後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「感動的な水元公園の思い出」

2025年03月13日 | 日記・エッセイ・コラム
老境の財産は楽しかった昔の思い出です。それらを思い出してブログに書いていると再び若かった時のあれやこれやを思い出します。それにして妻はいつも一緒でした。
一昨年まで運転免許を持っていた頃は車を走らせてあちこちの公園へ行きました。東京の公園、埼玉の公園、神奈川の公園はあらかた行っています。特に東京の公園はほとんど全てに行きました。同じ所に何度も行きました。妻はいつも一緒に行きました。
そのいろいろな公園のなかで私が一番感動している公園は葛飾区と埼玉県の境界になっている広大な水郷を利用した水元公園です。
広さが約30万坪ととてつもなく広いのです。広大な池が広がり、ショウブや睡蓮が一面に咲いています。池の向こうには緑豊かな林があり、そこは埼玉県三郷市の公園になっています。
この公園の素晴らしさは池だけではありません。鬱蒼とした森があり、バードサンクチュリアがあります。深い森を抜けると広大な芝生の広場があり、小川が流れ、端には高いポプラの並木があります。
ある時は「ハナショウブ園」から左の方へ歩きました。広大な池に沿って、北端の「バードサンクチュリア」まで行きました。そこから中央広場のへりを歩いて、メタセコイヤの森を抜けて、駐車場まで帰って来ました。公園の半分くらいしか歩きませんでした。しかし、それだけで2時間かかりました。
私が何故この公園に感動するか書いてみます。
広いのです。水が豊かです。森が鬱蒼としています。芝生の広場が圧倒的です。その中の小川が楽しげに流れています。ポプラ並木がロマンチックです。そして私にとって一番重要な駐車場が広くて料金も適正です。これらもろもろのものが見事に配置してあるのです。歩いていて次から次へと場面が変わるのです。
この公園を設計した人々が楽しみながら何年もかけて作ってきた様子が目に浮かびます。作った人々の心が温かいのです。夢があるのです。
ですから私はこの公園が東京で一番感動的な公園と思っています。
家内が撮ってきた写真を歩いた順に示します。 
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1番目の写真は駐車場からすぐのハナショウブ園です。
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2番目の写真はハナショウブ園の先にある広大な池です。この池にそって向こうの森まで歩きます。写真には写っていませんが、右の方は三郷市の公園の森が広がっています。川風がさわやかです。
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3番目の写真は三郷市の公園の森です。この森の中の涼しい道を楽しみながら何処までも歩いて行きます。
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4番目の写真はバードサンクチリアにある野鳥の観察用の小屋の窓からの長めです。このような窓が幾つかついています。望遠鏡を持った若者が熱心に観察していました。
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5番目の写真は森を南の方向に抜けた所にある大きな中央広場です。エンジン付きの芝刈り機で草刈りをしている人がいました。芝の匂いが夏が近いことを教えていました。
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6番目の写真はこの中央広場の南側にあるバーベキュー広場です。
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7番目の写真はメタセコイヤの森です。そこを抜けると駐車場に帰ってきます。
なお、この公園には涼亭という和食のレストランと簡単な食事が出す店とがあります。
書いてみるとこの感動的な公園の素晴らしさをすべて説明できません。実際に歩いてみないと分からないのです。四季折々、いつでも感動します。
この公園には4度も行来ました。妻も感銘していました。

今日は私が一番感動している葛飾区と埼玉県の境界にある広大な水郷を利用した水元公園をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)

「都立神代植物公園の魅力」

2025年03月13日 | 日記・エッセイ・コラム
東京都には都立公園や植物園や動物園が沢山あります。
都心部に土地が無いので都立公園はわずかしかありませんが、少し郊外に行くと広大で駐車場の完備した公園が沢山あります。
全て都民税を潤沢に使用して設備も良く、管理整備も行き届いています。
私の自宅の近所にも都立小金井公園、都立武蔵野公園、都立野川公園があります。それらの公園は小金井市を囲むように広がっています。
仕事を止めて暇になるとこれらの素晴らしい公園を心行くまで楽しむことが出来ます。感動的なのは葛飾区の水元公園と今日訪れた神代植物公園です。
神代植物公園へは京王線の調布駅からバスが何度も出ています。JR三鷹駅からもバスが頻繁に出ています。
日曜日などは、都心部にお住いの方々にとってもピクニックに絶好の場所です。公園の北側の東西に2つの広大な駐車場もありますので車でも便利です。
以前、私は毎月1回くらい行きました。冬は温室、早春は梅林、梅雨時はアジサイ、夏と秋は広大なバラ園、晩秋にはダリア苑と菊の花々の品評会と展示会という具合に四季折々いろいろな魅力があるのです。そして巨大な樹木が深い森を作っている一画もあります。自然豊かな公園です。
スケールの大きい熱帯植物の温室もあります。
今日はこの公園の風景の写真を示します。
1番目の写真は西側にある正門の入ったちころに展示してあった見事な懸崖の菊の作品の展示です。
2番目の写真は大輪の菊の展示です。
3番目の写真は中央にある芝生の広場にあるパンパスグラスです。この公園は東西に長いのですが中央に広い芝生の広場があり、アイスクリームや軽食を売っている店もあります。パンパスグラスの中央で手を上げているのが家内です。人間の大きさとパンパスグラスの大きさを比較してご覧ください。
4番目の写真はバラ園の中央にある噴水です。バラの花々が噴水の向こうに小さく見えます。
5番目の写真は西側の正門の内側の風景です。大木の根元に懸崖の菊の展示が小さく見えます。
ここで示した写真はこの神代植物公園の西側の半分だけです。東半分は樹林地帯になっていてユリノキやプラタナスの大木が林になっておいます。梅林も椿林も東側にあります。そこの東門は有名な深大寺の裏門につながっています。
深大寺の参拝とこの植物公園へのピクニックを組み合わせて一日中楽しんでいる家族連も多いようです。皆様も是非お出かけになってみませんでしょうか。
尚、神代植物公園への交通は以下にあります。
神大植物公園:(http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/access045.html)
~電車・バスでお越しの方~
・京王線から
調布駅から小田急バス吉祥寺駅または三鷹駅行き「神代植物公園前」下車、
または京王バス深大寺行き「神代植物公園」下車
京王つつじヶ丘駅から京王バス深大寺行き「神代植物公園」下車
・JR中央線から
三鷹駅または吉祥寺駅から小田急バス調布駅北口または深大寺行き
「神代植物公園前」下車
※バスの乗車時間は約20分から25分程度です。
~お車でお越しの方~
中央高速の調布インターから、新宿方面へ甲州街道に降ります。「下石原交差点」を左折します。「神代植物公園北」の信号を右折すると左側に『神代植物公園駐車場(有料)』があります。混雑していなければ調布インターから5分程度です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「春の野山の花々とその思い出」

