後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

甲州から大菩薩山、柳沢峠を越えて奥多摩湖に抜ける山岳ドライブ

2012年05月31日 | 旅行記

今日は朝から山小屋を出発して、甲府盆地を縦断し、大菩薩山、柳沢峠を越えて奥多摩湖に抜ける山岳ドライブを一日楽しんで来ました。

何年か前に何度も通った険しい道ですが、塩山から柳沢峠までの細い危険な道が2車線になったいました。対向車が自由にすれ違って行きます。トンネルや橋梁も立派になり、危険感があまりありませんでした。

新緑の山々にはキリの花や、山藤の花、そしてニセアカシアの花が咲いていました。

丹波から下ると奥多摩湖が澄んだ水をたたえていました。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しいです。

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日常の生活を犠牲にするような趣味はいけないと思う・・・趣味は気楽に無理せずに!

2012年05月31日 | 日記・エッセイ・コラム

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(昨年までの私の趣味、ヨットの写真です)

昔、甲斐駒ケ岳へ登り、7合目の山小屋に泊まった。

小屋番の老人が一人いて、夕食を食べるか?と聞く。「夕食と言ってもインスタントラーメンしか出来ないが」と言う。

具の無いラーメンを一緒に食べながら老人が言う。

「昔、冬以外は、毎週、週末ごとに夜行列車に乗って、そのまま登ってきた技師が居たよ。川崎にある製鋼工場の技師をしていた男だった」

「だった。とは?もう来ないの?」と私。

「10年くらい毎週登って来たが急病で死んでしまった」

「死んだと知らせがあったの?」

「無いね。来なくなって、次の年の初夏に数人の男が登って来て、死んだと教えてくれた」。彼に世話になった同僚たちが追悼登山に登ってきたという。

それだけの話である。寝ながらあれこれ考える。山がそんなに好きなのは何故だろうか?そんなに無理して毎週来る必要があるのだろうか?

苦行の山登りは趣味なのであろうか?

結婚していたという。週末に家をあけることは家族の不幸ではないか?

同僚が追悼登山をするくらいだから職場では人望があったのだろう。若死にしたのは登山の無理が祟ったのだろうか?

趣味の登山で家庭生活をそこまで犠牲にして良いものだろうか?

何十年たっても小生には答えが無い。答えが出ないから忘れられない。

皆様はどうお思いでしょうか?

ヨットの趣味の話。

葉山マリーナの年間の陸置き料金は船の長さによるが、150万円位は普通だ。内装の見事なフランス製のヨットを、12人で共同所有しているあるグループあった。そのなかの1人、田村さんに招待されて何回か葉山沖をセイリングした。

田村さんは予科練に居た。穏やかな性格でのんびりしている。こんな人が特攻機に乗るのかと、戦争の恐ろしさを思ってしまう。その田村さんが、「12人でフランス艇を共有すると、いろいろ意見が違って苦労する」と言う。

レースで勝ちたいのでレース用のセールを何枚も買いたいと言う人。仕事の都合で毎月は来れないので負担金を安くしてくれと言う人。キャビンに泊まりたいから陸置きでなく浮桟橋に係留してくれという人。昼間だけのセイリングだけでなく、せめて大島へ行きたいのでレーダーや海上無線機、そして性能の良いGPSを取り付けてくれという人。フランス艇は金具類が悪いから全部取り替えようと主張する人。このような12人の調整をするのが田村さんである。

油壺、佐島、葉山、逗子などのマリーナの係留料が大きい。他にクルーザー購入代金もある。それで、6、7人から15人くらいで共同所有し、ヨットを預ける場合が多い。

仲間同士の話し合いに、無理があったら趣味としてはたして良い趣味と言えるであろうか?

