後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「鎌倉文学館とゆかりの文士たち」

2025年03月04日 | ブログ
鎌倉に住んでいた妻の家のすぐ上に鎌倉文学館があります。
鎌倉に遊びに行ってよくこの文学館にも行きました。
その鎌倉文学館の写真を示します。
この文学館のには鎌倉文学館には鎌倉ゆかりの文士たちが作品とともに紹介してあります。
鎌倉の文士たちは文壇史に大きな足跡を残しました。
明治22年(1889年)の横須賀線開通により鎌倉は保養地としての名声も高めました。
「鎌倉文士」という言葉が使われだしたのは昭和に入ってからです。
明治から大正にかけての泉鏡花や島崎藤村、夏目漱石、芥川龍之介らが鎌倉に住んで執筆活動をしたのです。
里見と久米は互いに求心力を発揮し、後に移ってきた文士たちのまとめ役となりました。それを象徴するのが昭和8年に発足した「鎌倉ペンクラブ」です。久米らが中心となって結成されたクラブには、里見はじめ永井龍男、大佛次郎、川端康成、横山隆一、小林秀雄、島木健作ら42人の作家、文化人が名を連ねました。
このように鎌倉は近代の日本の文學で重要な町だったのです。



「3月2日(日)『年間第8主日』のミサのライブ配信」

2025年03月02日 | ブログ
今日の東響のイグナチオ教会のミサの動画配信は下記です。

【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読
シラ書(シラ 27:4-7)
第2朗読
使徒パウロのコリントの教会への手紙(1コリント 15:54-58)
福音朗読
ルカによる福音 (ルカ6:39-45)

カトリック麹町 聖イグナチオ教会
https://www.ignatius.gr.jp/index_j.html
〒102-0083 東京都千代田区麹町6-5-1

JR中央線(麹町出口)/東京メトロ 丸の内線・南北線(赤坂出口) 四ツ谷駅下車(徒歩1分 上智大学手前)
教会受付(受付時間: 9:00~19:00):
 電話 03-3263-4584



「日本の仏教の無力さを示す太平洋戦争と私自身の仏教体験」

2025年02月27日 | ブログ
日本は統計的にみて約8470万人が仏教徒であり 、全世界で3億数千万人程度が仏教徒とされていることを考慮しても、やはり一大仏教国である。約7万5000の寺院、30万体以上あるといわれる仏像は、他の仏教国と比べても桁違いに多い。世界最古の木造寺院法隆寺があり、最古の仏典古文書も日本にある。
一方、現代の日本人は特定の信仰宗教、宗教観を持っていないものが大多数であり、自らを仏教徒と強く意識する機会は少ないがブリタニカ国際年鑑の2013年度版では99%の日本人が広義の仏教徒とされている。
このような仏教国の日本が真珠湾攻撃をし太平洋戦争でアメリカと熾烈な戦争をしたのです。日本の仏教の無力さを示したのです。
以下は、私自身の仏教とのかかわりを簡略に書いたものです。私自身の仏教体験です。

1番目の写真は私の故郷の仙台市にある大きな観音像です。
さて私の父方の祖父は兵庫県のの村落のお寺の住職をしていました。それは曹洞宗の正林寺というお寺でした。

2番目の写真は曹洞宗の正林寺の石碑と鐘楼です。
正林寺は石垣の上の高台にありました、その高台の下には農家の集落が広がっていました。毎年、夏になるとお盆には施餓鬼供養という一大イベントがあります。

3番目の写真は施餓鬼供養でお経を唱えている住職さんです。

4番目の写真は施餓鬼供養に参列している人々の様子です。
お寺での施餓鬼供養が終わると、叔父の住職さんと一緒に私も檀家まわりをします。村落の一軒、一軒を回り、お盆のお経を詠んだのです。
私はこうした宗教的体験をしたのです。この体験がその後の私の宗教感に深い影響を与えたのです。
現在、私はカトリックの信者です。私は大人になってからカトリックのことを知りました。そして洗礼を受けました。この時、小さな頃にした宗教的な体験が非常に役立っていたと感じました。
私はお釈迦様を尊敬しています。玄奘三蔵法師も尊敬しています。弘法大師も大好きです。お遍路さんを尊敬しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「霧が流れる美ヶ原高原美術館の野外展示の大きな彫刻」