2025年03月13日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は東京の最高気温が20度Cになると天気予報が告げています。春の到来です。こんな時には野山の花々のことを考えます。野山に静かに咲いている可憐な花々です。
今日はそんな小さな花々の写真をお送り致します。そして花々にまつわる思い出を少しばかり書き添えたいと思います。花々は皆様よくご存知のクロッカス、フキノトウ、フクジュソウ、ミズババショウ、カタクリの花です。

1番目の写真はクロッカスです(https://hobbytimes.jp/article/20180912e.html  )
1970年の春、ドイツの野原でこんな風景を見て感動したことが忘れられません。

2番目の写真はフキノトウの花です。(https://www.photolibrary.jp/img521/17509_4998648.html )
甲斐駒岳の麓の農家の牧場の縁に並んでいました。1975年の春でした。

3番目の写真はフクジュソウです。(https://www.akita-gt.org/study/90/sanyaso1.html ) 
フクジュソウの花は神代植物公園でよく見かけました。雑木林の下に隠れるように咲いていました。

4番目の写真はミズバショウです。(https://www.photolibrary.jp/img521/17509_4998648.html )
ミズバショウの群生は北海道の網走湖の傍で1990年の春に見ました。一面のミズバショウの花が咲いている光景に息を飲みました。家内も感動して立ち尽くしていました。
 
5番目の写真はカタクリです。(https://www.akita-gt.org/study/90/sanyaso1.html )
甲斐駒岳の麓の私の小屋の周囲の雑木林に静かに咲いています。可憐なので根株ごと東京の自宅の庭に何度か移植しました。土が違うのか自宅の庭では育ちません。姿が消えてしまうのです。

今日は皆様よくご存知のクロッカス、フキノトウ、フクジュソウ、ミズババショウ、カタクリの花の写真をお送り致しました。そして花々にまつわる思い出を少しばかり書き添えました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「三陸の津波災害の歴史」

2025年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム
三陸の津波災害の歴史をお送り致します。
貞観地震 869年7月13日
慶長三陸地震 1611年12月2日
明治三陸地震 1896年6月15日 死者 21,920人
昭和三陸地震 1933年3月3日 死者行方不明者 3,064人
チリ地震津波 1960年5月24日 死者行方不明者 142人
東日本地震 2011年3月11日
死者19,630人 行方不明者 2,569人 負傷者6,230人

慶長三陸地震 による津波は現在の三陸沿岸および北海道の太平洋沿岸に来襲し、仙台藩領内で死者1783人(伊達領内で死者5000人という『駿府記』の記録もある。)、南部藩・津軽藩の海岸でも「人馬死んだもの3000余」という記録が残されている。北海道でもアイヌを含め多数の死者が出たという(『福山秘府』『北海道史』)。 

写真は三陸海岸の浄土ヶ浜です。

「1960年のチリ地震津波による日本の災害写真」

2025年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム
1960年5月23日4時11分(日本時間)、南米・チリ共和国でマグニチュード9.5という世界最大規模の地震が発生します。この地震により首都サンティアゴ・デ・チレ(Santiago de Chile)、をはじめ、チリ全土で死者1,743名、負傷者667名の大きな被害となります。
日本とチリは約17,500キロメートル離れていますが、津波は平均時速約777Kmのスピードで太平洋を渡ってきました。
日本の被害も写真をお送り致します。
写真の説明は下記にあります。
https://www.bo-sai.co.jp/chirijisintunami.html
1番目の写真は1960年(昭和35年)に岩手県大船渡港民家に乗り上げた漁船です。


「自分が見た東日本大震災の被害地の風景」

2025年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は東日本大震災から丁度14年目でした。大津波で22000人余の人名が失われた日でした。
私は仙台で生まれ育ったので東日本大震災の津波に襲われた仙台の近くの荒浜や菖蒲田浜へは何度も海水浴に行っていました。そして松島や野蒜海水浴場やその先の宮戸島にも足繁く行ったものです。
特に宮戸島には親しい家があったので何度も塩釜から船で行ったり野蒜水浴場を越して歩いて行きました。宮戸島は昔は島でしたが埋め立てて野蒜海岸から歩いて行けたのです。
そんな懐かしい思い出の場所が大津波でどうなってしまったのでしょうか。気がかりでした。そこで大津波から1年6ケ月経過した2012年の10月に現地に行ってみました。

