後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

冬の陽射す徳川家鷹狩りの道と、平安時代の伝説がある真姿の池湧水の散歩

2015年01月31日 | 写真
国分寺崖線の下は南に面していて冬の陽が明るく射しています。昨日の雪が晴れあがって空が蒼く輝いています。
冬の陽射す尾張徳川家鷹狩りの道と、平安時代の伝説がある真姿の池湧水の周辺を午後から散歩して来ました。その折りの写真をお送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。
=====参考資料================
http://www.natsuzora.com/dew/tokyo-west/otakanomichi.html より転載しました。
(1)お鷹の道、
江戸時代、1748年(寛延元年)から1867年(慶応3年)まで、この辺りの村々は尾張徳川家の御鷹場に指定されていたという。そのことから、湧水を集めて流れる小川沿いの小径が「お鷹の道」と呼ばれるようになったものらしい。1973年(昭和48年)から1974年(昭和49年)にかけて国分寺市が遊歩道として整備し、現在は「真姿の池」と共に国分寺市の名所として知られている。以下省略。
(2)真姿の池と湧水群、
「真姿の池」とは何とも趣のある名だが、その由来は遠く平安時代にまで遡る。「真姿の池」脇に設置された東京都教育委員会の解説板によれば、848年(嘉祥元年)、不治の病に冒された玉造小町という女が病気平癒祈願のために国分寺に参詣すると、二十一日目に一人の童子が現れ、小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるように告げた。その通りにすると薬師如来の霊験か、たちどころに病気が癒え、元の美しい姿に戻ったという。それから人々がこの池を「真姿の池」と呼ぶようになったというのだ。
真姿の池の湧水群とは「国分寺崖線」の下から湧き出る泉のうちの「真姿の池」周辺の湧水群を意味する。「真姿の池湧水群」は東京都指定名勝になっています。













八丈島、縄文時代からの歴史(6)八丈島の漁業と食文化

2015年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム
八丈島の主な産業は昨日ご紹介したフェニックスなどの観葉植物の栽培、黄八丈や焼酎の製造と漁業です。フェニックスなどの観葉植物の栽培の歴史は昨日ご紹介しましたので今日は漁業に関して簡略にご紹介いたします。
八丈島では漁船が皆立派で、天然の良港に恵まれているのです。
下の写真は奥深い入り江の八重根漁港で、江戸時代には台地の上に島役所がありました。

島の反対側には神湊魚港があり、どちらも水深が深く、溶岩の岬に囲い込まれていて、台風が来ても見るからに安全そうです。下の写真はそのような水深の深い漁港の一つです。

島の歴史民俗資料館を案内してくれた細谷昇司さんが島の漁業について以下のように教えてくれました。以下は細谷さんが漁業組合へ行って調べて、文書にして送ってくれた内容です。
漁船は3トンから20トン位で総数180隻位あり、皆個人所有だそうです。取れる魚は売上金の多い順に、カツオ、トビウオ、キンメダイ、ムロアジ、マグロ類(カジキ)、メダイ までが主なもので、他にシイラ、アオダイ、ハマダイ、カマス、サワラなどだそうです。
また少しだけ採れる地魚としてオナガダイ、バイショーイカ、アオゼ、キツネ、エースなどがあり、刺身にしたり、島寿司に使われているそうです。
島の人々は東京へ出荷しないこれらの地魚を刺身にして、島焼酎を飲んで楽しんでいます。勿論、夕食のおかずにもします。
八丈島の漁船は島の周囲、70、80Kmの範囲(北は三宅島、南は青ケ島付近まで)で魚を取るそうです。船内冷蔵装置が無いので取った魚は東京まで直接は運べないそうです。冷凍や冷蔵にしてコンテナに入れ、東海汽船の「さるびあ丸」などの貨客船で東京へ運ぶそうです。
トビウオを干物にしたり、ムロアジをクサヤにして加工品としても出荷します。シマアジやトコブシの養殖もしているそうです。
八丈島の周りは豊かな太平洋に囲まれ、四季折々、いつ行っても新鮮な魚があるそうです。特に地魚は美味しく、島でないと味わえない食文化です。その上、地魚は廉価で島の重要な食べ物になっています。
そんな地魚を売り物にしている「あそこ寿司」をご紹介します。店に入ると下の写真のようにカウンターの上の地魚の写真が目に入ります。

そして下の写真は地魚の島寿司です。

島寿司には甘たるいタレがつけてあり、ワサビのかわりにカラシがついています。初めて食べたときは驚きますが郷に入れば郷に従うべきと我慢して食べました。すると次第に美味しく感じるのです。メダイ、アオゼ、オナガダイなどの地魚の味が甘いタレで引き立つのです。
つぎは島料理の厨という店の昼食の島御膳「おまかせ」(1500円)の写真を下に示します。

