後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「年老いて振り返る我が人生(17)いろいろな外国に旅した人生だった」

2024年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム
年老いて我が人生を振り返るといろいろな外国に旅した人生だったと思います。
アメリカとドイツには2度留学しました。スエーデンにも留学しました。短期の旅ながらインドネシア、ベトナム、タイ、ミャンマーのアジア諸国にも行きました。中国や韓国には何度も行きました。南米のベネズエラも1週間だけですが訪ねました。
大学生の時読んだルース・ベネデクト著の文化人類学の本に感動したのが原因でした。世界のいろいろな外国の文化を自分の目で見る決心をしたのです。それは仙台の東北大学に行っていた頃でした。
「年老いて振り返る我が人生」という連載記事の(17)の最後は南米の少数民族を取り上げたいと思います。
アマゾン地域の少数民族と山岳地域に住むケチュア族です。
ブラジルの大地にはアジアから移住して行ったモンゴル系の先住民族の暮らしがありました。1500年当時の先住民族の人口はブラジル全土で300万人以上だったといわれています。
さらに最近の研究ではアマゾン地域だけで800万人もの先住民族がいたという仮説すら出されています。
現在、ブラジル全国の先住民族の人口はおよそ90万人で、そのうち48%の人がアマゾンに暮らしています。
ブラジルの居た先住民族は、305の民族で274の言語という多様性な社会でした。
1500年以降、植民地化が進められ先住民族は病気や虐殺などにより人口を減らしましす。
1957年には、全国にわずか7万人が残るにすぎませんでした。その後、先住民族全体の人口は回復に転じましたが、小さな民族や言語の消滅はいまも進行しています。先住民族保護区は全国に505ヶ所あり、先住民族の57.7%がそこに暮らしています。
保護区の総面積は国土面積の12.5%にあたる107㎢で、うち98.33%がアマゾンに集中しています。カヤポ民族はアマゾン熱帯林保護への貢献が評価されて、2015年に国連が設置する「赤道賞」を受賞しました。
アマゾンの深い森にくらす先住民族は、森のめぐみと、森がはぐくむ川のめぐみを糧に生きています。畑で作物を育て、川で魚をとり、森のけものを狩る自給自足のくらしです。森の中の焼畑では主食となるマンジオッカ(キャッサバイモ)を作ります。家のすぐ裏の小さな畑ではサツマイモやカボチャなどを作ります。
先住民族の生活の中に祭りはとても重要な位置をしめています。死者の魂を送る祭り、3日3晩歌い踊り続ける女たちの祭り、子どもから大人になる通過儀礼、などなどです。祭りの背景には森羅万象に精霊が宿ると考えるアニミズムの世界観が横たわっています。祭りの日、ボディペインティングと羽根飾りの正装で身を整えた人たちで村は色鮮やかににぎわいます。写真はアマゾン地域の少数民族です。
1番目の写真はアマゾン地域の少数民族の家です。細い横木をはさみ込むようにして茅をかけていきます。骨組みは木の皮を剥いだものを縄のように使って縛りつけてあります。屋根を葺く材料はサペーと呼ばれるイネ科の植物です。村のまわりには茅場が何ヶ所かあって、大切に利用されています。
2番目の写真は祭りの踊りです。祭りの日、ボディペインティングと羽根飾りの正装で身を整えた人たちで村は色鮮やかににぎわいます。
3番目の写真は祭りの日の子供達です。子供達もボディペインティングと正装で身を飾ります。
4番目の写真も祭りの日の羽根飾りです。
さて次にクスコ周辺の山岳地に住むケチュア族をご紹介したいと思います。(https://www.andina-travel.com/blog/peru190825/ )
インカ帝国の時代、クスコは巨大な帝国の都として栄えました。そして近郊のウルバンバ谷は皇帝の避寒地として農作物の試験場として重要な役目を担いました。クスコやウルバンバ谷周辺は、インカ文明の中枢であったのです。
インカ文明を興したケチュア族は、今も南米大陸のアンデス山脈沿いに広く暮らしています。今もかつての生活風景を連想させるカラフルな民族衣装をまといケチュア族の文化を守り続けています。クスコから1時間も車を走らせると農村の風景が広がります。起伏に富んだ地形で畑を牛で耕し手作業で収穫をしています。
今もインカの神々への信仰を大切にしているので、農作業の間にも大地の神や太陽神への祈りを何度も見かけることができます。伝統文化と信仰は不可分であり神様と生活は一体なのです。先祖から伝わる祈りの道具を使いトウモロコシの発酵酒“チチャ”やコカの葉を大地に捧げ祈ります。アンデス山脈とケチュア族の繋がりに信仰を支えています。陽気に農作業をしながらも、どこか哀愁を感じさせる目で世界を見つめ少しシャイなのがケチュア族の人々の性格です。そんなケチュア族の写真をお送り致します。
5番目の写真はケチュア族の夫婦です。背景はアンデス山脈です。
6番目の写真は農作業の合間に女がトウモロコシの発酵酒“チチャ”を大地に捧げ祈っている場面です。
7番目の写真は男が収穫したトウモロコシの出来具合を見ている場面です。

今日は南米の平野のアマゾン地域の少数民族と山岳地のケチュア族をご紹介致しました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「我々と同じような韓国のお寺と墓地の風景」

2024年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム

韓国には我々と同じような人間が住んでいます。

父母、祖父母、知人や友人の死を悲しむのは全く同じです。そして亡くなった親しい人はあの世で必ず生きていると信じたいのです。

惜別の悲しみを少しでもやわらげてくれるのが宗教です。そして死者を土葬にしてお墓を大切に守るのです。その心情を思いやれば日韓の間の交流も楽しくなります。より親密になります。

韓国は50%が無宗教で、30%がキリスト教で残り20%が仏教です。韓国の仏教は中国の道教の北斗七星に対する妙見信仰や風水と習合しています。日本の神仏混淆と同じことです。 

日本の宗教風景と非常に違うところはシベリア大陸の原住民のシャーマニズムが現在でも強く残っていることです。それは巫俗という原始宗教です。本質的に一神教的でが、精霊が住む世界の信仰が先史時代にまで遡る韓国人の宗教生活の最古の形でと言われています。こんなところも人間的で親しみを感じます。 日本の恐山にある巫女への信仰と似ています。 

韓国への親近感を持って頂きたいと思い、下に仏教寺院の写真と韓国の墓地の風景写真を示します。尚、韓国には日本のような檀家制度が無かったので墓地はお寺とは離れた景色の良い山際に作ります。墓参を兼ねてピクニックに行くところです。それは沖縄の風習とも似ています。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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1番目の写真は韓国の11の世界文化遺産の一つの海印寺です。

写真の出典:http://www.seoulnavi.com/special/5003998

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2番目の写真は韓国の三大祈祷院の普門寺です。写真の出典: http://www.hikorea.jp/tour/tour_view.php?topinfo_tcode=TB1320394145

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3番目の写真は韓国の墓地です。写真の出典http://seoul2.blog97.fc2.com/blog-date-200908.html韓国では生花ではなく造花を捧げるのでいつまでも鮮やかだ。)Dc100520811

4番目の写真も韓国の墓地です。

「韓国人はお祭りやイベントが好き」

2024年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム

韓国人は祭りやイベントを開催して楽しく暮らしているのです。日本人の祭り好きとよく似ています。

そんな韓国の祭りの様子は政府の文化体育観光部が公表している「韓国のお祭り2014」に数多く紹介してあります。

その中から私の気に入った祭りを5つ選んでご紹介いたします。

http://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/TE/TE_JA_7_5.jsp?cid=977374を開けてみて、あなたのお好きな祭りを選んでみるのも楽しいと思います。

