後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「会津若松城の美しい姿」

2023年08月31日 | インポート
会津若松城は蒲生氏郷や上杉景勝などが城主をつとめた城です。1643年(寛永20年)に保科正之が入封して以降は明治維新まで会津松平家(保科氏から改名)の居城として用いられ、幕末の戊辰戦争の際には会津戦争の舞台となりました。
現在の天守は1965年(昭和40年)に外観復元されたものですが、さらに2011年(平成23年)に黒瓦を当時と同じ赤瓦に復元しました。



「石神井城と渋谷城と桧原城の城址の写真とその他多数の城址」

2023年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
石神井公園は練馬区石神井台にあります。二つの池を中心とした公園で武蔵野の自然がよく残されています。二つの池とは木々に囲まれた石神井池と三宝寺池とです。三宝寺池の隣に石神井城跡とその遺跡があります。撮って来た写真をお送りいたします。
1番目の写真は石神井公園の三宝寺池です。隣に石神井城跡とその遺跡があります。

2番目の写真は石神井城跡を示す石碑とその遺跡の説明板です。
石神井城は1400年ごろ豊島氏によって築城されました。しかしその命は短く、1477年に太田道灌によって攻められ城主の豊島泰経は敗走し、石神井城は廃城になってしまったのです。たった77年の間でした。
3番目の写真は渋谷城のあった場所にある金王八幡宮です。

4番目の写真は金王八幡宮に残る渋谷城の礎石です。渋谷城の石が1点だけ保存され展示されています。
渋谷城には平安時代末期から渋谷氏が住んでいました。城には渋谷川を水源に水堀をめぐらされていたのです。平安時代に渋谷金王丸がこの城の城主になりました。
しかし室町時代になり大永4年(1524年)に北条氏綱が関東南部を占領し、渋谷城は後北条氏の一隊によって焼かれ渋谷氏は滅んだのです。
現在、渋谷城のあった場所には金王八幡宮があります。遺構は残っていませんが、境内には城の石が1点だけ保存され展示されています。 
しかしその後の渋谷氏一族の動向については分かっていません。1524年に江戸城が後北条氏に奪われた時に渋谷氏一族は城を捨て滅んだのは確かな事です。

5番目の写真は檜原城があった山です。本丸は左の山の頂上ぬありました。
東京都西多摩郡檜原村にあった山城でした。標高449mの山上に築かれていました。平山氏の居城ですが築城時期は不明です。城の下を当時、武蔵と甲斐を結ぶ唯一の街道が通っており、この街道を押さえる城でもあったのです。
平山氏は、戦国時代後期には北条氏に臣従した。1590年、豊臣秀吉の小田原攻めでは、北国軍の前田利家・上杉景勝らが攻め寄せ、八王子城が落城した際に、檜原城主・平山氏重(平山長寿)や残党らと、檜原城にて籠城しましたが落城しました。
その他東京にあった数多くの城については下記の記事をご
ご参照下さい。
「東京にあった数多くの城(1)世田谷城と八王子城」2020/10/28
「東京にあった数多くの城(2)渋谷城と片倉城」2020/10/30 
 「東京にあった数多くの城(3)品川氏館と高月城」2020/10/31
「東京にあった数多くの城(4)立川市のもとになった立川氏館と小山田城」
2020/11/03

