後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「年末に咲く南房総の花畑の写真」

2024年12月31日 | 写真
今年も寒くなって日本海側は雪ですが、房総半島は毎日晴天で花が咲いています。何年か前に冬に花を摘みに行きました。自由に花を摘ませる花畑があるのです。
そんな南房総の花畑の写真をお送りいたします。「冬でも花咲く南房総の花畑の写真」を検索すると花畑の写真が沢山出てきます。

「年末にあたり宗教心のことを改めて考える」

2024年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は宗教のことを少し書くことにします。さて宗教心とは何でしょうか?
年末にあたり宗教のことを考えていました。宗教心すなわち信仰心のことです。
1番目の写真はクリスマスイブのカトリック小金井教会です。
さて宗教を信じることを信仰心すなわち宗教心と定義してみましょう。信仰心と宗教心は同義語と定義します。
すると宗教とは何かという問題が出てきます。神道も仏教もキリスト教もイスラム教もみな宗教です。
ですからこれらの宗教を信じれば宗教心があると言えます。
しかし宗教を信じない人でも亡くなった父母を時々思い出して、自分を守ってくれていると思うことがあります。
あるいは、年末に先祖代々のお墓の掃除をして線香を上げて手を合わせます。するとご先祖さまが自分の家内安全を守ってくれているような気がします。何時もは忘れているご先祖さまを身近に感じ、自分達の幸せを守ってくれるように感じます。
これが人間が原始時代から持っている宗教心と言えます。
原始的な宗教心は先祖への崇拝の気持ちだけではありません。巨木や山や高い滝に対して神秘的な力を感じ、それらに自分の健康と幸せを祈る気持ちが自然に湧いてきます。これも宗教心です。
そして原始人が火を使い始めると同時に火の不思議な力に感動します。そして火そのものを祈りの対象にする人々も現れます。
そして太陽を信仰する原始宗教もあります。
このような原始的な宗教心は現在でも私達の宗教心の見えない土台として重要な役割を果たしていると私は考えています。

これらの原始的な宗教心は現在でも非常に大切だというのが今日の私の主張なのです。
そして私はこの原始的な宗教心を土台として日本人は神道や仏教やキリスト教を信じていると考えています。
さて原始的な宗教に対して仏教やキリスト教やイスラム教を高等宗教と言う場合があります。
原始宗教と高等宗教の違いは体系的な教えがあるか否かによって分類出来ます。
仏教やキリスト教やイスラム教には体系的に書かれてた教義があります。それに対していろいろな原始的な宗教には体系だった教義がありません。
このように書くと原始宗教と高等宗教ははっきりと分けられそうです。
しかし人間は一般的に原始宗教と高等宗教の両方を信じていることがあるのです。
例は四国のお遍路さんの信仰心です。お遍路道を苦しい思いをして歩く時に「同行二人」と信じて苦しさを忘れて歩き通します。弘法大師さまが自分と一緒に歩いて下さっているから頑張れるのです。
このように信じることはご先祖さまが生きていて常に子孫を守っているという信仰と似ています。
そこにはお釈迦様の教えより弘法大師さまが重要な役割をしているようです。
弘法大師さまが生きていて自分とお遍路道を一緒に歩いて下さっているという信じ方は何か原始宗教的な信じ方です。
このような信仰心のあり方はキリスト教にもあります。イエス様が何時も自分と一緒に居て下さっているという信じかたです。
そして最後の晩餐でパンを割き、弟子たちにこれを自分の肉体の記念として食べなさいと手渡したのです。ブドウ酒をイエス様の血として飲みなさいと言って弟子たちに飲ませたのです。
カトリックやロシア正教のミサや礼拝ではこの最後の晩餐と同じことを行います。
小さなパン片を信者一人一人に神父様が「イエスの体」と言って食べさせます。信者はパンの一片をイエス様の肉体の一部として食べるのです。
葡萄酒をイエスさまの血として飲むのです。このような信じ方はあまりにも原始的です。
しかし私はそれを信じます。パンの一片をイエス様の肉体の一部として食べるのです。
このように高等宗教の実際の信仰のあり方に原始宗教的な信仰が混在しているのです。
宗教改革以後に生まれたプロテスタントの諸宗派はこのような原始的な信仰を嫌います。ですから小さなパン片を信者一人一人に神父様が「イエスの体」と言って食べさせる儀式はしませません。