今日は私の見た東日本大震災の被害地の東松島の写真をお送りいたします。
私は独りで朝早く仙台駅から仙石線の電車に乗り、高城町駅まで行きました。そこは松島駅の次の駅で、そこから先石巻までは線路がすっかり流されて何も無くなっていたのです。
復旧には全く手がついていなく完全復旧には5年以上かかるそうです。
高城町駅で降りると一台のタクシーしかいません。中年の親切そうな運転手さんがニコニコしています。そこで津波の被災地の様子が気がかりで来ましたと言うと、快くご案内しましょうと答えます。
車に乗り込んで、しばらく走る間にいろいろ聞きました。東松島市の東名(とうな)町に行きますと言います。自分の家のあった町だそうです。運転手さん自身の家も流されて何も無くなったと言います。幸運にも家族だけは生き延びたと言います。
そこで、私はその運転手さんの家のあった所へ案内して下さいと言いました。車は快調に数キロ走ります。津波の来なかった舗装道路です。
しかし東名駅に着くと、そこには幅の狭いホームが残っているだけです。
1番目の写真は津波に襲われプラットホームだけが残った東名駅です。
鉄の重い線路がすっかり津波で海中へ持って行かれたと言います。そして数年先には向こうの山の中に新しい線路を作るそうです。
この東名(とうな)駅は昔、野蒜海岸へよく海水浴に行ったので何度も通過した駅です。名前が「とうな」と遠方の海を連想させるのでよく憶えていました。
踏切らしいところを横切って、海側に出ると、そこは一面の荒れ地になっています。600人位の住民が住んでいて、260人が犠牲になったそうです。
2番目の写真は津波の猛威を示す家の写真です。
3番目の写真は運転手さんの家のあった場所です。門のあった所に彼が茫然と立っています。
彼の家の門の所から庭の方向を見ると庭さきは海です。
運転手さんは私と一緒に庭に入って行き、ここが玄関で、居間はここ、台所はここと説明しています。そして庭の奥には娘夫婦一家の家がありました。大きな庭木も沢山ありましたが、ご覧のように根こそぎ津波に持って行かれました。残った木々も海水で枯れているのです。
運転手さんへ出来たらお写真を出させて下さいと頼みました。よいですよと快く応じてくれたのが下の写真です。
4番目の写真は私を案内してくれた運転手さんとタクシーの写真です。彼は悲しそうな表情をしていました。
いろいろな話を聞きましたが、次に彼の家族の助かった理由を書きます。
大地震が起き、津波の来るまで1時間40分あったそうです。彼の家族全員は800mほど離れた石切り場のあった山の祠に逃げたそうです。山の上に逃げたのです。
5番目の写真は家族が逃げ登った石切り場のあった山の写真です。
津波が来た時、運転手さんは被害の無かった高城町駅近辺でタクシーの運転をしていました。東名地区は全滅だという噂がすぐに伝わりましたが道路が破壊されていて身動きがつきません。勿論、電話は不通です。家族も駄目かと諦めつつ、2日目に歩いてやっと自分の家のあった場所に着きました。
もう駄目だと思っていたところに通りかかった近所の人が、あの石切り場へ逃げて、全員無事だったと教えてくれたそうです。
この運転手さんは幸運でした。間もなく山沿いに新しく家を作ったそうです。もとの土地は怖くて二度と住めないそうです。その土地は政府が一坪9600円で買ってくれるという話だけはあるそうです。
6番目の写真は津波で亡くなった犠牲者へ供えた花の写真です。
運転手さんの話では、佐藤やえ さんというおばあさんがここで亡くなったそうです。津波が来るので近所の老人たちの避難を助けているうちに流されたのです。あれからもう1年7ケ月も経ちますが、毎日のように花が供えられているのです。佐藤やえ さんに助けられた人々が供えているようです。運転手さんが悲しそうに説明してくれます。
7番目の写真は道端に何事も無かったように咲いていたコスモスの花です。私は何故か救われたような気持になり写真を撮りました。

東京のマスコミは復興された元気な商店や意気盛んな漁師のことが何度も報道されています。しかし現地に行ってみると全く手がついていない土地が茫々と広がっているのです。
三陸海岸から福島まで広大な荒れ地が手つかずのまま、ひろがっているのです。ガレキの山もあちこちに異臭を放ちつつそのまま残っているのです。
それは心の凍るような光景です。大津波の猛威がいかに残酷なものかひしひしと肌に感じる光景です。しかしそんな中に心温まるものを見つけたのです。
8番目の写真は急遽作りなおした墓地です。
昔の墓石はすべて津波が海へ持ち去ってしまったそうです。残ったのはすっかり平になった墓地だけでした。この地区の生き残った住民がまず急いで新品の墓石を取り寄せて作ったのです。この地区で亡くなった260人の人々も先祖と一緒に新しい墓に葬られたのです。
急いで墓地を整備したのは、津波で非業の死を迎えた人々の鎮魂と供養のためだったのです。
普通、墓地はお寺の本堂の裏に広がっています。その本堂も海へ流されてしまったので墓地の前には広い空間になっているだけです。
運転手さんは生き残った住職さんの指導に従って、自分の家の墓はまだ作っていないそうです。そのわけは「墓よりもまず自分の生活を立てなおすのが先です。生活の立て直しをする前に墓を新しく作っても先祖様は喜ばないの
です」。これが住職さんの指導なのです。
新しい墓は家族に犠牲者のいる家の墓が大部分なそうです。そのことについては住職さんは何も言いません。毎週、避難先からやって来て墓地の前で読経して、帰って行くそうです。
この墓地の周りはすっかり何も無くなっていますが、家々の間に通っていた生活道路の跡だけが鮮明に残っています。

このように私は被害地を見ながら写真を撮って来ました。それにしても自宅が流されながらも元気に運転して私にいろいろ説明してくれた運転さんに感謝します。

昨日は東日本大震災の14年目でしたので自分が見た東日本大震災の被害地の風景をお送り致しました。

大津波で命を失った方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
                    後藤和弘(藤山杜人)

