後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

台湾には16民族、49万人の原住民がいて専用のテレビ局もあり保護されている

2016年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム
台湾には現在でも16もの異なる民族が住んでいる興味深い国です。台湾の中華民国の政府もこれらの少数民族を丁寧に保護した結果、その総数は増加しています。1929年に14万人余りでしたが現在は49万人まで増加しています。
台湾は1600年代オランダの植民地になると対岸の福建省から多数の漢人の移住が起きましたが、それ以前は原住民だけが住んでいたのです。なお原住民は差別用語として日本のマスコミでは先住民と呼んでいます。しかし台湾では原住民と呼んでいるので、それに従いました。他意が無いことをご理解下さい。
それでは早速、現在の台湾の原住民の写真をご覧ください。

この原住民の写真の出典は、http://www.katakura.net/xoops/html/modules/wordpress/index.php?cat=18 です。

上の写真の出典は、http://newhoshu.blog.jp/archives/4513845.htmlです。

上の写真の出典は、http://blog.taiwannews.jp/?p=13944 です。
私はいろいろな民族の観光客向けの写真を多数見てきました。多くは失われた祖先の文化を悲しみながら踊りを見せている写真です。観光客のために笑顔を作っていますが何か悲しそうにしています。
ところが上の3枚の写真に写っている人々は心から楽しそうにしています。屈託の無い表情をしています。現在、このような屈託の無い顔をしている少数民族は珍しいと思います。
台湾の政府が彼等を大切にしているのです。以下は、「台湾原住民」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%8E%9F%E4%BD%8F%E6%B0%91 からの抜粋です。
1996年(民国85年)に原住民族を所管とする省庁である原住民族委員会が設置されました。そして民主進歩党政権になってから原住民族の地位向上が推進されるようになり、2005年には「原住民族基本法」が制定され、国営の原住民族テレビ(開局時の名称は原住民テレビ)も2005年7月1日に正式に開局するなどしたのです。
さらに現在、民族自治区の設立にかかわる「原住民族自治区法」案の審議が進められています。
台湾では少数民族は差別されていないのです。その証拠の写真を下に示します。

上の写真の出典は、http://hosyusokuhou.jp/archives/45019854.html です。
台湾を代表する美女を選出する「第8回ミス台湾」決勝大会が2015年7月下旬に高雄市内で行われ、台湾原住民のアミ族出身の陳海琳さん(21歳)がグランプリに選ばれたのです。 そしてこの女性がミス世界コンテストへ中華民国代表として参加したのです。
台湾には少数民族への差別の無い証拠ではないでしょうか?
台湾では現在、平地原住民と山地原住民(高山族)に分けられております。
2008年6月末、高山族現在の人口は488,773人であり、台湾総人口の2.1%を占めています。この10年で人口は23.4%増加し、総人口の増加率4.9%と比べ高いのです。
以下は政府認定16民族と人口です。
各部族の人口(2008年(民国97年)6月1日)、総計:488,773人、
セデック族統計無し[4]。
アミ族(阿美族、アミス族とも、大部分は自称を流用して「パンツァハ族」とも呼ばれる) 175,157人
パイワン族(排湾族) 84,446人
タイヤル族(泰雅族、アタヤル族とも) 82,273人
タロコ族(太魯閣族、トゥルク族とも、アタヤル族に含められることもあったセデック族の一支) 24,001人
ブヌン族(布農族) 49,529人
プユマ族(卑南族) 11,100人
ルカイ族(魯凱族) 11,509人
ツォウ族(鄒族) 6,517人
サイシャット族(賽夏族) 5,623人
タオ族(達悟族、雅美族〈ヤミ族〉とも) 3,448人
クバラン族(噶瑪蘭族)(カヴァラン族) 1,124人
サオ族(邵族) 637人
サキザヤ族(撒奇莱雅族) 5,000 - 10,000人
セデック族(賽徳克族) 6,000 - 7,000人?
カナカナブ族(卡那卡那富族) 500 - 600人?
サアロア族(拉阿魯哇族) 400人?
その他 265人
申告なし 32,859人
そして下の地図に各民族の主な居住地を示しています。

この図面の出典は、「台湾原住民」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%8E%9F%E4%BD%8F%E6%B0%91 です。
さてこれらの台湾の原住民は何処から来て、何処へ移住して行ったのでしょうか?
この謎は、「台湾資料」、http://www.gicas.jp/taiwan/index.htmlに明快に解明されています。しかし今回は長くなり過ぎるので続編に譲ることにします。

さて台湾も日本も中国の東の大海に浮かぶ大きな島です。日本では大和朝廷が遣隋使や遣唐使を送り中国の政治や文化を導入しました。漢字も導入しました。
しかし台湾は17世紀まで文字の無い文化圏だったのです。この比較を考えるといろいろな感慨を覚えます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

私の少し変わった趣味、日本の地方の文化やいろいろな民族の文化を調べる趣味

2016年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム
私の趣味は少し変わっているかも知れません。何故、私は地方の文化に興味があり調べるのでしょうか?世界のいろいろな民族の文化を調べるのでしょうか?答えは簡単です。調べると何故か心が豊かになり幸せになるのです。
ですから地方文化や民族文化を調べるのが私の趣味になってしまったのです。それは私の若い頃から80歳になった現在まで連綿と続く趣味なのです。今日は何故こんな趣味に興味を持つようになったいきさつを書いてみます。
お読み頂けたら嬉しく思います。

その趣味はアメリカの文化人類学者のルース・ベネディクトの「菊と刀」という本を読んだ時の感動から始まりました。
ルース・ベネディクト(Ruth Benedict)は1887年にニューヨークで生まれ、1948年に亡くなりました。アメリカの文化人類学者で日本文化を説明した『菊と刀』の著者として戦後の日本で大変有名になった人です。
この本はアメリカ軍に依頼され、敵国日本の人々の文化と行動パターンを調査し、研究した成果をまとめた本です。戦後、マッカーサーが日本の占領政策を決める時大いに参考した本でした。
下の一番目の写真に彼女の写真を示します。

