後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

趣味としての宗教あれこれ(7)お茶の水のニコライ堂へ遊びに行く

2014年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム

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私の趣味の一つにい神社や寺、そして教会へ遊びにびに行くというものがあります。 

境内を静かに散歩したり、偶然お会いする神主さんや僧侶に挨拶し、少しだけお話を聞きます。誰にもお会いしなくても看板の説明書きを丁寧に読み、歴史を考えます。

数年前に、お茶の水のニコライ堂へ遊びに行きました。 

上の写真のような教会の建物を見て出てくると偶然、金田一豊さんという伝道師さんにお会いしました。是非、日曜日の礼拝のときもう一度遊びに来て下さいと言います。

言われた通り礼拝式を見に行きました。そして、ひどく感動したのです。伝統的なロシア正教の神秘的な雰囲気に圧倒されたのです。 
佛教でもキリスト教でも、とにかく宗教というものに少しでも関心のある方は、このニコライ堂の日曜礼拝を一度はご覧下さい。 
本を幾ら読んでも分からない宗教の本質的な部分が直感的に理解できると思います。
日曜礼拝のことをロシア正教の流れを汲む日本正教会では「聖体礼儀」と言います。
きらびやかな聖職者の行列と、美しい宗教音楽の極致のような混声合唱で、神への祈りと、神への従順を示しています。楽器は一切用いないのです。
人間の神を敬う深さを美しい混声合唱で進めて行く儀式で示しているのです。歌でつずる礼拝式(聖体礼儀)なのです。完璧な歌ミサなのです。
神への憐れみを願う儀式です。キリストの聖なる体の一部を(聖体)を頂くという儀式です。
日本正教の聖体礼儀は2000年前のキリストの生きていた頃のユダヤ教の礼拝式の形式を墨守してきたのです。
新約聖書は始めはギリシャ語で書かれたのです。そのギリシャ語の原典に書いてある内容を忠実に教えています。キリスト教の正統的な宗派なので正教と言います。
この宗派はギリシャからビザンチンへそしてロシアへ伝わって、幕末の1855年函館へ上陸しました。
日露戦争の時、ロシア本部から独立し、日本独自の日本正教会という宗教法人になりました。正教は国ごとに組織が独立する習わしなのです。
しかし教義と礼拝形式は2000年前の通り、一切の変更無しで、まったく同じなのです。
宗教の本質の一つは「永遠に変わらない」という性質を含んでいます。そのことをニコライ堂の礼拝式を見て、体験できるのです。
それはさておき、西ヨーロッパで16世紀の初め頃、宗教改革が起きました。
しかしヨーロッパ東からロシアに広がっていた東方正教会教会の正教会や東方典礼のカトリック教会は宗教改革の影響を受けなかったのです。
従ってその教義も儀式もイエス様が生きていた頃の古いものを忠実に保持、伝承しているのです。
そこには聖職者と合唱隊と平信徒の古風な区別があります。
神に祈る儀式の大部分は聖職者だけがします。合唱がそれを助けます。平信徒は黙って祈るだけです。祈る聖職者は祭壇の上の方を仰ぎ見て祈ります。平信徒の方へは背を向けたままです。これが古い伝統的な形です。
昔、ロシアには貴族と農奴しか居なかったと聞きます。
農奴は文盲でしたから祈祷書は読めません。代わりに聖職者が全て読みます。そんな時代の儀式を連想させるのです。
少し暗然とした気分になりました。でも次の瞬間、気が付きました。それは自分の勘違いで、会堂全体にイエス様の笑顔が見えるようです。マリア様の優しい眼差しが見えます。壁に掛けた無数のイコンのマリア様は微笑んでいるのです。
儀式の見かけ上の荘厳さは人間の弱さの表れなのかも知れません。そのように考えると、堅苦しい儀式が、実は非常に寛いだものに感じられるのです。
ロシア正教になじみのない日本人がニコライ堂の日曜礼拝をみるとき一番重要なことは、儀式の豪華さや厳粛さの中に漂う「マリア様の優しさ」や「イエス様の慈しみ」を想像しながら見ることと思います。
場違いな所に来たという感じや違和感が消えてなくなり、心から楽しめます。
宗教というものに少しでも関心のある方は是非一度、ニコライ堂の日曜の聖体礼儀をご覧下さい。本には書いてない色々なことをご発見出来ると思います。(終り)
尚、偶然お会いした伝道師の金田一豊さんにはそ後、いろいろ教えて頂きました。
以下のメールの交換がその様子を示しています。
=====金田一豊さんへ後藤から送ったメール========
田一豊さん
ハリストス我らのうちにあり
拝復、 メールを頂きまして有難うございます。
さて先日のご厚情へたいして、感謝のあまり幾つもの記事を私のブログへ
掲載しました。雑多な記事に埋もれているので、ご覧出来なかったと思います。
そこで、金田さんの事が書いてある記事を以下にご紹介にします。
お時間のあるときに是非ブログの記事の月日にしたがって記事を探して
ご覧下さい。1月には金田さんが説教する日に又参上したく思っています。
ご担当日が決まりましたならお知らせ下さい。
クリスマスにあたって金田様へイエス様、聖ニコライ様の御祝福が有りますように御祈りいたします。シルベスター後藤和弘
「山林、杜の人のブログ」の下記の記事をクリックすると記事が瞬間的に出て来ます。
(3)投稿日 2009/11/29 今日は夫婦解散、別々の教会へ行きました (金田さんの写真が出ています!)
=========金田一豊さんからのご返事===========
ハリストス我らのうちにあり
ご丁寧にありがとうございました。 
順にいろいろ拝見させていただきました。とても興味深いつくりになっていて感心していました。
今後の活躍と発展に期待していますので、どうぞがんばって下さい! お祈りしています。
ちょっときになったので補足を入れますね。
ニコライ堂の中での奉神礼においての記事で聖職者、聖歌隊、参祷者にはがあります。
なぜ区別があるかというと、その役割や立場、立ち位置なども含めて全てが教えになっているのです。正教会が伝統的に培ってきたものには全て意味があるのです。
もうひとつは、今説明したことに関連しているんですが、ニコライ堂のような大教会と地方も含めた町の教会とは同じではないということです。
例えて言うなら、ローマカトリック教会の町や地域の30人ほどが集まる教会と四谷にある1000人規模で集まる大きなイグナチオ教会とでは様々な諸事情によって全く同じ雰囲気や環境を作ることは出来ない、というのと同じことです。
正教会も地域や国によって参祷者全員で歌う教会もあります。みんなで協力しあう町の教会と役割分担をしなければならない大教会という差があるというのが実際のところです。
それから、僕の予定が決まりました。
説教は、1月3日の主日。お話は、1月10日の聖体礼儀後の軽昼食会(ニコライ会館)。それから、私事ですが、伝道会という正教会の勉強会があります。
一応、毎週木曜日の18時30分~20時30分と、土曜日の15時~17時の枠を担当しています。興味とお時間があればどうぞいらしてください。金田一豊
=======================(終り)