(1)ソバの花が主役の祭り平昌孝石文化祭り

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韓国現代文学の大家、李孝石(イ・ヒョソク)の故郷である平昌(ピョンチャン)郡の蓬坪にある孝石文化村は彼の代表作である「蕎麦の花の咲く頃」の舞台でもあります。この祭りでは、作品に登場する地域を巡るコースや様々な民俗体験イベント、文学・料理イベントを楽しむことができます。また、祭りは白い蕎麦の花が蓬坪一帯を覆う最も美しい時期に開催されるため、見どころいっぱいの祭りといえます。 期間:2014年9月初旬予定
会場:
江原道 平昌郡 蓬坪面の一帯(文化村一帯) 

(2)菊の花が主役の祭りカゴパ菊花祭り

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馬山(マサン)は韓国で初めて菊の栽培を始め、初めて日本に輸出もしました。2000年から開催されたカゴパ菊花祭りのイベント会場では、雄壮なフラワーゲートや5千輪の菊で作った菊の丘、菊のキャラクターのある花の塔など美しい菊が満喫できます。 

期間:2014年10月下旬予定 、会場:慶尚南道 昌原市 馬山第1埠頭の一帯 

(3)漢城百済時代の文化が感じられる祭り漢城百済文化祭

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ソウル特別市松坡(ソンパ)区一帯は2000年前、約500年間漢城百済(ハンソンペクチェ)として都があった場所です。ソウルの歴史が始まったといえるこの地には、風納土城や夢村土城など由緒正しい遺跡があります。燦爛たる花の漢城百済時代の歴史や文化を感じられるお祭りです。 

期間:2014年10月2日(木)~5日(日)、会場:ソウル特別市 松坡区 オリンピック公園一帯、慰礼城大路、風納キョンダン歴史公園など

(4)韓国の民謡、アリランの哀愁を懐かしむ祭り旌善アリラン祭り

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旌善(チョンソン)アリラン祭は、保存と継承の発展のため、自然と人とアリランがひとつになる祭りです。旌善アリランの哀歓をこめたアラリいかだの再現、旌善アリランや拍子を覚えるアリラン体験やカムジャジョン(ジャガイモのチヂミ)やメミルジョン(蕎麦のチヂミ)などの料理体験などがあります。また故郷の香りをいっぱいに感じられる、躍動力あふれる旌善市場(伝統市場)は、祭り期間中は毎日開催され、農産物や食べ物を安価で購入できます。 

期間:2014年10月9日(木)~12日(日)、会場:江原道 旌善郡 公設運動場、朝陽江の一帯 

(5)薬草と韓方薬の祭り智異山(山清)韓方薬草祭り

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智異山(山清)韓方薬草祭りは、健康に関心がある現代人にぴったりのお祭りです。この祭りでは自宅でハーブのように育てて食べられる薬草の鉢植えや薬草を材料にした韓方料理などを展示して、観光客にわかりやすく薬草を伝えています。 

期間:2014年10月2日(木)~9日(木)、会場:慶尚南道 山清郡 山清インター入口の祭り広場および東医宝鑑村の一帯


「私は知らなかった朝鮮の歴史、特に高麗と李氏朝鮮」

2024年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人は中国の歴史は良く知っていますが隣の韓国の歴史や文化をよく知りません。日本人が学校で習うのは百済、新羅、高句麗の三国だけです。その後の歴史は殆ど習いません。
そこで今日は韓国の歴史について調べたことを書きます。
朝鮮の歴史は中国と同じような王朝の興亡の歴史なのです。それは天皇と幕府の二つの権威が並存する日本の歴史とは非常に違うのです。
百済、新羅、高句麗の三国の後の朝鮮ではいろいろ戦乱があり、918年、後高句麗の豪族の健が新羅を滅ぼして王位を奪い、高麗という王朝を建国したのです。
この高麗は現在の韓国の英語名のKorea になったのです。
この高麗王朝は918年から始まりましたが、この高麗は1259年に モンゴル帝国の元に屈し属国化します。そして元の皇帝の女婿の国になるのです。
高麗は1274年、1281年 の元の2度の日本侵攻(元寇)への協力と出兵により甚大な被害をこうむったのです。しかし1392年まで存続しました。
1392年に朝鮮王朝の開祖李成桂に滅ぼされ、李氏朝鮮が始まったのです。
一方、現在の北朝鮮は渤海、東丹国、元朝に支配され、特に元は朝鮮半島全部を支配し、日本へまで攻め込んで来たのです。
その日本も秀吉の出兵により李氏朝鮮の首都、漢陽(現在のソウル)も陥落したのです。それは1592年の 文禄の役(壬申の倭乱)と1597年の 慶長の役(丁酉の倭乱)です。秀吉の軍が朝鮮のほぼ全域を占領します。
しかし 李舜臣の活躍で日本軍は撃退されました。
ですから現在、韓国では李舜臣の銅像があちこちにあります。
 
さて朝鮮の歴史を概観すると、百済、新羅、高句麗の三国時代がありました。そしてその後、高麗王朝が出来ました。この高麗は918年から1392年まで続きましたが1259年に モンゴル帝国の元に屈し属国化します。1392年からは李朝朝鮮になるのです。
 
もう一つ韓国の歴史を理解するために重要なことは地方、地方によって歴史が違うことです。現在でも百済、新羅、高句麗のあった地方はそれぞれ異なる文化と政治意識を持っていると聞きます。
 
今日の挿絵は世界遺産の済州島の王宮の2枚の写真と当時の復元した街と仏教のお寺の本堂の写真です。観光客用に作ったものですが、韓国の王宮と仏教の本堂が理解出来て興味深い写真です。写真の出典は、http://mdavinci.exblog.jp/7132453/ です。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
 
===参考資料===============
(1)朝鮮の歴史の詳細:出典は朝鮮の歴史に関するWikipedea などより。
三国時代(4世紀中葉-676年)南部三韓は、百済・新羅・任那となる。
 
1.高句麗
2.百済
 3.新羅
 
統一新羅(676年-935年)初めての統一政権渤海(698年-926年)高句麗の滅亡後建国した高句麗流民中心の国家後三国時代(892年 - 936年)1、新羅2、後高句麗(894年-918年)→高麗3、後百済(892年-936年)
 
高麗:918年、後高句麗の豪族の健が新羅を滅ぼして王位を簒奪し、高麗を建国する。
 
933年 - 後唐の冊封を受ける。
935年、新羅の敬順王、高麗に国を譲渡し、ここに新羅滅亡す。
936年 - 後百済を滅ぼし朝鮮半島統一。
976年 - 田柴科の創設。
1010年 - 契丹の侵入。
1018年 - 契丹の再侵入。
1033年 - 高麗の長城の建設開始。
1126年 - 李資謙の乱。金に服属。
 
1259年 - モンゴル帝国(元)に屈し、属国化。皇帝の女婿の国になる。
1274年、1281年 - 元の2度の日本侵攻(元寇)への協力と出兵により甚大な被害をこうむる。
この頃より倭寇に悩まされるようになる。
1388年 - 親明派の武将李成桂がクーデターを起こし実権者になる。
 
朝鮮王朝の開祖李成桂は1392年に開城で王に即位し李氏朝鮮が始まる。
 
(2)済州島の概要、 出典は、http://mdavinci.exblog.jp/7132453/ です。
済州島は、韓国の最南端、高知県とほぼ同じ緯度にあり、韓国唯一のミカンの産地である。人工は56万人、面積1,845k㎡(淡路島の約3倍)あり、巨大な火山島である。済州島の特徴を端的に言う言葉に『三多』「三無」がある。三多は「石、風、女」で、三無は「泥棒、乞食、大きな門」である。また、人半分、馬半分と言われるくらい馬が多い。この馬は、元が勢力を伸ばした時代に馬を放牧したことに由来する。古くは、独立国「耽羅(タムナ)」を名乗るなど、島独自の歴史、文化、風俗を有している。また、李氏朝鮮時代は流刑地としても有名である。
現在は、済州特別自治道に指定され、国際的リゾートアイランドを目指し、中文観光団地を中心に観光産業に特に力を入れている。その他、ありのままの自然を大いに生かし、時代劇のロケ地としても脚光を浴びている。「チャングムの誓い」「朱蒙(チュモン)」「太王四神記」などの舞台となっている。
2007年には、『済州の火山島と溶岩洞窟群』が世界自然遺産に登録された。島の中央に聳える漢拏(ハルラ)山(1950m)、城山日出峰、溶岩洞窟がそれである。

