後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「パリの寸描、その哀歓(13)問題児の教育法と息子の飛び級」

2017年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。
第13回は問題児の息子の教育方法とその息子を飛び級させたフランスの学校の話です。
ここには日本の学校には無い問題児の暖かい扱い方が描かれています。しみじみと日本の学校の集団教育の欠陥がよく分かります。
そしてその問題児が優秀なので2学年も飛び級させるという驚くような提案を視学官がしたという興味深い話が書いてあります。
日本でも個性を伸ばす教育が叫ばれてから何年もたちましたが一向にその成果が見えて来ません。
今日の連載記事には個性教育の具体的な方法が書いてあります。そして問題児でも飛び級をさせるフランスの教育は日本の教育と根本的に違うようです。一読してお考え頂ければ幸いです。

===「パリの寸描、その哀歓(13)外国人クラスの問題児」Esu Kei著======
外国人クラスには13人の新入生が入ると聞いた。国籍は様々で、ベトナム、マルチニック、マリ、中国、ポルトガル、ドイツや他の国からきて、初めて学校に入る子ども達である。驚いたことに6歳から12歳という年齢だという。12歳と言うと普通に行けば中等学校に行っている年齢なのに、小学校で学ぶのだという。担任のアリワット先生は30代の後半くらいに見える。美しく、理知的で、優しそうな、信頼できる先生だ。それにしてもそれぞれの年齢に合わせて13人もの子供を一年で普通クラスにはいれるように指導するのはさぞ大変なことだろう。クリスマス休みの前にはいろいろなことが分かってきた。びっくりしたことに、このクラスで一番の問題児はどうやら我が息子のようだ。
ある朝、息子を学校に送って行く途中で先生に出会ったときに、呼び止められてこう言われた。「サトルはちょっと難しいところがあります。彼がとても理解の良いことは分かっているのですが…文化の違いなのか、彼の性格なのか?今日、帰りにちょっとお母さんとお話しできますか?」これは困った。幼稚園の時は楽しそうに見えたのに...どういうことなのだろう。何か対策を立てなければいけないだろうか?昼食に帰ってきた夫に話すと、「時間がたてば慣れるよ」と簡単に言う。
夕方迎えに行くと、コンシエルジュが「マダム・エスは教室に上がってください。」というので、2階に上がっていった。アリワット先生が待っていてすぐに話し始めた。「ちょっと適応の問題があるのです。サトルはどうやら一人でいるのが好きなようなのです。(私たちが話している間彼は中庭で一人で遊んでいる。)昼休みの後教室に入るのを渋ったり、教室でも、分かっていても指名されると答えないのです。このクラスは国籍も年齢もちがう子ども達が13人ですから、時間がいくらあっても足りません。正直に言えばサトル一人にあまり時間を取られると、ほかの生徒に教える時間が足りなくなるのです。」私は自分の躾の至らなさを思い知らされた。「それで、私は彼が中庭で遊んでいたい時は無理に教室に入れないことにしました。暫くすると彼は教室に帰ってきます。教室でも他の生徒の邪魔をすることはなく、消しゴムや、筆箱で遊んでいます。不思議なことに勉強が遅れているようには見えません。」「私も今日お話を聞いて困惑しています。彼にどう話せばいいのか...」「彼は自由を愛しているのかもしれません。それで、私から2つの提案をします。明日から、彼に絵を描く紙と、色鉛筆かなにかを持たせてください。それから、算数は2年生のワークブックをお母さんに渡しておきます。宿題ではないので無理強いはしないで、彼の気が向けばお家で勉強するのもいいと思います。慣れるのに時間がかかっているだけかもしれないので、しばらく様子を見ましょう。子どもを幼稚園に迎えに行かなければならないので、これで...」と私に算数のワークブックを渡して、先生はあっさりと帰って行かれた。
我が子が問題児らしいことは分かった。ちょっとしたショックである。家では4歳違いの次男の方に注意が向いていて、あまり深く考えることがなかった。それに数年すれば日本に帰るので、学校の勉強のことに重きを置いたことがなかった。日本語を大切にということに気を使っている。毎晩本を読んでやるということが我が家での勉強だった。長男は確かにひとりで遊んでいるのが好きで、誰にも邪魔されなければそれが一番いいように見えた。学校でもそうしたいのだろうか。幼稚園の先生からは何も問題がないように聞いていたが、遊びが主な活動だったからなのだろうか。
翌日から彼はスケッチブックとクレヨンをもって登校するようになった。驚いたことに一日で一冊のスケッチブックを使い切ってしまう。ヨーロッパでは文房具や、紙類は大変値段が高い。こんなことが続くのだろうかと思っていたら、間もなく先生から「スケッチブックはもったいないので、何でもいいのです。ご両親が使う紙の裏とか、なにかあるでしょう?」と言われ、夫の使う紙の裏を使わせることにした。彼は絵を描いていていいと言われると一日中でも描いているらしい。ノートには一応フランス語が書いてあるから多少の勉強はしてはいるのだろう。一度だけ、しっかりノートに字を書いてきたことがあった。それは学校で先生がケーキを焼いてくださったときに、その作り方を日本語で書いたのだった。彼は日本語の読み書きは、5歳を過ぎた頃からできていたから、そのくらいのことはできるようだった。フランス語で書き取ることは難しかったのだろう。先生は、外国人クラスの子ども達が、語学の遅れから学校生活を楽しめなくなることがあってはならないと、時々給食室の隣のキッチンでお菓子を作って楽しませてくださっているようだった。素晴らしい先生だ。
長男は学校は好きなのだと思う。家の近くの公園でよく出会うクラスの子どもたちもいつも親しげに話しかけてくる。屈託なく、無邪気な仲間と言う感じだ。それでも彼はクラスに馴染めないのだろうか。
 算数のワークブックはどうなったか? 彼には2年生用ので良いと先生は言われる。無理強いすることはありませんとも。1学年が終われば2年生になるのだから、その時にやってもいいわけである、と私は解釈した。色刷りのきれいな数十頁のワークブックである。計算、文章問題、n進法の基礎、などである。フランスでは算数だけは国で進度が厳密に決められているそうで、他は先生の自由裁量に任される部分が多いと聞いている。家で見ていると、やはり文章で書かれた応用問題は単語の知識がないために時々分からないようだ。n進法は十進法と同じように息子にとっては苦にならないらしい。一週間もすると飽きたらしく算数はもういいという。応用問題のためばかりでなく、フランス語の単語を覚えるコツとして、想像力を使うと派生語の意味が分かるようになる(単語の親戚を探すという言葉を使って教えた) と教えた。どうなることやらと思っていたところ、 3学期の後半になって、先生に言われて週に何回か算数の時間だけ2年生の教室に行くようになったという。
 
 こうして1学年が終わり、進級審査のテストがあり、外国人クラスの生徒たちは新学期にどの学年に入るのがふさわしいかを決める。この審査は担任教師がするのではなく、市の視学官が担当する。アリワット先生は彼が飛び級することも考えて2年生のワークブックをくださったのだとこの時知った。結局数ページ勉強しただけで終わってしまったが…ところが進級審査の結果は先生の予想を超えて、4年生相当というものだった。アリワット先生は、4年生でなく3年生にと担任としての意見を視学官に伝えたと話してくださった。フランス語が母国語でない場合は、年齢が進むにしたがって言語能力は差が出てくるので2年の飛び級はしない方がよいと判断されたとのことだった。「あなたやご主人のお考えはどうでしょうか? 4年生に飛ぶことをご希望でしたら話を戻して、視学官に異議申し立てをできます。」もちろん私達に異論はない。日本に帰れば年齢相当のクラスに戻るのだからフランスでの飛び級は意味があるとは思えない。フランスにいる間の学校生活が息子にとって楽しいものであることが大事なのだ。それにしてもアリワット先生は考えの深い方だった。外国人クラスで一番の問題児に手を焼いていると言っておられたのに、教室では絵を描いているだけのお客様だった息子の力をきちんと見ていてくださったのだ。感謝あるのみ。(続く)

