後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「時代の空気、都電の隆盛と消滅のものがたり」

2025年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム
時代の空気とは何でしょう?
日本の社会にある時代に流れていた空気のことです。その時代の社会の雰囲気です。それは煙のようにはかないものですが独特の香りや臭いを持っていました。
その時代の空気のことを考えると楽しい思い出、悲しい思い出が心に浮かんできます。

今日はそんな儚い時代の空気、そして都電の隆盛と消滅のものがたりを書いてみたいと思います。
昭和11年生まれの私は大学卒業まで仙台に育ちました。仙台市の市電に良く乗りました。乗り物が好きだった私は、運転席の後ろに立って、風景が変わるのを楽しみました。それは楽しい思い出として心に残っています。
1962年にアメリカ留学から帰って東京に住むようになりました。
当時は都電の全盛時代のなごりで、都電が都区内の全域に走っていました。
仙台の楽しかった市電を思い出しながら都電にもしょっちゅう乗ったものです。
その時、感じたのですが都電がその時代の東京の空気を作っていると思いました。
武骨な形をした都電にはいろいろな人が乗っていました。楽しそうな顔、悲しそうな顔、その顔顔が時代の雰囲気をかもし出しています。東京の1960年代の時代の空気です。
その都電のある東京の風景の写真をお送りします。
1番目の写真は38系統、砂町方面行きの都電です。1番目から3番目の写真の出典は、http://interview-todenmo.cocolog-nifty.com/blog/cat35588006/index.html です。
2番目の写真は13系統、新宿行きの都電です。
3番目の写真は19系統、王子行きの都電が須田町の停留所に停まっている風景です。

皆様はもう忘れたかも知れませんが当時は車が普及してなく都電だけが庶民の頼りでした。
まだ生活が苦しくて人々は生きるために精一杯働いていたのです。社会には緊張した、しかし希望に満ちた空気が流れていました。
私の楽しい思い出は新婚の家庭生活でした。家内も若々しく2人の小さな子供がいました。
それはさておき、都電の最盛期は1955年頃だったそうです。その頃の営業キロは約213kmもあり、40の運転系統があったそうです。そして毎日、約175万人が利用する日本最大の路面電車だったそうです。
しかし1960年代の終わり頃、都電は少しずつ消えて行きました。
東京都交通局が財政再建団体に指定されると再建策の一環として1972年まで都電が廃止されることになったのです。時代の空気が大きく変わり始めたのです。
唯一つ荒川線だけが存続しましたが時代の変化は止めることは出来ません。
都電が消えた原因は地下鉄網の完備と自家用車の普及です。
日本国中で高速道路が建設され日本全体が車社会になってしまったのです。
しかし、地方に行くとまだ路面電車を大切に使っている都市も幾つか残っています。函館市、富山市、広島市、熊本市などです。しかしそれらの都市も車社会になっています。時代の空気が車社会の空気になっているのです。
それでは東京が車社会になった後の風景を示します。
4番目の写真は車が充満している道路の風景写真です。
5番目の写真は都電が撤去され美しく整備された新宿の風景です。

さて日本から市電や都電などの路面電車が消え、車社会になって日本の空気は大きく変わりました。
ついでに、そのずっと前の戦前、戦争中はどんな雰囲気だったのか考えてみましょう。
戦前、戦争中に都電に馴染んでいたある人の回想をお送りいたします。
(1)昔日の池之端七軒町界隈の思い出
市電(その後の都電)は、確か大正7年に、計画が持ち上がったと聞いています。それで、市電の軌道が不忍通りをこの池之端で曲がって、不忍池 の方へ通るようになったんです。私はそのだいぶ後に生まれたわけですが、私の小さい頃は、市電のレール沿いにずーっとドブ川が流れていて、そこでエビガニだとか、オタマジャクシを捕ったりしたものです。
(2)間一髪 !! アメリカの爆撃機に狙われて
戦争中の昭和20年3月の東京大空襲の後、5月だったか、私は都立工芸の夜学に通っていたのですが、授業中に空襲警報が発せられました。皆、家に帰るようにっていうので、水道橋からきて須田町で乗り換えて、こちらに帰ってくる時に末広町で爆弾が落っこったんですよね。
それがねえ、乗っていた電車が当時は「ポール集電」だったでしょう。電車を走らせていると、時々、ポールと架線が離れたりまたくっついたりして、そのときに電流が「バチッ!」とスパークして火花が散るんですよ。灯火管制で町中が真っ暗のなか、アメリカの爆撃機はその一瞬の、火花の光をめがけて爆弾を落っことしてくるんですよね。
そのスパークした場所に正確に爆弾が落とされて、その後続の電車が被害を受けた、というわけです。
(以上は、都電網研究会、
http://interview-todenmo.cocolog-nifty.com/blog/cat35588006/index.html からの抜粋です。)
以上は何気ない都電に関する思い出です。
都電が走っていた戦前の空気が感じられます。人々の感情が描かれています。それは戦前の義理人情の生きていた社会の空気でした。
時代が大きく変わって車社会になって古い義理人情の空気も消えました。
しかし車社会では人々が他人に優しくなりました。ボランティアの精神が行き渡り、見ず知らずの誰にでも優しくなったのです。これが現在の社会の空気なのです。
これも良い時代です。私はそのように楽観的に考えることにしています。

今日は時代の空気、そして都電の隆盛と消滅のものがたりを書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

「角谷まゆみ、「詩集 光の春』のご紹介」

2025年02月10日 | 日記・エッセイ・コラム
「この本に集められた詩は、2009年から2011年にかけての、およそ3年間の間に書いたものであり、30余年にわたる厳しい冬の後に訪れた春の喜びを歌ったものである。・・・・・・読者の皆様が、私に訪れた春を、共に楽しみ、寿いで頂ければ著者として、それに優る喜びはない。」
(「あとがき」より)
【目 次】
第1章  光の春
第2章  順境の川
第3章  自由の大洋
第4章  何故はない
第5章  輝くためにこそ
第6章  神は陶工
第7章  穏やかな風景

【詩の抜粋】
永久の春(1)
主の臨在の光が 私の眼前を照らし、
主の御心の愛が 私の内で炎と燃えるとき、
光と暖の内に、
闇と冷たく凍る冬は
終わりを告げるのだ。
奇跡のように、
永久の春が来た。



