後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

朝日新聞の中国よりの体質に関する資料の紹介

2013年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム

朝日新聞は何故中国より、韓国より、共産国家へ同情した体質を持っているのでしょうか?

誤解を避けるために先ず書いておきます。日本は成熟しつつある民主国家ですから一新聞社が日本政府へ反対する記事を書こうが、親中国的な体質を持っていても自由です。

国家権力で弾圧すべきではありません。あるいは朝日新聞の不買運動をすべきでもありません。自由にさせてるのが良いのです。それが民主主義というものです。

さて、それはそれとして、朝日新聞へ対して次のような意見を言う人がいます。

====http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5586470.html よりの転載です=====

朝日新聞は日本のガン細胞でした。
数千万人以上も自国民を粛清した中国の文化大革命を高く評価しながら中国人や韓国人の捏造話を針小棒大に拡大して反日キャンペーンを必死でやり(本多勝一記者など)、中国や韓国の反日を過激化し加速化した張本人の朝日新聞。 とうてい日本人の業とは思えない非道な日本叩きと日本軍人叩き。日本にむけられた北朝鮮や中国の核ミサイルをスルーしながら死に物狂いで日本の非武装化だけは推進。また米国で突然話題となった「従軍慰安婦イコール性奴隷説」の決議案等も、もとはといえば朝日新聞社が何年にも渡り世界中にばらまいたデマのせいで現在の日本人が苦しめられているのです。頭のおかしい新聞社の尻拭いをさせられるのは我々若い世代の人間です。私は絶対に朝日新聞を許さない。

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これに対して、何故、朝日新聞はこのような体質になったのかについて理路整然とした説明があります。

それは田辺敏雄氏のホームページの一部、「朝日」は何を、どう報じて来たか?

(その一)に明快に書いてあります。詳しくは、http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/virus/v-asahi-1.htmlにあります。

=======田辺敏雄氏のHPの抜粋============

 昭和前期(~1945年8月)を中心とするわが祖国を、日本軍・民が犯したとされる残虐行為をとおして断罪、いわれるところの「反日史観、自虐史観」 へと導きました。その最大の「功労者」は間違いなく朝日新聞であり、その先駆けとなったのは1971(昭和46)年8月に始まった連載「中国の旅」 であったと断じて間違いないものと思います。
   「中国の旅」という一新聞社の一連載(約40日間)をもって、ただちに反日史観、自虐史観が形成されたわけではもちろんありません。当時の風潮は中国の文化大革命にも影響を受けたのでしょう、「なんとなく左翼気分」も手伝って、大きな影響力を持たせる一因になったのだと思います。
 「天下の朝日」 が報じて大反響を巻き起こしたとなれば、一部を除くほとんどのメディアがバスに乗り遅れるなとばかり、さらなる日本軍民の悪行発掘に精を出したことでした。
 また近現代史を専門とし、歴史学会をリードする左派系の大学教授がソレっとばかりに日本断罪で足並みをそろえます。日教組が牛耳る教育界も「平和教育」という大義名分のもと、教科書、授業をとおして、日本軍・民の残虐行為の生徒への叩き込みが加速しはじめました。

・・・・中略・・・・・・・・

GHQによる情報操作へ迎合した様子。(後藤による一行挿入です)

敗戦直後からGHQ(占領軍総司令部。所在地は東京・日比谷の第一生命ビル)によって行われた 「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」 (WGIP)について、すでに概要は記しました。「中国の旅」について記す前に、「南京大虐殺」 を例にとって振り返っておきましょう。
 終戦4ヵ月後の12月8日から、GHQはこの宣伝計画にそって、「太平洋戦争史」 (全十回)の掲載を始めるよう新聞各紙に命じました。
 もちろん、12月8日の初回は、日本人の誰もが知っていた日米開戦の発端、真珠湾攻撃の日に合わせたものでした。
 この連載は後に単行本(右側の写真)となりますが、学校教材として使用が命じられたため、10万部が売れたとのことです。
 連載の初日、まず「南京虐殺」が取り上げられました。日本人が「南京大虐殺」の存在を知ることになった初めての報道です。

〈 このとき実に2万人の市民、子供が殺戮された。
4週間にわたって南京は血の街と化し、切り刻まれた肉片が散乱していた。
婦人は所かまわず暴行を受け、抵抗した女性は銃剣で殺された。 〉
― 1945(昭和20)年12月8日付け朝日 ―

 GHQの絶対支配下におかれたNHKラジオも利用されます。「太平洋戦争史」をドラマ仕立てにして、「真相はこうだ」 が新聞連載開始の翌日(12月9日)から放送されます。もちろん、新聞とラジオの相乗効果を狙ったものでした。
 「南京事件」のところでは、銃を撃つ音、暴行を暗示する女性の悲鳴などをバックに、「大虐殺。南京では1度や2度ではない。何千回となく行われたんだ」 のセリフが繰り返し入れられていたとのことです。
 あまりに日本将兵の実感と離れていたというか、ウソで固めた放送内容だったためでしょう、NHKに抗議が殺到します。このため放送は10回で終わりますが、すぐに化粧直しをし、「真相箱」 として登場しました。今度は質問を受けて答えるという形式をとります。

