後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

プルシュケルさん、周栄章さん、オートンさんの思い出・・・みんな旅立って行きます

2012年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム

以下は茨城県の常陽新聞に2005年6月22日から2006年9月6日まで67回に分けて掲載された「東洋と西洋のはざまで」の第一回目の文章を書き直したものです。転載は常陽新聞社より了承を得ています。

       ◎変えられた対中国観

ある外国への感情について、その国の人々からどんなことをされたかという、個人的な経験が決定的に重要になる場合が多いと思います。そんな意味で、私はかって在住したアメリカとドイツには特別な感情を持っています。また、中国には招待されて集中講義に4回行きましたので、同じ経験のあるスウェーデンとともに愛着を持っています。

の中国観の形成過程で一番重要だったのは、1969年と70年、ドイツのストッツガルト市にあるマックスプランク研究所で、フンボルト奨学金を受けて研究をしていた時に得た体験でした。

          @独研究者の言葉

1969年以前はアメリカ在住の影響もあり、共産党の中国は嫌いでした。また、第二次大戦中の中国を「支那」と蔑視する文化の中で育ちましたので、中国に対しては内心深く軽蔑していました。しかし、研究所で「固体電解質の物理」という専門書の一つの章を共同執筆した研究者プルシュケル氏の言葉が私の考えを根底から変えました。

「日本人は中国人を軽蔑しているが、欧州人は中国を軽蔑している日本人を信用も尊敬もしないよ。もっと東洋と西洋の文化と相互交流の歴史を考えて、東洋の利益を考えるべきでは」「西洋の近代植民地主義に便乗するのではなく、東洋の利益、日本の利益を基本的に考えて西洋諸国と交流するのがよいと思う」

プルシュケル氏は東ドイツにある村に同姓の村人数百人と一緒に住んでいました。ロシア軍が侵入した時に同族は皆殺しに遭い、1人だけ生き延びて西ドイツに逃げ、研究所の主任研究員(後に大学教授)になった人です。

ロシア人を憎んでいないのかとの質問に、「ドイツが電撃作戦でロシアに侵入した時、若いロシア人を2000万人も殺した。ロシア側は当然のことをしたので特に憎む気持ちはない」と答えました。このような男が「日本人は中国人と信頼関係を維持したほうがよい」と言うので、深く考え直すキッカケになりました。

      @周栄章教授のこと

1979年、ベルサイユ宮殿前の国際会議場で北京鉄鋼学院の周栄章教授に会った時、この話をしました。周氏は共産軍とともに天津市を占領し、民生行政に参加した人でした(周氏との出会いが後に中国へ行くキッカケになりました)。

周氏は日本軍が真珠湾で米太平洋艦隊を攻撃した時、ものすごくうれしかったそうです。日本は太平洋へ軍事作戦を拡大するので、中国本土の戦争は中国にとって楽になると考えたからです。実はこれだけではないようでした。西洋植民地主義で清朝以来痛めつけられた中国人にとって、兄弟分の日本が西洋人に痛撃を与えたからです。

海外在住の中国人も含め、全中国人が日本軍の真珠湾攻撃によって内心溜飲を下げなかったと言えば嘘になると思います。周栄章教授は2004年に亡くなりました。

時々、周栄章教授の優しい話し方や笑顔を思い出して懐かしく思っています。

   ◎地下室で見た中国人の本音

中国の首相、周恩来が死んだ時、中央政府は公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止しました。たまたま北京にいた私に、旧知の周栄章・北京鉄鋼学院教授が声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言いました。

 暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ大學の地下室でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていました。周氏は「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやるよ。それが中国人の根性なのです」と言い切りました。

外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用できたのでしょうか。このような体験は、中国も日本も権力者と一般の人々との考えが違うことを教えてくれました。

中国東北部の瀋陽に行った時、東北工科大學の陸学長がニコニコして「私は日本人の作った旅順工大の卒業です」ときれいな日本語で言いました。そこで、東北大学金属工学科で電気冶金学を習った森岡先生が旅順工大にいたことを話しましたら、「悪い先生もいましたが、大変お世話になった素晴らしい日本の先生もいました。ご恩は忘れません」と懐かしそうでした。中国人、少なくともインテリの方は個人の付き合いと国家同士の論争とは分離して考えているようです。

     @オートンさんの思い出

六〇年、米国のオハイオ州立大金属工学、博士課程の講義に初めて出た時に会った、ジョージ・オートン氏は爆撃機を操縦して東京へ焼夷弾を落とした男です。大きな体、坊主頭、赤ら顔のカウボーイのような男でした。面倒見のよい人で、英語のできない私にノートを見せてくれ、何度も家に招待してくれました。当時、彼は空軍大佐でしたが、引退後大学の先生になろうと博士課程を取っていました。 

なぜ日本人の私の面倒をそんなに本気でみるのか、かなり親しくなってから聞いたことがあります。「俺は東京へB29で何十回も空襲に行ったよ。それでなんとなく日本人に親近感ができてしまったのかも…」。彼はその話を二度としませんでした。 