「光の春、鎌倉の海と砂浜の輝き」

2025年02月10日 | 日記・エッセイ・コラム
最近は毎日寒いのに太陽が明るく輝いています。光の春なのです。
去年運転免許を返上したので車で遠方へは行けなくなりました。以前は八ヶ岳や伊豆の海岸へは何度も行ったものです。そう云えば鎌倉へもよく行きました。
今日は鎌倉の海岸に出てのんびりと海を眺めて過ごしたことを思い出しました。鎌倉は家内が生まれ育った地です。砂浜は由比ヶ浜と材木座の浜が続いていて相模湾へ向かって大きく広がっています。
真冬の鎌倉ですが波が陽の光に輝いています。時折、沖の方をウインド・サーフィンを楽しむ若者がゆっくり横切って行きます。陽光が射す昼間は鎌倉の海は意外に暖かいのです。時間がゆっくり流れ、老境の静かな一日が過ごせます。その浜辺の風景を撮った写真を示します。

鎌倉には砂浜だけでなく鎌倉仏教という言葉があるとうり鎌倉時代からのお寺が沢山あります。
建長寺、円覚寺、長谷寺、高徳寺、極楽寺、明月院、瑞泉寺、光明寺、九品寺などです。それはそれとしてもう一枚の写真に砂浜を眺めをお送り致します。後ろ姿は走っている家内です。

昔は鎌倉から江の島までは文字通り白砂青松だけの砂浜が続いていたそうです。

そんなことを思い出しながら今日も老境の一日が静かに流れて行きます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて懐かしく想うのは初めて留学したオハイオ州立大学のこと」

2025年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム
老境になると懐かしいのは最初のアメリカ留学です。1960年に初めてアメリカへ留学しました。オハイオ州立大学に留学したのです。
その時アメリカの豊かさに驚愕する体験をしたのです。戦争で負けてひどく貧しい生活をしていた日本から豊かなアメリカに行って驚きました。それは人生で一番大きいな驚きでした。感動でした。これでは戦争に負けるとしみじみ思いました。真珠湾攻撃をした日本の愚かさに失望しました。
今日はアメリカの豊かさに驚いた留学体験を書いてみたいと思います。
まずオハイオ州立大学の規模があまりにも壮大なので驚き感動しました。大学専用の飛行場を持っているのです。そして学生が格安で使える18ホールのコースを2つ揃えたゴルフ場を持っていることです。その広さは日本の大学と比べようもありません。
アメリカ全土には、同じように壮大な規模の大学が数十あると聞いて、私は度肝を抜かれました。そうしてこんなにも豊かな国と戦争をした日本民族の愚かさをしみじみ想ったのです。国力の差で戦争に負けたとさんざん聞いていましたが、その差があまりに大きいことに愕然としたのです。はるばる遠いオハイオ州まで旅をして日米の国力の決定的な相違を始めて知ったのです。
オハイオ州立大学の風景を写真に従ってご紹介します。
アメリカの大学は広大な敷地の中に建物を建てています。その様子は街の中の古い建物をそのまま校舎として使っているヨーロッパの大学とは大いに違います。
1番目の写真は校地の中央にある芝生の広場とそれを囲む建物群の写真です。このような広い芝生の広場がもう一つありました。芝生の中に交差している通路は学生たちが芝生を踏まないように舗装した通路です。
2番目の写真は数万人を収容する巨大なスタジアムです。写真の下方に写っている自動車と比較してみるとスタジアムの巨大さが分かります。この大学はアメリカン・フットボールが強いので有名なので、スタジアムも立派なのです。試合のある時は入場券が売れすぎて入手が困難なのです。私はフルブライト留学生だったので地元の新聞社、コロンバス・デスパッチ社がすぐに招待してくれたお陰で観戦することが出来ました。
3番目の写真は私達が使っていた3階建てのロードホールという建物です。この写真では右のほうに玄関がありますが、その右の1階には、私が作った実験措置が置いてあった部屋があり、2階には講義室がありました。
4番目の写真はこの大学の金属工学科の入っている主な建物です。玄関を入ってすぐ右に学科主任のフォンタナ教授の部屋がありました。イタリア系の人でいシシリー島のギャングの親玉の風貌でしたがとても優しい性格の教授でした。そして学科主任の秘書はヘレンという面倒見の良い上品な女性でした。学科主任にアポ無しで何時行ってもニコニコしてすぐに学科主任に会わせてくれたのです。ヘレンが引退したとき、日本に観光旅行に来ました。帝国ホテルに泊まったので昔世話になった日本人留学生が集まり歓迎会をしました。ちょっと脱線しましたが今日は1960年代のアメリカの豊かさに驚いた留学体験を書きました。

茫々、あれから60年です。親切に接してくれた全ての人に感謝の気持ちがいっぱいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「大学卒業後58年目のクラス会」

2025年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム
私たちは67年前の1958年に東北大学の工学部金属工学科を卒業しました。クラスは32名でした。そのうち物故者は数名です。
2013年の5月12日の午後5時から東京のアジュール竹芝というホテルで17名の出席で卒業後58年目のクラス会がありました。
卒業後58年目の5月12日のクラス会に出席した人の集合写真を示します。

紅顔の若い青年たちも58年年経つとこうなるのです。中に1人だけご婦人がいますが、竹内君の奥さんです。

この会合は大体2年ごとに幹事2名が交代で開催してきました。仙台のそばの松島や盛岡のそばの温泉でもしましたが、その他は箱根や熱海、湯河原でしました。
今回の幹事は管野君と香坂君でした。遠方から新幹線で来る人の便利を考えて東京浜松町に近いアジュール竹芝に設定してくれました。
会場に行ってみて吃驚しました。こんなに景色の良い会場が都内にあったのです。
その会場の眼下には、美しい船が出入りしていて、その先には夕陽に染まるレインボーブリッジが見えるのです。一枚だけその写真を示します。豪華客船、日本丸の出港風景です。