・・・・「中国の旅」が引き起こした「集団ヒステリー状態」・・・・・
 1971(昭和46)年、GHQにとって代わったかのように、日本軍の“悪 行” を告発し、断罪する人たちがでてきたのです。口火を切り、先導役をつとめたのは間違いなく 朝 日 新 聞 社 です。
 この年の8月から12月まで、現地ルポと称する「中国の旅」の連載をもって、朝日新聞社による日本軍断罪一大キャンペーンがはじまりました。 報告者は本多 勝一記者 でした。
 連載は平頂山事件 にはじまり、万人坑、南京、三光政策 の4部に分けて報じられました。
 各部は約10回でしたから、通算で約40回、40日間の長期連載になりました。
 また連載とともに、「アサヒグラフ」「週刊朝日」「朝日ジャーナル」 など、朝日新聞社は手持ちの活字媒体を総動員します。
 例えば「週刊朝日」は「大河ルポ 中国の旅」 と題して、「防疫惨殺事件」 などを、本多記者に同行取材した古川万太郎記者が報じました。
 これらは後に単行本、文庫本『中国の旅』(共に朝日新聞社)になりますが、「中国の旅」連載こそが昭和の歴史を貶めた原点だった思います。なにせ中国における日本軍および民間人がやったことといえば、残虐行為以外のなにものでもなかったと描かれていたからです。
 それも中国のいうがままを鵜呑みにし、あたかも事実であるかのように装った悪質なルポであり、報道の名に値しないものであったと断言して誤りはないと思います。
 報道時の日本人の反応を終戦時、陸軍少尉であった 山 本 七 平 は、以下のように「集団ヒステリー状態」 と喝破しました

〈 日中国交前に本多勝一記者の『中国の旅』がまき起こした集団ヒステリー状態は、
満州事変直前の『中村震太郎事件』や日華事変直前の『通州事件』の報道が
まき起した状態と非常によく似ているのである。 〉
―『日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヵ条 』 角川、2004年。初出は「野生時代」1975年4月号 ―・・・・以下省略・・・・

=======そして曽根綾子が怒る=================

となれば、「中国の良い点を書き、悪い点を書くな」 という広岡社長の記者への指示は、むしろ当然の成り行きだったのでしょう。
 中国にとって朝日ほど利用しやすい格好な報道機関はなかったに違いありません。朝日の論調に「右へならえ」する日本の報道界、言論界の習性を考えれば、朝日をコントロ-ルすることによって、ほんの一部を除く日本の言論界をコントロールできるのですから、朝日は中国にとっていたって便利な存在であったはずです。
 曽野 綾子 が産経新聞に連載しているエッセイで、「中国礼賛し続けた日本のマスコミ」と題し、起こったばかりの尖閣諸島での「中国漁船衝突事件」にからめ、マスコミの実態を以下のように暴いています(2010年10月29日付、一部抜粋)。
〈 今から40年前、産経新聞と時事通信を除く日本のマスコミは、絶えず脅しを受けながら、
 特派員を受け入れてもらうために、完全に中国政府の意図を代弁する記事を書き続けた。
 朝日、毎日、読売などの全国紙、東京新聞他のブロック紙などは、
中国批判はただの一行たりとも書かず、私たち筆者にも書くことを許さなかった。
 私が少しでも中国の言論弾圧を批判すれば、
その原稿は私が内容表現を書き直さない限りボツになって紙面に載らなかった 〉

 40年前といいますからまさに1970年頃になります。共同通信社を含むほとんどの新聞は、日頃の言とは裏腹に己の目先の利益のために紙面を中国に売り払ったのです。裏を返せば、紙面に載る中国関連物は、報道、論説、論壇等を問わず中国へのオベンチャラだけがまかり通ったことになります。
 「北京の空は青かった」「ハエが一匹も見当たらない」「子供たちの眼は輝いていた」式の報道を私も読まされました。同時にアホくさいという反論も週刊誌などで読みましたが。
 曽野綾子は〈 私にいわせればマスコミは正気で「発 狂」していた 〉と表現、当時の報道の責任を厳しく問い、・・・・以下省略・・・・・・

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その他、関連資料のURLをご紹介いたします。

コミンテルン:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3

共産主義:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9

共産党宣言:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E5%AE%A3%E8%A8%80

以上の情報は、次回掲載予定の、「戦後の日本人の自虐趣味の誤り(6)何故、朝日新聞は共産主義国家に味方するのか?」の導入資料です。あらかじめ、ご一読おき頂ければ助かります。

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追記:朝日新聞は何故共産主義の影響を深く受けて来たか?

http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/virus/v-asahi-2.html より転載。
  日本を占領したGHQ(占領軍総司令部)は、敗戦の翌年1月(1946=昭和21年1月)、指導層を一掃するために「公職追放令」 をもって軍人(少尉以上)、軍国主義者とみなされた政治家らを公職から追放しました。翌1947(昭和22)年1月には言論界、財界、地方公職なども対象を広げ、これにより追放された数は合計21万人に上ったとされています。
 言論界からも多数が追放され、追放を免れた人の多く(80%説あり) が、左翼または左翼のシンパだったといわれています。占領軍の政策は当初、労働組合の結成を促進することでしたので、1947年8月には
日 教 組が、また産業界などと並んで新聞業界にも組合が誕生します。もちろん追放を免れた人が組合結成を主導したわけですから左傾向が強くなって当然でした。
 朝日新聞でいえば、地下に潜入していた聴濤 克己(きくなみ かつみ)が復帰、「ゾルゲ事件」 と連座して退社した田中 慎次郎 ももどってきました(再入社)。また後にマルキストであったと自ら認めた森 恭三 (広岡社長時代の論説主幹)も社内影響力を強めます。
 聴濤は後に日本共産党中央委員、アカハタ編集長、同党衆議院議員になっていますし、田中 慎次郎は同じ朝日記者出身で、満鉄に在籍していたコミンテルンのスパイ・尾崎 秀実(おざき ほつみ)に軍事機密を流したかどで検挙される経歴を持っていました。その田中は朝日復帰後、出版局長に昇進し「朝日ジャーナル」 を創刊(1959=昭和34年3月)、「全共闘の機関誌」などと一部で批判はあったものの部数を伸ばし、最盛期には8万部を超える勢いだったと記憶します。
 1945(昭和20)年11月、「(朝日)東京本社従業員組合」が結成され、委員長に選ばれたのが聴濤 克己でした。そして組合を舞台にして、後に広岡時代を築いた広岡 知男らが頭角を現わしてきたのでした。
 一方、社主家にあたる村山長挙社長、上野精一会長、編集幹部はというと、公職追放令が出る前に社内で「戦争責任」を追及され、朝日を事実上、追い出されています(表向きは総辞職)。村山、上野の2人が公職追放となったのは1947年10月のことでしたから、厳密にいえば前社長、前会長のときでした。
 そして組合の選挙で長谷部 忠社長以下の経営陣が選出されました。ですから、経営陣は組合の強い影響を受けざるを得ず、左翼路線を走るのは当然の帰結だったといってよいでしょう。