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 

「自分で歩き回る地方史探訪、八王子城、滝山城、片倉城の歴史」

2023年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
東京の西の郊外は多摩地方と言います。私が住んでいる小金井市はそのほぼ中央にあります。趣味は自分で多摩地方を歩き回って各地の地方史を探訪することです。教科書に載っていない地方史です。20年くらい続けました。
例えば多摩地方にあったいろいろなお城の址地に行って写真を撮りその歴史を調べるのです。
八王子城、滝山城、片倉城、深大寺城、平山氏館跡、石神井城、高幡城などの跡地へは何度も行きました。
今日は城主の名前が不明のままの八王子城、滝山城、片倉城の跡地の写真を示し、それぞれの歴史をご紹介したいと思います。
さて平安時代末期、鎌倉時代と歴史が流れ、やがて室町時代の「応仁の乱」に至ると関東地方は群雄割拠の戦国時代になります。
そのころ各地に城が沢山作られました。しかし江戸時代以前の城については文献が少なくて詳細が分かっていません。
僅かに残っている文献から江戸という名前は現在の東京に最初に根拠地を置いた武家、江戸重継に由来しているようです。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、後の江戸城の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたと考えられています。
その後の15世紀の関東の戦乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣である太田道灌が1457年(長禄元年)に江戸城を築城しました。徳川幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめと書いてあるそうです。
ですから太田道灌が1457年に築いた江戸城が現在の東京の発展の出発と考えることも出来ます。
1600年に徳川家康が江戸に幕府を置いてから260年余の江戸時代が始まりました。
現在の東京の江戸時代の歴史はかなり詳しく知られていますが、それ以前の歴史はあまり明確には判っていないのです。
その理由は現在の東京都内にあった城や館の大部分は江戸時代に消えてしまって記念碑や説明板だけが残っているに過ぎません。
しかし郊外の城跡は堀跡、広場、出入口の土手、建物の礎石群がそのまま残っているものも多くあります。往時の様子が偲ばれます。
私は引退後にこれらの城跡をかなり丁寧に見てまわりました。車で行って、あまり人のいない城跡の写真を撮りました。八王子城から説明を始めます。
1番目の写真は八王子城の見取り図です。
http://yogokun.my.coocan.jp/tokyo/hatioujisi.htmから転載させて頂きました。
 
2番目の写真は八王子城の主殿跡の広場です。当時の鍋や食器が多数発掘されました。以下の全ての写真は同行した家内が撮ったものです。

3番目の写真は八王子城の主殿跡に入る門のあった場所の石組です。
この八王子城の城跡には当時の建物群の礎石や空堀が良く保存されています。発掘調査も行き届き、説明板も丁寧に明快に書いてあります。
次は滝山城です。

4番目の写真は滝山城から見た多摩川の遠景です。

5番目の写真は滝山城の入り口にある曳き橋です。敵が攻め込んで来たら引いて倒してしまう曳き橋です。滝山城跡には壮大な規模の城跡がそのまま残っています。
八王子と滝山城の城主は北条氏昭でした。小田原城からやって来て関東地方の西部を統治していたときに住んでいました。武田信玄に何度か侵入されましたがその都度撃退しています。
八王子城と滝山城は小田原の北条一族が関東一円を支配していた時代の数多くあった北条一族の城の一部だったのです。
このように城主が分かったいる場合もありあすが、誰が作ったかさっぱり判っていない城跡もあちこちにあるのです。一例は片倉城です。
鎌倉時代よりも前の山城と推定されていますが、誰が作ったか不明です。

6番目の写真は片倉城の跡地です。本丸跡の広場です。
7番目の写真は片倉城の本丸跡にある住吉神社です。
片倉城のように誰が作ったかが分からない城跡が多摩地方には沢山あるのです。深大寺城も誰が作ったか確定されていません。築城した人が判っていない城跡が意外に多いのです。
高幡不動の裏山に登ると頂上に土塁が残っていて、素人目にもある時代に城があったことが分かります。その裏山を下りて高幡不動の和尚さんの一人に尋ねました。しかし文献が無いから知らないの一点張りでした。ただ発掘調査で、鎌倉時代よりも古いと推定されていると言っていました。
学校で習う日本の歴史は天皇や幕府のような中央政権に関する歴史が主なものです。地方の歴史は解っていないので教えられません。地方の歴史を調べてみると判らないことが非常に多いことに驚きます。歴史の闇に消えてしまった事実が沢山あるのです。