島豆腐、飛魚のツミレ煮、地魚の刺身などが丁寧に、そして誠意を込めて作ってありおました。如何にも島の家庭でつつましい食材で、美味く、健康に良いように作った感じの御膳でした。
八丈島の食文化は地魚を工夫して美味しく食べる独特の料理法にあると知りました。しかし短期間の訪問では料理方法までは調べられませんでした。
それからお米はどうするのか聞いてみました。現在は米は穫れないので、本州から運んで、スーパーからを買ってくるそうです。しかし昭和時代までは島の中央の平野には水田が下の写真のように広がっていたそうです。

この写真の左手前から右奥へ見えるように「電柱の列」が続いていて、山すそに水力発電所がありました。海底電線が出来るずうっと以前から島には電灯がついていたのです。
上の写真のように米を生産していた時代を考えると、島の食文化は縄文時代から江戸時代と時代が変わるに従って雑穀類やイモ類へ、そして麦類、それから米へ変わってきたことが容易に想像出来ます。
しかし何時の時代でも魚貝類だけは連綿として八丈島の食文化の基礎だったのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

八丈島の生活を支えるフェニックス・ロベレニーの葉

2015年01月30日 | うんちく・小ネタ
島の人々の所得はフエニックス・ロベレニーの葉の生産量にかかっています。その生産量は国内生産の90%から100%近いそうです。
この俗称のロベはお年寄りでもできるので、特に高齢者は、お金持ちという話を聞きます。
しかし八丈島には昭和時代まで水田があって米が取れていたのです。現在は水田の記念の石碑に下のようなことが書いてあるだけです。
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島の中央平野は水田地帯でした。明治になると国の殖産政策或いは自給自足から商品経済への移行もあって八丈島にも新しい作物が導入され営利性を求める農業形態が奨励されるようになりました。野菜以外に島の気候風土を生かして発展したのが花卉園芸です。戦前からフリージア、水仙、百合等の球根を栽培していましたが、戦後になるとフェニックス・ロベレニー(通称ロベ)等が高値で取引される事から年々花卉園芸が増加の一途を辿り水田が無くなり水田の形を残したまま畑として利用しています。この一帯の畑は昔は水田でした。
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これを読みますと、減反政策より以前の事のようです。水田としての土壌もよくなく、台風など自然災害もあり、米作は大変と言うこともあって、お金にもなり、自然災害にそれ程左右されないロベに移行したと考えられます。八丈島の水田は石がゴロゴロしていて、それを根気よく拾い、水田の外へ投げていたのです。それで「石投げ踊り」という盆踊りが残っているそうです。
現在の八丈島の主な産業は、観葉植物やラン、アロエなどの花卉園芸と漁業と焼酎、黄八丈などだそうです。下の写真は島で一番重要なロベの栽培畑です。
以上のことは八丈島在住の郷土史家の細谷昇司氏から教えて頂いたことです。

今日は雪、山の美しい雪景色を思い出しながら静かに過ごす

2015年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は朝から雪が霏々と降っています。窓から見える夏蜜柑の木も雪に埋もれています。
雪を眺め、コーヒーを飲みながら静かに時間を過ごそうと思います。雪の積もる様子が時の流れを教えてくれるのです。
そして山梨県の北杜市にある山の小屋の美しい雪景色の写真を見ています。2013年の2月16日に撮った写真です。
その小屋は甲府盆地の西端に屏風のように立っている甲斐駒岳の麓にあります。
空気が新鮮で、自然に溢れている場所です。鹿や猿や猪と時々会います。
小屋の前には年中水が流れている小川があります。岩魚を見たこともある小川です。
自分の敷地の中の端を流れ下っていますが、私のものではありません。水利権は下のほうに住んでる農家が共同で持っています。特に見回りに来るわけではありませんが、私はその水を絶対に汚さないように大切に使っています。
洗い物に水に使っています。雪が深くなって車が小屋まで上がらなくなると飲み水はこの小川から汲んで、薪ストーブで湧かしてから使います。小屋に泊まる時には貴重な水です。
その上、朝な夕なに、常に美しい水音を立てて流れ下っています。
この小川のお蔭で沢山楽しい思いをしてきました。
子供や孫が幼かったころは水遊びの場所になりました。夏には清流に全身を漬けて遊んでいました。
庭の下流のほうには魚が上り下りできるように斜めに魚道をつけたのも楽しい思い出になりました。その魚道を何年も岩魚が上り下りしているのです。想像しただけで楽しいのです。
二年ほど前の2月16日に行ったときも、一面の雪のなかで小川は変わらない清らかな水音をたてて流れていました。思わず写真を撮りましたので下にお送り致します。
小屋の窓から見ると小川が見え、その向こうの斜面を登ると白樺林になっています。そしてその林の北側には牧場が広がっているのです。その牧場も一面の雪でした。
写真をお送りいたします。雪景色をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
下の写真は今朝、窓から見えた雪に埋もれた夏蜜柑の木です。