「年老いて振り返る我が人生(16)韓国と日本は運命共同体」

2024年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム
韓国と日本はともに民主国家です。共韓国は産党独裁の中国と北朝鮮と軍事的に対抗しています。ですからこの韓国は日本と運命共同体なのです。そんな事情は皆が知っている自明のことです。
ところが韓国と日本は必ずしも友好関係にあるとは言い難いのです。大局的に東アジアの真の平和のためには韓国と日本の完全な友好関係が必要です。
そこで今日は韓国と日本の関係を考えてみたいと思います。
昔から日本は中国や朝鮮の文化を学んで来ました。推古天皇3年(595年)に朝鮮半島の高句麗から渡来した恵慈は聖徳太子の師でした。そして恵慈は飛鳥時代の日本仏教界で活躍した朝鮮の人でした。 
時代は飛びますが日清戦争の頃の朝鮮は大韓帝国として近代的な独立国になっていました。
しかし1910年に日本は朝鮮半島を併合して、日本の固有の領土にしたのです。その併合は1945年まで35年間続いたのです。
朝鮮半島併合の前年の1909年には、伊藤博文がハルピン駅頭で安重根の発射した3発の銃弾によって暗殺されたのです。安重根は現在大韓民国の英雄として記念碑がソウルにあります。
併合後の朝鮮半島では日本語が教えられ、個人の名前も日本風に改名させられたのです。創氏改名です。
そして多数の人々が労働者として半強制的に日本内地へ駆り出されました。彼らは炭鉱やダム建設現場で過酷な労働に従事したのです。
東京の小河内ダムの犠牲者の名前を刻んだ石碑を見ると朝鮮の人の名前がズラリと並んでいます。
そして戦前、戦争中は各地に「朝鮮人飯場」があったものです。私個人はよく朝鮮人飯場に行き、彼等と一緒に遊びました。
現在の在日韓国人はそういう人々の子孫なのです。
なお朝鮮併合に関する歴史は参考資料としてこの記事の末尾につけてあります。
それよりも私自身が韓国で見た観光地の看板について書いてみたいと思います。
1985年ごろ日本の援助で出来た巨大な浦項製鉄所の技術研究所の金鉄祐所長に韓国へ招待されたのです。
あちこちで講演をする旅でした。その旅には、いつも浦項製鉄所の韓さんという心優しい技師が同行してくれました。そして慶州の数多くの古い寺にも案内されたのです。
ところが何処の寺に行っても入口に40cmX50cmくらいの立派な真鍮製の看板が掲げてあり、ハングル文字で何やら書いてあります。
同行した韓さんに聞くと、16世紀に秀吉軍がこの寺を焼き尽くしたと書いてあるそうです。そしてその後の何の時代に誰によって再建されたかと書いてあるそうです。
驚いたことに数多くのどの寺に行っても秀吉軍が焼き尽くしたと書いてあるのです。焼き尽くされた韓国人の恨みの深さが身に迫ります。
「それにしても文化財の数多くの寺を焼くとは秀吉軍が悪い」と私が韓さんへ言いました。
すると韓さんは、「お寺は韓国兵の宿泊所に利用されていたので仕方がなかったのです」と私を慰めてくれたのです。
そうです。日本でも戦乱が起きるとお寺が焼かれるのはこの理由だったのです。
秀吉軍は寺を焼いただけでなく朝鮮から多数の人々も拉致してきたのです。九州の窯業はその人々によって出来上がったのです。
当然、韓国人は秀吉の蛮行を現在でも恨んでいます。そう思うのは自然ではないでしょうか?
蛇足を書いておきます。
私を韓国へ招待してくれた浦項製鉄所、技術研究所の金鉄祐所長はその前には東京大学の鉄鋼製錬を専門にしていた雀部教授の下にいました。
朴政権の前の政権に反対して東京で政治運動をしていたのです。日本の警察が逮捕して拘留します。
雀部教授には私も大変お世話になったので、金鉄祐さんの釈放運動に私も少しだけ協力したことがありました。
韓国の政権が代わり、朴政権になったお蔭で、金さんは釈放され、やがて浦項製鉄所、技術研究所の所長として韓国へ招び戻されたのです。
釈放運動に協力したことを恩義に思って、私を韓国へ鄭重に招待してくれたのだと思います。韓国人個人はこのように恩義に篤い人なのだと信じています。
 
日韓の両国民は過去の感情問題を克服して日韓友好を確立すべきです。それが東アジアの真の平和をもたらすのです。平和こそ尊いのです。
 
それはさておき今日の挿絵代わりの写真は韓国の釜山とソウルの風景写真です。写真の出典は、https://snapmart.jp/photos/4395135 と https://seoul-heyanavi.com/blog/11543 です。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
========参考資料===============
韓国併合(かんこくへいごう)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88
1910年(明治43年)、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦とも表記されている。1910年に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、大日本帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有した。1945年(昭和20年)8月15日、大日本帝国は第二次世界大戦における連合国に対する敗戦に伴って実効支配を喪失し、同年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に大日本帝国による朝鮮半島領有は終了した。1945年9月9日に朝鮮総督府が、連合国軍の一部として朝鮮半島南部の占領にあたったアメリカ軍への降伏文書に署名し、領土の占有を解除した。代わりに在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(アメリカ軍政庁)が統治を開始した。その後朝鮮半島は、北緯38度を境に南部はアメリカ軍、北部はソビエト連邦軍の2つの連合国軍を中心にした分離統治が続き、1948年(昭和23年)8月15日には、李承晩がアメリカ軍政庁からの独立を宣言して南部に大韓民国第一共和国が建国され、同年9月9日には、北部にソビエト連邦の後押しを受けた金日成を指導者とする朝鮮民主主義人民共和国が建国された。

「北欧のサウナの思い出」

2024年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム
以前にフィンランドの首都にあるヘルシンキのヘルシンキ工科大学の同じ専門の教授を訪問しました。この北欧の旅では何度かサウナを体験しました。
サウナは家族でも楽しみますが、旅人をもてなすためにも使います。疲れた旅人にくつろいで貰うために提供する最大の歓迎のしるしなのです。そのような使い方は昔からの北欧の伝統文化なのです。
1972年秋、ストックホルム工科大学へ三ケ月間行った折、大学のゲスト用サウナへ二度ほど招待されました。
訪問者をもてなすためのサウナが必ず大学についているのです。
広いサウナで16坪くらいはありました。日本の大学にサウナはありません。
北欧のサウナは、極北の香り高い白木で内装されています。隣に談笑する大きな部屋が付いていて、窓からは広々とした風景が見えるのです。
その談笑室には白木のテーブルと椅子があり、酒を飲みながら裸で談笑するのです。
酒は雑穀を発酵させ蒸留した透明な強い酒。ロシアのウオッカや中国東北地方の白酒に似ています。この蒸留酒に、自宅の裏庭で摘んできたラズベリーやコケ桃の実の汁を入れて風味を付け、大きなボールに入れて運びこみます。それを木製の大さじで各自グラスに取り、飲むのです。
ヘルシンキ工科大学を訪問した時もサウナを体験しました。ノルウエイのトロンハイムの工科大学を遠路はるばる訪ねたおりにも大学のサウナに招待され歓迎されたのです。
フィンランドの家庭用のサウナの写真をお送り致します。

以上のようにサウナは北欧の重要な伝統文化なのです。
今日は北のサウナの思い出をご紹介致しました。

それはそれとして、
 今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(15)遥かなスエーデン王国への旅の思い出」