こんな船を見ると今宵の宴を豪華客船のレストランでしているような錯覚にとらわれるから不思議です。
そらはそれとして、クラス会の内容です。
大学卒業以来、2、3年毎にクラス会を開催してきました。その会合の内容を振り返って見ると大体、三つの期間に分けられるような気がします。
それぞれが会社で技師として活躍中の現役の間のクラス会。
おおよそ60歳で引退したあと10年くらいの間のクラス会。
そして、引退して15年以上経ってからのクラス会。
どのクラス会も、まず2人の幹事が開会挨拶をして、一番年上の今泉さんか及川さんが乾杯の音頭をとって始まります。
乾杯の後はしばらく傍の人々と雑談をしながら飲みます。そして酔いが回ったころ出席者が一人、一人と立って近況を報告します。
最後に乾杯をして終りです。
その後の二次会は任意参加で、泊まる宿の一室で行います。今回も夜の10時頃までしました。原子力研究者だった近藤君の、原発は人類にとって必要なものだという静かな説明を聴きました。水戸まで帰る彼が席を立ってからからは、気楽なお遊びの話をして散会しました。
この宴会は席順も勝手で、幹事の挨拶も短く、カラオケも下手な余興も無いので気に入っています。要するに皆平等で気楽に話が出来る宴なのです。

不平不満を言う人は皆無です。
今までのクラス会で一番楽しい会になりました。

その本当の理由は全員が間もなくやってくる旅立ちの準備が終わっているからだと思います。私はそのすがすがしさに感動し、会合がまた一段と楽しくなってのです。

我々の同級生が就職した富士鉄も八幡も日本鋼管も川崎製鉄も石川重工もみんな名前が変わって消えてしまったのです。隆盛をきわめた三菱重工も日本製鋼所もラサ工業もプログレスダイキャストもみんなみんな衰退してしまったのです。
これらの工業が再び隆盛することは日本ではないのです。

大学卒業後58年目のクラス会をご紹介いたしました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「少年の頃の思い出、消えてしまった沼と亜炭の煙」

2025年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和11年生れの私は戦前、戦後に仙台市で少年時代を過ごしました。その頃日中戦争が起きやがて真珠湾攻撃があり悲惨な大戦争のあった時代です。
今日は仙台の戦前、戦後の暮らしぶりの思い出を書いてみたいと思います。
さて皆様が子供の頃に釣りをしたり、遊んだ川や沼はまだ現存していますか?
皆様の子供の頃には炊事のための燃料や風呂釜の燃料は何だったのでしょうか?
今日の私の話は昔、釣りをしていた三つの沼と燃料にしていた亜炭という不思議な燃料が跡形も無く消えてしまったという話です。完全に消えてしまったのです。これは小さな出来事ですが私にとっては大きなショックでした。
それは故郷の仙台市の向山という地区のことです。その向山からは仙台の中心街が見下ろせる景色の良い所なのです。料亭や温泉旅館のあるささやかな仙台の観光地だったのです。
その高台には東洋館、鹿落温泉旅館、いかり亭、蛇の目寿司、広瀬寮、観月亭、黒門下の湯などが散在していました。長徳寺や大満寺や愛宕神社もありました。
その向山の谷地に沿って3つの沼が並んでいました。そこで私は小ブナを釣ったりオタマジャクシを捕って、蛙に育てたりして遊んだものでした。この3つの沼は少年時代の大切な遊び場だったのです。毎日この沼の岸辺で遊んでいました。
昔に向山を流れていた川が涸れて無くなり、湿地や幾つかの沼になっていたのです。
それが東京オリンピック後の経済成長にしたがって、湿地も3つの沼も完全に埋め立てられ消えてしまったのです。
フナ釣りをした沼はガソリンスタンドになってしまいました。そして他の沼もみな新しい住宅地になってしまったのです。
昔の風景は想像も出来なくなりました。この世から完全に消えてしまったのです。
この様な風景の変化は東京オリンピック後の経済成長の時代に全国で起きたのです。全国の都市部の郊外の風景が一変したのです。
さて完全に消えてしまったものといえば亜炭という不思議な燃料があります。仙台に漂っていた亜炭の独特な煙の臭いが消えて無くなったのです。
大正、昭和、そして戦後にかけて向山には数々の亜炭を掘り出す横穴がありました。子供のころはその亜炭の横穴に出入りするトロッコに乗って遊んだものです。横穴は電燈もない暗闇でした。怖くて30mも入ると逃げ出してきたものです。
向山の住民はこの亜炭を八鉱社という元締めから買って炊事や風呂の燃料にしていたのです。
夕方になると、亜炭の煙の独特な臭いが流れてきます。亜炭は石炭になる前の炭化した木材で、仙台の郊外で当時掘りだされていたのです。
燃料にするだけでなく埋木細工を作ってお盆や皿や飾りものにして仙台名物のお土産として売っていたのです。埋木細工をする職人の仕事が格子窓を通して見えました。子供心にその彫師のノミの動きに感動して、あかずに覗き込んでいたものです。そんな工房が向山に3軒あったのです。
その埋もれ木細工の職人の工房も向山から完全に消えてしまいました。
2枚の写真を示します。

1番目の写真が現在の鹿落ち坂(ししおちざか)の様子です。左の白い車の上の平地が昔、鹿落温泉(ししおちおんせん)の建物があった場所です。左上の大きな建物は料亭の東洋館です。坂の右下には広瀬川が流れています。東洋館と鹿落温泉からは仙台の中心街が見下ろせるのです。

2番目の写真は 戦後に新しく建てた仙台駅です。市電がその前を走っています。市内のあちこちへ行くときよく乗ったものです。

今日は少年の頃の思い出と消えてしまった沼と亜炭という燃料について書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて懐かしく想うのは遥かなる我が故郷、仙台の風景」