2025年02月25日 | ブログ
美ヶ原高原美術館は遥かに遠い天空の上の野外展示の美術館です。標高は2004mです。4万坪の屋外展示場に350点あまりの現代造形作品を常設展示しています。
1981年6月に、「箱根・彫刻の森美術館」の姉妹館として開館しました。(〒386-0507 長野県上田市武石上本入美ヶ原高原 )
この彫刻群を楽しむため一番重要なことは天気予報を注意深くしらべ、寒い雪の日、強風の日、猛暑の日は行かないようにします。
私達が訪れたのは2008年の8月5日でした。霧が流れ、幻想的な日でした。
高原の丘一面に遊歩道がひろがり世界中の作品が展示されています。すべて野外で鑑賞するために創られた大きな作品です。
美ヶ原高原美術館と箱根の彫刻の森美術館と比較すると感動のスケールの大きさは美ケ原の方が勝っています。
それでは早速、7枚の写真で霧が流れる美ヶ原高原美術館の展示作品の写真をお送りいたします。
美ヶ原高原美術館の詳細は、https://www.utsukushi-oam.jp/mp/gaiyou に出ています。
ここに示した写真の造形作品の説明板の写真は霧のため撮れませんでした。
しかし全ての展示作品のリストは、展示作品一覧、https://www.utsukushi-oam.jp/search/ にあります。
展示作品の説明は、https://www.utsukushi-oam.jp/mp/sakuhin にあります。

さて箱根の彫刻の森美術館と美ヶ原高原美術館は「彫刻の森芸術文化財団」によって建設され運営されています。
財団は、「ひろく一般に彫刻芸術に接する機会を提供するとともに、彫刻芸術の振興普及をはかり、わが国芸術文化の向上発展に寄与すること」を目的に掲げ、昭和43(1968)年9月6日、財団法人彫刻の森美術館として発足いたしました。
そして、彫刻の森美術館の開設における建設資金協賛社は国内企業173 社が出資して翌昭和44(1969)年8月1日、日本で初めての彫刻専門の野外美術館として開館しました。
財団の設立はフジテレビジョン、産経新聞社、ニッポン放送を中核とするフジサンケイグループによるもので、初代館長は故鹿内信隆(1911-1990)でした。
その後、昭和56(1981)年に長野県上田市に姉妹館・美ヶ原高原美術館を開設します。作品収蔵では内外の近代彫刻の名品群に加え、造形芸術の公募展や企画展を通じて作品収集を図って来ました。

美ヶ原高原美術館は遥かに遠い場所にありますが車で行くと途中の風景を楽しめます。中央高速で諏訪湖まで行きます。そこから白樺湖に上ります。白樺湖からは車山、霧ヶ峰、美ヶ原へと高原ずたいに風景絶佳のドライブが楽しめるのです。

皆様もこの天空の野外展示の美術館を一度訪れてはいかがでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「懐かしい山形蔵王山のスキー場の写真」

2025年02月19日 | ブログ
茫々65年前の大学生の頃、山形蔵王のスキー場に何度も通ったものです。一緒にスキーをした萩生田君は故人になってしまいました。
山形蔵王は当時は高湯と言ってました。私は仙台に住んでいたので仙山線で山形まで行き、そこからはバスで高湯まで上ったのです。そしてドッコ沼の小屋に泊まったものです。
現在、高湯は山形蔵王と呼ばれスキー場は昔のままの風景です。
その昔のままの風景の写真をお送り致します。写真はインターネットからお借りしました。


「懐かしいある友人とオハイオの思い出」

2025年02月15日 | ブログ
1960年に留学した時非常にお世話になったのが黒田さんでした。
オハイオ州のコロンバスにある州立大学に私が留学した時です。
大学の留学生受け入れ事務所に黒田さんは車で私を迎えに来てくれたのです。黒田さんはそのまま彼が住んでいた家に私を連れて行き2階の一室を私に与えてくれました。
その家にはアメリカ人の学生3人と日本人の留学生3人が住むことになったのです。部屋は別々でしたが料理場と食堂は6人一緒です。
黒田さんは男っ気の九州男児でした。6人の同居人の親分のような人でした。弱気なアメリカ人の学生を勇気づけていました。隣の家のアメリカ人一家と仲良くしていました。
私は大らかな九州男児の黒田さんと同じ家に1年間住んでいたのです。
日本から呼び寄せた婚約者とオハイオで結婚した時も披露宴などの写真を沢山撮ってくれました。
オハイオでは黒田さんたちと一緒に大学のゴルフ場に行ったりして遊びました。ダンタウンの酒場にも行きました。黒田さんは我が青春を実に楽しくしてくれたのです。
黒田さんは難しいMBAを取りました。MBAは経営学修士です。帰国後はアメリカの経営学で日本の会社の経営の世話をしていました。
帰国後に結婚し、私共も式に招かれました。そして私どもの家の近所に偶然、住むことになったのです。その家に私どもを招待してくれました。
その後いろいろな交流が生涯続いたのです。