人生の遊び(1)山林の中に究極の趣味を追い求めて

2014年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム

人生の過ごし方は人それぞれ。仕事一筋の人生も素晴らしいものです。そのような方にとっては仕事そのものが趣味になっているのです。

しかし多くの人々にとっては仕事をしながら遊びます。その方が遊びが一段と面白くなります。同じ理由で、一生懸命に仕事をした後の老後の遊びも一段と面白いものです。

仕事をしながら趣味を楽しむためには生活に余裕が無ければいけません。そしてその遊びを許す寛容な社会や文化がなければなりません。

江戸時代までの日本では茶道や華道や柔道や剣道という具合に趣味には道という漢字がついていて人生修業の一つと考えていました。遊びという考えが許されなかった伝統がありました。

西洋の遊びとしての趣味やスポーツの考え方が日本へ流入して来たのは明治維新以後のことです。現在の日本では趣味は人生を豊かにする良いものだと考える人が多いようです。

私の究極の趣味は山林の中の小屋へ行って遊びまわることです。鹿やイノシシや猿たちも棲んでいる山林です。小さな清流にはヤマメも棲んでいます。

そのような山林の中を歩き回ったり、松風の音を楽しみます。

焚火をしたり、薪ストーブを燃やして、独りで悦に入っています。

そんなことをしていると昔の事をいろいろ思い出します。亡くなってしまった人々へ感謝の気持ちが湧いてきます。平和な気持ちになります。そして未来への明るい希望が湧いて来るのです。

こんな楽しい趣味を皆さんへも薦めたいと思い、このブログでは山林の中に土地を買って、小屋を作る方法を何度も説明して来ました。

末尾にその記事の一覧表があります。掲載年月日を示してありますのでバックナンバーから記事を開くことが出来ます。

そこで今日は山林の中に小屋を作り、40年、50年と永い間楽しむための極意を2,3書いてみます。極意というと大げさですが、長期間にわたってこの趣味を楽しむための鉄則のようなものです。下に3つの要件を書きます。

(1)木造ではすぐ朽ち果てるので鉄筋コンクリート製の小屋にする。

山林の中には小川も流れていて湿気が高いのです。畳はすぐ腐ってボロボロになります。木造では戸や窓が腐って隙間が出来、湿気が遠慮会釈なく入ってきます。本も食器もカビだらけにんばります。

そこで私は下のような小屋を1974年に作りました。

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この写真では窓に鉄製の雨戸が閉まっていますが窓は南に面していて、手前にはヤマメの棲んでいる小さな清流が一年中流れています。

下は夜の室内です。

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(2)小屋の周囲に小川があり、山林が広がっていると長期間楽しめます。

水が流れていると飲み水や風呂水の心配がありません。安堵感があります。

その上その流れの音が林間に木霊して、都会とは別世界の境地に来たという感じがするのです。下にそんな小川と林の中の小屋の写真を示します。

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上の写真の手前に見える木組みは、木をロープで固定して 電動ノコで薪にするためのものです。

(3)人里はなれた人間の来ない場所に作ると長期間楽しめます。

人里から悪路が2kmくらい続くと人が入って来ません。

最近は全国に舗装道路が完備されているので 石ころだらけの悪路を走ることに人々は耐えられません。

その悪路の奥は行き止まりになっています。悪路の入口に「この道行き止まり」という看板を出して置くと、山菜取りの里人以外はまず誰も入ってこないのです。

下にその悪路の入口と途中の雪景色の写真を示します。

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上の雪道はスノータイヤを付けた4輪駆動の車しか入れません。ラジアルタイヤでは駄目です。積雪は2週間ぐらいで消えますから、その間は無理して行かない方が安全です。

如何でしょうか?皆様も山林の中に 小屋を作ってみませんか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

====山林の中に小屋を作る方法に関する記事一覧=======

発表年月日から左サイドバーのバックナンバーの月別分類に従って記事を探すことが容易に出来ます。 

(1)2007・12・18:山林の中に小屋を作る方法(1)なぜ山林の中に小屋を作るのか?

山林の中に小屋を作る方法(2)山林の値段と買う時の注意

(3)2007・12・28:山林の中に小屋を作る方法(3)不動産業者から買う 

(4)2007・12・31:山林の中に小屋を作る方法(4)小屋の位置と庭の造り方の関係を考え楽しく作る!

(5)2008・1・11:山林の中に小屋を作る方法(5)スウェーデンの人に薦められて小屋を作る 

(6)2008・1・14:山林の中に小屋を作る方法(6)周囲の人々へ呼びかけて管理組合をつくろう! 

(7)2008・1・19:山林の中に小屋を作る方法(7)近所の農家へ挨拶に行こう!(8)2008・3・16:山林の中に小屋を作る方法(8)主になる小屋は専門業者へ頼みましょう! 

男の隠れ家をつくろう!昔から人間関係がうまく作れない。時々何処かに隠れたくなる。 

(2)2008・7・2:男の隠れ家とは?(冬枯れの山小屋) 

(3)2008・7・28:田舎暮らしの困難さ


趣味としての宗教あれこれ(6)キリスト教が犯した大罪を初めて認め、謝罪したヨハネ・パウロII世

2014年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム

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欧米人は間違ったことをしてもなかなか謝ったり、謝罪しない民族です。少なくとも多くの日本人はそのように思いこんでいます。

しかし最近、フランシスコ法王によって聖人として認定されたヨハネ・パウロ2世はキリスト教が犯した大罪を初めて認め、謝罪したのです。それはローマ法王の歴史のなかで非常に珍しい事だったのです。珍しいと言うより空前のことだったのです。

その意味でも彼はカトリックの歴史の中で前例のない巨大な善いことをしたのです。

ヨハネ・パウロ2世のこの謝罪のおかげでイスラム教徒もヒンズー教徒も、そして仏教徒も心がなごみ、そして宗教の奥深さをあらためて感じたに違いありません。

全世界の人々の心が平穏になったのです。これこそ神が人間に与える平和ではなでしょうか。

彼が実行したことを以下に整理しました。

(1)ヨハネ・パウロ2世はキリスト教の全ての宗派を再び融合・統一する努力をしたのです。

例えば聖ピエトロ寺院での祭祀にはイギリス教会(聖公会など)のカンタベリー大主教と東方の正教会のコンスタンティノポリス総主教と一緒に司祭しました。

東方の正教会とはギリシャ正教、そしてロシア正教、日本正教会などを含みます。

2000年前のイエス様のころはこれらの別々の宗派は存在しなかったのです。

そのもとの状態へ戻し、正しいあり方に復帰しようとする運動をエキュメニズム(教会一致促進運動)と言います。

ヨハネ・パウロ2世は、別々の宗派の存在がキリスト教としてあるべき状態でないという強い信念を持っていたのです。

これは仏教にもあてはめられます。日本の仏教にはいろいろな宗派があります。しかしお釈迦様が般若心経を教えたときはそんな宗派など存在していなかったのです。

(2)キリスト教が犯した大罪を認め謝罪し、神に許しの祈りを何度もした。

十字軍のエルサレム奪還の為の遠征とイスラム教徒の大殺戮、しかも同じキリスト教徒の正教徒も殺戮した大罪を認め謝罪したのです。

ガレリオ・ガレリイなどの科学者の裁判の間違いを認め謝罪したのです。

その上、魔女狩りと種々の異端裁判、宗教戦争などなど日本人の常識から見て明らかな大罪をローマ法王として始めて公式に認めたのです。

その大罪を謝罪し、その許しを神へ祈ったのです。

特に2000年(キリスト生誕2000年の大聖年)の3月の許しを求める祈りは壮絶だったそうです。体力が衰え倒れそうな体で長時間、ひざまずいて祈ったそうです。そのような疲労が重なって彼は遂に2005年に亡くなりま

