後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本の絵画(1)孤高の画家、田中一村の世界

2019年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム
今日から「日本の絵画」という連載を始めようと思います。日本画と油彩画の両分野で自分が感動している絵画をご紹介するつもりです。
始めは孤高の画家、田中一村の圧倒的な日本画の世界を取り上げました。
何年も前に横浜美術館で田中一村の特別展を見た時の感動が忘られません。これが日本画なのかと思うような強烈な印象を受け圧倒されたのです。
彼は生きている間はまったく無名の画家でした。南の奄美大島に住み着いて困窮を克服しながらひたすら熱帯の植物や鳥や蝶を愛し精彩に描き上げたのです。
一生妻をめとらず、中央の画壇とも交わらず孤高を通したのです。
田中一村の生き方は凡人には真似の出来ない修行僧のような一生でした。
ですからこそ田中一村画伯の絵画は何度みても圧倒されます。
彼は1908年に生まれ、1977年に69歳で亡くなれりました。1955年のスケッチ旅行が転機となり奄美大島へ渡り1958年から住み着きました。
島では大島紬の染色工をして生計を立て絵を描き続けたのです。
しかし奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在でした。個展も実現しなかったのです。
それでは彼の日本画をご覧下さい。









如何でしょうか? 彼の絵画は精細なだけでなく構図も色彩も非常に独創的です。そして美しいのです。
ここでもう少し説明を加えることをお許し下さい。
彼はまったく無名でした。
没後に南日本新聞の紹介やNHKの「日曜美術館」の紹介でその独特の画風が注目を集め、20年前くらいから全国巡回展が開催され一躍脚光を浴びるようになったのです。
その結果、奄美大島北部の「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」が2001年にオープンしたのです。
その後生誕100年にあたる2008年には、奈良県立万葉文化館で「生誕100年記念特別展 田中一村展―原初へのまなざし―」が開催されました。

田中一村は才能ある画家でしたが生前は落選続きの不運な経歴だったのです。
一村は1908年、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれました。父は彫刻家の田中彌吉でした。
若くして南画の水墨画に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で文部大臣賞を受賞します。
1926年に東京市芝区の芝中学校を卒業し、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学しました。
しかし同年6月に中退してしまったのです。この早過ぎる中退が彼の不幸な生涯の始まりでした。
中退後は南画の売り画を描いて一家の生計を立てたそうです。
しかし彼は売り画を描いている生活に見切りをつけます。そして1931年、それまで描いていた南画と訣別します。そして1938年、千葉に引っ越しそこに暮らすようになります。
売り画と訣別後の1947年の作品「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選します。
このとき本名孝から初めて田中一村と名乗ったのです。しかし一村は川端と意見が合わず、青龍社からも離れます。
1953年、第9回日展に「松林桂月門人」として出品するが落選します。
1954年、第10回日展に出品しますが又落選です。
1957年、第42回院展に出品するがまたまた落選します。
1958年、第43回院展に出品するが落選し、中央画壇への絶望を深め、50歳の時奄美大島に移住します。
奄美大島では大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始めたのです。
しかし奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま無名に近い存在で、生前には個展も実現しなかったのです。そして1977年に亡くなりました。享年69歳でした。
画家が生前に才能を認められなかった例は非常に稀な事です。有名な例はゴッホの場合があります。
現在、日本では田中一村の日本画が高く評価され度々彼の作品集の展覧会が開催されています。
私は海外でも田中一村が高く評価されようになると信じています。
それにしても彼の一生は不遇でした。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



「ヴァチカンのサンピエトロ寺院のミサ風景」

2019年06月30日 | 写真
いつもの日曜日はカトリック小金井教会のミサの風景写真をお送りしていますが、今日はカトリックの本山のサンピエトロ寺院のミサ風景の写真をお送りします。
このミサへ一度は出たいものです。壮大なミサです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







クイズです、仏教は多神教?一神教?それとも哲学?

2019年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日です。日曜日は宗教に関する記事を書くことにしてます。
気軽にお読み頂けるようにクイズにしました。少し考えてお楽しみ下さい。
問題は仏教が多神教?一神教?それとも哲学?ですか?という問題です。

仏教が好きな方々は多いと存じます。お寺さんとのお付き合いには問題がありますが、仏教そのものには興味があり好きですという方々も多いと思います。
クイズ風に軽く考えていますが、真面目に仏道の修行をしている方々を軽く考えているわけではありません。
しかし少し距離を置いて仏教のことを考えてみようとする問題提起のつもりです。

まず質問に使われている三つの言葉の言葉の定義を始めにいたします。
(1)多神教;
多くの人が一つの宗教だと考えているある宗教体系の中に数多くの神や、神と類似の超越した存在を信仰している場合に、それを多神教と定義します。
神と類似の超越した存在にはいろいろありますがお釈迦さまもその一例です。
(2)一神教;
ある宗教体系の中に唯一の神か、神と類似の超越した唯一の存在を信仰している場合に、一神教と定義します。
(3)哲学;
宇宙の全ての現象の規則性、法則性を論理的に考えた全ての考え方と定義します。
仏教は物質界は空(くう)であり、空なるものこそ物質界の本質であると言って、一つの宇宙観を提唱しているので哲学の一つと定義することも可能です。
ちなみに孟子や孔子の教えは人生訓が多くて、あまり哲学的ではないようです。