下の写真は小屋の近所から見上げた甲斐駒岳です。

下の写真は小屋へ登る雪道の写真です。これ以上は車が上がらないので残りの500mは歩きます。

下の写真は小屋の窓から見降ろした小川の写真です。

下の写真は小川に取り付けた魚道の写真です。

下の写真は小川の向うの雑木林の様子です。この斜面を登ると白樺林があり、その左手が広い牧場になっています。その牧場にはもう乳牛はいません。何年か前に止めてしまい牧草だけが茂っています。子供や孫が小さかったころは夏は野球をしたり冬は雪合戦をした広場です。


今年はじめて咲いた梅の花です

2015年01月29日 | 写真
国立市の甲州街道沿いにある谷保天満宮の梅園は北側が丘で、その南の窪地にあります。日当たりが良い暖かい場所なので、この界隈では例年一番早く咲き出します。
午前中に、そろそろ咲き出していると思い家内と一緒に行ってきました。
白梅と紅梅の木が数本だけ咲いています。茶店も店を開いて梅見の客を歓迎しています。梅の花の写真4枚と最後に谷保天満宮の写真をお送りいたします。
皆様のお住いの土地では梅はまだでしょうか。日本の南の地方では満開でしょうか。そんな想像をしながら梅の木の下を散歩してきました。









八丈島、縄文時代からの歴史(5)八丈島を愛した團伊玖磨さん、そしてパイプのけむり

2015年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム
江戸時代の八丈島は幕府の直轄領でした。島役所が設置され2000人ちかい流人が文化の花を咲かせたのです。その有様は前回の記事でご紹介しました。
その続編として話が大変小さくなりますがオペラ「夕鶴」の作曲家として有名な團伊玖磨さんが八丈島に別荘を持っていたことを書いてみたいと思います。
そしてそこで作曲の仕事をしながら名随筆集、「パイプのけむり」を書き続けたのです。
私は随筆集はこれまでに、いろいろ読みました。寺田寅彦、中谷宇吉郎、内田百、山口瞳、團伊玖磨などのものは長年愛読してきました。その中でも團伊玖磨の「パイプのけむり」は忘れられません。
「パイプのけむり」はアサヒグラフに連載されていました。1963年に八丈島の樫立に別荘を作った翌年から2001年に亡くなる直前まで40年近く続いた随筆です。朝日新聞社から27巻の本として出版されていますので、お読みになった方々も多いと思います。
外国で仕事をしながら忙しく書いたものや、葉山の自宅や八丈島でゆっくり書いたものなど変化があって飽きさせません。世界の珍しい風物や人情、そして八丈島の自然、人々・植物のことなどが軽妙洒脱な筆致で活き活きと描いてあります。話題は多岐ですが、いずれも上品な書き方で、文章の裏に人間愛が流れています。読後の爽快感が忘れられません。
八丈島では團伊玖磨氏を誇りにしています。2002年の没後一周忌に團さんの別荘を公開し、遺品や著作を展示しました。島に昭和6年から続いている地方新聞、「南海タイムス」の2002年5月31日の掲載写真を示します。別荘内の書斎や著作の展示の写真を2枚示します。

写真2枚の出典は、http://www.nankaitimes.com/ です。

八丈島が大好きな團さんは、島のすばらしさを伝える文章をたくさん書いています。その一部分を下に引用します。
 「秋だ。そう思って、鰯雲の浮かぶ高い空を見ていた。傍に立っている子供は、海の遠くを見ていて、何か考え事をしているらしい。何だ彼だと忙しさに紛れて、こんなにゆっくりとした気持ちで空など眺めている事は久し振りの事だ。三年半前に、テレヴィジョンの僕の番組が始まる前には、僕はいつもこの崖の上に立って、いつもこんなにゆったりした気持ちで空を見、海を見、島の緑を見るのを日課にしていた。自作を指揮する仕事もあるにはあったが、それとて一年のうち総計して二十回程、あとは、そのために上京する以外は、八丈島の家の机の上で、作曲と好きな文章を書いていれば良かった。書き物に疲れた時は、島の南側の斜面にぽつんと建っている家から、二、三分歩いて、この崖の上に立って深呼吸をした。無限に広がる空、眼下の太平洋、遥か南に浮かぶ青ヶ島、左右には海から突然に屹立した断崖が続き、その上には、八丈群落を染め分けて、濃緑のと藪肉桂との林が、ところどころに畑を散見させながら巨大な斜面となって、海抜七四〇米の八丈三原山に続いている。秋になると、いつもその上に空が高かった。僕は、今日も高い空の鰯雲を見ながら、その頃の、自由だった自分の日々を思い出していた。」(『八丈多与里』朝日新聞社刊)http://www.8jo.jp/DANIKUMA.htm
このような文章で八丈島のことを沢山書いたのです。その結果もあって八丈島は常夏の観光地として訪れる人々が増えました。特に沖縄やハワイに行くことが大変だった時代には多くの人々が訪れたのです。
團伊玖磨さんは八丈島の観光大使のような役割をしたのです。本人は意図していませんでしたが。しかし八丈島の人々は2002年に亡くなった團さんへ今でも感謝しています。その表れの一つは毎年夏に開催される團伊玖磨記念・八丈島サマーコンサートです。
その様子を2012年のサマーコンサートに出演したピアニストの久元佑子さんのブログから転載させて頂きます。出典は、http://blog.livedoor.jp/yuko_hisamoto/archives/1968340.html です。
・・・・今年の夏、楽しみにしていた八丈島にいよいよ到着です。
「ぞうさん」「花の街」「夕鶴」それに「ラジオ体操第2」など、私たち日本人になじみ深い作品を作曲された團伊玖磨先生。
八丈島に別荘を持っておられました。海がお好きで海釣りに出かけ、散歩を欠かさず、島の人たちからも親しまれていたそうです。
毎年続いているサマーコンサート。今年の2012年でなんと43回目だそうです。
團先生の愛した八丈島で、團先生の曲、そして私たちの好きな音楽を演奏できる幸運な機会をいただき感謝しております。
会場は、八丈高校視聴覚室。とても視聴覚室とは思えない立派なホールです。
来年は、さらに本格的なホールが完成するそうです。
今回、ご一緒させていただきましたのは、ヴァイオリンの大関博明先生、そしてソプラノの澤畑恵美先生。お二人の美音、美声に包まれた幸福な2日間でした。・・・・
下にその時の写真を示します。