人間はどんな理由でも戦争をする生き物です。

他民族を殺戮する本能を持っているからそうするだけです。

戦争はキリスト教が原因になっていないのですが、戦争の口実にキリスト教の名を利用する場合が多かったのです。

しかしヨハネ・パウロ2世の神に許しを求めた内容は2つに分けられと私は考えています。

一つは、十戒の一つの殺人を大量にした大罪。

二つめは、その殺人の正当性を主張するために、それを禁じていたイエス・キリストの名前を勝手に使った大罪です。

この二つを一緒に神の許しを祈ったのだと、私は理解しています。

ローマ法王のヨハネ・パウロ2世の日本人へのかかわりかた等については次回に書きます。

上の2枚の写真の左は1920年にポーランドで生まれ、12歳の時の写真で、右はローマ法王当時の写真です。(2005年4月2日、84歳で帰天しました)


趣味としての宗教あれこれ(5)ローマ法王の国際関係への深い影響

2014年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム

趣味として現在のローマ法王のフランシスコさんを観察してみると実に心が和む人です。人間性あふれる人物です。質素な生活が好きで、常に貧しい人々に寄り添っています。

この性格の故に世界中の多数の人々から慕われているのです。

ですからその発言や行動は世界中の国際関係にも大きな影響を与えています。

勿論、最初に断っておきますが、フランシスコさんは国際関係や政治的なことに一切興味を持っていません。絶対に一切持っていません。

聖職者はそれらとは無関係にあるべきです。毎日神様に熱心に祈っている結果として感じたことを言ったり、行ったりしているだけです。

しかし結果として国際関係や政治的な事件に影響を与えているのです。

今日はその3つの実例を下に示します。

(1)韓国の客船事故の犠牲者のために祈り、韓国人へ苦言を呈しています。

4月24日にフランシスコ法王は韓国のカトリック(天主教)の大田教区のユ・フンシク大司教と会いました。以下はその時の韓国のある新聞社の記事です。

下にフランシスコ法王様の写真を示します。

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24日(現地時間)、ローマ法王庁で天主教大田教区長のユ・フンシク主教(大司教)がフランシスコ法王に会った。ユ主教は、旅客船「セウォル号」の犠牲者を哀悼した法王の祈祷に感謝の意を伝えた。

  法王は「韓国民すべてに深い哀悼を表す。若者に会いに行く訪韓を控え、多くの若い生命の犠牲を非常に残念に思う」と述べた。また「韓国民がこの事件をきっかけに倫理的・霊的に生まれ変わることを望む」と強調した。
  (終わり)

http://japanese.joins.com/article/677/184677.html

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この記事で驚くべきことは、・・・フランシスコ法王が、「韓国民がこの事件をきっかけに倫理的・霊的に生まれ変わることを望む」と強調した。・・・という部分です。

歴代の権威的なローマ法王なら一つの国の人々だけを取りあげて、非難がましいことは絶対に言いません。あたらずさわらずの高邁な発言をするだけです。

しかし韓国の犠牲者は多数の高校生でした。しかも最後に船を離れるべき船長や乗組員が高校生よりも早く逃げてしまったのです。人間的なフランシスコさんはそのことが残念でした。怒りを感じたに違いありません。つい言ってはいけないことまで言ってしまったのです。こういう人間的なところが良いと思います。

この発言は意図しなかったとしてもこれから行われる韓国内の裁判の結果へ影響を及ぼすのが自然ではないでしょうか。

(2)ローマ法王がウクライナ暫定政権のヤツェニュク首相と会見し、万年筆を上げた。

内戦の危機が続いているウクライナの親欧米の首相と会見し、和平合意書にサインを書くための万年筆を贈ったのです。

対立している勢力の代表による和平交渉が進展し、合意文書が出来るようにという強い祈りが感じられます。

ローマ法王へ貢物を贈るのが普通です。しかし反対に万年筆を下さったのです。こいうところが質素な法王らしくて好感が持てます。

下にその新聞記事のURLを掲載しておきます。

ウクライナは75%が正教会で14%が東方典礼のカトリックだそうです。この14%が東方典礼のカトリックはローマ法王の傘下には入っていない独立宗教組織です。

今回の会見はアメリカやヨーロッパ側へ応援を送ったような影響がでます。ロシアが苦境に追いやられる効果が想像できるのです。これもローマ法王の国際関係への深い影響の一例です。

(3) ヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005年)とヨハネ23世(同1958~63年)の列聖

列聖とはカトリック界の偉い人を聖人と認定し、尊敬する制度です。日本人としては長崎で殉教した26聖人が認定されています。

フランシスコ法王はその聖人にヨハネ・パウロ2世とヨハネ23世の2人を認定したのです。

その理由は下に添付した関連の新聞記事のURLに明快に書いてあります。

さてこの列聖は国際関係にどのような影響を与えるでしょうか。

今回列聖されたヨハネ・パウロ2世はポーランド出身です。ポーランドはカトリック国ですから国民は大喜びです。

その結果、ソ連時代から酷い目にあわされたロシアに対する対抗心が燃え上がります。経済も発展しますし、NATO軍の駐留も強化されるでしょうその結果、隣国のウクライナへのロシアによる侵攻を牽制します。

勿論、ヨハネ・パウロ2世の列聖は何年も前から準備されてきたのです。最近のウクライナ情勢とは完全に無関係です。しかし結果的に影響が出るのです。

そしてヨハネ・パウロ2世の列聖はもっと、もっと大きな影響が考えられます。

彼はイスラム教との和解と推進し、過去にカトリック教会が行なった数々の間違った行動を謝罪したのです。キリスト教国とイスラム教国と戦争の回避に努力したのです。このような全世界的な平和を神に祈ったのです。

ヨハネ・パウロII世は1981年に日本にも来ました。

ヨハネ・パウロII世については書くべきことは沢山あります。しかし、今日はこれでお終いにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料========================      

(1)ウクライナ暫定政権のヤツェニュク首相との会見

http://mainichi.jp/select/news/20140427k0000m030071000c.html

  (毎日新聞 2014年04月26日 23時33分(最終更新 04月27日 01時40分))

 (ローマ福島良典)フランシスコ・ローマ法王は26日、バチカンを訪問したウクライナ暫定政権のヤツェニュク首相と会見した。ウクライナ情勢を巡り、「すべての当事者」に、暴力の回避と平和の回復を呼びかけてきた法王は、ヤツェニュク氏にペンをプレゼント。「このペンを使って和平合意が署名されるのを望みます」と語った。

 会見に先立ち、ヤツェニュク首相はイタリア紙とのインタビューで「ロシアは第三次世界大戦を望んでいる。欧州を舞台にした軍事的紛争につながる恐れがある」と述べていた。

(2)ヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005年)とヨハネ23世(同1958~63年)の列聖