このクイズの答えのヒントとして、日野市の高幡不動の写真を示します。自分で撮って来た写真です。
高幡不動は701年に始まった古刹で、関東三大不動の一つです。弘法大師の真言宗のお寺です。
それでは写真に従って仏教が多神教であるという証拠写真を順々に示します。

1番目の写真は中心柱の下に釈迦の骨があると考えられる五重塔です。中国では石造りの塔が多いようですが、日本では木造のものになりました。

2番目の写真は本尊の不動明王像を祀った本堂の写真です。不動信仰のお堂です。

3番目の写真は本堂の中で護摩を焚いている僧侶の写真です。密教の儀式ですね。多く参拝客が僧侶の後ろで一緒に祈っていました。

4番目の写真は高幡不動の一番奥にある大日堂の写真です。大日如来信仰のお堂です。

5番目の写真は弘法大師を祀った大師堂です。

6番目の写真は有山董糸の碑で、「法鼓鳴り 花人 山を 下りて ゆく」という句が彫ってあったので、ついでに撮った写真です。クイズとは関係ありません。有山董糸は明治、大正、昭和期に多摩地方で俳句の師匠として活躍した俳人でした。家内の伯父(父の長兄)なので写真を撮りました。クイズとは関係の無い写真です。

高幡不動の境内の中の人々の動きも観察して来ました。
人々は真っ先に本堂に行きお賽銭をあげます。僧侶が護摩を焚き、太鼓を鳴らし、読経している本堂の中に、20人位の人々が上がり、座って読経を聞きながら祈っていました。それはご不動様への祈りです。
それが終わると奥の大日堂に行き、大日如来さまへお賽銭を上げます。
その帰路に大師堂があるので弘法大師さまへお祈りを捧げお賽銭をあげます。
その先には、釈迦の骨がある五重塔があるのですが、多くの人は素通りして帰っていきます。
この様子を観察して、嗚呼、仏教は多神教なのだと納得しました。

しかし、よくよく考えるとある人は意識的にお釈迦さまだけを拝んでいる人もいる筈です。
不動明王や大日如来や大師像を礼拝しながら、それらの向こうにお釈迦さまが見えるのです。一番重要なのはお釈迦さまだけなのです。
このような信仰の内容を持った人にとっては仏教は一神教なのです。

さて仏教は哲学であると考える人々は宗教を信じない人に多いと思います。
あるいはキリスト教の人もそのように考えているようです。

ですから結論を言えば、今日のクイズの答えは、仏教は多神教、一神教、あるいは哲学のどれも正解なのです。

そのどれかが正解だという人は、仏教に対するその人自身の信仰の仕方や内容によって決まるものと思います。

最後に私自身の答を書きますと、仏教は哲学です。しかし時々、仏教を一神教的に信じている自分があります。恥ずかしい話ですが自分はキリスト教と仏教の混淆宗教なのかも知れません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

大阪G20の各国の社会体制への影響と世界の平和

2019年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日開会した大阪G20の会議は世界中の26ケ国ほどの首脳の参加のもと今日閉幕します。
このG20の会議はもともと世界の経済が協調発展するための会合ですが、主要26ケ国ほどの首脳が一堂に集まり真剣な討議をするので経済問題に関連して各国の社会体制や文化への影響も大きいと考えられます。

今日は大阪G20の各国の社会体制や文化への影響に焦点をあてて考えてみようと思います。
それにはG20の本来の目的の世界の経済の協調発展について理解を深めることから始めなければなりません。
今日の記述を読み易くするために以下に於いては箇条書きにします。

(1)大阪G20会議の参加国は19のメンバー国と7つほどの招待国。
G20サミットの本来のメンバー国とは、アルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、カナダ、中国、フランス、ドイツ、インド、インドネシア、イタリア、日本、メキシコ、韓国、南アフリカ共和国、ロシア、サウジアラビア、トルコ、英国、米国の19ヶ国に加え、欧州連合(EU)です。そして各国の首脳が参加して毎年開催される国際会議なのです。
その上、大阪G20では次のような招待国や国際機関が含まれています、(https://g20.org/jp/summit/about/#participants)
オランダ
シンガポール
スペイン
ベトナム
ASEAN議長国(タイ)
AU議長国(エジプト)
チリ(APEC議長国)
セネガル(NEPAD議長国)
国連(UN)

(2)G7首脳会議とG20首脳会議の関係。
G7首脳会議とはアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本、イタリア、カナダ、EUは、G7として定期的に会議を開催していました。
G20首脳会議とは先進7か国・1地域にロシアと新興国11か国(中国・インド・ブラジル・メキシコ・南アフリカ・オーストラリア・韓国・インドネシア・サウジアラビア・トルコ・アルゼンチン)が加わり、1999年から始まりました。
この会議には、国際通貨基金、世界銀行、国際エネルギー機関、欧州中央銀行など、関係する国際機関も参加しています。(https://ja.wikipedia.org/wiki/G20 )
G20の20か国・地域の国内総生産(GDP)を合計すると、世界のGDPの90%ほどを占める上、貿易総額は世界の80%にもなります。そして加盟国の総人口は世界の3分の2ほどになるのです。ですから世界各国のGDPを概観する必要があります。

