弥生時代から平安時代の初期まで日本人は桜の花より梅の花を愛し尊重していたそうです。「令和」の元号は万葉集の梅花の宴での前書きの言葉から取ったのです。
その後、平安朝中期からは山桜の花の美しさ、散りぎわの潔さがもてはやされるようになりました。
特に江戸時代には桜の品種改良が盛んになり様々な桜の花が持てはやされるようになります。時代によって日本人の好きな花が変ったのです。
ところで私はは若い間は華やかな桜の花の方が好きでした。それが老境になると桜花より梅の花が好きになったのです。
そんなことはさておき梅の花の写真をお楽しみ下さい。
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さて山桜は日本に旧石器時代から自生していました。しかし梅は弥生時代に中国から渡来して来たのです。
梅の花を主題にした漢詩がある筈です。
調べていくと唐の時代よりずっと後の元の時代のなっても中国では梅の花が愛されていました。
元時代の高 啓の漢詩が有名なので、以下にご紹介いたします。
梅 花 <高 啓>
(出典は、http://www.kangin.or.jp/what_kanshi/kanshi_B22_1.html です)
瓊姿只合に 瑤臺に在るべし
誰か江南に向かって 處處に栽えたる
雪滿ちて山中 高士臥し
月明らかにして林下 美人來る
寒は依る疎影 蕭蕭の竹
春は掩う殘香 漠漠の苔
何郎去って自り 好詠無し
東風愁寂 幾回か開く
この漢詩の意味は次のようなものです。
玉のように美しい梅の姿は、仙人の住む高殿にあるのがふさわしいのに、誰が江南の処どころに植えたのであろう。
雪が満ちた山中に高潔な人格者が寝ているように、また月の明るい林下に美人が来たかと疑われる。
寒さの中、梅の疎(まば)らな影によりそうのはさやさやとそよぐ竹、春には梅の残り香がびっしりとしきつめられた 苔を掩いかくしている。
何遜が去ってしまってからは梅を詠じた良い詩はなく、春の風が吹くたびに、かなしくさびしく幾度咲いてきたことで あろう。
高 啓は杜甫や李白ほど有名ではありません。でもこの漢詩は春さきに真っ先に咲く梅の花の淋しさを美しく詠っています。
彼は1336年生まれ、1374年に38歳で処刑死しています。
名は啓、字は李迪(りてき)、江蘇省蘇州市の人で、元末期の惠宗至元2年 の生まれ。幼にして頴敏、文武に優れ、詩文に巧みで史学に深かった。呉淞の青丘に住み、 青丘子と号しました。元朝に抵抗して蘇州に政権を樹立した張士誠の文学集団に出入します。官に就くも辞めて自活、のち罪に連座して処刑されたのです。時に38歳でした。明初期 最大の詩人で呉中の四傑(楊基、張羽、徐賁)に数えられているそうです。薄命な詩人だったのですね。
今日は梅の花の美しい写真を示し、続いて梅の花の漢詩をご紹介しました。漢詩は春さきに咲く梅の花の美しさと淋しさを詠ったのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===========================
「桜は日本に自生していたが梅は弥生時代に中国から渡来した」
有賀正博さんの「桜の原産地は、ヒマラヤの国ネパールだった」という記事の一部を引用します。
・・・桜の起源は、数千万年前にここネパールの丘陵地帯で生まれた山桜だった。その山桜の種が鳥に運ばれてビルマの山岳地帯→中国雲南省→福建省→日本へと続く温帯ベルトを渡ってきたのです。それは日本に人が住むよりも遙か以前のことでした。・・・
一方、梅は弥生時代に稲作とともに中国からやって来た渡来植物だったのです。
弥生時代前期~古墳時代の遺跡から梅の遺物が出て来るのです。 山口県・大阪府・奈良県・京都府・石川県・東京都などの弥生遺跡から梅の木の断片や梅の種が出て来るのです。しかしそれ以前の縄文時代の遺跡から、梅の遺物は発掘されていないのです。 梅は、弥生時代に渡来したと断定して良いようです。
梅が中国大陸から渡来し、日本で普及していく様子は、 稲作が広まってゆく様相とほぼ同じとみられます。そして原産地は中国長江流域と考えられています。下って奈良時代になると花と言えばウメを指すことの多いようになります。平安の貴族も初春に人知れず咲く梅の花に魅了されたようです。
万葉集で花の和歌の中で数が一番多いのは萩の花で、二番目は梅で119首もあります。当時は花の代表は春の梅と秋の萩だったのです。例えば、万葉集の梅花の宴では32首もの梅の花の歌が作られたのです。
ところが平安時代後期から花と言えば桜を指すようになりました。特に江戸以降は花見といえば桜となったのです。
日本人の好きな花は時代によって変遷したのです。