2025年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム
年老いて懐かしく想うのは遥かなる我が故郷、仙台の風景です。
今日は私が通った学校や仙台の風景をご紹介したいと思います。
私は昭和11年に仙台で生まれ、昭和35年に仙台を出るまで24年間住んでいました。
18年程前に中学校の同期会があった秋に訪れてから行っていません。
その2007年に仙台を車で訪ねる小さな旅をしました。
東京外環道路から川口JCで東北自動車道路に入り、北へ北へとひたすら走ります。約400Kmを5時間半で到着しました。
仙台ではホテル・モントレ仙台に2泊しました。まず老人ホームにいる96歳の叔母を訪ねました。
2人の弟が仙台在住でそれぞれ夫婦とも健在です。私共夫婦と6人で両親の墓、母方の祖父母の墓、叔父の墓をお参りしました。お寺の住職をしている次男がそれぞれのお墓に般若心経と大悲心陀羅尼というお経をあげました。
久しぶりに6人そろっての昼食会は大変愉快でした。
2日目の午後に懐かしい場所を巡りました。仙台で通っていた学校を見に行ったり、昔住んでいた場所を見に行ったのです。
写真にしたがってご説明いたします。
1番目の写真は昭和17年から23年まで通っていた向山小学校です。戦争中は向山国民学校という看板が石の門柱にかけてありました。
その門柱は昔のままの石です。日本軍が昭南島を占領した戦勝祝いに生徒全員がゴムマリを貰ったのを思い出しました。
昭和20年の7月10日の夜にB29が百機来襲し、仙台の街が一面火の海になりました。高台の向山から夜が明けるまで見下ろしていました。
こんなことを思い出しながら向山小学校の坂道をゆっくり下りて来ました。
2番目の写真は私が卒業した東北大学の金属工学科の昔の建物です。現在は青葉山のキャンパスに引っ越して使っていませんが、赤レンガの建物が77年前と同じように残っていました。
現在は仙台にも高層ビルが立ち並んでいてこの赤レンガの建物がみすぼらしく見えます。しかし空襲でも残ったこのビルは当時は非常に立派に見えたものです。私の実験室の窓もそのままありました。
3番目の写真は青葉城の石垣です。城の建物はすべて戊辰戦争のおりに焼かれてしまいこの石垣だけが残ったのです。この石垣の下を右方向に車で登ると見晴らしの良い城跡に上がれます。
4番目の写真は城跡にある伊達政宗の騎馬像です。
5番目の写真は城跡から見下ろした現在の中心街の風景です。昭和20年の大空襲で一面の焼け野原になった町がこのような風景になったのです。夢を見ている心地でした。
6番目の写真は広瀬川の評定河原橋付近から見た風景です。写真の左の小高い山に伊達政宗のお霊屋の瑞鳳殿があります。
それで評定河原橋を渡った地域を「霊屋(おたまや)下」とい地名になっています。
この霊屋下には友人達が幾人か住んでいたのでしょっちゅう遊びに行った場所でした。今回も霊屋下を車で回りましたが家々がすっかり変わってしまって友人達も消えてしまいました。茫々あれから70年もたっているのです。
7番目の写真は伊達政宗のお霊屋の瑞鳳殿のある経京ヶ峰の広瀬川に面した断崖の風景です。この写真の右手に家内が若い時に少しの間住んでいた公務員住宅があります。父親が東北大学で働いていたので仙台に少しの間住んでいました。この時見合いをして結婚した思い出の場所です。妻は鎌倉生まれ東京育ちですが偶然にもこの場所に住んでいたの結婚したのです。運命とは不思議なものです。

以上が私の故郷の仙台の思い出の風景でした。
皆様の故郷はどこでしょうか?遠方にある故郷は懐かしいものですね。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「時が止まったような奈良井の宿、妻籠の宿、馬籠の宿の風景」

2025年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム
時が止まったような村や町の風景を見るといろいろなことを思い浮かべます。人々が活き活きと生き、そして死んで行きます。
しかし古い農家とその周囲の風景は変わりません。古い宿場町の家並みの風景はシーンとして静かに時を刻んでいるだけです。
以前の奈良井宿への旅で、その家並みの中を歩きながら人の生き死にの儚さを考えていました。
写真をお送りします。
1番目と2番目の写真はその時撮った中山道の奈良井の宿です。江戸時代の宿場町がそのまま保存してあります。

3番目と4番目の写真は中山道の奈良井宿から南に行った場所にある妻籠の宿場町の風景です。数年前に3度ほど行きました。
3番目と4番目の写真の出典は、「自分を探す旅 見つめ直す旅 」というブログです。素晴らしい旅行記のブログです。
5番目と6番目の写真は中山道をさらに南に行った所にある馬籠の宿場町です。馬籠の宿場町へも3度ほど行きました。
5番目と6番目の写真の出典は、http://www.livedo.net/tabi/276.html です。
7番目の写真は庄屋をしていた馬籠の島崎藤村の生家です。

以上のような奈良井宿や妻籠宿や馬籠宿は全て険しい山の谷に沿った危険な道でした。ここには11の宿場町がつらなっていました。
木曽福島の厳重な関所の先の峠までは木曽川に沿い、分水嶺の奈良井の峠を越すと日本海へ注ぐ川に沿っています。

その中山道の険しさは島崎藤村の「夜明け前」の序文に描かれていますので、下にご紹介します。
出典は、http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1504_14585.html です。
・・・島崎藤村の「夜明け前」の序文・・・
木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖がけの道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間に埋うずもれた。名高い桟も、蔦のかずらを頼みにしたような危い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降くだって来た。道の狭いところには、木を伐きって並べ、藤づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、いくらかずつでも嶮岨な山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫が旅行を困難にする。そのたびに旅人は最寄り最寄りの宿場に逗留して、道路の開通を待つこともめずらしくない。
 この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、これほどよい要害の地勢もないからである。この谿谷けいこくの最も深いところには木曾福島の関所も隠れていた。
 東山道とも言い、木曾街道六十九次とも言った駅路の一部がここだ。この道は東は板橋を経て江戸に続き、西は大津を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの旅人は、否でも応でもこの道を踏まねばならぬ。一里ごとに塚を築き、榎を植えて、里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記をふところにして、宿場から宿場へとかかりながら、この街道筋を往来した。
馬籠まごめは木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。・・・

この中山道は現在、国道19号線として立派な舗装の自動車道路になっています。車で走りながらこの島崎藤村が描いた昔の中山道を思い浮かべていました。昔の道らしい細い道路が所々で19号線から分かれて山の斜面に入っています。

昔の中山道は現在は奈良井、妻籠、馬籠の宿場町の真ん中に残っているだけなのです。嗚呼、時はどんどん流れ行きますが、そこだけは時が止まっているのです。此処で生活し、古い建物を維持している人々のご苦労は如何ばかりかと感じ入りながらの旅でした。
新幹線が走り高速自動車道路が出来ても奈良井、妻籠、馬籠の宿は頓着しません。人間は何故そんなにいそぐのでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「江戸時代そのままの風景の亀山市の関宿」