40年間続いたつまらない趣味・・・でも人生で一番重要だった趣味

2013年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム

この趣味は、始めてから40年になります。私の趣味の中で一番長続きしたものです。そして私の人生においても、いろいろ重要な役割をしてくれました。

その趣味は甲斐駒岳の麓の山林の中の質素な小屋へ通う趣味です。小屋の西には甲斐駒がせまり、北の方には八ヶ岳が見えます。東の丘に登れば白樺林があり、その下には広い牧草地が広がっています。

森の奥深くにあるので、悪路を根気よく車で登って行きます。

空気が新鮮です。イノシシや鹿が棲んでいます。猿や兎も時々見えます。

街燈などはありませんから夜は真っ暗闇です。満月前後には木々の梢の間から明るい月が見えます。丘に登れば満天の星です。

そんな小さな小屋へ行って、ただボンヤリしているだけです。とてもつまらない趣味です。心が躍るようなことは一切起きません。

春にはウグイスの美しい声が響き、夏の朝夕には淋しげなヒグラシゼミの声が聞こえてくるだけです。

そんな中でボンヤリしていると自然に思索が深まります。その思索が私の人生を支えてくれます。それがこの小屋の趣味の重要な役割の一つと思っています。

この趣味は1973年に始めました。つまらないからこそ40年間も続きました。一生、続けるつもりです。そんな趣味の小屋を写真で示します。

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この写真は、小屋を西から見た後姿です。右側が6畳間の寝室で左側が4畳半ほどの台所兼食堂です。まわりに木造の風呂場や焚火小屋やバンガローを自分で作りましたが、それらは山火事で燃えてしまったり、台風で倒れたりして、現在は写真のような母家だけになってしまいました。コンクリートは何時までも腐らないし倒壊しません。

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この写真は小屋の東面です。ガラス窓が東面と南面についています。右側に、ポツンと建っているのがスチール製の物置です。スコップやクワなどの道具類が入っています。薪も入っています。右下の端に小川の青い水面が少し写っています。

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この小屋の東側の庭には一年中水の枯れない小川が流れています。

夏にはオニヤンマが清流の上を飛んでいます。ヤマメも上ってきます。

しかしホタルはいません。冬が寒すぎるためヤゴが育たない為でしょう。

写真に写っている立っている丸太は最近近所の伐採現場から頂いて来たものです。椅子として重宝しています。

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夕方になると炉に火を焚いて、ビールを飲む準備を始めます。この炉は私が終戦の頃に疎開していた農家の囲炉裏の形を思い出しながら作りました。こんな炉で日本人は4万年前の石器時代から食材を料理して生きてきたのです。

土器が出来た16000年前の縄文時代から魚貝やイノシシを煮込む土鍋も出来たのです。このような囲炉裏が日本から消えたのは1975年頃のことです。

そんな事を考えながら冷えたビールを飲みます。肴は朝食用に持ってきたソーセージを焚火で焼いて食べました。朝食はコーヒーとトーストだけになります。それも一興です。

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夜の小屋は冷えます。春とはいえ標高900m位なのでまだ冬です。この写真のような簡単な薪ストーブを燃やします。急に室内が温かくなります。

薪の燃える音を聞きながら持参した新聞を丁寧に読みます。小屋においてある古い本もゆっくり読みます。テレビの無い夜は静かです。

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朝が明けると、東の窓からこんな風景が見えます。木々の新緑をしばらく見てから卓上コンロで湯を沸かし、顔を洗います。

香りの良いコーヒーを淹れ、トースターでパンを焼き、それだけの質素な朝食にしました。

外に出て西の方を見ると下のような別荘があります。

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道路の左にある別荘は勝沼のブドウ栽培家の中村さんのものでした。もう随分以前に亡くなった方です。バケツ一杯のブドウを発酵させて葡萄酒を作る方法を教えてくれたことを思い出します。現在はその息子さんが家族でたまにやって来ます。

そんなことを思い出しながら、朝食後は家内をさそって、山の新緑の写真を撮りにでかけました。撮った写真は、新緑の山里の写真をお楽しみ下さい で示したとうりです。

この山林の小屋には電気も水道もガスも一切ありませんでした。始めの頃はホンダの300W発電機で電燈をつけていました。その後、電気だけは引きました。

40年間の間にいろいろなことがありました。昔、一緒に遊んだ人々が一人、一人、と旅立っていきます。少しだけ淋しくなります。

つまらない趣味です。つまらない話です。ごめんなさい。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


新緑の山里の写真をお楽しみ下さい

2013年04月29日 | 写真

昨日の午後に家を出て山梨の甲斐駒岳の麓の小屋に一泊して来ました。

標高900m位の山林の中にある小屋なので、周囲の雑木林はやっと芽吹いてきたばかりです。浅い色合いの新緑がみずみずしくつい沢山写真を撮ってしまいました。

今回は家内も一緒だったので近所の山荘に住んでいる木内さんを訪ね、エンレイソウ、イカリソウなどの花を見せて貰いました。またフランス人の所へ挨拶かたがた雑談に行って来ました。土いじりの好きそうな日本語のできる中年の男性でした。