奥さんのケイが死んだのは二十年も前です。しばらくしてから南部にオートン氏を訪ね、二人でケイの墓参りをしました。いつも大声で陽気に話していた彼は消え入るように沈み、平らな石を水平に埋め込んだ白い墓石が一面に広がり、秋風が吹き渡っていました。また何年か過ぎ、アニタという女性と再婚してから元気になったようです。

1988年、私はオランダの出版社から初めて英語で専門書を出版することになりました。その時、原稿を逐一訂正してくれたのがオハイオ州立大の同級生オートン氏です。

この気さくで親切だったオートンさんも亡くなったと息子さんから2006年に手紙が来ました。

        @走馬灯のように

オートン氏のことを思い出すと、1945年7月、少年であった私の目の前で一面火の海になった仙台の町々、空襲の大火に映しだされるB29の白い機体のゆっくりした動きを思い出します。憎しみも悲しみもない走馬灯のように。 B29に乗っていたオートン氏も旅立ってしまいました。花輪を送り、遠くから冥福を祈るだけでした。

年を取るとこのように友人達がドンドン旅立って行ってしまいます。淋しくなります。老年の悲しさの一つです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


冬の雑木林の風景をお楽しみ下さい

2012年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

先週は東京にも雪が積もりました。早速、小金井公園へ行って雑木林の写真を撮りました。上の2枚がその時の写真です。

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上の写真を撮ってから2日後に、清瀬市の金山緑地公園の北側から埼玉県へ入ったところに広がる畑と雑木林の写真を撮って来ました。雪がすっかり溶けてしまっていました。

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桜花のあでやかさや、可憐な花、そして高山植物の花々について 一緒に語り合った人も

2012年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

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@裏庭に咲く高山植物の花々を眺めながら・・・1972年、スウェーデン、エケトルプ先生との会話 

 イワカガミ、コマクサ、ミヤマウスユキソウ、チングルマに良く似た花々が裏庭一面に咲き乱れているスウェーデンの初夏。 それは1972年のある夏の日でした。

 「エケトルプ先生、驚きました。日本では高山にしか咲かない花々が低地の野原に咲くのですね」「緯度が高いのでそうでしょう。でも良く見ると花々は日本のものとは違う筈です。植物は気候と土地の違いによって同じ種類でも違った外見に育ちます。名前も地方によって違うのが普通です」 

 「西洋の花々は色鮮やかで派手な花が多いのにこんな素朴な美しさを持っている花々もあるのですね?」 

 @可憐な美しさと、対照的にあでやかな桜の花々 

私は続けて言います。「日本人は野生のニホンサクラソウやスミレ、ナデシコのように小さくて可憐な花が好きです。西洋人は薔薇やチューリップ、ガーベラのように派手で装飾的な花が好きなのですね。日本人の美意識は余計な装飾的なものを削ぎ落としたものに美の極致があると感じるのです。洗練された感覚と思います。西洋人には理解出来ない境地です」 

「後藤さん、そう決め付けないでください。東京の花屋さんには派手で大きな薔薇やランの花々が並んでいましたよ。サクラソウなんて今日始めて聞く名前です。日本人の花の好みも欧米人と同じですよ。その上満開のあでやかな桜の花々を熱狂的に愛しているではありませんか!」―――エケトルプ先生は続けます、 

 「この裏庭に可憐な花を咲かすには苦労が多いのです。雑草を根気良く取ったり、花々に合った肥料を秋の間に撒くのです。すると次の年の初夏にこのように一斉に咲くのです。小さな可憐な花も豪華に咲く花々も両方大切にすることは民族の違いによらないと思いますね」 

  夕食後の庭は白夜で暗くならない。ほの明るい中、一面の花々が高山のお花畑のように輝いている。スウェーデンの初夏の夜。 

このように花々について語り合ったエケトルプ先生も7年ほど前に旅立ってしまいました。花々を見ると、私をストックホルムの工科大学へ招んでくれたエケトルプ先生のことを思い出します。楽しい思い出です。しかし一抹の寂しさが漂います。エケトルプ先生へ感謝の気持ちで思い出を楽しんでいます。

@人類は皆、花々が好き 

 花の咲かない砂漠や極寒の地に住む人々は別にして、世界中の民族はそれぞれの花を大切にしているのです。太古に人間が死者を悼むようになるのと同じ頃から花を好きになったのでしょう。ただ好きな花とその楽しみ方は民族によって少しずつ違うのです。 

上の3枚の満開の桜の写真は都立小金井公園で昨年の2008年3月31日午後2時に撮影した写真です。今年も、もう少しで桜も咲きます。待ち遠しいです。 

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人


11の宗派の違うキリスト教会が合同で祈祷会を開催しました

2012年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム

過去の歴史を振り返ると宗派の違うキリスト教会同士が争ったり、戦争をしました。

流石に最近はそのようなことが無くなりましたが、宗派の違う教会の間の壁は高く、なかなか自由な交流が出来ません。

そこで小金井市にある11の教会が3年前に「小金井市キリスト教ネットワーク」を作り、共同の祈祷会や、共同の合唱隊をつくり活動を進めています。

今日は午後からこの11の教会の第3回合同祈祷会がカトリック小金井教会でありました。

教会が」違うと祈祷会の式次第が違います。讃美歌も違います。しかし最大公約数的な共通の式次第と讃美歌を決めて祈るのです。

すべての教会にとって一番重要なことは、イエス様の言葉を大切にし、神を愛して、隣人を愛し、敵を許すことです。この根本的な信仰を強める祈りをし、讃美歌を歌えば宗派の違いは一切消えてしまいます。