(3)世界各国のGDPの概観。
以下の図面は「主要国のGDPをグラフ化してみる(最新)」から転載いたしました。(http://www.garbagenews.net/archives/1335765.html)

1番目の図面は上位25ヵ国の名目GDPです。(IMFによる予想値、兆米ドル、2019年)

2番目の図面は↑世界全体に占める各国名目GDP比です。(IMF予想、「019年)

3番目の図面は 2019年時点の上位10か国の名目GDPの推移です。(IMF予想含む、兆米ドル)
名目GDPの上での最大の国家はアメリカ合衆国、次いで中国が示しています。
この2国だけで世界全体のおおよそ4割。次いで日本、ドイツ、インド、フランスが続きます。
これらの国のみで世界全体の約2/3のGDPを有していることになりります。
今回の大阪G20の各国のGDPを合計すると世界全体の86%になるのです。

さてここで今日の主題である各国の社会体制や文化への影響を考えてみましょう。
(1)社会体制によって国民一人当たりのGDPは大きく違う。

4番目の図面は 国民一人あたり名目GDP(主要国、含むIMF予想、万米ドル)です。
アメリカ、日本、ドイツのグループが非常に大きいのに比べて中国、インド、インドネシアのグループが小さいのが分かります。
中国は共産党独裁、インドは階級制度が強い社会でインドネシアはイスラム教の国です。
ここで明確なことは自由な民主主義の社会体制の国々の国民一人あたり名目GDPが非常に大きいことです。

(2)情報の流通によって共産党独裁の社会体制は将来崩れる可能性がある。
共産党独裁は急には崩れることは無いでしょうが、共産党独裁のもとでもいろいろな分野での自由度が増大することになる可能性があります。
各国のトップが参加した大阪G20の会議はこの個人の自由度の増大を加速する影響があると考えられます。

(3)イスラム国は先進工業国の社会体制を導入する方向に変わる可能性がある。
インドネシアには日本の企業の工場が沢山稼働していて既に先進工業国の社会体制に移行しています。
他のマレーシアのような国々もそのようになります。
大阪G20の会議はこの先進工業国の社会体制への移行を加速する影響があると考えられます。

(4)大阪G20の会議にはキリスト教国、イスラム教国、仏教国、共産主義国など宗教やイデオロギーに関係無く参加しています。この会議によって人々は世界共通の価値感を深く考えるようになります。
このことが世界の真の平和につながる可能性があると私は考えます。

ですから大阪G20は世界の真の平和に貢献すると私は信じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

高山植物の花々の思い出

2019年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は高山植物の花々をご紹介します。その後で高山植物の花々にまつわる思い出を書いてみたいと思います。
まず高山植物の花々の写真をお送りいたします。

1番目の写真は日本の北アルプスの高山植物の花畑です。
出典は「山岳ギャラリー」、http://izanaikamada.web.fc2.com/new_natsu_1.html です。写真を撮った方は鎌田則雄さんという山岳写真家です。鎌田則雄さんは、20代の頃に山へ入って以来、約30年もの歳月をかけて撮影を続ける山岳写真家です。 日本アルプスはもちろん、全国各地の美しい山の情景を写真に撮りました。

2番目の写真も鎌田則雄さんの作品です。写真の出典は1番目の写真と同じです。

3番目の写真は「高山植物の女王」と称される小さくも美しいコマクサの花です自然・植物写真家の高橋修さんが撮りました。出典は、https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=147 です。

4番目の写真は高山植物で有名なチングルマの花です。
写真は克ちゃん (id:arb_takahashi)のブログからお借りしました。(http://arb-takahashi.hatenablog.com/entry/2017/07/29/124508 )
チングルマの自生地の大群落で有名なのは、大雪山旭岳裾合平、秋田駒ヶ岳ムーミン谷、白馬大出原などだそうです。

5番目の写真は高山のリンドウの花です。
写真の出典は、https://pixabay.com/ja/photos/リンドウ-花-almの-774987/ です。

6番目の写真は北海道の大雪山のエゾノツガザクラの花です。
写真の出典は、http://www.sounkyo.com/ezonotugazakura.html です。

7番目の写真は高山に咲くサギソウ(鷺草)の花です。
写真の出典は、https://s.webry.info/sp/tomujii.at.webry.info/201308/article_7.html です。

さて高山植物の花々にまつわる思い出を書いてみたいと思います。
私は長い生涯で高山植物の花々が一面に咲いている光景を2度だけ見たことがあります。1度目は北アルプスの大天井岳の斜面でした。そうして2度目は夏の白夜のスウェーデンの野原でした。
あれは23歳の夏でした。北アルプス表銀座に登り縦走したのです。
JR大糸線の穂高駅から中房温泉に泊り、燕岳を乗り越して、大天井岳、西岳と尾根道を縦走し、槍の肩の小屋に泊りました。
その時、大天井岳の下の広い斜面に1番目と2番目の写真に示したような花畑があったのです。
中房温泉から燕岳への急坂に疲れ切っていた私はうつむいて歩いていたのです。すると突然眼前に高山植物の花畑が広がったのです。それは息を飲むような美しい光景です。疲れ切っていたので一層感動したのです。
山の上にこんな広い花畑があるとは想像もしていなかったのです。その後は足取りも軽く槍の肩の小屋まで登ったのでした。
翌日は南岳へ尾根道を縦走し、難所の大キレットを慎重に渡り北穂小屋に泊りました。
あとは穂高の主峰に登り、カラ沢を下り、梓川沿いに上高地に出て一泊しバスで松本へ帰りました。
大天井岳の下の広い斜面で見た花畑の光景は一生忘れられない思い出になったのです。