ところで八丈島の現在の一番重要な収入源はロペという観葉植物です。以前あった水田を止めてロペの畑にしてしまったのです。その事を書いた久元佑子さんの文章をもう少し引用します。
・・・八丈島には、ロペと島の人が呼ぶ木があります。日本の90パーセント以上のシェアを誇る島を象徴する木で、今回のステージにも登場。
ステージ上にお花があることは時々ありますが、木が運ばれてきたときにはびっくり!
リハーサル中でしたが、思わず、お花屋さんに、その木のことをいろいろ尋ねてしまいました。ロペはハサミ一本で作業できるので、島ではたくさんのお年寄りの方がロべの葉を切っておられるのだそうです。1本あたり20円とか30円だけれど、一日で1万円以上になるそうで、
「若いぼくらよりずうっとお金もちになるんだよ」と、その若者は笑いながら、説明してくれました。花束のまわりに額ぶちのように飾られているおなじみの葉っぱ。これから、この葉っぱを見ると八丈島を思い出しそうです。・・・・下にロペの葉を切り取る木の写真を示します。ロペの畑では葉を切りやすくするために人間の背丈以上には大きくしません。

島の産業の移り変わりも重要なローカル文化ですが、話題が変わり過ぎますのでよします。
今日は團伊玖磨氏が八丈島の発展と文化にどのような貢献をしたかをご紹介いたしました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

朝からやりきれない気分なので花を買いに行きました

2015年01月28日 | 写真
イスラム国で人質になっている後藤健二さんの状況が厳しく、やりきれない気分です。気分を変えるために花を買い、花々の写真を撮って来ました。
花々は何事も無かったように何時ものように美しく咲いていました。
写真を撮っていたら気分が良くなりました。
その写真をお送り致します。









後藤健二氏の運命と、日本社会への衝撃と深い影響

2015年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム
昨夜、また衝撃的が映像が流れ、後藤健二さんが24時間後に殺害されるかも知れないと言っていました。多くの日本人は衝撃を受けたことと思います。今日はこの事件が日本の社会へどのような影響を与えるかという問題について少しだけ書いてみます。
その前に以下の短い文章を是非お読み下さい。
シリアへの出国を翌日に控えた昨年の5月27日、後藤さんへのインタビューです。
・・・・後藤さんが神を信じ、キリスト教の信仰を持ち、救われたのは、何がきっかけだったのだろうか。そのきっかけは、ある冬のクリスマス礼拝だったという。当時、クリスマスの「イベント」の一つとして、教会を訪れた後藤氏は、そこで何か大きな存在がこの世にいることに気づき、そして今までのどこか傲慢であった自分の人生を大きく悔いたのです。それは1990年代初めの出来事であった。
すでに、国際ジャーナリストとして駆け出していた彼は、常に「死」と隣り合わせにいた。そのことを不安や恐怖に思わなかったわけではない。紛争地に出向くときは、ほとんど一人で飛行機に乗り、現地で通訳やドライバーなどとチームを組む。しかし、日本から一人で危険地帯に出向き、そこで死を迎えるようなことがあれば・・・。
もし、取材先で命を落とすようなことがあったとき、誰にも看取られないで死ぬのは寂しいかなとも思いました。天国で父なる主イエス様が迎えてくださるのであれば、寂しくないかな・・・なんて、少々後ろ向きな考えで受洗を決意したのは事実です」と後藤さん。しかし、当時の牧師に「われわれの信じる神様は、われわれが死ぬときのためにいらっしゃるのではないのですよ」と咎められ、はっとした。それからは、毎日生きていることに感謝し、神様に守られ、今も生きていることに感謝しているという。(以上の文章の出典は、http://www.christiantoday.co.jp/articles/13401/20140530/goto-kenji.htm です。)
下の写真はトルコとの国境に近いシリア北部の都市アレッポでの取材風景です。(写真:INDEPENDENT PRESS)