さらに書けば東京には江戸城の他に、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどもあるのです。
これらの城や館は天正18年の秀吉勢の小田原城攻撃によって一斉に降伏します。関東一円の北条一族の城や館が揃って秀吉勢に降伏してしまったのです。
その後、江戸に入った徳川家康は消滅した数多くの城や館を再び利用することはありませんでした。
直轄領として代官を派遣する場合に、川越城や土浦城や行田城は代官の館として利用しただけで、その他の数多くの戦国時代の城は意図的に歴史の闇に葬ったのです。文献も消えてしまったのです。
これらの数多くの城や館にはそれぞれ主がいて、家族がいて、武士集団が住んでいたのです。それが江戸時代になると消えてしまったのです。歴史の闇に消えてしまったのです。
それにしても城の数の多いのに驚かされます。戦国時代、室町時代の群雄割拠ぶりが想像されます。
現在私が住んでいる東京の多摩地域の歴史は文献が少なく不明なことが多いのです。しかし城跡は発掘調査をすると当時の家具調度、日用道具、食器、鍋釜などの破片が多数出土します。現地の歴史資料館に行くと展示してあります。それにもかかわらず多摩地域の詳しい歴史はよく判らないままです。

今日は現在の東京に残っている江戸時代以前の城跡についてご紹介いたしました。皆様かの住んでいらっしゃる土地にも江戸時代以前の城跡や館跡がたくさんあると思います。その詳しい歴史は解っているでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「現在、北朝鮮では木炭トラックを使用中」

2023年08月30日 | 写真
現在、北朝鮮では木炭トラックを使用中なのです。
写真の出典は、https://www.jiji.com/jc/d4?p=nkr456-SGR_1043&d=d4_dd などです。

1番目の写真は元山から平壌に移動中に見かけた白煙を上げる木炭車です。(2013年06月23日)

2番目の写真は地方都市でよく見かける木炭車です。(咸鏡北道)(2013年09月21日)

3番目の写真も地方都市でよく見かける木炭車です。 
4番目の写真もよく見かける木炭車です。

「広々とした夢の島公園と港の見えるレストラン」

2023年08月30日 | 写真
夢の島公園の中央には陸上競技用のトラックがあり、その端の海側にはユーカリの大木の見事な林があります。この公園は実に広々としています。広大な駐車場も北と南にあります。明治道路に面した正門から入ると広い芝生に覆われた運動場や子供の遊ぶ広場があります。その向こうの海岸沿いにバーベキュー広場があり、第五福竜丸展示館があり、巨大な熱帯植物用の温室があり、スポーツ会館がありで、何でも揃っています。そして荒川へ出る海側にはヨットとモーターボートの係留用の港があります。マリーナの2階には港を見降ろして食事が楽しめるレストランがあります。そのような風景写真をお送り致します。

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「爽快な秋晴れ!海が見たくなったら夢の島公園へ!」

2023年08月30日 | 写真

爽快な秋晴れが続きます。そんな日には急に海が見たくなります。以前もそうでした。私の家から新宿まで電車で30分。「りんかい線」へ乗り換えて、終点の新木場まで30分。広大な「夢の島公園」に着きます。

「夢の島公園」には東京湾で唯一の本格的マリーナがあります。その写真をお送り致します。秋空の下に輝くヨットの写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。028 032034 045


「厳しい残暑!小さい秋が待ち遠しい!」

2023年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はもう8月の29日です。秋の涼しい日を思い浮かべますが、朝から太陽がギラギラ照って今日も残暑が厳しくなりました。
せめて気分だけでも涼しい秋の日を想うように願い、「小さい秋」という言葉について書いてみたいと思います。
「小さい秋」とは台風が幾つか過ぎてから来る秋のことのようです。そして「小さい秋」は落ち葉の下や森の中に隠れているのです。そっと吹く風や紅葉した木の葉にも。
秋が来るとと毎年、「小さい秋見つけた」という歌がラジオやテレビから流れて来ます。そして昔は路地に子供達の「小さい秋見つけた」の歌声がしました。そうして気分爽快な季節になったことに幸せを感じます。
皆様もこの歌をご存知と思いまが、次の動画にこの歌があります。

『小さい秋見つけた』、【作詞】サトウハチロー、【作曲】中田喜直
1.だれかさんが だれかさんが
  だれかさんが 見つけた
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた
   目かくし鬼さん 手のなる方へ
   すましたお耳に かすかにしみた
   呼んでる口笛 もずの声
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた

2.だれかさんが だれかさんが
  だれかさんが 見つけた
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた
   お部屋は北向き くもりのガラス
   うつろな目の色 とかしたミルク
   わずかなすきから 秋の風
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた

3.誰かが秋をみつけた 小さい秋をみつけた
   昔子供の頃に見た色あせた風見鶏は
  とさかにハゼの葉が引っかかっていたのを覚えている
  ハゼの葉は赤くて夕日のような色をしていた
   私は小さい秋をみつけた
   小さい秋 小さい秋
   小さい秋 見つけた

この歌は1955年にNHKの特別番組『秋の祭典』の楽曲の1つとして中田喜直が作曲しました。1962年にキングレコードから発売されました。

小さい秋とは何を意味するのかは分かりません。
詩人のサトウハチローの心象にある秋のイメージなのでしょう。
私の小さな秋のイメージに浮かぶ写真を2枚示します。
秋の栗や柿の写真の出典は、https://colocal.jp/topics/lifestyle/shodoshima/20150928_54427.html です。

この詩はサトウハチローが木の紅葉する情景を見たのが作詞のきっかけとなったそうです。
自宅の文京区弥生の庭に写真に示したような「はぜの木」が植えられており、この木の紅葉する情景を見たのです。
このハゼの実の写真の出典は、https://iyashi.midb.jp/detail/4103?id=4103 です。
少し説明が理屈っぽくなりましたが、「小さい秋」は秋の気配を感じるものなら何でも良いのです。
道端にあるススキの穂でも野原に何気なく咲いている野菊や萩の花でも良いのです。あるいは自宅の庭の片隅に隠れるように咲いている彼岸花でも良いのです。

今日は「小さい秋」を想い浮かべながら涼しい日々が来るのを願いたいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「豪華なホテルの写真を見ても戦後の食料難の時代を忘れないようにしよう!」

2023年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
前の記事、「思い出のホテル(最終回)箱根の宮ノ下のクラシックホテル、富士屋ホテル」 の写真を見ても戦後の食料難の時代を忘れないようにしよう!と自分を戒めています。
戦後はひどい食料難の時代でした。餓死する人も絶えませんでした。飢餓の時代だったのです。
その飢餓の時代には不味いカラス以外は野鳥も捕って食べました。鴨や雉や山鳥は勿論、罰当たりの人は神社の鳩まで捕って食べました。鳩はフランス料理で使われるくらい美味しいそうです。
美しい白鷺が全国で見られるようになったのは食料難の時代が過ぎてからです。
私もシジュウカラやメジロやスズメを焼き鳥にして食べた強烈な経験があるのです。それは実に美味しいものでした。特にスズメは美味しかったのです。

豊かで綺麗なホテルの写真を見るたびに戦後の食料難の時代を思い出します。
===参考資料==========================
「1000万人が餓死するといわれた終戦直後の日本」
https://president.jp/articles/-/60700?page=2

終戦直後の食料難である。このとき、供給面では、米は大凶作だといわれた。東京・深川の農林省の倉庫には、東京都民の3日分の米しかなかった。多くの人が海外から引き揚げてくるので、需要は増加する。輸入はゼロである。戦前は、朝鮮や台湾という植民地からの米輸入があったが、それもなくなった。巷間では1000万人が餓死するといわれた。
米、麦、イモなど多くの食料は政府の管理下に置かれ、国民は配給通帳と引き換えに配給公団から食料を買った。配給制度である。ただし、このときは、アメリカからの穀物援助で糊口ここうをしのいだ。また、1945年は、農林省の統計が予測したほどの不作ではなかった。
写真は1946年2月に新橋にあったヤミ市です。ヤミ市を仕切っていた関東松田組の名前が見えます。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%97%87%E5%B8%82 )



「今日のカトリック松原教会とカトリック関口教会の年間第21主日のミサの動画配信」

2023年08月27日 | 日記
カトリック松原教会の年間第21主日のミサの動画配信は、

カトリック関口教会の年間第21主日のミサの動画配信は、

広島のカトリック幟町教会の年間第21主日のミサの動画配信は、https://www.youtube.com/watch?v=COomHXcJiKo です。

添付の写真は、東京の世田谷区のカトリック松原教会の写真です。

東京都世田谷区にあるカトリック松原教会は、1953年に淳心会が現在と同じ場所に上京する会員の宿泊地と布教の拠点として旧家を購入、修道院に造り変えたチャペルへ通う近隣の信徒の集会所として誕生しました。世田谷小教区の巡回教会の形がとられていましたが、1965年に聖堂(聖堂名: 聖母の汚れなきみ心)、教会施設と司祭住宅と同時に隣のオリエンス研究所が新築され、それに伴い、東京大司教区によってカトリック松原小教区として正式に設立されました。当初はわずかな人数から始まりましたが、現在では1270人を超える信徒が集う教会となっています。



