後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「武蔵野と野川の写真を撮りに行った」

2022年10月31日 | 写真
東京都が武蔵野をそのまま保存し「武蔵野公園」という名前にしている広々とした場所があります。そしてその武蔵野の中に「野川」という名前の小さな川が流れています。小金井市の南の端です。


今日も気持ちの良い晴天なので武蔵野と野川の写真を撮りに行きました。自宅から3Kmくらいの距離です。電動車椅子で時速6Kmで片道30分かかりました。

この頃は秋の晴天が続いているの毎日、電動車椅子で遊んでいます。電動車椅子の良いことは、そのまま店やスーパーに入って行け、買い物が出来ることです。


「珍しい花(1)クマガイソウの花」

2022年10月31日 | 写真
珍しい花を検索すると以下のような花が出てきます。

サギソウ(鷺草) ...
サンカヨウ(山荷葉) ...
ハナイカダ ...
トケイソウ(時計草/パッションフラワー) ...
タイツリソウ(ケマンソウ) ...
カタクリ(片栗)、などなど。

しかしこの他にも珍しい花は沢山あります。クマガイソウ(熊谷草)も珍しい花です。そこでクマガイソウの花の写真をお送りいたします。

写真の出典は、https://fukutubu.jp/2015054888 などです。


「北海道の野に咲く小さい花々」

2022年10月30日 | 写真

北海道の野に咲く小さい花々お写真をお送りいたします。
写真の出典は、
https://www.pref.hokkaido.lg.jp/kn/tkn/hana/flowerlist/index.html
 です。

1番目の写真はエゾエンゴサク(蝦夷延胡索)です。
北海道から東北地方の日本海側に分布し、主に落葉広葉樹の湿った森林内に生える多年草である。群落を作り、早春の森林を一面青紫色に染める様はすばらしい。

2番目の写真はエゾスカシユリ(蝦夷透百合)です。
スカシユリの近縁種であり、北海道の海岸草地や山地の岩場などに生える多年草。ユリは横向きに咲くものが多いが、エゾスカシユリは上向きに咲く。

3番目の写真はエゾノリュウキンカ(蝦夷立金花)です。
春先、湿地などでよく見かける多年草で、北海道や東北地方など寒い地域に分布している。湿地の好きなミズバショウと一緒に咲いていることも多く、黄金色の美しい花の姿は春を感じさせてくれる。

4番目の写真はエゾリンドウ(蝦夷竜胆)です。
北海道各地の山地や北方の湿地に生える植物。花は茎の上部につく葉の付け根に1個から数個の釣鐘状の花をつける。


「イグナチオ教会の今日の『年間第31主日ミサ 』の動画配信」

2022年10月30日 | 日記

「イグナチオ教会の今日の『年間第31主日ミサ 』の動画配信のご案内です。

今日のミサは 10:00 時から『年間第31主日ミサ 』です。

動画配信のご案内をお送り致します。
https://www.youtube.com/watch?v=dXzu8CRie2c

なお関口教会からも動画配信があります。

写真は丸い外形のイグナチオ教会の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。 後藤和弘(藤山杜人)


「昭和新山の成長を観測した三松正夫の銅像と昭和新山の写真」

2022年10月29日 | 写真
昭和新山の成長を観測した三松正夫の銅像と昭和新山の写真などをお送り致します。
1番目の写真は三松正夫の銅像と昭和新山です。
2番目の写真は観測結果の見取り図です。 3番目の写真は有名な「ミマツダイヤグラム 」です。

「北海道の魅力(2)麦畑に突如出来た昭和新山と有珠山」

2022年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム

火山が爆発して目の前に突如山が出来る。これも北海道の魅力です。非常に驚異的なことなので今日は麦畑に突如出来た昭和新山と、火山爆発を繰り返す有珠岳のことを書きたいと思います。

北海道の洞爺湖の傍に昭和新山があります。昭和18年から20年の2年間で17回もの火山爆発が起き、平らな麦畑に突如火山が出来たのです。土地の郵便局長だった三松正夫さんが火山一帯を購入し、私有地にしました。毎日、観測し、火山の成長を観測したことで世界中の地質学者の間で有名になりました。彼が描いた「ミマツ・ダイヤグラム」は、その火山の成長ぶりを図面で示したものです。現在、昭和新山の麓に「三松正夫記念館」があります。非常に感銘深い記念館なので2度も見に行きました。