後藤健二さんは間違いなく善人です。先にイスラム国に捕らわれた友人の湯川遥菜さんを助けるために危険なラッカへ行ったのです。死を覚悟して行ったのかも知れません。
自分の死をも辞さないで友を助けに行く後藤さんには感動せざるを得ません。
彼の無事、生還をお祈りいたします。
さて今回の衝撃的な事件は日本社会へどのような影響を与えるでしょうか?
雑な言い方をすればアメリカ主導のテロとの戦争に日本が本気で参加するようになります。その方向へ賛成する人が増えると思います。日本社会が右傾化する方向へ動くと思います。
この社会的な影響は安倍総理の考えている方向と一致するのです。
日本政府が湯川さんや、後藤さんを本当に助けたいのならトルコ政府にお願いすべきです。トルコは今迄、数人の人質解放の交渉に成功しているのです。実績がその交渉能力を証明しているのです。それをこともあろうにイスラム国を空爆しているヨルダンに協力をお願いしたのです。ヨルダンはアメリカ空軍と組んでイスラム国を空爆しているのです。これでは人質解放交渉が難航するのは必至です。
今回の事件で日本人が感情的になってイスラム国との戦争に参加するようになったら大変なことになります。
中東地域の戦乱は複雑怪奇で日本人の理解を越えているようです。日本は後方支援と難民支援だけに徹し冷静、かつ賢い対応を堅持すべきと思います。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

何故、私は地方文化を称賛するか?私の本音をお読み下さい!

2015年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム
何故、私は地方文化を称賛するか?今日は私の本音を正直に書いてみました。是非お読み下さい!
そもそも何故、私はいろいろな民族の文化に強く興味を持つのでしょうか。日本の地方、地方の文化を称賛するのでしょうか?
その本音を書いてしまえばそれが私の生涯の趣味であり、生きがいでもあるからです。
その趣味はアメリカの文化人類学者のルース・ベネディクトの「菊と刀」という本を若い時読んだ時の感動から始まりました。
ルース・ベネディクト(Ruth Benedict)は1887年にニューヨークで生まれ、1948年に亡くなりました。アメリカ合衆国の文化人類学者で日本文化を説明した『菊と刀』の著者として戦後の日本で大変有名なった人です。この本はアメリカ軍に依頼され、敵国日本の人々の文化と行動パターンを調査し、研究した成果をまとめた本です。戦後、マッカーサーが日本の占領政策を決める時大いの参考した本でした。
下の一番目の写真に彼女の写真を示します。

ルース・ベネディクトは1946年に「菊と刀――日本文化の型」をに出版しました。彼女は一度も日本の土地を訪れることなく、参考文献と日系移民へのインタビューによって日本文化と日本民族の気質を深く洞察し『菊と刀』という貴重な日本文化論を書き上げたのです。『菊と刀』は元々アメリカ陸軍がルース・ベネディクトに委嘱したもので、西欧人とは異なる日本人固有の文化・気質を理解することで太平洋戦争後の円滑な占領統治に役立てようとしたのです。
詳しくは末尾の参考資料をご覧下さい。
日本では1948年に翻訳出版されました。終戦後3年目です。
この本の内容で私は次の二つのことで衝撃的な感動を覚えたのです。
(1)日本は戦争に敗けたのにその文化や人間性を尊敬しているようなニュアンスで書いてあったのです。そして世界中の全ての民族の文化には絶対に優劣が無いと言うのです。
このメッセージは敗戦で意気消沈していた日本人を鼓舞したのです。もう一度復興し文化国家として世界に認めて貰おうと日本人が決心するキッカケになったのです。
(2)外国の文化を分析し、深く理解し整理体系化するためにはその国に何年は住んでいる必要があると言われます。ところがルース・ベネディクトは日本へ一度も来たことがないのに日本文化の神髄と行動パターンを明快に描き出したのです。その学問的な研究手法に感服し、感動したのです。
この本を読んで、衝撃を受け、それ以来、いろいろな民族の文化に強い興味を覚え、調べる癖がつきました。そのことが楽しくなって趣味になってしまったのです。
この趣味を日本国内の地方、地方へ向けると「全ての地方には優劣が無く、興味深いローカル文化がある」という考え方になるのです。
ですから甲斐の国の歴史や文化を調べたり、八丈島の文化を調べ記事を書いているのです。
そのような最近の記事から仙台の七夕祭りとおわら風の盆と青森のねぶた祭りの写真を順々にお送り致します。











