後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「カトリック小金井教会の今日のミサの風景写真です」

2021年10月31日 | 写真
今日は年間第31の主日です。
カトリック小金井教会の11時からのミサに行きました。

今日のミサの風景写真をお送り致します。


今週も皆様が健康で平和であるようにとお祈りいたしまた。




「心やすまる古いお寺のたたずまい」

2021年10月31日 | 写真
日本には全国に沢山のお寺があります。私の祖父は兵庫県のある山里のお寺の住職でした。子供の頃は毎年夏になるとそのお寺に何日も滞在しました。
その楽しかった記憶があるので古いお寺のたたずまいを見ると心がやすまるのです。
東京の郊外のあきる野市には古いお寺があります。茅葺きの広徳寺と大悲願寺です。
広徳寺は臨済宗建長寺派のお寺で室町時代の応安六年(1373年)に創建された古刹です。境内が1万2千坪もあり大木に囲まれた静かな別世界です。
大悲願寺は平安時代の末期の1191年に創建された真言宗豊山派のお寺です。
両方のお寺は草深い農村地のような場所にあります。訪れて境内をゆっくり歩いていると本当に心が安らかになるのです。この世の憂いも心配ごとが一切無くなるのです。
そんな広徳寺と大悲願寺の写真を送り致します。

その写真をお送り致します。

1番目の写真は茅葺きの広徳寺の本堂です。

2番目の写真は広徳寺の庫裏です。

3番目の写真は広徳寺の楼門です。これも茅葺きです。

4番目の写真は大悲願寺の楼門です。1613年慶長18年に建てられた後、1669年寛文9年に再建されました。東京都指定文化財です。

5番目の写真は1794年寛政6年建立の観音堂です。阿弥陀如来三尊像が安置されています。国指定重要文化財です。三尊像はいずれも木彫寄木造漆塗、平安末期の特徴をしめしています。

皆様もこんなお寺の写真をご覧になって心が安らかになるようにお祈りいたします。この世の憂いも心配ごとを一切忘れるようにお祈りいたします。

「年間第31主日 ミサの動画配信」

2021年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は10月31日で年間第31主日です。

ミサの動画配信は以下の通りです。

カトリック関口教会、10月31日10:00時
 年間第31主日ミサ 、
https://www.youtube.com/watch?v=nhPr_Inh8T4
10月31日10:00 司式 角田佑一神父様(S.J.)
入祭の歌 カ典24 主よわたしの神よ
あわれみ・栄光の賛歌 222・223
答唱 典64①③⑥ 神はわたしを救われる
アレルヤ唱 典270 31B   
信仰宣言 ニケア・コンスタンチノープル信条(1)
奉納の歌 典125 主よあなたは永遠のことば
感謝・平和の賛歌 224・225
拝領  典98 しあわせな人
閉祭の歌 カ265 しらべもたえに


聖イグナチオ教会 、10月31日10:00時
https://www.youtube.com/watch?v=tNc9ZdEaJkM
今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられ
るのも良いと存じます。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

挿絵代わりの油彩画はVirgin Mary で Giovanni Battista Salvi da Sassoferrato の作品です。大体、1640年から1650に描かれたと推定されています。(http://www.art-library.com/bible/attribute-virgin-mary.html )

Giovanni Battista Salvi da Sassoferratoは1609年8月25日生まれ - 1685年8月8日没のイタリアの画家です。バロック期の画家で、ラファエロを思わせる画風で知られています。




「日本の秘湯、蔵王の山の中の峩々温泉の紅葉」

2021年10月29日 | 写真
仙台で生まれ育ったので近くの蔵王の山の中の峩々(がが)温泉にはよく行ったものでした。当時は本当に粗末な宿でした。しかし大きな千人風呂がありました。宿は一軒だけです。
その後、宿の建物が改築され大きくなりました。しかしやはり一軒宿の秘湯です。そんな峩々温泉の紅葉に囲まれた写真をお送り致します。