   (毎日新聞 2014年04月28日 05時30分)

http://mainichi.jp/select/news/20140428k0000m030098000c.html

 (ローマ福島良典)フランシスコ・ローマ法王(77)は27日、先々代のヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005年)と第261代のヨハネ23世(同1958~63年)をキリスト教カトリックで最高の崇敬対象である聖人とする列聖式をバチカンのサンピエトロ広場で開いた。元法王が2人同時に聖人となったのは、約2000年のカトリック史上初めて。信徒に広く敬愛されていた元法王2人を聖人と宣言したことでフランシスコ法王は就任から1年余でカトリック界における求心力を一層強め、バチカンでの地歩を固めた。

 聖人は生前、イエス・キリストの教えを模範的に実行した聖職者・信徒に与えられる最高位の称号。式典には昨年2月の退位で「名誉法王」となったベネディクト16世(87)も参列、現職と前任の法王が元法王2人をたたえる前代未聞の場となった。元法王が聖人となるのは1954年の第257代、ピオ10世(在位1903~14年)以来。

 ヨハネ・パウロ2世(ポーランド出身)は在位中に129カ国を歴訪して「空飛ぶ法王」の異名を取り、東欧民主化を後押しして「ベルリンの壁」崩壊と冷戦終結に道を開いたが、教義面では保守派だった。

 一方、ヨハネ23世(イタリア出身)は親しみやすい人柄で「善良な法王」と呼ばれ、カトリック教会を現代社会に合った形に改革するため、第2バチカン公会議(62~65年)を招集し、バチカン中心主義をただすよう提唱した改革派。

 聖人に列せられるには通例、科学的に説明できない病気の回復などの奇跡2件が必要となるが、フランシスコ法王は二つ目の奇跡が認定されていないヨハネ23世について死後50年の昨年、聖人とすることを決めた。ヨハネ・パウロ2世は死後わずか9年の異例の早さで聖人となった。

 聖人となった元法王2人は20世紀を代表し、カトリック教会の2大潮流である改革派と保守派を象徴する聖職者。フランシスコ法王による2人の「同時列聖」にはバチカン内の改革、保守両派を掌握する狙いがありそうだ。近年のスキャンダルで傷ついたカトリック教会の威信を高め、現代社会で進む宗教離れに歯止めをかけたい意向もうかがえる。


今日は江戸初期に作られた玉川上水沿いの新緑の遊歩道を歩きました

2014年04月28日 | 写真

小平市の運動公園には広い無料駐車場があります。今日はそこから立川の小川橋の近くまで往復6Kmの遊歩道を散歩して来ました。

2月の大雪の時、甲斐駒岳山麓の山林のい中で転んで足を捻挫して、2ケ月間、針灸按摩整骨院に通いやっと完治しました。老齢になると怪我の直りも遅くなるのです。

今日は怪我以来、はいじめて6Kmという長距離を歩きとうしました。

別に足も痛くならないで爽快な散歩でした。

江戸幕府の残した遺産の上水のおかげで新緑の綺麗な道が羽村の堰まで続いているのです。江戸時代に工事をした多くの人々に感謝しながら歩いてきました。

道の上には下の写真のような新緑の枝が重なるように覆っていました。

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===玉川上水とは?==================

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上の写真と以下の説明の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4です。

玉川上水(たまがわじょうすい)は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水であり、江戸の六上水の一つである。また、一部区間は、現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されている。

羽村取水堰で多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)に付設された「水番所」(水番屋)を経て市中へと分配されていた。水番所以下は木樋や石樋を用いた地下水道であったが、羽村から大木戸までの約43キロメートルはすべて露天掘りであった。羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もそれぞれ武蔵野台地内の河川の分水嶺を選んで引かれている。

『玉川上水起元』(1803年)によれば、承応元年(1652年)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。工事の総奉行に老中で川越藩の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負った。資金として公儀6000両が拠出された。

幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは1653年の正月で、着工が同年4月、四谷大木戸までの本線開通が11月15日とされるが、1653年2月10日着工、翌年8月2日本線開通とする史料もある。

羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めた。・・・以下省略・・・・・


夢多き人々の旅立ち(3)手織り布のロマンを追い25年アジアに住んだひかるのさん

2014年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム

手織り布とその天然染色のロマンを求めてアジアを彷徨い、東京で蒐集した布の展覧会を開いていました。

そのことを彼のブログで知り、何度か展覧会に行き彼と親しくなりました。

しかしその後突然、2009年の12月に肺ガンになり2010年5月に東京の厚生年金病院で亡くなりました。

50歳くらいの短い一生でした。櫻が散るように短い一生を終えたのです。彼とは2年間位だけの淡い交際でした。

彼はタイのバンコックで貧しい一人のストリート・チルドレンを引き取り、育て上げ、息子としていました。

肺ガンになり、苦しい中でカトマンズとバンコックの家の整理をし、世話になった家主へ別れを告げました。お世話になったカトマンズの家主へ丁寧な感謝の言葉を残して永遠の別れをしたのです。

そしてタイの息子と永遠の別れをするのです。

その悲しみは彼のブログに書いてあるのです。

そのブログは「インド ブータン アジアの布 染織美術館(http://asiancloth.blog69.fc2.com/)」といい彼の死後3年経ちましたが現在でも見ることが出来ます。

このブログには、インドやネパールに25年以上棲みついた間に撮影した写真が沢山掲載してありました。 

アジアの人々の貧しさの中にも見え隠れする優しさや美しい情感が写し出されている写真が多かったがのです。

そんな写真に感動して、このブログで彼の撮った写真を何度もご紹介したものです。下にその一例として彼が最後に撮った写真を示します。

それにしてもアジア諸国を放浪するようにして転々と住んでいた彼にもタイの男の子の養子が1人いたことに少しばかり心が和みます。以下に最後のこの息子との新年会の彼のブログから記事を転載します。どうぞお一読して上げて下さい。

