の地質学者の間で有名になりました。彼が描いた「ミマツ・ダイヤグラム」は、その火山の成長ぶりを図面で示したものです。現在、昭和新山の麓に「三松正夫記念館」があります。非常に感銘深い記念館なので2度も見に行きました。
そして昭和新山の隣の有珠山も火山として繰り返し爆発してたのです。昭和新山の麓から有珠山の頂上までロープウェイがあり、それに乗ると昭和新山を見降ろすことが出来ます。洞爺湖も見えます。私どもは有珠山へロープウエイで登りました。有珠山は昭和新山の向かい側にある高い火山です。昭和新山よりは古い山ですが、それでも新しい爆発を繰り返す火山です。
それにしても昭和新山のような巨大な火山が2年間で出来、それを人間が間近に見ていたという事は驚きです。奇蹟の山と呼ばれる所以でもあります。地質学の上での驚異的な観察結果です。火山の噴火も人智を超えた不思議な自然現象です。
そこで昭和新山を生んだ有珠山の火山の歴史をもう少し書いておきます。
有珠山は、北海道・洞爺湖の南に位置する標高737mの活火山です。山頂は有珠郡壮瞥町にあり、山体は虻田郡洞爺湖町、伊達市にまたがっています。
支笏洞爺国立公園内にあり、昭和新山とともに「日本の地質百選」に選定され、周辺地域が洞爺湖有珠山ジオパークとして「日本ジオパーク」と「世界ジオパーク」の両方に認定されています。ジオパークとは地質変動が明快に目で見ることの出来る珍しい場所です。地球の地質学の上で非常に興味深い場所です。世界遺産とは違った意味で重要です。
この有珠山は何度も噴火を繰り返してきました。 江戸時代以降では、 寛文噴火、 明和噴火、 文政噴火、 嘉永噴火、と続きました。そしてそれ以後は、 明治噴火 、昭和新山生成の 1944年 - 1945年噴火 、 1977年 - 1978年の噴火 、2000年の噴火と約30年周期で噴火を続けてきた火山です。特に2000年噴火は規模が大きかったのです。
それでは昭和新山と有珠山の写真をお送りいたします。 1番目の写真は昭和新山です。以前家内が撮った写真です。 2番目の写真は有珠山に上がるロープウェイと見下ろした昭和新山です。
3番目の写真は昭和新山の登山道から見た山頂です。昭和新山の山頂へは40分くらいで登れました。家内も楽々登れました。
4番目の写真は有珠山の2000年の爆発です。写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E7%8F%A0%E5%B1%B1よです。
5番目の写真は有珠山の2000年の爆発で水に浸かった麓の建物です。出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E7%8F%A0%E5%B1%B1 です。
この有珠山の噴火は事前に群発地震が起きてから爆発するという経過をとったので人間が避難する時間的余裕があるのが特徴でした。したがって学校などの建物や国道の破壊という大規模な損害は起きましたが、人命が犠牲になることが少なかったのです。
特に2000年に起きた大噴火は完璧な予知と安全な避難で特筆すべきものでした。2000年の3月27日からの火山性地震が連続し、その分析や断層の探索により近日中の噴火が予知され、3月29日には気象庁から緊急火山情報が出されたのです。これを受けて壮瞥町・虻田町(当時)・伊達市の周辺3市町では危険地域に住む1万人余りの避難を噴火までに実施し、完了していたのです。
通常、緊急火山情報は人命に関わるような噴火が発生することを知らせるものであり、噴火前にこれが発表されたのは初めての例だったのです。
有珠山には350年前から噴火の記録があり、そのデータ蓄積の多さから比較的「噴火予知のしやすい火山」であること、噴火を繰り返す周期が短く、かつ一定で、地域の住民の多くは前回、前々回、中にはそのさらに前の噴火を経験していたのです。
有珠山の周辺市町のハザードマップの作成や、普段からの児童への教育などがなされていました。
噴火直前には、北海道大学有珠火山観測所が144時間以内に噴火すると予告し、その予告から143時間目に噴火しました。この噴火予測の正確さは驚くべきでした。
さて有珠山の噴火が正確に予測された事実は大変な火山科学の進歩でした。しかし噴火の前に群発地震を起こさないでいきなり爆発する火山もあることを忘れさせてしまったのです。その後、御岳山で前兆の地震が全く無いままいきなり爆発し、多数の貴い人命が失われたのです。