今日の挿し絵代わりの写真は新印象派の代表的画家のポール・シニアックの絵画です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









===ポール・ヴィクトール・ジュール・シニャック=======
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF より抜粋。
ポール・ヴィクトール・ジュール・シニャック(Paul Victor Jules Signac, 1863年 - 1935年)は、19世紀~20世紀のフランスの画家。シニャックはジョルジュ・スーラと並ぶ新印象派の代表的画家であった。

シニャックは1863年、パリで生まれた。最初は建築を学んでいたが、18歳の時に絵画に転向した。1886年の第8回(つまり最後の)印象派展にスーラとともに出品している。この年の印象派展には、スーラの代表作『グランド・ジャット島の日曜日の午後』が出品されていた。シニャックはスーラから大きな影響を受けているが、シニャックの点描画は、筆触がスーラのそれよりも長く、2人の画風は微妙に異なっている。海を愛し、自らもヨットを操縦したシニャックは、当時まだひなびた漁村であったサントロペに居を構え、海辺や港の風景、ヨットなどを好んで描いた。
シニャックは、理論家タイプで無口なスーラとは対照的に話し好きで陽気な性格であった。気難しい性格だったフィンセント・ファン・ゴッホとも争いを起こす事もなく、アルルでの共同生活には応じなかったもののゴーギャンとの衝突の末に片耳を切った事件の直後には見舞いにも行っている。寡黙で自ら多く語らず、しかも短命だったスーラに代わり新印象派の理論を世に知らしめた点でもシニャックの功績は大きい。また、知人でモデルにもなったフェリックス・フェネオン(新印象派の命名者)と共に、シニャックは政治的には無政府主義者であった。

トランプ大統領とマスコミの対立と民主主義

2017年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ大統領は4月にホワイトハウスで開催される恒例のマスコミ界との懇談目的の食事会を欠席すると発表しました。このマスコミとの食事会はアメリカの伝統的な重要な行事で今迄大統領が欠席したことはありません。もっともレーガン大統領だけは暗殺未遂事件の怪我の療養中で欠席しましたが歴代の大統領は皆主賓として出席してきました。
その上、トランプ大統領は「マスコミは野党と考える」と公言し、マスコミとの対立を鮮明にしています。
トランプ大統領が特に敵のように考えているのはニューヨーク・タイムズとCNNテレビなどの大手マスコミ各社です。自分に好意的な報道をしてくれるマスコミ各社とは敵対していません。
この対立は昨年の選挙運動期間中を通してマスコミ界がトランプ氏は大統領にふさわしくないと報道し、そして当選するのはヒラリー・クリントン候補だと報道して来た時以来続いている対立です。
トランプ氏は落選するという誤報を1年間継続したのですから、当選したトランプ氏が怒るのも無理はありません。
そして当選後もアメリカのマスコミはトランプ大統領への批判的な報道を続行しています。
この結果、大統領とマスコミ界の敵対関係は益々激しくなる一方です。

このような敵対関係を眺めていると次のような疑問が湧いてきます。
(1)アメリカ人はマスコミの報道に踊らされないで、トランプ氏に投票したのです。これぞ本物の民主主義ではありませんか!
ひるがえって、これが日本の場合だったらどうでしょう?日本ではマスコミの言いなりになって投票したのではないでしょうか?
(2)従来、権力者の間違いを正し、民主主義を守るのはマスコミの崇高な使命と言われて来ました。
昨年の選挙運動期間中のマスコミの偏向報道と間違った当選者予想はこの崇高な使命から逸脱したもののようでした。
アメリカのマスコミの権威は地の落ちたのです。ますます多くのアメリカ人がマスコミを信用しなくなりました。
このような状態ではマスコミは本当に民主主義を守れるでしょうか?
(3)トランプ大統領がマスコミを敵にまわしても支持者が減る様子がありません。
アメリカは分裂したまま、トランプ政権は内政や外交を推し進めて、再び偉大なアメリカを作り上げることが出来るのでしょうか?そのようなことは可能なのでしょうか?

以上のような疑問が湧き上がってきます。
今日はこの3つの疑問に対する答えを考えてみましょう。

(1)マスコミに扇動されないで自分の判断で投票したアメリカ人はやはり偉いと思います。
一方すぐにマスコミの意見に左右される日本の状態に比較するとアメリカの民主主義は本物だと考えられます。アメリカの民主主義は草の根のような人々によって守られているのです。決してマスコミのエリート集団によって守られているのではないのです。
大統領とマスコミ界の敵対関係からこんな風景が見えてきます。

(2)アメリカのマスコミの大会社で働いている経営者も記者も大学でMBA(経営学修士)を取得したりジャーナリズム関連の学部を卒業したエリートたちです。彼等は従来、「権力者の間違いを正し、民主主義を守るのはマスコミの崇高な使命だ!」とアメリカ社会を指導して来たのです。その功績は決して小さなものではありませんでした。しかしそのエリートたち特有の偏見があったのかも知れません。
大学を卒業していない草の根のような人々の意見が理解出来なかったのです。あるいは教養が高く、しかも共和党保守派のような人々の頑なな人種差別的な意見を無視し過ぎたのかも知れません。
マスコミの権威は地の落ちたのです。アメリカのマスコミは民主主義を守るのはマスコミだけだという思い上がりを捨て、草の根の人々と共に協力して民主主義を守るべきです。
日本のマスコミにも民主主義を守るのはマスコミだけだという思い上がりが見られるのが危惧されます。例えば一時の朝日新聞がそうでした。

(3)トランプ大統領がマスコミを敵にまわしても支持者が減る様子がありません。再び偉大なアメリカを作り上げることが出来るのでしょうか?
偉大なアメリカを再び作れるかは疑問ですが、私はトランプ政権の構成を見てあまり心配していません。理由は2月22日の掲載記事の「トランプ外交の柱は軍事力とアメリカの強大な経済力」で詳しく書きました。
最近のテラーソン国務長官やマティス国防長官の北太平洋軍事条約機構の主要メンバー国の首脳との会談の様子を見ていると、意外にも従来の同盟関係を尊重し、慎重な態度で外交を進めているのです。その後、ペンス副大統領もヨーロッパを訪問し、各国の首脳と会談し、礼儀正しくアメリカの要求をゆっくり伝えたのです。
そして現職の陸軍中将のマクマスター氏を国家安全保障担当大統領補佐官に任命したのです。
海兵隊出身のマティス国防長官とこの陸軍中将のマクマスター国家安全保障担当大統領補佐官は軍人ながら古今東西の歴史を研究し教養の深い人として評価が高いのです。まずは非常識な政策を提案したり無理な戦略を進める恐れの無いように考えられます。
すこし心配なのはアメリカ合衆国首席戦略官・大統領上級顧問のスティーブン・バノン氏です。
しかし彼も成功した実業家です。右翼保守派で移民反対派の実業家です。メキシコの国境の壁の主張をし大統領令にさせた人物です。しかし彼は実業家です。無理を通せば損益になることを身をもって知っている筈です。ですからこそ極端な外交政策はとらないと考えられます。

トランプ大統領は言いたい放題のことをツイッターに書きますが、内政も外交も政権の閣僚に任せているので大きな間違いは起こらないと考えられます。
今後のアメリカは国内に先端技術の工場を囲い込み、アメリカの経済優位性を一段と明確になるでしょう。そして軍事力も先端技術を導入して世界最強の軍事大国になります。これこそがトランプ氏の主張している「アメリカを再び偉大な国にする!」ための具体的な方法なのです。