====息子との最後の外食========================

バンコク 正月2日目は 飲茶を食べて(投稿日:2010-01-06 Wed)
正月2日目は夕方から息子と二人で新年会を行うことにした。約束の時間は夕方の5時である。時間通りに 息子は5時にやってくる。いつもであれば、二人で市場やスーパーに行き、食べたい食材を買ってきて、作って食べるのであるが、今回は私の状態が こんな具合なので外で食べることにした。ペッブリー通りに並んでいる屋台で イサン料理でもと思ったが、私の病気のことを心配しているのか、刺激のある食べ物は避け、大型スーパー ロータスの1階にある飲茶を安く出すチェーン店 カントンハウスで食べることに決めた。最近になって利用するようになった店で、値段が安いわりには そこそこには美味しい店である。いつもは昼間に行っていたが、今回は夕方過ぎに行ってみた。昼間には空いている店も 夕方からは 家族連れで溢れている。いわゆるバンコク庶民というより、バンコクの中産階級の家族連れのようだ。家族4,5人でやって来て、ビールを飲まなければ、4,5百バーツ(千3百円前後)で十分に食事が楽しめる場所である。たまに家族連れでやって来て 外食を楽しむには安心できる予算だ。飲茶だけでなく、野菜料理や魚料理、麺類、チャーハンなども安い。飲茶類は 一皿 15バーツ均一、簡単な野菜中心の中華料理であれば、一人前50バーツ、チャーハン、焼きそばなども50バーツという安さである。体長30cm近いシーバスの揚げ物、煮物、蒸し物も2百バーツである。そんな料理を注文して タイ人の家族連れが 食事を楽しんでいる。 顔つきを見ると 中国系の人たちが多い。
 自営業をやっている人たちだろう。一緒にやって来ている年寄りの女性を見ると、服装も顔つきも完全な中国人だ。中国系の人たちは 安くて美味しい店をよく知っている。中華街の中華レストランで食事をすれば、眼が飛び出るような値段の料理もこのカントンハウスでは その半分いかの値段で料理を楽しむことが出来る。
私たちも 17種類の飲茶、焼きそば、ビール2本を注文して 新年会を始めた。タイの有名なシンハービールの大瓶が80バーツ、これも安い。近ごろは 路上の屋台でシンハービールを頼んでも 70,80バーツするようになっている。冷房付きのこの場所では 十分に安い値段である。これだけ注文して 465バーツ 約1300円である。税金もサービス料もつかないところが嬉しい。 ビールを飲まなければ、7,800円で飲茶を楽しむことが出来る。超一流の店の飲茶は それなりに美味しいだろうが、私たちにはこれで十分である。1時間ばかりの息子との新年会、腹を一杯にして 息子は自分のアパートへ帰って行った。お金が無いから 十分にお年玉を与えることは出来ないが、それでも心ばかりのお年玉を持たせた。
 彼も1月4日から仕事始めである。
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薫風かおる新緑の浅間山せんげんやま)に登ってきました

2014年04月27日 | 写真

浅間山は標高30m位の小高い丘ですが緑豊かな尾根が続いている都立公園です。

久しぶりに新緑の雑木林のなかを1時間ほど歩いて来ました。下にその写真をお送りします。

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趣味としての宗教あれこれ(4)キリスト教は戦闘的、攻撃的であり悪い宗教

2014年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム

私は仏教や神道やキリスト教を趣味のようにしていろいろ調べるのが好きです。中国の道教や日本の妙見信仰や庚申塚信仰にも興味があります

このようにいろいろな時代の種々の信仰を見ていると人々の希望や悲しみが少し理解出来ます。外国旅行をした折にも必ず各地の教会や墓地を訪ねます。

そうすると外国人も日本人も喜びも悲しみも共通していることを確信します。

その結果、私は外国人も日本人も少し差別しないようになりました。

これも宗教を趣味にした結果です。平穏な気持ちになります。

しかし日本の宗教関連の本を数多く見ると日本人はどうもキリスト教が好きでないようです。

どうも多くの日本人は仏教が好きでキリスト教が嫌いなのです。仏教は平和的で良いがキリスト教は戦闘的、攻撃的であり悪い宗教ですと思っているのです。

そうかも知れません。反論しません。ただ以下に私の体験を書いてみたいと思います。

私は1971年に、35歳の時、カトリックの洗礼を受けました。それ以来カトリックは私の重要な趣味になったのです。

しかし自分の趣味は宣伝しないほうが良いと思っています。

一昨日、箱根の彫刻の森美術館に行ったら舟越保武の少女像の彫刻があったので長崎にある彫刻を思い出したのです。

舟越保武の長崎にある26聖人の像の写真を下に示します。

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脱線してしまいましたが、今日の主題のキリスト教は悪い宗教という問題に戻ります。

35歳から78歳の現在までのカトリックの体験から言ってある宗教は良くて、ある宗教は悪いという理解は根本的に間違っています。宗教には優劣が絶対に無いのです。これが私の体験的事実です。

私自身は祖父が曹洞宗のお寺の住職だったので一緒にお経も読みました。大人になってからは般若心経や観音経の勉強もしました。ですから私は佛教的キリスト教徒なのです。仏教の良さも理解している心算です。

その経験から言えることは宗教には良い宗教も、悪い宗教も無いのです。

しかし信じて居るその人が悪人か善人かの違いがあるのです。悪人が自分の宗教を自分の欲望のために利用するのです。そうするとその悪人が利用した宗教が悪い宗教となるのです。それだけの事です。

キリスト教を作ったイエス様は汝の敵を愛せと教えました。また仇は7の7たび、許せと教えました。罰は神が下すもので人間が他人を罰してはいけないとも教えました。

しかし中世にキリスト教の聖職者が堕落して魔女裁判をし、何十万人の人々を火あぶりにしました。

そして近代には欧米人は数多くの植民地を作り、その土地の富を収奪したのです。人権蹂躙は当たり前でした。

その事をイエス様は悲しんでいます。そんな事をした神父やその欧米人はイエス様とは何のかかわりも無い人なのです。不信者なのです。

一方、お釈迦さまはすべての生き物を殺す事を禁じました。殺生を禁じたのです。それは人間にとって一番重要な教えです。虫や魚も、まして他人も殺してはいけないのです。

実に平和的な教えです。ところが歴史的に考えると仏教の信仰国のタイ、ミャンマー、ベトナムのようなアジアの諸国の王朝の間では戦争が絶えなかったのです。戦争に参加した人々はお釈迦さまの殺生を禁じる教えを踏みにじっていたのです。彼等は仏教徒とは言えないのです。

日本の戦国時代も同じことです。当時の日本は敬虔な佛教国でした。それにも拘わらず、地方地方の武装集団がお互いに血を血で洗うような殺戮を繰り返していたのです。

仏教が善くて、キリスト教が悪いと言う議論には好戦的、戦闘的な悪意が潜んでいるのです。それを主張する人の心情が戦闘的なのです。

その事に気がつかないで外国人が悪で、日本人が善だと考えることが戦争の種になるのです。

自分がどの宗教が好きかと考え、それを他言しないのは善です。しかし、もし貴方がどの宗教が良いか、悪いかと考えだしたら、それこそが危険信号です。

宗教の優劣を論ずることで、イエス様の教えを、そしてお釈迦さまの教えを踏みにじることになります。

争いの火種になるのです。現在起きているイスラム教徒やキリスト教徒と自称する人々の間の争いや戦争は、宗教に関係の無い人々がしているのいです。

イスラム教にもキリスト教にも何の関係も無い人々が己の欲望に負けて争っているのです。日本人も全く同じです。自分だけが偉いと思う心が争いの種になります。人間とは儚くて、愚かな存在なのですね。

そんなことを考えながら一昨日、彫刻の森美術館を散歩して来ました。下にピカソ館のそばにあるステンドグラスの写真と出口に近いところにある人間の群像の彫刻を示します。挿絵として示すので特に深い意味はありません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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連休の箱根の楽しみ方いろいろ・・・芦ノ湖と数々の美術館

2014年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム

オバマさんも日本を去り、静かになりました。

昨日、今日の新聞には理研の小保方論文を捏造と断定した調査委員長の石井俊輔さんも自分の論文を捏造していたという報道がありました。委員長を辞任したそうです。理研には論文を捏造する文化があったのです。

