後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「光の春を告げるロウバイの花」

2025年01月05日 | 日記・エッセイ・コラム
運転免許を去年の1月に返上しました。事故も無く車の運転を卒業しました。一昨年前までは毎年写真を撮りに行っていた府中市の郷土の森博物館のロウバイの花畑が懐かしいです。そこで3年前の写真をいろいろ見ました。
気温が低く寒くても咲くロウバイの花が「光の春」の到来を告げています。
そのロウバイの花畑で写した写真をお送りいたします。
ロウバイは中国語「蝋梅」の音読みで日本には江戸時代初期に渡来しました。
ロウバイは唐梅〔カラウメ〕とも呼ばれました。中国原産の落葉樹で12月頃に咲き始めます。
梅も寒い時期に開花しますが植物としては遠縁にあたります。
蝋梅の名は半透明でにぶいツヤのある花びらがまるで蝋細工のようで、臘月(旧暦12月)に咲くことにちなんでいます。日本においては小寒〔1月6日頃〕から立春の前日〔2月3日頃〕までの間の「晩冬」の季語とされています。

ところでここに示したロウバイの写真は家内が小さなデジカメで撮ったもので不出来なものです。そこで群馬県の安中市のロウバイの花の感動的な動画のURLを以下にお送りします。
https://www.youtube.com/watch?v=MkbHygq0Hmk
是非このロウバイの花の動画もご覧下さい。

今日は光の春を告げるロウバイの花の写真をお送りいたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「梅の花の美しさと元時代の高啓の漢詩」

2025年01月05日 | 日記・エッセイ・コラム
弥生時代から平安時代の初期まで日本人は桜の花より梅の花を愛し尊重していたそうです。「令和」の元号は万葉集の梅花の宴での前書きの言葉から取ったのです。
その後、平安朝中期からは山桜の花の美しさ、散りぎわの潔さがもてはやされるようになりました。
特に江戸時代には桜の品種改良が盛んになり様々な桜の花が持てはやされるようになります。時代によって日本人の好きな花が変ったのです。
ところで私はは若い間は華やかな桜の花の方が好きでした。それが老境になると桜花より梅の花が好きになったのです。
そんなことはさておき梅の花の写真をお楽しみ下さい。
1番目の写真は、https://www.pinterest.jp/pin/773704410956902313/ からお借りいたしました。
2番目の写真は、http://mimimin.com/ume/ からお借りいたしました。
3番目の写真は、https://www.photo-ac.com/main/search? からお借りいたしました。
4番目の写真は、https://minkara.carview.co.jp/userid/790606/blog/43765818/ からお借りいたしました。
5番目の写真は、https://rokaru.jp/matome/36120 からお借りいたしました。

さて山桜は日本に旧石器時代から自生していました。しかし梅は弥生時代に中国から渡来して来たのです。
梅の花を主題にした漢詩がある筈です。
調べていくと唐の時代よりずっと後の元の時代のなっても中国では梅の花が愛されていました。
元時代の高 啓の漢詩が有名なので、以下にご紹介いたします。

梅 花    <高 啓>
(出典は、http://www.kangin.or.jp/what_kanshi/kanshi_B22_1.html です)

瓊姿只合に 瑤臺に在るべし
誰か江南に向かって 處處に栽えたる
雪滿ちて山中 高士臥し
月明らかにして林下 美人來る
寒は依る疎影 蕭蕭の竹
春は掩う殘香 漠漠の苔
何郎去って自り 好詠無し
東風愁寂 幾回か開く

この漢詩の意味は次のようなものです。
玉のように美しい梅の姿は、仙人の住む高殿にあるのがふさわしいのに、誰が江南の処どころに植えたのであろう。
雪が満ちた山中に高潔な人格者が寝ているように、また月の明るい林下に美人が来たかと疑われる。
寒さの中、梅の疎(まば)らな影によりそうのはさやさやとそよぐ竹、春には梅の残り香がびっしりとしきつめられた 苔を掩いかくしている。
何遜が去ってしまってからは梅を詠じた良い詩はなく、春の風が吹くたびに、かなしくさびしく幾度咲いてきたことで あろう。

高 啓は杜甫や李白ほど有名ではありません。でもこの漢詩は春さきに真っ先に咲く梅の花の淋しさを美しく詠っています。
彼は1336年生まれ、1374年に38歳で処刑死しています。
名は啓、字は李迪(りてき)、江蘇省蘇州市の人で、元末期の惠宗至元2年 の生まれ。幼にして頴敏、文武に優れ、詩文に巧みで史学に深かった。呉淞の青丘に住み、 青丘子と号しました。元朝に抵抗して蘇州に政権を樹立した張士誠の文学集団に出入します。官に就くも辞めて自活、のち罪に連座して処刑されたのです。時に38歳でした。明初期 最大の詩人で呉中の四傑(楊基、張羽、徐賁)に数えられているそうです。薄命な詩人だったのですね。