「東日本大震災を支援した台湾、韓国、中国、アメリカ、その他の国々」

2025年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム
なかなか実行出来ないことですが、懸情流水 受恩刻石という教えがあります。
「 情を懸けしは、水に流し、恩を受けしは、石に刻むべし」と読むそうです。短縮して刻石流水の四文字熟語もよく使われているようです。
そこで今日は「恩を受けしは、石に刻むべし」の教えに従って東日本大震災を支援した国々の恩を石に刻むような思いでもう一度お送りいたします。
あれからもう14年の月日が流れたのです。まず写真をご覧下さい。
1番目の写真は来日した台湾南部の泰武村の子どもたちが伝統舞踊を披露し、津波被害の大きかった岩手県山田町の子供達を励ました時の写真です。2012年2月28日、岩手県山田町で撮影した写真です。
台湾の支援は迅速で支援内容も実に充実していました。支援金額も最高レベルで日本人に感銘を与えたものです。
2番目の写真は台湾政府からの緊急援助物資の写真です。
馬英九総統は3月11日当日に「日本側の要請を受けたら、すぐに救援隊を出動したい」と語り、緊急救援隊を翌日3月12日に世界のどこよりも早く派遣してくれたのです。
物資支援として、3月14日~6月6日の間に発電機801台、毛布8735箱、寝袋3487箱、スリーピングマット236箱、衣類(防寒具、レインコート、手袋、マフラーを含む)6866箱、食品(クッキー、ポップコーン、米、缶詰等を含む)16.5㌧+18941箱などなどを送ってくれたのです。
日本側では北海道、青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県、東京都、新潟県、埼玉県、山梨県の災害対策本部、被災地、避難所等に至急送ったのです。
3番目の写真は港に散乱する漁網を日本人とともに片づけている米軍兵士です。
2011年3月12日以後の新聞にはアメリカ軍の大規模で、多岐にわたる救援活動が毎日のように報道されていました。この作業をアメリカ軍は「ともだち作戦」という名前をつけて大規模に展開したのです。
4番目の写真は倒れて通行の邪魔になっている立ち木を切り、取り除いている兵士の写真です。
これらアメリカの兵士は全て「ともだち作戦」に参加した兵士です。
アメリカ軍の支援は沖に停泊した航空母艦からの多量の救援物資のヘリによるピストン輸送でした。
単に物量を誇るだけではなく被災者の心に寄り添うものでした。
3番目と4番目の写真に示すように兵士は被災地の後片付けのために泥にまみれたのです。
そして港が津波で破壊された離島には上陸用舟艇で緊急上陸して食料を運び、後片付けに汗を流したのです。あるアメリカ海軍の小型艦艇は壊れていない港に接岸して船内のシャワーと風呂を泥まみれの被災者へ提供したのです。これは津波で家が流された被災者に非常に感謝されました。

この他に2011年4月1日の読売新聞一面には、「日米、不明者を一斉捜索」と題した記事が出ています。米海軍と海上自衛隊と海上保安庁の艦艇が一斉に三陸沖、仙台湾、福島沖に展開し海上に流れ出た生存者や遺体の発見に努力したのです。
特に三陸沖にある空母・ロナルド・レーガンからはヘリ20機を飛ばして海上の捜索に当たるのです。艦艇は15隻ていどが展開し、捜索にあたったのです。
5番目の写真は中国の温家宝首相が大震災後に原発の爆発のあった福島県を訪問した時の写真です。農協の野菜の販売所で放射能の恐怖をものともせずサクランボ、ミニトマトを食べるパフォーマンスをした時の写真です。
この写真は日本の新聞には出なかったので中国の新聞から転載しました。何度でもこの欄に掲載します。石に刻むためです。
一方、中国の胡錦濤国家主席は「犠牲者の方々に深い哀悼の意を表し、一日も早い復興をお祈り致します」との電報を今上天皇に宛てに送りました。
中国地震局は大震災の翌日、3月12日夜、日本の被災者に、人道援助を提供するため国際救援隊15人を13日朝に派遣すると発表し、国営新華社通信は「四川大地震で日本から支援を受けた恩に報いたい」という論評記事を配信します。
中国赤十字会は同日、日本赤十字社に100万元(約1260万円)を緊急援助し、必要に応じた人道援助をすることを決定したのです。

日本の新聞は台湾から援助については詳しく何度も報道しました。
それから日米安保条約のあるアメリカ軍の「ともだち作戦」については連日詳しく報道したのです。
しかし隣の韓国や中国からの支援の詳細はほとんど報道されなかったのです。

日本のマスコミは公平さが非常に欠落しているのです。
台湾、アメリカ、西ヨーロッパの国々のニュースは重要視し大きく報道しますが韓国と中国に関しては日本に対して悪いニュースだけを報道し、良いニュースは全く報道しない傾向があるのです。

下の参考資料に東日本大震災の復旧を支援した世界の191ケ国、34地域のことを書いておきます。

それはそれとして、
 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料==================
「東日本大震災の復旧を支援した世界の191ケ国、34地域を忘れない!」