もうこんな泥沼のような事件は忘れることにしました。

それよりも今日から連休です。人それぞれ、いろいろな楽しみ方があります。何もしないで静かに家に居る人もいます。海外へ旅する人もいます。近場に一泊位の旅をする人もいます。

私共は毎日が暇なので、連休前に箱根に一泊の旅をしてきました。

箱根は毎年行く所ですが、行くたびに間違いなく楽しい奇麗な観光地です。そして美術館があちこちにあって、それが箱根の景観と調和していて素晴らしいのです。

そこで箱根で是非お勧めしたい観光スポットをご案内したいと思います。

箱根の観光スポットと言えば芦ノ湖です。元箱根から湖尻まで普通の観光船と海賊船が頻繁に往復しています。

芦ノ湖行くにはへ湯本から強羅まで登山電車で行って、あとはケーブルで大涌谷の坊主地獄を見て、湖尻にケーブルで降りて観光船で元箱根へ行くのが普通のコースです。下に元箱根から見た芦ノ湖の写真を示します。

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芦ノ湖は富士山よりの古い箱根火山の噴火で出来た美しい湖です。この湖を渡って元箱根についたら関所跡を歩きます。古い杉並木もすぐ傍にあります。

そして私どもが必ず行く所は強羅にある「彫刻の森美術館」です。内外の優れた彫刻が芝生の丘に悠々と展示してあります。下にその光景の写真を示します。

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彫刻は置いてある場所によって作品の印象が変ります。もっとも良い場所をいろいろ考えて置いてあるのが素晴らしいと感動します。ピカソの作品を集めて展示してあるピカソ館もあります。

そして仙石原にあるルネ・ラリック美術館もお薦めです。ラリックが20世紀初頭に作ったアールヌーボーの香水瓶やガラス製の室内装飾品がヨーロッパ文化の香りを漂わせています。

オリエント急行の室内装飾も作ったのです。それで1両の食堂車をフランスから運んできて展示してあります。食堂車の中でケーキとコーヒーが楽しめます。

ルネ・ラリックは間違いなく天才です。しかし私はあまり好きではありません。技巧的過ぎます。病的な、あるいは退廃的な印象が少しあるのです。 そういうのが好きな方々へお勧めです。下にモネのスイレンの池を模した庭の写真をしめします。

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仙石原といえば湿生植物園 は必ず訪れたい所です。 仙石原は芦ノ湖 から流れ出た早川が広大な湿地を作っている場所です。その場所を植物園にして、湿生植物を楽しめるように幅広い木道を巡らせてあります。下にその風景の写真を示します。

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この仙石原には「ガラスの森美術館」もあります。

古いベネチアグラスの花瓶やシャンデリア等のガラス製品が収集してあります。そしてテーマパークのような美しい池や庭園が広がっています。それを色とりどりのガラスで飾っているのです。少し人工的過ぎた印象を与えています。その光景を下の写真で示します。

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箱根にある美術館には仙石原から少し入ってところにあるポーラ美術館と箱根町にある成川美術館は良い作品を蒐集展示しています。

昼食を食べる場所としては宮の下の冨士屋ホテルや箱根町の箱根神社のそばの山のホテルがあります。古いホテルの雰囲気が懐かしい気分にさせてくれます。昼食を食べないで売店で洒落たお土産を買うのもよいものです。

山のホテルの庭園は出入り自由で、芦ノ湖が見えて散歩に適当なところです。ツツジが有名な庭で、満開の時期には入園料を取ります。一昨日はまだ咲き出していなかったので出入り自由でした。数本だけ咲いていたので下にその写真をしめします。

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箱根の楽しみ方は人それぞれです。

車で行ったので芦ノ湖スカイラインなどもドライブしました。車なら伊豆スカイラインを通って伊豆半島の伊東、稲取、下田などまで行けます。

車でなくてもケーブルカーやバスが頻繁に動いています。湯本から入って強羅、仙石原、芦ノ湖を回って熱海に降りるコースも面白そうです。

ご自分のお好みに合わせて観光が出来るのが箱根の魅力ではないでしょうか。

連休は是非、箱根のいろいろをお楽しみ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。

後藤和弘(藤山杜人)


春浅き仙石原湿生植物園の風景

2014年04月25日 | 写真

箱根は随分と寒い山です。昨日訪れた仙石原湿生植物園の木々はやっと芽吹き始めたばかりです。しかし水芭芭蕉や櫻や雪柳や連翹の花々が咲いていました。

湿地帯に咲く早春の花々の写真をお楽しみ下さい。

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馬場駿著(Amazon Book)「孤往記」-愛おしき蒼さのなかでーの著者による解説

2014年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログでは小生の友人であり、小説家の馬場駿の作品を何度もご紹介して来ました。

その記事の一覧は、「小説家、馬場駿に関してこのブログに掲載した記事の一覧」に御座います。末尾に添付してあります。

「弧往記」については3月8日の掲載記事でご紹介しました。

しかし最近、著者ご本人による解説が「北杜市・自然の中で」(http://sizen068.blog95.fc2.com/)に掲載されました。大変明快に著者自身の気持ちが描かれているので以下に転載させて頂きました。

=====「孤往記」の著者自身による解説===============

 孤り往くの記で『孤往記』なのだが、沢山の知己を得て心身症を治していく19歳の主人公駿、孤独には見えない。9歳のとき父と母から捨てられ事実上天涯孤独となることから孤(ひと)りを使っている。
 静岡県伊東市の同人誌『岩漿』に10年以上に亘って連載したものを今回、Amazon本で販売するために纏めたもの。歳月を経て文体も少し変化するので、統一しようかと迷ったが、「文中文」や地の文の変化もまた駿の成長にリンクしているのでそのままにした。
これは小説であって「自伝」ではない。読み進むとアルバイトの細部に亘る描写などで誤解する人が多いが、内容が具体的なのは筆者が実際に体験したからで、言わば原体験があるからだ。
 誰もが青春時代に経験する、未熟なゆえに味わう切ない想い、「夢」や目標に向かってひた走る情熱、「大人」になるために味わう再三再四の挫折。読者にそうしたものを思い出して欲しい。
 何十年も前だが、いまも「心の師」と仰ぐ人からこういう言葉を頂戴した。「心で来る人には心で返せ。打算で来る人には打算で返せ。これを間違えると人生の中で大怪我をする」
この小説は、打算ではなくひたすら心で他人(ひと)に対した駿が、それゆえに傷つき悩み、また、それゆえに歓喜の涙を味わう「成長記録」でもある。どのような状況に陥っても相手に対する信頼を確信をもって保持する「絶対信頼」。それを小説の中で駿と美和、駿と菜穂子を使って表現したかった。
 いま自らの目で読み「蒼さ」を自覚しつつも敢えて出版した動機は、一言で言い尽くせる。
「ご一緒に青春時代を、心で旅してみませんか」(筆名馬場駿:木内光夫)

===小説家、馬場駿に関してこのブログに掲載した記事の一覧===

3月8日掲載記事:小さな幸せが大きな幸福へ(6)旧友の本の発売に感じる小さな幸せ

連載小説、馬場 駿著、「雪積む樒」(ゆきつむしきみ)、その4、亡き母を始めて受け入れ、懐かしく思う

連載小説、馬場 駿著、「雪積む樒」(ゆきつむしきみ)、その3、亡父は、酒好き、女好き、怠け癖
連載小説、馬場 駿著、「雪積む樒」(ゆきつむしきみ)、その2、母の危うい姿
連載小説、馬場 駿著、「雪積む樒」(ゆきつむしきみ)、その1、母の遺稿集を編集する
総合文芸誌、「岩漿」第21号のご紹介です
馬場 駿 著、「夢の海」の紹介・・・旧友の小説
ブログに掲載したあなたの文章を「岩漿」という文芸誌で活字にしてみませんか?