ルース・ベネディクトは1946年に「菊と刀――日本文化の型」をに出版しました。彼女は一度も日本の土地を訪れることなく、日本の文化に関する文献と日系移民へのインタビューによって日本文化と日本民族の性格を深く洞察し『菊と刀』という貴重な日本文化論を書き上げたのです。『菊と刀』は元々アメリカ陸軍がルース・ベネディクトに委嘱したもので、西欧人とは異なる日本人固有の文化・気質を理解することで太平洋戦争後の円滑な占領統治に役立てようとしたのです。
詳しくは末尾の参考資料をご覧下さい。
日本では1948年に翻訳出版されました。終戦後3年目です。
この本の内容で私は次の二つのことで衝撃的な感動を覚えたのです。
(1)日本は戦争に敗けたのに、ルース・ベネディクトは、その文化や人間性を尊敬しているようなニュアンスで書いてあったのです。そして世界中の全ての民族の文化には絶対に優劣が無いと言うのです。
このメッセージは敗戦で意気消沈していた日本人を鼓舞したのです。もう一度復興し文化国家として世界に認めて貰おうと日本人が決心するキッカケになったのです。
敗戦で意気消沈していた日本人に再び勇気を与えたのは水泳の古橋広之進の活躍と湯川秀樹のノーベル賞、そしてこの「菊と刀」だったのです。
(2)外国の文化を分析し、深く理解し整理体系化するためにはその国に何年かは住んでいる必要があると言われます。ところがルース・ベネディクトは日本へ一度も来たことがないのに日本文化の神髄と行動パターンを明快に描き出したのです。その学問的な研究手法に感服し、感動したのです。
この本を読んで、衝撃を受け、それ以来、いろいろな民族、例えばネパールやブータン文化やチベットの仏教などに強い興味を覚え、いろいろな本を読みました。調べる癖がつきました。そのことが楽しくなって趣味になってしまったのです。イヌイットや北方民族についても本を読みました。
この趣味を日本国内の地方、地方へ向けると「全ての地方の文化には優劣が無く、興味深いローカル文化がある」という考え方になるのです。
北海道では縄文文化が長く続き弥生時代が無く、オホーツク文化の影響を受けながらアイヌ文化へつながるのも興味深いものです。
日本の地方文化については特に甲斐の国の古墳を訪問し、巨大な古墳の写真も撮りました。
また神津島や八丈島を泊りがけで旅して縄文時代からの文化を調べ記事を書いてきました。
その他、神奈川県の相模川の下流の相模原市立、史跡田名向原遺跡旧石器時代学習館へは数回訪問し2万年以前の旧石器時代の石器や住居跡も丁寧に勉強して来ました。
日本で土器が作られる以前は石器と焚火しか無かったのです。そんな時代に人々はどのような暮らしをしていたのでしょうか?
これらの地方の歴史や文化に関しては何度も記事を書いて掲載してきました。
日本には地方地方に独特の文化があったのです。
現在でも地方特有の素晴らしい文化が各地に伝承されています。
それらに関しても幾つも記事を掲載しました。
その中から一例として、仙台の七夕祭りとおわら風の盆と青森のねぶた祭りの写真を順々に2枚ずつお送り致します。いずれの祭りも数年前に実際に見てきました。











そして仙台の七夕の動画;https://www.youtube.com/watch?v=rchTMGVLweY や青森ねぶた祭りの動画;https://www.youtube.com/watch?v=IGDyFLPX_Pk やおわら風の盆の動画:https://www.youtube.com/watch?v=ZbUlt0bMZEg もお楽しみ下さい。

日本人の一部には地方の人より都会にいる人の方が優れているという伝統的な偏見がありました。蔑みの言葉に「田舎者」というものもあります。くどいようですが、世界中の全ての民族の文化には絶対に優劣が無いのです。そして全ての地方文化には優劣が無く、興味深いローカル文化があるのです。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========================
ルース・ベネディクトの『菊と刀――日本文化の型』 の内容の概略
(http://digitalword.seesaa.net/article/33551448.html より抜粋、転載)
題名の『菊と刀』の「菊」とは「美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす」ということであり、「刀」とは「刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する」ということである。「菊の優美」と「刀の殺伐」のシニカルな二項対立を浮き彫りにしている。ルース・ベネディクトは『日本人の矛盾した二面性』を象徴的に表現するために菊と刀というシンボルを選択したわけだが、『日本人は類例のないほど礼儀正しいが、同時に、この上なく不遜で尊大である』という風に日本人の二面性を文章化している。日本文化に歴史的に根付いているこの二面性・矛盾性の特徴は、東洋的な中庸の徳を実現しようとする複雑な人生のあり方をティピカルに示唆したものでもある。日本人は両極的な価値観を呈示しながら、その均衡点あるいは逸脱点(死)に独自の透徹した美学を見出したのである。
・・・・・キリスト教文明圏に生きる西欧人の行動規律が『罪の文化』にあるとすれば、儒教文明圏に生きる日本人の行動規律は『恥の文化』にある。西欧人は神と一対一で向かい合って『内面的な罪悪感(罪を恐れる去勢不安)』によって自律的(自発的)に善悪を判断するが、日本人は社会(世間)の人々の視線を感じ取り『外面的な世間体(恥を恐れるプライド)』によって他律的(強制的)に善悪を判断する。日本人にとって最も重要なのは、自分がその行為を悪いと思うか否かではなく、社会生活を営む周囲の他者が『自分のことをどう評価しているか?自分のことを軽蔑したり批判していないか?』である。 ・・・以下省略。

神代植物公園の梅林がますます美しく見えるようになった!

2016年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム
唐の詩に、「年々歳々、花相い似たり 歳々 年々人同じからず」の一節があります。
花は毎年同じ様に咲くが、それを見る人は毎年変わるとう意味です。去年来た人の幾人かはこの世を旅立ってしまい、もう来ませんという無常感を詠んだ句だそうです。
私はこの意味を少し拡大して「毎年見に来る私自身も考え方が変わり、去年の自分とは同じではありません」と解釈して、この句をあじわっています。
この1月23日に、「人生の区切りとしての80歳になって非常に嬉しく感じる5つの理由」と題する記事を掲載しました。
80歳になるとこの世の憂いや悩みが皆消えてしまって、心が真っ白い雪のように静かになるという内容の記事です。
そのような心境になって昨日、深大寺に詣り、裏の神代植物公園の梅林の写真をゆっくり撮って来ました。
心が真っ白い雪のように静かになると白梅や紅梅の色に染まります。梅の良い香りに心が染まります。このような心境で梅の花々を見ると一層美しく見えるのです。昨年の梅とは違い、ますます美しく見えるのです。

花は見る人の心次第で、どのようにも見えるのです。
梅林全体の光景も美しいし、花一輪、一輪がけなげに咲いている様子も美しいものです。
昨日は山門の前の鈴やに車を停め、深大寺蕎麦を食べました。お寺にお詣りすると節分の豆撒きの舞台を作っています。そうです。立春も近いのです。
裏の神代植物公園の梅林までの坂道を杖を頼りにゆっくり登ります。

下の写真は深大寺の山門前の風景と梅林の白梅、紅梅の花々の写真です。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

尚、深大寺への行き方は、http://www.jindaiji.or.jp/ に御座います。そして神代植物公園への行き方は、http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/access045.html に御座います。