そして仙台の七夕の動画;https://www.youtube.com/watch?v=rchTMGVLweY や青森ねぶた祭りの動画;https://www.youtube.com/watch?v=IGDyFLPX_Pk やおわら風の盆の動画:https://www.youtube.com/watch?v=ZbUlt0bMZEg もお楽しみ下さい。
日本人の一部には地方の人より都会にいる人の方が優れているという伝統的な偏見がありました。蔑みの言葉に「田舎者」というものもあります。それは貧しい文化で、最近は流石に無くなってきました。嬉しく思っています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========================
ルース・ベネディクトの『菊と刀――日本文化の型』 の内容の概略
(http://digitalword.seesaa.net/article/33551448.html より抜粋、転載)
題名の『菊と刀』の「菊」とは「美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす」ということであり、「刀」とは「刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する」ということである。「菊の優美」と「刀の殺伐」のシニカルな二項対立を浮き彫りにしている。ルース・ベネディクトは『日本人の矛盾した二面性』を象徴的に表現するために菊と刀というシンボルを選択したわけだが、『日本人は類例のないほど礼儀正しいが、同時に、この上なく不遜で尊大である』という風に日本人の二面性を文章化している。日本文化に歴史的に根付いているこの二面性・矛盾性の特徴は、東洋的な中庸の徳を実現しようとする複雑な人生のあり方をティピカルに示唆したものでもある。日本人は両極的な価値観を呈示しながら、その均衡点あるいは逸脱点(死)に独自の透徹した美学を見出したのである。
・・・・・キリスト教文明圏に生きる西欧人の行動規律が『罪の文化』にあるとすれば、儒教文明圏に生きる日本人の行動規律は『恥の文化』にある。西欧人は神と一対一で向かい合って『内面的な罪悪感(罪を恐れる去勢不安)』によって自律的(自発的)に善悪を判断するが、日本人は社会(世間)の人々の視線を感じ取り『外面的な世間体(恥を恐れるプライド)』によって他律的(強制的)に善悪を判断する。日本人にとって最も重要なのは、自分がその行為を悪いと思うか否かではなく、社会生活を営む周囲の他者が『自分のことをどう評価しているか?自分のことを軽蔑したり批判していないか?』である。 ・・・以下省略。

八丈島、縄文時代からの歴史(4)江戸幕府の直接支配と流人文化の興隆

2015年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム

上の写真のように八丈島は手前の東山と遠方の西山(八丈富士)の間には豊かな平野が広がっています。多くの人間が農業をして暮らしていける島です。しかし島は本州からあまりにも遠方です。ですから旧石器時代、縄文時代、大和朝廷の時代と時が流れても本州の戦乱とは無関係な平穏な時が流れました。
大和朝廷のころは形式的には駿河の国へ属していました。直接的な支配は室町時代末期に北条早雲の家来が代官として大賀卿村の大里に陣屋を作ったころから始まると言われています。
それ以前は室町時代に鎌倉公方を補佐する関東管領の上杉憲顕が派遣した代官も居たようですが詳しいことは分かりません。
船旅の危険が大きいためほとんど独立的な孤島であったと思われている。
それが急に江戸幕府の直接的な支配を受けるようになったのです。幕府は早雲の派遣した代官の陣屋跡に島役所を作り、八丈島を江戸幕府の直轄領にして直接統治し始めたのです。
下に江戸幕府の島役所の玉石垣の写真2枚と島役所の歴史を書いた案内板の写真を示します。





江戸幕府の島役所は島の中央部の南岸の八重根港のそばの高台の上にあり、その付近には大里と呼ばれるが出来たそうです。島役人とその家族の住む家があったのです。その屋敷の回りには流人が営々として海岸から運び上げた玉石の石垣が出来ています。現在も石垣は大里の中にあり、その中の家には人々が住んでいるのです。
幕府は、独特の染め方をした絹織物、黄八丈を年貢として納めさせたのです。島役所が設置されてから明治維新までの間に1917人の流人が八丈島にやって来て、住みついたのです。流人は粗暴犯だけでなく高位高官の政治犯も多かったので島にはいわゆる流人文化が花咲いたのです。
江戸時代になって始めての流人は関ヶ原の合戦で敗れた秀吉の家老であった宇喜多秀家とその付き人一行である。