2025年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム
昔の風景を見ると胸がかきむすられるような気分になります。懐かしさで胸がいっぱいになります。そんな訳で古い宿場町も訪問してきました。
私が何度も訪れた宿場町は大内宿、妻籠宿、馬籠宿、奈良井宿、海野宿などです。これらの宿場町については詳しいしい紹介記事を掲載いたしました。
今日は江戸時代そのままの風景の三重県亀山市の関宿をご紹介したいと思います。
関宿(せきじゅく)があるのは三重県北中部の亀山市です。
江戸時代に整備された53ある宿場のうち、東海道五十三次の江戸から数えて47番目がこの東海道の関宿です。
参勤交代や、お伊勢参りの人々で賑わったこの宿場町は、昭和59年に国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定されました。江戸時代の建物が今も大事に保存されています。
その風景写真をお送り致します。
写真の出典は、https://www.kankomie.or.jp/report/252 です。


今日は江戸時代そのままの風景が残る亀山市の関宿をご紹介したしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「山梨の満開の桃畑と中国の桃源郷の話」

2025年02月05日 | 日記・エッセイ・コラム

山梨県へは以前に何度も出かけて行きました。甲斐駒岳の麓の山林の中の小屋を持っていたのでよく行きました。その甲府盆地の周囲の山沿いの傾斜地はブドウ栽培や桃の栽培に使われています。

春になると桃畑は文字通り「桃色」の花が一斉に咲きます。

特に東部の一宮や南部の南アルプス市、そして西部の新府には桃畑が広大に斜面を覆っています。

毎年4月になり花が咲くと夢のような風景になります。あちこちに「桃源郷」という看板が出ています。

甲府盆地の東の一宮には「日本一の桃の里一宮」という大きな看板が中央高速道に出ています。

そして夜叉人峠の入り口の南アルプス市、そして西の新府などの桃の産地には随分と通ったものです。

桃の花は開花すると間引きのため摘花(てきか)します。摘花したあとの桃の枝には花がまばらにしか残っていないので淋しい風景になってしまいます。そこで摘花する前の桃畑を探してあちこちへ動き回ります。

摘花する前の桃畑に行くとピンクの雲の中に入ったようで、甘い桃の香りがして別世界に来たような気分になります。

自分で、「これが桃源郷だ!」と言いながら、何故かとてもロマンチックな気分に浸ります。

下の写真は2011年の4月に撮った山梨県の西の新府の桃源郷です。

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桃源郷の初出は六朝時代東晋末から南朝宋にかけて活躍した詩人・陶淵明365年 - 427年)が著した『桃花源記 ならびに詩』です。(詩集では、『桃花源詩 ならびに序』という名前で,採録されることが多い。)

現在では『桃花源紀』()よりは、その序文のほうがよく読まれている。

太元年間(376年 - 396年)、武陵(湖南省)に川漁師の男がいた。ある日、山奥へ谷川に沿って船を漕いで遡ったとき、どこまで行ったか分からないくらい上流で、突如、の木だけが生え、桃の花が一面に咲き乱れる林が両岸に広がった。その香ばしさ、美しさ、花びらや花粉の舞い落ちる様に心を魅かれた男は、その源を探ろうとしてさらに桃の花の中を遡り、ついに水源に行き当たった。そこは山になっており、山腹に人が一人通り抜けられるだけの穴があったが、奥から光が見えたので男は穴の中に入っていった。

穴を抜けると、驚いたことに山の反対側は広い平野になっていたのだった。そこは立ち並ぶ農家も田畑も池も、桑畑もみな立派で美しいところだった。行き交う人々はみな微笑みを絶やさず働いていた。

男を見た村人たちは驚き話しかけてきた。男が自分は武陵から来た漁師だというとみなびっくりして、家に迎え入れてたいそうなご馳走を振舞った。村人たちは男にあれこれと「外の世界」の事を尋ねた。そして村人たちが言うには、彼らはの時代の戦乱を避け、家族や村ごと逃げた末、この山奥の誰も来ない地を探し当て、以来そこを開拓し、その一方、決して外に出ず、当時の風俗のまま一切の外界との関わりを絶って暮らしていると言う。彼らは「今は誰の時代なのですか」と質問してきた。驚いたことに、ここの人たちは秦が滅んでができたことすら知らなかったのだ。ましてやその後の三国時代の戦乱や晋のことも知らなかった。

数日間にわたって村の家々を回り、ご馳走になりながら外の世界のあれこれ知る限りを話し、感嘆された男だったが、いよいよ自分の家に帰ることにして暇を告げた。村人たちは「ここのことはあまり外の世界では話さないでほしい」と言って男を見送った。穴から出た男は自分の船を見つけ、目印をつけながら川を下って家に戻り、村人を裏切ってこの話を役人に伝えた。役人は捜索隊を出し、目印に沿って川を遡らせたが、ついにあの村の入り口である水源も桃の林も見付けることはできなかった。その後多くの文人・学者らが行こうとしたが、誰もたどり着くことはできなかった。(終り)

今日は山梨の満開の桃畑の写真を示し、続けて中国の桃源郷の話をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「ドイツで鰻の蒲焼を作った体験記」

2025年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム
鰻の蒲焼は美味しいものです。特に家内が好きです。鰻の蒲焼で有名な浜名湖や諏訪湖にはわざわざ食べに行きました。鰻の蒲焼を食べるための旅行でした。

1番目の写真は以前に諏訪湖の畔で食べた鰻の蒲焼です。
このような鰻の蒲焼を自分で作ると難しいのです。素人が作ると実に難しいものです。
以下にドイツで鰻の蒲焼を作った体験記をお送り致します。その苦心談をお送り致します。
それは1969年の秋でした。南ドイツのシュツットガルトのある研究所で働いていた頃のことです。
ある日、デパートの鮮魚売り場に行ったところ、水槽にマスやドイツ鯉を沢山泳がせて売っています。足元のバケツには太いウナギがうごめいています。パッとひらめきました。鰻の蒲焼を作る決心をしたのです。
一番太いウナギを買いながら、何処で獲れたか聞きました。ライン河です。その支流の流れのよどんだところに仕掛けを沈めておくと獲れると説明します。