「仙台の広瀬川の上流にある作並温泉の紅葉」

2021年10月29日 | 写真
この温泉場の特徴は湯舟が広瀬川の上流の岸に作られていることです。ゆうたりと温泉に漬かりながら広瀬川の清流と紅葉を眺めるのです。私は仙台育ちなので何十回と岩松旅館の広瀬川の岸の大きな湯舟につかったことを懐かしく思い出します。
そんな作並温泉の紅葉の風景写真をお送り致します。
仙台から車で40分ほどの宮城県と山形県との県境に「作並温泉」があります。寛政8(1796)年の開湯以来、仙台の人々に親しまれてきました。
広瀬川が流れる自然豊かな土地で秋には鮮やかに色づいた錦秋の山々を眺めることができます。





「秋の風景を写真に撮りながら老境を楽しむ」

2021年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム
秋になると蚊などの嫌な虫がいなくなる。気持ちよく雑木林の中を歩き回れる。見上げると秋の鯖雲が高く広がっている。ススキが風に揺れている。
見回すと茅葺きの農家や水車小屋も見える。白壁の蔵もさある。
そんな昔の農村の秋の風景を写真に撮ろうとた。昨日はそんな所を探しに行った。
家内は写真で風景を絵のように切り取る。私も自分の好みの構図で写真を撮った。
昨日撮った写真をお送り致します。こんなことをしながら老境の時が悠々と流れて行きます。無我の境地です。

場所は府中市の郷土の森公園です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「紅葉の酸ヶ湯温泉と八甲田山の写真」

2021年10月28日 | 写真
酸ヶ湯温泉は懐かしい曾遊の地です。東北の山奥にある実にひなびた温泉場です。近所の農民が湯治に来る素朴な宿があるだけです。

写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=25053017647&GroupCD=0&no=&rtm=likeimage です。
 
 

「安井曽太郎の洋画家としての苦悩と挑戦」

2021年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人が洋画の油絵を描くとどうしても西洋人画家の模倣になってしまいます。日本には油絵の伝統が無く明治維新後に油絵の技法が入ってきたのです。西洋人画家の模倣はある程度自然な成り行きでした。
しかし芸術では独創性が命です。模倣は禁じられのです。日本人画家が油絵を描く場合には模倣をせず独自の画風を確立しなければなりません。独創的な西洋画を生み出さなければ芸術家にはなれません。日本人が油絵を描く場合はこの苦悩を乗り越えて独自の画風を確立しなければならないのです。

今日は洋画家、安井曽太郎の苦悩と独自の画風を確立した様子をご紹介したいと思います。
早速ですが安井曽太郎の油彩画8点をご覧ください。

1番目の写真はパリで描いた「孔雀と女」です。帰国後の1915年の第2回二科展で特別陳列されました。 京都国立近代美術館にあります。

2番目の写真はパリで1913年に描いた「山の見える町」です。

3番目の写真は1914年の作品で「下宿の人々」です。

4番目の写真はフランスで描いた「田舎の寺」です。此処まではフランスの画家たちの影響を強く受けていることが判るでしょう。

5番目の写真は帰国後10年ほどしてやっと独自の画風を確立して描いた「金蓉」と題した中国服を着た婦人像です。この「金蓉」からは女性の強さ、美しさが伝わって来ます。昭和9年の「金蓉」が安井曽太郎の最高の傑作と言われています。

6番目の写真は独自の画風を確立した後のバラの絵です。

7番目の写真は画風を確立した後の玉蟲先生の肖像画です。先生の内面をさぐり、その人柄まで描こうと苦心した習作が何枚も展示されていました。

1番目の写真から4番目の写真がセザンヌの影響を受けて7年のパリ在住の間にフランスで描いた作品です。
昭和初期の少女像、玉蟲先生像、凛とした和服の婦人像のころから、いわゆる曽太郎流画風が確立されたのです。フランスからの卒業です。