今日は梅の花の美しい写真を示し、続いて梅の花の漢詩をご紹介しました。漢詩は春さきに咲く梅の花の美しさと淋しさを詠ったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料===========================
「桜は日本に自生していたが梅は弥生時代に中国から渡来した」
有賀正博さんの「桜の原産地は、ヒマラヤの国ネパールだった」という記事の一部を引用します。
・・・桜の起源は、数千万年前にここネパールの丘陵地帯で生まれた山桜だった。その山桜の種が鳥に運ばれてビルマの山岳地帯→中国雲南省→福建省→日本へと続く温帯ベルトを渡ってきたのです。それは日本に人が住むよりも遙か以前のことでした。・・・

一方、梅は弥生時代に稲作とともに中国からやって来た渡来植物だったのです。
弥生時代前期~古墳時代の遺跡から梅の遺物が出て来るのです。 山口県・大阪府・奈良県・京都府・石川県・東京都などの弥生遺跡から梅の木の断片や梅の種が出て来るのです。しかしそれ以前の縄文時代の遺跡から、梅の遺物は発掘されていないのです。 梅は、弥生時代に渡来したと断定して良いようです。
梅が中国大陸から渡来し、日本で普及していく様子は、 稲作が広まってゆく様相とほぼ同じとみられます。そして原産地は中国長江流域と考えられています。下って奈良時代になると花と言えばウメを指すことの多いようになります。平安の貴族も初春に人知れず咲く梅の花に魅了されたようです。
万葉集で花の和歌の中で数が一番多いのは萩の花で、二番目は梅で119首もあります。当時は花の代表は春の梅と秋の萩だったのです。例えば、万葉集の梅花の宴では32首もの梅の花の歌が作られたのです。
ところが平安時代後期から花と言えば桜を指すようになりました。特に江戸以降は花見といえば桜となったのです。
日本人の好きな花は時代によって変遷したのです。

「第101回箱根駅伝は青山学院大が優勝」

2025年01月04日 | 日記・エッセイ・コラム
第101回箱根駅伝は青山学院大が優勝しました、。
箱根駅伝の3日の復路でも、青学大の優位は揺るがなかったのです。
結局、青山学院大が総合優勝しました。

第101回東京箱根間往復大学駅伝競走の総合記録
① 青 学 大 10時間41分19秒 ◎
 ② 駒 大 10時間44分07秒 
③ 國 學 院 大 10時間50分47秒 
④ 早 大 10時間50分57秒 
⑤ 中 大 10時間52分49秒 
⑥ 城 西 大 10時間53分09秒 
⑦ 創 価 大 10時間53分35秒 
⑧ 東 国 大 10時間54分55秒 
⑨ 東 洋 大 10時間54分56秒 
⑩ 帝 京 大 10時間54分58秒 
⑪ 順 大 10時間55分05秒 
⑫ 日 体 大 10時間56分22秒 
⑬ 立 大 10時間58分21秒 
⑭ 中 央 学 大 11時間00分13秒 
⑮ 法 大 11時間03分16秒 
⑯ 神 奈 川 大 11時間07分28秒 
⑰ 専 大 11時間08分53秒 
⑱ 山 梨 学 大 11時間09分40秒 
⑲ 大 東 大 11時間10分38秒 
⑳ 日 大 11時間11分50秒 
関東学生連合 11時間06分53秒 (参)
 ◎は新記録です
△はタイ記録です。

写真は1位でゴールした青学大のアンカー・小河原陽琉です。

「初詣は明治時代から始まった新しい習慣です」

2025年01月04日 | 日記・エッセイ・コラム
お正月の風物詩と言えば「初詣」でず。
お正月三が日には、たくさんの方が神社・お寺に行って、昨年の感謝を捧げるつつ、新年の無病息災や平安無事、新年の幸福などを祈願し、清々しい気分で新年を迎えます。
【神社】や【お寺】は歴史も古く長いため、「初詣」の風習も同じぐらいの歴史がありそうですが、実は「初詣」が誕生したのは明治時代以降と、近代に誕生した風習なのです。
しかし現在は「初詣」は日本の伝統行事としてすっかり定着しています。
私は初めて知りました。
写真は亀戸天神の本殿です。