上の写真は1606年に八丈島へ流人として到着した宇喜多秀家の御墓です。現在でも毎朝活けたような瑞々しい切り花が飾ってあります。毎日、切り花を供えている様子です。
秀家の回りにある縁者の小さな墓石の前にも切り花が供えてあります。いったい誰が供えるのでしょう?
秀家は秀吉の一字を貰った五大老の一人で朝鮮出兵で活躍し、帰国後は岡山城の大改修をし、備前・美作57万石の領主でしたが関ヶ原で敗将になってしまいました。八丈島へは長男の孫九郎や前田藩の医師、村田道珍斎や総数13名で島へ到着しました。流罪には正妻の豪姫以外の長男、医師、その他の付き人が許されたのです。その後の前田藩からの差し入れも許されました。
豪姫の実家は前田藩で、実子の居ない秀吉の養女になり、秀吉の重用する秀家の正妻になったのです。
前田藩は秀家存命中は勿論、子孫の宇喜多氏へ、2年毎に白米70俵と35両の現金、衣類、薬品、雑貨などを仕送りしていました。この仕送りは明治2年赦免になり東京へ帰るまで続きました。従って宇喜多秀家は島の人々にとっては感謝、尊敬される存在でした。
宇喜多一族は次第に増え、島の重要な家族として人々に大切にされました。
秀家のお墓の前の切り花だけではありません。歴史民俗資料館には宇喜多秀家の関連資料だけを展示している一つの部屋があります。
その他の流人たちも知的レベルも高く、島の文化へ大きな貢献をしたのです。
島の「歴史民俗資料館」発行の資料解説No.5には20人ほどの流人の名前を記し、島への貢献の内容を説明しています。カイコと、黄八丈と呼ばれる絹織物を伝えた人、サツマイモを伝えた流人、薩摩焼酎の作り方を伝えた人、詩歌管弦の指導をした風流な流人、などなどの名前を明記し感謝しています。中には大工の棟梁も居て、島でも弟子をとり、多くの大工を育てた人もいます。
これらを総称して「流人文化」といい、八丈島の人々は現在でも誇りにしています。

話は突然変わりますが2009年の1月末ころに八丈島を訪問した時、天候が荒れてしまい飛行機も船も欠航が続き私は島に閉じ込めれてしまいました。
孤島に流されたような気分になりました。すると周りの人々すべてが大切な存在として感じられるのです。太平洋に浮かぶ孤島だからこそ人間が一人一人が大切に思えるのです。
八丈島の人々が流人といえども善良な人々を大切にした気持ちが分かったのです。
八丈島のローカル文化は欠航という目に会って初めて少し実感したような気分になりました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

冬の相模湖で舟遊びをする人々の影

2015年01月25日 | 写真
今日は日曜日です。午前中は教会のミサに出席しました。
午後から家内と神奈川県の相模湖までドライブに行きました。相模湖には水力発電所があります。その湖水は横浜市の飲み水として使われています。
結婚して、1962年にアメリカから帰り、東京に住みついた新婚の頃はよく相模湖まで遊びに来たものです。軽自動車のマツダクーペで何度も大垂水峠を越えて相模湖に遊んだのです。当時は相模湖は大いに繁盛した観光地でした。
今日は陽射しの暗い寒い日でしたが湖水の上には足こぎのスワンボートや観光船や細長いスカルが浮かんでいました。日曜日なのでこのようなのでしょう。平日は誰も居ない静かな相模湖です。 新鮮な空気の湖畔を走ったり、散歩してきました。
今日の相模湖の風景写真をお送り致します。









この美しい、青い水の惑星で起きた日本人殺害事件を想う

2015年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム
昨夜、イスラム国で拘束されていた湯川遥菜さんが殺害された写真を持つ後藤健二さんの動画がネットの上で公開されました。ショックを受けました。人間は動物の一種類ですということを思い出しました。そしてこの残忍な動物も自然界の一部と考えました。
その自然界は地球という青い惑星の上に広がっているのです。
私達が住んでいるこの青い水の惑星を実感できる写真を今朝、何度も見ていましたら心が静かになりました。そこで皆様へもご紹介いたします。
趣味人倶楽部の会員の「うらん39さん」という方の写真です。(http://smcb.jp/_pr00?oid=124295)
一瞬電気に撃たれたような強い感銘を受けた写真です。この惑星はこんなにも美しいのです。
転載を許可して下さった「うらん39さん」へ感謝いたします。有難う御座いました。

湯川遥菜さんのご冥福をお祈りします。そしてこの美しい惑星に平和が来るようにとお祈りします。





江戸幕府の遺産、玉川上水の冬木立の写真

2015年01月24日 | 写真
江戸幕府が出来てすぐに江戸の町の生活用水として、延長約30Kmの玉川上水が作られました。明治維新以後は用水堀の役目はなくなりましたが、堤の上の樹木が保存され、現在は長い、長い自然林になっています。特に小平市はその保護につとめ長さ20Kmにも及ぶ遊歩道を両岸に整備しています。
今日はその冬木立の写真を撮りに行ってきました。大寒の雑木林も良いものです。