台湾のことを想うと心が痛む(3)21万人が日本のために戦い3万人が戦死

2016年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム
今日の記事の概要を最初に書きます。
21万人にもの台湾の人が日本の為に出征し、3万人が戦死したという事実をまず簡略に書きます。
生残った18万人の復員兵から3万人を、台湾に逃げてきた蒋介石軍が徴用して中国本土での共産党軍との戦いに送りこみます。
当然、その何割かは共産党の捕虜になります。北京政権は朝鮮動乱が起きると台湾人の捕虜を最前線へ送ったのです。台湾人将兵は二重、三重の苦難を味わったのです。
それなのに台湾の人々は日本の統治を褒め恩義に思っているのです。Face Bookで知り合った台湾の人、Stephen Hsieh さんが日本統治を絶賛している場面を写したYOUTUBEを2本も送って下さったのです。心ある日本人がこの2本のYOUTUBEを見たら感動し、涙を流すでしょう。
お忙しくて私の拙文を読む時間の無い方は以下の2本のYOUTUBEだけでも是非ご覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=6RBE6Vvj7oM
https://www.youtube.com/watch?v=ILoEdk2HrOk
この2本のYOUTUBEは広告で始まりますが、それをスキップするとその先がご覧になれます。
さて私は自分の文章が感傷的過ぎるのを反省しています。そこで今日は自分の文章は書かないで他の資料を厳密に転写することに徹しました。
どうぞ以下の事実を静かに受け入れて下さることを祈っています。
(1)台湾籍日本兵の総数と犠牲者数
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E4%BA%BA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B5)
1944年4月以降に志願兵として軍務に従事した者は特に台湾特別志願兵とも称される。特に台湾原住民志願者で編成された高砂義勇隊は南方のジャングルに慣れない日本軍にとって大きな力となった。隊員は軍属であり軍人ではないとされつつ戦闘に参加し、戦死者の割合が正規軍よりも多かったといわれている。しかし各種の事情により、戦後の補償は十分に行われていない。詳しくは高砂義勇隊の項を参照。
太平洋戦争の激化により1944年9月には台湾人にも兵役義務が課せられた。日本の敗戦までに日本兵として軍務に従事した台湾人は8万人を越え、軍属として徴用された者を含むと合計約21万人の台湾人が日本軍と共に戦った。その内3万名以上の台湾人が戦死または戦病死している。台湾から戦地に赴いた その約21万人中、約6千人が高砂族だった。
国民党は戦争が終わって台湾人元日本兵が復帰してくると、彼らを強制的に徴用した。国民党軍には海軍がなく、日本から接収した軍艦を操縦する技術を持った兵士が ほとんどいなかったため、復員してきた台湾兵を強制徴用した。国民党に駆り出された台湾兵は3万人と言われ、彼らは中国大陸に派遣されて共産軍と戦い、国民党が敗退して共産軍の捕虜となった。その後、共産軍は国際法を無視して、捕虜になった台湾兵を朝鮮戦争で韓国に派遣してアメリカ軍と戦わせた。
(2)高砂義勇隊

(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%A0%82%E7%BE%A9%E5%8B%87%E9%9A%8A)
大東亜戦争末期、台湾原住民により編成された日本軍の部隊。フィリピン、ニューギニアなど密林地帯の戦場に投入するために創設された。隊員は軍属であり軍人ではないが戦闘に参加し、戦死者の割合が作戦を共にした軍人よりも多かったといわれている。高砂義勇軍とも。
台湾の高砂族志願兵からなる部隊である。7度にわたって編成され、合計1,800-4,000名の原住民が参加したと考えられている。当初1,000人の募集に対して40万以上の志願があり、倍率は400倍以上となった。自らの血で志願のための嘆願書を書いたものも多く、落選した者は悔しさのあまりその場で泣き崩れたりしたという。
伝統的な生活を営む高砂族の勇敢で純朴な性質や、耳が良く、夜目が効き、素足で音も無く夜の密林を駆け巡ると言われる程の身体能力の高さが、東南アジアの密林地帯において有用な戦力になると期待された。一部の部族には首狩りの風習が残るなど勇敢であること、強きことは原住民に取って美徳であった。以下省略。

以上の2項目の内容は忘れるべきでないと思います。私も以上の事実は知っていましたが戦後70年も経過して、正確な数字を忘れてしまっていました。
特に、「蒋介石は復員してきた台湾兵を強制徴用し、中国大陸に派遣し、共産軍と戦わせた。そして共産軍の捕虜となった台湾兵はその後、朝鮮動乱の時にアメリカ軍と戦わせた」という事実は今回初めて知ったことです。
3万人の台湾人将兵は二重、三重の苦難を味わったのです。残酷の極みです。胸が痛みます。
それなのに台湾の人々は日本人を恨まないのです。そして日本の統治時代を称賛するのです。
くどいですが、以下の2本のYOUTUBEだけでも是非ご覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=6RBE6Vvj7oM
https://www.youtube.com/watch?v=ILoEdk2HrOk
この2本のYOUTUBEは広告で始まりますが、それをスキップするとその先がご覧になれます。
さて今日の挿絵代わりの写真は台湾の美しい田園風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

上の台湾の田園風景の出典は、http://01.gatag.net/0008061-free-photo/です。

上の台北郊外の田園の写真の出典は、http://www.taipeinavi.com/miru/127/remark/133768です。

上の台湾での「天燈節」というランタンのお祭りの写真の出典は、http://keddy-taiwan.com/3172です。

台湾を想うと心が痛む(2)いろいろな外部勢力による支配の歴史

2016年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ある国の歴史を調べようとすれば10冊以上の専門書を読むべきと思います。しかし最近はもっぱらwikipediaの記事を頼りにしています。特に各国の歴史については専門家が書くらしく体系的に書いてあり記述も学問的で正確なものが多いのです。
例えば「台湾の歴史」はwikipediaの記事は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 にあります。
そしてその内容は次のように示されています。
1 概略
1.1 先史時代 (1624年以前)
1.2 オランダ植民統治時代(1624年 - 1662年)
1.3 鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)
1.4 清朝統治時代(1683年 - 1895年)
1.5 日本統治時代(1895年 - 1945年)
1.6 第二次世界大戦後(1945年 - 現在) 1.6.1 南京国民政府(1945年 - 1949年)
1.6.2 台湾国民政府(1949年 - 1996年)
1.6.3 民主化後(1996年 - 現在)
この歴史の概略をみると台湾がいろいろな外部勢力による支配のされてきたことが分かります。
例えば一例として、1.2 オランダ植民統治時代(1624年 - 1662年)を見てみましょう。
まず1番目の図面をご覧下さい。

これは17世紀の台湾の地図です。図中ではオランダ統治下 (赤紫)、スペイン統治下 (緑)、大肚王国 (オレンジ)などが色分けして描いてあります。
台湾が注目されるようになったのは16世紀の明朝時代になってからです。
倭寇の活動が活発化するにつれて、台湾は倭寇の根拠地の一つとして使用されるようになり、やがて漢民族、日本人が恒久的に居住し始めるまでに至ったのです。
また、この時代になると、大航海時代のヨーロッパ各国から多くの人々が来航するようになり、オランダやスペインが台湾島を「領有」し、東アジアにおける貿易・海防の拠点としたのです。日本への鉄砲やザビエルによるキリスト教伝来も台湾を経由したと言われています。
ヨーロッパ船として初めて台湾に到達した船はポルトガルの船であり、ポルトガル人船員が緑に覆われた台湾島に感動して「Ilha Formosa(麗しの島)」と叫んだという伝承から、台湾の別称である「Formosa(フォルモサ、中国語では美麗島)」が誕生したとされています。
台湾島の領有を確認できる史上初めての勢力は、17世紀初頭に成立したオランダの東インド会社である。東インド会社はまず明朝領有下の澎湖諸島を占領した後、1624年に台湾島の大員、現在の台南市を領有します。
台南市を中心とした地域を制圧して要塞を築いたのです。
一方、スペインは同時期の1626年に台湾島北部の基隆付近に進出し、要塞を築きます。
しかしオランダの東インド会社は1642年にスペイン勢力を台湾から武力で追放したのです。
オランダによる統治期間中、東インド会社は福建省、広東省沿岸部から大量の漢人移住民を労働力として募集し、彼らに土地開発を進めさせることでプランテーションの経営に乗り出したのです。
余談ながら台湾原住民がオランダ人を「Tayouan」(現地語で「来訪者」の意)と呼んだことから「台湾(Taiwan)」という名称が誕生したと言われています。
それはさておき、台湾の東インド会社は1661年から「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功の攻撃を受け、翌1662年には最後の本拠地要塞であるゼーランディア城も陥落したために、進出開始から37年で台湾から全て駆逐されたのです。
そして鄭氏政権時代(1662年 - 1683年)が始まるのです。
翻ってその頃の日本の歴史を見ると次第に鎖国体制を作り、キリシタン禁教を強化していた時代です、秀吉や徳川家康が上に書いた台湾の植民地化の状況を恐れ完全鎖国をしたことは正しい選択だったのかも知れません。
その後の台湾の鄭氏政権時代も興味のある時代ですが今日はこの辺で止め、私自身と台湾との関係について簡略に書きたいと思います。
私は大学時代からある台湾出身の黄さんという先輩に大変可愛がられました。黄さんはその後、東海大学の教授になり、現在は悠々自適の境地です。
そして私が東大の助手をしていたころ台湾からの留学生の呉さんの研究の世話をしました。呉さんを何度も自宅にも招びました。
その後、チャイナ・スチールとい大鉄鋼会社を訪問したとき台北の呉さんの自宅に招待されます。当時、彼はある大学の学長をしていました。
そして1990年頃にオハイオ州立大学で2人の台湾からの留学生と非常に親しくなりました。
その一人の台湾人の幼い息子と娘に日本語の名前をつけてくれと頼まれます。台湾では本来の漢字の名前と英語の名前を持っています。そして親日家は日本人に名付け親になってくれと頼むのです。
私が台湾を訪問したのは鉄鋼会社を訪問したときのたった一回だけです。
しかしその時、人々が非常に親日的なことに吃驚したのです。台湾の人々は昔の美しい日本語を話すのです。これには感動したものです。台湾の人々とはいろいろなことがありましたが、この辺でやめます。
今日の花の写真は台湾の花々です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