今日の合同祈祷会では、最初の讃美歌を全員で歌った瞬間から心が一つになりました。

そして宗派の違う信者が強く、強く結びついたのです。それは感動的な体験でした。一緒にイエス様に祈る。一緒に神に祈る。大震災の被害者の為に祈る。そして小金井市民の全ての人々へ平安があるように祈る。そのような祈祷会でした。

私はカトリックですが、プロテスタントの牧師さん達の信仰の篤さに感動しました。

そして一緒に祈ることの重要さがしみじみ分かったのです。

東日本大震災の直後に、ニューヨークで佛教の諸宗派とキリスト教の諸宗派が被害者のために合同で祈祷会を開催したというニュースを見ました。その重要性を今日しみじみと理解出来たのです。

下に今日の合同祈祷祭とその後の茶話会の写真を掲載致します。

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祈祷会では小金井市キリスト教ネットワーク合唱隊が上の写真のように讃美歌の美しい合唱を聞かせてくれました。祈祷会の参加者は200人位でした。

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祈祷会の後であった茶話会の様子です。日本キリスト教団小金井教会の主任牧師の丸山和則牧師が軽妙な司会をしました。親しみう深い司会ぶりで皆が和気あいあいという雰囲気になりました。もう3回目なのでお互いに打ちとけあって来ました。

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司会の丸山牧師の挨拶の間はみんなが神妙にしています。

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挨拶が終わるとすぐなごやかな雰囲気になりました。参加者が会場から溢れ、廊下まで人の輪が出来ていました。

カトリック小金井教会のヨセフ・ディン神父様と日本キリスト教団小金井教会の丸山和則牧師様しか私は知っている人が居ません。回りは全員知らない人ばかりです。しかし不思議なことにその見知らぬ人々が以前から親しくしていた人々のように感じたのです。緊張しません。寛いでテーブルの上のお菓子を食べ、紅茶を飲んで来ました。こんなに寛ぐ茶話会は久しぶりでした。

今日の合同祈祷会の報告です。お読み頂きまして有難う御座いました。


冬の弱々しい陽射しを浴びて航行している風景です・・・詩情漂って、、、

2012年01月29日 | 写真

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・コメント

この写真を拝見し、しばらくして、贈りもののように詩が流れてきました。どうもありがとうございます。ストレートではなく、レコードの針が飛んだような感じかもしれませんが、どことなく浮かんできましたので静かにご報告します

あなたの 部屋が どんなに 汚れていても

愛 の ひかり の おまじない が
かかり はじめて いる よ

あなたが どんなに 汚い 仕事を はじめて いても

愛 の ひかり の おまじない が
かかり はじめて いる よ

あなたの 耳に どんなに つらい 事が 聞こえてきても

愛 の ひかり の おまじない が
かかり はじめて いる よ

あなたの 目に どんなに つらい現実が 映ってきても

愛 の ひかり の おまじない が
かかり はじめて いる よ

小さな ゴミまで 光り はじめて いる よ

さあ 勇気 を 出そう

全員が 全員  輝いて いくん だ

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画家の人生、そのリスクと歓喜・・・下田昭二郎画伯の絵画の世界

2012年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム

世の中には本当にいろいろな職業があります。自分には才能が無くて出来ない職業に、画家やクラシックの音楽家があります。とても魅力を感じる職業です。

彼等は生活に必要なお金のことを忘れて、美しいものの創造に献身しているのです。収入が少なくともビクともしません。とてもリスキイな人生です。

しかし、自分が満足する芸術を創った時の歓喜が大きいのです。歓喜で心が温かくなり、顔が光り輝くのです。

あえてゴッホの例を取上げるまでもありません。死ぬまで絵が売れなくて、貧乏だった彼の絵は、現在、世界中の人々に絶賛されています。

日本にも有名な画家が沢山居ます。しかしその有名な画家達の周辺には数千人、いや数万人の無名な画家がそれぞれの人生をあゆんでいるのです。

作品の絵画がそこそこ売れます。日動画廊のような店からも絵を売っています。絵画教室を経営して子供に絵画の面白さを伝えます。大きな建物の壁画や天井画の注文も受けます。個展も開催します。

そんな画家を見つけて、このブログでご紹介して来ました。

郡山に在住の村田 旭画伯と名古屋に在住の三輪 修画伯です。それぞれ何度かこのブログで作品をご紹介してきました。以下の記事をクリックするとご覧頂けます:福島県、郡山に輝く画家ー村田 旭の美の世界ー  三輪修画伯の独自の画風の確立への苦悩 です。

さて今日は3人目の画家をご紹介したいと思います。

熊本に在住の下田昭二郎画伯です。下田昭二郎のアトリエ:http://shimoda-syojiro.blog.ocn.ne.jp/blog/ をご覧頂くといろいろな作品の写真が楽しめます。