2024年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム
スエーデン王国はヨーロッパの北にあり日本からは遥かに遠い国です。
今日は1974年に旅したスエーデン王国への旅の思い出を書きたいと思います。私を招待してくれたエケトルプ教授の思い出も書きたいと思います。
スエーデン王国は北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島にある立憲君主制国で、首都はストックホルムです。北欧諸国のひとつであり西にノルウェー、東がフィンランド、南はデンマークと国境を接しております。バルト海を挟む形でバルト三国やポーランドとも近い国です。
人口は1045万人で北欧諸国では最大の人口です。住民の大半は北方ゲルマン系のスウェーデン人ですが北部には少数のサーミ人とフィン人が暮らしています。
宗教は国教であるルーテル教会が大多数を占めています。
言語はスウェーデン語が公用語であり他にサーミ語やフィンランド語などが存在します。
民主主義の成熟性が高く、エコノミスト・インテリジェンス・ユニットの評価による民主主義指数は、ノルウェーとニュージーランド、アイスランドに次ぐ世界4位で「完全な民主主義」に分類されています。
1番目の写真はスエーデン王国の首都ストックホルムの夜景です。

2番目の写真は農村地帯の風景です。森林が多いので木造の農家が多いのです。
私は1974年にストックホルムに4ケ月滞在しました。
私を招待してくれたのはエケトルプ教授でした。
教授は古民家を復元する趣味を持っていたのです。中世のスウェーデンの古民家の構造を詳しく調べ、忠実に復元していました。
ストックホルムの郊外に、藁葺と白壁の中世風の農家を復元して住んでいたのです。
建坪50坪ぐらいで、大きな室内は、寝室、食堂、炊事場、風呂場、トイレを北欧の材木で区切り、ドアもすべて同じ板材です。木製の蝶番(ちょうつがい)と閂(かんぬき)が付いています。
窓の外には白夜の牧草地が薄暗く広がっていて、遠くに馬の親子が立っているのがぼんやり見えます。
当時はデジカメがありませんでした。写真も撮りませんでした。そこで似ている古民家の写真を見つけましたので示します。
3番目の写真はスウェーデンの古民家です。写真の出典は、http://fuucaarchi.exblog.jp/tags/%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3/ です。
4番目の写真は馬を放牧している牧場の風景です。エケトルプ先生の家の裏の風景と似ています。写真の出典は、http://ameblo.jp/rv9084/entry-10717580893.html です。
エケトルプ先生は私の北極圏のキルナにあるウッドホルムという鉄鋼会社の見学もさせてくれました。またノルウェーの工科大学やヘルシンキの工科大学の訪問をアレンジしてくれたのです。
スウェーデンの草原に咲く花の写真も2枚お送り致します。写真の出典は次の通りです。https://www.istockphoto.com/.../%E3%83%9D%E3%83%94%E3%83...

エケトルプ先生には公私ともに大変お世話になりました。その恩人も亡くなって随分年月が経ちました。亡くなったとき花束を贈っただけでした。

テレビでは時々古民家を復元して住んでいる人を紹介する番組があります。それを見るたびにスウェーデンの古民家に泊めてくれたエケトルプ先生をしみじみ懐かしく思い出します。お顔や姿が思い出されるのです。

今日はスエーデン王国をご紹介し、続けて大変お世話になったエケトルプ先生のことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(14)ライン河の鰻の蒲焼と船上パーティ」

2024年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム
あれは1969年の秋でした。南ドイツのシュツットガルトにあったマックス・プランク研究所で働いていた頃のことです。
ある日、デパートの鮮魚売り場に行ったところ、水槽にマスやドイツ鯉を沢山泳がせて売っています。足元のバケツには太いウナギがうごめいています。パッとひらめきました。鰻の蒲焼を作る決心をしたのです。
一番太いウナギを買いながら、何処で獲れたか聞きました。ライン河です。その支流の流れのよどんだところに仕掛けを沈めておくと獲れると説明します。

1番目の写真はドイツの鰻の写真です。
ドイツではウナギは棒状の燻製にして売っています。ハンブルグでは筒切にしたウナギ入りのスープを飲んだこともあります。
しかし生きたまま売っているのは珍しいことです。活きウナギを買って意気揚々と帰宅しました。
しかし蒲焼など作ったことがありません。自宅の台所で2枚におろし、3角形の中骨を切り離し、何とかウナギを開いた形の切り身にしました。
2番目の写真はウナギを割いて蒲焼の下準備が終わった状態の切り身です。
この写真の出典も、https://passaulife.blogspot.jp/2016/06/blog-post_94.html です。
さて次の段階は「蒸し」です。鍋に少し水を入れ、皿に並べた切り身を充分、蒸し上げました。
次は醤油、砂糖、日本酒のタレをつけてオーブンで焼きます。途中、何度もタレを塗り直して、コンガリ焼き上げます。
家中がウナギの蒲焼の美味しそうな香がします。これで出来上がりです。
招待した日本人の青年の前に自慢げに供しました。味の深いドイツビールとともに。
一口、食べた彼が興奮しています。でも無言です。
美味しくて感動しているに違いないと、「どうです。美味しいでしょう」と言いながら私も食べてみました。
兎に角すごく不味いのです。生臭くて嫌な泥の味がするのです。トイレに駆け込んで全て吐き出して、うがいをしました。
席にもどると客の青年が顔をゆがめています。泥臭いウナギを礼儀上、吞み込んでいたのです。
私は謝りました。冷蔵庫の中のチーズとソーセージと上等なワインを持ち出して来て、お客の機嫌が直るように努力したのです。あんなに冷や汗をかいたことがありません。
結論は、ライン河の活きウナギを清い水で数日飼って、泥の臭いを除いてから食べるべきだったので。後日、買ったデパートの鮮魚売り場に行って、「泥臭かったよ」と言いました。そうしたらドイツではお客が自分で泥を抜くものだと昂然と言うのです。食文化の違いは恐ろしいものです。

さてライン河の思い出にはもう一つ船上のワインパーティの楽しかったことがあります。
まずライン河の風景を見ましょう。
3番目の写真はライン河中流の風景です。中世風の古い町並みの後ろの山には一面にブドウ畑が広がっています。個人経営のワイン製造も盛んなところです。水は濁りに濁り、滔々と流れ行きます。3番目と4番目と5番目のライン河の写真の出典は、「 ドイツ ・ ライン川クルーズで見える古城と風景 」、http://blogs.yahoo.co.jp/tommy_poppo/7199351.html です
4番目の写真はライン河から見える中世の古城です。日当たりの悪い北向きの山の斜面はブドウ畑になっていません。
列車は南ドイツと北ドイツを結ぶ鉄道です。何度か乗りましたが車窓から見るライン河も良いものです。
5番目の写真は船上パーティに使ったような小型の観光船が手前に写っている写真です。観光船が2隻写っていますが手前の小型の船にご注目ください。

1978年前後の頃でした。当時、日本とドイツの鉄鋼製錬の研究者が出席して「日独鉄鋼セミナー」を開催したことがありました。
その折にドイツ側が小型の観光船を貸し切って日独の参加者をライン下りに招待してくれたのです。
左右の古城を見上げながらワインを飲む会でした。ドイツ人がワインの味のいろいろを教えてくれました。重い味。フルーティで軽い味。ドライな味、べたべたした味。甘すぎる味。そしてモーゼルワインとラインワインやネッカーワインの違いなどを教えてくれました。酔うほどに彼らが肩をくんで唄い出したのは何とも暗い歌なのです。あとで聞くと高校の寮歌だそうです。
ワインを注ぎ回るのが民族衣装を着た娘さん達です。
6番目の写真はその民族衣装を着た娘さんの写真です。
ドイツの民族衣装の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB です。
彼女達はブドウ農家の子供たちだそうです。アルバイトにこのようにワインパーティで働いているのです。その素朴な感じが周囲の風景をともに忘れられません。