「ホテルの思い出(8)横浜のホテル ニューグランドと中華街」

2023年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ホテル ニューグランドは横浜市の山下町にあり昭和2年に開業しました。
開業当時から、皇族、イギリス王族などの賓客や喜劇王チャーリー・チャップリン米国の野球選手ベーブ・ルースなどが泊まりました。ダグラス・マッカーサーは1937年に新婚旅行の帰路と1945年の終戦後に滞在しました。終戦後の7年間は占領軍将校宿舎として接収されたのです。
また山口湖の富士ニューグランドホテルは横浜のホテル・ニューグランドの支店です。
私が元気の良い若い頃、中年と初老の頃までは何度も横浜へ遊びに行ったものです。異国情緒が溢れ、それに心惹かれて通ったのです。
写真をお送りしたいと思います。
1番目の写真は横浜のホテル ニューグランドの旧館です。泊まったことがありました。
2番目の写真は横浜のホテル ニューグランドの旧館と新館です。新館の後ろの中華街があります。

3番目の写真は客間です。泊った部屋のようです。窓の下は山下公園でその向こうが青い港で氷川丸が係留されていました。氷川丸も旅客機の普及で1960年に就航を止め山下公園に係留され公開されています。

4番目の写真は山下公園に係留され公開されている氷川丸です。入場料を払うと船内が見物出来ます。チャップリンの泊まった一等船室も見られます。この写真以下の全ての写真は家内が撮った写真です。
5番目の写真は昭和の雰囲気ただようニューグランドホテルです。
横浜は江戸末期に開港した港町です。現在、カトリック教会やミッションスクールのフェリス学院のある山の上には欧米人が住みました。外人墓地のある丘の上です。
山の下の町には中国人が住み、現在の中華街になったのです。
旅客機が普及する1960年頃までは、横浜こそが文字通り外国文化の窓だったのです。
6番目の写真は中華街の出入り口にある豪華な門です。この門の中に入るとそこは昔の中国の世界です。道教の関羽廟もあります。中国人が長い線香に火をつけて、膝まづいて三拝しています。
7番目の写真は中華街の風景です。何度か中華料理を食べに店にはいりましが中国人の応対が古い中国を感じさせます。
この中華街を訪問すると、ああ古い中国文化はこのようなものだったと感じるのです。高層ビルの立ち並んでいる現在の中国の町とは非常に違います。
8番目の写真はそして昔懐かしい崎陽軒です。真空パックをした現代風の崎陽軒のシウマイは全国で売っています。しかし真空パックをしていない作りたての素朴なシウマイは限られた店でしか売っていません。
シウマイの箱の中には小さな白い陶器の入れ物に入った醤油とカラシがついています。この白い陶器の醤油入れが戦前の昔のままなのです。崎陽軒の古いお客を大切するその気持ちも嬉しいのです。幸せを感じるのです。

9番目の写真は現在の大桟橋の風景です。横浜市は斬新な桟橋の設計を公募することにして、世界中へ呼びかけました。それは2002年のことでした。
その公募には660件の応募があり、その中から最優秀作品としてイラン生まれのファッシド・ムサヴィさんという女性とスペイン生まれのアロハンドロ・ザエラ・ポロさんという男性の2人の合作による設計が優勝したのです。その設計図に従って作られたのが現在の大桟橋です。この桟橋は徹底的に木造になっていますので、散歩していると実に気分が良いもです。
10番目の写真は大桟橋の客船の上から撮った横浜の中心街の夕方の風景です。
ここから豪華客船に乗り日本の各地へ船旅をしたのも思い出になっています。

