後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「思い出のホテル(11)北海道のトマム」

2024年12月12日 | 旅行記

北海道へ旅では大型リゾート・ホテルのトマムにも泊りました。その雄大な自然に囲まれた高層ホテル棟と重厚ながら洒落たショッピング・レストラン街には、正直言って非常に驚きました。

巨大なトマムのホテルをご紹介いたします。トマムは札幌から東へ140Kmの所にあります。北海道勇払郡占冠村 です。

私どもが泊まった時はトマムは満員でした。修学旅行の学生が大勢泊まっていました。そして地元の若い人々が多数働いています。北海道を出なくても働き口がこんなにあるのです。地域経済にとっても大成功です。しかしトマムには挫折の悲劇があったのです。そして後をついだ会社の血と汗のにじむような営業努力で再生しているのです。トマムは平日でも776部屋もある高層ホテルが満員でした。

北海道の大型リゾートは過疎化の激しい村がデベロッパーと組んだ第三セクターとして出発するケースが大部分のようです。しかし悲惨な倒産の運命を経験します。そして経営者交代で再生しています。トマムも地元の占冠村と宮城県の関兵精麦株式会社が開発をはじめましたが、やがて倒産します。そして2005年以降は株式会社星野リゾートが再生し、運営にあたっています。雲海テラスなど趣向を凝らして集客に努めています。

このように書くと倒産は単なる経営者の交代のように見えますが、その悲劇の規模は大きく、再生の道までは紆余曲折があるのです。アルファ・トマムという言葉で検索してWikipedeaの項目をご覧下さい。溜息の出るような大変な悲劇が続いています。裁判沙汰も含まれます。

観光客として北海道の自然の豊かさを楽しんで、洒落たおみやげを沢山買って、帰って行く本州の人々の群れを見て、自分もその一人として何か複雑な気持ちで、頭を垂れてしまいます。トマムのホテルの施設の写真で紹介致します。

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大規模で贅沢なリゾートホテルのトマムの巨大なホテルをご紹介いたしました。これも感動的なホテルでした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「写真でご案内する晩秋の八ヶ岳への小さな旅」

2024年10月30日 | 旅行記
今日は以前に行った晩秋の八ヶ岳の小さな旅を写真にしたがってご案内したいと思います。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

1番目の写真は甲州街道の台ケ原宿から清春美術館へあがる途中の雑木林の紅葉の写真です。
八ヶ岳の麓は清里から甲斐大泉、長坂、白州、須玉、武川と広大な北杜市という市になっています。その標高の低い地域は一面の紅葉した雑木林に覆われているのです。それは華麗な眺めでした。

2番目の写真は清春美術館の写真です。白樺林の奥に見える低い建物が美術館で、左の建物がルオー記念礼拝堂です。白樺林はすっかり落葉して冬のたたずまいでした。

3番目の写真は小海線の清里駅から少し登った「美し森」からの夕焼けの写真です。
晩秋の夕方で人影がありません。夕日の空の色のうつろいを30分ほども眺めていました。風も無く静寂の世界でした。

4番目の写真は宣教師のポール・ラッシュが作った清泉寮の売店の写真です。ジャ-ジー種の牛乳で作ったソフトクリームが有名です。
この売店の裏側に礼拝堂もある清泉寮の新館とポール・ラッシュ記念館があります。
宣教師のポール・ラッシュはケンタッキー州出身のアメリカ人です。立教大学の先生をしながらアメリカン・フットボールを日本へ導入したことで有名です。

5番目の写真は何度も泊まった甲斐大泉駅のそばの「八ヶ岳ロイヤルホテル」の写真です。
このホテルを特にご紹介する理由は、宿泊料の割には部屋も、夕食、朝食もサービスが非常に良かったからです。

次の日は白樺湖、車山、蓼科湖、諏訪湖を巡る旅をしました。
あまり長くなりますので今日はここで終わりといたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ホテルの思い出(12)北海道のキロロのホテル・ピアノ」