今日は人間の宗教心に関することを少し書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「大晦日、紅白歌合戦、第9、除夜の鐘、そして巳年へ」

2024年12月31日 | 日記
今年もこの欄のつたない私の記事をお読み頂きまして誠に有難う御座いました。
その上数々のコメントをお送り頂いた方々へ深甚の感謝の意を表します。

どうぞ来年もよろしくお願い申しあげます。

今日は太平洋側は晴天、日本海側は雪です。静かに年の暮れを過ごしたいと思います。
今日は紅白歌合戦とNHK交響楽団の第9の演奏を聞きながらワインを飲む予定です。年越し蕎麦を食べて除夜の鐘の放送を聞いているとやがて年が明け蛇年になります。
今年は除夜の鐘を止めるお寺さんもあるようですので除夜の鐘のyoutube のURLを以下にお送りいたします。
「除夜の鐘 108回とお寺の画像」

今年もいろいろなことがありました。来年は巳年なので蛇の絵をお送り致します。写真はインターネットにある蛇のイラストをお借りしました。

年の暮れにあたり皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)




「新潟県、津南町の豪雪の写真」

2024年12月30日 | 写真
何年か前に観光バスのパック旅行に参加したことがあります。長野県の観光名所を幾つか見た後でバスが新潟県の県境を越えて津南町の山間の集落に駐車しました。バスガイドさんが興奮して、「ここは日本一の豪雪の土地です」と声を大にして悲痛そうに説明します。しかしまだ雪の降らない秋です。バスの窓の外には何の変哲も無い集落が見えるばかりです。
バスガイドさんの大げさな説明の後、「ここに1時間駐車していますから、ゆっくり見学して下さい」と言うのです。
乗客は言われる通り何の変哲も無い集落をブラブラして帰って来ました。
不思議な体験でしたので津南町が忘れられません。そこで曾遊の地の津南町の豪雪の写真をお送り致します。
写真の出典は、https://www.yukiguninoie.com/249454340-html/ です。

「美しい雪景色を懐かしむ、そして『雪の降るまちを』」

2024年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
東京の冬は寒い晴天の日が続き雪が降りません。北国の東北で育った私にとって雪景色の無い冬は何か物足りない淋しいものです。
しかし震災津波の災害に遭われた能登の方々の苦難はいかばかりでしょうか。
雪景色の写真を探し、その中から写真を選んでお送りします。
写真の出典は、「北陸の冬の絶景を紹介」、https://www.jre-travel.com/article/00275/ です。
1番目の写真は富山の市街地から眺める真っ白な北アルプス です。
2番目の写真は富士山(静岡県、山梨県)、立山(富山県)と並び日本三名山に選ばれている白山 です。
 
3番目の写真は相倉合掌造り集落 です。世界遺産に登録され、四季折々の表情を見られることで知られています。 

4番目の写真は立山黒部アルペンルートです。富山県と長野県にまたがる山岳観光ルートです。3,000m級の北アルプスの山々を背景にした広大な絶景ルートです。 

私は北陸と同じように雪降りの多かった東北地方に住んでいました。
その東北地方に住んでいた頃、「雪の降るまちを」という歌謡曲が流行っていました。ですから雪景色の写真を見ると「雪の降るまちを」という歌を必ず思い出すのです。

「雪の降るまちを」は1952年にヒットした内村直也作詞、中田喜直作曲の歌でした。この曲は1951年にNHKラジオで放送された連続劇「えり子とともに」と一緒に放送されていました。

