上の写真は横浜を出航する氷川丸です。戦後のアメリカへの留学生はこのようにして多くの親類や友人に見送られながら旅立って行ったのです。
1960年前後にオハイオ州立大学に留学した古い仲間が昨日集まりました。その中の福山さんと小林さんがこの氷川丸に乗って、はるばる太平洋を横断したのです。西海岸からはグレイハウンド社の長距離バスや鉄道でアメリカ大陸を横断してオハイオへ行ったのです。
そんな時代の記録を残すのも日本の戦後史の一場面として重要と思い、以下にご報告いたします。それは歴史には消えてしまうような、ささやかな歓喜と苦難の記録です。
下は昨日、渋谷、東急プラザビル9階の「甍」に集まった昔の留学生の写真です。
当時、オハイオ州立大学の隣にあったバテル・メモリアル研究所で研究をしていた先輩格の増渕さんがボストンで養老院に入りました。奥さんも病気で入院したので、お二人へ声援を送って励まそうという趣旨の会合でした。
増渕さんは東大の造船学科の卒業で溶接の研究をしていました。従来不可能だったジュラルミンなどのアルミニューム合金の溶接方法を発見し、アメリカのNASAの宇宙ロケットの建造に大きな貢献をしました。後にマサチューセッツ工科大学の教授になりましたが、1960年頃はコロンバス、オハイオに夫婦で住んでいて、多くの日本からの留学生が大変お世話になったのです。
当時のアメリカは夢のように豊かな国でした。スーパーマーケットも高速道路も無い日本から行くと毎日が驚きの連続です。貧しい留学生でも大型のアメリカ車を自家用車にしていました。日本では富豪以外は自家用車を持っていない時代です。
そのようなアメリカに生活出来ることが「喜び」でした
そして真面目に勉強すると確実に成績が上がります。アメリカ人が尊敬してくれます。大学からの奨学金が上がって行きます。努力すれば報われる。そんなアメリカ生活が「喜び」だったのです。
勿論」、「苦しみ」は沢山ありました。貧乏の苦しみと勉強の苦しみです。しかしこの記事では省略いたします。
それよりも皆様にご紹介したいのは太平洋横断の往年の船の旅です。
福山さんは氷川丸の一等船客、小林さんは2等船客です。黒田さんはアルゼンチナ丸で移民と一緒の大部屋の客でした。太平洋壟断には11日間かかったそうです。
片山さんは大阪の郵船会社の貨物船に乗り込みました。
私は船では行かなかったので船旅に興味がありました。
そこで昨日は船の旅についていろいろ聞きました。
まず氷川丸ですが一等に乗った福山さんは良いダイニングで食事も毎日3回あり、何の苦労が無かったそうです。しかし2等に乗った小林さんは船内の行動範囲が制限されていて、その上、部屋も蚕棚の8人部屋です。丸窓が一つついているだけです。かなり窮屈な思いをしたようです。
現在、氷川丸は横浜の山下公園に係留され、一般公開されているのでこの蚕棚の客室を見学することが出来ます。バスもシャワーもついていません。共同のシャワールームがあるだけです。
私は係留されている氷川丸の内部を何度も見学しました。そして一等客室や一等デッキと、2等客室や二等デッキのあまりにも大きな差別に暗い気持ちになったものです。現在の豪華客船では一等客も二等客もあまり差別は無く、同じデッキを散歩しています。
一方、黒田さんはアルゼンチナ丸という移民船に乗りました。移民と一緒だったので窓もない船倉の大部屋だったの苦労したようです。しかし彼は気性のサッパリした九州男児です。苦労話は一切しません。ただ当時一番安い船にに乗ったというのが昨日の自慢話でした。その彼も、茫々50余年後の来週にはヨーロッパ漫遊の旅へ航空機で出発の予定と言っていました。なにやら豪華なパック旅行のようです。
ところで一番良い船旅をしたのは片山さんです。大阪の会社の貨物船に乗ったのです。貨物船は1人や2人の乗客を乗せます。食事も船長や機関長や航海長と一緒です。一等船客として丁重に扱ってくれるのです。部屋にもバスとトイレがついています。もちろん料金は高いのが普通です。
その貨物船で片山さんはパナマ運河を大西洋側へ出て、ニューヨークに上陸したのです。行程は1ケ月かかったそうです。パナマ運河の入り口に着くと現地の人々が小舟にバナナを積んで売りに来るそうです。船長が多量に買って片山さんへもくれたようです。戦後の日本ではバナナが貴重品です。片山さんはそのバナナが嬉しかったと何度も話していました。
太平洋を横断する船の旅は苦労が多いと思いますが、皆が青雲の志を持った留学生だったので苦労話は出ませんでした。しかし一緒に旅した移民達は大変だったようです。このブログでも戦後の移民についてこれから調べて、報告したいと思いました。
このように船に乗っての留学も1960年の氷川丸の引退を契機にして次第に旅客機へと変わって行ったのです。
なお昨日の出席者の中に先年亡くなられた秦さんの奥様もいました。秦さんご夫婦は当時生まれたばかりのお嬢さんと3人で暮らしていました。私も含め当時の日本人留学生は秦さんの家に行ってはよくお世話になったものです。
その奥様とはオハイオでお別れしてから50余年お会いしませんでした。昨日は黒髪豊かで、年を取っていないご様子なので大変吃驚しました。最近訪問したオハイオ州立大学の写真を沢山ご持参くださいました。懐かしい建物の写真を見て楽しい時を過ごせました。
この記事に対して増渕さんから以下のようなメールが来ましたので添付しておきます。
======増渕さんからのメール==============
去る11月11日に非常に久し振りに福山さんから e-mail を戴き「11月25日に Columbus に留学しておられた方々が近くお集まり」の由伺いました。今日その会合の「ブロク記事」を e-mail でお送り戴き有難く存じます。その記事には我々夫婦のことも記載されており非常に有難く存じます。