あまりにも新緑が綺麗なので、車で山里を巡りながら写真を撮ってきました。お楽しみ頂ければ 嬉しく存じます。

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甲斐駒岳の下の牧草地にも緑の芽が出て来ました。

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小屋に上がる道の雑木林はやっと芽吹きはじました。その薄緑がよいものです。

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山里の田圃は代搔きが終り、満々と水が張られています。

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車で山奥に入って行くと新緑の間に山桜が咲いていました。

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ここは毎年来るところです。花の好きな農家が毎年、毎年このように花畑を作っています。その上、傍に無料の駐車場まで作ってくれています。

訪れる人に花畑を見てもらうのが嬉しいのでしょう。べつに農産物を売る小屋があるわけでもなく、人影がありません。この花畑を作っている人の温かい気持ちで幸せな気分になります。毎年、幸せな気分になるのです。


遥かに広がる村山貯水池の風景

2013年04月29日 | 写真

毎日遊びまわって時を過ごしています。それにしても時々、広々とした水面の広がりを見たくなります。そんな時には車で50分程の村山貯水池へ行きます。周囲の雑木林の新緑が美しい季節です。4月26日に撮った写真です。

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私は現在の日本を非常に誇りに思っています!

2013年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新以来、日本は欧米文化を必死で取入れ、富国強兵に専念してきました。

第二次大戦で荒廃した日本を復興させる為に、人々は歯をくいしばって頑張りました。このような時代が1990年のバブル経済の崩壊まで続いたのです。

経済の高度成長が続いている社会では、個人の自由より組織の強化と利潤追求が優先されるのが自然な成り行きです。

戦後は民主主義になりましたが、社会の実態は個人の自由と平等には大きな制限があったのです。それは組織の利益追求をする限りにおいて許された自由と平等でした。

私個人は日本に真の民主主義が浸透し始めたのは1990年頃のバブル経済崩壊からと理解しています。

それ以来、より多くの日本人が世界中の国々へ個人の責任で住み込み、個人的に活躍し、尊敬を集めるようになって来ました。

その事を私は誇りに思い、心が豊かになります。

各国で芸術活動をする。植林をする。貧困な人々を救援する。個人的な商取引きや企業活動を現地の人と共同で行う。日本人の職人技を伝える。枚挙にいとまの無いほど多種多様な活躍です。

それらは以前のように大会社から派遣されるのでは無く、個人として活躍し、輝いているのです。

そのように輝いている人々とは別に、各国へ移住して静かに暮らしている人々もいます。

ごく普通の生活をしています。この「ごく普通の生活」を見た外国人が日本人への親近感を持つのです。日本人が好きになるのです。そのような人々が増加しました。

一つだけ実例を上げます。タイのチェンマイにご夫婦で住んでいるGAKUさんです。引退後、タイの人々と仲よく静かに暮らしています。下の写真はご夫婦でタイの地方へ旅をした時の写真です。

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皆様に注意してよく見て頂きたいのは左の方に写っているおばさんの顔です。何かを買いに来た母子へ優しい笑顔を向けています。GAKUさんがカメラを向けても表情を変えていません。それはGAKUさんの顔もオバサンの顔と同じ雰囲気だからです。GAKUさん夫婦が現地の人々に溶け込んでいるのです。オバサンは車で旅をしている夫婦へ親しみを感じて歓迎しています。(写真の出典はhttp://gaku404.exblog.jp/13500729/ です)

外国へ住み、その国の人々と親しくなる。立派な人生です。そんな気楽な交流も非常に重要ではないでしょうか?肩肘張った組織の利益優先を大事にする時代が去って本当に良かった。良い時代になったとシミジミ思う今日この頃です。

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(写真は浜離宮から新橋方面の新しいビル街を見た風景です。小生が撮った写真です)

そこで、現在の日本の社会に生きる人々の幸福度を少し客観的に考えて見ました。

幸福度の比較の方法は、現在の社会を江戸時代、明治時代、戦争前の昭和時代、戦後時代、高度成長期、そしてバブル経済の崩壊から現在までの時期と比較するのです。そうすると非常に明快な評価が出来ます。

結論を先に言ってしまうと「現在の日本は史上最も良い時代」という事になります。より多くの日本人が史上で一番幸せな生活を送れる時代という意味です。勿論、何時の時代でも、どこの国でも不幸で悲しい人生を送っている人々は必ず居ます。

問題は幸せな人生を送っている人の数が不幸な人よりもどのくらい多いかという問題です。

ここまで問題を整理すると結論は簡単に出ます。

江戸時代は士農工商という身分差別があり武士階級だけが威張っていました。現在の日本には階級制度が無いのです。ですから現在のほうがより多くの人々が幸せな人生を送れるのです。

現在の日本は史上稀にみる差別や蔑みの無い最良の社会になっているのです。

そんな社会を私は非常に誇りに思っています。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。

後藤和弘(藤山杜人)


やはりハオウステンボスのチューリップは美しいです。

2013年04月28日 | 写真

花々の咲きほこる陽春の季節になりました。今年撮った花々の写真を見ていましたら、やはりハオウステンボスのチューリップは美しいです。4月15日に撮った写真ですが、下にお送りいたします。

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今日は日曜日なので イエズス会石神井修道院をご紹介いたします

2013年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム

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上の写真はイエズス会石神井修道院の若い修練者が聖なるパンを信者に与えている場面です。この修練者の表情をよくご覧ください。限り無くやさしい表情をしています。そうです。イエス様の愛が彼の顔に漂っているのです。

以前、日曜のミサのお手伝いに修道院から小金井教会へ来てくれていました。

そこで2010年の7月にイエズス会石神井修道院を訪ねて見ました。

お会いして下さった方はイエズス会の塩谷恵策神父様でした。博識な方です修道院の歴史を明快にご説明して下さいました。何も知らない小生へ分かり易くお話して下さったのです。

昔から東洋文庫から出版されていた本を数冊読んで、中国や日本のイエズス会の会員の活躍は知っていました。しかしイエズス会士にお会いするのは初めてでした。興奮しました。