「雪の降る町を」の歌詞です。

雪の降る町を 雪の降る町を
思い出だけが 通りすぎてゆく
雪の降る町を遠い国から落ちてくる
この思い出を この思い出を
いつの日にか 包まん
あたたかきしあわせのほほえみ

雪の降る町を 雪の降る町を
足音だけが 追いかけてゆく
雪の降る町をひとり心に満ちてくる
この悲しみを この悲しみを
いつの日か ほぐさん
緑なす春の日の そよかぜ

雪の降る町を 雪の降る町を
息吹きと共に こみあげてくる
雪の降る町を 誰もわからぬわが心
このむなしさを このむなしさを
いつの日か 祈らん
新しき光ふる 鐘の音

この歌のYou Tube は以下にあります。
シャンゾン歌手の高英男、「雪のふるまちを」、https://www.youtube.com/watch?v=E3FjPLr8wMg

倍賞千恵子、「雪の降る町を」、 https://www.youtube.com/watch?v=tbk5shjbc-Q

雪の降る町を ダーク・ダックス、https://www.youtube.com/watch?v=_-53iLSJWfU

それにしても東京はめったに雪が降りません。しかし雪景色が懐かしいです。雪の積もった風景には詩情がありますね。ですから「雪の降るまちを」という歌謡曲を思い出すのでしょう。皆様はこの歌を覚えていらっしゃいますか?高齢の方は覚えていると思います。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「豪雪の南魚沼市と『北越雪譜』」

2024年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
鈴木牧之が江戸時代に出版した「北越雪譜」という本の愛読者は多いと思います。豪雪の地の人々の冬の生活を活き活きと描いた名著です。
この鈴木牧之の記念館は新潟県、南魚沼市の塩沢にあります。「北越雪譜」に感動した私は以前に関越自動車道を走って湯沢を通って、南魚沼市の塩沢の鈴木牧之記念館を訪れました。暑い夏のことでした。牧之が使用していた文房具等々が展示され、筆の跡も鮮やかな原稿を見ることが出来て親近感を覚えました。

塩沢町は2005年に南魚沼市に編入合併しました。周囲を2,000m級の山々に囲まれ冬は豪雪になります。塩沢産・魚沼コシヒカリとスキー場も有名です。
今日は曾遊の豪雪の南魚沼市の写真と『北越節譜』の内容をご紹介したいと思います。4枚の写真の出典は、https://rtrp.jp/articles/102823/ です。
1番目の写真はの南魚沼市スキー場のホテル街の夜景です。夕焼けが残っています。
2番目の写真は南魚沼市の上越国際スキー場わきの霧氷です。市内に10のスキー場があります。降雪量が多いので低温となりパウダースノーも楽しめます。
3番目の写真は奈良時代からある禅寺・雲洞庵の山門です。冬になると雪が積もり神秘的になります。樹齢300年以上の杉の木が並ぶ境内は厳かな雰囲気があります。
4番目の写真は複合施設の「里山十帖」の山々を見渡せる絶景露天風呂です。

さて「北越雪譜」という本の内容です。雪国の人々の冬の暮らしぶりが描かれた本です。
以下は冒頭の文章です。
・・・・今年も又此雪中(このゆきのなか)に在る事かと雪を悲(かなしむ)は辺郷の寒国に生たる不幸といふべし。・・・・

この一行の文章は、現在でも雪の深い地方に住んでいる日本人の思いなのです。雪に閉じ込められて買い物にも行けない日々が続くのです。
鈴木牧之の「北越雪譜」という本のおかげで雪国の生活を体験したような気分になります。雪景色の写真を見ると美しいと感動するだけでなく悲しい気分にもなるのです。
それにしても純白の雪の世界は美しいものです。