それにしてもオバマ大統領のリベラルな雰囲気が懐かしいです。彼が広島の原爆犠牲者の慰霊祭に出席した初めての現職大統領だったことは我々は決して忘れません。

今日の挿し絵代わりの写真は先日撮って来た花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「今日の日記、梅祭りの野点を楽しんで来ました」

2017年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム
午前中は教会のミサに行きました。
今日は府中郷土の森公園の梅祭りの日です。
風も無く陽射しの明るい午後でしたので、梅の花の下の野点を楽しんで来ました。
和服を着たお嬢さん達が梅の花の下に立っている姿は風情があって良かったです。家内も楽しんでいました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。









教養としてのキリスト教・・・謝肉祭、灰の水曜日、四旬節そして復活祭

2017年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム
欧米の人々は無宗教の人もいますが多くの人はキリスト教の影響を強く受けています。洗礼を受けて信者になっている人も多いです。
ですから欧米の文化や社会の背景にはキリスト教があると言えます。そして政治の世界も当然、キリスト教の影響を受けています。
従って欧米人と交流したり、いろいろな事業を協力しあって進めて行くためにはキリスト教のことを知っていると良いのです。ことが円滑に運ぶのです。欧米人に親しみを感じます。
そこで今日は間もなくやって来る復活祭(イースター)の前の謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、そして四旬節のことを簡単に説明致します。
時系列にしたがってやって来る順序は、謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、四旬節、そして最後の復活祭(イースター)という順序になります。
しかしそれぞれの宗教的な意味を説明するためにはこの順序を逆にして説明したほうが分かり易いのです。

復活祭 (イースター) は、十字架にかけられ死んだイエス様が3日目に蘇られたことを記念する、キリスト教の最も重要なお祝いの日です。クリスマスより重要とも言えます。
その復活祭の日の決め方は、「春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日」です。 この決め方に従うと2017年以降の復活祭は次の通りです。2017年4月16日 2018年4月1日 2019年4月21日 2020年4月12日 2021年4月4日 2022年4月17日になります。

復活祭前に節制した生活を送る準備期間を四旬節(40日間)と呼びます。40という数字は、イエス様が荒れ野で40日間断食をされたことに由来しています。それに倣って40日の間に断食をしたり節制したりする習慣が生まれたようです。
もう少し厳密に言うと、四旬節が始まるのは その直前の水曜日 、すなはち「灰の水曜日」 からです。
「灰の水曜日」という名前は、この日に司祭が灰で信者の額に十字の印をつけることに由来します。自分が灰のように消えてなくなるはかない者であることを認め、ただ神の慈しみによって生かしていただいていることを思い起こすのです。

灰の水曜日に用いる灰は、前の年の「枝の主日」に祝別されたシュロの枝を焼いて作られます。エルサレムにイエス様が入城した時に群衆が棕櫚の葉を手に持って打ち振り、歓迎しました。シュロの枝は勝利と歓喜の象徴として、凱旋の行列に用いられるといわれますが、イエス様がこれによって人間の栄華も歓喜も、灰のように塵になる儚いものであることを認識させられるのです。

さて謝肉祭はカーニバルとも呼ばれますが、これは分かり難い祭です。
断食をしたり節食をして静かに過ごす40日の四旬節に入る前に、思いっきり飽食をして仮装をして踊り狂います。この世の楽しみを思う存分してから40日間の静かな節制生活に突入するのです。
ですから有名な南米のリオのカーニバルも「灰の水曜日」の前日にピタリと止め、静かになります。

以上はカトリックの習慣です。しかし欧米では夏のバカンス以外の休日は、多くカトリックの習慣に従って決まっています。ですから謝肉祭(カーニバル)、灰の水曜日、そして四旬節、そして最後の復活祭(イースター)などは歳時記として欧米社会に定着しているのです。
それらは欧米社会の風物詩になっているのです。復活祭(イースター)はクリスマスと共に日本の俳句の季語にもなっています。

今日は灰の水曜日の直前の日曜日なのでこんなことを書いてみました。
今日の挿し絵代わりの写真は函館市のカトリック元町教会の写真です。函館に行く度に訪問した教会です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「今日の日記、春の花を買いに行きました」

2017年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム
まだ風は寒いのですが、陽射しが明るく光の春の日です。
午後から三鷹のJマートに花を買いに行きました。
ついでに店先の花々の写真を撮って来ました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。









川のように流れゆく老境の日々

2017年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様は毎日が早く過ぎ行くとお感じになりませんか?
クリスマスやお正月がアッという間に過ぎ、ロウバイや梅が咲き、二日たつともう弥生です。
老境の日々は川の水のように何事も無く静かに流れて行きます。
そんな想いにとらわれる時、無性に川の流れを見たくなります。長い時間、ただ川の流れを眺め、もの思いにふけるのです。
そして人生は川の流れのようなものだとしみじみ想うのです。
そんな折に必ずのように行く川の岸辺があります。相模湖の上流の桂川と鶴川の合流地の岸辺です。
中央高速道路を50Kmほど西に走り上野原インターを出るとその岸辺に車を入れることが出来ます。
先週、撮って来た写真で説明いたします。

1番目の写真は合流地点の鶴川の写真です。向こうの山の麓を富士五湖の山中湖から下って来た桂川が流ています。

2番目の写真は鶴川の川波の写真です。足元の流れを何時までも眺めています。寒くなったら車内に戻り、そこからまた川の流れを見ます。

3番目の写真は桂川の写真です。この500mほど下流で相模湖へ注いでいます。

4番目の写真は桂川と鶴川の合流点より500mほど下の相模湖の西端の写真です。

この岸辺は私の好きな場所で、もう何十年来訪ねています。広い川原に車を自由に駐車出来ます。その上、人影の無い静寂な場所なのです。
こんな静かな川辺の様子を書いているのは昨日下記のような少し面倒な記事を書いたからです。

・・・「協調主義を強要する教育の弊害(4)個性を消し独創性を抹殺する」2017年02月24日・・・
現在の我々の生活は非常に便利になり、そのお陰で余暇が生まれました。余暇があるといろいろな趣味が楽しめます。従って豊かな人生が送れるようになったのです。
生活を便利にする文明とは、蒸気機関の発明から始まって、自動車、飛行機、電信や電話、そしてラジオにテレビです。
そして現代ではコンピューターで手紙や写真をやり取り出来ます。そしてインターネットのお陰でブログを書いたりしています。そして『SNS』の『Face Book』などを通して世界中の人々と交流出来ます。私も毎日交流しています。
ここで考えてみるとこれらの蒸気機関、自動車、飛行機、電信や電話、そしてラジオにテレビに、コンピューターとインターネットは全て欧米人が発明したものです。
日本人は残念ながら何一つ発明していません。皆無です。
このように客観的に書くと感情的になって日本人は新幹線を発明したではないか!とか日本の自動車の品質は世界一だ!と主張する人が必ず現れます。しかしそれは独創性とは何のかかわりの無い技術者集団による改良技術の集積に過ぎないのです。
ですから日本人には独創性が無いと考えるのが自然な考え方です。はたして日本人は先天的に独創性が無いのでしょうか?
今日はこの問題を考えてみたいと思います。
結論を先に書けば、日本人にも本来は独創性があったが明治維新以後の富国強兵を目的にした集団行動重視の教育が独創性を抹殺したという問題提起なのです。そして西洋の科学技術を導入して軍事技術を強化していった社会体制が個人の独創性を必要としなかったのです。・・・以下省略・・・