どんな趣味でも日常の生活を犠牲にしてまでするべきでは無い。それが小生の信条である。中古ヨットを係留料の格安な霞ヶ浦に置いていたのも自分の信条にしたがったからである。維持費の安価な侘しい山林の中の小屋にこだわるのも同じ理由だ。

日常の生活を犠牲にするような趣味はいけないと思う。趣味は気楽に無理せずに長く続けるのが良いと信じている。

趣味と日常の生活のバランスを皆様はどのようにお考えでしょうか?(終わり)


百花繚乱をお楽しみ下さい

2012年05月31日 | 写真

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・上はロックガーデンです。下はアンデスの馬鈴薯の花、 その下は順に、ハマナス(白と紅)、ハコネウツギ、柏葉アジサイ(ピラミッド)、アワモリショウマ、ブラシの木です。 

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撮影は5月28日、京王フローラル・ガーデンにて、


八丈島の美しい自然

2012年05月31日 | 日記・エッセイ・コラム

八丈島に上陸し、レンタカーで、まず、あちこちをドライブしました。

暖流に洗われる大きな島です。熱帯性の植物が繁っています。太平洋に浮かぶ小さな宇宙です。樹木の好きな私はその美しい自然に圧倒されました。

写真で、まず八丈島の樹木の説明をし、その後で人々の暮らしをご紹介したいと思います。

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私の趣味は雑木林を眺めることです。従ってこのブログは「山林・杜の人のブログ」と称し、雑木林や山林の写真を数多く掲載しています。その延長で植物園が大好きです。

八丈島で感動したことは大きな島全体が熱帯性の植物で覆われていて、さながら天然の植物園のように見えることでした。この感動をどのように伝えるべきかとしばらく考え写真をすなおに掲載することにしました。

上の写真は人間の手の入っていない文字通り自然の植物の様子です。

下の1枚は大賀卿町の中心にある公園です。

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公園の真中にドライブウエイがあって車で楽しみながら通り抜けられるようになっています。ところどころの林の中に駐車場があり、散歩することも出来ます。素晴らしい所ですが、近所の人が2、3人だけ散歩している、淋しいくらい静かな公園です。子供連れの女の人へ挨拶をして少し立ち話しました。「東京から、公園のそばの実家に里帰りしています」と、楽しそうでした。

人間の手の入った公園と漁港の回りの自然の山々の植物は佇まいが異なります。公園の林は整然としています。自然林は一見荒れたような印象を受けますがよく見ると種々の草木が仲良く繁っています。どちらも美しいと思います

下の写真は東の三原山の観光道路から中央の平野にある昔の大賀郷村と三根村を見降ろした風景です。平野の南端に空港があり羽田から飛行機でも行けます。平野の向こうに見える山が八丈富士で中腹は開けた芝生の牧場になっています。

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写真には写っていませんが、左の方にカメラを向けると碧い海の上にポッカリ浮かんだような八丈小富士のある孤島がまじかに見えます。昔は人が住んで居ましたが現在は無人島です。八丈小富士は円錐形の火山で、美しい円錐形です。八丈島のあちこちから見えるので、観光客を楽しませる重要な役目をしています。

八丈島には五つの村がありました。東の三原山の東の麓に末吉村、中之郷村、樫立村、そして島の中央の平野に大賀郷村と三根村です。現在は合併して八丈町となり、総人口は8500人くらいです。1万人以上の時代もありましたが年々高齢化が進み人口が減って行きます。

島全体には幅の広い立派な舗装道路があります。特に末吉地区から三根地区を結ぶ登龍峠を越える自動車道路は観光用の道路です。複雑な地形の中を通っているのでカーブが多く、ゆっくり走らなければなりません。溶岩の上には植物が繁茂していて人間の住めるような所でありません。それだけに自然のままの森が広がっています。

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上の写真はそのような様子を示しています。

これら自然の森の様子と下の公園内の樹木との違いを楽しんで頂きたいと思い、下に公園の写真を示します。写真は2009年1月28日から30日にかけて撮りました。

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今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。

後藤和弘(藤山杜人)