2番目の写真はドイツの鰻の写真です。写真の出典は、https://passaulife.blogspot.jp/2016/06/blog-post_94.html です。
ドイツではウナギは棒状の燻製にして売っています。ハンブルグでは筒切にしたウナギ入りのスープを飲んだこともあります。
しかし生きたまま売っているのは珍しいことです。活きウナギを買って意気揚々と帰宅しました。
しかし蒲焼など作ったことがありません。自宅の台所で2枚におろし、3角形の中骨を切り離し、何とかウナギを開いた形の切り身にしました。
3番目の写真はウナギを割いて蒲焼の下準備が終わった状態の切り身です。
この写真の出典も、https://passaulife.blogspot.jp/2016/06/blog-post_94.html です。

さて次の段階は「蒸し」です。鍋に少し水を入れ、皿に並べた切り身を置き、充分、蒸し上げました。
次は醤油、砂糖、日本酒のタレをつけてオーブンで焼きます。途中、何度もタレを塗り直して、コンガリ焼き上げます。

ライン河の鰻の蒲焼の思い出でした。ドイツの思い出でした。なお日本で一番有名なのは浜名湖のウナギです。最後に浜名湖のウナギの蒲焼きの写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「戦国時代の関東平野と川越城の歴史」

2025年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は何度も行ったことのある川越城にまつわる歴史を書きたいと思います。
さて皆様は上杉謙信と武田信玄の川中島での戦いはご存知と思います。
室町時代の後半の戦国時代の越後や信濃では上杉謙信が君臨し甲斐の国では武田信玄が勢力を拡大していました。
そのせいで信濃や越後や甲斐の中部日本の戦国期の歴史は学校でも習います。
しかし以下に書く関東平野の戦国期のことは知らない人が多いのではないでしょうか。
戦国期の関東平野の歴史は理解し難く、その上、川中島の合戦のようにドラマチックでないのです。一言で言えば面白くないのです。
戦国期の関東平野の歴史が理解し難い原因は、室町幕府が関東に「関東管領」と鎌倉府の長官である「鎌倉公方」の両方を置いたことが原因になっています。
当時の関東平野では「関東管領」と「鎌倉公方」の勢力争いが複雑になり、明快に理解出来ない歴史が展開したのです。
関東管領は鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために鎌倉に設置された役職名です。ですから関東管領は鎌倉公方の下部組織であり、その配下なので盾突いてはいけないのです。
ところが関東管領を世襲した上杉氏は、鎌倉から古河に移り住んだ鎌倉公方の「古河公方足利氏」と戦っていたのです。
その一方で小田原城に拠点をおいた後北条氏が関東管領の上杉氏と古河公方を攻撃したのです。
この3者の複雑な戦争を明快に理解する鍵は埼玉県の川越城にありそうです。
そこで以前に、車を駆って川越城と城下町の写真を撮って来ました。
1番目の写真は現存している川越城の本丸御殿です。日本国内でも本丸御殿が現存している例はきわめてまれで、昭和42年(1967)に埼玉県の指定文化財になっています。現存する大広間と玄関部分は明治維新後、入間郡役所、煙草工場、中学校校舎などに使用されたのです。
2番目の写真は本丸御殿を南に回り下りた場所から見上げた当時の城跡です。この小高い城郭の南端には高い「富士見櫓」が立っていたのです。
3番目の写真は「富士見櫓」の説明板です。川越城には天守閣が無かったので城郭の隅に高い櫓を建て天守閣の代わりにしたそうです。
この場所からは富士山がよく見えたので「富士見櫓」と言われたと書いてあります。
4番目の写真は城下町にある時を知らせる鼓楼の写真です。江戸時代の城下町に当時使われていた鼓楼が復元されています。何度も訪れた懐かしい鼓楼です。
5番目の写真は城下町の風景です。東京近辺では、ここ川越市だけに江戸時代を偲ばせる町並みが保存してあります。平日でも多くの観光客が歩いています。
さて川越城の歴史を簡単にご紹介しましょう。
川越城は「関東管領」の扇谷上杉持朝が長禄元年(1457)に家臣の太田道真(資清)・道灌(資長)父子に命じて築城したものです。当初の規模は、後の本丸・二の丸を合わせた程度と推定されています。

やがて川越城は、天文6年(1537)に小田原から北上して来た後北条氏の占拠するところとなりました。
そして天文15年(1546)川越城の奪回を図った上杉氏は後北条氏の奇襲に会い、打ち破られ群馬に逃れ完全に敗退したのです。
それ以後、後北条氏の支配が決定的となりました。川越城を掌中に収めた後北条氏は、周辺の旧上杉氏所領を直轄領に組み込むとともに、城代として譜代の重臣大道寺氏を配置しました。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家に攻められて落城します。やがて同年8月徳川家康が一族家臣を従えて関東に移るにおよび、重臣を重要な地に配して領国の安定を図りました。川越には酒井重忠が1万石をもって封じられ、ここに川越藩の基礎が成立しました。

寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は川越城の大幅な拡張・整備を行い、近世城郭の形態を整えることとなりました。この時、本丸、二の丸、三の丸等の各曲輪、四つの櫓、十二の門よりなり、総坪数は堀と土塁を除いて4万6千坪となりました。

その後も明治維新に至るまで、幕府の要職にある大名が置かれた川越城は、平成18年(2006)に財団法人日本城郭協会から「日本100名城」の選定を受けました。また平成19年(2007)には築城550年を迎えました。
明治維新を迎えると、川越城は次第に解体されていきましたが、大広間及び玄関部分だけは残ったのです。

以上が関東平野の戦国時代の歴史の概略です。
しかし後北条氏は八王子城などを築き武田信玄の関東平野への侵攻にそなえたのです。そして各地にいろいろな武装集団の国衆がいて決して平穏なわけではなかったのです。この国衆は「関東管領」と「鎌倉公方」と後北条氏のいずれかに従っていましたが、関東平野に平和がやって来たのは天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略以後のことです。関東平野の多数の城が天正18年に一挙に落城し、全て秀吉に帰順したのです。
ですから関東の歴史において天正18年(1590)は非常に大きな歴史の転換期だったのです。
この時、太田道灌が康正3年(1457年)に作った江戸城も落城し、やがて徳川幕府は江戸城に入ることになったのです。

日本も広いので地方、地方によって非常に大きな歴史の転換期は違います。皆様の郷土の非常に大きな歴史の転換期は何時でしょうか?