下田さんは長崎のハウステンボスの壁画や熊本の八千代座劇場の天井画のような大作を描きました。熊本で何度も個展も開催し、絵画も売れています。

私はこのように地方に住み、地方で活動して、地方文化を豊かにしている画家を尊敬しています。そのような方々へ幸いが多く訪れるようにと祈っています。

以下に下田昭二郎画伯の作品をご紹介致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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上の絵画には孔子公園の建物の絵も含まれています。


上野由恵さんのフルートとユン・イサン(尹伊桑)氏とムンクの叫び

2012年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム

先程、府中の森芸術劇場での「上野由恵フルートコンサート」を聞いて帰ってきました。まだ頭の中に彼女の繊細で、そして強烈なフルートの響きが鳴りひびいています。

プログラムの始めの方は、エルガーの愛の挨拶や、ビゼーのアルルの女、バッハの組曲ハ短調からのプレリュードとジ-グのような美しいメロディーを完璧に演奏します。低い音も高い音も実にバランスよく響かせ、その上陰影のある音も明るい音も自在に響かせるのです。演奏スタイルも変化し、とても一本のフルートによる演奏とは思えません。オーケストラの演奏を聞いているようなのです。

技術が完璧。音色が優雅。ヨーロッパ藝術です。しかし私は上野さんはアジア人としての誇りや思想を持って居ないのでしょうか?すこし疑問に思い始めた頃に始まったのが韓国出身の作曲家、ユン・イサン(尹伊桑)氏の「エチュードより第5番」のソロ演奏でした。日本の尺八や韓国の楽器の音があちこちに出て来る曲です。悲劇的な印象を与える曲です。人間の深い悲しみや恐れを美しい音楽にした作品です。

ユン・イサン(尹伊桑)氏は1967年に東ベルリン事件で韓国のKCIAに逮捕され、北朝鮮のスパイとして3回も死刑判決を受けた人です。

その後、西ドイツ政府の交渉によってドイツに帰ることが出来ます。ドイツの国籍を得て、ドイツで作曲活動をしました。実に数多くの作品を残し、1995年にフライブルクで亡くなります。

ユン・イサン(尹伊桑)氏は苦しい、悲しい人生を送りながら人間としての魂の叫びを曲にしたのです。北朝鮮と韓国に別れる不条理。自分が間違って逮捕され、死刑判決を受ける不条理。死刑執行にたいする恐怖。それを超える朝鮮民族へ対する強い愛情。この背景で創った曲を上野さんが魂を込めて吹いたのです。

会場は静まり返っています。涙が滲みます。隣席の家内は緊張のあまり喉を詰まらせています。

私は演奏を聞きながらムンクの叫びという絵画を思い出していました。拍手が鳴り響きました。

それが今日のフルート演奏会の圧巻でした。

終りにピアノ伴奏をした石橋尚子さんの伴奏ぶりも絶賛したいと思います。フルートの演奏を一層美しく響かせるような伴奏なのです。自分を殺して相手を立てているのです。下に上野さんのホームページからお借りした写真とムンクの叫びを並べて掲載いたします。

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下の写真は全ての演奏を終えて、にこやかに挨拶をしている上野さんと石橋さんの寛いだ様子です。

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離れ島への憧れ(6)八丈島で現在も大切にされ、愛されている秀吉の家老、宇喜多秀家

2012年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム

八丈島の歴史を調べようとしました。役場へ行って、郷土史の本を見せて下さいと言いました。対応した初老の男性が、それなら是非、民俗資料館へ行ってご覧なさい。そこに全部揃ってますと言います。

そのアドバイスは正解でした。展示されている資料が豊富で、説明文も明快です。かなり研究して書いた文章なのです。

感心して読んでいたら、傍に寄って来る人がいます。地域歴史専門家の細谷昇司氏でした。彼は私が東京に帰った後も、長い間メールで八丈島の詳しい情報を送ってくれた方です。

そのお陰で八丈島の歴史や、人々の考え方がかなり深く分かるようになったのです。尚、細谷昇司さんは「ながれ」という名前でブログ:http://nangare.blog94.fc2.com/ http://blog.goo.ne.jp/zuninrunin/ 書いています。八丈島にご関心のある方は是非ご覧下さい。

以下は、民族資料館で知った島の歴史を簡略に纏めたものです。

約6000年前の縄文時代に島のあちこちに住んでいた人々の遺骨や石器・土器が発掘され、展示してあります。石斧の石は海岸にあるような石ですが、土器に使われた粘土は火山で出来た島には有る筈がない土です。従って縄文人は土器を持って太平洋を渡って本州から来たのです。