下に鈴木牧之と「北越雪譜」の簡単な紹介いたします。
http://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/kokugo-hokuetsuseppu79.html より転載しました。

著者の鈴木牧之の生れた南魚沼郡は、東南に波濤のごとき高山が連なり、大小の河川が縦横に走り、地相的に見て“陰気”の充満した山間の村落であった。初雪は九月の末か十月の初めに降り、しかも一昼夜に六、七尺から一丈(約一・八~三メートル)に達する。

「されば暖国の人のごとく初雪を観て吟詠遊興のたのしみは夢にもしらず、今年も又此雪中(このゆきのなか)に在る事かと雪を悲(かなしむ)は辺郷の寒国に生(うまれ)たる不幸といふべし。雪を観て楽む人の繁花(はんくわ)の暖地に生たる天幸を羨(うらやま)ざらんや」

彼はまず、雪が北国人にとっては生活上のハンディキャップであり、レジャーの対象ではありえないことを、くどいほど強調している。江戸では雪見の船とか雪の茶の湯を楽しんでるいるが、自分たちは雪の降るまえに大急ぎで屋根を繕い、梁(うつばり)や柱を補強し、庭木は雪折れせぬよう手当てをほどこし、井戸には小屋をかけ、厠(かわや)も雪中に汲(く)み出せるよう準備せねばならない。食物も、野菜の保存にはとりわけ苦心する。凍るのを防ぐため、土中に埋めたり、わらに包んで桶(おけ)に入れたりする。「其外(そのほか)雪の用意に種々の造作をなす事筆に尽しがたし」

現在とちがって、建物が平屋建てで窓ガラスもなかったころの雪ごもりは、想像もつかぬほど陰鬱なものでした。雪が屋根の高さにまで達すると、明りがとれないので、昼も暗夜のごとく、灯火を必要とします。「漸(やうやく)雪の止(やみ)たる時、雪を掘りて僅(わづか)に小窗(こまど)をひらき明(あかり)をひく時は、光明赫奕(かくやく)たる仏の国に生れたるこ>ちなり」

鳥や獣も、冬期には食物が得られないのを知り、暖かい地方へ移っていくが、人間と熊だけは雪の中にこもっている。「熊胆(くまのゐ)は越後を上品とす、雪中の熊胆はことさらに価貴(あたひたつと)し」というわけで、出羽あたりの猟師たちが熊捕(くまとり)にやってくる。その方法がおもしろい。まず、熊の呼吸穴を見つける。雪が細い管のように溶けたものだ。猟師がこの穴から木の枝や柴(しば)のたぐいを挿(さ)し入れると、熊が引っぱりこむ。何度もくりかえすうちに、自分の居場所が狭くなって、熊が穴の入り口に出てくるところを槍で突き殺す。もう一つは「圧(おし)」といって、穴の前に棚をつくり、その上に大石をのせておいてから熊を燻(いぶ)り出し、怒ってとび出す瞬間、石を落として殺すという方法もあった。

もっとも、このようなことは他国者がやることで、地元の農民たちは熊を殺すと山が荒れると信じて、手を出さなかった。ましてや、雪中に遭難した人間が、熊に助けられたという話も伝わっているからには、なおのことである。牧之は八十二歳の老人から聞いた話として、この老人が若いとき雪の中で道に迷い、熊の穴にまぎれこんで凍死を免れたということを記している。そのとき熊は、闖入(ちんにゅう)した男に暖かい居場所を譲ったうえ、おのれの掌(てのひら)をさし出して嘗(な)めろという仕草をした。男は熊がアリを食べるということを思い出し、おそるおそる嘗めてみると、甘くて少々にがく、大いにのどをうるおした。

けっきょく熊と四十九日間の同居したが、ある日熊に促されて穴を出ると、人家のある方へと案内された。男がようやく我が家へ帰りつくと、両親が法事を営んでいる最中だったという。