昔の甲州街道の小原宿、吉野宿、鶴川宿を訪ねる小さな旅

2012年05月30日 | 旅行記

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甲州街道は徳川幕府が設置した街道の一つで江戸と甲州を結んでいる。関東地方の五街道は甲州街道、奥羽街道、日光街道、中仙道、東海道。全て重要な街道である。

江戸から大月までの甲州街道の宿場を順に記せば、新宿、高井戸、布田、府中、日野、八王子、駒木野、小仏、小原、与瀬、吉野、関野、上野原、鶴留川、野田尻、犬目、鳥沢、猿橋、大月となる。

2008年6月10日は梅雨の一休みで晴天であったので車をゆっくり走らせて、旧甲州街道の小原宿、吉野宿、鶴留川宿の3宿を散策して来た。本陣を保存し、歴史展示館のあるのもあるが、何も無く、昔の通りが有るだけのところもある。

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現在の甲州街道の大垂水峠を越し、相模湖町へ近づくと、右手に大きな「小原の郷」という歴史展示館がある。駐車場は無料で広い。そこから100m位歩いたところに小原宿本陣がある。よく手入れされ、公開している。展示館と本陣の2階部分もお見逃し無く。

最後から2枚目の写真は高島藩、高遠藩、飯田藩などの大名の泊まった部屋の写真で、「控えの間」の奥の8畳間が泊まった部屋。随分と狭い所に泊まったものと感心したので撮ってきた。入場料はいずれも不要。

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吉野宿は現在の藤野町にあり、JR藤野駅に近い。甲州街道を相模湖に沿って走って行くと本陣であった吉野浦(はじめ)氏の家が右にあり、その向かいに「吉野宿ふじや」 という看板の出ている歴史展示館がある。説明をしてくれた地方歴史家から聞いた話。承久の乱(1221年)で鎌倉側に負けた後鳥羽上皇側の主な貴族や武将がこの桂川流域に配流されたので大和、京都の地名が残ったという。JR中央線の高尾、大原(現在は小原)宿、吉野宿、付近の嵯峨野、奈良本、など現在の地名は承久の乱の後に配流された人々がつけたという。歴史的検証を一番深くされた方が、現在でも本陣に住んでいる吉野浦氏と聞き、後日、電話をした。いつでも詳しい話をして上げますから来て下さい、とのお言葉を頂く。天気の良い日に参上しようと思っている。

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鶴留川宿は現在の甲州街道の上野原町を通り過ぎて上野原警察署の前の切通うしの坂を下り、左へ曲がるところで右折して鶴留川の川原の方角へ下る(交差点は信号が無く、右折可であるかは不明。要注意!)。その下る道が旧甲州街道である。鶴留川の橋を渡った処に写真に示したような「鶴留川宿」という石碑が立っている。そこを上ると宿場町のような、でも現代風の家並みが道の両側に続いている。

本陣の建物も、展示館も一切無い。昔の、街道であった道が一本あるだけである。静かな町なのでしばらく散策していると当時の様子が何となく想像できる。(終わり)

撮影日時:2008年6月10日午後1時から3時。尚、展示館「吉野宿ふじや」の電話番号は、042-687-5022である。吉野浦(はじめ)氏へお会いしたい方は此処の取次があると良い。(終り)


過酷なキリシタン弾圧の悲劇を大切に伝えている神津島のローカル文化

2012年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム

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(写真の出典:http://runo345.btblog.jp/

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神津島には過酷なキリシタン弾圧の悲劇を大切に伝承しているローカル文化があります。

海が綺麗で風光明媚な島として東京の人々が観光に訪れます。

そして自然の美しさだけでなく、キリシタンだった朝鮮の人、ジュリアを敬愛している不思議な文化に感銘を受けて帰って来ます。

ジュリアの悲劇を理解して頂くためには、江戸幕府の250年間にわたる恐怖のキリシタン弾圧の歴史を考える必要があるのです。

キリシタンとして捕まった朝鮮出身のジュリアは、むごい拷問にあっても絶対に棄教しなかったのです。ジュリアは秀吉の朝鮮遠征のとき日本の武将によって連れて来られたのです。その事情のためか磔の刑を免れて神津島への遠島の刑を言い渡されます。

