今日から「日本の絵画」という連載を始めようと思います。日本画と油彩画の両分野で自分が感動している絵画をご紹介するつもりです。
始めは孤高の画家、田中一村の圧倒的な日本画の世界を取り上げました。
何年も前に横浜美術館で田中一村の特別展を見た時の感動が忘られません。これが日本画なのかと思うような強烈な印象を受け圧倒されたのです。
彼は生きている間はまったく無名の画家でした。南の奄美大島に住み着いて困窮を克服しながらひたすら熱帯の植物や鳥や蝶を愛し精彩に描き上げたのです。
一生妻をめとらず、中央の画壇とも交わらず孤高を通したのです。
田中一村の生き方は凡人には真似の出来ない修行僧のような一生でした。
ですからこそ田中一村画伯の絵画は何度みても圧倒されます。
彼は1908年に生まれ、1977年に69歳で亡くなれりました。1955年のスケッチ旅行が転機となり奄美大島へ渡り1958年から住み着きました。
島では大島紬の染色工をして生計を立て絵を描き続けたのです。
しかし奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在でした。個展も実現しなかったのです。
それでは彼の日本画をご覧下さい。
如何でしょうか? 彼の絵画は精細なだけでなく構図も色彩も非常に独創的です。そして美しいのです。
ここでもう少し説明を加えることをお許し下さい。
彼はまったく無名でした。
没後に南日本新聞の紹介やNHKの「日曜美術館」の紹介でその独特の画風が注目を集め、20年前くらいから全国巡回展が開催され一躍脚光を浴びるようになったのです。
その結果、奄美大島北部の「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」が2001年にオープンしたのです。
その後生誕100年にあたる2008年には、奈良県立万葉文化館で「生誕100年記念特別展 田中一村展―原初へのまなざし―」が開催されました。
田中一村は才能ある画家でしたが生前は落選続きの不運な経歴だったのです。
一村は1908年、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれました。父は彫刻家の田中彌吉でした。
若くして南画の水墨画に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で文部大臣賞を受賞します。
1926年に東京市芝区の芝中学校を卒業し、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学しました。
しかし同年6月に中退してしまったのです。この早過ぎる中退が彼の不幸な生涯の始まりでした。
中退後は南画の売り画を描いて一家の生計を立てたそうです。
しかし彼は売り画を描いている生活に見切りをつけます。そして1931年、それまで描いていた南画と訣別します。そして1938年、千葉に引っ越しそこに暮らすようになります。
売り画と訣別後の1947年の作品「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選します。
このとき本名孝から初めて田中一村と名乗ったのです。しかし一村は川端と意見が合わず、青龍社からも離れます。
1953年、第9回日展に「松林桂月門人」として出品するが落選します。
1954年、第10回日展に出品しますが又落選です。
1957年、第42回院展に出品するがまたまた落選します。
1958年、第43回院展に出品するが落選し、中央画壇への絶望を深め、50歳の時奄美大島に移住します。
奄美大島では大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始めたのです。
しかし奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま無名に近い存在で、生前には個展も実現しなかったのです。そして1977年に亡くなりました。享年69歳でした。
画家が生前に才能を認められなかった例は非常に稀な事です。有名な例はゴッホの場合があります。
現在、日本では田中一村の日本画が高く評価され度々彼の作品集の展覧会が開催されています。
私は海外でも田中一村が高く評価されようになると信じています。
それにしても彼の一生は不遇でした。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
始めは孤高の画家、田中一村の圧倒的な日本画の世界を取り上げました。
何年も前に横浜美術館で田中一村の特別展を見た時の感動が忘られません。これが日本画なのかと思うような強烈な印象を受け圧倒されたのです。
彼は生きている間はまったく無名の画家でした。南の奄美大島に住み着いて困窮を克服しながらひたすら熱帯の植物や鳥や蝶を愛し精彩に描き上げたのです。
一生妻をめとらず、中央の画壇とも交わらず孤高を通したのです。
田中一村の生き方は凡人には真似の出来ない修行僧のような一生でした。
ですからこそ田中一村画伯の絵画は何度みても圧倒されます。
彼は1908年に生まれ、1977年に69歳で亡くなれりました。1955年のスケッチ旅行が転機となり奄美大島へ渡り1958年から住み着きました。
島では大島紬の染色工をして生計を立て絵を描き続けたのです。
しかし奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在でした。個展も実現しなかったのです。
それでは彼の日本画をご覧下さい。
如何でしょうか? 彼の絵画は精細なだけでなく構図も色彩も非常に独創的です。そして美しいのです。
ここでもう少し説明を加えることをお許し下さい。
彼はまったく無名でした。
没後に南日本新聞の紹介やNHKの「日曜美術館」の紹介でその独特の画風が注目を集め、20年前くらいから全国巡回展が開催され一躍脚光を浴びるようになったのです。
その結果、奄美大島北部の「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」が2001年にオープンしたのです。
その後生誕100年にあたる2008年には、奈良県立万葉文化館で「生誕100年記念特別展 田中一村展―原初へのまなざし―」が開催されました。
田中一村は才能ある画家でしたが生前は落選続きの不運な経歴だったのです。
一村は1908年、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれました。父は彫刻家の田中彌吉でした。
若くして南画の水墨画に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で文部大臣賞を受賞します。
1926年に東京市芝区の芝中学校を卒業し、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学しました。
しかし同年6月に中退してしまったのです。この早過ぎる中退が彼の不幸な生涯の始まりでした。
中退後は南画の売り画を描いて一家の生計を立てたそうです。
しかし彼は売り画を描いている生活に見切りをつけます。そして1931年、それまで描いていた南画と訣別します。そして1938年、千葉に引っ越しそこに暮らすようになります。
売り画と訣別後の1947年の作品「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選します。
このとき本名孝から初めて田中一村と名乗ったのです。しかし一村は川端と意見が合わず、青龍社からも離れます。
1953年、第9回日展に「松林桂月門人」として出品するが落選します。
1954年、第10回日展に出品しますが又落選です。
1957年、第42回院展に出品するがまたまた落選します。
1958年、第43回院展に出品するが落選し、中央画壇への絶望を深め、50歳の時奄美大島に移住します。
奄美大島では大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始めたのです。
しかし奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま無名に近い存在で、生前には個展も実現しなかったのです。そして1977年に亡くなりました。享年69歳でした。
画家が生前に才能を認められなかった例は非常に稀な事です。有名な例はゴッホの場合があります。
現在、日本では田中一村の日本画が高く評価され度々彼の作品集の展覧会が開催されています。
私は海外でも田中一村が高く評価されようになると信じています。
それにしても彼の一生は不遇でした。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)