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「春の歳時記、桃の花と雛祭り」

2025年02月03日 | 日記・エッセイ・コラム
季節の廻りは早いものです。節分が終わったと思ったら次は雛祭の季節です。この季節の歳時記と言えば桃の花と雛祭りではないでしょうか?
けれども桃はまだ咲きません。東京では4月末頃に咲きます。
今日はお雛様と紅梅と野点の写真をお送りいたします。紅梅と野点の写真は府中市にある郷土の森博物館公園で撮りました。
1番目の写真は家内が実家から持って来たお雛飾りです。
2番目の写真はデパートに飾ってあった簡素な雛飾りです。この方がお手軽で飾りやすいです。
3番目の写真は最近の我が家の雛飾りです。
4番目の写真は府中市の郷土の森博物館公園の紅梅です。
5番目の写真は毎年行はれる府中市の郷土の森博物館公園の野点です。

思い返してみると雛飾りを見たのは新婚の頃でした。男だけの3人兄弟でしたから女の子のお祭りとは縁が無かったのです。妻が実家から持ってきた雛飾りは1番目の写真はのように七段ありました。
しかし何年か後には七段の雛飾りは飾るのが大変なので小さな木目込み人形の内裏雛を買いに行きました。そうしたら2番目の写真のように簡素なものをいろいろ売っています。
毎年3月3日がちかづくと簡素な雛飾りを床の間に飾り、菱餅や雛あられや白酒を供えています。毎年妻が小声で「明かりをつけましょぼんぼりに・・・今日は楽しい雛祭」と歌っています。もう60年以上続く我が家の季節の歳時記です。
男の孫達3人が幼い頃は毎年、家内と雛祭りを楽しんでいたものです。こまごました雛を箱から出して飾ったり、ちらし寿司や菱餅、雛あられを食べたり白酒を飲むのが楽しかったようです。
ある年になって孫達は、「もうそんな年じゃないよ! 雛祭リはカンベン、カンベン!」と言って寄り付かなくなりました。
雛祭りには桃の花を飾りたいところです。しかし関東では4月末にならないと桃畑が咲きません。ですから4月末になると毎年、山梨県の桃の産地に満開の桃畑を見に行ったものです。
南アルプスの雪の山稜を背景にして咲く桃畑の風景はまさに桃源郷のようでした。

今日は春の歳時記として雛祭りと桃の花について書きました。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「釈迦の仏教の5つの具体例と日本の大乗仏教」

2025年02月01日 | 日記・エッセイ・コラム
お釈迦様は2500年程前にインドに生まれ、現在でも世界中の多くの人に信じらている仏教を創ったのです。
インドでその後500年くらい経ってから仏教は大乗仏教と上座部仏教の2つに分かれました。
玄奘三蔵法師が629年に陸路でインドに向かい645年に経典657部や仏像などを持って唐に帰還しました。
この玄奘三蔵法師の持ち帰ってきた経典は大乗仏教のものでした。従って現在の日本の仏教は大乗仏教なのです。
それでは釈迦の教えを以下に示しす。
(1)釈迦は自分が死んだら墓を作らず、遺骨は野に捨てよと言って入滅しました。
(2)釈迦は全ての像を拝んではいけない。仏像など作ってはいけないと教えました。
(3)釈迦は全ての殺生を禁じました。
(4)釈迦は妻や家族から離れて出家しました。
(5)釈迦は教えの中心の「色即是空、空即是色」と「受想行識亦復如是」を本当に深く理解し信じるためには家族から離れて出家しなければいけないと教えました。
日本の大乗仏教は釈迦の教えを忠実には守っていないのです。むしろ上座部仏教の方が釈迦の教えに近いのです。
写真に上座部仏教のお寺と日本の大乗仏教の法隆寺を示します。
1番目の写真は13世紀に作られたタイのチェンマイにあるお寺です。上座部仏教のお寺です。
2番目の写真も同じお寺の別の建物です。タイのチェンマイにあります。
3番目の写真は大乗仏教の法隆寺です。
法隆寺が創建されたのは1400年以上昔、西暦607年のことだったと言われています。
それ以来日本中に大乗仏教の国分寺をはじめ数多くのお寺が建てられました。
現在の日本全国には7万5000くらいの大乗仏教のお寺があると言われています。日本は大乗仏教の国なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料======================
玄奘三蔵法師が持ち帰った大乗仏教とは?
(日本の仏教と釈迦の教えの違い(3)般若心経は大乗仏教のお経、2018年05月17日掲載記事)

「私が好きな日本の仏教の話」

2025年02月01日 | 日記・エッセイ・コラム
私は仏教が好きです。祖父や叔父がお寺の住職をしていたので幼少の頃から仏教になじんでいました。
そんなわけで今日は日本の仏教についてあれこれ書いてみたいと思います。
日本には75、000のお寺があると言われています。どんな山里に行ってもお寺があります。
江戸時代、明治、大正、そして昭和時代、そして現在に至るまで、人々はお寺と絆(きずな)があります。
仏教を信じていなくてもお墓詣りをする人は多いものです。お葬式があると仏式で執り行い、僧侶の読経を根気よく聞いています。
その上、日本にある仏像の数は世界一とも言います。地方に行くと巨大な観音像があちこちに立っています。仙台の大観音、高崎の大観音、大船の大仏、韮崎の観音像、牛久の大仏などなど巨大な像が青空に中に聳え立っています。

1番目の写真は仙台市にある大きな観音像です。
最近、無宗教の人々が増え、お墓を作らずに樹林葬や海に散骨する風習が広がって来ました。しかし日本の仏教には13もの宗派があります。日本はやはり仏教国なのです。
お釈迦様のお教えを簡略に書いておきます。
何と言っても、お釈迦様の教えは深く広大です。その慈悲の心は貧しい人にも富める人にもあまねく平等に注がれるのです。
日本では相変わらず仏教に関する本が売れているのです。般若心経の解説をした本も売れるのです。
日本人はみんな諸行無常という言葉を知っています。色即是空(しきそくぜくう)という言葉を知っています。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、・・・という平家物語の冒頭の句を知っています。
ですから日本人はこのような言葉を知っていて、時々思い出し、無意識ながらその言葉にそって行動します。日本人の仏教とのかかわりを書きだせばきりがありません。
日本の仏教の歴史や宗派の違いは末尾の参考資料にあります。
以下は、私自身の仏教とのかかわりを簡略に書いたものです。
私の父方の祖父は兵庫県の宝塚から能勢電鉄で入った山の村落のお寺の住職をしていました。それは曹洞宗の正林寺というお寺でした。
その祖父は戦前に亡くなり、父の弟が後を継ぎました。その祖父の戒名は高天秀嶽大和尚といいます。