以下省略しますが北越雪譜 - 青空文庫は、https://www.aozora.gr.jp/cards/001930/files/58401_70229.html に出ています。この中には雪国の珍しい話や不思議なことが沢山書いてあります。
江戸時代の雪国の生活が客観的に、そして具体的に活写されているので記録映画を見ているような気分になります。文化人類学の本のようでもあります。
私はこんな本が江戸時代に出版されたことに驚いています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「北国の小樽の雪景色と『蟹工船』」 

2024年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
曾遊の地とはかつて遊んだ土地という意味です。意味は単純ですがこの言い方は何故か文学の香りがします。
例えば岩手県の大船渡市には「石川啄木曾遊之地碑」というものがあり有名な観光名所になっています。
石川啄木は明治45年(1912年)に26歳の若さで死にました。啄木の妻節子、父一禎、友人の若山牧水に看取られました。肺結核でした。
石川啄木の死後、数々の作品が刊行され彼の文学作品の評価が非常に高まったのです。
次の詩は有名です。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣ぬれて
 蟹とたはむる

この詩はとても長いのです。そしてこんなところもあります。

ダイナモの
重き唸りのここちよさよ
 あはれこのごとく物を言はまし

ダイナモは「直流発電機」のことです。この詩の全文は、https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/816_15786.html にあります。

さて話はそれましたが今日から「曾遊の地の雪景色」と題する連載を始めたいと思います。
私があちこち旅をした土地の雪景色の写真をお送りしようという企画です。
方々へ旅行をしましたが寒がりやの私は雪の無い季節だけを選んで旅をしたのです。
そこでその曾遊の地の雪景色の写真を調べ、見つけて編集したのです。
第一回目は何度か訪れた小樽にしました。小樽は運河の町です。小林多喜二が「蟹工船」を書いた町です。暗く美しい町でした。
その雪景色の写真をお送りします。全ての写真の出典は、https://ovo.kyodo.co.jp/news/life/travel-news/a-1397278 です。
小樽では小林多喜二が行っていた寿司屋に行きました。多喜二の本が沢山積まれていました。そこで「蟹工船」を思い出していました。
「蟹工船」の冒頭です。
「おい地獄さ行えぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱かかえ込んでいる函館の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。
巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹サイドをすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。

 赤い太鼓腹を巾広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫むしのように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。
風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接に響いてきた。

 この蟹工船、博光丸のすぐ手前に、ペンキの剥はげた帆船が、へさきの牛の鼻穴のようなところから、錨の鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。

続きは、https://www.aozora.gr.jp/cards/000156/files/1465_16805.html にあります。

小林多喜二は30歳の若さで死にました。秋田県の農家に1903年に生まれ、北海道小樽で育ちました。「蟹工船」などの作品により、日本のプロレタリア文学運動を代表する作家となったのです。1933年、地下活動中に逮捕され、東京・築地署で拷問により殺されました。

今日は北国の小樽の雪景色の写真を掲載し、小林多喜二の『蟹工船』をご紹介いたしました。。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「愛知県のカトリック安城教会の今日のミサの動画配信」

2024年12月29日 | 日記
動画配信は下記にあります。
https://anjokyokai.org/.../%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96.../
今日はインターネットを通してこの教会のミサにあずかりました。

写真はカトリック安城教会です。
〒446-0072 安城市住吉町7丁目26-3
TEL:0566-98-7766
FAX:0566-98-7778

「愛知県のカトリック安城教会の今日のミサの風景の写真」

2024年12月29日 | 日記
今日はインターネットを通してこの安城教会のミサにあずかりました。
動画配信は下記にあります。 

安城教会のミサの写真をお送り致します。

〒446-0072 安城市住吉町7丁目26-3
TEL:0566-98-7766
FAX:0566-98-7778


「師走とお正月の花々の写真」

2024年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム
師走やお正月の季節の野山は寒すぎて花々がありません。それでも寒さにめげず屋外に咲いている花があります。師走のロウバイと水仙の花、そしてセンリョウ(仙蓼/千両)やマンリョウ(万両)があります。
年が明けるとマンサク、サンシュユ、紅梅白梅が咲きます。その上、栽培種の西洋サクラソウやパンジーやシクラメンが花屋の店先を華やかにします。