イエズス会士に会えるだけで嬉しかったのですが、お話の内容も感動的でした。

その話によるとイエズス会は1534年にイグナチオ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルなど7人のパリ大学の同窓生がモンマルトルの丘の上で、終生自分たちを神へ捧げる修道会を結成したのです。

私が考えるには、それは当時、マルチン・ルッターなどが始めた宗教改革の動きに刺激されカトリック宗派の刷新運動の一つとも考えられます。

その後、イエズス会はローマ教皇にも認められ、大きな修道会へと発展していったのです。

現在、イエズス会は世界中の112ケ国で2万人の会員が活動しています。

カトリックにはローマ教皇が認可した男子修道や女子修道会が数多くあり、日本人が創設し、ローマ教皇に認可されたものも多数あります。

しかし2万人の会員を擁するイエズス会は現在カトリックでは最大の修道会です。

このイエズス会は全世界への宣教も活発で、1540年ころからインドへの宣教をはじめ、清国、李朝朝鮮、そして日本へも数多くのイエズス会員が送ったのです。

そして1949年には、ザビエルが日本に来てカトリックを伝えたのです。

その他、清朝ではマッテオ・リッチ師のように清朝の高位高官になり中国に溶け込んだ人もいたのです。

日本では明治維新後、再び活動を再開し、上智大学や栄光学院などの高校を数々創設し、運営にあたっています。栄光学院の名前は、イグナチオの座右の銘「神のより大いなる栄光のために」にもとずいているのです。

広い意味ではイエズス会はヨーロッパ文化をアジアへ伝える役割を果たしたのです。

イエズス会の歴史、その使命などは検索するといろいろ出ています。

末尾に参考資料として、その一部を添付しました。

下に私が石神井修道院を訪問した時に撮った4枚の写真をお送りいたします。

上から順に、石神井修道院の正面玄関、船越保武氏作の和風姿のマリア様、石神井修道院の主聖堂、塩谷恵策神父様の御写真の4枚です。

なお船越保武氏は長崎の公園にある26聖人像を造った芸術家です。

その26聖人像に対して、1962年に高村光太郎賞が与えられています。船越さんは敬虔なカトリック信者で東京芸大の教授も務めました。尚、その息子さん桂氏も彫刻家として現在活躍中です。

それはそれとして、

今日も皆様ごの健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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=====参考資料===============

イエズス会とは?

イエズス会は、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。宗教改革以来、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれた。このような軍隊的な呼び名は創立者イグナチオ・デ・ロヨラが修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊ですごしたことと深い関係がある。現代では六大陸の112カ国で活動する2万人の会員がいる。これはカトリック教会の男子修道会としては最大のものである。イエズス会員の主な活動は高等教育と研究活動といった教育活動であり、宣教事業や社会正義事業と並んで活動の三本柱となっている。

イエズス会の保護者は聖母マリアの数ある称号の一つである「道の聖母 」。イエズス会の指導者は終身制で総長とよばれる。現在の総長はアドルフォ・ニコラス師である。会の総本部はローマにあり、かつて本部がおかれていたジェズ教会は歴史的建築物となっている。中国や古くの日本では「イエス」の漢訳が耶穌であることから耶穌会(やそかい)とも呼ばれた。

イエズス会の創設

1534年8月15日、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友だった6名の同志(スペイン出身のフランシスコ・ザビエル、アルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、ポルトガル出身のシモン・ロドリゲス、サヴォイア出身のピエール・ファーヴル)がパリ郊外のモンマルトルの丘の中腹のサン・ドニ聖堂(現在のサクレ・クール聖堂の場所にあったベネディクト女子修道院の一部)に集まり、ミサにあずかって生涯を神にささげる誓いを立てた。この日がイエズス会の創立日とされている。彼らは清貧・貞潔の誓いとともに「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでもゆく」という誓いを立てた。

以下は「モンマルトルの誓い」をたてた7人です。

イグナチオ・ロヨラ(1491年-1556年)、初代総長

ピエール・ファーブル(1506年ー1546年)

フランシスコ・ザビエル(1506年ー1552年清国で客死)、1949年日本へキリスト教を伝える。

ディエゴ・ライネス(1502年ー1565年)、第二代総長

アルファンソ・サルメロン(1515年ー1585年)

ニコラス・ボバディリア(1507年ー1562年)

シモン・ロドリゲス(1510年ー1579年)

1537年、一行はイタリアへ赴き、教皇から修道会の認可を得ようとした。当時の教皇パウルス3世は彼らの高い徳と学識を見て、まず彼らの司祭叙階を認めた。ファーヴルはすでに司祭叙階されていたため、他の6名が1537年6月24日にヴェネツィアで叙階を受けた。オスマン帝国と神聖ローマ帝国のカール5世の間で行われていた争いのために地中海を渡ってエルサレムに赴くことができなかったため、彼らはとりあえずイタリア半島にとどまって説教をしながら、奉仕の業に専念した。

1538年の10月イグナチオはファーヴルとライネスの二人を連れて再びローマを訪れ、会憲の許可を願った。審査した枢機卿会の面々はほとんどが好意的にこれを評価したため、教皇パウルス3世は1540年9月27日の回勅『レジミニ・ミリタンティス』でイエズス会に正式な認可を与えた。このとき、与えた唯一の制限は会員数が60名を超えないようにということであった。この制限も1543年5月14日の回勅『インユンクトゥム・ノビス』 で取り払われた。イグナチオは会の初代指導者(総長)に選ばれ、会員たちをヨーロッパ全域に学校や神学校設立のために派遣した。

会が発展するに伴ってイエズス会の活動分野は三つに絞られていった。第一は高等教育であり、ヨーロッパ各地で学校設立の願いを受けてイエズス会員は引く手あまたであった。イエズス会員は神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴であった。第二の活動分野は非キリスト教徒を信仰に導く宣教活動であった。第三はプロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」になることであった。イエズス会員の精力的な活動によって南ドイツとポーランドのプロテスタンティズムは衰退し、カトリックが再び復興した。