このような物議をかもすような記事の後はしばし静かに休みたくなるものです。そこで今日は先週撮って来た冬の川の流れの写真を眺めています。
そして今日も、老境の日が川の水のように何事も無く静かに流れて行くように祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「協調主義を強要する教育の弊害(4)個性を消し独創性を抹殺する」

2017年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の我々の生活は非常に便利になり、そのお陰で余暇が生まれました。余暇があるといろいろな趣味が楽しめます。従って豊かな人生が送れるようになったのです。
生活を便利にする文明とは、蒸気機関の発明から始まって、自動車、飛行機、電信や電話、そしてラジオにテレビです。
そして現代ではコンピューターで手紙や写真をやり取り出来ます。そしてインターネットのお陰でブログを書いたりしています。そして『SNS』の『Face Book』などを通して世界中の人々と交流出来ます。私も毎日交流しています。

ここで考えてみるとこれらの蒸気機関、自動車、飛行機、電信や電話、そしてラジオにテレビに、コンピューターとインターネットは全て欧米人が発明したものです。
日本人は残念ながら何一つ発明していません。皆無です。
このように客観的に書くと感情的になって日本人は新幹線を発明したではないか!とか日本の自動車の品質は世界一だ!と主張する人が必ず現れます。しかしそれは独創性とは何のかかわりの無い技術者集団による改良技術の集積に過ぎないのです。

ですから日本人には独創性が無いと考えるのが自然な考え方です。はたして日本人は先天的に独創性が無いのでしょうか?
今日はこの問題を考えてみたいと思います。
結論を先に書けば、日本人にも本来は独創性があったが明治維新以後の富国強兵を目的にした集団行動重視の教育が独創性を抹殺したという問題提起なのです。そして西洋の科学技術を導入して軍事技術を強化していった社会体制が個人の独創性を必要としなかったのです。
そんな考え方を以下に記します。

私は日本人も本来、独創性を持っていたと信じています。例えば歌川 広重の浮世絵は非常に独創的だったのです。その独創性に感動したゴッホは広重の浮世絵を何枚も模写しているのです。

ところが現在の学校教育では先生が協調の重要性を教え生徒の集団行動を訓練します。それに着いて行けない生徒は先生に叱られ差別されます。
勿論、協調性は人間の社会生活を円滑にする大変重要なものです。ですからこそ入社面接では協調性を厳しく評価されるのです。
しかし小学校からあまりにも協調性を押し付ける教育をすると生徒は自分でものを考えないようになります。
先生の言う事に従ってさえいれば先生が喜びます。会社に入社しても上司の言うことをよく聞き、同僚と協調する人は出世が早いのです。
しかしこれでは個人の独創性は邪魔になります。こんな教育や社会なので日本人の独創性は育たないのです。
この様子を分かり易く書いた小文を以下に示します。イギリスに長年住んでいる石山 望さんが2017年02月18日にコメントとして送って下さったものです。
====石山 望著、「イギリス人と日本人」========
藤山杜人(後藤和弘)さんへ、

基本的に、日本人は、「自分の考え」を持つように教育されていないと思います。
学校でも(高校までならば)、先生の言われることを、金科玉条みたいに信じて、生徒は、質問すらしません。少なくとも私の行った公立学校ではそうでした。
ですから、日本人に「キミ、これについてどう思う?」と訊いても、「さあ〜」と首をかしげるばかり。または、「ーーーさんは、こう言っておられます」と先人の言を、引いてくるのが関の山。
日本によく「ーーー塾」とかいうのがありますね。この「ーーー」のところには、大抵、偉大な先人の名前が入ります。または、現存の人でもいいでしょう。とにかく立派な人です。それらの偉人の言われることをそのまま守っていけば、まず間違いがないという考え方ですね。
為政者には、こういう国民、実に御し易い。
尤も、あくまで一般論ですが、こういう日本人のあり方にも、勿論、いいところはあります。
極端に、「とんでもない」人が出てこないということです。
私が住む英国では、大抵の子供が、まるで小さな大人みたいに、はっきりと自分の意見を述べる代りに、中には「とんでもない」のがいます。
==========================
このようなイギリスの教育は日本に導入されにくいものです。
何故ならイギリスの教育はその社会と密接に関係しているからです。それは日本と同様です。
それではイギリスの社会とはどういう社会なのでしょう?イギリスに長年在住している男性の方からのコメントです。
====石山 望著、「イギリスの階級社会」===========
藤山杜人(後藤和弘)さんへ、 2017年02月20日

私、英国住まい。この国に、階級制度というものが、往時ほどではないにしろ、今もなお存在するということは、皆様ご存知ですよね。
どうして、そういうことになるのかということは、ここに一定期間お住みになれば、お分りになります。そんなに違和感はありません。
階級と言って、まあ、王族、貴族、上流、中流、一般、とあります。そのいずれも、さらに細分化されますが、私などは、一般にも属さない「その他」ですね。
それらの階級のどれを取っても、それに属する人は、階級固有の、話し方、考え方、価値観、教育、教養程度、と言ったものを持っておられます。したがって、ついておられる職業も違います。だいたい、顔つきが違います。
ですから、異階級間の人々では、違いがあまりに大きいので、「これだったら、お互い交わらないのも当然だわ」と、私は思います。
勿論、上の階級の人にも、嫌な面があります。一般の人にもあります。
私が、お目にかかることのできる、最高の階級の人は、いわゆる「中流」ですね。弁護士とか、公認会計士とかがそれらの人たちの典型的な職種です。
ただ、それら中流の人が、さらに上に行こうとされると、自分より下の人は、鼻から歯牙にもかけられませんから、非常に嫌な感じです。要するに、付き合って、自分の得にならないような人とは、付き合わない。
一度上流階級の人のパーテイに呼ばれていきましたが、実につまらなかった。
私など、相手にしてもらえない、それは、いいんですが、それらの人たちの物の考え方が、、。
=======================

さらにもう一つお送りします。イギリスに長く在住している日本の女性の方です。
===MionFさん著、「イギリスの階級社会」2017年02月17日=========
英国の階級社会って面白いんですよ。上は貴族のアッパークラスから下はご存知労働階級まではっきりと存在しますが、誰でも自分がどこに属するか正確に把握していて、しかも上のクラスをやっかんだりしないんです。これは本当に不思議な現象で説明するのが難しいんですが、個人主義が徹底しているので、としか申しようがありません。しかもイギリスのこういう不思議な現象には、イギリス人独自のユーモアのセンスも無視できない要因で、これまた住んでみてその独特なセンスが生活の隅々に入り込んで、それが個人個人の幸せと結びついていることがわかります。
Oxbridgeと家柄が結びつくのはせいぜい戦後のどさくさの頃までで、今はまったくありません。寧ろ今の問題と言うか特徴は、海外から超優秀な学生が押し寄せてくるため、イギリス国内で自分は優秀と思っていても果たして入れるのかどうかはふたを明けてみないとわからない、と言う点にあります。ドリアンさんがおっしゃる「家柄」で辟易してしまう学校というのは、日本の中高にあたるシニアスクールの名門校であるイートン、ハーロー、ウェストミンスターと言った男子のパブリックスクールかと思います。門戸はすべての学生(留学生含む)に開かれていますが、学費が高いですし、独特の校風もあります。大半が寮に入りますが、週末になるとカントリーの別荘に行く子がいっぱいいてそういう部類でないと浮く、惨めな思いをする、ということがありますので、学力的に入れても自分に合ってるかどうか、見極めが必要です。
==========================
以上のイギリスの階級社会の記述で重要な点はそれぞれの階級の人が「人は人、自分は自分」と自分の世界をしっかり持っていることです。これが個性の尊重につながります。そして自分の独自の考え方が独創性を育てているのです。
階級制のほとんど無いアメリカでも「人は人、自分は自分」と自分の世界をしっかり持っていることは同じです。ですからアメリカでも自分の独自の考え方が独創性を育てているのです。そしてアメリカでは伝統や因習に捉われないだけに一層自由に独創性が発揮できるのです。
日本はその真似をすべきではありません。しかし欧米と日本の教育や社会の在り方の大きな違いを理解し認識しておくことが非常に重要なのです。「己を知り、敵を知れば百戦危うしからず」です。

