後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「湖水の国、フィンランドの風景写真」

2024年11月30日 | ブログ
湖水の国、フィンランドの風景写真をお送り致します。
フィンランドは首都ヘルシンキは賑やかな街ですが、地方は湖水が点在する淋しい風景でした。
そんな写真をインターンットからお借りしました。
 

「2024年10月20日 年間第29主日ミサ」

2024年10月20日 | ブログ
2024年10月20日 年間第29主日ミサです。
今日はインターネットを通うして東京の「カトリック松原教会」のミサにあずかります。

写真は今日のミサの風景です。

ミサの動画配信は下記です。
https://www.youtube.com/watch?v=x2oyG-iw6oE...

〒156-0043
東京都世田谷区松原2丁目28番5号
TEL. 03-3321-0941
FAX. 03-3321-0009
matsubara-church@gray.plala.or.jp

「現在の朝鮮半島の分断の原因の朝鮮動乱」

2024年10月16日 | ブログ
現在、朝鮮半島は北朝鮮と韓国に分断されています。その原因は終戦後に起きた朝鮮戦争です。朝鮮戦争のことは昔は朝鮮動乱と言っていました。この朝鮮半島の分断は現在のアジアの軍事バランスに深い影響を与えています。日本の平和にも脅威になっています。
今日は朝鮮動乱すなはち朝鮮戦争について書きたいと思います。
朝鮮戦争は大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間の戦争でした。朝鮮半島の主権を巡る大規模な国際紛争でした。
1950年6月にソ連のスターリンと中国の毛沢東の同意と支援を取り付けた金日成率いる北朝鮮が国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略戦争を仕掛け、勃発したのです。
分断国家の北朝鮮と韓国のみならず、東西冷戦の中で西側諸国を中心とした国連軍と東側諸国の支援を受ける中国人民志願軍が交戦勢力として参戦したのです。1950年から3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化して荒廃させました。
1953年7月27日に国連軍と中朝連合軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、その後の南北二国の分断状態が続くこととなりました。
終戦ではなく休戦状態であるため、名目上は2024年になっても戦時中であり、南北朝鮮の両国間、及び北朝鮮とアメリカ合衆国などの国連軍との間に平和条約は締結されていません。
2018年4月27日、板門店で大韓民国大統領文在寅と北朝鮮朝鮮労働党委員長金正恩との間で第3回南北首脳会談が開かれ、2018年中の終戦を目指す板門店宣言が発表されたが、実現には至っていません。
ここで朝鮮戦争に関連した写真を示します。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89 です。

1番目の写真は上から時計回りに長津湖の戦いで撤退中のアメリカ海兵隊、仁川上陸作戦で上陸する国連軍、避難する韓国の難民、仁川上陸作戦で揚陸作業を行うアメリカ海兵隊、アメリカ空軍のF-86戦闘機です。

2番目の写真は韓国に到着したダグラス・マッカーサーを迎える李承晩大統領です。

3番目の写真は破壊されたソウル市内の建物です。

4番目の写真は国連軍の艦艇に避難する韓国の避難民です。

5番目の写真は仁川上陸後にソウルで戦う国連軍兵士です。

朝鮮戦争の勃発によって、アメリカ軍からの日本国内の各種企業に対する発注が急増しました。この受注によって輸出が伸び、日本経済は戦後の不況から脱することができたのです。
3年間に及んだ朝鮮戦争でのアメリカ軍を主体とした国連軍からの派兵は、最高時50万を超え、その使用した弾薬の量は、アメリカが太平洋戦争で日本軍に対して使用したそれをこえるという大規模な戦争でした。
またの朝鮮に出動した国連軍の軍事基地・補給基地となった日本に対し、アメリカ軍から多量の物資・サービスの需要が発生しました。
特需の内容は、約7割が物資調達で、当初は土嚢用麻袋・軍用毛布および綿布・トラック・航空機用タンク・砲弾・有刺鉄線などでした。
1951年7月10日の休戦会談開始以降は、鋼材・セメントなど韓国復興用資材の調達が増大したのです。
サービスでは、トラック・戦車・艦艇の修理、基地の建設・整備、輸送通信などが過半を占めていました。
それらの調達額は、3年間の累計で約10億ドルにのぼったのです。
そのほか、在日国連軍将兵の消費や、外国関係機関からの発注などの間接特需があり、これらをふくめると、特需の総額は停戦が実現した1953年までに24億ドル、55年までの累計で36億ドルに達しました。
ちなみに50年から53年にかけての1年間の通常貿易による輸出額は10億ドル程度であったから、特需の規模がいかに大きかったかが解ると思います。
詳細は、https://www.y-history.net/appendix/wh1602-013.html をご覧ください。