2度目に高山植物の花畑を見たのは夏のスウェーデンでした。
1972年にストックホルムにある王立工科大学に招ばれ8月から11月にかけて4ケ月間程住んでいたことがあります。私を招んでくれたのエケトルプ教授でした。
自宅にも何度も招待されました。
そうしたらエケトルプ教授の家の裏の野原に一面高山植物のような花々が咲いていたのです。色とりどりの花々が白夜のうす暗い中に夢幻のように広がっています。
裏に塀や柵がなく野原が果てしなく花畑になっているのです。感動しました。
スウェーデンは緯度が高いので夏は白夜で太陽の光も弱々しい国です。ですから日本の高山植物のような花々が平野の野原に咲いているのです。
エケトルプ教授に聞くと、「草花の種を買って来て家の周りの野原に播いたのです」と言います。
そして「よく見て下さい。日本の高山植物のように見えますが、種類は違います」とも云ってました。

あの懐かしいエケトルプ教授が亡くなってからもう何年もの月日が流れました。
しかしエケトルプ教授の家の周りに咲いていた高山植物のような花々が忘れられません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

今日は珍し朴の木の花の写真をお送りします

2019年06月27日 | 写真
朴の木は山奥に生えている大きな木です。山奥のうえに大木の高い梢に咲くのでめったに見ることが出来ない珍しい花です。初夏に白い大き花を開き、芳しい香りを漂わせます。
その写真をお送りします。

1番目の写真は2年まえの5月に山梨県の上野原市の山奥で私が撮った朴(ホウ)の木の花です。

2番目の写真の出典は、https://minhana.net/wiki/ホオノキ です。

3番目の写真は出典は、
https://blogs.yahoo.co.jp/san_tarimo/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-53-c2%2Fsan_tarimo%2Ffolder%2F989081%2F27%2F33421227%2Fimg_0%3F1400056940&i=1
です。

4番目の写真の出典は、
http://parfum-satori.com/blog/2016/05/magnolia-obovatathunb-1.html です。

5番目の写真は山奥にある私の小屋の庭です。右手に朴の木の大木があり高い梢に花が咲きます。白い花びらがチラチラ見えるだけです。

朴の木の葉は朴葉味噌につかったり食物を包んだりします。大きな美しい葉です。

「埼玉県の広大な秋ヶ瀬公園の写真です」

2019年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム
自宅のある小金井市から北に行くと埼玉県の所沢市に行けます。そこから東へ車で1時間くらい走るとやがて荒川にかかる羽根倉橋を渡ります。渡ったところの信号を左に下りると埼玉県立 秋ヶ瀬公園の北口です。
昨日は梅雨の晴れ間だったのでこの秋ヶ瀬公園に行ってきました。
広い広い緑の公園です。撮ってきた写真をお送りいたします。

1番目の写真は「さいたま市」の西端を流れる荒川です。「さいたま市」は昔の大宮市と浦和市と与野市が合併した埼玉県の首都です。
この写真には写っていませんが、羽根倉橋からは「さいたま市」の高層ビル群が緑の田園に浮かび上がって美しく見えます。

2番目の写真は秋ヶ瀬公園の北の入り口です。ここから下流の秋ヶ瀬橋までの約3Kmが公園の敷地です。

3番目の写真は秋ヶ瀬公園の芝生の広場です。面積は100ヘクタールもある広大な公園です。

4番目の写真は公園のあちこちに数多くある駐車場の一つです。、駐車場は950台分と障害者用27台分があります。公園のHPによると軟式野球場11面、ソフトボール場6面、サッカー場2面、ラグビー場1面、テニスコート22面、炊飯場50区画などが完備しているそうです。

5番目の写真は秋ヶ瀬公園の南に隣接する田島が原の昨日の光景です。江戸時代から日本サクラソウの自生地として有名な野原です。ここは可憐な日本サクラソウを見るために何度も訪れた所です。昨日は雑草が生い茂っていて日本サクラソウの片鱗もありません。

6番目の写真は5番目の写真と同じ場所で2017年05月25日に撮った写真です。「国指定特別天然記念物、田島ヶ原サクラソウ自生地」と彫った石碑が立っています。昨日は石碑の頭だけが雑草の上に出ていました。

7番目の写真は5番目の写真と同じ場所で2017年05月25日に撮った日本サクラソウの写真です。

昨日は2年ぶりに曾遊の地の秋ヶ瀬公園に行って浩然の気を養って来ました。
こうして老境の日々が流行きます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「今日は桐の花の写真をお楽しむ下さい」