上の写真は台湾の桜です。出典は、http://cc-library.net/010008423_free-photo/
です。

上の写真はブーゲンビリアです。
出典は、http://formosalover.seesaa.net/article/255252191.html です。

上の写真の出典は、
http://www.osakatree.jp/tree-doctor/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%A8%B9%E6%9C%A8%EF%BC%88%E7%AC%AC%EF%BC%91%E5%9B%9E%EF%BC%89 です。
「水黄皮」という樹です。台北市内の公園等に植栽されています。マメ科の樹木で熱帯地域から亜熱帯地域で多く見られる樹木です。マメ科特有の奇数羽状複葉の葉を付けていて、花は清らかな香りがあります。実は油を多く含み。灯油や潤滑油と利用されてきました。



80歳になってやっと自分が日本人であることに誇りが持てた!

2016年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム
戦後の教育を受けた私は日本人である自分にいろいろな劣等感を持ってしまいました。日本人は近隣諸国を侵略した悪人と思いました。科学技術の遅れた後進国と自国を蔑んでいたのです。そして日本人には独創性が欠落していると思ったのです。ですから若い頃は長い間、日本人であることに悩んでいたのです。
アメリカの占領政策として日本人が再び立ち上がって米国を攻撃しないように教育内容を監視し指導した結果だったのかも知れません。
しかしアメリカへ留学し彼等と勉強の競争をしてみると決して劣っていないのです。その後の長い研究生活でも米国の学会誌に何度も投稿しました。投稿は審査され、合格するとその論文が学会誌に掲載されるのです。何度も合格しました。
次第に劣等感から解放されたのです。
その後のいろいろは省略します。
そして先週の1月18日に満80歳になりました。その結果こころが平和になりすべての劣等感が消えてしまったのです。
昨日、近所の海岸禅寺というお寺を静かに散歩しました。
梅と松と建物の姿が調和して静寂な世界を作っています。
その風景の中を歩きながら、何故か急に自分が日本人であることに誇りを感じたのです。そして自分が正真正銘の日本人であることを悟ったのです。そして深い心のやすらぎを覚えたのです。
人生の終わり頃になってこんな平和な気持ちになれて幸せだと感じています。60歳、70歳の私はまだまだ迷いの多い未熟な状態だったと思い返しています。
よく考えてみると個人が心の中に持っている劣等感にはいろいろあります。
それを整理してみると、個人の肉体や才能に対する劣等感、生まれた家や個人的環境に対する劣等感、そして住んでいる場所や国に対する劣等感などが相互に複雑に関係しています。
私の持って劣等感もその原因はいろいろでした。しかし80歳になってみると全ての劣等感が一気に消えて行くから不思議です。
そのいろいろの中で、日本人であることで劣等感を持っていたのは、第二次大戦に負けたという悲劇が原因になっていたようです。この完膚無きまでの敗戦は日本民族の未曽有の経験です。
従ってこれによる文字通りの敗北感が非常に重い原因だったと思います。
しかし現在は全ての劣等感が消えてしまったのです。不思議です。

下に梅と松とお寺の風景写真をお送りいたします。ご覧になられて心のやすらぎを感じられたら私も嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









祝琴奨菊優勝!そして相撲界の自由な国際主義を誇りに思う!

2016年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム
琴奨菊が優勝しました。10年ぶりの日本人の優勝です。持ち前のがぶり寄りで一気に3横綱を倒し14勝1敗の文句なしの成績です。気が優しくて怪我ばかりしていた琴奨菊が生き返ったように強くなった今場所です。来場所も優勝したら横綱にもなれそうです。
今場所は白鵬は3敗、日馬富士3敗、鶴竜5敗でした。上位に強い稀勢の里に負けたのが印象的でした。
日馬富士の素早さが戻ってきて気持ちの良い動きを見せてくれました。
最年長の安美錦がインフルエンザにもめげず千秋楽まで闘いました。
大型の力士、逸の城が最近ふるいません。今場所は2勝13敗でした。私の好きな松鳳山も5勝10敗です。残念です。
前頭12枚目の正代が10勝5敗でと健闘し、同じく13枚目のベテランの豪風が10勝5敗と良い戦果でした。
遠藤や大砂嵐が休場してしまい面白さが減りました。
そして今場所は10年ぶり、60場所ぶりに日本人力士が優勝した場所になったのです。
わたしは相撲にはあまり関心が無かったのですが、照国・安芸乃海を見たという相撲大好きな家内と毎日観ているうちにだんだんと興味を持つようになりました。
そして何故外国人力士がこのように活躍するのか考えてみました。
それには2つの理由があると思います。
その一つは、日本人の親方達が外人力士を相撲の伝統に従いながら公平に育て彼らの強さを引き出したからです。
二番目の理由は数多くの力士をモンゴル、ブラジル、中国、韓国、ロシア、ブルガリア、エストニアなどから受け入れて来たからです。
この2つの理由についてもう少し深く考えてみます。
まず相撲界の民主的な、そして国際的な文化について考えてみたいと思います。
いかにも封建的で排他的な文化を持っていそうな相撲界が、意外にも開放的で自由に外国人力士を受け入れたのです。
その上、外国人力士を日本人力士と差別せず公平に育て上げたのです。個人の才能を尊重し上手に指導し、稽古を続けさせたのです。このような指導をした親方達が偉かったのです。
しかも強くするだけでなく相撲文化の伝統を寸分も曲げずに外人力士に伝承したのです。
モンゴル人は勿論、ロシアやブルガリヤやエストニア出身の力士達の挙動と日本語が、日本人以上に日本の伝統になっているのです。これは奇跡のようです。私は外国への日本文化の伝承に興味がありますので、まずこの点で感動しています。
この相撲界の自由で国際的な文化を誇りに思っています。それは外国にたいして自慢すべき文化ではないでしょうか?
もう一つは外国人力士の数の多さです。以下は外国出身の力士の一覧表です。
幕内の外国出身力士(2015年初場所)
http://www.nippon.com/ja/genre/society/l00090/
白鵬(29) 横綱 モンゴル 宮城野部屋
鶴竜(29) 横綱 モンゴル 井筒部屋
日馬富士(30) 横綱 モンゴル 伊勢ヶ浜部屋
碧山(28) 関脇 ブルガリア 春日野部屋
逸ノ城(21) 関脇 モンゴル 湊部屋
栃ノ心(27) 前頭1 グルジア 春日野部屋
照ノ富士(23) 前頭2 モンゴル 伊勢ヶ浜部屋
魁聖(28) 前頭5 ブラジル 友綱部屋
旭天鵬(40) 前頭7 モンゴル 友綱部屋
玉鷲(30) 前頭9 モンゴル 片男波部屋
蒼国来(31) 前頭10 中国 荒汐部屋
旭秀鵬(26) 前頭12 モンゴル 友綱部屋
荒鷲(28) 前頭12 モンゴル 峰崎部屋
大砂嵐(22) 前頭13 エジプト 大嶽部屋
時天空(35) 前頭13 モンゴル 時津風部屋
鏡桜(26) 前頭15 モンゴル 鏡山部屋
上の表を見ると現在の相撲界は外国人力士を抜きにしては考えられないことがよく分かります。
これをもう少し長い期間で考えて過去の歴代の力士の出身国を示すと以下のようになります。
歴代外国人相撲力士の出身の多い国・地域
http://matome.naver.jp/odai/2142128884307260201(更新日: 2015年11月17日 )
1 モンゴル55
2 アメリカ合衆国(米国)31
3 ブラジル16
4 大韓民国(韓国),中華人民共和国(中国)12
6 トンガ8
7 ロシア6
8 グルジア,フィリピン4
10アルゼンチン,英国,エストニア,サモア,ブルガリア2
上の一覧表を見るといろいろな感慨が浮かんできます。
これほど濃密な文化交流は他の分野ではあまり無いのではないでしょうか?
相撲の世界を単に勝敗を楽しむだけでなく国際的な文化交流という視点で見るとこれほど興味深いものがありません。
その証拠の一つが外人力士の達者な正しい日本語です。それは感動的なほどです。
それにしてももう少し日本人力士に頑張って貰いたとと強く願っております。10年ぶりの優勝ではなく、連続優勝は無理でも2場所ごとに優勝をしてくれたらもっと、もっと相撲が面白くなる筈です。
今日の挿絵代わりの写真はモンゴル力士に敬意を表してその国の風景と建物の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