そして昭和新山の隣の有珠山も火山として繰り返し爆発してたのです。昭和新山の麓から有珠山の頂上までロープウェイがあり、それに乗ると昭和新山を見降ろすことが出来ます。洞爺湖も見えます。私どもは有珠山へロープウエイで登りました。有珠山は昭和新山の向かい側にある高い火山です。昭和新山よりは古い山ですが、それでも新しい爆発を繰り返す火山です。

それにしても昭和新山のような巨大な火山が2年間で出来、それを人間が間近に見ていたという事は驚きです。奇蹟の山と呼ばれる所以でもあります。地質学の上での驚異的な観察結果です。火山の噴火も人智を超えた不思議な自然現象です。
そこで昭和新山を生んだ有珠山の火山の歴史をもう少し書いておきます。
有珠山は、北海道・洞爺湖の南に位置する標高737mの活火山です。山頂は有珠郡壮瞥町にあり、山体は虻田郡洞爺湖町、伊達市にまたがっています。
支笏洞爺国立公園内にあり、昭和新山とともに「日本の地質百選」に選定され、周辺地域が洞爺湖有珠山ジオパークとして「日本ジオパーク」と「世界ジオパーク」の両方に認定されています。ジオパークとは地質変動が明快に目で見ることの出来る珍しい場所です。地球の地質学の上で非常に興味深い場所です。世界遺産とは違った意味で重要です。
この有珠山は何度も噴火を繰り返してきました。 江戸時代以降では、 寛文噴火、 明和噴火、 文政噴火、 嘉永噴火、と続きました。そしてそれ以後は、 明治噴火 、昭和新山生成の 1944年 - 1945年噴火 、 1977年 - 1978年の噴火 、2000年の噴火と約30年周期で噴火を続けてきた火山です。特に2000年噴火は規模が大きかったのです。

それでは昭和新山と有珠山の写真をお送りいたします。 1番目の写真は昭和新山です。以前家内が撮った写真です。  2番目の写真は有珠山に上がるロープウェイと見下ろした昭和新山です。

3番目の写真は昭和新山の登山道から見た山頂です。昭和新山の山頂へは40分くらいで登れました。家内も楽々登れました。
4番目の写真は有珠山の2000年の爆発です。写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E7%8F%A0%E5%B1%B1よです。

5番目の写真は有珠山の2000年の爆発で水に浸かった麓の建物です。出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E7%8F%A0%E5%B1%B1 です。


この有珠山の噴火は事前に群発地震が起きてから爆発するという経過をとったので人間が避難する時間的余裕があるのが特徴でした。したがって学校などの建物や国道の破壊という大規模な損害は起きましたが、人命が犠牲になることが少なかったのです。
特に2000年に起きた大噴火は完璧な予知と安全な避難で特筆すべきものでした。2000年の3月27日からの火山性地震が連続し、その分析や断層の探索により近日中の噴火が予知され、3月29日には気象庁から緊急火山情報が出されたのです。これを受けて壮瞥町・虻田町(当時)・伊達市の周辺3市町では危険地域に住む1万人余りの避難を噴火までに実施し、完了していたのです。
通常、緊急火山情報は人命に関わるような噴火が発生することを知らせるものであり、噴火前にこれが発表されたのは初めての例だったのです。


有珠山には350年前から噴火の記録があり、そのデータ蓄積の多さから比較的「噴火予知のしやすい火山」であること、噴火を繰り返す周期が短く、かつ一定で、地域の住民の多くは前回、前々回、中にはそのさらに前の噴火を経験していたのです。
有珠山の周辺市町のハザードマップの作成や、普段からの児童への教育などがなされていました。
噴火直前には、北海道大学有珠火山観測所が144時間以内に噴火すると予告し、その予告から143時間目に噴火しました。この噴火予測の正確さは驚くべきでした。

