日本人が洋画の油絵を描くとどうしても西洋人画家の模倣になってしまいます。日本には油絵の伝統が無く明治維新後に油絵の技法が入ってきたのです。西洋人画家の模倣はある程度自然な成り行きでした。
しかし芸術では独創性が命です。模倣は禁じられのです。日本人画家が油絵を描く場合には模倣をせず独自の画風を確立しなければなりません。独創的な西洋画を生み出さなければ芸術家にはなれません。日本人が油絵を描く場合はこの苦悩を乗り越えて独自の画風を確立しなければならないのです。
今日は洋画家、安井曽太郎の苦悩と独自の画風を確立した様子をご紹介したいと思います。
早速ですが安井曽太郎の油彩画8点をご覧ください。
1番目の写真はパリで描いた「孔雀と女」です。帰国後の1915年の第2回二科展で特別陳列されました。 京都国立近代美術館にあります。
2番目の写真はパリで1913年に描いた「山の見える町」です。
3番目の写真は1914年の作品で「下宿の人々」です。
4番目の写真はフランスで描いた「田舎の寺」です。此処まではフランスの画家たちの影響を強く受けていることが判るでしょう。
5番目の写真は帰国後10年ほどしてやっと独自の画風を確立して描いた「金蓉」と題した中国服を着た婦人像です。この「金蓉」からは女性の強さ、美しさが伝わって来ます。昭和9年の「金蓉」が安井曽太郎の最高の傑作と言われています。
6番目の写真は独自の画風を確立した後のバラの絵です。
7番目の写真は画風を確立した後の玉蟲先生の肖像画です。先生の内面をさぐり、その人柄まで描こうと苦心した習作が何枚も展示されていました。
1番目の写真から4番目の写真がセザンヌの影響を受けて7年のパリ在住の間にフランスで描いた作品です。
昭和初期の少女像、玉蟲先生像、凛とした和服の婦人像のころから、いわゆる曽太郎流画風が確立されたのです。フランスからの卒業です。
8番目の写真は「外房風景」です。宿から通よって何十日もかけて完成させた作品です。
さてすこし昔の話になりますが水戸市の千波湖のほとりの県立近代美術館で2005年の7月に安井曽太郎氏の油彩109点、水彩・素描35点が年代順に展示されたことがありました。安井曽太郎没後50年展でした。
曾太郎は1888年に生まれ1955年に67歳で亡くなった大正、昭和期の洋画家でした。
浅井忠に師事していたころの少年期の作品、フランスでセザンヌの影響を受けていたころの滞欧期の作品、帰国後の東洋と西洋のはざまで苦しんだころの作品、そして曽太郎流画風の確立した後の傑作の数々が順序よく、ゆったりしたスペースに展示されていました。
全国の美術館や個人所有の油彩を109点も借り出して、曽太郎氏の芸術遍歴を浮き彫りにした企画展を見て私はいろいろなことを考えました。
どの時期の作品でも、とにかく絵が抜群に上手です。彼は18歳の時パリへ渡る。
そして後期印象派、特にセザンヌの直接的な影響を受け、澄んだ青を基調にしたいかにもセザンヌ風の裸婦、フランスの風景、静物などを精力的に描く。特に裸婦のデッサン力、深みのある陰影はとても東洋人の絵画とは見えない。
ところが、帰国後数年間の画風は混乱に続く混乱である。パリで学んだ絵画精神で日本の風景、日本の裸婦、日本の静物を描こうとすればするほどバランスの取れない絵画になってしまう。私はこの混乱期の、例えば京都近郊の多くの風景画や裸婦群像などは好きにはなれない。見ているうちに苦しくなってくるのだ。
しかしその後彼は独自の画風の確立したのです。
独自の画風を確立するまでの帰国後数年間の模索と深い思索こそが、曽太郎独自の芸術を生んだのです。
西洋の絵具、画材を使い西洋風の色合いで日本画の構図や線描を交えて和洋折衷の絵画を作ることは可能です。
日本の風景、日本人モデルを用いてセザンヌ風に描くことも可能です。
しかし安井氏はそんな浅薄なことはしなかったのです。
昭和初期の少女像、玉虫先生像、あでやかな内にも強い精神性を表した和服の婦人像のころから、いわゆる曽太郎流画風が確立されて行くのです。セザンヌ、ルノアールなどからの卒業、日本画ではないオリエンタルな精神性を背景にした表現は独創的な画風を生んだのです。
昭和9年の「金蓉」と題した中国服を着た婦人像が最高の傑作と言われてます。女性の強さ、美しさが伝わって来ます。
横長の大きなキャンバスに描いた外房風景では強風の沖を、左から右へ流れるように白波が動いています。漁村の歪んだ家々が漁師一家の生を暗示しています。風景が美しいだけではなく深い余韻を感じさせます。
安井曽太郎の昭和25年の「孫」と題した少女像も傑作です。かろやかなこの絵は少女のパーソナリテイーを浮き彫りにし、その後の人生を暗示しているようです。
この50周年展では「玉虫先生像」、「金蓉」、「外房風景」、「孫」など曽太郎画風確立以後の傑作絵画の展示だけでなかったのです。曽太郎氏の画風確立までの混乱期の絵の展示が あったのです。それが無ければ彼の絵の面白みや深みが理解されないのです。
才能豊かなある東洋人が西洋の芸術を受容して帰国。その西洋の影響を脱却し独自の境地を確立するための苦悩期の作品も展示することが重要なのです。芸術の深味が分かるのです。没後五十年・安井曽太郎展を企画した方々の考えの深さに感心しました。
安井曽太郎は梅原龍三郎とともに昭和期を代表する洋画家と評されています。
そして1944年には東京美術学校教授、1952年の文化勲章受賞など、その功績が認められ画家としての成功を収めることとなったのです。
今日はパリで褒められ帰国し、その後低迷し苦悩した安井曽太郎の油彩画をご紹介致しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)