神津島でジュリアは罪人にも拘わらず人々の生活向上の世話をして島民に愛されます。島民に尊敬され、親切にかくまわれます。

江戸時代はキリシタンへ親切にしたり、尊敬した人々はキリシタンと同罪の罰を受けます。

ですから神津島の島民はジュリアを尊敬している事は絶対に秘密にしなければいけません。幕府の役人の拷問を想像して恐れました。それは島の人だけの恐怖の秘密だったのです。明治維新までの250年間の絶対的な秘密だったのです。

時代は明治、大正、昭和と流れて行きましたが、この秘密は現在でも、何故か島民が大切に言い伝えているのです。そのような島民の美しい心情を感じさせる孤島への旅でした。この背景を知った上で以下の記事をお読み頂ければ嬉しく思います。

=====2009年11月27日掲載の神津島への旅日記=========

2006年に満70歳になったので仕事を一切止めた。前々から行きたいと思っていたロマンチックな土地を訪ねる旅をはじめた。まず、伊豆七島の神津島へ遊びに行った。東京から高速水中翼船で4時間、遥か外洋に浮かぶ小さな火山島。山ばかりで平地が無い。船の着けられる簡単な桟橋が島の東西の両側にある。風向きによってどちらかを選ぶ。一人旅の気安さで島の民宿に投宿する。燗酒を傾けつつ、宿の主人から島の昔話を聞く。明日、見物すべきところも説明しくれる。そして、急に声をひそめて言う、 

「朝鮮風の石碑が岬に有りますよ。おたあジュリアの墓です」 

「それは誰ですか?」 

「小西行長が朝鮮征伐のとき連れ帰った娘です。日本に来てからキリシタンになったのでここへ流された女です。当時の島の人々を助け勇気づけたので女神のように思っている人が多いです」 

「何故そんなに声をひそめて喋るのですか?」 

「おたあ、を島の人々が始めは、助けて保護したのです。キリシタンを助ければ幕府から重い処罰を受けます」 

「それで?」 

「おたあ、は立派な女です。元気になると島の人々の面倒を良くみたのです。困った人の相談に乗り、人々を勇気づけました。皆尊敬し、おたあは本当に優しく賢い女だったのです」 

「分かりました。でも今はキリシタンへの弾圧もない自由な時代です。何故小さな声で話すのですか?」 

「島の人々は今でもおたあ、のことを尊敬しています。小さな声で話すことで尊敬の念をあらわしているつもりなのです。まあ、つまらない話かもしれませんが」 

「神津島の人々だけの小さな秘密ですね?」 

「まあ、秘密って程でもありませんよ」とニコニコし、宿の主人が満足げな様子である。 

現地へ行ってみないとローカルな歴史は分からないものと再度、感じいった。 

帰宅して調べてみた。おたあ、は3歳の時、日本へ連れて来られ、アウグスチノ小西行長の幼女となり、洗礼を受け、ジュリアという名を授かる。関が原の合戦の後、小西は石田三成とともに三条河原で斬首される。 

家康の側室の侍女となったが家康の言いなりにならない。桃山、江戸、駿河と移され、禁教令と共に神津島へ流刑になった。慶長17年、1612年のことである。小西行長の友人の石田三成一族も神津島へ隠れ住み、ジュリアを助けたという話もある。 

毎年、神津島おたあジュリア顕彰会などの主催で「ジュリア祭り」がある。カトリック東京大司教区と韓国のカトリック教会が共同でジュリアあたあの慰霊祭も同時に行っている。 

尚、ジュリアの最後には諸説があって、神津島から天国へ昇ったのかは定かではない。

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上の写真4枚は上列左がジュリアの姿、その右が神津島にある記念塔(お墓と想定されていた)。下列左は韓国、切頭島へ神津島から引っ越したジュリアのお墓(1972年日韓の友情による移設)、その右の写真は荒れる太平洋の波の様子です。なおジュリアの姿絵は、http://shl.holy.jp/text_gospel/julia.html から転載しました。(続く) 