「年末にあたり宗教心のことを改めて考える」

2024年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は宗教のことを少し書くことにします。さて宗教心とは何でしょうか?
年末にあたり宗教のことを考えていました。宗教心すなわち信仰心のことです。
1番目の写真はクリスマスイブのカトリック小金井教会です。
さて宗教を信じることを信仰心すなわち宗教心と定義してみましょう。信仰心と宗教心は同義語と定義します。
すると宗教とは何かという問題が出てきます。神道も仏教もキリスト教もイスラム教もみな宗教です。
ですからこれらの宗教を信じれば宗教心があると言えます。
しかし宗教を信じない人でも亡くなった父母を時々思い出して、自分を守ってくれていると思うことがあります。
あるいは、年末に先祖代々のお墓の掃除をして線香を上げて手を合わせます。するとご先祖さまが自分の家内安全を守ってくれているような気がします。何時もは忘れているご先祖さまを身近に感じ、自分達の幸せを守ってくれるように感じます。
これが人間が原始時代から持っている宗教心と言えます。
原始的な宗教心は先祖への崇拝の気持ちだけではありません。巨木や山や高い滝に対して神秘的な力を感じ、それらに自分の健康と幸せを祈る気持ちが自然に湧いてきます。これも宗教心です。
そして原始人が火を使い始めると同時に火の不思議な力に感動します。そして火そのものを祈りの対象にする人々も現れます。
そして太陽を信仰する原始宗教もあります。
このような原始的な宗教心は現在でも私達の宗教心の見えない土台として重要な役割を果たしていると私は考えています。

これらの原始的な宗教心は現在でも非常に大切だというのが今日の私の主張なのです。
そして私はこの原始的な宗教心を土台として日本人は神道や仏教やキリスト教を信じていると考えています。
さて原始的な宗教に対して仏教やキリスト教やイスラム教を高等宗教と言う場合があります。
原始宗教と高等宗教の違いは体系的な教えがあるか否かによって分類出来ます。
仏教やキリスト教やイスラム教には体系的に書かれてた教義があります。それに対していろいろな原始的な宗教には体系だった教義がありません。
このように書くと原始宗教と高等宗教ははっきりと分けられそうです。
しかし人間は一般的に原始宗教と高等宗教の両方を信じていることがあるのです。
例は四国のお遍路さんの信仰心です。お遍路道を苦しい思いをして歩く時に「同行二人」と信じて苦しさを忘れて歩き通します。弘法大師さまが自分と一緒に歩いて下さっているから頑張れるのです。
このように信じることはご先祖さまが生きていて常に子孫を守っているという信仰と似ています。
そこにはお釈迦様の教えより弘法大師さまが重要な役割をしているようです。
弘法大師さまが生きていて自分とお遍路道を一緒に歩いて下さっているという信じ方は何か原始宗教的な信じ方です。
このような信仰心のあり方はキリスト教にもあります。イエス様が何時も自分と一緒に居て下さっているという信じかたです。
そして最後の晩餐でパンを割き、弟子たちにこれを自分の肉体の記念として食べなさいと手渡したのです。ブドウ酒をイエス様の血として飲みなさいと言って弟子たちに飲ませたのです。
カトリックやロシア正教のミサや礼拝ではこの最後の晩餐と同じことを行います。
小さなパン片を信者一人一人に神父様が「イエスの体」と言って食べさせます。信者はパンの一片をイエス様の肉体の一部として食べるのです。
葡萄酒をイエスさまの血として飲むのです。このような信じ方はあまりにも原始的です。
しかし私はそれを信じます。パンの一片をイエス様の肉体の一部として食べるのです。
このように高等宗教の実際の信仰のあり方に原始宗教的な信仰が混在しているのです。
宗教改革以後に生まれたプロテスタントの諸宗派はこのような原始的な信仰を嫌います。ですから小さなパン片を信者一人一人に神父様が「イエスの体」と言って食べさせる儀式はしませません。

今日は人間の宗教心に関することを少し書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「美しい雪景色を懐かしむ、そして『雪の降るまちを』」

2024年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
東京の冬は寒い晴天の日が続き雪が降りません。北国の東北で育った私にとって雪景色の無い冬は何か物足りない淋しいものです。
しかし震災津波の災害に遭われた能登の方々の苦難はいかばかりでしょうか。
雪景色の写真を探し、その中から写真を選んでお送りします。
写真の出典は、「北陸の冬の絶景を紹介」、https://www.jre-travel.com/article/00275/ です。
1番目の写真は富山の市街地から眺める真っ白な北アルプス です。
2番目の写真は富士山(静岡県、山梨県)、立山(富山県)と並び日本三名山に選ばれている白山 です。
 
3番目の写真は相倉合掌造り集落 です。世界遺産に登録され、四季折々の表情を見られることで知られています。 

4番目の写真は立山黒部アルペンルートです。富山県と長野県にまたがる山岳観光ルートです。3,000m級の北アルプスの山々を背景にした広大な絶景ルートです。 

私は北陸と同じように雪降りの多かった東北地方に住んでいました。
その東北地方に住んでいた頃、「雪の降るまちを」という歌謡曲が流行っていました。ですから雪景色の写真を見ると「雪の降るまちを」という歌を必ず思い出すのです。

「雪の降るまちを」は1952年にヒットした内村直也作詞、中田喜直作曲の歌でした。この曲は1951年にNHKラジオで放送された連続劇「えり子とともに」と一緒に放送されていました。