2024年09月17日 | 旅行記

今日は大規模で贅沢なリゾートホテルの北海道のキロロのホテル・ピアノをご紹介いたします。

日本が高度成長していた頃に設計され建設された驚異的な施設です。

2010年の6月に行き、感動しましたので、何度かキロロのホテル・ピアノに泊りました。

キロロはアイヌ語で「心」を意味するそうです。小樽から毛無山峠を越して、深い山に入った北海道余市郡赤井川村にあります。

ホテルの部屋も広く、インテリアも落ち着いています。食事も美味しかったです。ホテルから続くレストラン街も良い雰囲気でした。そんな風景を下に写真で示します。

まず2010年の6月の新緑の頃に撮った2枚の写真を示し、その下に晩秋の風景写真を2枚示します。季節によって風景が変化している様子をお楽しみ下さい。アクセスや宿泊料など詳しくは、http://www.kiroro.co.jp/  をご覧下さい。

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084  上が6月の新緑の頃で、下が10月の晩秋の頃の写真です。最初の白樺林の写真と下の最後の落葉してしまった白樺林の写真は同じ所を撮ったものです。


「長崎の五島列島はカトリックの巡礼地」

2024年09月10日 | 旅行記
日本のカトリックにとって五島列島は巡礼地と私は思っています。
日本の全てのカトリック教会はローマ法王へ直属していますので「日本の本山」というものはありません。
しかし私は長崎の大浦天主堂が「日本の本山」だと思っています。日本を訪問したフランシスコ教皇も長崎へ巡礼の旅をなさいました。
五島列島には江戸時代に隠れキリシタン達が沢山住んでいたのです。明治時代になって禁教が解けた以後に隠れキリシタン達が美しい教会をたくさん作ったのです。
数年前、私は家内とともにこれらの美しい教会を巡る旅に行ったのです。それは隠れキリシタン達を偲ぶ巡礼の旅でした。
そこで今日は美しい五島列島の風景写真をお送りしようと思います。風景写真は「 五島アルバム 」からお借りしてここにお送りいたします。
 https://gotoproject.jp/photographer/photo-minewaki/ 

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


「岐阜県の魅力、江戸時代そのままの高山市と郡上八幡の盆踊り」

2024年08月08日 | 旅行記
高山市には旧懐の情がかきたてられます。江戸時代そのままの景観に感動して3回訪れました。
郡上八幡の盆踊りは楽しいです。つい踊りの輪に入って踊りました。盆踊りは初めての体験でしたが大勢の輪に入って見様見真似で踊ってみると実に楽しいものです。
今日は江戸時代そのままの店が並ぶ飛騨高山と郡上八幡の盆踊りをご紹介いたしたいと思います。
まず江戸時代そのままの店が並ぶ通りと郡上八幡の盆踊りの写真をお送り致します。
写真はインターンットからお借りしました。

1番目の写真は飛驒山脈と高山市の風景です。槍ヶ岳や穂高岳なども見えます。また高山市に入るためには安房峠や野麦峠を超えなければなりません。

2番目の写真は江戸時代そのままの高山市の風景です。観光客がまだいない朝の風景です。

3番目の写真は観光客がいっぱいいる昼間の風景です。店店が営業していて繁盛しています。

4番目の写真は夜の静かな風景です。泊まって夕食後に散歩すると昼間とは違った雰囲気です。

5番目の写真は郡上八幡の盆踊りの写真です。若い娘が活発に踊ります。

6番目の写真は郡上八幡の静かな情緒深い盆踊りの写真です。

7番目の写真は通りの裏の広場の踊りの風景です。全国から来た観光客が一緒になって踊っています。

少し説明を加えておきます。
高山市は江戸時代以来の城下町で、幕府領となっていました。飛騨郡代が支配していたのです。商家町の姿が当時のまま保全されています。その景観から「飛騨の小京都」と呼ばれています。
観光ガイドでは飛騨高山と記され、全国各地から毎年非常に多くの人が観光に訪れてます。
ミシュランの実用旅行ガイドでは必見の観光地として3ツ星を獲得しています。
実際に通りをゆっくり歩いていると旧懐の情がわき上がり趣の深い町です。

次に郡上踊八幡踊りの説明をお送り致します。
郡上踊八幡踊りは2022年にユネスコ無形文化遺産に登録されました。
江戸時代から約420年間この地で踊り継がれてきた「郡上おどり」は、見て楽しむのではなく参加して楽しむものです。
誰でも気軽に輪の中に入って手や足を動かしているうちに踊れるようになるのです。
地元の人も観光客もみんな一緒に輪に入って踊ります。三味線・太鼓・笛・唄囃子に下駄の音で踊ります。
「郡上の夏はおどりに始まり、おどりに終わる」と言われるように、30夜以上のロングランなのです。踊る場所は一夜一会場で、あちこちの縁日・祭りにちなんで行われ、この町の歴史や伝統を感じながらひと夏で市街を一巡します。
時には数千人が一団となり、音頭や囃子に合わせて手拍子を整え下駄を鳴らしながら踊る姿は壮観です。私も妻と一緒に踊りの輪に入って踊りました。盆踊りは初めての体験でしたが踊れるようになったのです。