イグナチオが1554年に改定した会憲では、イエズス会が総長をトップとする組織であることが明記され、教皇と会の長上への絶対的な従順を会員に求めた(イグナチオは「死人のごとき従順」 という言葉を用いている)。彼の座右の銘はイエズス会の変わらぬモットーとなった。それは「神のより大いなる栄光のために」 である。これは「どんな活動でもよい意志をもって精力的におこなえばかならず神の国のためになる」という精神を表している。

以下は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%BA%E3%82%B9%E4%BC%9Aに御座います。


多摩市にある明治天皇記念館のご紹介

2013年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム

いつも良い時代になったと感心します。東京都の公園整備の予算が潤沢で、何処の公園も実に緑豊かに素晴らし整備ぶりです。都立公園は23区内に39、そして多摩地区に27、合計66ケ所もあります。その他、都立庭園や動物園、植物園、海上公園などを合計すると100ケ所以上になります。ついでに言えば公園が良く整備されているのは東京都に限りません。全国何処に旅をしても綺麗に整備された公園が多いものです。敗戦の荒廃から65年。日本もここまで豊かになったのです。感慨無量です。

今日は、先日の記事、多摩市連光寺にある新緑の都立桜ヶ丘公園へご案内いたします でご紹介した都立桜ケ丘公園にある、明治天皇記念館(正式名称は、旧多摩聖跡記念館)をご紹介いたします。

中には明治天皇の騎馬像と幕末から明治にかけての志士や政治家の書や手紙が展示してあります。

この公園一帯へは明治天皇がたびたび兎狩りに来られた所で、明治時代の名所のようなものだったそうです。

下の写真の明治天皇を偲ぶ建物は昭和5年、1930年に建てられた西洋館で、多摩市の指定有形文化財になっています。

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そして館内には明治天皇の騎馬像があります。

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・上の写真は明治天皇も訪れた対鷗荘の写真です。下に詳しいことが書いてあります。

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下はこの明治天皇記念館の周りの風景です。

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館内を見ていると明治時代の雰囲気が分かります。それにしても明治は遠うくなったのもです。(終わり)


誇り高い日本人のいろいろ・・・日本民族の誇りとは?

2013年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム

最近、日本人は誇りを持つべきだという議論が多くなってきました。

世の中が少し右傾化してきたからかも知れません。

しかし何を今更そんな議論をするのかと感じています。

私は1960年にアメリカへ留学したのがきっかけで日本人としての誇りを強烈に持つようになりました。

その誇りを口に出して、日本の自慢をしないことが鉄則です。それをしない限り、アメリカ人は誇りを持っている人を助けます。親切にします。尊敬してくれます。

外国でうまく生活するためには「誇り高い人間」にならなければいけません。少なくとも私はそう信じています。

それでは日本人は何故、日本を誇りに思うのでしょうか?

その理由は人それぞれ違うのが普通です。

ある人は日本が大東亜戦争をして欧米の植民地だったアジア諸国を解放したから、その事を誇りに思っています。

経済成長が出来たことを誇りに思っている人もいます。

民主国家として人々が比較的豊かに暮らしていることを誇りに思っている人もいます。

あるいは日本の芸術や学問研究のレベルが高いことを誇りに思っている人もいます。

そして上に挙げた全てを理由にしている人もいます。

さて私について言えば、2つの理由で日本を強く誇りに思っています。

(1)隠れキリシタンが250年もの江戸幕府の弾圧にもかかわらず信仰を守り通したことを誇りに思います。日本人の誠実さ、勇気、不撓不屈の精神を」誇りに思っています。

(2)1945年の徹底的な敗戦にもかかわらず大きな経済成長をし、日本人の学問研究や芸術が世界的にも一流になったことを誇りに思っています。

さて、日本人としての誇りを持っている人は外国人の誇りも理解出来るはずです。外国人の誇りを尊重すれば、その日本人も尊敬されるのです。助けてくれます。

外国に住んだことがある人には誇りの重要さが理解出来るのです。

さて最後に誇りに関して一番重要な事を書きます。

それは自分の誇りの理由を言ったり、宣伝しないことです。それを言ってしまってはお終いなのです。

今日は私の誇りの理由を書きましたが、現在は老境にいるので差しさわりが少ないと信じています。

しかし「あなたは何故日本を誇り思っていますか?」、と聞かれたら、私は理由は分かりませんが日本が好きなのだからですと答えます。

それが私の何時もの答え方です。

下の写真のように氷川丸の丸窓から遥かに見える横浜の街が好きなのです。そして全国の地方、地方の風景が好きなのです。好きになるには理由は要りません。

日本を誇りに思う理由を議論してはいけません。つねづねそう思っています。

それはそれとして、

今日も皆様ごの健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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園芸種の花々の写真をお送りいたします。

2013年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム

園芸種の花々はドギツイ色のものが多いから嫌いだとおっしゃる方が多いようです。しかし京王フローラル・ガーデンの花々は柔らかい上品な色合いのものを選んで植えている様子です。

そんな園芸種の花々の写真をお送りいたします。4月22日に撮りました。

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中国や韓国へ嫌がらせをして票を集める政治家たち・・・それに拍手を送る人々の群れ。嗚呼!へ対する賛成と

2013年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログに書いたものと同じ内容の文章を「趣味人倶楽部」というSNSでも投稿しています。そちらは会員だけが読めるクラブなので本音のコメントが頂けるので有難いのです。読者数は少ないのですが、コメントが大変参考になります。

今日も、今朝の私の記事に同感ですというコメントと全く反対に批判的なコメントの両方を頂きました。反対意見の理由は日本が中国や韓国を救ってあげたという事実です。欧米の植民地になるのを救って上げたと言うのです。