8番目の写真は「外房風景」です。宿から通よって何十日もかけて完成させた作品です。

さてすこし昔の話になりますが水戸市の千波湖のほとりの県立近代美術館で2005年の7月に安井曽太郎氏の油彩109点、水彩・素描35点が年代順に展示されたことがありました。安井曽太郎没後50年展でした。
 曾太郎は1888年に生まれ1955年に67歳で亡くなった大正、昭和期の洋画家でした。
浅井忠に師事していたころの少年期の作品、フランスでセザンヌの影響を受けていたころの滞欧期の作品、帰国後の東洋と西洋のはざまで苦しんだころの作品、そして曽太郎流画風の確立した後の傑作の数々が順序よく、ゆったりしたスペースに展示されていました。
全国の美術館や個人所有の油彩を109点も借り出して、曽太郎氏の芸術遍歴を浮き彫りにした企画展を見て私はいろいろなことを考えました。
どの時期の作品でも、とにかく絵が抜群に上手です。彼は18歳の時パリへ渡る。
そして後期印象派、特にセザンヌの直接的な影響を受け、澄んだ青を基調にしたいかにもセザンヌ風の裸婦、フランスの風景、静物などを精力的に描く。特に裸婦のデッサン力、深みのある陰影はとても東洋人の絵画とは見えない。
ところが、帰国後数年間の画風は混乱に続く混乱である。パリで学んだ絵画精神で日本の風景、日本の裸婦、日本の静物を描こうとすればするほどバランスの取れない絵画になってしまう。私はこの混乱期の、例えば京都近郊の多くの風景画や裸婦群像などは好きにはなれない。見ているうちに苦しくなってくるのだ。
しかしその後彼は独自の画風の確立したのです。
独自の画風を確立するまでの帰国後数年間の模索と深い思索こそが、曽太郎独自の芸術を生んだのです。
西洋の絵具、画材を使い西洋風の色合いで日本画の構図や線描を交えて和洋折衷の絵画を作ることは可能です。
日本の風景、日本人モデルを用いてセザンヌ風に描くことも可能です。
しかし安井氏はそんな浅薄なことはしなかったのです。
昭和初期の少女像、玉虫先生像、あでやかな内にも強い精神性を表した和服の婦人像のころから、いわゆる曽太郎流画風が確立されて行くのです。セザンヌ、ルノアールなどからの卒業、日本画ではないオリエンタルな精神性を背景にした表現は独創的な画風を生んだのです。
昭和9年の「金蓉」と題した中国服を着た婦人像が最高の傑作と言われてます。女性の強さ、美しさが伝わって来ます。
横長の大きなキャンバスに描いた外房風景では強風の沖を、左から右へ流れるように白波が動いています。漁村の歪んだ家々が漁師一家の生を暗示しています。風景が美しいだけではなく深い余韻を感じさせます。
安井曽太郎の昭和25年の「孫」と題した少女像も傑作です。かろやかなこの絵は少女のパーソナリテイーを浮き彫りにし、その後の人生を暗示しているようです。
この50周年展では「玉虫先生像」、「金蓉」、「外房風景」、「孫」など曽太郎画風確立以後の傑作絵画の展示だけでなかったのです。曽太郎氏の画風確立までの混乱期の絵の展示が あったのです。それが無ければ彼の絵の面白みや深みが理解されないのです。
才能豊かなある東洋人が西洋の芸術を受容して帰国。その西洋の影響を脱却し独自の境地を確立するための苦悩期の作品も展示することが重要なのです。芸術の深味が分かるのです。没後五十年・安井曽太郎展を企画した方々の考えの深さに感心しました。

安井曽太郎は梅原龍三郎とともに昭和期を代表する洋画家と評されています。
そして1944年には東京美術学校教授、1952年の文化勲章受賞など、その功績が認められ画家としての成功を収めることとなったのです。

今日はパリで褒められ帰国し、その後低迷し苦悩した安井曽太郎の油彩画をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