ライン河にまつわる思い出はもっといろいろありますが、今日はこのくらいにしておきます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(13)ドイツ人の誇りのシュパチーレンの趣味」

2024年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様は近所を散歩なさいますか?公園を散歩しますか?
昔ドイツに住んでいたとき驚きの光景を見ました。ドイツ人は襟の小さい背広にネクタイを締めた姿で森の中を真面目な顔をして歩くのです。これをドイツ語でシュパチーレンと言ってドイツ人が誇りに思っている趣味なのです。郊外の森や葡萄畑の中にシュパチーレン専用の道が続いています。正装した男たちや夫婦が無言で歩くので静かです。

今日は平凡な散歩の趣味について書いてみようと思います。
さてその前に散歩以外の趣味のいろいろを見回してみましょう。本当に色々あります。
海を帆走するヨットの趣味や、登山などの趣味は厳しさがあり克己心を必要とします。
猟犬とともに銃を担ぎ人跡まれな山に入り彷徨する趣味もあります。
日本ではシュパチーレン専用の道は広い公園の中にあります。
その趣味では人生の平凡な時間のうつろいを大切にして、自然を愛し周囲の人の幸せを想います。
そんなドイツの森の写真を示します。

樹々の下に散歩道がえんえんと続いています。空気が新鮮で空が高く広いのです。樹木の中を歩いていると自然に人生のあれこれを想います。邯鄲の夢と思います。そして人生で一番大切なことは何かと考えます。
そうして自然を愛し周囲の人の幸せを想うことが非常に重要なことだと思うのです。
老境に至って初めて散歩の趣味の楽しさが分かりました。しみじみと分かったのです。
以前は仕事に打ち込むこと、仕事の上で素晴らしい成果を上げることが重要だと思っていたのです。自然の美しさを深く理解していませんでした。家族や友人を大切にするのを怠って自分の専門分野に埋没していたのです。それは恥ずかしい生き方でした。歩きながら樹木の姿を見ているとしみじみそう思います。
「散歩」も趣味として味わい深いと感じたのです。これも体力も知力も衰えたおかげで理解出来たことです。
昔見たドイツのシュットガルト市の郊外を妻や子供たちとよく歩いたことを思い出します。それはシュパチーレンの趣味です。懐かしいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(12)ドイツ留学で受けた影響」

2024年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム
老境に至って自分の人生を振り返ると、外国への留学で深い影響を受けたことをつくずく思います。
はじめにアメリカへ留学しました。留学のおかげで私はアメリカが大好きになりました。
アメリカ留学は24歳から26歳まででしたが、34歳のときドイツに留学し、今度はドイツにも魅了されました。
外国に住むと、その国が好きになってしまうのです。
今日はドイツでどのような影響を受けたか二つほど書いてみます。
まず初めに私が3ケ月住んでドイツ語を集中的に勉強したローテンブルグの風景写真と隣町のバンベルグのをご紹介しましょう。

1番目の写真はローテンブルグの夜の風景です。
写真の出典は、
https://beautiful-photo.net/medieval-town-of-rothenburg-ob-… です。

2番目の写真はローテンブルグのルクト広場と市庁舎です。出典は、https://washimo-web.jp/Trip/Rothenburg/rothenburg.htmです。

3番目の写真は「市庁舎の塔」から眺めたローテンブルク市内の家並みです。出典は、https://washimo-web.jp/Trip/Rothenburg/rothenburg.htmです。

4番目の写真は世界遺産に登録されている「バイエルンの真珠」と称えられるバンベルクの風景です。
出典は、https://tabizine.jp/2017/09/25/146378/2/です。

5番目の写真は木造家屋が並ぶ、レグニッツ川沿いの風景です。出典は、https://tabizine.jp/2017/09/25/146378/2/です。
ドイツでの生活は1969年夏のにローテンブルグでの3ケ月間のドイツ語研修から始まりました。そしてその後、シュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年間の研究生活をしました。シュツットガルト市に移るとすぐに家内と子供2人を呼びました。
ドイツは気候も社会も若い頃留学したアメリカのオハイオ州とは全く違うのです。
同じ欧米人なのにアメリカとドイツでは人々の考え方が驚くほど違うのです。
「ヨーロッパの階級社会や伝統社会から逃れた人々がアメリカに行って国家を作った」という一行の文章の意味がしみじみ理解出来るのです。
それはさておき、まずはじめに受けた大きな影響を書きます。
それはドイツの暗くて寒い冬の影響でした。その長い冬を体験した結果、ドイツの文化を理解するためにはこの冬の厳しさを考慮に入れて考えるべきと思ったのです。
これは重要なことで、その後、私がいろいろな外国の文化や社会を考える時、必ずその国の天候や自然条件を考慮に入れるようになったのです。
例えば北欧の観光写真を見ると、ほとんど全てが夏の晴天の日に撮ったものです。そんな輝く晴天の日は年間でほんの数日しか無いのです。北欧の人がそんな夏の日に感じる歓喜が想像出来ようになったのです。
内陸のヨーロッパの人々が明るい地中海沿岸のイタリヤや南フランスに強く憧れるのは暗くで長い冬のせいなのです。
私が外国を理解するとき天候や自然の条件を考慮に入れるように変わったのです。
もう一つドイツで受けた大きな影響は歴史に関する考え方です。
不思議なことにドイツの研究所の実験室に必ず冷蔵庫があってビールが沢山入っています。実験に疲れたとき1、2本水がわりに飲むのです。そんな折りの雑談の話題は決まったように中世の「30年戦争」のことなのです。
確かなことは忘れましたが1600年代にドイツの町や農村を徹底的荒廃させ人口の何割かが殺された内戦のことです。
戦争の発端はカトリックとプロテスタン宗派との争いでしたが、すぐに領土をかけた地方の領主同士の欲得にからんだ戦争が30年間も続いたのです。そしてフランスやスエーデンやウイーンのハプスブルグ家の軍隊を巻き込んだ大戦争になってしまったのです。誰が敵で、誰が味方か分からない混戦になってしまったのです。丁度、現在の中近東の戦乱状態に似ているのです。
私は日本の学校で「30年戦争」がそんなにドイツにとって重要だとは習いませんでした。ですから「30年戦争」など記憶になかったのです。
ところがドイツ人はビールを飲むたびにこれを話題にして喧々諤々の議論をするのです。
そこで判ったのです。人々が習う歴史とは国々によってまったく違うという事実です。
この世に絶対的に正しい歴史などは存在しないのです。
「歴史は権力者に都合良く書かれている」ということは昔から知っていました。
しかし歴史とは国々によってまったく違うという事実を体験的に理解できたのです。
それでは「30年戦争」の時代は誰が権力者だったのでしょうか?それが判らないからビールを飲んだ時の格好の話題になったのでしょう。
ビールと言えば面白いエピソードがあります。
「30年戦争」の時、ローテンブルグを包囲した敵将が市長に難題を言います。この大ジョッキのビールを一気に飲み干したら町は焼き尽くさないと言ったのです。市長は喜んで飲み干し、町を救ったのです。現在も市庁舎の上にビールを飲む市長の動く人形があります。
アメリカでビールを飲んだ時の話題はプロ野球やアメリカン・フットボールに関することが多いのです。あるいは趣味の話が多いのです。歴史が話題になったことを私は知りません。これもドイツ人とアメリカ人の違いの一つですね。

ドイツ留学で受けた影響はもっといろいろありますが、今日はこれぐらいにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