今日は江戸時代そのままの店が並ぶ高山市と郡上八幡の盆踊りをご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「長野県出身の善光さんと飯田市と長野市と甲府市の善光寺」

2024年08月03日 | 旅行記
善光寺は3つあります。飯田市と長野市と甲府市の善光寺です。私はこの3つを参拝しました。何故か幸福感につつめる良い雰囲気のお寺です。
そんな訳なので善光寺を建てた善光さんのことを書きたいと思います。
今から1400年ほど前、現在の飯田市郊外(信州麻績の里)に本多善光(よしみつ)さんという人が住んでいた。
ある時、善光さんが都へ帰る国司について行った。ところが難波の堀の中から一光三尊の像を見つけて、それを拾い上げ、持ち帰った。
自宅の臼の上に像を祀り、拝んでいたところ、台座の臼が光り輝いた。それで座光寺(善光寺)を作ったという(推古天皇10年)。
それから41年ほどして皇極天皇元年に勅命によりご本尊を長野へ移し、現在の長野、善光寺が出来た。
移転した善光寺のあとには以前のご本尊と同じ形の木像をつくり、座光寺を存続させた。そのような経緯から、座光寺は元善光寺とも呼ばれるようになった。長野へ引っ越したご本尊は毎月15日には飯田の元善光寺へ帰り、麻績の里人を守ると信じられている。

簡略に言えば、善光さんが偶然、難波の堀から拾ってきた仏像で座光寺を作った。人々はその寺を善光さんが作ったので善光寺と呼んだ。ところが41年後、勅命によって善光寺は長野へ引越ししてしまった。残った寺には以前と同じ形の木像を祀り、元善光寺と呼ぶようになった。(現在はその付近の地名を座光寺という)

さて甲府市にも立派な本堂を誇る善光寺がある。この三つ目の善光寺は長野の善光寺が出来てから、約800年位後に武田信玄が長野を攻略、占領したときに権力を用いて善光寺をご本尊とともに甲府に持ってきたものである。しかし、武田家の滅亡後、ご本尊や数々の寺宝は長野の善光寺へ返された。
甲府の善光寺誕生の経緯はあまり自慢に出来ないようなことではあったが、甲州の人々の仏様を信仰する篤い気持ちによって甲府の善光寺も立派に存続しています。
三つの寺とも善光さんの木像が安置されていますが、珍しく思ったのはどれにも夫人の像が同じ大きさで並べられていることです。
私は三つの善光寺を廻り終わって、色々な感慨を持ちます。その一つは素朴な信仰心の美しさが三つの善光寺を支えてきたということです。善光寺は仏教のどの宗派にも属せず、人々の信仰だけで存続してきたのです。
簡単ですが、飯田市と長野市と甲府市に3つの善光寺ある理由を説明しました。
添付の写真は長野市の善光寺です。

1番目の写真は県長野市元善町491にある善光寺です。本尊は日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)で絶対秘仏です。この本堂は国宝です。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%85%89%E5%AF%BA です。

2番目の写真は長野市の善光寺の山門です。自分で撮った写真です。

3番目の写真は善光寺の塀と本堂です。

4番目の写真はお寺の中にある戒壇入り口です。自分で撮った写真です。

「沖縄周辺に散在する離島への旅」

2024年08月01日 | 旅行記
沖縄ぼ周辺には実に数多くの離島が散在しています。ある離島愛好家それらの沖縄の離島を訪問した旅日記の抜粋をご紹介致します。
詳しくは、https://okinawa-labo.com/ishigakiisland-isolatedisland-12561 をご覧下さい。
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「石垣島からゆく離島めぐり!9島紹介&体験レポ」