さて有珠山の噴火が正確に予測された事実は大変な火山科学の進歩でした。しかし噴火の前に群発地震を起こさないでいきなり爆発する火山もあることを忘れさせてしまったのです。その後、御岳山で前兆の地震が全く無いままいきなり爆発し、多数の貴い人命が失われたのです。
人間は浅慮です。科学の限界を忘れると大災害が起きるのです。それは御岳山の噴火だけではありません。福島の4基の原発の爆発を予測した人は誰もいなかったのです。
科学の限界を知り、自然の悠久さと偉大さに心すべきと思う今日このごろです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


「小樽公園の紅葉の写真」

2022年10月28日 | 写真
小樽公園の紅葉の写真をお送りいたします。
小樽市の中心部に位置するのが「小樽公園」です。
そろそろ紅葉の見ごろは過ぎてますが、まだ綺麗な姿を見ることができます。
小樽公園は市の花に指定されているツツジの名所でもあります。

「北海道の魅力(1)ノスタルジアを感じさせる小樽」

2022年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の雰囲気には異国情緒があります。本州と違う魅力があります。大自然の美は帯広や旭川の周辺の平原にあります。野付半島やトドワラには何故か怖ろしい雰囲気があります。明治の北海道の開拓の歴史の陰影は札幌、小樽、函館にあります。江戸時代の松前藩の歴代の藩主の墓は道南の松前にあります。どこも本州とは違った風景です。日本ですが何かが違う独特の魅力があります。
今日から連載でこれらの北海道の魅力をご紹介したいと思います。連載の第一回目は「ノスタルジアを感じさせる小樽」です。小樽は何度行っても旧懐の情が掻き立てられます。郷愁というかノスタルジアというか、心の奥の方に赤い炎がポッと灯ります。そんな赤い炎を大切にしながらゆっくり、ゆっくり散策します。小樽へは5回訪れました。グランドパーク小樽やヒルトン小樽に泊まりました。
さて小樽市は江戸時代には松前藩の商業港として栄えた古い町です。札幌の海の玄関口でした。小樽港は開拓民の上陸や物資陸揚げの港だったのです。しかし青函トンネルが出来、函館と札幌間の鉄道が完成すると忘れられた町になったのです。それ以前の小樽は北海道経済の中心都市として発展していたのです。小樽には大正や昭和初期の建物が並んでいます。まずかつて家内が撮った5枚の写真で小樽の風景写真をご紹介したいと思います。
 
 
 
小樽の風景を見ていると私は『蟹工船』を書いた小林多喜二のことを思い出します。
小林多喜二は1933年に特高警察の酷い拷問を受け29歳で死にました。彼は小樽に住んでいたのです。小林多喜二を偲びつつ彼がよく行った店で食事をしました。
私は共産主義は嫌いです。しかし以下は日本の歴史の一つの裏面としてご紹介したいと思います。
小林多喜二は1903年10月13日、秋田県に生まれ4歳のときに一家で小樽に移住し小樽で育ち作家として立ちました。プロレタリア文学の旗手と目され1930年に上京、翌年、当時非合法であった日本共産党に入党、困難な地下生活を余儀なくされながらも旺盛に執筆活動を展開しました。そして1933年2月20日に29歳で没しました。
小林多喜二の代表作、『蟹工船』のあらすじです。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9F%B9%E5%B7%A5%E8%88%B9 )
蟹工船とは、戦前にオホーツク海のカムチャツカ半島沖海域で行われた北洋漁業で使用された船です
漁獲したカニの加工設備を備えた大型船です。搭載して行った小型船でたらば蟹を漁獲し、ただちに蟹工船で蟹を缶詰に加工するのです。その一隻の「博光丸」が小説の舞台です。
蟹工船は「工船」であって「航船」ではない。だから航海法は適用されず、危険な老朽船を改造して投入されたのです。また工場でもないので、労働法規も適用されなかったのです。
蟹工船は法規の真空地帯であり、船内では、東北一円の貧困層から募集した出稼ぎ労働者が過酷な条件で働いていました。資本者側の非人道的酷使がまかり通っていたのです。また北洋漁業振興の国策から、政府も資本者側と結託して事態を黙認する姿勢でした。
 