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

毎年、5月になるとジュリア祭りが現在でも開催れています。下は2010年のジュリア祭りの案内です。

今年も5月8日に神津島でジュリア祭りが開催されました


東北弁の一つのケセン語に翻訳した新約聖書・・・山浦玄嗣著「イエスの言葉」

2012年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム

私はアメリカへ留学してから外国語は日本語へ翻訳出来ないと信じています。一つの外国語にピッタリ当てはまる一つの日本語が存在しない場合があまりにも多いことに気づいたからです。

その上に翻訳文そのものが日本語として理解困難な場合が多いのです。

たとえ一対一にぴったり対応する言葉があっても、訳者が必要以上に難しい漢語や学術用語を使い過ぎるから翻訳文が分かりにくなるのです。

分かりにくい言葉を使うと学術論文の権威が上がるという唾棄すべき風潮が存在していたのです。欧米からの翻訳は「解体新書」のような学術文から始まったので例外ではありません。

したがって欧米語からの翻訳文にはやたら難しい漢語や抽象的な表現が多く、その意味を理解することは大変なのです。

その一例がキリスト教の聖書なのです。私はカトリック信者ですが、正直に言えば聖書には日本語としても、わけの分からない個所があまりにも多いのです。ですから私は聖書を理解していません。文語体から口語体になっても同じことです。

この私の頭をガンと金属製のバットで殴ってくれたのが、山浦玄嗣著「イエスの言葉」-ケセン語訳(文藝出版社、初版2011年12月20)という本なのです。本好きの家内が書評欄で見つけ取り寄せて読み、感動して私にも読むように薦めました。読み始めてみると止められずグングン惹き込まれていきます。

まず、山浦玄嗣さんは本物のクリスチャンだと感動します。しかしこの本はキリスト教に無関心な人々が読んでも衝撃的な面白さを感じるはずです。

E7bc1b033a60fa1dde26df0d56eba1861 左が山浦さんです。

宗教と関係なく日本人の翻訳文化の陥穽を明快に指摘しているのです。外国のことは何でも知っている、理解していると信じ切っている人々へ重大な問題を提起しています。そしてこの本はこの問題を乗り越える方法も教えているのです。

この記事の表題は、「東北弁の一つのケセン語に翻訳した新約聖書・・・山浦玄嗣著「イエスの言葉」」としました。その理由は東北弁を話す人々に是非読んで頂きたかったからです。

前置きが長くなって済みませんでした。

内容を説明します。聖書に「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」という文があります。意味不明で有名な箇所です。私も気分的には分かったような感じですが、こんなあいまいな文章があちこちにある聖書なので困っていました。そこを山浦さんは以下のようにケセン語で訳しています:「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ア幸せだ。神さまの懐に抱(だ)がさんのアその人達だ。」

このような訳文なら私にもストンと分かります。聖書の書かれた古ギリシャ語を正確に翻訳すると、心貧しい人は・・・頼りなぐ、望みなぐ、心細い人・・・となるのです。

山浦さんは原語の「プネウマ」にぴったり対応する日本語が存在しないことに気がつき、「頼りなぐ、望みなぐ、心細い」という3つの言葉で説明しています。これこそが正しい翻訳の姿勢なのです。

日本にある聖書は古ギリシャ語から英語やフランス語へ翻訳された二次資料を翻訳したから、わけがわからなくなった場所があちこちに出来てしまったという指摘に感心し、納得します。

こういう説明が沢山書いてあります。それを見ると山浦さんも私のような凡俗な信者も理解出来ないところは同じ所なのだと安心します。

ケセン語とは岩手県の大船渡市、高田市、宮城県の気仙沼市のある地方で昔から用いられていた方言です。アイヌ語の影響を受けた独特な東北弁です。

山浦さんの偉い所はまず25年間かけてこの気仙地方の方言のケセン語を集大成してキセン語辞典を完成したのです。そしてその後で聖書の原文の古ギリシャ語を勉強して、その原文の意味をケセン語に翻訳して完成したのです。