人間は他人への恨みは忘れいが、他人から受けた恩は忘れると言います。

今年で東日本大震災が起きてから丁度14年になります。
あの時、世界中の国々や地域から日本は大きな支援を受けました。直接、被害を受けなかった日本人もあまりの悲惨な津波の被害と福島原発の爆発に呆然とし、悲しみに打ちひしがれていました。そんな時に世界中から暖かい激励と救助の支援を受けたのです。
インターネットを検索して東日本大震災で打ちひしがれた日本を支援してくれた世界の191ケ国、34地域のことを調べました。
あまりにも膨大な資料がありました。そこでそのほんの一部の抜粋を以下に示します。
(1)「東日本大震災に対する日本国外の対応」
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%AF%BE%E5%BF%9C )
ここでは、東日本大震災に対する日本国外の対応について記述してあります。
日本に対し、2011年5月2日の時点で、国連に加盟する191ヶ国の国、および幾つかの国や地域、約43の国際機関等からの支援の申し入れや見舞いの言葉があったのです。
そこで参議院では、4月15日に「東日本大震災に対する国際的支援に感謝する決議」が全会一致で可決しました。
例えば、中華人民共和国の温家宝首相は「中国政府を代表して日本政府と日本国民に対しお見舞いを申し上げる」という電報を菅直人総理に送るとともに、必要な援助を提供する意思があることを表明しました。
また、胡錦濤国家主席は「犠牲者の方々に深い哀悼の意を表し、一日も早い復興をお祈り致します」との電報を今上天皇に宛てに送ったのです。
中国地震局は3月12日夜、日本の被災者に、人道援助を提供するため国際救援隊15人を同月13日朝に派遣すると発表しました。
国営新華社通信は「四川大地震で日本から支援を受けた恩に報いたい」という論評記事を配信しました。
中国赤十字会は同日、日本赤十字社に100万元(約1260万円)を緊急援助し、必要に応じた人道援助をすることを決定しました。
一般市民の間でも支援の声は高まり、北京の大学生や会社員ら、有志の若者が仲間に義援金を呼び掛け、既に約5000元が集まったのです。同日午後、中国国際援助隊は生存者の捜索に必要な設備や救急医療物資など4トンの物資を携行し、羽田空港に到着します。
中国政府商務部は14日、毛布2000枚、テント900張、手提げ式応急灯200個などといった3000万元(約3億7500万円)相当の援助物資追加支援を決定し、初回分は14日、上海から空輸され、宮城県登米市に提供されたのです。第二陣は28日にミネラルウォーター6万本やゴム手袋325万組がそれぞれ茨城県、日本赤十字社に提供され、第三陣は31日にゴム手袋1万組、仮設トイレ60個、スニーカー2万5000足が提供されたのです。
さらに別枠で、3月16日、中国政府は日本政府の要請に応じてガソリンと軽油各1万トンを日本政府に対して提供することを決定、それぞれ4月2日、3日に日本に到着、被災地に送られました。
また新聞は「過去の遺恨による民族主義は天災や人道とは関係ない」とし、四川大地震の際に日本が援助したことを受け「民族の感情を超越した人道主義」と評し「必要なのは学ぶことと助け合うこと」と伝えたのです。
3月19日、東京電力は中国外務省を通じて中国の三一重工業集団有限公司に高さ62メートルから放水できるポンプ車の購入を打診すると、三一重工が無償での提供を申し出ます。
この巨大なポンプ車は1台約8500万円で、運搬にかかる費用を含めた約1億円を同社が提供し、24日に日本到着後、陸路で福島に向かい、31日より福島第一原子力発電所の原子炉冷却作業を開始します。
4月1日、中国政府はガソリン1万トン及びディーゼル油1万トンを緊急支援物資として被災地に提供しました。
そしてその後、温家宝首相は東北の被災地をつぶさに訪問し、直接、被災者を励ましたのです。
上記で中国の支援をご紹介したのは以前に韓国と台湾の支援を詳しくご紹介したので、その続きです。
ついでにタイの支援をご紹介いたします。
タイのプミポン国王夫妻は3月12日に、「地震と津波で甚大な被害が出たことを深く悲しんでいる。両陛下と全ての日本国民に心からの弔意を表す」と弔意を表する書簡を送って来ました。
アピシット・ウェーチャチーワ首相は、国民向けテレビ番組で「日本は長年にわたる開発のパートナーであり、重要な友好国」と述べ、支援する姿勢を明確にしたのです。
また、毛布や食料など救援物資のために2億バーツ相当の予算を組む予定だと明かします。
同月13日にはレスキュー隊員と捜索救助犬の派遣を決め、日本の大学を卒業した医師35人の派遣も検討します。
タイ政府は義援金の送付をすでに決め、国民からの援助物資の受付や義捐金を受け付ける銀行口座を設置します。
3月25日までに政府より500万バーツ、国王夫妻より500万バーツが日本赤十字社に寄付された他、支援物資としてワチラーロンコーン皇太子より毛布2万枚、パチャラキティヤパー王女より救助袋15,550セット、寝袋1000式、缶詰9000缶、タイ政府・国民から即席麺2万4000個、缶詰1万9200個、飲料水1万5000本、懐中電灯400個を贈って来ました。
タイ政府は5月9日にも日本語が話せる医療支援チームの派遣を予定しており、被災者、特に小児に対する感染症防御のための支援活動を予定していると発表したのです。
以上はアジアの2ケ国の中国とタイの例ですが、その他の世界各国の支援の状況は以下のように掲載されています。
(1)「東日本大震災に対するアジア諸国の対応 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/東日本大震災に対するアジア諸国の対応
... 東日本大震災に対する日本国外の対応 > 東日本大震災に対するアジア諸国の対応. 東日本大震災に対するアジア諸国の対応(ひがしにほんだいしんさいにたいするアジアしょこくのたいおう)では、東日本大震災に対するアジア諸国の対応について記述する。
‎東アジア - ‎東南アジア - ‎中央アジア - ‎西アジア
(2)「東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応
東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応(ひがしにほんだいしんさいにたいするヨーロッパしょこくのたいおう)では、東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応について記述する。 ..... トルコ:東日本大震災に対するアジア諸国の対応#西アジアを参照。
(3)「東日本大震災に対する北アメリカの対応 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/東日本大震災に対する北アメリカの対応
メジャーリーグベースボール (MLB) およびメジャーリーグベースボール選手会 (MLBPA) が併せて50万ドルを、日本の地震と津波の被害に対する義捐金として国際連合児童基金 (UNICEF) に寄付すると発表した。また、MLBの「Japan Relief」特設ページで寄付 ...
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こんなに世界中の国々が日本を助けようと支援したのです。
日本は間違いなく国際社会の一員なのです。そして日本は世界中の国から大切に思われ愛されているのです。有り難くて頭が自然に下がります。

「東日本大震災後の韓国人の支援」

2025年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム
自分の隣人を大切にし尊敬することは人間の倫理の基本です。それにしても今日ご紹介します写真は真面目な韓国人達の本当の姿です。
ご紹介する写真は、東日本大震災が起きた後、すぐの韓国の街の様子の写真です。あの時、街には、こんなメッセージが溢れかえっていたのです。
友人の中村 文政 さんから教えて頂いた写真集です。
2011年の3月11日の東日本大震災の後で、韓国人は我々を激励するメッセージを韓国の町中に掲示し、多額の義捐金や救援物資を送ってくれたのです。その上多数のボランティアの韓国人が被災地の復興に汗を流してくれたのです。