情け知らずの監督である浅川は労働者たちを人間扱いせず、彼らは劣悪で過酷な労働環境の中で酷使します。労働者は暴力、虐待、過労や病気で次々と倒れてしまいます。
転覆した蟹工船をロシア人が救出したことがきっかけで日本人労働者は異国の人も同じ人間と感じるのでした。そしてロシア人から「プロレタリアートこそ最も尊い存在」と教わるのです。しかし日本人の船長がそれを「赤化」とみなします。
当初は無自覚だった労働者たちはやがて権利意識に覚醒し、指導者のもとストライキ闘争に踏み切ります。会社側は海軍に無線で鎮圧を要請し、派遣されてきた駆逐艦から乗り込んできた水兵にスト指導者たちは逮捕されます。こうして最初のストライキは失敗に終わったのです。労働者たちは作戦を練り直し、再度のストライキに踏み切るのでした。以下省略。
 
小林多喜二の資料の常設展示は小樽文学館、(http://otarubungakusha.com/past/200302398  )にあります。
小林多喜二は死の間際まで執筆活動を続け作品の中に込めた弱者救済の思想は現代社会においても通じるものがあります。そして日本の暗い時代の歴史の裏面を知ることが出来るのです。
 
私が撮った5枚の小樽風景の写真に加えて冬の小樽の2枚の風景写真もお送り致します。
写真の出典は、https://ovo.kyodo.co.jp/news/life/travel-news/a-1397278 です。
 
今日は北海道の魅力を紹介する連載の第一回目として「ノスタルジアを感じさせる小樽」を書きました。小樽に住んでいた小林多喜二の「蟹工船」もご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「尼港事件、ニコライエフスクに於けるロシア兵による日本人惨殺事件の殉難者の慰霊碑」

2022年10月27日 | 写真

尼港事件、ニコライエフスクに於けるロシア兵による日本人惨殺事件の殉難者の慰霊碑の写真です。

1番目の写真は天草市にある尼港事件の殉難者の慰霊碑です。

尼港事件の民間人殉難者には、熊本県天草の出身者が多い。他県在住の縁者も加えると110名にのぼり、ほぼ三分の一に達する。
1895年(明治28年)、天草北部の二組の夫婦が、それぞれに若い女性たちを連れてニコラエフスクへ渡り、水商売を始めた。
以来、水商売に限らず、洗濯業や洋服仕立業で、家族ぐるみの移住者も増え、中には成功して、貿易業や旅館経営をする者も現れていた。小樽と同じく昭和12年、遺族たちの手によって、天草市五和町手野に、尼港事変殉難者碑が建てられている。
2番目の写真は尼港殉難者追悼碑(北海道小樽市手宮)です。北海道の小樽市は、樺太、シベリア方面への物資積み出し港であり、ニコラエフスクとも縁が深かった。
3番目の写真は尼港殉難者記念碑(茨城県水戸市堀原)です。1922年3月建立。全員が犠牲となった第14師団尼港守備隊の出身地、茨城県水戸の堀原、もと練兵場のあった場所にも、尼港殉難者記念碑が建っている。
4番目の写真は尼港殉難碑(札幌護国神社)です。札幌の護国神社境内にも尼港殉難碑があるが、これは、1927年(昭和2年)、救援隊の兵士達が旧丸山村界川に建立したもので、戦後、現在地に移されたものです。

「ニコライエフスクに於けるロシア兵による日本人惨殺事件」

2022年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム
朝から暗い話は書きたくありませんが、歴史的な事実として記録しておくべきと思います。それは尼港事件(ニコー事件)のことです。
ロシアでは1917年の革命以後、「世界革命を推進」するためにコミンテルン(第三インターナショナル)を結成し、世界各国で様々な工作活動を行いました。
しかし西欧諸国の共産化は失敗します。そこで工作活動の矛先を東洋に向けてわが国もそのターゲットにしていました。
その事実は戦前のわが国の新聞記事で具体的に確認できます。
そればかりではなく極東における「世界革命の推進」過程で、多くの日本人が犠牲となる凄惨な事件が少なからずあったのです。