「雪の降る町を」の歌詞です。

雪の降る町を 雪の降る町を
思い出だけが 通りすぎてゆく
雪の降る町を遠い国から落ちてくる
この思い出を この思い出を
いつの日にか 包まん
あたたかきしあわせのほほえみ

雪の降る町を 雪の降る町を
足音だけが 追いかけてゆく
雪の降る町をひとり心に満ちてくる
この悲しみを この悲しみを
いつの日か ほぐさん
緑なす春の日の そよかぜ

雪の降る町を 雪の降る町を
息吹きと共に こみあげてくる
雪の降る町を 誰もわからぬわが心
このむなしさを このむなしさを
いつの日か 祈らん
新しき光ふる 鐘の音

この歌のYou Tube は以下にあります。
シャンゾン歌手の高英男、「雪のふるまちを」、https://www.youtube.com/watch?v=E3FjPLr8wMg

倍賞千恵子、「雪の降る町を」、 https://www.youtube.com/watch?v=tbk5shjbc-Q

雪の降る町を ダーク・ダックス、https://www.youtube.com/watch?v=_-53iLSJWfU

それにしても東京はめったに雪が降りません。しかし雪景色が懐かしいです。雪の積もった風景には詩情がありますね。ですから「雪の降るまちを」という歌謡曲を思い出すのでしょう。皆様はこの歌を覚えていらっしゃいますか?高齢の方は覚えていると思います。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「豪雪の南魚沼市と『北越雪譜』」

2024年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
鈴木牧之が江戸時代に出版した「北越雪譜」という本の愛読者は多いと思います。豪雪の地の人々の冬の生活を活き活きと描いた名著です。
この鈴木牧之の記念館は新潟県、南魚沼市の塩沢にあります。「北越雪譜」に感動した私は以前に関越自動車道を走って湯沢を通って、南魚沼市の塩沢の鈴木牧之記念館を訪れました。暑い夏のことでした。牧之が使用していた文房具等々が展示され、筆の跡も鮮やかな原稿を見ることが出来て親近感を覚えました。

塩沢町は2005年に南魚沼市に編入合併しました。周囲を2,000m級の山々に囲まれ冬は豪雪になります。塩沢産・魚沼コシヒカリとスキー場も有名です。
今日は曾遊の豪雪の南魚沼市の写真と『北越節譜』の内容をご紹介したいと思います。4枚の写真の出典は、https://rtrp.jp/articles/102823/ です。
1番目の写真はの南魚沼市スキー場のホテル街の夜景です。夕焼けが残っています。
2番目の写真は南魚沼市の上越国際スキー場わきの霧氷です。市内に10のスキー場があります。降雪量が多いので低温となりパウダースノーも楽しめます。
3番目の写真は奈良時代からある禅寺・雲洞庵の山門です。冬になると雪が積もり神秘的になります。樹齢300年以上の杉の木が並ぶ境内は厳かな雰囲気があります。
4番目の写真は複合施設の「里山十帖」の山々を見渡せる絶景露天風呂です。

さて「北越雪譜」という本の内容です。雪国の人々の冬の暮らしぶりが描かれた本です。
以下は冒頭の文章です。
・・・・今年も又此雪中(このゆきのなか)に在る事かと雪を悲(かなしむ)は辺郷の寒国に生たる不幸といふべし。・・・・

この一行の文章は、現在でも雪の深い地方に住んでいる日本人の思いなのです。雪に閉じ込められて買い物にも行けない日々が続くのです。
鈴木牧之の「北越雪譜」という本のおかげで雪国の生活を体験したような気分になります。雪景色の写真を見ると美しいと感動するだけでなく悲しい気分にもなるのです。
それにしても純白の雪の世界は美しいものです。

下に鈴木牧之と「北越雪譜」の簡単な紹介いたします。
http://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/kokugo-hokuetsuseppu79.html より転載しました。

著者の鈴木牧之の生れた南魚沼郡は、東南に波濤のごとき高山が連なり、大小の河川が縦横に走り、地相的に見て“陰気”の充満した山間の村落であった。初雪は九月の末か十月の初めに降り、しかも一昼夜に六、七尺から一丈(約一・八~三メートル)に達する。

「されば暖国の人のごとく初雪を観て吟詠遊興のたのしみは夢にもしらず、今年も又此雪中(このゆきのなか)に在る事かと雪を悲(かなしむ)は辺郷の寒国に生(うまれ)たる不幸といふべし。雪を観て楽む人の繁花(はんくわ)の暖地に生たる天幸を羨(うらやま)ざらんや」