私は1958年12月4日にアフリカ丸で横浜を出発し、Los Angeles の近くの港に着きました。LA からは生まれて始めて飛行機に乗り、Chicago で一泊してから Columbus に行き、Battelle Memorial Institute に留学しました。それが始まりで今日まで人生の大半を米国で暮らすことになりました。
来年(2013)1月11日には私は89歳になりますが、久し振りに日本に行って見ようと思っております。現在の案では5月13日(月)成田着、26日(水)成田発を考えております。出来れば Columbus 時代の方々にお目に掛かる機会を得たいと思っております。増渕
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下に横浜に係留され公開されている氷川丸の写真とその歴史に関する参考資料をつけました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
=========氷川丸に関する参考資料========
氷川丸70年の航跡:http://www.nyk.com/rekishi/knowledge/history_luxury/01/index.htm
各地で歓迎された処女航海
昭和5年5月17日、内地でお広めを済ました<氷川丸>はいよいよ神戸を出港、太平洋を渡りシアトルに向かいました。
昭和5年といえば、排日移民法が可決されるなど、いよいよ日米の雲行きが怪しくなってきた時期でしたが、「グレートノーザン鉄道を父に、日本郵船を母に」育ったシアトルには未だ反日の嵐は及んで居らず、5月27日に無事に到着した<氷川丸>はシアトル市民から大歓迎を受け、3万人近い見学者が船を訪れました。
6月29日、無事横浜に到着。神戸を経由して7月6日に門司に入港しました。
門司港は岸壁を整備したばかりで、接岸第1船が<氷川丸>という事で、ここでもブラスバンドが繰り出され、数千人の市民が集まりました。
その後、東支那海を渡り上海に進み、大陸にそって南下し、7月12日、帰着港・香港に到着。63日1万浬に及ぶ処女航海は成功裏に終了しました。
太平洋の貴婦人
本来なら「太平洋の女王」といいたい所ですが、同計画の1万7千トン型客船の浅間丸型や欧州航路から移ってきた<新田丸>が居るので、「貴婦人」あたりがしっくりくるところです。もっとも、後に<氷川丸>の見せた芯の強さは「貴婦人」というより「おかん」(大阪弁でお母さん、おばちゃん。上品な言い方ではない)に近いものがありますが・・・
共にシアトル航路に就役した妹2隻(<平安丸><日枝丸>)とサンフランシスコ航路に就役した異母妹とも言うべき浅間丸型3隻(<浅間丸><龍田丸><秩父丸>)と共に太平洋航路の主役として大活躍しました。
中でも<氷川丸>は「料理がウマい」と評判になり、他の船をキャンセルして<氷川丸>を選ぶ人も出たそうです。
栄光の日々
そんな<氷川丸>の評判をききつけ、昭和7年5月発航の第11次航海では、日本から帰国する喜劇王チャップリンが乗船しました。
喜劇王が乗船したという事は宣伝になるので、ライバルのカナダ太平洋汽船などと争奪戦を繰り広げ、ついに<氷川丸>に軍配があがりました。チャップリンは天ぷらが好物という事だったので日本郵船では司厨員をチャップリンが贔屓にしていた天ぷら屋に派遣して勉強させたそうです。
昭和12年9月発航の第47次航海ではイギリス国王ジョージ7世の戴冠式に天皇陛下の名代として出席された秩父宮夫妻が御乗船になられました。日本の国際的な孤立の深まる中での皇族の乗船という事で、関係者一同はかなりピリピリしたようですが、結局は何事も起こらず平穏な航海となりました。
また、<氷川丸>は貨客船なので、荷物も運びました。日本からは日本船の代名詞(シルクライナー)となっていた生糸や茶などを、アメリカからは機械製品や資源を運びました。
かわったものでは、昭和5年発航海の第3次航海でロンドン条約(軍縮条約)の批准書を運んだりもしています。
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氷川丸:http://www.nyk.com/rekishi/knowledge/history_luxury/01/index.htm
昭和5年にシアトル航路用に建造された貨客船です。当時の最新鋭大型ディーゼル機関を搭載し、水密区画配置など先進の安全性を誇っていました。一等客室にはフランス人デザイナーによるアールデコ様式の内装が施され、太平洋戦争前には、秩父宮ご夫妻、チャーリーチャップリンをはじめ、約1万人が乗船しました。 その後、戦雲ただならぬ中、政府徴用船、および海軍特設病院船となり、終戦までに3回も触雷しましたが、日本郵船の大型船では沈没を免れたのです。
戦後も引き続き病院船のまま復員輸送に従事し、昭和22年に復元工事で貨客船に戻り、国内航路定期船、後に外航不定期船、昭和26年8月からはシアトル・ニューヨークおよび欧州航路定期船に就航しました。 昭和28年には内装をアメリカンスタイルに改装し、シアトル航路に復帰、フルブライト留学制度での渡航者約2,500人を含む乗客、約1万6,000人を輸送し、活躍しました。
昭和35年、船齢30年に達し、同10月シアトル、バンクーバーから神戸に寄港、係留地横浜への回航を最後に第一線を退きました。太平洋横断254回、船客数は2万5千余名。
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