沖縄をとことん満喫したいなら、離島トリップが最適です。
「これぞ沖縄!琉球!」という町並みや、(ありきたりな表現ですが)夢のような美しさの海・緑・星空が楽しめます。
石垣島離島ターミナルからは毎日何便もの離島往復船がでていて、とっても手軽に離島めぐりが楽しめるんです。
行けるのは八重山諸島の9島。石垣島は、美しい島々からなる「八重山諸島」の中心的な島。ここからは9つの島に渡ることができます。
西表島(いりおもてじま)
由布島(ゆふじま)
竹富島(たけとみじま)
小浜島(こはまじま)
黒島(くろしま)
波照間島(はてるまじま)
鳩間島(はとまじま)
新城島(あらぐすくじま)/別名:パナリ島
与那国島

一泊推奨の島も
西表島・竹富島・小浜島・黒島・波照間島・鳩間島

・由布島
…西表島から水牛車で渡ります。干潮時は歩いて渡ることもできるくらいの距離です。
・新城島
…日帰りツアーへの参加、もしくは島内唯一の民宿に宿泊予約をして、宿に船の手配をしてもらうことで行けます。観光客向け定期就航便はなく、日帰り訪問できません。
・与那国島
…飛行機かフェリーかを選べますが、おすすめは飛行機です。
飛行機はJALグループのJTAが運航しており、一日3往復。欠航はほぼ無く、フライト時間は30分ちょっとです。

最後に4枚の風景の写真をご紹介いたします。
詳しくは、https://okinawa-labo.com/ishigakiisland-isolatedisland-12561 をご覧下さい。




「伊豆半島の稲取温泉とキンメダイの写真」

2024年07月05日 | 旅行記
若い頃は生活に追われていましたが中年になると余裕が出てきました。はじめに伊豆半島の東の入り口の稲取温泉へ行きました。稲取の銀水荘に泊まりました。
伊豆半島はその後何度も行きましたがはじめは稲取温泉でした。
伊豆半島の稲取温泉と特産のキンメダイの写真を紹介したいと思います。
1番目と2番目の写真はインターネットからお借りしました。3番目と4番目の写真は自分で撮った写真です。

1番目の写真は高台から見下ろした稲取の漁港です。
初めて泊まった旅館からの眺めと同じような風景です。
この稲取漁港はキンメダイで有名な漁港です。魚の干物専門の徳造丸本店からキンメダイの干物を買って来ました。
2番目の写真は稲取漁港に水揚げされるキンメダイです。
3番目の写真はキンメダイやアジを取りに行く漁船です。
4番目の写真は稲取漁港に舫う漁船です。
 
今日は中年になってはじめに泊まった稲取温泉が懐かしいのでその写真をお送り致した。高台にある稲取の銀水荘に泊まりました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「懐かしいカトリック韮崎教会の思い出」

2024年06月09日 | 旅行記

旅に出ると時々教会に寄ります。その地方の人々の気持ちが分かるようで楽しいのです。

今日は懐かしいカトリック韮崎教会の思い出を書いてみたいと思います。2012年のことでした。

山梨県の甲斐駒の麓の小屋へ行く途中にあるカトリク韮崎教会の思い出です。

その教会の庭で神父さんらしい若い人が花壇の手入れをしていました。ちょっとお祈りさせて下さいと挨拶をしました。どうぞ、どうぞ。何処からいらっしゃいましたか?東京です。旅先では時々教会による習慣があるものですから。どうぞごゆっくり。

下に御堂の中の写真と、信者さん達の集合写真を示します。

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1番目の写真はカトリック韮崎教会の内部です。

中は立派な教会です。机の下のお祈りの冊子を手にとって、主の祈りを唱えました。ついでに信仰宣言も。

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2番目の写真は窓と窓の間にはイエス様の道行きの彫刻が掛けてある様子です。

玄関にこの教会のメンバーの集合写真がありました。堅信式の折の写真です。

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3番目の写真はカトリック韮崎教会の堅信式の記念写真です。

若い人々や子供が多い教会です。活気があります。地方は過疎で老人が多いと思っていましたが、この教会は圧倒的に若い人々が多いのです。

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4番目の写真は隣接した韮崎カトリック幼稚園の朝礼の風景です。

フェンスの傍で子供達を遊ばせていた女の先生がニッコリ挨拶をします。私は思わず、「随分と子供の数が多いのですね。東京では幼稚園児が少ないですよ」と言いました。先生はうなずいてニッコリして、「230人います」と答えます。