大和朝廷のころは形式的には駿河の国へ属していました。

室町時代に、鎌倉公方補佐の関東管領の上杉憲顕が派遣した代官が居ました。

直接的な支配は室町時代末期に北条早雲の家来が代官として大賀卿村の大里に陣屋を作ったころからです。しかし、船旅の危険が大きいためほとんど独立した孤島だったのです。 江戸幕府は早雲の派遣した代官の陣屋跡に島役所を作り、八丈島を江戸幕府の直轄領にして直接統治し始めまたのです。 幕府は、独特の染め方をした絹織物、黄八丈を年貢として納めさせたのです。 江戸時代になって始めての流人は関ヶ原の合戦で敗れた秀吉の家老であった宇喜多秀家とその付き人一行でした。それ以来幕末までに合計1917人の流人が八丈島へやって来たのです。 粗暴犯の他に江戸幕府や仏教界での権力闘争に敗れた政治犯も多かったのです。これらの人々は知的レベルも高く、島の文化へ大きな貢献をしました。 歴史民俗資料館発行の資料解説No.5には20人ほどの流人の名前を記し、島への貢献の内容を説明しています。 カイコと、黄八丈と呼ばれる絹織物を伝えた人、サツマイモを伝えた流人、薩摩焼酎の作り方を伝えた人、詩歌管弦の指導をした風流な流人、などなどの名前を明記して、感謝の言葉が書いてあります。中には大工の棟梁も居て、島でも弟子をとり、多くの大工を育てた人もいます。 これらを総称して「流人文化」といい、八丈島の人々は現在でも誇りにしています。 その「流人文化」のはじめになった宇喜多秀家のお墓参りをした時の記録を下に示します。

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上の写真は1606年に八丈島へ流人として到着した宇喜多秀家の御墓です。お墓を訪ねてみると、朝にいけたような瑞々しい切り花が飾ってあります。毎日、切り花を供えている様子です。

秀家の回りにある縁者の小さな墓石の前にも切り花が供えてあります。いったい誰が供えるのでしょう?

秀家は秀吉の一字を貰った五大老の一人で朝鮮出兵で活躍し、帰国後は岡山城の大改修をし、備前・美作57万石の領主でしたが関ヶ原で敗将になってしまいました。八丈島へは長男の孫九郎や前田藩の医師、村田道珍斎や総数13名で到着しました。流罪には正妻の豪姫以外の長男、医師、その他の付き人が許されたのです。その後の差し入れも許され、前田藩による財政援助は明治維新まで続いたのです。

豪姫の実家は前田藩で、実子の居ない秀吉の養女になり、秀吉の重用する秀家の正妻になったのです。

前田藩は秀家存命中は勿論、子孫の宇喜多氏へ、2年毎に白米70俵と35両の現金、衣類、薬品、雑貨などを仕送りしていました。この仕送りは明治2年赦免になり東京へ帰るまで続きました。従って宇喜多秀家は島の人々にとっては感謝、尊敬される存在でした。

宇喜多一族は次第に増え、現在、島には宇喜多という名字の家が沢山あります。そして島の重要な家族として人々に大切にされているのです。

秀家のお墓の前の切り花だけではありません。歴史民俗資料館には宇喜多秀吉の関連資料だけを展示している一つの部屋があります。

八丈島のローカル文化を一言で表せば流人達の持ち込んだ文化を島の人々が大切に育て上げた文化なのです。もっと重要なことは島の人々が江戸幕府によって流された不運な人々をなぐさめ、大切にし、愛して、助けるという精神文化のみゃくみゃくと流れ続いた文化なのです。

江戸幕府から派遣された島の陣屋野の役人も島人の助けが無ければ生きて行けないような絶海の弧島だったのです。江戸時代の帆船では航海が危険過ぎて江戸からの食糧の補給が途絶えがちだったのです。

事実、2009年の1月末に島に渡った私の船も飛行機も欠航続きで、滞在を数日延ばさなければならなかったのです。それが伊豆半島から近い大島や神津島などとの大きな相違でした。伊豆七島と一言で纏めると大きな誤解が起きることを痛感した八丈島への旅でした。

尚、上のお墓の写真は2009年1月末の撮ったものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)


今日の晴海埠頭公園の写真をお楽しみ下さい

2012年01月27日 | 写真

今朝、ブログに船の写真を沢山掲載しました。何故か急に海が見たくなり晴海埠頭公園へ行きました。家から26Kmくらいで近いのですが、新宿や日比谷、銀座を通り抜けて勝鬨橋を渡るので1時間30分以上かかりました。首都高速を使わなかったせいもあります。帰りはレインボーブリッジの無料の一般道を渡って芝浦から新橋、溜池、四谷、新宿と抜けたので渋滞には会いませんでした。

それはそれとして晴海埠頭客船ターミナルビルには有料駐車場があります。そこへ車を置いて家内と散歩して来ました。広い海やレインボーブリッジを眺めて気分が晴れました。

皆様も晴れ晴れしたご気分になって頂けば嬉しく思います。

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沈まない船は無い・・色即是空、ですから人間も・・それでも心に太陽を持て!