2019年06月26日 | 写真
桐の 原産地は中国です。
写真の出典は、https://kurashi-no.jp/I0020239 です。

花言葉は「高尚」です。
花言葉は中国の神話から来ています。伝説上の「鳳凰」は桐の木にだけ止まるのです。ですから桐は神聖な木です。このことから花言葉は「高尚」なのです。









平和の為の祈り(3)はるか昔の太平洋戦争の風景写真

2019年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム
人間の心に悪魔が住みつくと戦争を始めます。戦争は悪魔の仕業です。狂気の沙汰です。
1941年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争も狂気の沙汰です。もう78年も昔のことです。戦争の生々しい写真は風化して自然の風景写真のように見えます。しかし人間は悪魔の誘惑に弱い存在なのです。戦争の悲惨さを忘れるべきでありません。
今日も戦争の写真を見て私は悲しみに満ちた心で平和の為の祈りを捧げます。

1番目の写真は1941の日本軍による真珠湾攻撃で炎上するアメリカの太平洋艦隊です。写真の出典は、 『ウィキペディア(Wikipedia)の真珠湾攻撃』です。

2番目の写真は日本の巨大戦艦「大和」です。日本は時代遅れの大鑑巨砲主義でアメリカ海軍に勝とうしたのです。「大和」は戦果をあげずにアメリカ海軍に沈められたのです。

3番目の写真は原爆を投下された長崎の光景です。写真の出典は、
https://www.buzzfeed.com/jp/gabrielsanchez/pictures-of-hiroshima-and-nagasaki です。

4番目の写真は原爆で焼け野原になった長崎の光景です。レンガ造の天主堂だけがわずかに原型の一部を残しています。この写真の出典は3番目の写真と同じです。

5番目の写真は1945年3月10日の空襲で焼け野原になった東京の風景です。
です。写真の出典は、
https://www.huffingtonpost.jp/2015/03/12/tokyo-firebombing-70th-gifanimation_n_6854922.html です。尚この写真は同じ場所の現在の風景と自動的に入れ替わります。

6番目の写真は私の故郷の仙台市の焼け野原の風景です。1945年7月10日にB29が百機来て仙台を焼き尽くしました。
当時9歳だった私は自宅のあった丘の上から紅蓮の炎につつまれる市街を立ち尽くして眺めていました。
この仙台の焼け野原の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/仙台空襲 です。

7番目の写真は自分で撮った現在の仙台市の風景です。青葉城の城跡から撮った写真です。
これらの写真の示すように日本全国の約200の市町村が焼け野原になったのです。日本全国が焼け野原になってしまったのです。

これが1941年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃の代償でした。
その上、代償には膨大な数の戦没者がありました。
末尾の参考資料に第二次世界大戦の国別の犠牲者数の表を示します。
特に太平洋戦争の関連したアジア地区の戦没者は次のようになります。
(1)日本の占領地のフィリピンとインドネシアで民間人の死者がそれぞれ最大、100万人と150万人だったのです。
(2)日本領だった朝鮮の人が兵士や軍属として最大47万人以上死にました。
(3)インド人は英国兵として87000人死にましたが、民間人も250万人死にました。
(4)中国人は400万人の兵士が死に民間人を含めた合計が2000万人となっておます。この数はもう500万人追加すべきかも分からないと書いてあります。これが世界の常識になっています。
(5)仏領インドシナでも餓死を含めると200万人が死んだと言います。
さらにアメリカ兵、オーストラリア兵、イギリス兵なども太平洋戦争で多数戦死したのです。
第二次世界大戦の犠牲者の総数は6000万人と言われています。
はかり知れないほどの無数の死者のかたわらに家族の悲嘆の山並みがつづいているのです。
これほど戦争の悲惨さを具体的に示すものはありません。

戦争は悪魔の仕業です。狂喜の沙汰です。

戦争の写真を見て私は悲しみに満ちた心で平和の為の祈りを捧げます。そして全ての戦没者の「霊よ安らかなれと祈ります。空しい祈りと知りながら、
===参考参考資料==========
下に第二次世界大戦の国別の犠牲者数の表を示します。
この一覧表では1、国の名前、2、軍人と兵士の死者数、3、民間人を含めた死者数の合計の3項目が順に示したあります。
(https://www.nationalww2museum.org/students-teachers/student-resources/research-starters/research-starters-worldwide-deaths-world-war )