教会に寄ったおかげで韮崎の人々と交流が出来たような気分になります。

それにしてもこの幼稚園は良い場所にあります。隣が県立韮崎高校でその隣が市立小学校で、その向こうに中学校があります。周りには大型のスーパーやホームセンターなどがあります。こんな地方都市は空気も新鮮だし住んでみたいなと思いながら山林の中の小屋へ向かって悪路を登って行きました。

 

今日は懐かしいカトリック韮崎教会の思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。 後藤和弘


「川物語(4)千曲川と藤村記念館のある懐古園」 

2024年05月21日 | 旅行記
千曲川は長野県、埼玉県、山梨県の3県の境にある甲武信ヶ岳にその源にして、佐久、上田の2つの盆地を経て長野市のある善光寺平で犀川と合流します。犀川は新潟県に入ると信濃川と呼ばれ日本海へ流れ出ます。千曲川と呼ばれている部分は214 kmです。
1番目の写真は千曲川です。写真の出典は、https://stock.adobe.com/jp/search?k=%E5%8D%83%E6%9B%B2%E5%B7%9D です。
千曲川と言えば藤村の「千曲川旅情の歌」を思い出します。
藤村は明治の後半に7年余、小諸の私立学校の先生をしながら「千曲川旅情の歌」を作ったのです。
私どもも小諸に旅をしました。小諸は美しい城下町です。すぐ後ろに浅間山が悠々と広がり眼下には千曲川が碧く光っています。何となく詩情を感じさせます。
特に城跡は懐古園としてよく当時のままに保存され、本丸の脇の藤村記念館には多くの写真や肉筆の書が展示してあるのです。
千曲川を見下ろす崖頭の上の展望台の脇に「千曲川旅情の歌」を刻んだ碑があります。
下にこの詩情豊かな作品と私が撮って来た小諸城の大手門などの写真を示します。
 
千曲川旅情の歌      島 崎 藤 村
http://www.geocities.jp/sybrma/292chikumagawaryojounouta.html より。
   一
小諸なる古城のほとり 
雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡邊
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に滿つる香(かをり)も知らず
淺くのみ春は霞みて
麥の色わづかにし
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ

暮れ行けば淺間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
 草枕しばし慰む 
以下は、http://www.geocities.jp/sybrma/292chikumagawaryojounouta.html にあります。
まお上記の「千曲川旅情の歌」の本文は、岩波文庫『藤村詩抄』(昭和2年7月10日第1刷発行、昭和45年4月10日第48刷発行)によりました。       
 
島崎藤村(1872~1943年)は本名、春樹です。木曾馬籠まごめ(岐阜県中津川市)に生れました。明治学院を卒業します。その後、詩集「若菜集」などでロマン主義的詩風で活躍しました。小説も書きました。「破戒」によって作家の地位を確立します。「春」「家」「新生」「嵐」などの自伝的作品を書きます。
有名な「夜明け前」は大作です。その他、「幼きものに」「ふるさと」などの童話も書きました。  
 手元にある参考書をあげておきます。
吉田精一著『日本近代詩鑑賞 明治篇』(新潮文庫、昭和28年6月5日発行、昭和29年8月10日3刷)
吉田精一著『鑑賞現代詩 I (明治)』 (筑摩書房・1966年10月20日新版第1刷発行、 1968年2月10日新版第2刷発行) 
関良一著『近代文学注釈大系 近代詩』(有精堂、昭和38年9月10日発行、昭和39年12月20日再版発行)
吉田精一・分銅惇作・大岡信 編『現代詩評釈』(學燈社、昭和43年3月20日初版発行)
小海永二編『現代詩の解釈と鑑賞事典』(旺文社、1979年3月1日初版発行、1980年
第2刷発行)
2番目の写真は小諸城の一番重要な追手門の写真です。
この門は上越線の線路を越えた小諸駅の北口公園にあり江戸初期の建造物です。国の重要文化財です。懐古園の扁額のある三の門からは300m位も離れていて小諸城の規模の大きさが伺えられます。家内が走っていって撮って来た写真です。
3番目の写真は懐古園の扁額です。三の門からは300m位も離れていて小諸城の規模の大きさが伺えられます。家内が走っていって撮って来た写真です。
4番目の写真は城内の石垣です。
5番目の写真は城跡の崖の上の展望台から見下ろした千曲川です。
6番目の写真が藤村記念暗です。
7番目の写真は懐古園の扁額が掲げられた三の門です。
 