それから、昨日の記事、閣僚や国会議員の靖国神社参拝は尊敬できない!・・・見苦しいのです については38名の方がお読みになり、そのうちの14人の方が「拍手」を送ってくれました。

そして2人の方から私の靖国神社の部分的な是認論に対して非難のコメントを頂きました。

天皇制や軍部独裁に加担した靖国神社のありかたを批判したコメントです。

神道の神社でなく、宗教的でない施設を作るべきだというご意見でした

それも含めて「趣味人倶楽部」では真面目な本音のコメントを頂けます。

まだ入会していない方々のご入会のお薦めをいたします。会費無料でいろいろな活動にも参加できます。

入会方法は、https://smcb.jp/_r00 に御座います。

ご参考までに書きました。(終わり)


中国や韓国へ嫌がらせをして票を集める政治家たち・・・それに拍手を送る人々の群れ。嗚呼!

2013年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログでは中国や韓国に対して友好的な記事を沢山掲載してきました。中国や韓国だけでなく外国全てへ対して友好的な記事を沢山書いてきました。それが人間として努力すべきことと信じているからです。それが日本のためになると信じているからです。

しかしそれに対して批判的なコメントを貰います。私は中国人や韓国人は嫌いだ。とても付き合いきれない人種だ。日本の侵略をいつまでも恨みに思うのはけしからん。まあ、こんなことを暗示するコメントばかりです。

そこで分かったことは日本人のほぼ90%以上は中国や韓国が嫌いで、憎んでいるのです。

ですから国会議員が中国人や韓国人に嫌がることをすれば投票の時に票が集まることを知っています。嫌がらせをすれば90%以上の国民が拍手、喝采するのです。

ですからこそ現職の閣僚や国会議員が集団で靖国神社を参拝し、記者会見をしてその行為を宣伝するのです。

本当に国に準じた人々に感謝の祈りをするのなら、集団参拝するよりも下の写真の前に独りで立って下さい。静かに祈って下さい。

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昨日、安倍総理が国のために殉じた英霊に感謝し、参拝するのは当然だと言い放ちました。中国政府と韓国政府は敏感に猛反発しました。

安倍総理の答弁は不用意な発言です。

集団参拝では本気で、深く、静かに祈ることにをしにくい参拝方法です。票集めの目的には良い方法なのです。

そのことは判っているということを暗示しながら国会議員を擁護すべきだったのです。

それを居丈高に英霊を拝むのは当然で、外国からとやかく言われる筋合いは無いと言ったのです。これでは喧嘩を売ったも同然と考えられます。

その上、中国や朝鮮を占領していた当時、日本人がよく使っていた「英霊」という言葉を無神経にも使ったのです。

現在のアメリカ人はアメリカの黒人を二グロとは決して言いません。インディアンという言葉も禁句です。アメリカ原住民と呼びます。昔の言葉は酷い人種差別があった時代を思い出させるから禁句なのです。ある人種を悲しませるから禁句なのです。

同様に「英霊」とか「日の丸」などの言葉は中国人や韓国人に悲しすぎる昔の体験を思い出させるのです。そんな思いやりの無い総理大臣は尊敬できません。

外交は相手国の思いやりから始まります。少なくともそのように装うのが外交の鉄則です。

靖国神社の国会議員の集団参拝は低俗きわまりない票集めの政治ショーなのです。

それへ対してあからさまに拍手し、喝采を送る多くの人々がいる日本の現状と将来に危惧を感じる今日、この頃です。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


多摩市連光寺にある新緑の都立桜ヶ丘公園へご案内いたします

2013年04月25日 | 写真

稲城市から川崎街道を関戸大橋方向へ登って行き、頂上の「桜が丘カントリークラブ交差点」を左に折れ、やく100m更に登ったところを右に入ると桜ヶ丘公園の大きな無料駐車場があります。

電車でのアクセスは、http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index065.html に御座います。

新緑の雑木林にウグイスが鳴き、奥深い山に来たような感じがする公園です。

最近、東京都が予算をつかい森の中に心地よい小道をつけ、テーブルや椅子を設置しました。自然の景観を壊さないように気を使った小道や、テーブル・椅子があちこちにさり気なく置いてあります。

公園の山の頂上には明治天皇の記念館があります。

明治天皇はこの連光寺村によく「兎狩り」に行幸されていました。そのために記念館が出来、この辺一帯を以前は聖蹟桜ヶ丘と称していました。

あたり一帯は宮内庁の土地だったらしく雑木林のまま、明治時代と同じ状態で良く保存されています。その土地に東京都が公園を作ったようです。

今日は、家内と一緒に散策して来ましたが、すがすがしい新緑の中でしきりにウグイスが鳴いていました。丘を下ったり、登ったりで心地良い汗をかきました。

下に今日撮った写真をお送り致します。新緑の間に是非お出かけなさってみて下さい。

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・上の写真は多摩市を公園から見下ろした風景です。遠方の山並みは奥多摩の山々です。

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・野生のシャガの群落です。

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野生のタンポポです。

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小道を登って行くと思わぬところにシャガが美しく咲いていて、疲れを忘れさせます。


美味しいマグロを買うなら三崎港の「うらり」、食べるなら「魚音」

2013年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム

三浦半島の突端の三崎港まで行くのは横横高速道路ができ、さらに衣笠から三崎半島縦貫道路が出来たおかげで便利になりました。

毎年1回くらい三崎港のマグロのスーパーの「うらり」に行って中トロや、頬肉や、頭肉や、尾の身などいろいろ買ってきます。冷凍なので2、3ケ月かけて少しづつ食べます。

4月23日に久しぶりに行きました。

買い物が済んでから、何時ものように魚音の「食事処」でマグロの刺身定食を食べました。

下がマグロのスーパーの「うらり」です。

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・中にはマグロ専門店が数軒入っていて競争しながら売っています。

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・下はマグロのカマのケースです。

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・手頃な大きさの赤身の冷凍ブロックが格安です。

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・その他、マグロ目玉も、胃袋も、心臓も、尾の身もあります。冷剤とともに包んでくれますので持ち帰れます。

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・上が魚音の「食事処」です。

他にも、近所に沢山のマグロ料理店がありますが、私はこの魚音が気に入っています。

尚、「うらり」の詳細は、http://www.umigyo.co.jp/にありいます。

そして魚音については、http://www.uooto.com/shop/contents?contents_id=88030をご覧ください。


戦後の日本人の自虐趣味の誤り(5)何故、日教組や朝日新聞が共産主義に染まったか?