私にとっては黒田さんは何時までも青年です。オハイオ州の州立大学に留学した時会ったままの青年です。

添付の写真はオハイオ州の州立大学の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




「ミサとは何か?」

2025年02月02日 | ブログ
レオナルド・ダ・ヴィンチの壁画に絵がかれている、キリストが12人の弟子たちと過ごした「最後の晩餐」、これがミサの起源です。その絵を示します。

「ミサとは何か?」

「パンを裂く集まり」がキリスト教徒の始めの祭儀でした。
この始めの祭儀に二世紀に「感謝の祭儀」の部分が加わりました。そして五世紀ごろから、この祭儀全体を指して「ミサ」という言葉が用いられるようになりました。

レオナルド・ダ・ヴィンチの壁画に絵がかれている、キリストが12人の弟子たちと過ごした「最後の晩餐」、これが現在のミサの次第の起源です。その絵を示します。

最後の晩餐の終わり頃にキリストはパンをとり、「これはあなたがたのために渡される私のからだである」と言い、またぶどう酒の入った杯をとり、「これは私の血の杯、あなたがたのために流される新しい契約の血である」と言って、「これを私の記念として行いなさい。」と弟子たちに命令しました。

ミサではこの最後の晩餐を再現し、カトリックの洗礼を受けた信者は、キリストのからだである「パン」をミサの終わり頃に拝領します。

キリストの復活を信じるキリスト者はキリストのからだを受けることで、日々の信仰生活の糧としています。
もちろん、カトリック信者でなくてもミサに参加し、共に聖書のことばを聴き、キリストのもとで祈ることは誰でもできます。ただし「パン」を拝領することは、カトリックの洗礼を受けた信者のみに許されています。 最後の晩餐の終わり頃にキリストはパンをとり、「これはあなたがたのために渡される私のからだである」と言い、またぶどう酒の入った杯をとり、「これは私の血の杯、あなたがたのために流される新しい契約の血である」と言って、「これを私の記念として行いなさい。」と弟子たちに命令しました。

ミサではこの最後の晩餐を再現し、カトリックの洗礼を受けた信者は、キリストのからだである「パン」をミサの終わり頃に拝領します。
キリストの復活を信じるキリスト者はキリストのからだを受けることで、日々の信仰生活の糧としています。
もちろん、カトリック信者でなくてもミサに参加し、共に聖書のことばを聴き、キリストのもとで祈ることは誰でもできます。ただし「パン」を拝領することは、カトリックの洗礼を受けた信者のみに許されています。

「木曽馬、トカラ馬の写真」

2025年01月23日 | ブログ
以前の夏に、木曾馬の牧場を御嶽山の麓開田高原に訪ねました。一泊してゆっくり木曽馬を長い時間見ていました。
長い歴史を背負った小型の馬の走り回る姿、草をはむ姿、そして何よりも人が馬を愛し、馬が世話をする人に馴れ、愛している姿を見ると自分までが幸せになるのです。
木曾馬の写真をお送りします。
1番目の写真は遊んでいる木曽馬をジッと見ている私の後ろ姿です。
2番目の写真は世話をしている若い女性が馬と何やら話し込んでいる光景です。
3番目の写真は若い女性と馬が仲良く馬小屋に帰って行く光景です。
そして木曽馬の草を食んでいる姿の動画は、https://www.youtube.com/watch?v=rwhhM9XDVUE にあります。
また木曽馬が列をなして走っている場面の動画は、https://www.youtube.com/watch?v=0ypMRcFwW1c に御座います。
さて日本の在来馬は和種馬や在来和種馬とも呼ばれ次の8種が存続しています。
木曽馬、北海道和種(北海道、俗称:道産子)、野間馬(愛媛県今治市野間)、対州馬(長崎県対馬市)、御崎馬(宮崎県都井岬)、トカラ馬(鹿児島県トカラ列島)、宮古馬(沖縄県宮古諸島)、与那国馬(沖縄県八重山諸島)の8種です。特に本州の在来種は木曽馬のみです。
4番目の写真はトカラ馬です。写真の出典は、https://www.photo-ac.com/main/search?q=%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%A9%E9%A6%AC&qt=&qid=&creator=&ngcreator=&nq=&srt=dlrank&orientation=all&sizesec=all&color=all&model_count=-1&age=all&mdlrlrsec=all&sl=ja&utm_source=tag&p=1&pt=A です。
鹿児島県トカラ列島(サンゴ礁)の中之島のトカラ馬は、通常より一回り小さい体高100-120cmほどのポニーでした。しかし農業上の利用価値が激減した現在、中之島で維持することが困難となり、島から鹿児島本土に移住しました。  現在、開聞山麓自然公園と鹿児島大学付属牧場が、トカラ馬の繁殖集団を維持しています。