今日は「川物語」の(4)として千曲川をご紹介致しました。そして藤村記念館のある懐古園について詳しく書きました。懐古園は以前訪問した懐かしいところです。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
 

「軽井沢の風景写真真の追加」

2024年02月06日 | 旅行記
軽井沢は明治19年に宣教師のショーが別荘を作ってからいろいろな外人宣教師が避暑に訪れ有名になりました。そのような経緯があるので軽井沢にはハイカラな雰囲気があります。
それはさておき、軽井沢家内が撮った写真で追加して示したいと思います。

1番目の写真は軽井沢の雲場池です。
軽井沢で私が好きなところは雲場池です。十年一日の如く、何時行っても静寂につつまれています。何十年と変わらぬ風景に会うと何故か心が深く休まります。

2番目の写真は旧三笠ホテルです。営業はしていませんが明治期のホテル建造物として公開しています。駐車場が少し離れているのが残念です。

3番目の写真は軽井沢に行くとよく昼食を食べたイタリアン・レストランです。名前はリストランテ・エ・バール・アルソーレと長い名前です。味は美味でした。

4番目の写真は万平ホテルです。ここも昔よく行ったところです。明治時代のクラシック・ホテルの雰囲気が漂っていました。

5番目の写真は万平ホテルのメイン・ダイニングルームの前の廊下にあるステンドグラスです。館内は伝統的な古いホテルの内装になっていて落ち着いた空気が流れています。食事も古風なフランス料理で、サービスが行き届いています。
軽井沢にはジャムの沢屋やハム・ソーセージの腸詰屋など美味なものを売っている店があります。

6番目の写真は旧軽井沢銀座です。若い人々に人気があり、何時行っても多くの若い人で賑わっています。家内とともに往復して買い物を楽しみました。
そして実はこの旧軽井沢銀座を真っ直ぐ山に登ると旧碓氷峠に出るのです。車で登と10分位で峠に行けるのです。峠には茶店や神社がありましたが店は閉まっていました。峠まで来る観光客は少ないのでしょう。

12番目の写真は別荘の庭に巨木が茂っている様子です。

写真をご覧になりながら高原の軽井沢を散策しているような気分になって頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============
軽井沢の歴史:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%BD%E4%BA%95%E6%B2%A2
江戸時代には、五街道のひとつ中山道が通る宿場町であり、中山道の難所のひとつとして知られる碓氷峠の西側の宿場町として栄えていた(碓氷峠は、江戸よりの隣の宿場町、坂本宿との間)。軽井沢付近には軽井沢宿(旧軽井沢)のほか、沓掛宿(中軽井沢)・追分宿(信濃追分)が置かれていた(この3宿をまとめて「浅間三宿」という)。また、浅間山を望む景勝地としても有名であった。
※ 関連 江戸← 坂本宿 - 碓氷峠 - 軽井沢宿 - 沓掛宿 - 追分宿 - 小田井宿 →京
江戸時代が終わり明治時代に入ると、一旦は宿場町としての機能を失って没落した。しかしその後、1886年(明治19年)にカナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーがたまたま訪問し、高林薫平の居宅を借り受けて7月から8月まで滞在し、故郷のトロントと似ていると感じた。
1888年(明治21年)、ショーは「つるや」(現在のつるや旅館)の主人の佐藤仲右衛門のあっせんによって大塚山に別荘を設け、避暑地としての軽井沢の歴史を切り開いた。別荘第1号は、民家を移転し、改造したものである。後に移築され、ショーハウス記念館としてショー記念礼拝堂の裏に現存する。
以下省略します。

「嗚呼、懐かしい旧軽井沢の面影」

2024年02月06日 | 旅行記

軽井沢は若い頃から憧れの高原の町でした。多くの随筆や小説に書かれていました。結婚した妻も文学が好きで軽井沢を訪ねていました。 行ったことも無いのに懐かしい感じがする所でした。

1961年に結婚し忙しい新婚生活が続きます。それが過ぎやっと気持ちにゆとりが出来たのは1970年頃からでした。それ以来、軽井沢を何度か訪問して散策しました。

今日は高原にある軽井沢のあれこれをご紹介したいと思います。
軽井沢で毎回、よく行ったところは雲上池、旧三笠ホテル、カトトリック教会、万平ホテル、そして軽井沢タリアセンなどでした。
木造の教会、テニスコート近辺や別荘地付近を何度も散歩 しました。旧軽井沢の面影を求めて、静かな時を過しました。万平ホテルの天井の高い古風なダイニングで昼食を食べました。昭和初期に帰ったような気がします。
それから軽井沢タリアセンは特筆したい所でした。いろいろな文学関係の記念館や美術館が塩沢湖という美しい湖を取り囲んでいます。芝生の広場には子供向けのロバや馬車があり、湖ではボート遊びも出来るのです。洒落たレストランもあります。明るい子供のための遊園地でもあるが、文学関係記念館は大人向きです。