2012年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム

この記事の題目を見れば今日の話の筋はお分かりになって頂けると思います。

下手な文章をお読み頂く前に、まず船の写真をお楽しみ下さい。

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昨年10月に卒業しましたが、26年の間ヨットの趣味をしていました。上のヨットは最後に乗っていた私のヨットです。

船は自分一人で管理して来ました。管理していて一番怖いことは、船を係留している間に水漏れで沈んでいないかという心配です。船底に6本のパイプが貫通していて船内と水の出し入れが出来るようになっています。そのパイプの付け根から水漏れの可能性があるのです。

幸い沈むほどの水漏れはありませんでしたが、スクリューの軸の隙間からエンジンルームへ時々水漏れがあって肝を潰すことがありました。

水がキャビンの半分くらい多量に漏れば、船が沈む。これが船の宿命です。

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上の写真は隅田川を上り下りしている観光船です。船が好きで何度も乗りました。

この観光船の弱点は舷側が低くて、チョットでも衝突事故を起こすと壊れた舷側から多量の水が入って来る可能性がある事です。衝突の衝撃があれば、すぐに飛び出す心の準備をしながら隅田川の上り下りを楽しみました。

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上の船は八丈島通いの「さるびあ丸」です。5000トンもある貨客船です。乗ったときは船室にある救命胴衣を見つけて着てみました。更に緊急脱出ルートを確認しました。救命ボートや救命筏のある場所を覚えてから客室で寛ぎます。

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これは豪華客船の日本丸です。横濱の大桟橋で乗り込むところです。昨年、一昼夜かかて岩国港まで乗った船です。

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横濱港を出る頃、夕日が射していました。すっかり暗くなってから救命胴衣を着て、自分の乗るべき救命ボートのある所まで迅速に集合する訓練がありました。間違った救命ボートの所に行ったら厳しく叱られたことが印象深かったです。

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先日、座礁して横倒しになった11万トンの豪華客船のコスタ・コンコルディア号です。手間に写っている救命ボートの活躍で4200人の乗員・乗客が助け出されました。犠牲者は30人位と言われています。

この事故で幸運だったことは浅瀬で座礁したので船が完全に沈没しなかったことです。救命ボートに乗り遅れた人も横転した後でも助けることが出来たことです。深い海で横転すれば、即座に浸水し、海底へ沈んでしまいます。座礁したのはまったくお粗末な船長の失敗でしたが、浅瀬で横転したことは文字通り不幸中の幸いでした。

船はどんなに頑丈に作っても事故を起こせば大海原の一片のゴミになって深い海底に沈んでしまいます。大航海時代から無数の帆船や汽船や軍艦が海底に沈んでいるのです。

人間の創ったもので壊れないものは無いのです。

爆弾を落としても大丈夫だと言われて来た原子炉の圧力容器と格納容器が電源喪失でいとも簡単に爆発してしまったのです。それも4基もの原発装置が一挙に爆発してしまったのです。

更に大津波は東日本の海岸沿いに築かれた街々を流し去ったのです。あの白く輝く美しい街々を流し去ったのです。2万人余の人々と共に流し去ったのです。

昨年の一年間、多くの日本人が「色即是空」という言葉を何度も噛み沁みていました。

形のあるものは何時かは壊れるのです。壊れて空となるのです。無常です。

人間そのものも形あるものの例外ではありません。みんなが順番に消えて行くのです。

昨年の一年間はそんな思いで日本中が沈んでいました。

年明けから野田総理がさかんに「今年は日本の出直しの年。財政健全化の第一歩の年だ」だと繰り返し言っています。何ごとも決めない政治から脱却して、決める政治にするとも言っています。今年は少し明るい年になりそうです。

この世がどんなに儚くても、無常でも、心に太陽をもって明るく生きることが大切です。明るい、温かい希望の灯をいつも心の中に燃やしていましょう。それこそがどんな境遇でも幸せになるための鉄則なのですから。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


寒い日の公園の光景

2012年01月26日 | 写真

清瀬市の柳瀬川沿いに金山公園があります。今週は雪が降ったりして寒い日が続いています。しかし例年なら、公園の日本水仙が一面に咲出す頃なのでカメラを持って出かけて見ました。

冷たい北風が強く吹いています。水仙は少しだけ咲いていました。水辺には白鷺が寒そうに肩をすぼめています。いつもは咲いている白梅も固いつぼみでした。わずかに紅梅が一輪だけ咲いていました。

寒い感じが写真に表現されていれば良いのですが、いかがでしょうか?

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・冬の陽射しが弱弱しくて、水面が暗くなっています。

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・白鷺も寒そうです。

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・数十本の水仙が咲いていましたが、数日前の雪でしおれていました。まだ元気な様子ではないのです。

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梅の木は沢山あります。花を探して歩き、やっと一輪の紅梅が咲いているのを見つけました。

ことしの冬は寒い冬のようです。(終り)


あなたへ美しい愛の詩をお送り致します・・・裸心全通(らしん とおる) 詩の世界より

2012年01月26日 | インポート

028 裸心全通(らしん とおる)さんは熊本に在住の詩人です。

たくさん、たくさん、美しい愛に満ちた詩を創っています。そして作品を、「裸心全通(らしん とおる) 詩の世界)http://www.rasin-poem.com/というブログで公開しています。

誰にでも分かり易い言葉でつづった詩です。愛に満ちた詩です。読めば心が救われます。是非、みなさまもご覧になりますように祈っています。

以下に転載の許しを得たので一つの作品をお送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。

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「地球の幸せ」 既にあかりは灯っている(裸心全通 作詩)