今日の挿し絵代わりの写真は独創的な歌川 広重の浮世絵です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===========
歌川 広重;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%B7%9D%E5%BA%83%E9%87%8D
広重は寛政9年(1797年)に生まれ、 安政5年(1858年)に没しました。
江戸時代末期の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない[1]。ゴッホやモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。
なお、遠近法は印象派画家、特にゴッホ(1853年-1890年)に影響を与えたことで良く知られているが、もともと西洋絵画から浮世絵師が取り入れた様式であり、先人としては北斎や、歌川の始祖豊春(1735年-1814年)の浮絵にみられる。







「今日の日記、武蔵野の田園風景の写真を撮りに行きました」

2017年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は茅ヶ崎の海の風景写真を撮って来ましたが、今日は埼玉県の南部の武蔵野の田園風景の写真を撮りに行きました。
都内では見ることの出来ない、昔ながらの 懐かしい風景が広がっています。
広い畑の向こうに雑木林があり江戸時代と変わらないような風景でした。
しかし最後の茶畑だけは鉄塔の上に霜除けの扇風機がついていて現代の風景です。
江戸時代の武蔵野の田舎の風景を想像しながら車を走らせて写真を撮ってきました。
武蔵野の田園風景をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









細川呉港著、「桜旅」(愛育社出版)のご紹介

2017年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム
無名の人々の清らかな生き方に私はいつも興味があります。ですから「美しくもせつないモンゴル人、ソヨルジャブと日本人との絆」という小文を掲載しました。先日の2月11日のことです。
この小文は細川呉港氏の書いた『草原のラーゲリ』」(文藝春秋社、2600円)という本の紹介でした。それは大学時代の友人の竹内義信さんに教えて頂いた本でした。
そうしたら細川呉港さんから一冊の新刊書が送られて来ました。
細川呉港著、「桜旅」(愛育社出版)という2016年4月11日出版の本です。ネットで簡単に購入出来ます。1800円です。
さてこの本の紹介をどのようにしようかと数日悩んでいました。
決心をしました。この本は桜のことが出て来ますが、主題は無名の人々のせつなく美しい生き方を描いた本なのです。12の章に分かれていて、それぞれに桜を植え、育てた無名の人々の美しい生き方が描いてあるのです。
1、千島桜、2、桜が美しいと思うようになったころ、3、河津桜発見から伊豆の「町おこし」顛末記、4、しぐれ桜、5、小督の桜と女の一生、6、、京都金閣寺の奥の桜の谷にひそむ秘密、7、小督の桜を訪ねて、その後、8、台湾で桜を植え続ける老人ーある日本語族、9、奈良の都の八重桜とは?、10、ノモンハン桜(蒙古桜)、11、冬桜の発見、12、西行桜を見て死ぬ。

このように各章の見出しを書いていると細川呉港氏がそれぞれの桜に関係した人々へ暖かい心を寄せているのがしみじみと分かってきます。
例えば、1、千島桜の章では、国鉄が国有鉄道だった時代の職員が皆勤勉で実直な人柄だったと書いています。生涯、ただひたすら勤務に忠実に、真面目に生きて行くのです。その一例として北海道の国鉄職員だった佐々木栄松という実在の人物を紹介しています。彼が先輩のT老人から千島桜の鉢植えを譲り受け、庭に植えかえたら見事な大木になったという話です。
このような話が12章に渡って書いてあるのです。
その中で「2、桜が美しいと思うようになったころ、」だけは趣が少し変わっています。自分の幼少のころから見てきた呉の高台に見事に咲いていた桜並木の話なのです。彼は呉に生まれ育ったのです。
呉といえば海軍の港があり、そこから数多くの将兵が桜花を見上げて出撃して行ったのです。戦艦武蔵や戦艦大和や数多くの巡洋艦、駆逐艦、潜水艦が出て行きました。桜に見送らて出て行きました。そして2度と帰って来なかったのです。
その桜並木が近年、全て切り倒され、切株だけが残っているのです。高台まで住宅が出来てしまい、桜並木の近所の家の主婦が落ち葉の掃除に困ると言い出したのです。自治体の役所は主婦たちの言いなりに全て切り倒してしまったのです。淋しい心です。

こんなことも書いてある本が細川呉港氏の「桜旅」という本です。
細川呉港氏の過去の出版の『満ちてくる湖』 (平河出版)、『草原のラーゲリ』 (文藝春秋) などの主題も全て無名の人々の感動的な生き方です。

ある民族の歴史の記録にとって一般庶民の暮らし方や喜怒哀楽の記録も重要なことは論を待ちません。
細川呉港氏の興味と関心はそこにあるのです。そして無名の人々の美しい人生を探しては本にして世に送り出しているのです。
それは大変重要な歴史書です。将来、その重要さが高く評価される歴史書です。

しかし細川呉港氏はそんな気で書いていません。ただひたすら美しい人生を探して、探して彷徨っているのです。そんな細川呉港氏の人生もせつない、そしてひたむきな生き方として人々の胸を打つのです。
細川呉港著、「桜旅」とはそんな内容の本なのです。

今日の挿し絵代わりの写真は昨年の小金井公園の桜の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「今日の日記、暗い冬の海の写真を撮りに行きました」

2017年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム
午後から中央高速道路の八王子ジャンクションから圏央道路に入り茅ケ崎海岸までドライブしました。
茅ケ崎海岸では家内が砂浜に出て「暗い冬の海」というテーマで沢山写真を撮って来ました。私は寒いので車の中で待っていました。写真の出来が良かったので帰路の厚木サービスエリアで家内にコーヒーをご馳走しました。
往復170Kmのドライブも楽しかったです。
暗い冬の海の写真を5枚お送りいたします。









トランプ外交の柱は軍事力とアメリカの強大な経済力

2017年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカのトランプ政権の特徴は、過去の大統領が起用してきたような知識人、弁護士、学界人といった人種が全くいないことです。代わりに登用されたのは実業界の重鎮と海兵隊や陸軍で功績をあげた将軍達です。
トランプ政権の中で唯一、職業政治家は穏健な実力派のペンス副大統領だけです。
これはアメリカの歴史上にも革命的な政権のように見えます。

しかし最近のテラーソン国務長官やマティス国防長官の北太平洋軍事条約機構の主要メンバー国の首脳との会談の様子を見ていると、意外にも従来の同盟関係を尊重し、慎重な態度で外交を進めているのいるのです。
大変好感の持てる礼儀正しい態度でEUの国々と交渉をしているのです。
元軍人だったマティス国防長官は北太平洋軍事条約機構の主要メンバー国に防衛負担金の増額を期待すると言いました。これを受けて主要メンバー国が必ず期待通りにしますと言明したのです。マティス国防長官はヨーロッパの軍事指導者に尊敬されていたようです。

またテラーソン国務長官はEUの首脳と個別に会った時、アメリカの要求を一切出さないで聞き役に徹したそうです。このひかえめな態度はヨーロッパ各国に好感を与えたのです。
このように元軍人のマティス国防長官と元実業家のティラーソン国務長官はベテランの政治、外交官のような手練の外交デビューを果たしたのです。
その後、ペンス副大統領もヨーロッパを訪問し、各国の首脳と会談し、礼儀正しくアメリカの要求をゆっくり伝えたのです。