Australia
39,800
40,500

Austria、オーストリー
261,000
384,700

Belgium
12,100
86,100

Bulgaria
22,000
25,000

Canada
45,400
45,400

China、中国
3-4,000,000
20,000,000

Czechoslovakia チェコソロバキア
25,000
345,000

Dutch East Indies(インドネシア)
--
3-4,000,000

Finland、フィンランド
95,000
97,000

France、フランス
217,600
567,600

French Indochina(仏領インドシナ)
--
1-1,500,000

Germany、ドイツ
5,533,000
6,600,000-8,800,000

Greece、ギリシャ
20,000-35,000
300,000-800,000

Hungary、ハンガリー
300,000
580,000

India、インド
87,000
1,500,000-2,500,000

Italy、イタリー
301,400
457,000

Japan、日本
2,120,000
2,600,000-3,100,000

Korea(朝鮮出身の日本兵や軍属)
--
378,000-473,000

Latvia、ラトビア
--
227,000
Lithuania、リトワニア
--
353,000

Malaya、マレーシア
--
100,000

Netherlands(オランダ)
17,000
301,000

Philippines、フィリピン
57,000
500,000-1,000,000

Poland、ポーランド
240,000
5,600,000

Rumania、ルーマニア
300,000
833,000

Soviet Union、ソ連
8,800,000-10,700,000
24,000,000

United Kingdom(イギリス)
383,600
450,700

United States(アメリカ)
416,800
418,500

Yugoslavia、ユーゴスラビア
446,000
1,000,000

全世界の総合計
Battle Deaths
15,000,000
Battle Wounded
25,000,000
Civilian Deaths(民間人の死者)
45,000,000
脚注;Worldwide casualty estimates vary widely in several sources.
The number of civilian deaths in China alone might well be more than 50,000,000.

上の表では強制収容所で命を奪われた6百万人のユダヤ人は含まれていません。

ノウゼンカズラ、アジサイ、ユリの花の写真をお楽しみ下さい

2019年06月25日 | 写真
凌霄花(ノウゼンカズラ)、紫陽花、鉄砲百合、洋風百合の写真をお送りしまます。
凌霄花は家内が好きで大切にしています。蔦花なので玄関の上まで這い上がって夏中咲いています。よく見ると美しい花です。
紫陽花は沢山咲いていますが何年も続けて咲いているので大きな玉になっています。
鉄砲百合と洋風百合の花は近所の百合の好きな家の庭で撮らせて頂いた写真です。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しいです。

1番目の写真は凌霄花(ノウゼンカズラ)です。このような花が蔦につらなって夏中咲きます。

2番目の写真は普通の紫陽花ですが「墨田の花火」や咢紫陽花など色々な花が庭に咲いています。

3番目の写真は紫陽花の花玉の大きさが分かるようにティーカップと共に撮った写真です。

4番目の写真は鉄砲百合です。

5番目の写真は洋風の百合です。近所の百合の好きなお宅で撮らせて頂きました。

平和の為の祈り(2)アウシュヴィッツの風景の今昔

2019年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム
今日の祈りは罪無くして処刑された約6百万というユダヤ人の冥福を祈ることです。
そして2度とこのような残虐なことが起こらないように祈ります。
これは戦争が引き起こした歴史上最悪の犯罪でした。
ナチス・ドイツは国家を挙げて人種差別による絶滅政策(ホロコースト)を進めたのです。幾つも強制収容所を作りました。
ポーランド南部のクラコフという都市の近くのアウシュヴィッツの強制収容所で最大の犠牲者を出したのです。
アウシュヴィッツ第一強制収容所は、ドイツ占領地のポーランド南部アウシュヴィッツに作られ、第二強制収容所は隣接するビルケナウ村に作られたのです。

1番目の写真は「死の門」と呼ばれたアウシュヴィッツ第二強制収容所の鉄道引込線です。

2番目の写真はハンガリーから到着したユダヤ人(1944年)です。

3番目の写真は絶望のあまり自ら高圧電流が流れる鉄条網に触れて自殺する者もいたという第一強制収容所の写真です。

4番目の写真はガス室のあった複合施設(クレマトリウム)の破壊跡です。写真の遠景にあるように周囲は牧歌的な田園地帯です。以上、1番目から4番目の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/アウシュヴィッツ%EF%BC%9Dビルケナウ強制収容所 です。

5番目の写真はアウシュヴィッツに近い大都会のクラコフ市ののどかな観光馬車です。
現在のクラカフ市は悪夢を忘れたような観光の中心地になっております。
写真の出典はhttps://tabizine.jp/2018/02/12/171907/#i-2 です。

このアウシュヴィッツ強制収容所がポーランドに作られた理由はこの国にユダヤ人が一番多く住んでいたからなのです。270万人以上と言われています。
ヒットラーがユダヤ人絶滅戦略の為には、まずポーランドのユダヤ人を殺すのが一番効率の良い方法です。
そしてソ連のドイツ占領地域やハンガリーやチェコスロヴァキアなどに多くのユダヤ人が住んでいたのです。
他の地方のユダヤ人は数も少なく、集める労力がかかり過ぎます。従って結果的に殺戮率も少なくて終りました。

ヒットラーによって殺されたユダヤ人の総数は正確に分かっていませんが、600万人と言われています。
その出身国を以下に示します。ポーランド、ソ連、ハンガリーがば抜けて多いことにご注目下さい。
その原因はユダヤ人の人口が東ヨーロッパからウクライナ、ベラルーシ、ロシアに多かったからです。西ヨーロッパ諸国ではキリスト教徒による歴史的な迫害が続いたので東のヨーロッパ地方へ逃げて、移住して行ったのです。
ヒットラーの殺戮が始まると、その地域のキリスト教徒もユダヤ人の逮捕と収容に協力したのです。
・・・・・・・・「ドイツ人に殺されたユダヤ人 の出身地」・・・・・・・・・・・
ドイツ: 165,000人 、オーストリア: 65,000 、フランスおよびベルギー: 32,000 、オランダ: 10,000以上 、ギリシャ: 60,000 、ユーゴスラヴィア: 60,000 、チェコスロヴァキア: 140,000以上、ハンガリー: 500,000 、ソ連: 2,200,000 、ポーランド: 2,700,000 人。(数字の出典:Wikipediaの「ホロコースト」の項目より)
さらに詳細は、私のブログ記事の「ヨーロッパ文化の闇(2)ユダヤ人排除と殺戮はヨーロッパの伝統文化」(2013年10月30日掲載記事)に出ています。
ユダヤ人の犠牲者の総数にはいろいろな説があります。
ニューヨーク・ユダヤ人問題研究所は、戦前戦後のユダヤ人人口から、580万人という推計を行っています。
また『ホロコースト百科事典』は各国の専門家の統計を合計し、559万5000人から586万人という数字をあげています。
想像を絶する大規模な惨劇だったのです。