人間は浅慮です。科学の限界を忘れると大災害が起きるのです。それは御岳山の噴火だけではありません。福島の4基の原発の爆発を予測した人は誰もいなかったのです。
科学の限界を知り、自然の悠久さと偉大さに心すべきと思う今日このごろです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
秋の晴天です。午後から近所の貫井弁天さんの写真を撮りに行きました。写真を撮るのが上手な家内が構図を考えながらとりました。そんな写真をお送りいたします。
さて小樽市は江戸時代には松前藩の商業港として栄えた古い町です。札幌の海の玄関口でした。小樽港は開拓民の上陸や物資陸揚げの港だったのです。しかし青函トンネルが出来、函館と札幌間の鉄道が完成すると忘れられた町になったのです。それ以前の小樽は北海道経済の中心都市として発展していたのです。小樽には大正や昭和初期の建物が並んでいます。まずかつて家内が撮った5枚の写真で小樽の風景写真をご紹介したいと思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
尼港事件、ニコライエフスクに於けるロシア兵による日本人惨殺事件の殉難者の慰霊碑の写真です。
1番目の写真は天草市にある尼港事件の殉難者の慰霊碑です。
ロシアでは1917年の革命以後、「世界革命を推進」するためにコミンテルン(第三インターナショナル)を結成し、世界各国で様々な工作活動を行いました。
しかし西欧諸国の共産化は失敗します。そこで工作活動の矛先を東洋に向けてわが国もそのターゲットにしていました。
その事実は戦前のわが国の新聞記事で具体的に確認できます。
そればかりではなく極東における「世界革命の推進」過程で、多くの日本人が犠牲となる凄惨な事件が少なからずあったのです。
これらは現在は忘れている歴史です。
神戸大学付属図書館デジタルアーカイブの『新聞記事文庫』を用いて、共産軍がどのような工作活動をしていたかについて、当時の新聞記事を探していくと、たとえばこのような記事が見つかります。
「尼港邦人全滅 言語に絶する過激派の惨虐」
(http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10126695&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA )
1番目の写真は大正9年(1920)4月27日の報知新聞です。
「尼港」というのは黒龍江がオホーツク海に注ぐ河口にある都市のニコラエフスクのことです。
赤軍ロシア兵がロマノフ皇帝軍のロシア兵を2500名を逮捕し200名を処刑したと報じています。
尼港地図を示します。
2番目の写真は当時のアジアの地図です。ニコラエフスクは右上の端にあります。樺太の西です。
ニコラエフスクは以前は人口2000人程度の町であったようですが、1892年に函館在住の陸軍予備中尉・堀直好が事業としての漁業に取り組み、ロシア側がそれを歓迎したことから多くの日本人が住むようになったのです。
その後日本人が漁業をすることは禁じられたものの海産物の交易で栄えるようになり、1896年に島田元太郎が設立した島田商会など、いくつかの日本企業がこの地に進出していました。
その後のロシア革命によってロシアが連合国から離脱します。
1918年にアメリカの呼びかけにより連合国は、赤軍と戦闘状態になったのです。これに応じて日本もシベリア出兵に参加します。
その後ソ連の革命軍が勢力を拡大して来たためにニコラエフスクの治安が悪化します。
その結果、市民および日本人居留民は日本軍の増援を請願したのです。1920年のことです。
尼港事件を引き起こした赤軍パルチザン幹部の集合写真を示します。
3番目の写真は尼港事件を引き起こしたソ連の赤軍パルチザン幹部の集合写真です。
尼港事件とはニコラエフスクで起きた惨殺事件のことです。
大正9年(1920)当時、ここに日本人居留民、陸軍守備隊、海軍通信隊とその家族たちが在住していたのです。
それをロシア人、中国人、朝鮮人からなる四千名の共産パルチザン軍が同市を包囲し、七百数十名いた日本人のほとんど全員が殺されたのです。
この痛ましい事件を当時は「尼港事件」と呼んでいました。