彼はまず、雪が北国人にとっては生活上のハンディキャップであり、レジャーの対象ではありえないことを、くどいほど強調している。江戸では雪見の船とか雪の茶の湯を楽しんでるいるが、自分たちは雪の降るまえに大急ぎで屋根を繕い、梁(うつばり)や柱を補強し、庭木は雪折れせぬよう手当てをほどこし、井戸には小屋をかけ、厠(かわや)も雪中に汲(く)み出せるよう準備せねばならない。食物も、野菜の保存にはとりわけ苦心する。凍るのを防ぐため、土中に埋めたり、わらに包んで桶(おけ)に入れたりする。「其外(そのほか)雪の用意に種々の造作をなす事筆に尽しがたし」

現在とちがって、建物が平屋建てで窓ガラスもなかったころの雪ごもりは、想像もつかぬほど陰鬱なものでした。雪が屋根の高さにまで達すると、明りがとれないので、昼も暗夜のごとく、灯火を必要とします。「漸(やうやく)雪の止(やみ)たる時、雪を掘りて僅(わづか)に小窗(こまど)をひらき明(あかり)をひく時は、光明赫奕(かくやく)たる仏の国に生れたるこ>ちなり」

鳥や獣も、冬期には食物が得られないのを知り、暖かい地方へ移っていくが、人間と熊だけは雪の中にこもっている。「熊胆(くまのゐ)は越後を上品とす、雪中の熊胆はことさらに価貴(あたひたつと)し」というわけで、出羽あたりの猟師たちが熊捕(くまとり)にやってくる。その方法がおもしろい。まず、熊の呼吸穴を見つける。雪が細い管のように溶けたものだ。猟師がこの穴から木の枝や柴(しば)のたぐいを挿(さ)し入れると、熊が引っぱりこむ。何度もくりかえすうちに、自分の居場所が狭くなって、熊が穴の入り口に出てくるところを槍で突き殺す。もう一つは「圧(おし)」といって、穴の前に棚をつくり、その上に大石をのせておいてから熊を燻(いぶ)り出し、怒ってとび出す瞬間、石を落として殺すという方法もあった。

もっとも、このようなことは他国者がやることで、地元の農民たちは熊を殺すと山が荒れると信じて、手を出さなかった。ましてや、雪中に遭難した人間が、熊に助けられたという話も伝わっているからには、なおのことである。牧之は八十二歳の老人から聞いた話として、この老人が若いとき雪の中で道に迷い、熊の穴にまぎれこんで凍死を免れたということを記している。そのとき熊は、闖入(ちんにゅう)した男に暖かい居場所を譲ったうえ、おのれの掌(てのひら)をさし出して嘗(な)めろという仕草をした。男は熊がアリを食べるということを思い出し、おそるおそる嘗めてみると、甘くて少々にがく、大いにのどをうるおした。

けっきょく熊と四十九日間の同居したが、ある日熊に促されて穴を出ると、人家のある方へと案内された。男がようやく我が家へ帰りつくと、両親が法事を営んでいる最中だったという。

以下省略しますが北越雪譜 - 青空文庫は、https://www.aozora.gr.jp/cards/001930/files/58401_70229.html に出ています。この中には雪国の珍しい話や不思議なことが沢山書いてあります。
江戸時代の雪国の生活が客観的に、そして具体的に活写されているので記録映画を見ているような気分になります。文化人類学の本のようでもあります。
私はこんな本が江戸時代に出版されたことに驚いています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「北国の小樽の雪景色と『蟹工船』」 

2024年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
曾遊の地とはかつて遊んだ土地という意味です。意味は単純ですがこの言い方は何故か文学の香りがします。
例えば岩手県の大船渡市には「石川啄木曾遊之地碑」というものがあり有名な観光名所になっています。
石川啄木は明治45年(1912年)に26歳の若さで死にました。啄木の妻節子、父一禎、友人の若山牧水に看取られました。肺結核でした。
石川啄木の死後、数々の作品が刊行され彼の文学作品の評価が非常に高まったのです。
次の詩は有名です。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣ぬれて
 蟹とたはむる

この詩はとても長いのです。そしてこんなところもあります。

ダイナモの
重き唸りのここちよさよ
 あはれこのごとく物を言はまし

ダイナモは「直流発電機」のことです。この詩の全文は、https://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/816_15786.html にあります。

さて話はそれましたが今日から「曾遊の地の雪景色」と題する連載を始めたいと思います。
私があちこち旅をした土地の雪景色の写真をお送りしようという企画です。
方々へ旅行をしましたが寒がりやの私は雪の無い季節だけを選んで旅をしたのです。
そこでその曾遊の地の雪景色の写真を調べ、見つけて編集したのです。
第一回目は何度か訪れた小樽にしました。小樽は運河の町です。小林多喜二が「蟹工船」を書いた町です。暗く美しい町でした。
その雪景色の写真をお送りします。全ての写真の出典は、https://ovo.kyodo.co.jp/news/life/travel-news/a-1397278 です。
小樽では小林多喜二が行っていた寿司屋に行きました。多喜二の本が沢山積まれていました。そこで「蟹工船」を思い出していました。
「蟹工船」の冒頭です。
「おい地獄さ行えぐんだで!」
 二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛が背のびをしたように延びて、海を抱かかえ込んでいる函館の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。
巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹サイドをすれずれに落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。