これらは現在は忘れている歴史です。
神戸大学付属図書館デジタルアーカイブの『新聞記事文庫』を用いて、共産軍がどのような工作活動をしていたかについて、当時の新聞記事を探していくと、たとえばこのような記事が見つかります。

「尼港邦人全滅 言語に絶する過激派の惨虐」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10126695&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA )


1番目の写真は大正9年(1920)4月27日の報知新聞です。
「尼港」というのは黒龍江がオホーツク海に注ぐ河口にある都市のニコラエフスクのことです。

赤軍ロシア兵がロマノフ皇帝軍のロシア兵を2500名を逮捕し200名を処刑したと報じています。
尼港地図を示します。

2番目の写真は当時のアジアの地図です。ニコラエフスクは右上の端にあります。樺太の西です。

ニコラエフスクは以前は人口2000人程度の町であったようですが、1892年に函館在住の陸軍予備中尉・堀直好が事業としての漁業に取り組み、ロシア側がそれを歓迎したことから多くの日本人が住むようになったのです。
その後日本人が漁業をすることは禁じられたものの海産物の交易で栄えるようになり、1896年に島田元太郎が設立した島田商会など、いくつかの日本企業がこの地に進出していました。

その後のロシア革命によってロシアが連合国から離脱します。
1918年にアメリカの呼びかけにより連合国は、赤軍と戦闘状態になったのです。これに応じて日本もシベリア出兵に参加します。

その後ソ連の革命軍が勢力を拡大して来たためにニコラエフスクの治安が悪化します。
その結果、市民および日本人居留民は日本軍の増援を請願したのです。1920年のことです。

尼港事件を引き起こした赤軍パルチザン幹部の集合写真を示します。

3番目の写真は尼港事件を引き起こしたソ連の赤軍パルチザン幹部の集合写真です。

尼港事件とはニコラエフスクで起きた惨殺事件のことです。
大正9年(1920)当時、ここに日本人居留民、陸軍守備隊、海軍通信隊とその家族たちが在住していたのです。
それをロシア人、中国人、朝鮮人からなる四千名の共産パルチザン軍が同市を包囲し、七百数十名いた日本人のほとんど全員が殺されたのです。

この痛ましい事件を当時は「尼港事件」と呼んでいました。
尼港帝国領事館焼跡を示します。

4番目の写真は尼港にあった日本帝国領事館の焼跡です。
報知新聞の記事には以下のように報じられています。

・・・当時同地に滞在しあり三月三十一日同地を出発して四月八日亜港に来れる米人マキエフの語る尼港の情況以下の如し。・・・

尼港砲撃
・・・初め赤衛軍が尼港市街の砲撃を開始せる時、日本守備隊長は哈府日本軍指揮官の命により中立を宣言せり。然るに赤衛軍は市街に侵入したる後旧露国軍人、官吏等二千五百名を捕縛しその二百名を惨殺する等横暴惨虐看るに忍びざるものありしかば日本守備隊長は抗議を申込たるに、赤衛軍は却て日本軍の武装解除を要求し来り日本守備隊長断然之を拒絶したる□遂に日本軍と赤衛軍との間に戦闘開始せらるるに至れり。

惨虐無道
戦闘は二昼夜に亘りて激烈に行われ、日本人の奮闘目覚しかりしも衆寡敵せず、遂に日本軍の不利に終り、日本領事館は焼かれ領事はその他の日本人と共に自ら火中に投じ、島田商会亦全焼して店員は悉く殺されたり。日本守備隊長は戦死せり。

過激派は露人たると日人たるとを問わず掠奪惨殺を行い、狂暴言語に絶し、罪なき婦女子を銃剣を以て蜂の巣の如く刺殺したるを目撃せり。

該米人の尼港を去るとき日本人百三十名許り過激派に拘禁せられありしが、日々待遇冷酷を極めつつあり。その惨虐なる行為は外部に対し極力秘匿しある為、真相分明せざるも恐らく今は一人も生残るものなかるべしと云えり。