小説家、馬場 駿のドラマチックな生の軌跡

川越城の本丸御殿の改修が終わりました

馬場 駿 著、単行本、「夢の海」の紹介・・・旧友の小説

馬場駿著「小説大田道灌」の読後感 (2007年11月掲載記事)


趣味としての宗教あれこれ(3)オバマさんが何故、靖国神社でなく明治神宮に参拝した明快な理由

2014年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム

趣味として宗教のことをあれこれ調べていると、何故、オバマさんが靖国神社でなく明治神宮に参拝したかがよく理解出来るのです。その理由が明快に分かるのです。

靖国神社は他国に無い日本固有の宗教施設です。全ての戦争犠牲者を一緒に祀っているのです。A級戦犯も B級戦犯も特攻隊で敵艦へ体当たりした者も南方の島々で飢え死にした兵士も一緒に祀っているのです。

日本人の靖国神社に対する考えかたはいろいろですが、強いて大別すれば以下の3つくらいに整理されます。

(1)戦犯といえども日本の隆盛を願い米英と戦ったその動機は正しかったのです。ですから彼等には罪はありません。従って彼らの霊を慰めるために全ての日本人は参拝すべきです。どだい戦勝国による東京裁判などは間違っています。

(戦後レジームからの脱却を主張する安倍総理はじめを多くの保守系国会議員などがこの考えです。)

(2)無能な戦争指導で200万人以上の若い日本人を死に追いやったのですからその責任は取るべきです。

彼らは武士らしく自刃すべきでした。それをしなかった軍指導者や政治家は靖国神社に祀るべきではありません。

そいう無責任な戦争指導者の祀ってある靖国神社には絶対に参拝に行きません。

(戦争で愛する家族を失った多くの人はこのような思いです。)

(3)日本軍の一部は朝鮮、中国、東南アジアで残虐行為をしました。そのような軍人たちも一緒に祀ってある靖国神社へは人道的な立場から絶対に参拝できません。

(平和主義者や人道主義者、そして共産党系の政治家他たちはこんな考えです。)

さて今回オバマ大統領が靖国神社でなく明治神宮を参拝した理由は(1)の理由です。過去にもアメリカ大統領が訪日した際に明治神宮を参拝しています。

しかし今回のオバマさんの明治神宮参拝には特に下の2つの強いメッセ-ジが込められているのです。

(1)戦後レジームをご破算にする安倍さんの主張は、当然東京裁判の否定を暗示しています。アメリカは絶対にそれを認めることが出来ません。安倍総理!、その考えを捨てなさいという強いメッセージが込められているのです。

(2)安倍総理の靖国神社参拝で中国が怒っています。アメリカは中国とは外交交渉で大国間の共存競栄の関係を築こうとしているのです。それなのに日本と中国の武力衝突の原因になるような安倍総理の危険な行動はアメリカの国益に反するのです。安倍総理の靖国神社参拝を厳禁したいという強いメッセージが込められているのです。

上記は個人的な私見です。しかし日本のマスコミはオバマさんが安倍さんと一緒に銀座の寿司屋に行ったとか、宮中晩餐会では抹茶アイスクリームが出たとかタレント記事のような事ばかり大々的に報じているのです。まったく寒心に堪えません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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===明治神宮を参拝するオバマ米大統領=24日午後、===
</figcaption>

来日中のオバマ米大統領は24日午後、東京都内の日本科学未来館(毛利衛館長)をケネディ駐日大使らと訪問した。オバマ氏は、頭を下げた二足歩行ロボット「ASIMO(アシモ)」にお辞儀で返した。
 オバマ氏は同館で、約30人の高校生と大学生らを相手に短く演説。「皆さんのような若者の指先には新しい技術・力が宿っている。あなた方には限界はない」と語り掛け、気候変動やエネルギー、医療などに関する困難な問題を解決に導いてほしいとエールを送った。
 その後、明治神宮を参拝。流鏑馬(やぶさめ)などを見学した。現職の米大統領としては、1979年にカーター氏、83年にレーガン氏、2002年にブッシュ氏が参拝している。 
 オバマ氏は日本の次世代を担う若者や伝統と触れ合うことで、アジア太平洋へのリバランス(再均衡)政策の社会文化的な側面をアピールする狙いがありそうだ。(2014/04/24-20:46)

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol&k=2014042400565 より)

====参考資料:明治神宮とは?================

明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を御祭神とする神宮である。

面積約70万平方メートルの境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国よりの献木が植樹された。また、本殿を中心に厄除・七五三などを祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」宝物殿、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」武道場至誠館などがある。

明治天皇は崩御後、京都の伏見桃山陵に葬られたが、東京に神宮を建設したいとの運動が天皇を崇敬する東京市民(当時)から起こり、1914年(大正3年)になると天皇に縁の深かったこの地への神宮建設が決定した。造営は翌1915年(大正4年)から開始され、全国から13,000人もの国民が労力奉仕に自発的に参加した。鎮座祭は、1920年(大正9年)11月1日に行われた[

22万坪(約73ヘクタールに及ぶ広大な神域は、江戸時代初めには肥後藩藩主・加藤家の別邸であり、寛永17年(1640年)より彦根藩藩主・井伊家の下屋敷となっていたもので、この土地が1874年(明治7年)、買い上げられて南豊島御料地となっていた。

明治神宮は2010年(平成22年)現在、初詣では大晦日から正月三が日の間で300万人前後にものぼる日本一の参拝者を集めることでも知られる。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%A5%9E%E5%AE%AEより)

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下は初詣風景です。

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春の遅い箱根は櫻とツツジが一緒に満開でした

2014年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、箱根の芦ノ湖畔に一泊し、強羅や仙石原を散策して来ました。箱根の山は寒いので新緑も出ていませんでした。そして東京ではとっくに散ってしまった桜が丁度満開です。ツツジも満開でした。下にその写真をお送り致します。

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下の写真は泊まった箱根ホテルの部屋から見た芦ノ湖で、遠方に富士山が見えました。右手に近代的な観光船が見え、左手には最後の写真のように海賊船を模した観光船が静かに舫っていました。

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宗教団体が反戦運動をしない理由

2014年04月24日 | インポート

日中戦争から大東亜戦争が悲惨な敗戦で終わるまで400万人の日本人と数千万人のアジア人が戦争のために死んだのです。この間、日本の仏教やキリスト教の緒集団は大政翼賛会へ入会したり協力宣言をして軍部へ協力したのです。仏教の和尚さんであった竹中彰元 師は個人として反戦を貫いて7年も刑務所に入れられたのです。しかし竹中師の属する真宗大谷派は大政翼賛会へ協力していたので竹中師から布教師の資格をはく奪します。

一旦戦争が始まると、何故宗教団体は揃って戦争反対の政治運動をしないのでしょうか?