上の写真はウランバートルにあるガンダン・テグチンレン寺院です。
写真と文章の出典は、http://www.tabitamago.jp/mongolia/ulanbator.html です。
チベット仏教のお寺です。モンゴルの人々からの信仰がとても篤く、ウランバートルにあるラマ教の総本山ともいうべき場所です。ガンダン寺の一番奥に、観音堂があり、中に入ると高さ25mもある大きな観音菩薩(モンゴル名メグジド・ジャナライサク)が立っています。

上の写真はボグドハーン宮殿博物館。(http://homepage2.nifty.com/ten-yasu/world/mn/uln2.html)
革命前の活仏の宮殿で、瑠璃瓦が鮮やかな中国風の見事な建築物である。 内部にはチベット仏教の曼荼羅や仏像がたくさん展示されている。あまり古い建物のないウランバートルにあっては貴重な文化財と言えよう。

キリスト教の排他性と、蟻の町のマリア北原 怜子さんを福者へ

2016年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム
よくキリスト教は排他的で歴史的にみると数々の戦争の原因になってきたという非難があります。カトリック教徒の私はその批判を聞くたびに心を痛めています。そしてキリスト教が悪いのではなく人間がそれを悪用したに過ぎないと強弁してきました。それは仏教徒から見れば我田引水的な理屈にしか過ぎないと思われるでしょう。
そして昨日、キリスト教が排他的な性格を持っている客観的事実を見せつけられる経験をしました。
昨日、ローマ法王フランシスコの承認により福者に列福された高山右近が排他的にも神社仏閣を破壊しつくしたというコメントを趣味人倶楽部の会員の「のりまきさん」という方から頂いたのです。以下はそのコメントの冒頭部分です。
のりまきさん: 2016/01/22 のコメント(http://smcb.jp/column/detail/6825454/)
僕は摂津国の中心部・伊丹(大阪平野北部)に住んでいます。
東に山城(京都)、北に丹波(兵庫県中部)と接する摂津北部・東部(高山右近の本拠地・高槻含む)があります。その地域をバイクで走り回ると、キリシタンの痕跡が多く残っているのを見ます。右近の父親が生まれた山城や、母・マリアの墓を山中に訪問したこともあります。
江戸時代にこの地の一部を治めた能勢氏の家紋は、「切竹矢筈十字」というもので、まるで十字架です。
江戸時代禁教だったキリシタン信仰が濃い地を、幕府に目をつけられないように、住民を無理やり日蓮宗に改宗させました。しかし石仏に描かれたお地蔵様が持つ杖・錫杖の上の部分が十字架のように十字になっていたりします。
庶民のキリシタン信仰を弾圧するのではなく、仏像や仏具、そして自らの家紋にキリシタン信仰の象徴を入れ、幕府と対立せずに、とてもうまい治世をしたなと感じます。
高山右近の治世は、かなりキリシタン偏重になっており、勢力地内に存在していた神社や仏閣を破壊しています。
そのため、文化先進地であったはずの山城近在地でありながら、右近以前の寺社の建物は、隣接地域と比べ残存率がとても低いのです。
そういうのを実際に見ていると、仏教が日本渡来した時は寺院境内に神社を立てて守護の神にした包容性とは大違いで、一神教としてのキリスト教の他と相容れない姿が見えます。
ただ同じキリシタンを信仰していた黒田如水は、自身の出が神社神人であったこともあり、寺社を破壊しなかったし、キリシタン大名・小西行長なども穏健な治世をしました。以下省略。
高山右近は自分の信仰の邪魔になると感じて神社仏閣のような貴重な文化財を平気で破壊したのです。
実に残念ながらキリスト教が排他的な性格を持っていると言われても仕方の無い行為です。
それに比べると以下の「蟻の町のマリア」こそ福者にふさわしい人ではないかとひそかに思っています。
北原 怜子(1929年- 1958年)は、キリスト教の教義に基づき献身的な活動を展開した人でした。29歳で夭折し、「蟻の町のマリア」とよばれた人でした。
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8E%9F%E6%80%9C%E5%AD%90 より抜粋しました。
墨田公園の中にある「蟻の町」と呼ばれるバタヤ集落の中でゼノ修道士がたびたび援助したことが当時の新聞に書かれていました。そしてその記事には蟻の町の子どもたちに取り囲まれた笑顔のゼノ修道士の姿が掲載されていたのです。
この報道でゼノ修道士の活動を知り、北原怜子は「何かせねば」との思いを巡らしていたそうです。
ある時、ゼノ修道士は北原怜子に会います。そして貧困者に関する新聞報道、写真、手紙等の資料を見せ、貧困者たちの惨状を熱く語ったのです。 そして暇があったらこのような貧困者たちを慰問して欲しいと言い残します。
当初は、通いながら奉仕活動をしてましたが、やがて彼女は、自らが汗を流して貧者と共に労働をし生活し助け合うことが重要であると考えるようになります。彼女の行動によって「蟻の町」、特に子どもたちの教育環境は段々と整えられていったのです。
彼女の行動は世界に発信され賞賛の声が多く届くが「財宝ばかりでなく、名誉や地位もまた悪魔的な誘惑だ」として、その名声に甘んじることはなかったそうです。
諸々の奉仕活動での体力的無理が祟り健康を害し、療養のため「蟻の町」を離れます。しかしやがて死期を悟ると「蟻の町」に再び移住し、1958年腎臓病で夭折したのです。29歳没。墓所は多磨霊園にあります。
コンベンツァル修道会日本管区では、北原怜子をローマ法王の福者とするため、列福運動を進めています。現在は福者の申請段階である「神のはしため」とされています。
2015年1月23日に、北原怜子を生前の徳や殉教により聖性が認められた「福者」とするための「英雄的徳行」を認定したとローマ法王庁(バチカン)列聖省が発表しました。これにより、2015年1月23日より尊者とされたのです。
私は北原怜子さんが福者としてフランススコ法王が認定するようにお祈りしています。
今日の挿絵代わりの写真は春がもう来たような花屋さんの店先の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