さてこのような惨劇を起こしたドイツ人はどのような反省をしているのでしょうか?
戦後40年経過してドイツの大統領ヴァイツゼッカーが初めて公的に謝罪したのです。
彼はドイツの第6代連邦大統領(在任:1984年 - 1994年)でした。
敗戦40周年記念日に西ドイツ連邦議会で謝罪の演説をしました。それは「40年の荒野」と題し、ドイツ人の反省と謝罪として世界中で有名になりました。その演説は世界各国で出版せれています。勿論、日本でも岩波書店から『ヴァイツゼッカー大統領演説集』として出版されています。
これは西洋人の良心的な告白であり悲しみに満ちた独白です。
いろいろな意味で感動的な演説なので以下にその抜粋をご紹介いたします。


 『荒れ野の40年』 (1985)    ヴァイツゼッカー
 5月8日は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされます。
 われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
 ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
 戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
 ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
 虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
 銃殺された人質を思い浮かべます。
 ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
 ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。
 積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。
 はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
 死者への悲嘆、
 傷つき、障害を負った悲嘆、
 非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
 空襲の夜の悲嘆、
 故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、 捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆――こうした悲嘆の山並みです。
 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。

・・・中略・・・
 
 ソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、ソ連指導部には大戦終結40年目にあたって反ドイツ感情をかきたてるつもりはないと言明いたしました。ソ連は諸民族の間の友情を支持する、というのであります。
東西間の理解、そしてまた全ヨーロッパにおける人権尊重に対するソ連の貢献について問いかけている時であればこそ、モスクワからのこうした兆しを見のがしてはなりますまい。われわれはソ連邦諸民族との友情を望んでおるのであります。
人間の一生、民族の運命にあって、40年という歳月は大きな役割を果たしております。
当時責任ある立場にいた父たちの世代が完全に交替するまでに40年が必要だったのです。
われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。
われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は率直さであります。心に刻みつづけるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人びとが理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。
人間は何をしかねないのか――これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。
 道徳に究極の完成はありえません――いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険に曝されつづけるでありましょう。しかし、われわれにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。
 ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。
 若い人たちにお願いしたい。
 他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
 ロシア人やアメリカ人、
 ユダヤ人やトルコ人、
 オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、
 黒人や白人
これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
 若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。
 民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。
 自由を尊重しよう。
 平和のために尽力しよう。
 公正をよりどころにしよう。
 正義については内面の規範に従おう。
今日、1985年の五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。 (終わり)

なお全文は私の以下のブログ記事に出ております。
「ドイツ人の真摯な反省として有名な演説、「荒野の40年」」、その(1)(2015年03月17日 掲載記事)とその(2)(2015年03月18日 掲載記事)


以上のようにナチス・ドイツが国家を挙げて推進した人種差別による絶滅政策(ホロコースト)に犠牲者は約600万人と言われています。
これはヨーロッパの歴史において最大の闇です。最大の汚点です。それを実行したドイツ人だけでなく全ヨーロッパ人の心が傷ついたのです。輝かしいヨーロッパ文化の巨大な汚点になって将来も暗い影を落とす運命にあるのです。
戦争がこの惨劇を引き起こしたのです。戦争は悪の権化です。

今日は皆様と共に真の平和が来るように祈りたいと思います。
そしてホロコーストの犠牲者になった約600万人の霊よ安らかなれとお祈りいたします。嗚呼。




「夏の海辺に咲く浜木綿の花の写真をお送りします」

2019年06月24日 | 写真
浜木綿の花と言えば夏の海辺を思い出します。若い頃は夏になるとよく海に遊びに行ったものです。懐かしい花です。
浜木綿の花の写真を検索すると美しい写真が沢山あります。
海の風景が綺麗な写真を選んで5枚お送りします。夏の海と浜木綿の花をお楽しみ下さい。

1番目の写真の出典は、https://www.taharakankou.gr.jp/flower/000148.html です。

2番目の写真の出典は、https://k-syouten.com/mdh/blog/?p=525 です。

3h番目の写真の出典は、ttp://hanakotoba-labo.com/26ha-hamayu.htm です。

4番目の写真の出典は、http://www.mitomori.co.jp/hana3/hana2.12.18hamayu.html です。

5番目の写真の出典は、https://blog.goo.ne.jp/raishou0213/e/ef9a96b5c446c22c9ad91f1317b95a4f です。