これには私も安心しました。トランプ政権の外交戦略に安心したのです。
安倍首相をゴルフに招いたり厚遇し過ぎたような外交に危惧を感じていた私はその後の手堅い外交戦略に安堵したのです。

そしてマティス国防長官はイラクの親米首相に会いに行き、イスラム国壊滅を支援すると言明したのです。
昨日は現職の陸軍中将のマクマスター氏を国家安全保障担当大統領補佐官に任命したのです。
海兵隊出身のマティス国防長官とこの陸軍中将のマクマスター国家安全保障担当大統領補佐官が政権中枢にいるので、今後の外交戦略は軍事力重視になることは必然です。
例えばイスラム国壊滅のために海兵隊や陸軍を中近東に派遣することも予想されます。

さてもう一人の、そして最も重要な人物はアメリカ合衆国首席戦略官・大統領上級顧問のスティーブン・バノン氏です。
彼も実業家です。右翼保守派で移民反対派と言えば分かり易い実業家です。メキシコの国境の壁の主張をし大統領令にさせた人物です。
ここで彼等の写真を見てみましょう。

1番目の写真の左がペンス副大統領です。

2番目の写真はアメリカ合衆国首席戦略官・大統領上級顧問のスティーブン・バノン氏です。

3番目の写真はティラーソン国務長官です。

4番目の写真はマティス国防長官です。

5番目の写真はマクマスター国家安全保障担当大統領補佐官です。

このような写真の政権担当者を見れば今後のアメリカの外交戦略がおのずと見えてきます。
まずアメリカ国内に先端技術の工場を囲い込み、アメリカの経済優位性を一段と明確にします。そして軍事力も先端技術を導入して世界最強の軍事大国にして行きます。これこそがトランプ氏の主張している「アメリカを再び偉大な国にする!」ための具体的な方法なのです。

最後に私の個人的な経験を書かせて下さい。私は1960年にアメリカに留学しました。それ以来の親友にアメリカの空軍大佐がいました。B29に搭乗して何度も東京空襲に来た男でした。しかし彼は人間味のある友情に篤い男だったのです。
彼を通してアメリカの社会で軍人が如何に尊敬されているかを深く理解出来たのです。そして軍人が退役すると周囲の人が退役後の就職先を暖かく探してくれるのです。
そのようなアメリカなので、トランプ政権に海兵隊のマティス国防長官と陸軍中将のマクマスター国家安全保障担当大統領補佐官がいることは多くのアメリカ人に信頼を得ることになります。
トランプ氏が好き勝手な暴言を吐き続けても、彼を支える政権担当者が正しい外交戦略をするから意外に安定した政権になると考えられます。それにしてもトランプさんにもう少し大統領としての品格が欲しいものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

美しい雪の雑木林の写真をお送りいたします

2017年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム
最近の東京は寒い風が吹き荒れていますが、毎日からからの晴天です。
何故か雪に覆われた雑木林の風景が無性に懐かしくなります。
そこで今日は山梨県の甲斐駒岳の麓の雪の雑木林の風景写真をお送りいたします。
そこには43年前に建てた小さな小屋があります。

1番目の写真は甲斐駒岳です。この甲斐駒岳の麓に小屋があり、四季折々よく行きます。
空気が新鮮で、自然に溢れている場所です。鹿や猿や猪と時々会います。小屋の前には年中水が流れている小川があります。岩魚の棲んでいる小川です。

2番目の写真は小屋へ上る山道の入り口の風景です。雪に覆われた水田が広がっています。初夏には青々とした稲が風になびき、カッコーが啼いています。ここから上は水田の無い深い森になっています。

3番目の写真は雪の山道で車が立ち往生している場面です。車はここに置いて家内と山道を登ります。

4番目の写真は雪の雑木林の中を家内が登っている姿です。美しい雑木林の中を歩くのは楽しいものです。

5番目の写真はやっと着いた小屋の庭を流れている小川の写真です。
自分の敷地の中の端を流れ下っていますが、私のものではありません。水利権は下のほうに住んでる農家が共同で持っています。私はその水を絶対に汚さないように大切に使っています。
雪が深くなって車が小屋まで上がらなくなると飲み水はこの小川から汲んで、薪ストーブで湧かしてから使います。小屋に泊まる時には貴重な水です。その上、朝な夕なに、常に美しい水音を立てて流れ下っています。この小川のお蔭で沢山楽しい思いをしてきました。

6番目の写真は小屋の窓から撮った雪に覆われた樹々の写真です。
小屋に入り薪ストーブを盛大に焚きます。すると冷蔵庫のように冷え切った小屋が暖かい空気で満たされます。オーバーや上着をハンガーにかけ窓から何時までも周囲の雪景色を眺めます。

7番目の写真も窓からの眺めです。小川の向う側のガーデン灯が雪のため傾いています。
庭の下流のほうには魚が上り下りできるように斜めに魚道をつけてあります。小川の流れの向こう側は丘になっていて白樺が生えています。
こんな雪景色を見ていると気持ちが静かになります。今日も平穏な一日が流れて行くようです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「協調主義を強要する教育の弊害(3)発達障碍者の人権軽視の原因」

2017年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の学校は集団行動の重要性を教えます。それが出来ない生徒を先生は叱ります。先生は自分の言うことに従わない生徒を憎みます。それを見た同級生がその生徒を虐めます。
当然、その生徒の個人的な人権は蹂躙されます。これが現在、日本の学校の虐めや不登校の原因の一つになっています。
ところが発達障害の生徒は先生の言うことに従いたいのですが体が動かないのです。同級生と集団行動をしたいのですが体は別の動きをします。先生は感情的になるばかりで発達障害の生徒の苦しみにまったく無理解なのです。同情の片鱗もありません。
欧米の学校で飛び級をした日本人の生徒が帰国すると、日本では虐めの対象になり潰れされてしまいました。軽い発達障害でした。
私はそんな実話を最近聞きました。そこで発達障害についていろいろ調べてみました。

そうしたら以下のような投書があったのです。短い文章なので是非お読み下さい。
(1)母親となり、「窓際のトットちゃん」を読み返してみると、あらためて昔あったトモエ学園とはなんと素晴しい学校だったのだろうかと思います。私の娘には軽い発達障害があり、純真な良い子ではありますが教室では一人ぼっちです。このまま普通の小学校に通い続けたらつぶれてしまうのではないか、と悩んでいます。とはいえ個別支援学級が合っているとも思えません。どなたか昔の「トモエ学園」のような一人一人の子どもを大切にしてくれる、障害の子にも偏見を持たないような教育をしてくれる小学校をご存知でしたら教えてください。神奈川県在住ですが、探した限りは見つけることができませんでした。よろしくお願いします。

(2)はじめまして。私は神奈川南西部に住んでいます。
私の長男もこの夏休み学習障害ボーダーらしい、という事が分かってから、学校について真剣に考えてみました。
現在小2なのですが、地元の学校ではちょと浮いてしまうんです。
みんな大人っぽいですからねー。どんどん自信を失っているようです。
私から見ると情緒の発達が少し遅いかな?とも感じます。
ところが、特別支援級、というほどでもないのです。
コンピューターやゲームに精通していますし、走るのはものすごく速い。
勝気なんだか、泣き虫なんだか、、。謎?というかんじの子です。
同じく、昔のトモエ学園みたいな学校を探しています。
リトミックに近いモノと考えると、通える範囲ではシュタイナーのオイリュトミーかな?なんて思いますが。きのくに学園のような学校がこの辺にもあるといいですね。
(以上は、http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2007/0524/131047.htm より)

このように発達障害を持った生徒の問題は日本の学校で重大な問題になっているのです。
そして日本の人権軽視の文化はいろいろなマイノリティを差別し、その人権を軽視しているのです、
例えば同性婚をしていた私の親友は差別に耐えられなくて欧米の国に移住しました。その国では同性婚も普通の男女婚とまったく同じ法律が適用され保護されているのです。