宗教集団の維持と拡大には政治権力へ協力しなければ、その宗教集団は組織として存続が難しくなります。従って政治権力へ反対する「反戦運動」をしないのが当然です。それが組織の持つ教義へたいする矛盾です。

話は貧困層の多い中南米へ飛びます。ある国で共産主義者とカトリックの神父が協力して革命を起こし貧富の差を無くそうとしました。革命は成功して、共産党政権が出来、その大臣として数名の司祭が任命されました。「(貧者の)解放の神学」に基ずく政治運動でした。これに対してバチカン本部は大臣になったカトリック神父の司祭職をはく奪したのです。バチカン本部の神学と解放の神学は相入れることが出来ないからです。一般的には組織の団結と維持のために処罰したと理解されています。

しかし仏教側にもキリスト教側にも「組織維持」の理由の他にもう一つの基本的な理由が厳然として存在しているのです。「人間の真の救済は政治権力を利用したり、近づいたりすると不可能になる」という理由です。宗教的真の救済は政治とは全く別問題で、人間のこの世の問題である政治とは断絶した世界にあるのです。イエス キリストの弟子たちはイエスがローマ軍を追い出してイスラエルをもう一度ユダヤの王国にしてくれると大変な誤解をします。それに対してイエスは私はこの世の政治的な闘争に来たのではない。皆様が永遠の命を得るための方法を教えに来たのです、と訓えます。ここが無宗教の方々にはなかなかご理解して頂けないポイントです。

私は平和を祈りますが、反戦デモには参加しません。(感情的には参加したいのですが)

大東亜戦争の間、大政翼賛会へ協力するのは とんでもなく間違った行動です。

全ての宗派は平和を静かに祈るのが良く、反戦運動をしたら、それは政治運動になる危険性があるのです。その事を軽く考えたとしたら、それは正しい宗教人の態度ではないのです。

全ての宗教団体は反戦も戦争協力もしないで別世界にとどまるべきだったのでしょう。

しかし、竹中師や解放の神学のカトリク神父たちは善人です。尊敬すべきです。宗派の維持・拡大の理由で弾圧すべきではありません。寛大な精神で放任するのが良かったと、私は信じています。

皆様は如何お考えでしょうか?  (終わり)

この記事の挿絵として平和な花園の写真を一枚添えます。

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夢多き人々の旅立ち(2)山林の中の小屋で一緒に葡萄酒を醸造した中村さん

2014年04月24日 | 日記・エッセイ・コラム

随分前に60歳台前半で亡くなった中村さんとはいろいろな思い出があります。

下の写真のように淋しい道の左に小さい小屋がありました。松林の向こうには暮れかかる甲斐駒岳が見えています。

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中村さんの小屋は質素で小さなものでしたが、亡くなってから息子さん夫婦が下の写真のような洒落た別荘にしました。しかしめったに来ないのでいつも静かです。

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私は自分の小屋へ行くたびに、この前を通るのです。ですからよく中村さんのことを懐かしく思い出します。

彼は甲府盆地の東にある勝沼のブドウ栽培家でした。

彼の趣味は猟銃を担いで犬を連れ、深い、深い山奥を歩き回ることでした。

何日も泊まりながら山奥を独りで歩いていると別世界に来たようで、不思議な気分になるそうです。陶酔したような気分になるそうです。桃源郷に迷い込んだような幸せな気持ちになるそうです。

彼は鹿やイノシシを打ち獲ったことを一度も話しませんでした。猟には興味が無かったようです。猟銃と犬は熊に襲われたときのためだったのです。でも一度も遭遇しなかったので猟銃を撃ったことがないそうです。熊のほうが避けていたのです。

山奥に行くと想像も出来ない不思議な巨木があるそうです。そんな巨木を見つけるとその下にテントを張り泊まるそうです。

そんなことを目を輝かせて話していました。

そしてある時、バケツ一杯のブドウを持って来て、私に葡萄酒の醸造の仕方を教えると言うのです。それは実に面白い体験でした。

葡萄の実の皮に葡萄酒発酵酵母が自然についているので、実を洗わないで潰して数週間放置しておけば発酵して葡萄酒になると教えてくれました。至極簡単で誰にでも作れると言うのです。

そこで私も近所の葡萄栽培農家へ車を飛ばし、安い規格外の葡萄をバケツ3杯分買って来ました。それを大きな器に入れ、棒でグチャグチャに潰します。

中村さんはブドウの糖分だけではアルコール度は低くなるから砂糖を加えてから発酵させないさいと言います。

そこで砂糖をたっぷり加えて又バケツへ入れて小屋の中に入れて置きます。

1週間たったら、その後は必ず2、3日に一度は清潔なスプーンで味をみます。砂糖の甘さがあるうちはまだ発酵が十分進んでいないのです。味見を続けていると次第に甘さが消え、アルコール分に変化しワインが出来あがります。そしたら急いで紙で濾して、皮や果肉を取り除き、ワインの出来上がりです。それ以上放置を続けていると次第にアルコールが酢になってしまいます。

瓶に詰め、冷蔵庫で冷やして、ボージョレ・ヌーボーとして鮭の燻製やカマンベールとともに楽しみます。これこそ中村さんに教わった楽しみです。

もう一つ大切なことを教わりました。それは発酵中は瓶の栓をゆるくしておくということです。私はうっかりコルク栓をシッカリしてしまいました。ある夜、ポン!という盛大な音とともにコルク栓が天井まで飛び、赤い液体があたり一面飛び散りました。微生物の力はスゴイ!と家内と感心するばかりです。これも懐かしい思い出です。

自家製ワインの味ですか?それを聞かれると困るのです。とにかく美味しくないのです。ありていに言えば酔いますが、どうしようもない位不味いのです。使ったブドウが良くなかったのか、そして砂糖の分量を間違ったようです。一緒に食べた燻製とカマンベールの美味しかった事は今でも良く覚えています。

第一回の失敗の後、2度だけ挑戦してみました。甘さが残っているうちに濾してしまえばブドウの風味の残った甘口のワインになります。発酵を完全にして甘さを消してしまえばコクのある格調高い辛口のワインになる筈です。

 

しかし、どちらも失敗でした。砂糖の甘味の残っているうちに濾したワインはただ甘ったるいだけのブドウジュースへ焼酎を少し加えたような代物です。ワインという感じではありません。発酵を完全にしたものはアルコールは強いのですが酸っぱいのです。酢と焼酎を混ぜて水で薄めたような味がします。赤ワインは紫の色をしたブドウを使います。白ワインは薄い色のブドウを使います。私は3回とも紫色のブドウを使い、赤ワインを作りました。

この体験から得た結論は、「ワインは安いものでも買って飲んだ方が数段美味い!!!」でした。そこで売っているいろいろなワインの写真を下に示します。

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そんな経験があるので、ワインを見るたびに中村さんのことを懐かしく思い出しています。彼も夢多い人でした。

それはそれとして、皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)