夭折の写真家 横内勝司 写真展 「時を越えて」

2016年01月23日 | 写真
芥川喜好さんが今朝の読売新聞で、「横内勝司 写真展」を絶賛していました。そこでこのブログでも横内勝司 さんの作品をご紹介いたします。
その写真を、http://tenmasawa.com/archives/1923 からお借りしました。
乾板ガラスから80年以上の時を経て甦った昭和初期の信州松本の風景・人々の写真です。
横内勝司(1902-1936)とは:
松本の農家に8人兄弟の長男として生まれ、高等小学校卒業後に家業を継ぐ。
20代でカメラを手に入れ昭和11年に33歳の短い生涯を閉じるまでの僅かな期間に乾板式カメラで撮影された昭和初期の信州松本。
雄大なアルプスの山々や、当時としてはごくありふれた農村の日常、そしてそこに遊ぶ子供たちを捉えた躍動感溢れる作品の数々はまさに奇跡と言える。
だが、あまりに早すぎた死と、その後この国が辿った歴史の波に飲み込まれ、彼の存在とその作品を知る者は地元松本でさえ殆どいない。
石田さんが横内さんの作品に感動して、「横内勝司 写真展」を開催したいきさつ:
「写真家横内勝司さんの世界再び 三郷の石田さん作品展を計画」
http://townjoho.co.jp/%E5%86%99%E7%9C%9F%E5%AE%B6%E6%A8%AA%E5%86%85%E5%8B%9D%E5%8F%B8%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%86%8D%E3%81%B3%E3%80%80%E4%B8%89%E9%83%B7%E3%81%AE%E7%9F%B3%E7%94%B0%E3%81%95%E3%82%93/
安曇野市三郷温の写真家石田道行さん(53)らは、昭和初期にアマチュアカメラマンの先駆けとして活躍した松本市筑摩出身の横内勝司さん(1901―36年)の作品展を計画している。横内さんと、その作品については2005年、本紙が「大量のガラス乾板発見」の記事で報じ、話題を呼んだ。石田さんは「これらの写真は松本の宝」といい、10年の時を経て再び光が当たる。
作品展は石田さんと同じく写真家の橋坂紀夫さん(66、松本市渚)、高野邦夫さん(66、新潟県)が実行委員会をつくり、5月1―5日、松本市両島のガーデン&ギャラリー風雅で行う計画だ。
昨年5月、松本市で開いた石田さんの作品展に横内勝司さんの長男祐一郎さん(87、フジゲン顧問)が来場。石田さんの作品に共感した祐一郎さんは、自分の父が写真をやっていたことなどを話し、自宅に作品を見に来るように誘った。
強い興味を持った石田さんは、早速訪れ、横内さんが残した大量のガラス乾板やプリントされた写真を目の当たりにした。何げない日常の一こまだが、日本の原風景を思わせる作品に、石田さんは「今まで約40年間、写真に携わってきたが、こんな衝撃を受けたのは初めて」とし、「あの時代のカメラで決定的瞬間を捉える技術も奇跡だが、写真に対する感性がものすごい。涙が出た」と興奮気味に振り返った。
その後、何回も祐一郎さん宅に通う中で、「作品をこのまま埋もれさせてはいけない」と思い、作品展の開催を提案。祐一郎さんも石田さんの情熱を理解し昨年末に了承、ガラス乾板など全てを貸し出した。
◇横内さんについては本紙が2005年2月13日付で「自宅の天井裏から大量のガラス乾板が発見された」として作品の内容や足跡などを報じ、写真に写っている場所なども調査。その後、「横内勝司の世界」と題し、全50回にわたり作品を紹介した。
石田さんは既に、1000枚近い作品をデータ化。橋坂さん、高野さんと作品展に展示する写真選びをする段階まで準備が進んでいる。
5月の作品展は第1弾と位置付け、その後は大きな会場での開催を目指し、巡回展も視野に入れている。
石田さんは「横内さんの作品を松本から全国に発信したい。日本に埋もれているこうした作品に、光を当てるきっかけにもしたい」と話した。 (浜秋彦)