今日はこれら師走とお正月の花々の中から紅梅の花、ロウバイ、水仙、ヒイラギモクセイ、センリョウそして西洋サクラソウの写真をお送りいたします。
1番目の写真はロウバイの花です。写真の出典は、https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000407.000022856.html です。
2番目の写真は紅梅の花です。写真の出典は、https://www.kantoko.com/?p=1259 です。
3番目の写真は水仙の花です。写真の出典は、https://madamn.exblog.jp/iv/detail/?s=21210139&i=201312%2F21%2F30%2Fc0222430_13311273.jpg です。
スイセンの名所として全国にあります。あまりにも数が多いので、「全国 水仙の名所 一覧表」のURLのみを以下に示します。それは、http://hananomeisyo.sakura.ne.jp/suisen-meisyo.htm です。
4番目の写真はヒイラギモクセイです。写真の出典は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AE です。
ヒイラギ(柊・疼木)はモクセイ科の常緑樹です。葉の縁の刺に触るとヒリヒリと痛むことから、「ヒリヒリと痛む」という古語の動詞が名前になったそうです。
5番目の写真はセンリョウです。写真の出典は、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%A7%E3%82%A6 です。センリョウ(仙蓼/千両)は冬に赤い果実をつけ美しいので栽培され、特に名前がめでたいのでマンリョウ(万両)などとともに正月の縁起物とされています。
6番目の写真は西洋サクラソウの「湖畔の夢」という品種です。この新種の西洋サクラソウはオランダの新種の花の祭典、フロリアード2012へ出展し、金賞一席と特別賞を受賞したのです。「湖畔の夢」は石塚健壽さんがつくりました。
7番目の写真は温室の中に一面に咲いている西洋サクラソウです。隣町の小平市の石塚園芸の温室です。
この石塚園芸へは何度も行っているうちにご主人の石塚健壽さんとは親しくなりました。
彼はいろいろな意味で感動的な花の栽培家だったのです。精魂こめて交配し20種の西洋サクラソウの新種を作ったのです。
石塚健壽さんによるとこんなに沢山ある西洋サクラソウが1月になるとアッと言う間に売れてしまうそうです。

嗚呼。今年もお正月がやって来るのだなと、時の流れの速さに驚きます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「伊勢丹新宿店 の歳の市は本館6階 催物場」

2024年12月28日 | ブログ
伊勢丹新宿店 の歳の市は本館6階 催物場にあります。
開催日時は以下の通りです。
12月27日(金)〜12月30日(月)は各日午前10時〜午後8時
12月31日(火)は午前9時〜午後5時
詳しくは下記をご覧ください。
https://www.mistore.jp/shopping/event/shinjuku_e/otoshi_10 

「東京の歳の市は浅草の羽子板市」

2024年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年、12月の17日、18日、19日の3日間、台東区の浅草寺(観音様)の境内で羽子板市が開かれます。 これが東京の歳の市なのです。
(https://www.asakusa-toshinoichi.com )
浅草寺の歳の市の歴史を紹介致します。
浅草寺の羽子板市は、江戸時代に歳の市で歌舞伎役者の顔が装飾された羽子板が売られたのが始まりとされています。 江戸時代から大正時代にかけて、子どものいる家庭に年末の贈り物として羽子板を贈る習慣がありました。
正月用の歳の市といえば江戸中期頃までは、浅草に限られていました。浅草寺のご縁日は毎月18日であり、17日18日両日は歳の最後の縁日として観音詣の日です。

そういえば家内も豪華な飾り羽子板を持っています。
写真は浅草寺の羽子板市です。