尚現在赤衛軍の中には約一千の朝鮮人と六百の支那人あり朝鮮人は掠奪したる軍服を着用しあり。・・・・・

この記事の最後で「過激派に拘禁」されていた邦人は正確には122名なのだが、わが国が送った救援隊が近づいている情報を知って、5月24日以降全員黒龍河畔に連れて行き、ことごとく刺殺して河に投じられたのだそうです。

監獄の壁には日本人が鉛筆で書いた落書きがいくつか残されていて、「大正9年5月24日午後12時を忘るな」とあり、12時を指した時計の針が描かれていた。

虐殺された邦人の写真も何枚か残っています。
http://srcmaterials-hokudai.jp/photolist_si.php?photo=si07

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10150853&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA にも詳報があります。

ニコラエフスク(尼港)は惨憺たる修羅場と化していたのです。
黒煙市街に溢れる尼港を示します。


5番目の写真はニコライエフスクの焼け跡の惨状です。

Wikipediaによると、この尼港事件で殺されたのは日本人だけではなく、ニコラエフスクの総人口のおよそ半分に及ぶ6000名を超える市民が虐殺され、日本人犠牲者総数は判明しているだけで731名だと言われています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E6%B8%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6

以上が1920年に起きたニコライエフスクの於けるロシア兵による日本人惨殺事件です。

実は、この事件のように多数の日本人が虐殺される事件は他にも多数あったのですが、残念なことに戦後になってこのような史実がマスコミなどで詳しく伝えられることは無かったのです。

戦前の日本人なら誰でも知っていたような重大事件が、なぜ戦後の日本人には伝えられないのかと誰でも不思議に思うところです。

今日は1920年に起きた尼港事件のことをご紹介させていただきました。

 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「秋のコスモス畑の風景」

2022年10月26日 | 写真
秋のコスモス畑の風景写真をお送りいたします。
写真の出典は、https://tripnote.jp/kanto/flower-trip-autumn です。
1番目の写真は.茨城の「ひたち海浜公園みはらしの丘」の紅葉したコキアとコスモス畑です。ひたちなか市内で一番標高の高い「みはらしの丘」です。4月下旬から5月中旬にかけてはネモフィラが咲き誇り、辺り一面が美しい青色で彩られます。そして9月になるとコスモス畑が美しく咲きます。
2番目の写真は群馬の鼻高展望花の丘のコスモスです。コスモスは4種類で約40万本、9月中旬~10月中旬ごろの見頃時期にあわせて行われるコスモス祭りでは、地場産野菜の直売店や花の種プレゼントなどのイベントを開催じます。入場無料で楽しめます。
3番目の写真は千葉の「あけぼの山農業公園」のコスモスです。10月上旬~10月下旬が見頃です。
4番目の写真は東京の小金井公園のコスモス畑です。ピンク色のセンセーションをはじめとする5種類のコスモスが咲き誇ります。毎年10月下旬頃にはコスモスまつりを開催します。

「今日の日記」

2022年10月26日 | 日記

朝に、「スーパーの『ヤオコー』に関係した三栖右嗣の油彩画」という記事を書きました。

早く終わったのでスーパーの『ヤオコー』へいろいろな食料品を買いにいきました。

新米、味噌、醤油から牛肉、豚肉、鶏肉、小さいワカサギ、パン、カステラ、シュークリーム、牛乳、カツオのタタキ、など3,4日分の食料を買いました。

昼食は家内が作ったチャーハンでした。

午後は庭仕事です。

夕飯のおかずは小さいワカサギの天婦羅です。自分で揚げます。家内はワカサギを洗い、小麦粉の衣をつける仕事をします。

兎に角、何でも自分で作ると美味しいのです。

写真は三栖右嗣の美術館を作ったスーパーの『ヤオコー』です。今日撮った写真です。


「スーパーの『ヤオコー』に関係した三栖右嗣の油彩画」

2022年10月26日 | アート・文化

今朝の朝食中に妻が今日は隣町小平市のスーパー『ヤオコー』に車で連れて行ってくれと言います。近所のスーパーマーケットでも良いと思いましたが行くことにしました。三栖右嗣の油彩画を思い出したからです。