 赤い太鼓腹を巾広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖をグイと引張られてでもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫むしのように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。
風の工合で煙が波とすれずれになびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接に響いてきた。

 この蟹工船、博光丸のすぐ手前に、ペンキの剥はげた帆船が、へさきの牛の鼻穴のようなところから、錨の鎖を下していた、甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。

続きは、https://www.aozora.gr.jp/cards/000156/files/1465_16805.html にあります。

小林多喜二は30歳の若さで死にました。秋田県の農家に1903年に生まれ、北海道小樽で育ちました。「蟹工船」などの作品により、日本のプロレタリア文学運動を代表する作家となったのです。1933年、地下活動中に逮捕され、東京・築地署で拷問により殺されました。

今日は北国の小樽の雪景色の写真を掲載し、小林多喜二の『蟹工船』をご紹介いたしました。。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「師走とお正月の花々の写真」

2024年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム
師走やお正月の季節の野山は寒すぎて花々がありません。それでも寒さにめげず屋外に咲いている花があります。師走のロウバイと水仙の花、そしてセンリョウ(仙蓼/千両)やマンリョウ(万両)があります。
年が明けるとマンサク、サンシュユ、紅梅白梅が咲きます。その上、栽培種の西洋サクラソウやパンジーやシクラメンが花屋の店先を華やかにします。

今日はこれら師走とお正月の花々の中から紅梅の花、ロウバイ、水仙、ヒイラギモクセイ、センリョウそして西洋サクラソウの写真をお送りいたします。
1番目の写真はロウバイの花です。写真の出典は、https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000407.000022856.html です。
2番目の写真は紅梅の花です。写真の出典は、https://www.kantoko.com/?p=1259 です。
3番目の写真は水仙の花です。写真の出典は、https://madamn.exblog.jp/iv/detail/?s=21210139&i=201312%2F21%2F30%2Fc0222430_13311273.jpg です。
スイセンの名所として全国にあります。あまりにも数が多いので、「全国 水仙の名所 一覧表」のURLのみを以下に示します。それは、http://hananomeisyo.sakura.ne.jp/suisen-meisyo.htm です。
4番目の写真はヒイラギモクセイです。写真の出典は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AE です。
ヒイラギ(柊・疼木)はモクセイ科の常緑樹です。葉の縁の刺に触るとヒリヒリと痛むことから、「ヒリヒリと痛む」という古語の動詞が名前になったそうです。
5番目の写真はセンリョウです。写真の出典は、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%A7%E3%82%A6 です。センリョウ(仙蓼/千両)は冬に赤い果実をつけ美しいので栽培され、特に名前がめでたいのでマンリョウ(万両)などとともに正月の縁起物とされています。
6番目の写真は西洋サクラソウの「湖畔の夢」という品種です。この新種の西洋サクラソウはオランダの新種の花の祭典、フロリアード2012へ出展し、金賞一席と特別賞を受賞したのです。「湖畔の夢」は石塚健壽さんがつくりました。
7番目の写真は温室の中に一面に咲いている西洋サクラソウです。隣町の小平市の石塚園芸の温室です。
この石塚園芸へは何度も行っているうちにご主人の石塚健壽さんとは親しくなりました。
彼はいろいろな意味で感動的な花の栽培家だったのです。精魂こめて交配し20種の西洋サクラソウの新種を作ったのです。
石塚健壽さんによるとこんなに沢山ある西洋サクラソウが1月になるとアッと言う間に売れてしまうそうです。

嗚呼。今年もお正月がやって来るのだなと、時の流れの速さに驚きます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「東京の歳の市は浅草の羽子板市」

2024年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年、12月の17日、18日、19日の3日間、台東区の浅草寺(観音様)の境内で羽子板市が開かれます。 これが東京の歳の市なのです。
(https://www.asakusa-toshinoichi.com )
浅草寺の歳の市の歴史を紹介致します。
浅草寺の羽子板市は、江戸時代に歳の市で歌舞伎役者の顔が装飾された羽子板が売られたのが始まりとされています。 江戸時代から大正時代にかけて、子どものいる家庭に年末の贈り物として羽子板を贈る習慣がありました。
正月用の歳の市といえば江戸中期頃までは、浅草に限られていました。浅草寺のご縁日は毎月18日であり、17日18日両日は歳の最後の縁日として観音詣の日です。

そういえば家内も豪華な飾り羽子板を持っています。
写真は浅草寺の羽子板市です。


「師走の風物詩「歳の市」」

2024年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム
師走になると全国の町々に「歳の市」が開かれお正月用品がいろいろ売っています。この頃はスーパーマーケットにお正月用品のコーナーが出来て色鮮やかな一角になっています。何故か心が楽しくなりお正月になるのが待ちどうしくなります。お節料理の材料を買って台所が忙しくなります。
今日は松本市の縄手町の「歳の市」の風景の写真をお送り致します。
1番目の写真は松本市の縄手町です。いろいろな商品が並んでいて楽し気な商店街です。師走になるとここに「歳の市」がたちます。
2番目の写真は玄関などに飾る注連縄です、。