深沢紅子野の花美術館、明治44年館、ペイネ美術館、夏の家(レーモンドのアトリエ)、有島武郎の旧別荘、堀辰夫旧山荘、野上弥生子書斎、軽井沢高原文庫などが湖を取り囲む白樺の疎林のなかに散在しています。建物そのものが旧軽井沢の面影そのものであるだけでなく、展示品からは、明治、大正、昭和の時代の香気が立ちのぼっています。それにしても昔の文学者は命をかけて書いていた。なにか悲壮な感じする。

その中で、ホッとするのが深沢紅子野の花美術館。紅子は盛岡出身の画家。素朴で可愛い草花のスケッチ風の絵が楽しい。古い絵だが古く感じさせない。これは家人のお好みの画家の一人だ。山へ行くと家人が野草の花々の写真を熱心に撮っている。写真の感じが自然と紅子と同じようになっている。でも本人は気付いていない。

軽井沢は近年、旧軽銀座や巨大なアウトレットが有名になり、訪れる若い人々も多い。旧軽銀座通りに群れる若者を非難がましく書く知識人が居る。しかし奥の方の別荘地を静かに散策している若いカップルも多い。旧軽井沢の雰囲気を楽しんでいるのだ。旧軽井沢の魅力は年齢に関係なく楽しめる。


 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は軽井沢タリアセンターです。

2番目の写真はの文学館と展示です。
3番目の写真は家内が撮ったカトリック教会です。
4番目の写真はカトリック教会の内部です。
5番目の写真は軽井沢の別荘地です。

6番目の写真は昔風の腸詰屋です。昔のソーセージの味を守っています。

今日は何度も訪れた軽井沢をご紹介致しました。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 


「三浦半島、観音崎へ一泊の小さな旅」

2024年02月01日 | 旅行記

 三浦半島の観音崎に一泊し、浦賀、久里浜、津久井 浜、剣崎、三崎、城が島、佐島、葉山と、三浦半島の突端から西海岸を丁寧にドライブしたことがありました。浜辺を歩いたり、城が島公園を散策したりして、悠々とした海の風景を楽しんだのです。

家内は例によって浜辺を走りまわっていました。それにしても三浦半島は冬でも温かく、コート無しで散歩できたのです。

観音崎の灯台の写真と海の風景の自分で撮った写真をお送り致します。

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「五島列島はカトリック教徒の巡礼地です」

2023年07月09日 | 旅行記
日本のカトリックにとって五島列島は巡礼地と私は思っています。
日本の全てのカトリック教会はローマ法王へ直属していますので「日本本山」というものはありません。
しかし私は長崎の大浦天主堂が「日本本山」だと思っています。フランシスコ教皇も長崎へ巡礼の旅をなさいました。
明治時代になって禁教が解けた以後に隠れキリシタン達が五島列島に美しい教会をたくさん作ったのです。
数年前、私は家内とともにこれらの美しい教会を巡る旅に行ったのです。それは隠れキリシタン達を偲ぶ巡礼の旅でした。
その美しい五島列島の風景写真をお送りしようと思います。
写真家の峰脇 英樹さんが撮った風景写真です。
彼は生れ故郷の五島列島の発展のために、「五島列島支援プロジェクト 」に献身的に貢献しています。
風景写真は彼の「 五島アルバム 」から5枚お借りしてここにお送りいたします。
なお https://gotoproject.jp/photographer/photo-minewaki/ にはもっと多数の写真が紹介してあります。他の写真もお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。




ついでに五島列島支援プロジェクトについて簡単にご紹介しておきます。
五島列島支援プロジェクトでは五島列島の地域振興活動を行っております。農水産物の首都圏流通、文化的景観保全の観点からカトリック教会の保全などを中心に活動をしてます。
詳細は以下に掲載されています。
https://gotoproject.jp/about-goto-project/ と https://www.facebook.com/gotoproject/ です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「旧懐の情をかきたてる小樽、登別温泉、そして斬新なキロロとトマム」