思い返してみると随分、何度も子供達や家内と横浜へ遊びに行ったものです。貸自転車で市内を回ったり、古い洋館を訪ねたりしたものです。
異国情緒漂う横浜の残影を懐かしです。

それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ホテルの思い出(7)那須温泉の瑠庵とブリティッシュ・ヒルズ」

2023年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム
那須温泉の瑠庵(ルアン)は旅館ですが食事が感動的に美味しいフランス料理でした。2016年に泊りました。夕食にダイニングのテーブルに座るとナイフやフォークが大小、数多く並べてあります。鮭のマリネのオードブル、新鮮なアスパラガスの温野菜、そしてソラマメの 冷たいクリームスープ、鯛・エビ・ホタテのソテー、那須牛フィレのアルル風ステーキ、最後にマロンケーキと紅茶のプリュレのデザートでした。普通のコース料理です。
しかし、驚いたことに味が格別良いのです。塩は控えめ、ふくよかで、奥深い味付けです。新鮮な材料の味が生かしてあります。魚介類の火の通しかたが絶妙です。凄い腕のシェフです。料理の味に感動して、改めて旅館のパンフレットにあるシェフの経歴を読んでみました。
鈴木三男さんという方で、15歳で料理に志し、上京します。三笠会館や有名ホテルで修業し、フランスやスイスで料理の修行をしたと書いてあります。帰国後は出身地の栃木県に戻り、那須・一望閣の姉妹館の瑠庵でシェフをしてきました。
家内がそのシェフと仲良くなって厨房で朝食のふわふわオムレツの作り方を教わり、写真も撮らせてもらいました。朝食後、我々のテーブルのそばに来て、素直そうな表情で深いお辞儀をして仕入れに出かけて行きました。


1番目の写真はシェフの鈴木三男さんです。家内が撮った写真です。
そして夕食のときワインを選んでくれたソムリエは五十嵐さんといい、那須の老舗旅館の一望閣の4代目だそうです。とても控え目な印象でお客さんとワインを大切にしている様子が分かり楽しい夕食になりました。
その上、旅館の玄関脇の建物ではフランスパンを焼いている職人が居るのです。数種類の焼きたてのパンが籠に盛り上げてありました。

2番目の写真は朝食ですが、フランスパンの職人が焼いた数種類のパンが籠に盛り上げてありました。
偶然とは言え、素晴らしいシェフとソムリエのお陰で夕食と朝食を楽しむことが出来ました。感動的な食事でした。
旅館はやっぱり泊まってみないと分からないと、今更がら人生には運、不運があるものと知らされました。
さてこの瑠庵から車で北上し福島県に入ると奥羽山脈の奥深くに忽然と建物群が現れます。ブリティッシュ・ヒルズです。そこには中世のイギリスの建物が10棟ほど霧にかすんでいました。
本格的な時代考証にもとづいて建てられ、内部の家具調度もイギリスから運びこみました。従業員もイギリス人が混じっています。とにかく本物のイギリスが有るのです。

3番目の写真はブリティッシュ・ヒルズの受付にたイギリスの女性です。

4番目の写真は霧にかすんだ中世のイギリスの建物です。

5番目の写真はブリティッシュ・ヒルズの風景です。中世のイギリスの建物が10棟ほどありました。
このブリティッシュ・ヒルズは佐野さんが2代にわたって作り上げたのです。
神田外語学院の経営母体の佐野学園の初代と2代目の理事長が25年間にわたって構想を温め、イギリスの歴史を研究しました。その成果にもとづいて1995年に完成しました。霧の中を歩きまわりながら「イギリスの中世の文化は重く、暗い。しかし、その底に文明開花の爆発力を秘めていた」、という感じが体得できます。領主の館の内部もつぶさに見ました。イギリス独特なミートパイの昼食もとりました。アフターヌーンティーもあります。
この様に、一国の文化を正確に伝えようとする施設は珍しいのでものです。
ブリティッシュヒルズの領主の館(Manor House)は200円の入場料で内部を見学できます。家具調度は17、18世紀のもの、図書館の数多くの本は皮表紙のものが多く、出版年代は1800年から1900年の間のものです。これも全て当時の領主の家の図書室にあったものだそうです。数冊の本を開いて目次を見ながら、ゆっくりすると当時に帰ったようで不思議な思いをします。ブリティッシュヒルズへ行った折にはぜひ領主の家の2階の図書室でゆるやかな時間をお過ごしになりますように。
ブリティッシュ・ヒルズも予約すれば宿泊可能です。イギリス文化愛好家はそうするそうです。ブリティッシュ・ヒルズの詳しい情報は、http://www.british-hills.co.jp にあります。