八丈島、縄文時代からの歴史(3)旧石器時代、縄文時代の丸木舟による外洋航行

2015年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム
日本でまだ土器の焼かれていなかった旧石器時代は学説によって差がありますが、約40000年前に始まり、それが約12000年前になると縄文土器の時代になったと言われています。縄文時代から弥生時代になったのは地方によって異なりますが約2000年前と言われています。
10000年以上も続いた縄文時代も石器が広く使われていた石器時代だったのです。
この連載の(2)で八丈島で発見された6000年前の縄文土器は本州から丸木舟で太平洋を渡って運ばれたと書きました。土器に使われた粘土が本州のものだったからこのように推定されたのです。
しかしもっと驚くべきことは旧石器時代にも既に丸木舟で伊豆七島と本州の間を行き来していたのです。
その動かぬ証拠は日本各地、そして伊豆七島の神津島の黒曜石が旧石器時代から本州各地からシベリアまで広く流通していたことです。下にその様子を示す図面を掲載します。

黒曜石の成分は山地によって少し違います。成分をX線マイクロアナライザーなどの分析機器で精密に分析するとそれぞれの産地が特定できるのです。ですから各地の旧石器時代や縄文時代の遺跡から出る石器の黒曜石の成分から、その黒曜石が何処から運ばれたかが判明します。
下は伊豆七島の神津島の黒曜石の流通範囲を示す図面です。

それでは本当に丸木舟しか無い旧石器時代に人々が神津島、三宅島、御蔵島、八丈島などと本州の間を行き来していたのでしょうか?
疑問に思っていましたら、八丈島在住の細谷昇司氏が教えてくれました。2008年5月に八丈島から御蔵島までの80kmを八幡暁さんという青年が単身でシーカヤックで渡ったそうで す。
八丈島の新聞の南海タイムスの2008年5月30日の記事から下の写真と以下の文章を転載いたします。

・・・沖縄県石垣市、八幡暁さん(33)が28日早朝4時に神奈川県の鎌倉へ向けて八丈島の永郷海岸をシーカヤックで出発した。八幡さんは最初の寄港地・御蔵島までの約80キロを、20時間で動力を使わず2本の腕で漕ぎ渡る。
黒潮の影響を受ける八丈島・三宅島間は潮流が速く、これまでにシーカヤックでの航海例がないルートだ。
八幡さんはオーストラリアから日本までの総距離8000~9000キロをシーカヤックで漕ぎきる計画を2002年から実行中だ。
「シーカヤックはサーフィンと同じで、大きな波を受け流したり、乗っかったりする技術がなければ、波に転がされてしまう。海で気象現象を予測し、起こってしまうリスクを回避するのも楽しみのうち。だから航海は単独無伴走」という。・・・
(http://www.nankaitimes.com/news_photo/photo08/photo/topnp_08.html )
八丈島は絶海の孤島と言いますが御蔵島から肉眼で見えるそうです。古代人は洋上で島が見えれば丸木舟で渡って行ったのです。天気の安定する季節を選んで、丸木舟を現在のシーカヤックのように漕いで行ったのでしょう。小さな帆も上げて多少は風の助けを使ったとも想像できます。
この南海タイムスの記事を教えてくれた細谷昇司さんは「八丈百景」というブログ:http://nangare.blog94.fc2.com/ を書き続けています。
それにしても丸木舟だけで太平洋を渡った古代の日本人には感動を覚えます。自分で小さなヨットで海に出ると本当に怖いのです。波の大きさが想像以上です。風に吹かれると船が傾いて甲板を波が洗うのです。こんな体験をすると丸木舟で太平洋を渡った古代人を尊敬してしまいます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料=================
(1)列島人が好んだ離島産の黒曜石:http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_09_1kokuyouseki_umi.html
黒曜石は黒色(茶色、半透明もある)のガラス質の美しい石である。割るとガラス同様非常に鋭い破断面を生じることから、世界各地で先史時代から有用な石器材料として重用されてきた。
日本では約60ヶ所の産地が知られているが、良質な産地は信州八ヶ岳周辺や和田峠、北海道白滝村、伊豆諸島の神津島、山陰の隠岐島、佐賀県伊万里市の腰岳など限られている。
 旧石器時代、縄文時代の人々も意外なほど石器の材質へのこだわりが強く、いいものは困難を厭わずに手に入れていたらしい。(これは04.項の野川遺跡でのナイフ形石器の原料調達でも触れた。)                        
 このような丸木舟に、黒曜石の塊を数個載せ、動かないように固定し、波の大きい外洋を操船していく。筆者の想像をはるかに超える、非常に困難かつ危険な作業であったろう。しかし黒曜石の塊が、神津島から本州島へ飛んで行けるわけではないから、それは間違いなく運ばれていたとみなければなるまい。
(2)日本で見つかっている古代の丸木舟の一覧:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E6%9C%A8%E8%88%9F にあります。下の図は東京の中里遺跡で見つかった6000年前の丸木舟です。