「熱烈日中友好時代と中国人の信義」

2024年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

中国人は信義に篤いと言います。一旦親密になると生涯その関係を信じて良いのです。絶対に裏切らないのです。一生安心して付き合えます。

私にはそんな中国人の友人が2人いました。

一人は北京鋼鉄学院の周栄章教授で、もう一人は瀋陽にある東北工学院の金応培教授です。

しかしこの2人は紛れもない立派な共産党員でした。しかし個人的な付き合いの中では共産党員らしさが微塵も無いのです。

中国人は権力者には従いますが、心の中では個人的な信義を一番大切にしている民族なのです。

そんな周栄章さんとの付き合いの中で、楽しかったこと、感銘を受けたことをもう少し書いて置きたいと思います

(1)周栄章さんに連れて行ってもらった北海公園~仿膳飯荘

あれは確か、1980年のある秋の夜でした。下の写真の北海公園の石の回廊を、夜風に吹かれながら、周さんと2人だけで歩いていました。その先にある仿膳飯荘で北京鋼鉄学院の学長が私の歓迎会をしてくれるというのです。1006080606272091
(上の写真の出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-57.htm )当時あった「茅台酒(マオタイシュ)」の乾杯の応酬で、私もいささか酔いました。

学長さんたちに感謝の言葉を述べました。すると学長は中国への旅の感想を聞きます。私はつぎのような話をしました。

中国は良い国です。しかし共産主義は独裁政治を生むので好きではありません。しかし中国が欧米の植民地にならないためには共産主義を選ぶ他は無かったと思います。中国が欧米列強の植民地にならなくて本当に良かったです。私も嬉しいのです。このような内容のことを、一気にしゃべりました。英語で喋りました。

これを聞いて学長さんは深くうなずいて、「あなたは中国について何を喋っても良いです。自由にこの国を楽しんで下さい」と言ったのです。この一言で私は途端に楽しくなったのです。中国の全てが楽しくなったのです。

下に仿膳飯荘の写真を示します。出された料理は女性権力者の西大后の好きそうな小さく綺麗に盛り付けた、いわゆる宮廷料理でした。しかし私の味の趣味は西大后様とは随分と違うようでした。のちに行った家内はその精妙さに惑わされたのか、美味しい!と感激していました。1101070401139451
・上と下の写真の出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm1101070401339921(2)北京の食文化

北京の人々はどのような料理が大好きなのでしょう。答えは北京鴨です。周さんは北京鴨の有名店でなく裏町の小さな北京鴨店へ何度も連れて行ってくれました。

あまり冷えていない五星ビールを注文し、前菜でビールを飲んでいるとやがて下のように見事に焼きあがった鴨が出てきます。
(下の北京ダックの写真の出典:http://imagenavi.jp/search/#!/ )10321074mimagenavi11_3

うす暗い北京鴨の店でいろいろな話をしました。自分で皮を切り取って、白い餅に乗せ、ネギと味噌を塗って、餅でくるりと巻いて食べるのです。皮を全て食べ終わると料理人が出て来て、皮の無い鴨を下げます。調理場で肉を取って、2種類くらいの料理に仕上げて、又持ってきます。それを食べ終わる頃に鴨の骨でダシを取ったスープが出て来ます。これで終わりです。

(3)周栄章さんから教わった周恩来の魅力と人間的偉さ

裏町の北京鴨の店で周さんは、文化大革命で農村へ下放され、毎日、毎日、豚の餌やりと豚小屋の掃除にあけくれたそうです。1976年の秋に、毛沢東が死に、四人組が逮捕されて、やっと自由の身になったそうです。

そして周恩来を絶賛するのです。中国人が一番好きな人は周恩来ですと断言します。何度も断言します。毛沢東の発動した文化大革命で内戦状態になった中国で人民は塗炭の苦しみの底にあったのです。それを少しでも救おうとしたのが周恩来首相だったのです。当然、毛沢東は周恩来を亡き者にしようとします。

周恩来がチベット視察から帰るとき乗った旅客機を、毛沢東が空軍に命じて撃ち落とそうとしたのです。その命令に従って空軍のジェット戦闘機が2機、飛び立ったのです。周恩来の乗った旅客機を挟むように両側に並んだ戦闘機は発砲しません。翼を上下に揺らして歓迎しています。コックピットを覗き込むと、操縦士が周恩来へ敬礼をしていたそうです。

後で毛沢東へは霧で視界が悪く、周恩来機が発見出来なかったと報告したそうです。

1976年の2月に周恩来が病死し、4月の清明節のとき天安門広場で群衆が追悼の大集会をしました。それを毛沢東は軍隊をつかって解散させたのです。兵隊も周恩来が好きだったので群衆へ同情、手荒なことをしなかったそうです。

周栄章さんの話は何時までも尽きませんでした。

その周さんは私を自宅によんでくれて、その後で、いろいろな観光地へ招待してくれました。

北京原人の周口店、明の13陵、頤和園、天壇、大鐘の寺、長城、承徳、そして西安の秦の始皇帝の墓、兵馬俑、などなどです。

その後、私も周さんを日本へ招待し、いろいろな所へ案内しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「年老いて振り返る我が人生(11)熱烈日中友好の時代」その三

2024年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の日本人には信じられませんが、1978年に中国の最高指導者、鄧小平が初めて日本を訪問した後、中国では熱烈な日本ブームが巻き起こったのです。
日本の物なら何でも大好き、日本人なら誰でも大歓迎という熱気あふれる時期が1978年から天安門事件の1989年まで続いたのです。現在の日中関係からは想像もつかない蜜月時代だったのです。
それは現在の中国側にとっても貴重な歴史的な大転換だったようです。
中国側の資料に基づいて鄧小平の日本訪問の様子と、私が1981年以後数回、中国で歓迎された体験をご紹介したいと思います。
それは鄧小平による日本の先進技術と資金の導入の時代でした。
1978年は、中国の国家戦略に大きな転換が起こった年でした。中日両国は同年8月、「中日平和友好条約」を締結し、続く10月22~29日、鄧小平氏が、中国の指導者としては戦後初めて正式に日本を訪問したのです。
この訪問は、「中日平和友好条約」の批准書交換式に出席するためのものでしたが、鄧小平氏にとっては中国近代化の大戦略を準備するための学習の旅でもあったのです。
8日間の訪日期間中、鄧小平氏は新日鉄・日産・松下の3社を見学します。
新幹線で東京から関西方面に向かう途中、感想を聞かれた鄧氏は、「速い。とても速い。後ろからムチで打っているような速さだ。これこそ我々が求めている速さだ」「我々は駆け出す必要に迫られている」「今回の訪日で近代化とは何かがわかった」と語ったそうです。

新日鉄の君津製鉄所を見学した鄧小平氏は、工場の設備や技術について詳しくたずね、日本の進んだ生産と管理の経験を、中国人技術者に紹介してほしいと依頼します。同じような工場を中国にも建てたいという鄧氏の決意を示すものでした。この決意こそ、その後の日本の技術指導による上海宝山製鉄所の建設になったのです。
松下電器への訪問時、電子レンジなどの新製品の展示室を鄧小平氏が見学した際にも印象的な一幕がありました。松下の案内員が電子レンジの機能を説明するため、一皿のシューマイを加熱して鄧氏に見せます。鄧氏は突然、シューマイをつまんで口に放り込み、「なかなかおいしい」と感想を述べたのです。松下の従業員らもこれには驚き、何でも試してみるという鄧氏の精神を称賛したといいます。

鄧小平氏の訪日後、中国には「日本ブーム」が沸き起こります。
多くの視察団が日本に赴き、多くの日本人の専門家や研究者が中国に招かれます。中日政府のメンバーによる会議も相次いで行われました。
官民の各分野での交流は日増しに活発となり、経済・貿易・技術での両国の協力は急速に発展したのです。(文作者:王泰平)
以上の文は、「1978年日本の旅――鄧小平氏が訪日で学んだもの」http://j.people.com.cn/95911/95954/6545780.html からの抜粋です。

さらにもと中国の駐日本大使、符浩元さんによると鄧小平は2度も日本を訪問しているのです。(http://www.bjreview.cn/JP/04-32/32-zhongyao-3.htm )
鄧小平は再び、1979年1月に米国を訪問した後、わざわざ日本に立ち寄り、短期間滞在したのです。奈良を訪れた時、宿泊したホテルでちょうど結婚式があるのを知った鄧小平氏は、自ら結婚披露宴の会場に行き、新郎新婦に祝賀の言葉を贈ったのです。

