以下は茨城県の常陽新聞に2005年6月22日から2006年9月6日まで67回に分けて掲載された「東洋と西洋のはざまで」の第一回目の文章を書き直したものです。転載は常陽新聞社より了承を得ています。
◎変えられた対中国観
ある外国への感情について、その国の人々からどんなことをされたかという、個人的な経験が決定的に重要になる場合が多いと思います。そんな意味で、私はかって在住したアメリカとドイツには特別な感情を持っています。また、中国には招待されて集中講義に4回行きましたので、同じ経験のあるスウェーデンとともに愛着を持っています。
私の中国観の形成過程で一番重要だったのは、1969年と70年、ドイツのストッツガルト市にあるマックスプランク研究所で、フンボルト奨学金を受けて研究をしていた時に得た体験でした。
@独研究者の言葉
1969年以前はアメリカ在住の影響もあり、共産党の中国は嫌いでした。また、第二次大戦中の中国を「支那」と蔑視する文化の中で育ちましたので、中国に対しては内心深く軽蔑していました。しかし、研究所で「固体電解質の物理」という専門書の一つの章を共同執筆した研究者プルシュケル氏の言葉が私の考えを根底から変えました。
「日本人は中国人を軽蔑しているが、欧州人は中国を軽蔑している日本人を信用も尊敬もしないよ。もっと東洋と西洋の文化と相互交流の歴史を考えて、東洋の利益を考えるべきでは」「西洋の近代植民地主義に便乗するのではなく、東洋の利益、日本の利益を基本的に考えて西洋諸国と交流するのがよいと思う」
プルシュケル氏は東ドイツにある村に同姓の村人数百人と一緒に住んでいました。ロシア軍が侵入した時に同族は皆殺しに遭い、1人だけ生き延びて西ドイツに逃げ、研究所の主任研究員(後に大学教授)になった人です。
ロシア人を憎んでいないのかとの質問に、「ドイツが電撃作戦でロシアに侵入した時、若いロシア人を2000万人も殺した。ロシア側は当然のことをしたので特に憎む気持ちはない」と答えました。このような男が「日本人は中国人と信頼関係を維持したほうがよい」と言うので、深く考え直すキッカケになりました。
@周栄章教授のこと
1979年、ベルサイユ宮殿前の国際会議場で北京鉄鋼学院の周栄章教授に会った時、この話をしました。周氏は共産軍とともに天津市を占領し、民生行政に参加した人でした(周氏との出会いが後に中国へ行くキッカケになりました)。
周氏は日本軍が真珠湾で米太平洋艦隊を攻撃した時、ものすごくうれしかったそうです。日本は太平洋へ軍事作戦を拡大するので、中国本土の戦争は中国にとって楽になると考えたからです。実はこれだけではないようでした。西洋植民地主義で清朝以来痛めつけられた中国人にとって、兄弟分の日本が西洋人に痛撃を与えたからです。
海外在住の中国人も含め、全中国人が日本軍の真珠湾攻撃によって内心溜飲を下げなかったと言えば嘘になると思います。周栄章教授は2004年に亡くなりました。
時々、周栄章教授の優しい話し方や笑顔を思い出して懐かしく思っています。
◎地下室で見た中国人の本音
中国の首相、周恩来が死んだ時、中央政府は公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止しました。たまたま北京にいた私に、旧知の周栄章・北京鉄鋼学院教授が声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言いました。
暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ大學の地下室でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていました。周氏は「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやるよ。それが中国人の根性なのです」と言い切りました。
外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用できたのでしょうか。このような体験は、中国も日本も権力者と一般の人々との考えが違うことを教えてくれました。
中国東北部の瀋陽に行った時、東北工科大學の陸学長がニコニコして「私は日本人の作った旅順工大の卒業です」ときれいな日本語で言いました。そこで、東北大学金属工学科で電気冶金学を習った森岡先生が旅順工大にいたことを話しましたら、「悪い先生もいましたが、大変お世話になった素晴らしい日本の先生もいました。ご恩は忘れません」と懐かしそうでした。中国人、少なくともインテリの方は個人の付き合いと国家同士の論争とは分離して考えているようです。
@オートンさんの思い出
六〇年、米国のオハイオ州立大金属工学、博士課程の講義に初めて出た時に会った、ジョージ・オートン氏は爆撃機を操縦して東京へ焼夷弾を落とした男です。大きな体、坊主頭、赤ら顔のカウボーイのような男でした。面倒見のよい人で、英語のできない私にノートを見せてくれ、何度も家に招待してくれました。当時、彼は空軍大佐でしたが、引退後大学の先生になろうと博士課程を取っていました。
なぜ日本人の私の面倒をそんなに本気でみるのか、かなり親しくなってから聞いたことがあります。「俺は東京へB29で何十回も空襲に行ったよ。それでなんとなく日本人に親近感ができてしまったのかも…」。彼はその話を二度としませんでした。
奥さんのケイが死んだのは二十年も前です。しばらくしてから南部にオートン氏を訪ね、二人でケイの墓参りをしました。いつも大声で陽気に話していた彼は消え入るように沈み、平らな石を水平に埋め込んだ白い墓石が一面に広がり、秋風が吹き渡っていました。また何年か過ぎ、アニタという女性と再婚してから元気になったようです。
1988年、私はオランダの出版社から初めて英語で専門書を出版することになりました。その時、原稿を逐一訂正してくれたのがオハイオ州立大の同級生オートン氏です。
この気さくで親切だったオートンさんも亡くなったと息子さんから2006年に手紙が来ました。
@走馬灯のように
オートン氏のことを思い出すと、1945年7月、少年であった私の目の前で一面火の海になった仙台の町々、空襲の大火に映しだされるB29の白い機体のゆっくりした動きを思い出します。憎しみも悲しみもない走馬灯のように。 B29に乗っていたオートン氏も旅立ってしまいました。花輪を送り、遠くから冥福を祈るだけでした。
年を取るとこのように友人達がドンドン旅立って行ってしまいます。淋しくなります。老年の悲しさの一つです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
この写真を拝見し、しばらくして、贈りもののように詩が流れてきました。どうもありがとうございます。ストレートではなく、レコードの針が飛んだような感じかもしれませんが、どことなく浮かんできましたので静かにご報告します
あなたの 部屋が どんなに 汚れていても
愛 の ひかり の おまじない が
かかり はじめて いる よ
あなたが どんなに 汚い 仕事を はじめて いても
愛 の ひかり の おまじない が
かかり はじめて いる よ
あなたの 耳に どんなに つらい 事が 聞こえてきても
愛 の ひかり の おまじない が
かかり はじめて いる よ
あなたの 目に どんなに つらい現実が 映ってきても
愛 の ひかり の おまじない が
かかり はじめて いる よ
小さな ゴミまで 光り はじめて いる よ
さあ 勇気 を 出そう
全員が 全員 輝いて いくん だ
投稿 裸心全通(らしんとおる) | 2012/01/29 17:17