本格的なフランンス料理のお好きな方々へ那須温泉の瑠庵をお薦め致します。中世のイギリス文化がお好きな方々へはブリティッシュ・ヒルズをお薦め致します。

今日は那須温泉の瑠庵をご紹介し近くのブリティッシュ・ヒルズに展示してある建物や家具調度をかなり詳しく説明致しました。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘

[ホテルの思い出(6)日光の金谷ホテルと中禅寺湖、竜頭の滝などの紅葉」

2023年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム
紅葉の季節が近づいてきました。関東平野はまだですが標高の高い山沿いは10月初旬から美しい紅葉や黄葉が華やかな風景になります。
そこで今日は日光の金谷ホテルをご紹介して、続いて中禅寺湖、竜頭の滝などの紅葉風景を示したいと思います。
1番目の写真は日光の金谷ホテルです。このホテルは現存する最古のリゾートホテルで国の登録有形文化財です。3度ほど泊りましたがサービスの質が高いのに驚きました。箱根の宮の下の富士屋ホテルと同じ雰囲気です。
雅楽の「笙」の奏者であった金谷善一郎がアメリカ人のヘボンを自宅に招き入れたのがホテルの始まりでした。
ヘボンは医師でありヘボン式ローマ字の考案者としても知られています。明治4年のことでした。写真の出典は、https://www.smbc-card.com/mem/hitotoki/watch/kanaya_hotel.jsp です。

2番目の写真は金谷ホテルの特別ダイニンフルームです。
3番目の写真は中禅寺湖の「半月山展望台」から見た男体山と中禅寺湖です。
紅葉の八丁出島と秋深まる男体山の風景が静まりかえっています。
中禅寺湖とは湖畔の立木観音を本尊にした中善寺という古いお寺があるのでそういう名前の湖になったのです。どっしりとした本堂があります。
写真の出典は、https://www.pixpot.net/articles/u_d_view/364/hangetsuyama-nikko です。
4番目の写真は竜頭の滝の紅葉です。この写真は竜頭の滝の一番下の滝でここから中禅寺湖に水が流れ落ちています。滝の一番下の龍頭乃茶屋から撮った写真です。
写真の出典は、https://imatabi.jp/theme/16452 です。
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5番目の写真は竜頭の滝の上の方です。多量の水が勢い良く流れ下っている光景は圧巻です。滝の一番下の龍頭乃茶屋から一番上の橋まで300mほどこのような急流が続いています。
写真の出典は、https://www.360navi.com/13tochigi/03chuzenji/03ryuzu/ です。
6番目の写真は戦場ヶ原の草紅葉の写真です。ここは広い湿原でここが水源になり湯の滝、湯ノ湖、竜頭の滝と流れ中禅寺湖へと流れ込みます。
なお戦場ヶ原は関東で最も綺麗に星空が見られる場所として有名です。
写真の出典は、https://matome.naver.jp/odai/2144242184146337601/2144248810399454803 です。
7番目の写真は観光客に公開されている元イタリア大使館の別荘です。現在は栃木県が所有しています。場所は立木観音の中禅寺の先にあります。訪れると優雅な気分になります。
写真の出典は、https://minkara.carview.co.jp/userid/396979/spot/406301/ です。

今日は日光の金谷ホテルをご紹介して、続いて禅寺湖、竜頭の滝などの紅葉風景をご紹介しました。なお華厳の滝やいろは坂の紅葉も美しいのですが割愛しました。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「ホテルの思い出(5)白馬東急ホテルと遥かな八方尾根」