今日は現在の朝鮮半島の分断の原因の朝鮮動乱について書きました。朝鮮動乱は朝鮮半島の人々にとっては未曾有の悲劇でしたが日本の経済復興にとっては大きな助けになったのです。嗚呼。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ロシアと日本の大規模な戦争、ノモンハン事件」

2024年10月15日 | ブログ
日露戦争以来、日本とロシアは軍事衝突を繰り返してきた。中でも、戦車や戦闘機などの近代兵器が衝突したのは、1939(昭和14)年の「ノモンハン事件」が最初であった。
今日はこの「ノモンハン事件」について書きたいと思います。
第1次と第2次に分かれるノモンハン事件は、1932年、昭和7年に建国された満州国で、日本とソ連の大規模な武力衝突に発展した戦争であった。日露戦争以来、四半世紀ぶりの日露軍事衝突でした。
最終的に、ソ連が主張する国境線を確保したことで、ノモンハン事件は「ソ連軍の勝利・日本軍の敗北」という評価が一般的です。
この戦いで日本軍は、戦死傷者1万7364人(戦死7696人・戦傷8647人・行方不明1021人)を出したほか、戦車29両と装甲車7両を損失した。
一方、ソ連軍の戦死傷者は2万5655人(戦死9703人・戦傷1万5952人)を出した。加えて、397両もの戦車・装甲車を損失しました。
ノモハン事件の当時の写真を示します。写真はインターンットからお借りしました。

1番目の写真はノモハン事件に出動した日本軍です。

2番目の写真はノモハン事件に出動した日本軍の戦車と兵士です。

3番目の写真ははノモハン事件に出動したソ連軍の戦車と兵士です。

4番目の写真は昼食をとる日本軍の兵士です。

ノモハン事件の歴史的評価については、https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/622/622PDF/narmanda.pdf に詳細な論評がります。
その冒頭部分だけ転載します。
・・・満洲事変から日ソ中立条約が締結されるまでの日ソ関係の推移を見れば、日ソ両国は、それぞれが後ろ盾となっていた当時のモンゴル人民共和国と満洲国の国境問題をめぐって激しく対立し、ついには戦争に突入したことがわかる。すなわち、極東アジアにおける日ソ間の緊張と対立の激化の根本原因の一つが、モンゴルの国境問題、あるいはモンゴルの国際上の地位をめぐる問題であったことが理解される。それゆえモンゴルと満洲の勢力圏を画定する問題の解決が、日ソ国交調整の実現の重要な懸案であった。このあと、1939 年 9 月のノモンハン事件停戦協定のあと、1940 年 6 月の日ソ両国間の協議によるモンゴルと満洲国の国境画定を経て、モンゴルの国境問題が日ソ間でようやく解消された。そしてこれにより、日ソ両国の軍事的また政治的緊張関係が改善されることになり、その帰結として 1941 年 4 月の日ソ中立条約の締結に到るのである。
満洲国建国以来の極東における日ソ両国の確執は、日ソ中立条約によって突如解決されたもので
はなかった。それは満洲里会議にはじまり、ソ連・モンゴル相互援助条約、モンゴルの大粛清、ノモンハン戦、停戦協定、国境画定会議など、当事国であった日本・ソ連・モンゴル・満洲を巻きこんで展開された一連の政治的出来事の帰結であった。・・・

さて今日は日本のその後の運命に大きな影響を与えたノモハン事件について書きました。日本とロシアの大規模な軍事衝突でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「白馬東急ホテルに泊まって栂池高原の花畑で遊ぶ」

2024年09月15日 | ブログ
以前に白馬東急ホテルに泊まった時に近くの栂池高原の花畑で遊んだ思い出があります。
栂池高原は小谷村に広がる高原で綺麗な花畑が広がっています。
高原上部には高層湿原の栂池自然園があります。冬にはスキー場になります。
花畑の写真をお送り致します。出典は、https://www.jalan.net/kankou/spt_20486ca3470058188/ です。