今日は三栖右嗣の油彩画をご紹介したいと思います。

さてヤオコーというスーパーマーケットは川越市の八百屋さんが作った店で、埼玉県と東京の西北部に数多くのスーパーを展開しています。
その創業者の女主人、川野トモさんが油絵が大好きで川越美術館を作ったのです。
この美術館は三栖右嗣(みす ゆうじ)記念館でもあります。
彼の絵画を蒐集し33点展示してある小さいながら芸術性あふれる美術館です。館内にカフェもあります。

建物の設計は伊東豊雄氏です。川越の新河岸川のほとりの閑静な場所にあります。
ヤオコー川越美術館に展示してあるものを含めて三栖右嗣画伯の油彩画の写真をご紹介いたします。

1番目の写真は「麓郷早春」と題した長い大作です。北海道の大地の生命感を力強く描いた1982年の作品です。圧倒されました。
  2番目の写真は「信州うみのくち」という題で1997年作、60号の大作の油絵です。
雪の降る木崎湖です。湖面には沿岸の雪が写し出され何故かシーンとした気分になります。私の好きな情感豊かな絵です。

3番目の写真は「春園」という題の大作の部分です。三栖さんの晩年の傑作です。

4番目の写真は冬の北海道の牧場風景です。この絵は展示されていませんでした。

5番目の写真は冬の灯台風景です。  6番目の写真は「林檎のある風景」です。  7番目の写真は「カテドラルの或る街」です。
ヤオコー川越美術館は以前に訪問しました。
川越からの帰りの車の中で家内が三栖右嗣さんは一流の芸術家だ、そして安井曽太郎や木下孝則の画風に似て柔らかな写実が優しいですねなどとつぶやいていました。 現代リアリズムの画家ともいわれ、人気作家でもあったのです。彼の作品は、単に写真のように対象を精緻に写し取るリアリズム絵画ではなく、彼の優しい視点が反映された人間味のあるものです。温かみのある描写の作品です。質の高い充実した油彩画です。
ヤオコーというスーパーに買い物に行くたびに三栖右嗣さんの油彩画を思い出して楽しい気分になります。
そんなスーパーがあるのは幸運ですね。
川越の近辺にお住まいの方は是非この美術館を訪問なさって下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=====参考資料==============
(1)ヤオコー川越美術館のホームページ、
    http://www.yaoko-net.com/museum/
(2)三栖右嗣さんの略歴、
ヤオコー川越美術館がコレクションする作家三栖右嗣は、埼玉県比企郡ときがわ町にアトリエを構え、制作活動をおこなってきました。 
略歴 :
1927(昭和 2年) 神奈川県に生まれる。
1952(昭和27年) 東京藝術大学(安井曽太郎教室)卒業。
1972(昭和47年) アメリカにアンドリュー・ワイエスを訪ねる。
銀座・飯田画廊にて昭和51年(1976)まで毎年個展。
1975(昭和50年) 沖縄海洋博覧会「海を描く現代絵画コンクール展」に『海の家族』を出品、大賞受賞。沖縄県立博物館蔵。
「大賞受賞記念 三栖右嗣展」<読売新聞社主催><新宿伊勢丹>
1976(昭和51年) 第19回安井賞展に『老いる』を出品。安井賞受賞。東京国立近代美術館蔵。
皇太子殿下(現:天皇陛下)依頼により『沖縄の海』を制作。東宮御所蔵。
1977(昭和52年) 国立公園協会の依頼により『小笠原・父島より南島・母島を望む』を制作。同協会蔵。
個展<上野松坂屋>。
1979(昭和54年) クライスラー画像<スペイン・マドリード>にて個展。
個展<上野松坂屋、松坂屋本店(名古屋)>。
中略:
1994(平成 6年) 緞帳『薫風』を制作<玉川村文化センター>。
1995(平成 7年) 個展 <松坂屋本店(名古屋)>。
1996(平成 8年) 『爛漫』500号を制作<(株)ヤオコー本社>。
リトグラフの2世紀記念展に招待出品<フランス>。
2010(平成22年) 4月 逝去 享年82歳
2012(平成24年) 「ヤオコー川越美術館 三栖右嗣記念館」開館。