それでは何故日本では人権が軽視されるのでしょうか?以下の2つのコメントをお読み下さい。
(1)私は全くの音痴です。又運動能力も劣っています。従って小学校時代から音楽と体育の時間は苦痛以外の何物でもなく、社会に出ても会社でも本当に苦労しました。劣勢遺伝の典型例でした。この面では皆に馬鹿にされて苦しみました。何とか跳ね返そうと、別の面で努力し生きてきました。多分そのような経験をお持ちの方もおられるのではないでしょうか。逆に文武両道に優れ幸せな方もおられました。私の場合は性的マイノリティでは有りませんが、これもマイノリティーです。
マイノリティーの人々は排除されるかいじめられます。それを克服していく以外に方法は有りません。音痴で運動が苦手な私は常に子供時代から、又社会に出てからも苦労しました。
性的マイノリティーの方も、ご自身で努力して自分の道を開かれる事を期待します。

(2)おそらく人類が存在する限りマイノリティはマイノリティとして存在する一方で、それに反対・排除しようとする人が現れます。
ですからマイノリティを支援すべしと主張しても、賛否両論で平行線を辿り、結論の出ない不毛の議論となるのです。議論を止めた方が賢明です。
私は現在の日本を欧米先進諸国と比較して、特に人権が軽んじられているとは思っていません。社会や人々の劣化が、現在特に進行しているとも思えません。また私が今まで受けた教育で、協調主義が強制されたと感じたこともありません。協調主義という言葉は、日本ではポジティブな意味合いで使用されることが多いでしょう。集団教育に適応できない子供達がいるのは事実でしょうが、そういう子供達全てが幸せな学校生活を送れるような制度設計を個別的にすることは事実上難しいでしょう。それは人権が確立しているかどうかとは、あまり関係ないような気がします。

以上の2つの考え方が日本で人権が軽視される根本的な原因になっているのです。
すなわち(1)ではマイノリティは自身の道を、自分個人で苦労して切り開いて行けと言っているのです。苦労を修行と思い努力せよと言っているのです。
先天的なマイノリティはいくら努力しても問題を克服出来ないという事実を一顧だにしていないのです。
自分が苦労したのだから他人も苦労しろと言っているのです。これでは日本の人権軽視の文化は変わる筈がありません。

さて(2)では日本を欧米先進諸国と比較して、特に人権が軽んじられていないと主張しているのです。
そして、子供達全てが幸せな学校生活を送れるような制度設計を個別的にすることは事実上難しいでしょうと他人事のように言っているのです。これでは日本の人権軽視の文化は変わる筈がありません。

この2つの意見は日本人の多くの人が持っている意見です。
はっきり言えば日本人の大部分が上の(1)や(2)と同じ意見なのです。

この記事は問題を提起しているに過ぎません。正解は私にも分かりません。しかし以上の問題は将来の日本にとって非常に重要な問題だと信じています。

今日の挿し絵代わりの写真は家内の好きな小野竹喬画伯の日本画です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









小野竹喬;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%AB%B9%E5%96%AC
小野 竹喬(1889年(明治22年) - 1979年(昭和54年))は、大正・昭和期の日本画家。本名は小野英吉。
1889年(明治22年) 岡山県笠岡市西本町に生まれる。1906年(明治39年)京都の日本画家・竹内栖鳳に師事。栖鳳より「竹橋」の号を授かる。1911年(明治44年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)別科修了。同校の同期生であった村上華岳、土田麦僊とともに1918年(大正7年)国画創作協会を結成する。1923年(大正12年)、号を「竹喬」と改める。1947年(昭和22年)には京都市美術専門学校教授に就任し、京都市立芸術大学と改組した後も教鞭を執った。同年、日本芸術院会員となる。 50歳前後で没した華岳、麦僊に対し、竹喬は戦後も日本画壇の重鎮として活躍し、1976年(昭和51年)には文化勲章を受章している。
等持院の小野宅は、今も閑寂な空気につつまれ、庭や東隣に位置する名刹等持院境内には、小野竹喬の絵の素材になった木々が繁る。
代表作「郷土風景」(1917年) - 京都国立近代美術館
「波切村」(1918年)
「波切村風景」(1918年)
「夏の五箇山」(1919年) - 笠岡市立竹喬美術館
「波濤」(1927年) - 笠岡市立竹喬美術館
「青海」(1927年) - 笠岡市立竹喬美術館
「冬日帖」(1928年) - 京都市美術館
「溪竹新霽」(1938年) - 霞中庵 竹内栖鳳記念館
「秋陽(新冬)」(1943年) - 大阪市立美術館
「奥入瀬の渓流」(1951年) - 東京都現代美術館
「奥の細道句抄絵」(1976年) - 京都国立近代美術館

「今日の日記、小金井公園梅まつりの野点を楽しんで来ました」

2017年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム
風も無く穏やかな梅まつりです。
梅林の中で野点をしています。その隣では琴の演奏をしています。
琴の音を聴きながら野点とは何と風流なことかと、ゆっくりお茶を楽しんで来ました。
昔お茶を習っていた家内も懐かしそうにお点前を見ていました。
写真は小金井公園の野点の風景です。













明治時代まで生き残った隠れキリシタンの建てた長崎の教会群

2017年02月19日 | 日記・エッセイ・コラム
江戸時代の始めからキリシタン禁教の取り締まりが厳しくなって250年。明治5年にやっと禁教令が解けます。
この250年間、キリシタン達はお寺の檀家になり、毎年踏み絵を踏み、仏教徒を装って生き延びました。
そして幕末に長崎の大浦天主堂がフランス人神父によって建てられて時、隠れキリシタンがプチジャン神父の前に現れます。
「我々は250年間、神父さんが日本に帰ってくるのを信じ、待っていました」と言ったのです。しかしこれは早過ぎました。禁教令の解ける前でした。
明治政府はキリシタン達を逮捕し、キリシタン達は津和野など各地へ流されました。有名な浦上四番崩れです。
しかし間も無く禁教令が解消されます。
250年間の隠れキリシタン達の子孫は情熱を爆発させて各地に西洋風の教会を建てました。全て明治、大正、昭和時代に起きたキリシタン文化の隆盛でした。
その明治時代以後の五島列島に建てられた教会の写真をお送りしたします。2年前に五島列島へ旅した時撮った写真です。










これらの教会の大部分を建てたのが鉄川与助という大工さんだったのです。詳しくは参考資料にあります。
ちなみに最近、上映されているアメリカ映画のスコセッシ監督「沈黙ーサイレンスー」は島原の乱も鎮圧され取り締まりが一段と厳しくなった頃の話です。そんな厳しい日本へロドリゴ神父とガペラ神父が無謀に長崎に秘かに上陸して来たのです。2人の運命は・・・?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========
「おじいちゃんの建てた教会の孫娘さんによる紹介」
 http://www1.odn.ne.jp/tetsukawa/ 
私が、おじいちゃんと暮らしたのは
おじいちゃんが85歳から、95歳くらいまでの10年間くらいで
おじいちゃんが亡くなる2年前くらいまでです。
とにかく、記憶もしっかりしていましたし
身体も大変元気でした。

一人で電車に乗って、会社の建築現場を見て回るのが日課でした。
現場には、知っている大工さんや、左官さんなどがいましたので
建築のいろいろな話をするのが楽しみだったようです。

仕事は、長男の輿八郎にすべて任せていましたが
黙って建築現場を見て、なんとなく
『あそこがおかしい。』
と言ったところを調べてみると、何かが間違っていたりしたそうです。