「アイヌ民族と日本民族の祖先は同一人種、しかし両者の文化は違う!」

2024年08月21日 | ブログ
民族の違いを分ける場合に下記の通り2つの方法があります。
(1)生物学的に民族の特徴を見て分類する方法。
例えば白人、黄色人、黒人と分類します。すると日本人と中国人は同じ黄色人となり区別はありません。
(2)それぞれの民族の暮らし方や文化を見て分類する方法。
文化が違えば違う民族と判定します。すると日本人や韓国人や中国人と区別出来ます。
アイヌ民族と日本民族にこの2つの方法を適応するとどうなるでしょうか?
するとアイヌ民族と日本人の祖先は同じなので生物学的には同じ黄色人となり区別はありません。
しかしアイヌ民族と日本人の暮らし方や文化は第二次世界大戦の終戦までは大きく違っていました。この暮らし方や文化の違いは鎌倉時代から顕著になって来ました。
それで文化の違いからアイヌ民族と日本人は違う民族だと断定する人が多いのです。
断定してアイヌ民族を差別する人もいるのです。困ったものです。

ここで私が主張したいことは「地球上に生きているすべての民族には優劣が絶対に無い!」ことです。当然、アイヌ民族と日本人はお互いに差別すべきではないのです。

最近のアイヌ民族に関する数編の私の記事がアイヌ民族を差別していると誤解する人もいるようなので念のため書きました。

添付のアイヌ民族の写真の出典は、https://stock.adobe.com/jp/search?k=%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E6%B0%91%E6%97%8F です。

「国立西洋美術館にある松方コレクション」

2024年07月28日 | ブログ

松方コレクションは川崎造船所の社長を務めた実業家松方幸次郎 (1865 - 1950) が1916年頃からの10年余にイギリスフランスドイツ等で収集した美術コレクションです。

西洋近代絵画彫刻と日本の浮世絵が主体ですが、中世ヨーロッパ板絵やタペストリーも含んでいます。

西洋美術コレクション約3000点については散逸・焼失した作品も多いが、このうち、フランス政府から返還された近代フランス絵画彫刻等370点を基礎として、1959年に東京上野国立西洋美術館が開設されました。

特にロダンの「地獄の門」、「考える人」、ルノアールのアルジュの女とモネの睡蓮を示します。


「ドイツのシュバルトバルト(黒い森)の写真」

2024年07月02日 | ブログ

昔、シュツットガルト市に住んでいました。郊外に出るとシュバルトバルト(黒い森)が広がっていました。森の中に散歩道がどこまでも続いていました。よく家族とともに歩いたものです。
そのシュバルトバルト(黒い森)の写真をお送り致します。
写真はインターンットからお借りしました。


「中国の世界遺産の写真」

2024年06月17日 | ブログ
中国は57の世界遺産があり世界の第二位です。その幾つかの写真を示します。出典は、https://www.travel.co.jp/guide/matome/1599/ です。

1番目の写真は中国の湖南省に位置する世界遺産「武陵源(ぶりょうげん)」です。

2番目の写真は4世紀から約1000年に渡り造られた石窟が集まる仏教遺跡「莫高窟」です。

3番目の写真は田んぼのど真ん中にある世界遺産「開平の望楼群と村落」です。

4番目の写真は明と清の時代に歴代皇帝が五穀豊穣を願って祭祀を行った祈りの場所「天壇」です。

5番目の写真は清朝第6代皇帝の乾隆帝が、母親の還暦を祝って造営した北京最大の皇族庭園「頤和園」です。

「深大寺の銅造 、釈迦如来倚像(飛鳥時代)は国宝」

2024年06月15日 | ブログ
平成29年3月10日、国の文化審議会が文部科学大臣の諮問に対し、深大寺 の銅造 釈迦如来倚像(飛鳥時代)を国宝に指定することを答申しました。
深大寺釈迦如来倚像は博物館や美術館を除いて、関東の寺院所蔵の国宝仏では、鎌倉大仏に次ぐ二例目、制作年数は鎌倉大仏より約500年古く、東日本最古の国宝仏となります。

深大寺開創の天保5年(733)より前に文化の中心であった畿内地域において、作られたと考えられます。
白鳳時代(飛鳥後期645-710)同時期の傑作である奈良県新薬師寺薬師如来立像(香薬師)、奈良県法隆寺観音菩薩立像(夢違観音)と深大寺釈迦如来倚像は銅の成分が極めて近似するなど共通する部分が多く認められ、同一の工房又は同系統の工人によって作られたと考えられます。