尼港帝国領事館焼跡を示します。
4番目の写真は尼港にあった日本帝国領事館の焼跡です。
報知新聞の記事には以下のように報じられています。
・・・当時同地に滞在しあり三月三十一日同地を出発して四月八日亜港に来れる米人マキエフの語る尼港の情況以下の如し。・・・
尼港砲撃
・・・初め赤衛軍が尼港市街の砲撃を開始せる時、日本守備隊長は哈府日本軍指揮官の命により中立を宣言せり。然るに赤衛軍は市街に侵入したる後旧露国軍人、官吏等二千五百名を捕縛しその二百名を惨殺する等横暴惨虐看るに忍びざるものありしかば日本守備隊長は抗議を申込たるに、赤衛軍は却て日本軍の武装解除を要求し来り日本守備隊長断然之を拒絶したる□遂に日本軍と赤衛軍との間に戦闘開始せらるるに至れり。
惨虐無道
戦闘は二昼夜に亘りて激烈に行われ、日本人の奮闘目覚しかりしも衆寡敵せず、遂に日本軍の不利に終り、日本領事館は焼かれ領事はその他の日本人と共に自ら火中に投じ、島田商会亦全焼して店員は悉く殺されたり。日本守備隊長は戦死せり。
過激派は露人たると日人たるとを問わず掠奪惨殺を行い、狂暴言語に絶し、罪なき婦女子を銃剣を以て蜂の巣の如く刺殺したるを目撃せり。
該米人の尼港を去るとき日本人百三十名許り過激派に拘禁せられありしが、日々待遇冷酷を極めつつあり。その惨虐なる行為は外部に対し極力秘匿しある為、真相分明せざるも恐らく今は一人も生残るものなかるべしと云えり。
尚現在赤衛軍の中には約一千の朝鮮人と六百の支那人あり朝鮮人は掠奪したる軍服を着用しあり。・・・・・
この記事の最後で「過激派に拘禁」されていた邦人は正確には122名なのだが、わが国が送った救援隊が近づいている情報を知って、5月24日以降全員黒龍河畔に連れて行き、ことごとく刺殺して河に投じられたのだそうです。
監獄の壁には日本人が鉛筆で書いた落書きがいくつか残されていて、「大正9年5月24日午後12時を忘るな」とあり、12時を指した時計の針が描かれていた。
虐殺された邦人の写真も何枚か残っています。
http://srcmaterials-hokudai.jp/photolist_si.php?photo=si07
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10150853&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA にも詳報があります。
ニコラエフスク(尼港)は惨憺たる修羅場と化していたのです。
黒煙市街に溢れる尼港を示します。
5番目の写真はニコライエフスクの焼け跡の惨状です。
Wikipediaによると、この尼港事件で殺されたのは日本人だけではなく、ニコラエフスクの総人口のおよそ半分に及ぶ6000名を超える市民が虐殺され、日本人犠牲者総数は判明しているだけで731名だと言われています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E6%B8%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6
以上が1920年に起きたニコライエフスクの於けるロシア兵による日本人惨殺事件です。
実は、この事件のように多数の日本人が虐殺される事件は他にも多数あったのですが、残念なことに戦後になってこのような史実がマスコミなどで詳しく伝えられることは無かったのです。
戦前の日本人なら誰でも知っていたような重大事件が、なぜ戦後の日本人には伝えられないのかと誰でも不思議に思うところです。
今日は1920年に起きた尼港事件のことをご紹介させていただきました。
朝に、「スーパーの『ヤオコー』に関係した三栖右嗣の油彩画」という記事を書きました。
早く終わったのでスーパーの『ヤオコー』へいろいろな食料品を買いにいきました。
新米、味噌、醤油から牛肉、豚肉、鶏肉、小さいワカサギ、パン、カステラ、シュークリーム、牛乳、カツオのタタキ、など3,4日分の食料を買いました。
昼食は家内が作ったチャーハンでした。
午後は庭仕事です。
夕飯のおかずは小さいワカサギの天婦羅です。自分で揚げます。家内はワカサギを洗い、小麦粉の衣をつける仕事をします。
兎に角、何でも自分で作ると美味しいのです。
写真は三栖右嗣の美術館を作ったスーパーの『ヤオコー』です。今日撮った写真です。