このように鄧小平は先進技術を開発し経済の高度成長を続けている日本人を尊敬し、日本が大好きだったのです。その結果、中国は日本から先進技術と資金の導入を大々的に行ったのです。日本の約2万の会社が中国に工場を作ったり支社や支店を出したのです。

さて1978年の鄧小平氏の訪日後、中国には「日本ブーム」が沸き起こります。このお陰で私も北京鋼鉄学院と瀋陽の東北工学院に招待されました。往復の航空運賃以外のホテル代、交通費、さらに各地の観光の費用の全ては中国側が負担しました。
歓迎宴が何度もありましたが、観光地で会った一般の中国人が皆、大変親切で礼儀正しいのには驚いたものです。当時は一般の人々も日本人を外国からの賓客として礼儀正しく接したのです。彼等はすべて人民服で日本人は背広姿だったので区別が容易についたのです。汽車に乗ってもレストランに入っても皆ニコニコして道を開けてくれました。

そして金属工業省の人が日中鉄鋼会議を開催してくれないかと私に頼んだのです。帰国後、日本鉄鋼協会の当時の専務理事の故田畑新太郎氏と東京大学の故松下幸雄先生に相談し、日中鉄鋼会議を北京と東京で開催することが出来ました。
このように当時の中国側の日本人へ対する尊敬は絶大でした。

しかしこの日中友好関係は1990年以後の江沢民の時代に急に暗転します。
そして習近平時代の覇権主義の時代になったのです。
このような劇的な日中間の歴史の転換を見て来た私にとって最近の日中の関係に深い関心があります。
習近平時の覇権主義が消え、円満な話し合いによる国際平和の時代が来ることを切に祈っています。

今日の挿し絵がわりの写真は鄧小平が1978年の10月に日本を訪問した時の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
訪日の写真の出典は、http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2014- 08/22/content_33310086.htm です。


「年老いて振り返る我が人生(10)熱烈日中友好の時代」そのニ

2024年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の日本人には信じられませんが、日中間に非常に熱烈な友好関係があった時代があったのです。それは1970年代後半から1889年の天安門事件のあった頃までの周恩来と鄧小平の時代の約10年間でした。
この時代のことを振り返り、その歴史的な理解を深めるために以下のような記事を書きました。
「年老いて振り返る我が人生(9)熱烈日中友好の時代」その一
続いて「年老いて振り返る我が人生」の(10)を書きたいと思います。
それでは今日の部分をご紹介いたします。
周 恩来(1898年 - 1976年)は中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた卓越した政治家でした。賢い政策と人情溢れる性格で中国人の絶大な信頼と尊敬を得ていました。
彼は毛沢東に下で慎重な助言をして全ての政策を毛沢東の手柄となるようにしました。
しかし大失敗をした1950年代の大躍進政策は周恩来のせいではないと言われています。
周恩来の功績は文化大革命の被害を少なくし、終了するように導いたことです。その故に毛沢東の妻であった江青に憎まれ何度も暗殺されそうになります。
さて周恩来の下した英断はいろいろありますが、日本に関することは2つあると思います。
1、ベトナム戦争への支援を止め、アメリカと国交を開く。
2、日中共同宣言を発し、日中間の友好を促進する。

中国はベトナム戦争の一方である北ベトナムを支援していました。揚子江以南の農民から米を供給させ北ベトナム軍へ送り続けたのです。そのため江南の農民は飢饉になったと言われています。
10年近く続いたベトナム戦争からはアメリカも手を引きたかったのです。
1970年12月8日になってパキスタン大使がホワイトハウスに周恩来からの書簡を持ってきた。内容は今後、中国はアメリカと国交を開きたいという趣旨でした。
これを受けて、1972年2月21日にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を初めて訪問したのです。
そして毛沢東主席や周恩来総理と会談して、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換したのです。第二次世界大戦後の冷戦時代に新しい様相が加わったのです。

日米安保条約のある日本もすぐに追随します。1972年9月25日に、田中角栄内閣総理大臣が現職の総理大臣として中華人民共和国の北京を初めて訪問して、北京空港で出迎えの周恩来国務院総理と握手した後、人民大会堂で数回に渡って首脳会談を行いました。
9月29日には、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式があり、田中角栄、周恩来両首相が署名します。
この共同声明の内容には以下のことも含まれていました。
両政府は、どんな場合でも力又は武力による威嚇に訴えないことを確認します。
日中両国間の国交正常化後は、両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対すると明記したのです。

1981年に私は北京と瀋陽の大学から招待されます。その時、見聞した中国の実態は丁度日本の敗戦直後の荒廃した風景と全く同じだったのです。驚きました。それはさて置き、周恩来に関する2つのエピソードをご紹介します。
周恩来は1976年の1月に亡くなります。しかし政府の禁止令にもかかわらず一般の人々は秘密の部屋に周恩来の写真や書を飾り、その周囲に周恩来を讃える詩や文章を供えていたのです。私が案内された秘密の部屋は大学の深い地下室でした。4方の壁一面に周恩来の写真、周恩来を讃える詩や文章が所狭しと並んでいました。これは中國全土で行われた周恩来の追悼なのだそうです。

さて周恩来は毛沢東の妻の江青に憎まれていました。特に文化大革命の間は何度も殺されそうになったそうです。ある時はチベット出張から帰るとき乗った旅客機が江青の命令で飛び立った戦闘機に撃墜されそうになったそうです。戦闘機が2機、周恩来の乗った旅客機を挟んで接近してきます。あわや撃墜という場面です。しかし2機の戦闘機は打ちません。翼を上下に振りながら追い抜いて行っただけでした。戦闘機に乗っていた兵士が周恩来を好きだったのです。
北京に戻った周恩来は病床の毛沢東を訪問し。チベット出張の報告をします。そして最後に「あなたの妻に撃墜されそうになりました」と静かに言ったそうです。
そのせいかは分かりませんが、周恩来のガンの治療を江青一派に妨害されガンで亡くなったそうです。1981年に北京で中国人から直接聞いた話です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は1972年2月の北京空港での写真です。
2番目の写真は1972年9月の北京空港での写真です。
3番目の写真は左から順に周恩来、毛沢東、田中角栄の写真です。

「年老いて振り返る我が人生(9)熱烈日中友好の時代」その一

2024年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
これは古い話です。1970年代のことです。しかし忘れられない時代でした。日中関係が非常に良かった時代のことです。
正確に書くと、それは1970年代後半から1889年の天安門事件のあった頃までの周恩来と鄧小平の時代の約10年間でした。
この時代をもう一度思い出します。
まず1949年に中国が共産国家として成立した以後の歴史をもう一度振り返ってみましょう。
周恩来、鄧小平の熱烈日中友好の時代を考える場合に以下のような3段階に分けて考えてみたいと思います。
(1)毛沢東主席の新中国の誕生とソ連との離別
(2)周恩来の英断による日中平和宣言の締結
(3)鄧小平による日本の先進技術と資金の導入

それでは上の3段階を順々に考えて行きます。
(1)毛沢東主席の新中国の誕生とソ連との離別
日中戦争は昭和5年(1930年)始まりました。当時の中国は国民党の蒋介石が勢力があり日本は蒋介石を倒すために激しく攻め込みました。一方、中国共産党も支配地区を広げつつありました。その国民党と共産党が合作し団結して日本軍に立ち向かいました。
しかし第二次大戦が終わる頃には日本軍は大部分の中国を占領してしまうのです。この日中戦争で日本軍は約55万人が戦死し、中国人は民間人も含めて、約200万人から1000万人の死者が出たといいます。
一方、日本の敗戦の1945年前後から共産党軍が国民党軍を各地で打ち破り、蒋介石は台湾に退いたのです。
そうして1949年の10月、晴れ上がった天安門広場で毛沢東主席が新しい中国の成立を高らかに宣言したのです。そこまでが毛沢東の輝かしい功績でした。