 一分息をこらえるのも
 大変なのに
 愛 は やさしい
 愛の ラブソング
 もう何十年も 流れている
 こんな 大変なのに
 流れてくれている
 でも 愛の ラブソング
 が とうとう 火をつけた
 光りの 火を・
 この地上に
 いろんな 国 で 生まれる 
 「詩」
 もう 止まらない
 決して 止めさせない 
 地上の 愛 たちと
 愛の ラブソング が・
 天 と 地中 から 
 加速するよ
 地上からは
 幾本もの 光の 柱
 天 が 舞い降りてくるのを
 導きながら・
 もう何十年も 流れていた
 愛 の 導きを・
 地上の 友たちが 
 手を繋いで
 愛 の 明かりが・
 ぼくも 歯を くいしばり


離れ島への憧れ(5)八丈島の美しい自然

2012年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム

八丈島に上陸し、レンタカーで、まず、あちこちをドライブしました。

暖流に洗われる大きな島です。熱帯性の植物が繁っています。太平洋に浮かぶ小さな宇宙です。樹木の好きな私はその美しい自然に圧倒されました。

写真で、まず八丈島の樹木の説明をし、その後で人々の暮らしをご紹介したいと思います。

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私の趣味は雑木林を眺めることです。従ってこのブログは「山林・杜の人のブログ」と称し、雑木林や山林の写真を数多く掲載しています。その延長で植物園が大好きです。

八丈島で感動したことは大きな島全体が熱帯性の植物で覆われていて、さながら天然の植物園のように見えることでした。この感動をどのように伝えるべきかとしばらく考え写真をすなおに掲載することにしました。

上の3枚の写真は人間の手の入っていない文字通り自然の植物の様子です。

下の3枚は大賀卿町の中心にある公園です。

公園の真中にドライブウエイがあって車で楽しみながら通り抜けられるようになっています。ところどころの林の中に駐車場があり、散歩することも出来ます。素晴らしい所ですが、近所の人が2、3人だけ散歩している、淋しいくらい静かな公園です。子供連れの女の人へ挨拶をして少し立ち話しました。「東京から、公園のそばの実家に里帰りしています」と、楽しそうでした。

人間の手の入った公園と漁港の回りの自然の山々の植物は佇まいが異なります。公園の林は整然としています。自然林は一見荒れたような印象を受けますがよく見ると種々の草木が仲良く繁っています。どちらも美しいと思います

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下の写真は東の三原山の観光道路から中央の平野にある昔の大賀郷村と三根村を見降ろした風景です。平野の南端に空港があり羽田から飛行機でも行けます。平野の向こうに見える山が八丈富士で中腹は開けた芝生の牧場になっています。

写真には写っていませんが、左の方にカメラを向けると碧い海の上にポッカリ浮かんだような八丈小富士のある孤島がまじかに見えます。昔は人が住んで居ましたが現在は無人島です。八丈小富士は円錐形の火山で、美しい円錐形です。八丈島のあちこちから見えるので、観光客を楽しませる重要な役目をしています。

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八丈島には五つの村がありました。東の三原山の東の麓に末吉村、中之郷村、樫立村、そして島の中央の平野に大賀郷村と三根村です。現在は合併して八丈町となり、総人口は8500人くらいです。1万人以上の時代もありましたが年々高齢化が進み人口が減って行きます。

島全体には幅の広い立派な舗装道路があります。特に末吉地区から三根地区を結ぶ登龍峠を越える自動車道路は観光用の道路です。複雑な地形の中を通っているのでカーブが多く、ゆっくり走らなければなりません。溶岩の上には植物が繁茂していて人間の住めるような所でありません。それだけに自然のままの森が広がっています。

上の3枚の写真はそのような様子を示しています。大きな写真は登龍道路から眺めた西側の八丈富士とその麓にある三根地区の風景です。

これら自然の森の様子と公園内の樹木との違いを楽しんで頂きたいと思い、下に3枚の写真を示します。写真は2009年1月28日から30日にかけて撮りました。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)

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今年は寒くて梅もまだです・そこで4年前の梅の花の写真をお送りいたします

2012年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム

今年は例年になく寒い冬です。梅林が咲き始めるのはまださきのことです。待遠しいいので2008年のブログに掲載されている梅林の写真ををお送り致します。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

2008年2月8日掲載の府中、郷土の森公園の梅林の写真です。皆様の住んでいらっしゃる所の梅はいかがでしょうか?Dscn1241_2

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将来の日本はキラキラ輝く幸せな国になる・・・もっともっと個人が幸せになる

2012年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新後からバブル経済の破綻まで日本は明快至極な国家目的を持っていました。1867年から1990年頃までの日本人はこの国家目標を心のよりどころとして生きて来たのです。人それぞれ、国家目的への依存度の強弱は非常に違いましたが、日本人の人生観に深い影響を与えて来たことは間違いの無い事実でした。

ところが1990年頃起きた放漫経済体質の崩壊とともに戦後の追いつき追い越せという経済発展に終止点が打たれてしまったのです。それ以上の経済成長が不可能になった結果、日本の国家目標だったGDPの覇権競争から脱落せざるを得なくなったのです。日本は昨年、GDP競争において中国に敗退したのです。