2013年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム

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戦後、日本がたどった道は上の写真のように明るくて楽しい道ではありませんでした。

敗戦国なので戦勝国のアメリカや中国、ソ連、そして敗戦によって独立した朝鮮が道の左右からいろいろな危ない物を突き出して日本の歩んでいる道を邪魔したり、左右に揺れ動かしたのです。

日本軍によって酷い被害を受けたすべての戦勝国が日本が再び軍事大国にならないような反軍国主義教育と、新聞を通うしての世論操作を根気よく続けたのです。

単純に共産主義に染まった日教組や朝日新聞だけが悪いという簡単な話ではありません。

アメリカの学校教育の制度改革と教育内容の指導と大新聞社や放送を通じての世論操作が重なって複雑な社会現象が起きていたのです。

現在、日本人の多くは、日本共産党の裏工作で日教組(日本教職員組合)が出来た。ですから、共産主義の中国やソ連のためになるように日本軍の残虐行為を大げさに書きたてたと思っているようです。それに輪をかけたのが朝日新聞などの言論界が共産主義賛美のような記事を書いて、反安保と反米思想を煽り立てたのです

しかしこのような理解は戦後の日本社会の複雑な状況を無視した単純すぎる解釈です。間違った解釈です。

そもそも日教組は戦後すぐにマッカーサーの命令で出来た職員組合でした。その組合を指導して軍国主義的教育を絶対にさせないようにしたのです。

しかし1950年に朝鮮動乱が起きると、マッカ-サーは日本に警察予備隊を作らせ、日本を再軍備へと方向転換したのです。学校の先生たちは、「再び教え子たちを戦場に送るな!」と反発しました。

そこで日本共産党や社会党が、もともと労働組合として発足した日教組にいろいろな方法で働きかけ、共産主義の影響を与えたのです。

特に日本共産党は戦前、戦後を通じて中国共産党の支援のお蔭で存続出来たのです。戦前から野坂参三は延安の中国共産党本部に亡命していましたし、徳田球一はマッカーサーのレッドパージから逃れて北京に亡命していたのです。

日教組が共産主義に染まれば当然、中国の為になるような反米、反安保の教育をします。

米国と安保条約を結んでいると、「教え子を戦場へ送る」ことになるからです。

日の丸に反対し、国歌斉唱に反対するのも再軍備反対、反米、反安保の線上のことです。

共産主義はキリスト教文化圏のヨーロッパで20世紀初頭に生まれた思想です。

1970年に私も行って来ましたが、ドイツのモーゼル河上流にトリアーという町があります。共産主義はそこでで生まれたカール・マルクスが作った思想です。町の一角に、さりげ無く、「カール・マルクスの生家」という看板がありました。

共産主義はキリスト教の生んだ鬼っ子と言われます。万国の労働者よ銃をとって立ち上がれ!という「共産党宣言」が世界中に風靡しました。

ロシア革命が成功し、ソ連が出来ます。

しかし共産主義は理論としては魅力的ですが、実際の政治に応用すると独裁政治を招き、数千万人の反スターリンの人間を粛清し、数百万人のロシアの農民を餓死させるような巨大な陥穽を持っていたのです。

1989年にソ連は行き詰まり、崩壊したことがそれを証明しています。

今回の話はここまでとします。次回は何故、大新聞社や日本の言論界が共産主義に染まり、自虐趣味的な歴史観が生まれたか考えてみようと思います。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料:日教組が出来た経緯=============

第二次世界大戦後に日本を占領下に置いた連合国軍最高司令官総司令部は、「民主化の一環」として1945年12月に教員組合の結成を指令した。既に11月には京都や徳島で教職員組合が結成されていた。12月には全日本教員組合(全教。翌年より「全日本教員組合協議会」)が、また翌年、教員組合全国同盟(教全連)が結成された。これら2つの組織に大学専門学校教職員組合協議会を加えて、組織を一本化する機運が生まれ、1947年(昭和22年)6月8日に奈良県橿原市で日本教職員組合の結成大会が開かれた。大会では、日教組の地位確立と教育の民主化、民主主義教育の推進を目指すと定めた3つの綱領を採択し、6・3制完全実施・教育復興に向けての取り組みを開始するとした。

1950年6月に北朝鮮が韓国に突如侵攻したことで朝鮮戦争が勃発し、連合国軍最高司令官のマッカーサーは国家警察予備隊の創設を指令、再軍備に道を開き、日本を「反共の砦」と位置づけた。また日本政府も連合国軍による占領終了に伴う主権回復を前にして、「日の丸」「君が代」「道徳教育」復活など、一部から戦前への「逆コース」といわれる教育政策を志向し始めた。戦後教育見直しや再軍備への動きの中で、日教組は、1951年1月に開いた中央委員会で「教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃を取るな」というスローガンを採択し文部省の方針に対立する運動を開始した。また、1951年11月10日、栃木県日光市で第1回全国教育研究大会(教育研究全国集会=全国教研の前身)を開き、毎年1回の教育研究集会を開催、現在に至っている。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99%E8%81%B7%E5%93%A1%E7%B5%84%E5%90%88