人生の区切りとしての80歳になって非常に嬉しく感じる5つの理由

2016年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム
人々は一般的に60歳になる前の若いころは、老境というものに興味がありません。老人になることを嫌っています。
ですから今日の記事にもご興味は無いと思います。しかし若い人もいずれは70歳、80歳にすぐになってしまうものです。
私も老人になるのは嫌だと思っていました。でもこの1月18日に満80歳の傘寿になりました。
ここ数日何故か嬉しくて心が浮き立つのです。60歳や70歳になったときは別に嬉しくも可笑しくもありませんでした。
それなのに80歳になった途端に、嬉しさが沸々と心の底から湧いて出るのです。それは休火山が久しぶりに噴火をして、熱い溶岩が流れ出ているような感じなのです。
そこで何故こんなに嬉しくなるのだろうかと考えています。5つほど理由があることに気が付きました。列挙いたします。
(1)戦前、戦後の食糧難を通って、よくぞ80歳まで健康に生きてこられたことに感慨を覚え、嬉しいのです。
(2)自分を大切にしてくれた両親や伯父叔母より早く死ぬ不孝をしなかったことが嬉しいのです。
(3)恩人や友人との楽しい思い出が沢山つまった80年を振り返ることが嬉しいのです。
(4)車を自分で運転して、杖をつきながらも寂し気に咲く梅の花や華やかな金色に咲くロウバイの花の写真を撮れるのが嬉しいのです。
   ちなみに今日の挿絵代わりの写真としてこの昨日撮ったロウバイの花の写真を示します。
(5)風貌が悪く短足な自分の容姿にもう劣等感を持たなくなったことが嬉しいのです。何と言われようともう80歳なのですから。
老境に至ると人それぞれいろいろな感慨を覚えます。
現役の頃仕事に打ち込んでささやかながらも纏まった成果をあげたことに充実感を覚えます。そして恥多い人生という言葉があるように自分の数多い失敗を反省もします。ところが80歳になるとその喜びや悲しみがはるか彼方の出来事のようになるのです。心が軽くなるのです。
なぜか華やかな気分になります。
上に書いた5つの理由についてもう少し書き加えたいと思います。
(1)戦後の食糧難の時、祖母と一緒に寒い冬の日に宮城県の北部の田舎に米の買い出しに行ったことを思い出すのです。塩タラや塩イワシがご馳走だった戦後の10年間を生きて来たことを考えると、80歳まで生き抜いたことが嬉しいのです。
(2)父は数えで80歳で亡くなりました、母もその後亡くなりました。親の亡年より早く子供が死ぬという不幸をせずに済みました。親だけではありません、年上の恩人たちより早く死ぬ不義をしなかったことが嬉しいのです。
(3)幼友達や中学時代の友人と60歳過ぎに再会し実に楽しい会話をしました。中学時代からの親友の大川君は会うたびに、「俺はせめて80まで生きるぞ!後藤も80までは生きていろよ!」と繰り返し言っていたのです。この言葉通りになったことが嬉しいのです。
昔の友人達だけではありません。このようにしてインターネットを通して出来た友人達と楽しいい会話を楽しめるのが嬉しいのです。
(4)杖を突いて歩くようになると人々がみんな大変親切にしてくれます。ああ人間はなんと素晴らしいと感動することがたびたびです。
他人の優しさが分かったので嬉しいのです。
(5)私は容貌が悪く、若い時からそのことを劣等感として持っていました。
ところが80歳になってしまえば皆同じように皺くちゃです。容貌の良し悪しなんて問題ではありません。劣等感から完全に解放されました。と今朝の食卓で家人に言いました。そうしたら「同じ老人でも身なりを何時もきちんとしていて、挙措動作が美しい人は良いものです」と反撃します。私は反撃に反撃を返さずに静かにその言葉を受け入れました。そして以後、身なりと挙措動作に注意することにしました。これも80歳になったお陰で素直に妻の言葉が受け入れられるようになったのです。
つまらない話で失礼しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料======================
(1)還暦、古希、傘寿、米寿とは?
(http://www.kyosei-tairyu.jp/age-celebration/466-life.html)
年齢を重ねるとその年に応じて様々呼び方が付けられていて、特別なお祝いとして長生きをしている方を敬い感謝する意味を持っています。
よく知られているものとして還暦や傘寿、米寿、白寿等があありますがこの他にも多くの年祝いがありますので確認してみましょう。
年祝いの名前、年齢、意味や由来(http://www.kyosei-tairyu.jp/age-celebration/466-life.html より)
還暦(かんれき) 61歳 皆さんご存知の干支は十干と十二支の組み合わせからできているものとされています。この十干と十二支の組み合わせは60種類あり、自分の生まれた年と同じ干支が回ってくることで生まれ変わりを意味しそれがちょうど六十一歳の時になうと言われています。生まれ直すという意味から赤い頭巾やチャンチャンコが贈られます。還暦の呼び方は他にも「本卦がえり」ということがあります。
古希(こき) 70歳 古希という呼び方の由来は中国の詩人杜甫の詩「人生七十古来稀なり」からとられているとされています
喜寿(きじゅ) 77歳 喜寿の由来は喜の文字が七・十・七と分解されることからこの名前がつけられました
傘樹(さんじゅ)
八十寿(やそじゅ) 80歳 傘寿の傘の由来はこの文字を分解すると八・十二分解できることが由来しています
半寿 81歳 半寿の由来は八・十・一に分解されることから半という文字が当てられています
米寿(べいじゅ) 88歳 米寿の米という文字が選ばれている理由は八・十・八に分解できるということが由来しています
⇒ 米寿のお祝いについて詳しく知る
卒寿(そつじゅ) 90歳 卒寿の卒の文字は俗字が「卆」となっており九・十に分解できることが由来しています
白寿(はくじゅ) 99歳 白寿の白が当てられている由来に百という文字から一を引くと九十九二なるということが由来しています。
(2)古希の由来になった杜甫の漢詩
杜甫の詩「曲江」(「古稀」の語の出典)
    曲 江  杜 甫
 朝 囘 日 日 典 春 衣 
毎 日 江 頭 盡 醉 歸
酒 債 尋 常 行 處 有
 人 生 七 十 古 來 稀
 穿 花 蛺 蝶 深 深 見
 點 水 蜻 蜓 款 款 飛
 傳 語 風 光 共 流 轉
 暫 時 相 賞 莫 相 違
(通釈)朝廷から戻ってくると、毎日のように春着を質に入れ、
     いつも、曲江のほとりで泥酔して帰るのである。
      酒代(さかだい)の借金は普通のことで、行く先々にある。
      この人生、七十まで長生きすることは滅多にないのだから、
      今のうちにせいぜい楽しんでおきたいのだ。
      花の間を縫って飛びながら蜜を吸うアゲハチョウは、奥のほうに見え、
      水面に軽く尾を叩いているトンボは、ゆるやかに飛んでいる。
      私は自然に対して言づてしたい、
     「そなたも私とともに流れて行くのだから、ほんの暫くの間でもいいから、
      お互いに愛(め)で合って、そむくことのないようにしようではないか」と。
(http://www.geocities.jp/sybrma/14toho.shi.koki.htm より。)









「今日の梅の花の写真をお楽しみ下さい」

2016年01月22日 | 写真
今日も青空に誘われて梅林へ行きました。府中郷土の森博物館公園の梅林です。梅林の隣には満開のローバイ(蝋梅)の畑も広がっています。
人影まばらな静かな公園で一人で無心に写真を撮って来ました。
蝋梅の花の写真は明日掲載いたします。このような時間の過ごし方は気分の良いものです。写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。