今日は、韓国人が我々を激励するために掲示したメッセージの写真をお送りします。
写真は、http://cadot.jp/impression/1794.html?detail から転載いたしました。

「東日本大震災後14年目の今日思う」

2025年03月11日 | 日記・エッセイ・コラム

大震災の起きた2011年3月11日から14年が経過しました。時が経過するに従って、被災地以外の人々は大震災を忘れがちになって来ました。

プロ野球も大相撲も何時ものように賑わっています。マスコミでも、大震災関連の報道が少なくなって来ました。

しかし大津波に襲われた町の復興には少なくとも10年、いや15年はかかると思います。大災害の復興は一朝一夕で出来るものではありません。

その思いを新たにする為に、大津波で破壊された町の写真を掲載いたします。


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「あの日」から14年がたった。東日本大震災の犠牲者に祈りをささげる鎮魂の日が今年も巡ってきました。
巨大津波が押し寄せ、沿岸の街を容赦なくのみ込んだのです。災害で1万9708人が亡くなり、2520人が行方不明のままです。
発生時刻の午後2時46分に私は妻と近所を歩いていました。電柱が大きく揺れ重いトランスが落ちてきそうで怖かったです。幸い大きく揺れましたが近所も自宅も無事でした。あれから14年です。犠牲者のご冥福をお祈りいたします。

昨年の元日には能登半島地震でも大きな被害が生じました。日本のどこでも大地震は起こり得る。津波が来ない海岸はない。それを肝に銘じ、次の試練に備えなくてはならないという思いを新たにします。 

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘




「満鉄のあじあ号の写真」

2025年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は昭和7年に満州を独立した国として建国しました。
この満州建国は後の昭和16年に始まったアメリカ連合軍との太平洋戦争の原因になったのです。
1番目の写真は満鉄の「あじあ号」の写真です。
6番目の写真は「あじあ号」の食堂車の様子です。当時のモダンな女性が食事をしている光景です。
3番目の写真は「あじあ号」の最後尾の展望車の光景です。裕福そうな乗客が寛いでいます。
写真が示すように満州には良い時代もあったのです。
それにしても終戦後の、ソ連軍による蹂躙と、シベリア抑留、そして悲惨な引揚げの歴史によって満州のことは昭和時代の大きな悲劇でした。
現在の平和な日本がしみじみ良い国になったと感慨無量です。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山壮人)

「終戦前後の東北本線、東海道本線の旅」

2025年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム
終戦前後をまたいで私は小学生でした。
今日は仙台から兵庫の祖父のお寺への汽車の旅の思い出を書きます。東北本線の蒸気機関車の旅と東海道本線の特急つばめ号の旅です。写真を示します。
当時は車が現在のように普及していませんでした。ですから旅はもっぱら汽車の旅でした。蒸気機関車や電気機関車に引っ張られた列車に乗って旅をするのです。
1番目の写真は当時よく客車を牽引していたC57という蒸気機関車です。
夏に仙台から兵庫の祖父のお寺へ行くとき東北本線で何度も乗った汽車です。とにかく煤煙が酷いのです。夏なので客車の窓は全て開けてあります。冷房装置など一切無い時代でした。仙台から上野に着く頃は顔やシャツが煤煙で真っ黒になるのです。トンネルに近づくと一斉に窓ガラスを下ろします。
2番目の写真はD51という機関車に牽引された汽車です。
当時、東北本線で何度か乗ったのです。C57とD51は同じように見えますが設計が違うのです。C57には日本で最大の直径を持っていた動輪が3つ着いています。D51には小さめの動輪が4つ着いているのです。小学生だった私は汽車の先頭の機関車を興味深く観察しました。現在の子供には興味の無いことかも分かりませんが、忘れられない思い出です。
あれは昭和17年の夏の事だったと思います。東京駅の中央通路に白いタイル貼りの円形水槽がありました。百匹くらいの小魚が群れをなして円周に沿って一斉に泳いでいるのです。連戦連勝で日本中が湧いていた頃です。
泳いでいた小魚の群れは鰯だったのか、ハヤなどの淡水魚だったのか分かりませんが、89歳の現在でも鮮明に思い出しています。
翌年、昭和18年夏、魚の群泳を楽しみにして東京駅中央通路へ行くと、無いのです。魚が一匹も居なく、空の白いタイルの水槽があるだけです。戦争が負け始めたので、魚の水槽どころではなくなって来たです。
3番目の写真は東海道本線で乗った特急つばめ号です。
EF55という電気機関車が牽引していました。当時は昼行特急は「つばめ」が1往復しかない貴重な列車でした。切符の入手が非常に難しく時々しか乗れませんでした。普通は急行でした。ですから幸運にも特急「つばめ」に乗れた時は有頂天になるほど楽しかったのです。

4番目の写真は特急つばめ号の最後尾についている展望車です。展望車は特別で上流階級の社交場のような雰囲気だったそうです。私は入ったことがありません。当時は日本にも階級制度があったのです。今日からはとても想像がつきませんが。

今日は仙台から兵庫の祖父のお寺への汽車の旅の思い出を書きました。東北線の蒸気機関車の旅と東海道線の特急つばめ号の旅です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「懐かしい特急つばめと東海道本線の旅」

2025年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は懐かしい特急つばめと東海道本線の旅の思い出を書きたいと思います。昭和16年から戦後にかけての思い出です。

昭和11年に生まれた私は毎年夏になると特急つばめに乗って兵庫県の田舎ある父の実家へ行ってました。父の実家は曹洞宗のお寺です。父母と兄弟3人で1週間ほど泊まりました。