さて山浦さんのことをご紹介します。1940年生まれのお医者さんです。東北大学の医学部を優秀な成績で卒業しながら大船渡市の一介の開業医になります。

ケセン語を体系的に整理し辞典を作ったり、古ギリシャ語を独学でマスターしました。聖書の研究も普通の神学者を超えています。要するにピカピカの秀才なのです。このようにご紹介すると冷たい学問肌の医者のように思われます。

しかし彼は本当に温かい人柄なのです。愛情あふれる人なのです。この本を読むと彼のやさしさが溢れ、流れ出てくるのです。読みやすい文章です。

彼の病院は大船渡市にありました。3月11日の大津波は病院の一階を泥海にし、残ったものはガレキの山でした。幸い2階は無事だったので救援に来たボランティアの寝泊まりする場所に提供したのです。その山浦さんの文章を以下に引用させて頂きます。

「あの恐ろしい大津波の後、変わり果てた瓦礫の野に立ち、外界との連絡も全くとだええて、涙を流すことさえも忘れてて呆然と立ちすくんでいたとき、私は本当に「頼りなく望みなく心細い人」だったと思います。そんな私がはじめて涙を流したのは、まっさきに駆けつけて、遺体の捜索に、瓦礫の撤去に泥だらけになって黙々と働いている自衛隊員の姿を見たときでした。あの感謝の感動を私は忘れることが出来ません。そして全国から、いえ世界中から、たくさんの助っ人が続々と大船渡にやって来ました。カナダやアメリカから駆けつけて、せっせと泥さらいをしている青年達の姿に、何度泣かされたことか。それはすばらしい涙でした。嬉しい幸せの涙でした。こんなにたくさんの人々がわたしたちのことを心配して、わたしたちのために駆けつけて、わたしたちのことを大事にして、黙々と働いてくださっている。こんなに人さまから大事にされたことが、東北人にはあったのであろうかとさえ思いました。・・・」。そして大船渡市の人々が、言葉の通じない外国からのボランティアの人々へ飲みものや食べ物を手渡す美しい情景が書いてあるのです。

私もこの引用文を打ち込みながら涙が流れています。山浦さんのやさしさに打たれているのです。

山浦玄嗣著「イエスの言葉」-ケセン語訳(文藝出版社、初版2011年12月20)という本を多くの人々がお読みになるように祈っています。


まもなく夏が来る・・・島へ飛び出そう!

2012年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム

季節のうつろいは早いものです。皐月の晴天も終わりに近づき、うっとうしい梅雨が始まります。そしてその向こうには青空の輝く、楽しい夏がやって来ます。

海のかなたの島々へ飛び出して、ロマンチックな旅を楽しむのも良いものです。孤立した島の植物を観察したり、島の農業や牧畜業の歴史を少し調べるのも楽しいものです。島には必ず民族・歴史博物館があり、島のボランティアが島の生活をいろいろ教えてくれます。

私は昔から離れ島へロマンチックな憧れをもっていました。現役の間は気せわしくて、とても島旅は出来ません。引退後、いろいろな島へ旅をしました。

島へ行ってみると、それは孤立した独立国のような文化を持っているのです。

方言が隣の島と違います。島の土壌の性質によって農業が出来ない島もあります。漁業だけで生きている島もあります。乳牛と肉牛の飼育が主の産業の島もあります。火山島では次の爆発の時の避難方法を考えて暮らしています。