「30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画」

2021年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム
最近この欄では東山魁夷と平山郁夫と川合玉堂の3人の日本画をご紹介しました。そこで今日は佐伯祐三の油彩画をご紹介したいと思います。印象派の絵です。
佐伯祐三と言えば彼の原画の数十枚をまとめて見たことが一度だけあります。2008年、横浜そごうデパートでの特別展でした。
油彩画の原画には絵の具が盛り上がり、画家の熱い息づかいが感じられたのです。30歳で客死した佐伯祐三の情熱が直接伝わって来るのです。
彼はパリに魅せられ狂ったように絵を描き続けました。最後は文字通り狂って彼の地の精神病院で息を引き取りました。たった10年間ほどの画歴でした。
粛然とした想いで佐伯祐三の油彩画の写真をお送りいたします。

1番目の写真は「パリ街景」です。原画の大きさは38.1×45.4cm です。

2番目の写真も「パリ街景」です。1927年作で大きさは65×81cm です。

3番目の写真は「郵便配達夫」です。1928年の作品です。原寸は80.8×65.0cm です。

4番目の写真は「ラ・クロッシュ」です。1927(昭和2)の作品で原寸は、52.5×64.0cm です。

5番目の写真は「広告“ヴェルダン” 」です。1927年作で大きさは54.0x65.0cmです。

6番目の写真は「靴屋(コルドヌリ)」です。1925年作で原寸は,72.5x59.0cmです。.

7番目の写真は「滞船 」です。1926年作で大きさは51.5x64cm です。

絵画の写真について解説は不要です。命を削るようにして描いた作品群の前では、どんな美辞賛辞も空々しくなります。
2008年、横浜そごうデパートでの特別展で一番感動した絵は3番目の写真の「郵便配達夫」でした。パリの自宅に来た郵便配達夫をモデルにして80.8×65.0cm の大きな油彩画にしたのです。彼の描いた人物画の最後になりました。彼の死後奥さんの米子が手を加えて完成したと言います。何故感動したのか分かりませんがこの大きな絵にグイグイ引きつけられたことが忘れられません。

佐伯祐三は1898年 に生まれ 1928年8月16日にパリで没しました。(https://ja.wikipedia.org/wiki/佐伯祐三 )
佐伯は大阪府西成郡中津村にある光徳寺の次男として生まれました。1917年(大正6年)東京の小石川にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事します。
1918年(大正7年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し1923年(大正12年)に卒業します。
東京美術学校の在学中に結婚した佐伯の妻・佐伯米子(旧姓・池田)も絵を描き二科展などにも入選していたのです。
佐伯はその後満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し代表作の多くはパリで描かれた絵です。
第1回のパリ渡航は1924年(大正13年)1月から1926年1月までで、約2年の滞在でした。この第一次滞仏時の作品の多くはパリの街頭風景を描いたものでヴラマンクとユトリロの影響が明らかです。
佐伯はパリに長く滞在することを望んでいたが佐伯の健康を案じた家族らの説得に応じ1926年にいったん日本へ帰国します。
2度目の滞仏はそれから間もない1927年(昭和2年)8月からであり、佐伯はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかったのです。
1928年3月頃より持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となります。
「黄色いレストラン」が屋外で描いた最後の作品で「描ききった」と家族に説明していたといいます。屋内では偶然訪れた郵便配達夫をモデルに油絵2点、グワッシュ1点を描きました。
自殺未遂を経てセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院します。
一切の食事を拒み、同年8月16日衰弱死しました。墓所は生家である大阪市の光徳寺と東京都千代田区の心法寺にあります。
現在、佐伯の作品は大阪中之島美術館50点、和歌山県立近代美術館14点など、日本各地の34か所に所蔵されているそうです。

今日は30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



「心に残る東山魁夷の「『馬車よ、ゆっくり走れ』」

2021年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム
1971年に出版された東山魁夷のドイツ旅行記の「馬車よ、ゆっくり走れ」を読むと彼の若き日のドイツへ対する強い想いが書いてあります。私の 心に焼き付いている旅の随筆集です。