当時住んでいた仙台から上野までは蒸気機関車だったので煤煙でシャツが真っ黒になったものです。

それが東京駅で「つばめ号」に乗り換えると煤煙がなく素晴らしいのです。窓を思いきり開けて涼風が楽しめるのです。

新幹線の開通の後あの懐かしい「つばめ号」は消えて無くなりました。

しかしインターネットには写真が残ってい.ます。その「つばめ号」の写真を示します。

超特急「燕」は東京~大阪間568kmを、それ以前の特急「富士」に比して2時間半近く短縮する,8時間20分(表定速度68.2km/h)で走破し、「超特急」と称されました。(戦前の「燕」は漢字表記で,戦後の「つばめ」はひらがな表記)

 「つばめ」の食堂車は「みかど」が営業を請け負い,洋食を提供しました。食堂の予約は,横浜を出ると車内改札があり,その後,ボーイが昼の定食の注文を取りに来ました。定食は1コース40分のフルコースで,3回転でした。一等客から予約をとっていくので,三等客はなかなか希望どおりにはならなかったそうです。
 ちなみに,開業日の定食メニューは,スープ,伊勢エビのゼリーかけ,牛肉の松茸ソース,七面鳥の蒸焼き温野菜添え,果物,珈琲で〆て一圓三十銭でした。

さて大阪の梅田に着くと今度は阪急電鉄に乗り換えます、更に能勢電鉄に乗り換えて父の実家へ着くのです。

東海道本線ではあちこちで途中下車して観光しました。熱海の温泉街や名古屋城。そして伊勢神宮や熱田神宮などに懐かしい思い出があります。

特急つばめは現在どうなっているでしょうか。
長らく「つばめ」の名は消えていましたが、1992(平成4)年にJR九州の特急としてよみがえりました。 現在は九州新幹線にその名が引き継がれ、「九州の顔」として緑の大地を駆け抜けているそうです。。

今日は私の「昭和の思い出」として特急つばめと東海道本線の思い出をお送り致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「美しい富士五湖めぐりの小さな旅」

2025年03月09日 | 日記・エッセイ・コラム
富士五湖は北の外輪山の内側に東西に連なる美しい高原の湖です。東から西へと山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖と5つ並んでいます。いずれも懐かしい曽遊の地です。
数年前に思い立ってこの富士五湖めぐりの小さな旅に行きました。
今日はその時撮った風景写真に従って皆様を富士五湖めぐりの旅へご案内します。写真は山中湖から順に河口湖、西湖、精進湖、本栖湖へと変わって行きます。
1番目の写真は山中湖から見上げた富士山です。あいにくの曇りで五合目以上は厚い雲に覆われていました。
2番目の写真は山中湖とその向こうにある筈の富士山です。蒸し暑い東京とは違い爽やかな高原の風が吹いていました。
3番目の写真は山中湖から河口湖へ向かう道です。忍野八海に南に広がる大きな森の中の道です。清冽な雪解け水が豊かに湧き出ている忍野八海を思い出しながらこの森の中の道をゆっくり走りました。
4番目の写真は河口湖の西岸からの風景です。富士山の裾野だけが写っています。
5番目の写真は何十年も岸辺に舫ってあるヨットです。何時ものようにありました。よく見ると最近も帆走したようにメインブームにカバーとロープが絡んでいます。ここ河口湖に来る度に、富士山を見ながら帆走する素晴らしさを想像して気分が良くなります。家内がヨットの傍まで下りて行って写真を撮って来ました。
6番目の写真は河口湖から西湖へ上がる途中にあるトンネルです。このトンネルを抜けると西湖が眼前に広がり別世界になります。
7番目の写真は西湖です。ここはバスの便がとても不便で寂しい湖です。人々が車を水際まで下ろして遊んでいます。私もここに来るたびに美しい西湖の水際を散歩したものです。
8番目の写真は青木ヶ原樹海の中の道です。西湖から精進湖へ行くにはこの広大な青木ヶ原樹海を抜けて行きます。深い、そして美しい樹海です。
9番目の写真は精進湖でです。ここには昭和天皇も泊まった山田屋という古い旅館がありました」。まだ子供が小さかった頃に家族と泊った懐かしい旅館です。現在は立派な鉄筋コンクリート造りになって営業しています。
10番目の写真は精進湖のすぐ隣にある本栖湖です。ここではドイツから持ち帰ったゴムボートを浮かべ子供たちと遊んだ湖です。茫々60年くらい前の思い出です。

さて美しい富士五湖めぐりの小さな旅はここで終わりです。お付き合い下さった皆様に感謝いたします。ありがとうございました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「暮らしの歳時記、お彼岸とぼた餅の思い出」

2025年03月08日 | 日記・エッセイ・コラム

お彼岸とは日本独自の仏教的な7日間の祭日です。今年の2025年の春分の日は3月20日(木・祝) ですから春のお彼岸は3月17日(月)から3月23日(日)までの7日間です。

お彼岸の墓参りは春分の日が良いといいます。私は彼岸に家内の家の墓参りに毎年行きました。家内がお墓を掃除して花々を供えます。私はロウソクに火を灯し線香の束に火を移す作業をします。線香を供え手を合わせて拝みます。そしてその日は、ぼた餅を買ってきて食べます。


お彼岸というとぼた餅やオハギにまつわる楽しい思い出をお持ちの方も多いと思います。特に戦前、戦後に育った方はぼた餅やオハギの夢のような甘美な味を憶えていると思います。当時は甘いお菓子が少なくて春と秋のお彼岸に祖母や母が作ってくれたぼた餅やオハギが一段と美味しく感じられたのです。
さて、ぼた餅とオハギは同じものです。春の彼岸に食べるのがぼた餅(牡丹餅)で秋に食べるものがオハギ(お萩)と呼ぶのです。
地方によって違うかも知れませんが、一般的にぼた餅は小豆のこし餡で秋のオハギはつぶし餡です。その写真を示します。