平和の為の祈り(1)ノルマンディーの今昔

2019年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム
20世紀は戦争の時代でした。第一次世界大戦、第二次世界大戦、ベトナム戦争、湾岸戦争など数多くの大規模な戦争が地球上で起きました。
当時の戦争の写真と現在の平和な写真を比べて眺めると平和の有難さがしみじみと身に沁みます。
そうして自然に平和の為の祈りが心の中に湧いてきます。
そこで「平和の為の祈り」という連載で今昔の写真を見ながらに平和の為の祈りをしたいと思います。
戦争の悲しみと平和の有難さを写真で示す連載です。私は世界の真の平和の為に祈ります。
今日は1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦の当時と現在の同じ場所を比較している画像を、
https://dailynewsagency.com/2014/06/06/d-day-landing-sites-then-kyx/ からお借りして示します。
74年前の1944年6月6日フランス北部のノルマンディーでは軍事史上最大の上陸作戦が行われ、ナチスドイツに対する連合国の反攻作戦の皮切りとなりました。あれから長い時間が流れた戦場を、当時の写真と今の写真で比較している写真です。

1番目の写真はヴィエルヴィル=シュル=メール、いわゆるオマハビーチに上陸する米軍部隊です。

2番目の写真は同じオマハビーチの現在の風景です。

3番目の写真は攻撃を受けて沈没した上陸用舟艇から助けだされる兵士達です。救命胴衣が膨らんでいるのが見えます。

4番目の写真は3番目の写真と同じ場所の現在の写真です。

5番目の写真はユタビーチに構築されたコンクリート壁を進撃する米軍第4歩兵師団です。

6番目の写真は5番目の写真と同じ場所で子供達が遊んでいる光景です。

7番目の写真はドイツ軍に撃墜された米軍の戦闘機です。

8番目の写真は7番目の写真と同じ場所の現在です。
原典には26枚の比較写真が掲載されています。https://dailynewsagency.com/2014/06/06/d-day-landing-sites-then-kyx/ をクリックしてご覧ください。

これらの写真へ何も説明は要りません。ただ丁寧にご覧下さい。

それはそれとして、今日は皆様のご健康と、世界の真の平和の為にお祈りします。後藤和弘(藤山壮人)

「夏の花々の写真をお送り致します」

2019年06月23日 | 写真
全ての写真と花名の由来や花言葉の出典は、http://hananokotoba.com/natsu/ です。

1番目の写真はジキタリスです。
花名の由来、
属名の学名「Digitalis(ジギタリス)」は、ラテン語の「digitus(指)」を語源とし、花の形が指サックに似ていることに由来します。
別名の「狐の手袋(キツネノテブクロ)」は、英名のフォックス・グローブ(Foxglove)をそのまま訳したもので、この花が手袋の指のように見えることにちなみます。
花言葉の由来、
花言葉の「不誠実」は、ギリシア神話にてサイコロ遊びが好きだったゼウスの妻ヘラに由来するといわれます。

2番目の写真はアガパンパスです。
花名の由来、
属名の学名「Agapanthus(アガパンサス)」は、ギリシア語の「agape(愛)」と「anthos(花)」が語源となり、「愛の花」という意味があります。
別名は紫君子蘭(ムラサキクンシラン)、英語ではアフリカンリリー(African lily)とも呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉も「愛の花」という意味をもつアガパンサスの名前にちなんだものとなり、「恋の訪れ」「ラブレター」の花言葉がつけられました。「知的な装い」の花言葉は、淡青紫色の涼しげで繊細な花姿に由来するといわれます。

3番目の写真はアリウムギガンジュームです。
花名の由来、
属名の学名「Allium(アリウム)」は、「におい」という意味の言葉が語源となり、この属の植物の多くが強いにおいを放つことにちなむといわれます。ラテン語で「allium」はニンニクを意味します。
花言葉の由来、
花言葉の「深い悲しみ」は、アリウムの花姿が悲しみたたずむ人間を連想させることに由来するともいわれます。

4番目の写真はアサガオです。
花名の由来、
花名のアサガオ(朝顔)は、朝に花を咲かせ、昼にしぼんでしまう様子を「朝の美人の顔」に例えた「朝の容花(あさのかおばな)」の意味であるといわれています。
花言葉の由来、
花言葉の「はかない恋」は、朝咲いて午後にはしぼんでしまう短い命の花であることに由来します。また、「固い絆」の花言葉は支柱にしっかりとツルを絡ませることにちなみます。

5番目の写真はオジギソウです。
花名の由来、
オジギソウ属の学名「Mimosa(ミモザ)」は、ギリシア語の「mimos(身振り、まね)」が語源で、この植物がおじぎのまねをすることに由来します。
このようにミモザは本来オジギソウ属を指す植物名ですが、フサアカシア(アカシア属)の葉がオジギソウのものに似ていることから、誤ってフサアカシアをミモザと呼ぶようになりました。
英語では「敏感な草(Sensitive plant)」、漢名では「含羞草(恥ずかしがる草)」と呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉の「繊細な感情」「感受性」「敏感」は、オジギソウの葉に軽く触れるだけで、葉が閉じ垂れ下がってしまうことにちなみます。