私は少年の頃に馬に蹴飛ばされたことがあります。馬車馬の股くぐりをして遊んでいたとき軽く蹴飛ばされたのです。それ以来馬が怖くなったのです。
ですから馬に触ったり乗っている人を見るとその人を尊敬してしまいます。
家内を尊敬しているのは馬に乗れるからです。
皆様は馬がお好きでしょうか。馬に触れますか。跨がれますか。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「美しいブナ林の写真」

2025年01月13日 | ブログ
美しいブナ林の写真をお送り致します。
新潟県の十日市町の近くに美しいブナ林があります。松之山美人林といいます。写真をお送りいたします。樹林がお好きな方らなら、きっと お喜び頂けと思います。

1番目の写真の出典は、https://www.tokamachishikankou.jp/spot/bijinbayashi/ です。
2番目から4番目の写真は以前に私が撮った写真です 。



「豪華客船、「ふじ丸」での初島へ航海の思い出」

2025年01月09日 | ブログ
以前に大型客船「ふじ丸」で熱海の沖にある離島の初島へ東京から行きました。
今日は初島へ航海の思い出をお送り致します。
客船が初島に到着しまた。ところが「ふじ丸」が大き過ぎて初島の小さな港へ入れません。いったいどのようにして初島観光をするのか不思議でした。
そうしたら客船に搭載して行った大きい救助艇を高い舷側から海へ降ろすのです。

1番目の写真は搭載して行った救助艇です。100人乗れるそうです。
右舷と左舷に積んで行った「さざなみ号」と「そよかぜ号」を海面に降ろしたら、どこからともなく大きな台船を引っ張った船がやって来ました。
その台船を大型客船の一階の出入り口の下に繋いで、その外側に救難艇を係留します。お客が救助艇に無事乗り移れれば、初島の港へ着けます。

2番目の写真は初島に着岸したところです。
お客が周囲4kmの島を散策します。4時間後にまた救難艇に乗って本船に帰ります。そして東京まで7時間の航海で帰って来ました。
下の写真は初島の東海岸から見た日本で初めて1989年に進水した豪華客船、「ふじ丸」の姿です。
これが最後のクルーズになります。古くなったので商船三井が就航を停止して、売り出している船です。

3番目の写真は初島の東海岸から見た豪華客船、「ふじ丸」の姿です。湖の船は日本で初めて1989年に進水した豪華客船です。
熱海の沖の離れ小島の初島には東明寺というお寺がぽつんと一軒だけあります。
境内に佇み、そして時々静かに歩きまわりながら撮った写真をお送りいたします。
お寺に入ると左手に同じような墓が一列に並んでいます。

4番目の写真はお寺に一列に並んで墓です。
みんな、みんな大東亜戦争で戦死した兵隊さんたちのお墓です。
この小島から歓呼の声に送られて出征し、二度と帰って来なかった島の若者たちの墓標です。私はひとうひとつ名前を読んでいきました。帝国陸軍一等兵、伍長、曹長、などなどです・・・・少尉や中尉の字はありません。
しばらくしてから、本堂の裏手に歩いていくとそこには下の写真のように昔の無縁仏の墓石がまとめてありました。

5番目の写真は昔の無縁仏の墓石です。
島には江戸時代から41軒の家しかありません。長い年月の間にどの墓が、どの家の先祖なのか分からなくなったのでしょう。あるいは江戸城の石垣の石を切り出しに来た人々のお墓かも知れません。
気がつくと兵隊さんたちの墓のすぐ後ろには洒落た木造の小学校・中学校の校舎が見えるのです。戦前はもっと粗末な校舎だったに違いありません。そこを卒業し、漁業や農業にいそしんでいた若者たちが戦争へ行ってしまったのです。
私は最後に本堂の前の香炉に線香をあげて帰って行きました。線香のかおりが静かにながれていました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「伊勢丹新宿店 の歳の市は本館6階 催物場」

2024年12月28日 | ブログ
伊勢丹新宿店 の歳の市は本館6階 催物場にあります。
開催日時は以下の通りです。
12月27日(金)〜12月30日(月)は各日午前10時〜午後8時
12月31日(火)は午前9時〜午後5時
詳しくは下記をご覧ください。
https://www.mistore.jp/shopping/event/shinjuku_e/otoshi_10