1番目の写真はオハギとぼた餅です。写真の左奥はつぶし餡のオハギで、右手前がこし餡のぼた餅です。
お彼岸にぼた餅やオハギを食べる風習は砂糖の普及する江戸時代中期以後になってから始まったと言われています。
そして春のぼた餅と秋のオハギは季節の変わり目を意味する暮らしの歳時記として定着しました。
そして俳句の世界では、単に「(お)彼岸」「入彼岸」「彼岸過」「彼岸会」「お中日」と言えば春の季語となり、「秋彼岸」「後の彼岸」となると秋の季語となるそうです。
さてここで「入彼岸」や「お中日」という言葉が出ましたのでその意味を考えてみましょう。
今年の春のお彼岸の中日は3月20日です。その3日前を彼岸の入りと言い、3日後を彼岸のあけと言います。彼岸の間は7日間になります。
彼岸とはあの世の極楽浄土を意味していて、この世の煩悩の世界を此岸と呼ぶのです。
風景写真を例にして示しと以下のようになります。

2番目の写真は伊豆半島の伊東付近の海岸道路から撮った大島の写真です。手前の伊豆半島が此岸で海の向こうの大島が彼岸です。もう一枚の写真を示します。

3番目の写真は相模湾の茫洋とした海です。彼岸ははっきり見えません。

このように実例を示すと涅槃の境地である彼岸が簡単に行ける場所のように感じられます。しかしそれは大きな誤解です。人間はそんなに簡単に悟りの境地になることが出来ません。
死んで涅槃の境地にいたることは簡単ではないのです。ですから彼岸は目には見えない遥か海の向こうにあるのです。
さて彼岸と仏教の関係はサンスクリットのpāram(パーラム)の意訳から来ていると言われています。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%BC%E5%B2%B8 )
仏教用語の「波羅蜜」(Pāramitā パーラミター)の意訳「至彼岸」に由来するのです。
Pāramitāをpāram(彼岸に)+ita(到った)、つまり、「彼岸」という場所に至ることと解釈しているそうです。悟りに至るために越えるべき迷いや煩悩を川に例え、その向こう岸に涅槃があるというのです。
こんな由来があるのでお彼岸の7日間にはいろいろな佛事があります。その仏事のことを彼岸会の法要と言います。その一つとしてお墓詣りがあるのです。
彼岸会法要は日本独自のものであり、現在では彼岸の仏事は浄土思想に結びつけて説明される場合が多いようでです。
浄土思想で信じられている極楽浄土(阿弥陀如来が治める浄土の一種)は西方の遙か彼方にあると考えられています。お彼岸の時にはそこにいるお先祖様のことを想いお墓に参って冥福を祈るのです。
そして信心深い僧はお彼岸のあいだに六波羅蜜の六つの修行をします。
この六つの修行とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つのことです。
例えば、忍辱とは、如何なる辱めを受けても、堪え忍ぶことが出来れば、苦痛の多い現代社会において、自らが他の存在に生かされていることがわかり、全ての人の心を我が心とする仏様の慈悲に通じることとなります。(http://www.rokuhara.or.jp/rokuharamitsu/ )

まあ、こんな面倒なことを知らなくてもお彼岸は家族のことを想う日本特有の楽しい行事です。

昔は家でぼた餅を作ってワイワイと食べたものです。最近は菓子店やスーパーから買って来て食べます。春のお彼岸ももうすぐです。大いに頑張ってぼた餅を食べましょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


「ドイツの戦災の惨禍」

2025年03月07日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はドイツの戦災の惨禍を書いてみたいと思います。
さて伊澤孝平著、「そういう時代の旅と人」という本の69ページに書いてあります。
「ドイツへ行って沁々と感じたことは、戦争の惨禍ということである。
どんな犠牲を払っても、この地上から戦争を無くすることは、人類に課せられた使命であると思った。徹頭徹尾戦った国ほど荒廃している。風車が清流に影を浮かべているオランダの美しさ、豊かさと、ドイツの惨めさとを比較して特にそう思った。・・・」
著者の伊澤孝平氏はライン河に沿って、デュッセルドルフ、ケルン、コベルンツ、アルト・ハイデルベルヒ、シュツットガルト、カールスルーエと戦火に見舞われた街々を巡ったのです。
当時は戦後8年もたっていたのですが、街々にはまだまだ爆撃で破壊された建物が残っていたと書かれています。
その様子を、「大戦中のヨーロッパの写真」(http://www.inspiration-gallery.net/.../europe-during-ww2-38/)から下にご紹介いたします。

1番目の写真には米軍兵士が乗ったジープが写っています。
下の2番目の写真には爆撃でねじまがった橋を自転車とともに渡ろうとしている住民を米軍兵士が助けています。
このような時代がヨーロッパにあったのです。

2番目の写真は爆撃でねじまがった橋を渡ろうとしている住民と米軍兵士です。
そして著者の伊澤氏は戦争中には私が住んでいた仙台市にいたので「仙台の大空襲」を体験しているのです。1945年の7月10日にB29が百機以上来襲して仙台市を一挙に焼き尽くしたのです。
さて私も1970年にシュツットガルトに家族と共に住んでいたのです。
ドイツは独特な文化を持っています。伝統を大事にし静かな思考を大切にします。街を歩くドイツ人は決してイタリア人のように陽気でありません。フランス人のようにお洒落をしません。何時も真面目で堅い雰囲気を持っています。

3番目の写真は寒々とした冬のドイツの風景です。

4番目の写真は雪に覆われたドイツの古い町です。

5番目の写真は冬のシュツットガルト市の街路にたつ市です。近くの農民が作物を売っています。
私どもが住んでいたのは古いアパートでした。墓地のそばにあり3階に住んでいました。家からは娘の行っていた小学校、息子の幼稚園はすぐ近くにありました。八百屋や花屋が近所にある住宅街でした。
ドイツの冬は暗くて寒いのです。その長い暗い冬を体験しました。

ドイツの戦災の惨禍と冬のドイツの思い出を書きました。シュツットガルトのマックス・プランク金属研究所で働いていた頃の思い出です。シュツットガルトはスイスに近い場所です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)