世界に日本人の偉さを示した高山右近の武士道精神

2016年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日の新聞によると高山右近という戦国時代の武士がローマ法王によって福者に認定される運びになりました。
数年前にマザーテレサやヨハネ・パウロ2世がやはり福者として認定されています。
福者はカトリック教会が世界的に偉い人が死んだ後に送る称号で、福者になると数年後には、最高の称号の聖者を与えられます。信仰を貫いて殉教した人や奇蹟を起こした熱烈な信者に贈られます。その大部分は聖職者です。
日本の武士が福者、そしてやがて聖者になるのは前代未聞のような珍しい出来事です。
それでは高山右近が何故、福者に認定されたのでしょうか?
そこで高山右近の人生を簡略にご紹介いたします。
右近は地方領主の家に生まれました。そしてカトリックの洗礼を12歳で受けます。その後、数多くの戦いで頭角をあらわし、有名な戦国武将になります。
後に織田信長や秀吉に仕え、秀吉のもとで高槻城の城主になり、戦国大名になったのです。
右近は天文21年(1552年)に友照の嫡男として生まれた。父が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けたのです。その父は居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたため、右近もジェストというの洗礼名を得たのです。なお父の洗礼名はダリヨで母の洗礼名はマリアでした。
右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなったと言います。たとえば牧村利貞・蒲生氏郷・黒田孝高などがその例です。細川忠興や前田利家は洗礼を受けなかったが、右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的であったようです。
慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去します。
長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに到着しました。
イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けたのです。
しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月8日(1615年2月4日)に息を引き取ります。享年64。
葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげて聖アンナ教会で盛大に行われました。
ここからが私の推測です。間違っているかも知れません。
何故、ジェスト(あるいはユストとも読む)高山右近はこの世の栄華をさらりと捨て長崎から船に乗ったのでしょう。カトリックの信仰さえ捨てれば高槻城の城主としてとどまっていることが出来たのです。
右近の潔い態度は武士道の精神の変形ではないかと私は推測しています。武士道で重要な心は忠誠心です。清貧に甘んじ自己の武芸の修練に打ち込むのです。そして一旦緩急の折には自分の命をなげうって主君の為に戦うのです。質素な生活にあまんじ人格者になるための修行の毎日を送るのです。
ここで高山右近には主君の秀吉の上に、神とイエスが見えたのです。そして次第に本当の主君は秀吉ではなく全知全能の神であると思うようになったのです。イエスさまの優しい愛が右近を堅い信仰へといざなったのです。
彼には恐れるものがありません。長崎から船に乗る時は高揚した楽しい気分だったに違いありません。
そしてフィリピンで大歓迎を受けたあとで天国に昇ったのです。それは幸せな生涯でした。しかし余人には真似の出来ない生涯でした。
神やイエス様に対する忠誠心といえばもう一つの例をご紹介いたします。
それは昔のことですが、日露戦争が始まったときニコライの言った言葉です。「私は祖国、ロシアに仕えているのではない。神に仕えている。だから戦争が始まっても私はロシアに帰らない。日本人信者とともに居る」といって日本の土になったのです。明治天皇は彼の谷中の墓へ花束を贈ったのです。
今日の挿絵代わりの写真は高山右近がフィリピンで死ぬ前に見たと思われるフィリピンの花々の写真です。
その出典は、http://uscities.web.fc2.com/asia/manila/plant-j.html です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料==========
戦国時代の武士としての高山右近の活躍:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91 より抜粋しました。
高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主である。出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つともいわれる。父の友照が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、三好氏の重臣・松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原)を居城とした。
そうした中、右近は天文21年(1552年)に友照の嫡男として生まれた。
天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が没すると、明智光秀は右近と清秀の協力を期待していたようだが、右近は高槻に戻ると羽柴秀吉の幕下にかけつけた。まもなく起こった山崎の戦いでは先鋒を務め、清秀や池田恒興と共に奮戦、光秀を敗走させ、清洲会議でその功を認められて加増された。また、本能寺の変後の動乱で安土城が焼けると安土のセミナリヨを高槻に移転した。賤ヶ岳の戦いでは岩崎山を守るものの、柴田勝家の甥・佐久間盛政の猛攻にあって清秀は討死し、右近はやっとのことで羽柴秀長の陣まで撤退して一命を保った[5]。 その後も小牧・長久手の戦いや四国征伐などにも参戦している。
秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城とした。しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行される。キリシタン大名には苦しい状況となるが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせた。その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後国などに隠れ住むが、天正16年(1588年)に加賀金沢城主の前田利家に招かれて同地に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らした。

天正18年(1590年)の小田原征伐にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍している。金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれる。また利家の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われる。慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれる。









「花屋さんの店先にはもう春が来たようです!」

2016年01月21日 | 写真
お正月から家の中に飾ってあった花がみんな萎れてしまいました。花の無い家は淋しいものです。そこで大きな花屋さんへ花を買いに行きました。暮れにあった葉牡丹やシクラメンやポインセチアなどがすっかり消えてしまって春の明るい花々が沢山飾ってありました。
まだまだこれから寒くなるのに花屋さんの店先にはもう春が来たようです。それにしても季節のめぐりは速いものですね。
三鷹の東八道路に面したJマートで撮った写真です。お楽しみ下さい。









台湾を想うと心が痛む(1)蔡 英文総統の誕生と蒋介石のことなど

2016年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム
台湾の選挙で民進党の蔡 英文さんが次期総統になることになりました。彼女は台湾を独立国にしたいという気持ちがあると言われています。
そんなことは北京の習近平国家主席は許す筈がありません。台湾海峡が急に緊張します。これに一番脅威を感じているのがアメリカです。
中国が台湾を武力占領し統一すれば東アジアがその戦争の影響を受け大変なことになります。
そこで日本の政治家もにわかに台湾の問題を考えています。
再軍備派の安倍総理はひそかに蔡 英文さんと気脈を通じている様子です。
それでは蔡 英文さんとはどういう女性なのでしょうか?
父親は台湾客家の旧家の出だそうです。台湾のトップ名門大学である国立台湾大学法学部卒業後、アメリカのコーネル大学ロースクールで法学修士を取った後、イギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで法学博士を取得したそうです。帰国後、国立政治大学及び東呉大学の教授に就任し、専門は国際経済法です。大変な才媛であることに間違いはありません。
戦前生まれ、戦後育ちの私は台湾のことになると心が痛むのです。
これから台湾の歴史などを調べて連載記事を書こうと思っていますが、今日は多少、支離滅裂な私の台湾に対する感じ方を書いてみます。
体系だっていない私の心の痛みです。
(1)台湾は日清戦争の結果、日本の領土になった地域です。日本統治時代は1895年 から 1945年までの50年間も続いたのです。その台湾では日本軍の無血占領ではなかったのです。
1895年5月25日、大日本帝国への割譲反対を唱える漢人により台湾民主国の建国が宣言され進駐した日本軍との乙未戦争に発展したそうです。日本軍の圧倒的に優勢な兵力の前に政権基盤が確立していなかった台湾民主国は間もなく崩壊し、1896年に三一法が公布され台湾総督府を中心とする日本の統治体制が確立したのです。
もともと清朝の支配地を日清戦争で奪ったことにまず心が痛みます。
(2)次期総統の蔡 英文さんの父親は台湾で日本軍に協力した漢奸です。漢民族を裏切って日本へ寝返った中国人を漢奸といって蔑むのです。「蔡 英文さんの父親」を検索すると中国人が父親を「漢奸」と呼んで非難している文章が出てきます。
このことに私の心が痛みます。
(3)中国大陸を追い出された蒋介石総統の率いる国民党とその一派は台湾を占領するると過酷な台湾統治をするのです。蒋介石の圧政に反対する台湾人を連日逮捕し、川原で公開処刑したそうです。その惨劇は長い間続いたそうです。この残酷な政治に私の心が痛みます。
(4)日本の敵だった蒋介石が戦争賠償を放棄したので戦後の彼は日本の友人に変わったのです。従って蒋介石の残酷な台湾人虐殺のニュースは日本ではほとんど報道されなかったのです。
このことに私の心が痛みます。
(5)蒋介石は台湾を独立国家として宣言すれば共産主義の中国大陸と決別出来たのです。しかしそうすれば国連の5つだけの常任理事国の座を毛沢東に渡さざるを得なかったのです。
独立国になっていれば現在の複雑な中国大陸との関係が随分と整理出来たのです。残念と思うのは私だけでしょうか?
(6)台湾は世界一の親日国なのです。それなのに多くの日本人は台湾に関心が薄いのです。これに心が痛みます。
(7)その他いろいろ心の痛む原因がありますが最後にキリスト教関連のことを書きます。
蔡英文さんは台湾基督長老教会が運営する台北雙連幼稚園に通ったこともあり、長老教会と関係の深いキリスト教徒のようです。
私の心の痛む問題は中国大陸のカトリック(天主教)が北京政府の反対でローマ法王の傘下に入れないことです。
台湾の天主教はローマ法王の傘下に入っているのです。私はカトリック教徒です。ですから台湾のカトリック教会が中國大陸の天主教の教会と連携を密にして、間接的にローマ法王の影響下に入るようにして貰いたいと期待しています。しかしその動きが見えて来ません。このことでも私の心は痛みます。

以上のように台湾のことになると私の心が揺れるのです。個人的な感情を書き過ぎたようなのでこの辺で今日は終わりと致します。
今日の挿絵代わりの写真は昨日、小金井公園で撮った梅の花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)