昔、スケッチをした街角に立って風景を描いているときの気持ちを思い出しているのです。

1970年前後に何度か行ったドイツや北欧で馬車に乗ったようです。ゆっくり石畳を走る蹄鉄や車輪の音が若い時のベルリン留学の回想を誘ったのです。

ベルリンの冬は毎日雲が低くたれこんで暗く寒いのです。その風景が、そしてそこで学んだ宗教学や哲学が東山魁夷の絵画の精神性を深くしています。

1番目の写真は「緑のハイデルベルグ」、1971年です。

ライン河の支流ネッカー河のほとりに位置するハイデルベルク。初夏の緑に覆われた山腹の古城はドイツ・ルネサンスの重厚な面影と典雅な趣をあわせ持っています。街並みの景観の価値を重んじ、保存に努めるヨーロッパの落ち着いたたたずまいをとらえた東山魁夷の代表作です。
2番目の写真は「緑響く」です。

1972年、魁夷は突然、白い馬を描き始めた。若葉が水面に映る川のほとり、山深い木々の間、ほの暗い森の中、紅葉の木々の間など、さまざまな風景の中に馬を置いた。・・・中略・・・それが、夢の中の出来事のような18枚の絵になったのだった。http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20110730/1311973474 より。

3番目の写真は「年暮れる」です。

・・・これは生きている。屋根しか描いていないのに。人の静かなざわめきが聞こえて来る。カレンダーに描かれた彼の絵とは全く違う。荘厳な年が暮れるその姿が静かに描かれている。この画家を見直した絵である。・・・・ある人の感想文です。

出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/cksbg258/15270923.html です。

東山魁夷は東京美術学校卒業後すぐの1933年から1935年までベルリン大学に留学しました。寒くて暗いベルリンで芸術家になるための哲学、神学、美術史、ギリシャ文化、などを勉強したのです。そして盛んに絵画制作にいそしんだのです。

彼がパリではなくベルリンへ留学したことが良かったと思います。パリに行った日本人画家のように印象派の模倣をする必要が無いのです。迷うことなく独自の画風を育てることが出来たのです。

なにせドイツの有名な画家と云ったらデユーラーしか居ないのですから。暗い細密な絵画をルネッサンス期に描いたデユーラーの記念館しかないのです。あとは暗い中世の宗教画を集めた美術館が数多くあるのです。

日本では東山魁夷のドイツ留学の影響をあまり言われていません。

しかし1971年に出版された彼のドイツ旅行記の「馬車よ、ゆっくり走れ」を読むと彼の若き日のドイツへ対する強い想いが書いてあります。ドイツ留学の強い影響で彼の画風が出来たのです。

私も若い頃、ドイツに留学したので東山魁夷のドイツ留学の強い影響で彼の画風が出来たと考えています。
個人的な感想です。


「カトリック小金井教会の今日のミサの風景写真です」

2021年10月24日 | 写真
カトリック小金井教会の今日のミサの風景写真です。

今日は年間第30の主日です。

カトリック小金井教会の11時からのミサに行きました。
今日のミサの風景写真をお送り致します。

今週も皆様が健康で平和であるようにとお祈りいたしまた。






「秋風に揺れる可憐なコスモスの花の写真をお送り致します」

2021年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、三鷹市の花と緑の広場に行って撮りました。いつものように家内が一面に咲いているコスモスの花の畑の中を走り回りながら写真を撮ってくれました。
コスモスの花はフランスのMonique Fontaineさんが好きな花です。彼女は何時も「Splendide  、merci merci!」とか「トテモ キレイ アリガトウ!」と花の写真を毎回褒めてくれます。
小野田州洋さんは雨の中の紅葉の写真について次のように言ってくれました。
「雨の日かもしれませんが、ちやんとアングルを捕え撮影された画像は美しいですね。写真を撮った奥様に宜しくお伝えください。」
そして昨日は近所で会った大浜なつえさんと子供さんが親切にも私の重い荷物を私の家まで運んでくれ、「ブログを毎日見てますよ。花の写真が綺麗ですね」と言ってくれました。感謝です。
昨日は家内にそんな話をしながら秋風に揺れる可憐なコスモスの花の写真を撮って来ました。

秋も深まり朝夕は寒いくらいです。皆様お風邪そひかないようになさって下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)