2023年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム
白馬東急ホテルは何度も泊まったことがありました。あれは子供がまだ小さかった50年くらい前のことだったでしょうか。そのホテルは信濃大町の奥、木崎湖や青木湖のさらに奥の八方尾根や白馬連峰の下の高原にありました。当時の古いホテルはスイスの山岳ホテルのような三角屋根の木造でした。部屋は屋根裏部屋の感じのような内装で、小さな縦型の窓がついていました。庭には芝生が広がり、その向こうは森になっています。古いヨーロッパのホテルの雰囲気でした。その森を抜けると白馬連峰が見渡せるのです。近くのゴンドラに乗ると八方池まで登れたのです。そこからは八方尾根の向うに広がる白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳、小蓮華岳などがパノラマのように見えたものです。その初めての旅は私ども家族にとっては非常に印象深い旅でした。
その思い出があるので、その後も数回、白馬東急ホテルに行きました。家内の両親と泊まったこともありました。義父が、坂倉準三氏の設計した屋根の形を気に入ってました。またフレンチのコースも美味しいと喜んでくれました。
白馬東急に泊まり、次の日は上高地へ行く一泊二日の小さな旅をしたこともあります。その白馬東急ホテルにまつわる写真を示します。

1番目の写真は安曇野のあるガラス工芸店の店先から撮った白馬連峰の写真です。
写真には白馬岳(2932m)、杓子岳(2812m)、そして白馬鑓ケ岳(2903m)が写っています。

2番目の写真は、ホテルの庭先の森を横切って眺望の良いところに出て撮った白馬連峰の写真です。

3番目の写真もホテルの庭先の森を横切って撮った白馬の主峰です。
白馬岳に登り、その日本一の大雪渓を渡るのが学生時代からの夢でしたが、見果てぬ夢に終わってしまいました。
4番目の写真は白馬東急ホテルの中庭の風景です。

5番目の写真もホテルの中庭の風景です。ホテルの中庭は50年前と同じように芝生が広がっています。しかし樹木が50年間で大木になっています。夜は静かなダイニングで正式のコース料理を食べ部屋に帰りベランダで夜の庭を見ながらビールも飲みます。
白馬東急ホテルの近くには山に登るゴンドラがあります。兎平まで登れます。
ゴンドラの終点は標高が1400mと高く、その大きな展望台からは北に戸隠山や飯綱山が見えるのです。

6番目の写真はゴンドラから撮った白馬東急ホテルです。後ろの山々は白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳、小蓮華岳などです。

7番目の写真は八方尾根に上がるゴンドラです。
このゴンドラの終点は標高が1400mと高く、空気が澄んでいれば浅間山や八ヶ岳、南アルプスの峰々や富士山まで見えるそうです。ゴンドラの駅の周辺は青草の茂るスキー場です。

 8番目の写真は兎平に上がるゴンドラの下に広がるスキー場です。
ゴンドラの終点の兎平からさらにスキー用のリフトを2つ乗りつなぎ、そこから90分登れば八方池です。健脚だった頃は何度か八方池まで登ったものです。

もう白馬山麓は遠方すぎて行けませんが、白馬東急ホテルのことは絶対に忘れません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「雄大な北海道の紅葉の写真」

2023年08月25日 | 写真
そろそろ紅葉の季節ですね。
雄大な北海道の紅葉の写真をお楽しみ下さい。
4枚の写真の出典は、http://photo.hokkaido-blog.com/category/kouyou.html です。

1番目の写真は大雪山の銀泉台の紅葉です。

2番目の写真は阿寒湖の滝口の紅葉です。

3番目の写真は網走湖に近い能取岬のサンゴ草の草紅葉です。

4番目の写真は朱鞠内湖の紅葉です。

朱鞠内湖(しゅまりないこ)は、稚内市の南にあります。雨竜川上流に位置する人造湖です。日本最大の湛水面積(広さ2,373ヘクタール、23.73平方キロメートル)を持ち、総貯水容量も戦後に佐久間ダムが完成するまでは日本一であったそうです。

「樹木の写真」

2023年08月24日 | 写真
樹木のお好きな方々へお送いたします。
大きな樹木を見ていると、それだけで幸せな気分になります。

悠久の時の流れも感じます。
そして何事もなく今日も流れ行く日々の一日になります。写真を撮った場所は武蔵野公園です。