こうして国家目標が喪失してしまい、個人、個人の人生目的もそのよりどころを失います。国家目的に強く同調し、その事で経済的に潤っていた国家公務員や大会社の人々は将来の不安から暗い気持ちになっているのです。

マスコミの報道に簡単に左右されやすい私は「そうか。日本の将来には暗雲が漂っているのか。坂の上の白い雲は黒い暗雲に変わったのか」と理解しました。

しかし暫くすると、暗雲は見る角度を変えるとキラキラ輝く白い雲になる筈という事実に気がつきました。太陽の当たる方向から見れば輝く白い雲に見えるのです。

そんな事を考えていた時、2編の本を読みました。詩人の辻井喬さんが書いた「司馬遼太郎覚書」という本と、山浦玄嗣著「イエスの言葉」-ケセン語訳(文藝出版社、初版2011年12月20)という本です。

司馬遼太郎さんは第二次大戦中に学徒動員され戦車部隊へ編入されます。そして帝国陸軍の不合理性にイヤという思いを体験します。昭和の軍人が日本を賭博にかけるようにしてアメリカと戦争をして、全てを失うのです。その馬鹿馬鹿しさを思うと明治時代の軍人は立派だった。特に秋山兄弟のように一介の庶民が身を起こし、国の為に働き、軍のトップの参謀まで出世できた明治時代は良い時代だった。秋山兄弟の人生は美しかった。そんな思いで書いた小説が「坂の上の雲」です。

辻井喬さんは詩人であり、司馬遼太郎の友人です。ですから司馬さの作品批評は友人としての温かさがあります。ところどころの文章が散文詩のようになっていて、その美しさを楽しむことができます。誤解を恐れずに書けば辻井喬さんの書いた本は論理的には明快でありません。詩人にそれを求めるのが間違いなのです。

もう一つの本は、山浦玄嗣著「イエスの言葉」-ケセン語訳です。その内容は、明治維新後の翻訳文化の根本的な間違い・・・山浦玄嗣著「イエスの言葉」-ケセン語訳ーを絶賛する! という記事でご紹介した通りです。

この2つの本に日本の将来を予測するヒントがあるのです。

「個人の幸せな人生は国家目的が存在していなくても築くことが出来る」というヒントです。そして「幸せな人生とは個人、個人が豊かな地方文化の中で創造するのが良い」というヒントです。

国家目的が強烈過ぎると個人の幸せが犠牲になります。先の大戦中の南洋の島々での玉砕や特攻隊がその極端な実例です。戦後の経済発展の至上主義で犠牲になった個人は沢山います。家族が別れて暮らす「単身赴任」や「転勤命令」などがその例です。

将来の日本にはこのように国家や会社の犠牲になる人々が少なくなるのです。個人個人が自由に輝いて幸せになれるのです。個人の自由な選択によって住む場所や職業を変えることが出来るのです。国家や組織の束縛から解放されるのです。

個人の自由な活動の一例がボランティア活動です。ボランティア活動で助けられる人も幸せですが、その活動をする人も もっともっと幸せな筈です。

「イエスの言葉」の著者の山浦玄嗣さんの病院は大船渡市にありました。3月11日の大津波は病院の一階を泥海にし、残ったものはガレキの山でした。幸い2階は無事だったので救援に来たボランティアの寝泊まりする場所に提供したのです。その山浦さんの文章を以下に引用させて頂きます。どうぞボランティア活動した人々の充実感をご想像ください。是非、ボランティア活動した人々の幸せをご想像下さい。

「あの恐ろしい大津波の後、変わり果てた瓦礫の野に立ち、外界との連絡も全くとだええて、涙を流すことさえも忘れてて呆然と立ちすくんでいたとき、私は本当に「頼りなく望みなく心細い人」だったと思います。そんな私がはじめて涙を流したのは、まっさきに駆けつけて、遺体の捜索に、瓦礫の撤去に泥だらけになって黙々と働いている自衛隊員の姿を見たときでした。あの感謝の感動を私は忘れることが出来ません。そして全国から、いえ世界中から、たくさんの助っ人が続々と大船渡にやって来ました。カナダやアメリカから駆けつけて、せっせと泥さらいをしている青年達の姿に、何度泣かされたことか。それはすばらしい涙でした。嬉しい幸せの涙でした。こんなにたくさんの人々がわたしたちのことを心配して、わたしたちのために駆けつけて、わたしたちのことを大事にして、黙々と働いてくださっている。こんなに人さまから大事にされたことが、東北人にはあったのであろうかとさえ思いました。・・・」。そして大船渡市の人々が、言葉の通じない外国からのボランティアの人々へ飲みものや食べ物を手渡す美しい情景が書いてあるのです。

人生においてボランティア活動の重要性を考えさせる文章ではないでしょうか?

結論を書きます。将来の日本では国家目標が無くなるお陰で、個人、個人は自由に幸多い人生を送れるような素晴らしい国になるのです。地方地方に豊かな文化が栄え、人々がもっともっと平等になり自由に人生を謳歌できる国になります。経済的には少ししか豊かになりませんが、個人個人が輝く国になるのです。

このような国を作ることが「坂の上の白い雲」なのです。

今日は幸多い日本の将来への明るい希望が皆様の心を温かくするようにお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)091