2番目の写真は曹洞宗の正林寺の石碑と鐘楼です。
正林寺は石垣の上の高台にありました、その高台の下には農家の集落が広がっていました。毎年、夏になると一家でそのお寺に帰省し、お寺の暮らしを体験しました。お盆には施餓鬼供養という一大イベントを毎年見たのです。近隣のお寺から多くのお坊さんが集まって、本堂でお経を唱和し、そして銅鑼を鳴らしながら輪になって歩き、お経を唱えるのです。

3番目の写真は施餓鬼供養でお経を唱えている住職さんです。

4番目の写真は施餓鬼供養に参列している人々の様子です。
お寺での施餓鬼供養が終わると、叔父の住職さんと一緒に私も檀家まわりをします。
村落の一軒、一軒を回り、お盆のお経を詠んだのです。
私はこうした宗教的体験をしたのです。この体験がその後の私の宗教感に深い影響を与えたのです。
現在、私はカトリックの信者です。私は大人になってからカトリックのことを知りました。そして洗礼を受けました。この時、小さな頃にした宗教的な体験が非常に役立っていたと感じました。
洗礼を受けた後でよく次のような質問を受けます。
「私だけが洗礼を受けると先祖の魂はどうなるのですか?」
私は確信して答えます。「神様の愛は人間が想像出来ないくらい大きいのです。先祖様のことも子供のこともすべて神様に任せなさい。神様やイエス様は絶対に悪いようにはしない筈です」と。
そして、こんな質問も受けます。「洗礼を受けたら仏式のお葬式や法事には出られなくなりますか?」私の答えは簡単です。「従来通り出て下さい。欠席して親類や友人、知人の心を傷つけてはいけません」と。

私はお釈迦様を尊敬しています。玄奘三蔵法師も尊敬しています。弘法大師も大好きです。お遍路さんを尊敬しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========
(1)日本の仏教:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99#.E7.B3.BB.E8.AD.9C.E3.83.BB.E5.AE.97.E6.B4.BE

日本は統計的にみて約8470万人が仏教徒であり 、全世界で3億数千万人程度が仏教徒とされていることを考慮しても、やはり一大仏教国である。約7万5000の寺院、30万体以上あるといわれる仏像は、他の仏教国と比べても桁違いに多い。世界最古の木造寺院法隆寺があり、最古の仏典古文書も日本にある。

一方、現代の日本人は特定の信仰宗教、宗教観を持っていないものが大多数であり、自らを仏教徒と強く意識する機会は少ないがブリタニカ国際年鑑の2013年度版では99%の日本人が広義の仏教徒とされている。現在の日本の仏教の概略について解説すると、文化庁が編纂している「宗教年鑑」などの統計によると、現在の日本の仏教徒の大半はいわゆる鎌倉仏教に属している。浄土宗系(浄土真宗)の宗派と日蓮宗系の宗派が特に大きな割合を占めており、大乗仏教が特に多いと言える。
以下省略。

(2)日本の仏教の宗派:一覧表、http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/bukkyou26-4.htm
以下は、http://www.geocities.jp/yasuragigogo/butsukio6.htm から抜粋しました。

①律宗 奈良時代
開祖   道宣(中国) ⇒ 鑑真(日本)
総本山  唐招提寺
寺院数  115
教え: 三蔵(経蔵、律蔵、論蔵)の中で律蔵tがもっとも大事で、身、口、意の戒律を厳しく実践すること説いている。

②華厳宗 奈良時代
開祖   杜順(中国) ⇒ 審祥(日本)
総本山  東大寺
本尊   毘盧舎那仏(太陽を意味する)
寺院数  61
教え: 華厳経の大方広仏、時間と空間を超えた仏を説いた。「一微塵(極めて小さなもの)中に全世界が反映し、一瞬のうちに永遠の時間が含まれている。」と説き、又「一の中に他の一切を包含すると同じにその一は、他の一切の中に入る」と無尽縁起を理想としている。即ちあらゆるもの一切は、縁によって起き、宇宙の万物は無限に関係しあって、持ちつ、持たれつして生存し、存在している。

③法相宗 奈良時代
開祖  玄奘(中国) ⇒ 道昭(日本)
総本山 興福寺、薬師寺
寺院数  55

教え:万物唯識を説き、「一切の万法は、私の心から生まれたものであり、私の心を離れては一切の存在はなく、一切の万有が私の心そのものである」と説く。即ち認識を通してのみ一切万物の存在を決定する。認識作用をするものに眼、耳、鼻、舌、身、意の六識のほか未那識(マナシキ)、阿頼耶識(アラヤシキ)が万物認識の基と説き。特に未那識(自我を自我たらしめる意識)と阿頼耶識(無限大のいれもの・すべてを記録するところ・行為が記録され、煩悩の種を作るところ)が基本的な識として、修行によって未那識と阿頼耶識を自覚し、これを空にすることにより悟りを得ようとする教えである。

④真言宗 平安時代:
開祖   空海
総本山  金剛峰寺、高野山東寺を中心に約50派に分かれているといわれる。
本尊   大日如来
経典   大日経、金剛頂経
寺院数  12000
教え:「密教を修める者は、密教の戒律と大乗仏教の戒律を実践しなければならない」と説き、密教ては、仏教は、真実の仏、大日如来の教えであり、この大日如来と心身ともに一体となって修行を実践すれば、この身、このままで仏となることができる(即身成仏)と説いている。

⑤天台宗 平安時代
開祖   最澄
総本山  比叡山延暦寺 約20派に分かれている。
本尊   釈迦如来
経典   法華経
寺院数  4400
教え:すべての衆生は、仏陀になることができる
以下は鎌倉仏教の宗派に続くが、省略します。