3番目の写真はいろいろなお正月用品を売っている光景です。
4番目の写真は神社の入り口に並べて売っているお正月用品です。
さて皆様の地方の「歳の市」はどんな光景でしょうか。私は今日スーパーの「歳の市」に門松などを買いに行きます。

今日は松本市の縄手町の「歳の市」の風景の写真をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「お正月と百人一首」

2024年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム
お正月になると百人一首のかるたを出して遊びます。我が家では以前に妻が百人一首のかるたを出して遊んでいました。最近は聞きませんが百人一首が懐かしいです。お正月の風物詩の一つです。
懐かしいので以下に掲載いたしました。
 
1. 秋(あき)の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)を荒みわがころも手は露に濡れつつ(後撰集 秋 302)    天智天皇(てんぢてんのう 626~672 第38代天皇)

2. 春(はる)すぎて夏来にけらし白たへのころもほすてふあまの香具山(新古今集 夏 175)    持統天皇(じとうてんのう 645~702 第41代天皇 天智天皇の皇女 天武天皇の皇后)

3. あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む(拾遺集 恋 778)    柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ 生没年不詳 万葉集の代表的な宮廷歌人 人丸とも 三十六歌仙)

4. 田子(たご)の浦にうちいでて見れば白たへの富士の高嶺に雪は降りつつ(新古今集 冬 675)    山部赤人(やまべのあかひと 生没年不詳 万葉集の代表的な宮廷歌人 三十六歌仙)

5. 奥(おく)山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき(古今集 秋 215)    猿丸太夫(生没年不詳 奈良~平安初期(?)の伝説的人物 三十六歌仙)

6. かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける(新古今集 冬 620)    中納言家持(大伴家持 おおとものやかもち 718~785 旅人の子 万葉集の撰者)
7. あまの原ふりさけ見ればかすがなる三笠の山にいでし月かも(古今集 覊旅 406)    安倍仲麻呂(あべのなかまろ 698~770 遣唐留学生 唐の役人となり唐土で生涯を終えた)

8. わが庵(いほ)は都のたつみしかぞ住む世を宇治山と人はいふなり(古今集 雑 983)    喜撰法師(きせん 宇治山の僧とされる伝説的な歌人 六歌仙の一人)

9. 花(はな)の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに(古今集 春 113)    小野小町(六歌仙・三十六歌仙の一人 伝説的な美女とされてきた 各地に伝説が残る)

10. これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関(後撰集 雑 1089)    蝉丸(せみまる 生没年不詳 琵琶の名手とされる平安初期の伝説的人物 逢坂山に住んだという)

そして最後の」100首目は、100.ももしきや古き軒ばの忍ぶにもなほあまりある昔なりけり(続後撰集 雑 1205)
    順徳院(1197~1242 第84代天皇 承久の変で佐渡に遷る)

百人一首とは今から約730年もの昔、鎌倉時代の歌人である藤原定家がまとめたものです。 藤原定家が京都嵯峨の小倉山の別荘で屏風(襖)に書き写したことから小倉百人一首と呼ばれています。
 小倉百人一首はすべて「古今集」や「新古今集」などの「勅撰和歌集」から集められています。 
百人一首の歴史は「かるた」から始まると言われていますが、カルタの始まりは平安時代に遊ばれていた「貝合わせ」というものだと言われています。
「貝合わせ」とは、二枚貝をふたつに分けて、その片方を探すといった単純な遊びですが、やがて宮廷の人々のあいだでは、貝に歌や絵を書いて遊ぶようになります。 

以上は、https://hyakunin.stardust31.com/ に掲載されている文献から抜粋しました。なお添付の写真はインターネットからお借りしました。

今日は小倉百人一首の冒頭の10首を紹介し、百人一首の歴史を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「ドイツでの凧揚げの思い出」

2024年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム
ドイツでの凧揚げの思い出です。
ドイツには1969年から1年余住んでいました。子供がいたので凧揚げをしました。その凧は洋凧の「ゲイラカイト」でした。

それまで当然だと思っていた和凧の四角とは異なる三角の形状でした。
このゲイラカイト、とにかく飛んだのです。日本の凧はなんだったのかと思うほど、圧倒的な飛行力を持っていたのです。

ビニールとプラスチックのフレームという軽量なボディは、ひとたび風をつかむと、あっという間に雲に届くほど飛び上がりました。
写真は「ゲイラカイト」の写真です。
 

「凧揚げの歴史」

2024年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム
凧揚げの歴史については、https://kitediy.com/?p=469 に実に詳しい解説が掲載されています。
その冒頭だけを以下に示します。