その後、ソ連のスターリンが死ぬと中国はソ連と仲間割れをします。中国への唯一の大きな支援国のソ連と断交したのですから、中国は困難な状態になります。
そして毛沢東の指導による「大躍進政策」も失敗に終わり、何百万人という農民や都会の市民が餓死したのです。
「大躍進政策」の非合理性は考えただけでも一目瞭然です。これは毛沢東の犯した大きな失敗でした。
大躍進政策では稲を密植すれば大きな収穫が得られると全国で水田に苗の間隔を開けずに密植したのです。結果は大減産で農村が飢饉に襲われたのです。鉄の増産をするとして近代科学に反する土坑製鉄を全国に展開し、逆に鉄の生産が低下したのです。それは滅茶苦茶な政策でした。
この大躍進政策の失敗で毛沢東の権力は低下します。合理的な経済政策を進めようとした政治家が権力を持ち始めたのです。
そこで毛沢東はもう一度権力を自分に集中しようとして「文化大革命」という権力闘争を全国的な規模で行ったのです。文化大革命は1966年から1976年まで続きます。

この間、若い学生を紅衛兵として動員し、権力を持っている政治家を次々に襲い失脚させたのです。
紅衛兵は軍隊のように北京や上海のような大都会の政治家、知識人、などを襲ったのです。その一方で紅衛兵には食料を補給する部隊がついていません。北京や上海では一般の民家に押し入り食料を強奪し、寝泊まりを強要したのです。
一部の紅衛兵は武器を手に入れる為に共産党の支配している正規軍を襲うようになります。
こうして文化大革命の後半になると、銃を入手した紅衛兵と正規軍との間で市街戦が行われるようになったのです。まさしく内戦のような状態になってしまったのです。

文化大革命は輝かしい中国共産党の歴史のなかで最大の大失敗です。従って、その後の中国共産党はこの大失敗を隠すために文化大革命は暴力や武力を一切使用しない討論だけによる権力闘争だったと宣伝しています。

私は1981年に中国に行き、文化大革命で紅衛兵の暴力を受け、農村に放逐された人から文化革命の凄惨さをさんざん聞きました。その人は大学教授でした。農村では毎日豚の糞尿の掃除をし、わずかな食糧で飢えの毎日だったそうです。彼は怒っていました。共産党軍に参加して、天津市を解放し、新しい中国の成立に協力した自分の受けた仕打ちを怒っていました。
そんな文化革命を多くの日本人は討論だけによる権力闘争だったと信じているのです。
私は何故、文化大革命のことを詳しく書くのでしょうか?
それはその後の周恩来と田中角栄による日中国交回復の原動力になったと考えるからです。
鄧小平による市場経済路線への大転換と日本との熱烈友好関係の原動力になったと私は考えるからです。
もっともその背景には1966年から1975年まで続いたベトナム戦争が深い影響を与えていました。
キッシンジャー国務長官と周恩来の信頼関係が米中友好関係を推進し、それが日中関係へ深い影響を与えていたと考えるのが公平な歴史認識だと信じています。
少し長くなりましたので続きは次回にいたします。
今日の写真は周恩来と鄧小平と毛沢東の3人の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5
周 恩来(1898年3月5日 - 1976年1月8日)は中華人民共和国の政治家。字は翔宇。中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた。毛沢東の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから「不倒翁」(起き上がり小法師)の異名がある。1972年に、日本国首相の田中角栄(当時)と日中共同声明に調印したことでも知られている。
妻は鄧穎超、子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに首相)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3
鄧 小平(1904年8月22日 - 1997年2月19日)は、中華人民共和国の政治家。中華人民共和国を建国した毛沢東の死後、その後継者である華国鋒から実権を奪い、事実上の中華人民共和国の最高指導者となる。毛沢東が発動した文化大革命によって疲弊した中華人民共和国の再建に取り組み、「改革開放」政策を推進して社会主義経済の下に市場経済の導入を図るなど、同国の現代化建設の礎を築いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
毛 沢東(1893年12月26日 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家、軍事戦略家、思想家。字は詠芝、潤芝、潤之。筆名は子任。中国共産党の創立党員の1人で、長征、日中戦争を経て党内の指導権を獲得し、1945年より中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席を務めた。日中戦争後の国共内戦では蒋介石率いる中華民国を台湾に追いやり、中華人民共和国を建国した。以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあった。

「印象派の中心にいたピサロの油彩画」

2024年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム
何故かわかりませんが、私はピサロの絵が好きです。そこでその油彩画をお送りいたします。
カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830年 - 1903年)は19世紀フランスの印象派の画家で 印象派の中心的な存在でした。風景画を数多く残しています。どれも穏やかで静謐な情感に溢れています。
カリブ海のセント・トーマス島の生まれです。家業の金物屋を手伝っていましたが、画家フリッツ・メルビューの誘いで1852年(22歳頃)から1854年(24歳頃)まで、島を出ました。
1855年(25歳)の時に画家を志してパリに出て、画塾でモネ、セザンヌといった画家と知り合ったのです。
1859年(29歳頃)にサロン・ド・パリに初入選しましましたが、1860年代はサロンへの入選と落選を繰り返し生活は困窮します。
当時はコローにならった画風でした。マネを中心に若手画家たちがバティニョール地区のカフェ・ゲルボワに集まり、バティニョール派と呼ばれています。年長のピサロもこれに加わるようになります。
1869年からパリ郊外のルーヴシエンヌに住み、モネ、シスレー、ルノワールと一緒に戸外制作をさかんに行っています。明るい色調の絵画を描いていました。
その後、ピサロは、1872年4月から1882年末までオワーズ川のほとり、ポントワーズのエルミタージュ地区に住みます。ここで畑を耕す農民や、道を行き交う人々、市場の様子など、田園の日常の姿を描きます。
ピサロは1903年の夏をル・アーヴルで過ごした後、10月、パリに戻ります。そのパリで突然倒れ11月13日、前立腺の感染症で亡くなったのです。享年73歳でした。
ピサロの遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、葬儀には、モネとルノワールが参列しました。
ピサロは常に印象派の中心にいましたが生活は苦しかったのです。そんな生涯に描き続けた油彩画の幾つかをお送りいたします。絵は私の好きなものをえらびました。
1番目の写真は『ポントワーズのオワーズ川のほとり』です。1872年。油彩、キャンバス、35 × 91 cm。個人コレクション。 

2番目の写真は『ヴォワザン村の入口』です。1872年。油彩、キャンバス、46 × 55.5 cm。オルセー美術館。 
3番目の写真は『ポントワーズの眺め』です。1873年。油彩、キャンバス、55 × 81 cm。個人コレクション。 
4番目の写真は『マチュランの庭、ポントワーズ』です。1876年。油彩、キャンバス、113.35 × 165.42 cm。ネルソン・アトキンス美術館。第3回印象派展出品。 
5番目の写真は『マチュランの庭、ポントワーズ』で」す。1876年。油彩、キャンバス、113.35 × 165.42 cm。ネルソン・アトキンス美術館。第3回印象派展出品。です。
6番目の写真は『カフェ・オ・レを飲む若い農婦』です。1881年。油彩、キャンバス、65.3 × 54.8 cm。シカゴ美術館。第7回印象派展出品。 
7番目の写真は『リンゴの収穫、エラニー』です。1888年。油彩、キャンバス、61.0 × 74.0 cm。ダラス美術館 点描で描いています。」
8番目の写真は『オクターヴ・ミルボーの庭、テラス、レ・ダン』です。1892年。油彩、キャンバス、73 × 92 cm。個人コレクション。
今日の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A6%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%B5%E3%83%AD でした。

以上、私の好きなカミーユ・ピサロ の油彩画をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)