2023年05月04日 | 旅行記
今日から北海道への旅の思い出を書きます。旧懐の情をかきたてる小樽や登別温泉、そして斬新なリゾートホテルのキロロとトマムへの旅です。13年前頃に行った旅でした。
小樽の街は観光客でにぎわっていました。大正時代の運河を復旧し、その周りの倉庫群に数多くの土産物店やレストランを入れたショッピングセンターががあります。ガラス細工やオルゴールや北海道の魅力的なお菓子類を揃えて売っている店もあります。
しかし小樽と言えば特高に拷問を受け29歳で殺されたプロレタリア文学者の小林多喜二のことを思い出します。小樽で商業学校、高等商業専門学校を出て、銀行員になった小林多喜二は「蟹工船」を書いて特高に狙われ出したのです。この本では資本家階級に徹底的に搾取される蟹工船での労働者の悲惨さを書いたのです。小林多喜二は小樽の寿司屋へ行ったそうです。その店は現在「多喜二」という名前になっております。
その店で寿司を食べながら私の胸には何故か旧懐の情が湧き上がってきました。
家内が撮った小樽の写真をお送り致します。1,2,3番目の写真の3枚です。

 

北海道への旅では登別温泉へも行きました。
温泉の善し悪しは、一に泉質と湯量、二に周囲の景観、三に宿の華麗さ、四にサービスの質、五に料理の美味さなどで決まります。そんな尺度で言えば登別温泉は北海道一と思います。他に匹敵するのは層雲峡温泉くらいです。
日本全国でみれば登別温泉は別府温泉、草津温泉、などと甲乙つけがたいと思います。
登別温泉の場所は千歳空港から西へ太平洋岸沿いに行った所にあります。苫小牧と室蘭の間です。高速道路があり交通の便利が良い温泉です。
泊った宿は石水亭という大規模な旅館でした。部屋も良く、バイキング形式の夕食も北海道の新鮮な野菜やサケなどが豊かな味わいを添えています。温泉の湯船は広く、露天風呂からは満天の星空が楽しめました。泉質はイオウで白くなった半透明の湯でやわらかい肌触りの湯でした。
下の写真は上から順に、宿の部屋の窓からの紅葉の景観と温泉の源泉地帯の地獄谷の風景です。地獄谷から上がる蒸気の白さが周りの紅葉を一層引き立てていました。4番目と5番目の写真をお送り致します。

さて最後に斬新なリゾートホテルのキロロとトマムをご紹介したいと思います。
キロロとトマムはアメリカ流の大規模で豪華な「リゾート・ホテル」です。
ラスベガスのタホー湖のそばにあるリゾートホテルなどアメリカでは3、4回、泊ったことはありました。広い森や湖にホテル棟が散在してしてシャトルバスやカートで移動します。ショッピング街がありレストランも数軒あります。敷地にはテニスコート、水泳プール、ゴルフ場、森歩きの遊歩道、スキー場など全ての遊びの用意がしてあります。夏の間、数日から数週間泊って自然相手の悠々とした生活を家族と共に楽しむのです。
それと同じような大規模で贅沢なリゾートホテルが北海道にもあります。キロロとトマムです。日本が高度成長していた頃に設計され建設された施設です。
2012年の6月に行き感動しましたので、次の年もう一度行き以ました。
キロロはアイヌ語で「心」を意味するそうです。小樽から毛無山峠を越して、深い山に入った北海道余市郡赤井川村にあります。静かな環境でホテルの部屋も広く、インテリアも落ち着いています。食事も美味しかったです。ホテルから続くレストラン街も良い雰囲気でした。そんな風景を写真で示します。
アクセスや宿泊料など詳しくは、http://www.kiroro.co.jp/ をご覧下さい。6番目と7番目の写真はキロロです。


一方、トマムリゾートホテルは北海道中央の旭川に近くの勇払郡の占冠村にあります。星野リゾートが各地の破綻したリゾート施設を再生して出来た施設の一つです。

8番目の写真はトマムリゾートの全景です。

9番目の写真は私共が2010年6月に泊ったトマムリゾートの タワーです。自分で撮った写真です。

今日は旧懐の情をかきたてる小樽や登別温泉、そして斬新なリゾートホテルのキロロとトマムへの旅の思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)