「凧が発明された時期ははっきりしていないが、紀元前の中国書物「事物紀源」に「韓信が凧を使って相手の城までの距離を測り、トンネルを掘って侵入して相手を攻め落とした」とあり、この頃には既に凧が存在したことが分かる。

いずれにしても、凧の発祥の地は中国であることが定説となっており、それが日本や欧州や米国にまで伝えられ、それぞれの特徴ある発展を遂げた。

日本には、中国から直接渡来したもの、沖縄を経由してもたらされたもの、朝鮮半島を経由して伝わったものなどがある。

代表的な日本の凧といえば、四角形の江戸凧であり、江戸を中心に発達し、庶民の遊びとして定着していた。」

写真は和凧です。
 

「私のゴッドファーザーの思い出」

2024年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム
映画の『ゴッドファーザー』は、1972年に公開されたアメリカ映画です。監督はフランシス・フォード・コッポラでした。
家族の愛と絆、義理と人情、忠誠と裏切り、金と権力などが交錯するなかで揺れ動く人生の機微や人間社会の模様をイタリア系移民の裏社会を通して描き出した映画でした。私は映画に描かれた愛と人間の絆に感動しました。
当時多くの日本人もこの映画を絶賛していました。私の忘れえない映画です。
それ以来、ゴッドファーザーという言葉を知りました。

そこで今日はカトリック宗派におけるゴッドファザーと神父の役割について具体的な実例を用いて説明しようと思います。
ゴッドファザーは日本語では代父と言います。男性が洗礼を受ける時の付添人であり洗礼の証人でもあります。女性が洗礼を受ける場合はゴッドマザー、代母が付添います。
1971年に私は洗礼を受けました。カトリック立川教会の塚本金明神父さまから受けました。そのときの代父、ゴッドファーザーは山本大二郎氏でした。
山本氏は東京のある大学の教授をしていた化学者でした。多くの専門書を書かれた学者でした。
この代父の山本氏の趣味は奥多摩の花の写真を撮ることでした。その写真を毎年、年賀状につけて送ってくださっていました。山本氏が1982年に講談社から出版した「奥多摩の花」という本の表紙を示します。
1番目の写真は山本氏の「奥多摩の花」という本の表紙です。
偶然のことですが山本大二郎氏のご子息の山本量太郎氏が2000年に私どもの小金井教会の主任司祭として着任なさったのです。
山本量太郎神父さまは2010年まで10年間、小金井教会の主任司祭をして、その後はカトリック関口教会の主任司祭になりました。現在は成城教会の司祭です。
その彼が2015年の11月23日の小金井教会40周年記念ミサに来てくださったのです。

2番目の写真は聖なるパンを信者に渡してる山本量太郎神父さまです。

3番目の写真は関口教会で山本神父司式によるある結婚式の写真です。

4番目の写真はカトリック成城教会です。
私どもは2019年の10月13日に成城教会の山本量太郎司祭のミサに参加しました。
山本神父はお茶目で親しみやすい神父でした。以下のお言葉をご覧下さい。

・・・ところで私は、司祭になって今年で38年になります。区切りとなるような年数には達していませんが、それでも自分の叙階記念日がやってくると、司祭にしていただいた日のことを思い出します。1977年11月3日、文化の日、その日は確か木曜日でしたが、私はここ東京カテドラルの大聖堂で白柳大司教さま(当時)から、岩崎尚師(故人)、門馬邦男師とともに司祭に叙階されました。そして、三日後の日曜日、出身教会の立川教会で初ミサがあり、お祝いの席には、その前年まで立川教会の主任司祭を長く務められた塚本金明神父さまも来てくださいました。
塚本神父さまからその時いただいたお言葉が今でも忘れられません。神父さまはこうおっしゃったのです。
「山本君、君は学生の頃、パチンコが大好きだったね。もしかしたら、自分でもうまいと思っていたのではないかな。でもね、パチンコが本当に上手だったのは神さまなんだよ。神さまは、君という玉をはじいて司祭という穴に見事入れたんだからね」。
その時は正直なところみんなの前で旧悪をあばくようなことを言わなくてもいいのにと思いましたが、年を経るほどにありがたさを強く感じるようになりました。・・・以下省略。

今日説明したかったことはカトリックの代父、ゴッドファーザーと神父の役割の重要性を指摘したかったのです。そして名作映画の題名の「ゴッドファーザー」の意味を説明したかったのです。
この代父、ゴッドファーザーと神父はプロテスタント系のキリスト教では重要視されていません。
ロシア正教やイギリスの聖公会のような伝統的な宗派では重要な存在なのです。
プロテスタント系の新しい宗派では神やキリストと人間との直接的な関係を重要視するのでゴッドファーザーや神父のような介在人を重要視しなのです。一言でキリスト教徒と言っても違いもあるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)