おじいちゃんが、工事現場に来るのが
楽しみでもあり、怖くもあったと、現場では言っていたそうです。

おじいちゃんが、97歳まで、生きたと聞けば
きっと、生まれつき余程身体が丈夫だったのだと
思われるのではないかと思います。

実際には、全く逆で、小さい時に大病をしてお医者様から

「この子は、20歳まではとても生ききらん。」
(生ききらん=五島の方言で、生きる事ができないという意味)
と言われていたそうです。
曾祖母(おじいちゃんの母)は
お医者様に祖父が長生きできないと聞いて大変驚きました。

祖父は、本家の長男でしたので
何とかして無事に育てないとという責任があったのです。

今は、本家とか分家とか、あまり言わないと思いますが
当時は、本家の責任は大きかったそうです。

どうすれば、祖父を長生きさせられるか
曾祖母は、お医者様と相談しました。

冷たいものを食べない事
暴飲暴食をしない事
時間を決めて食事をする事

これが、曾祖母がお医者様に言われた事でした。
=========================
鉄川与助は明治12年に南松浦郡新魚目町丸尾(五島)で生まれました。
祖父鉄川与助の造った天主堂は、50以上と言われていますが、まだ全部はわかりません。現在の状態をわかる範囲で調べてみました。                
下に、名前、献堂、場所、天主堂の説明、今の状態、を順々に書きます。  
曽根天主堂 明治32 南松浦郡新魚目町 ペール神父、野原棟梁のもとで、初めて教会建築に参加、西洋建築との出会い、 建て替えに参加しました。
鯛ノ浦天主堂 明治36年 南松浦郡有川町 木造で、野原棟粱施工、 建て替えにに参加しました。
・・・・明治39年 に鉄川組を編成・・・・  
桐の浦天主堂 明治39年 長崎県 木造で、1部煉瓦造り
冷水天主堂 明治40年 南松浦郡上五島町 素朴な木造で、初めて設計施工しました。リブ・ヴォールト天井です。  
堂崎天主堂 明治41年 福江市 赤煉瓦造りで、野原棟梁施工です。ゴシック様式で、どっしりした重厚な天主堂です。  
・・・・明治41年に日本建築学会会員になります。・・・・  
野首天主堂 明治41年 北松浦郡小値賀町 初めての煉瓦造りです。4つの窓があり、花模様のステンドグラスがとても綺麗です。昭和64年復元。『火宅の人』のロケ地です。  
佐賀公教会 明治44年 佐賀県 木造、平家建 戦災
青砂ケ浦天主堂 明治43年 南松浦郡上五島町 煉瓦造り、屋根が2層になって高く大きくなり、煉瓦と白い十字架の対比が綺麗です。内部の装飾も壮麗になります。
楠原天主堂 明治45年 南松浦郡岐宿町 赤煉瓦造りで、ゴシック様式です。どっしりした天主堂で、屋根に銀色の十字架が輝いています。増改築 
山田天主堂 大正元年 北松浦郡生月町 煉瓦造り  
今村天主堂 大正2年 福岡県三井郡太刀洗町、珍しい双塔の赤煉瓦造りの天主堂で、祖父の、1番美しい建築物とも言われています。他の教会は島などに多いですが、筑紫平野の真ん中にあります。  
大司教館 大正3年 長崎市 大浦天主堂の右側大きな煉瓦造りで、3階建てで日本瓦です。ド・ロ神父設計、与助施工です。  
宮崎天主堂 大正3年 宮崎県 木造、平家建 取り壊し
大曽天主堂 大正5年 南松浦郡上五島町 煉瓦造りで、バジリカ式会堂です。入り口正面に大きな塔屋を持つ、ロマネスク調で、円形アーチ窓の、桜の花型の色ガラスが綺麗です。  
大水天主堂 大正6年 長崎県 木造、平家建
堂崎天主堂 大正6年 福江市 赤煉瓦造りで、ゴシック様式です。
江上天主堂 大正7年 南松浦郡奈留町、小さい木造の天主堂で、窓ガラスの花柄模様は手書きです。  
南田平天主堂 大正7年 北松浦郡田平町 与助最後の煉瓦造りの天主堂で、三層です。平戸島の向かいの丘にあり、グリーンのドームを持ち、回りの景色によく映えています。
頭ケ島天主堂 大正8年 南松浦郡有川町、唯一の石造り(島で取れた石)で、ロマネスク様式です。小さい天主堂を広く見せる為初めての折上天井です。
祖父が晩年1番話していた天主堂で、それだけ苦労したようです。私が好きな天主堂の1つです。  
細石流天主堂 大正10年、福江市 ザザレと読みます。今は廃堂です。 崩壊
旧浦頭天主堂 大正10年、長崎県 木造、折上天井です。 取り壊し
人吉公教会 大正11年 熊本県 木造、平家建  
長崎神学校 大正12年 長崎県 教会ではありませんが、祖父の初めてのコンクリート造りです。三階建です。  
旧浦上天主堂 大正14年 長崎市 建設の時にも参加しましたが、双塔は、祖父が作りました。残念な事に、昭和20年の原爆でこわれました。今の浦上天主堂は、与助の長男与八郎の設計施工です。
手取天主堂、昭和3年 熊本市 最初のコンクリート造り、大正12年の関東大震災で煉瓦造りの脆さが実証されたからだと思われます。八角形のドームで小さい天主堂ですが、内部は広く高くて花柄をあしらった内部装飾が美しいです。  
大牟田公教会 昭和4年 福岡県 木造、平家建 戦災
呼子天主堂 昭和4年 佐賀県 木造、平家建  
紐差天主堂 昭和4年 平戸市 白いコンクリート造りの美しい外観と、ステンドグラスからもれる光の美しい内部を持つ、大規模な天主堂で、内部の柱の装飾が綺麗です。  
八幡天主堂 昭和5年 福岡県 木造、平家建 戦災
戸畑公教会 昭和5年 福岡県 木造、平家建 戦災
大江天主堂 昭和8年 熊本県天草、ロマネスク様式の白亜の天主堂で、コンクリート造りです。私の好きな天主堂の1つです。  
新田原天主堂 昭和8年 福岡県 木造、2階建 建て替え
水俣天主堂 昭和8年 熊本県 木造、平家建  
小倉天主堂、昭和10年、福岡県 木造、1部鉄骨、平家建、 取り壊し
崎津天主堂 昭和10年 熊本県天草 前半分はコンクリート造りで、後ろは木造のゴシック風です。鉛筆のようなとがった塔があり、外観が華やかで畳敷きです。海の側に建っています。  
水の浦天主堂 昭和13年、南松浦郡岐宿町 木造で、大規模な白亜の天主堂です。堂内の貝の聖水器が美しいです。  
鯛の浦天主堂 昭和21年 南松浦郡有川町 煉瓦造、平家建。玄関だけ煉瓦(昭和21年に 原爆で壊された、浦上天主堂の煉瓦で作りました。) 建て替え
愛野教会 昭和26年 南高来郡 木造、平家造り  
桐教会 昭和33年 南松浦郡    
浦上天主堂 昭和34年 長崎市 コンクリート造り  
諫早教会 昭和40年 諫早市 コンクリート造り  
船隠天主堂 昭和40年 南松浦郡 木造  
丸尾教会 昭和47年 南松浦郡 コンクリート造り  
  昭和51年、祖父、与助が亡くなりました。97歳でした。趣味も、建築といいきれるような一生でした。亡くなった日の朝も、故郷の五島や、教会の写真を見ていたそうです。   
追記:五島列島にある国指定重要文化財の教会や天主堂:
旧五輪教会堂(世界遺産候補)、江上天主堂(世界遺産候補)、頭ヶ島天主堂(世界遺産候補)、青砂ヶ浦天主堂