島々は違った文化を持った独立国なのです。観光客はそんな島人の生活の邪魔にならないように遠慮深く旅を楽しむべきと感じます。

このブログでは島々の旅について多くの記事を掲載して来ました。

下にその一覧表を示します。

右端の投稿した年月日を用いて、ブログ本文の左のサイドバーの「バッククナンバー」をクリックして開いた年月日から、目標の記事は容易に見つけることが出来ます。

ご興味のある記事を開いて、お楽しみ下さい。

そして梅雨が明けて、夏が来たら是非、島旅へ出かけてみて下さい。

そして八丈島のフリージア祭りの記事を再掲載いたします。

それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

=====島旅に関する過去の記事の一覧=========

@ 壇の浦の悲劇と関ヶ原の悲劇(続き)・・・八丈島へ流された秀吉の家老、宇喜多秀家の  悲劇                                        10/07/27 投稿
@ 江戸時代から現在まで41家族が初島の自治を守る          11/03/01 投稿
@ 八丈島のフリージア祭りのご案内                      12/01/31 投稿
@ 陽春の小島、初島への小さな旅                       11/02/27 投稿
@ 團伊玖磨の八丈島の別荘の写真です                   11/02/22 投稿
@ 團伊玖磨の「パイプのけむり」と楽園のような八丈島への旅       11/02/22 投稿
@ 失はれし時を求めて(4)1970年前後に日本人の人生観が激変しました 10/12/17 投稿
@ 失はれし時を求めて(3)産業の変化が廃村を作るのでしょうか?    10/12/16 投稿
@ 失はれし時を求めて(2)廃村になった故郷                  10/12/15 投稿
@ 失はれし時を求めて(2)廃村になった故郷                  10/12/14 投稿
@ 波浮の港紀行・・・磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃかえる、、、、         10/11/08 投稿
@ 国内の珍しい観光地(6)八丈島への船旅                   10/06/10 投稿
絶海の孤島への旅のロマン(2)神津島の女神、おたあ・ジュリア      09/11/27 投稿
====八丈島のフリージア祭りの2012年1月30日の記事の再掲載です=====

八丈島の歴史や民俗学を研究している細谷昇司さんからメールが来ました。

昨年、大震災があり開催を中止したフリージアまつりを今年は3月20日から開催するそうです。細谷さんは相変わらずブログ:http://nangare.blog94.fc2.com/ に八丈島の歴史や観光情報を紹介しています。是非、八丈島へ行って、フリージアや熱帯の花々をお楽しみになって下さい。

下の写真は昨年4月の開花状況です。細谷さんの昔のブログ:http://blog.goo.ne.jp/zuninrunin/ からお借りしました。

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離れ島への憧れ(6)八丈島で現在も大切にされ、愛されている秀吉の家老、宇喜多秀家 12/01/28 投稿
離れ島への憧れ(5)八丈島の美しい自然 12/01/26 投稿
離れ島への憧れ(4)八丈島への船旅 12/01/22 投稿
離れ島への憧れ(3)大島、波浮の港の哀愁 12/01/21 投稿
離れ島への憧れ(2)絶海の孤島、神津島の怖い秘密 12/01/20 投稿
離れ島への憧れ(1)私の初島への旅 12/01/19 投稿
五島列島、久賀島の五輪教会の写真・・・織田寧人さんの作品です 11/12/10 投稿

田舎暮らしで地元の人にいじめられたケース・・没交渉も一つの賢い楽しみ方

2012年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム

先日、停年後いきなり田舎暮らしはするべきでない! という記事を掲載しました。

この記事に対して、「旅人ふじ」さんから以下のコメントを頂きました。

=======旅人ふじさんからのコメント==============

私は現在村八分にされています。

では、余りにも多い賦役があり、10軒の家で4年連続で役が回ってくるのです。

にある自分と宗派の違う寺の掃除や神社の掃除をはじめ、組長の命じるいろいろな共同作業があるのです。

私は家族がいない独身だから、賦役はやれないと言って、1年後にやめました。

町内会も脱退しました。それから嫌がらせがすごいのです。

夜間に私の自宅に侵入して土を放り込む。釘を地面にまく。それが足に3回ささったこともあります。

分別ゴミを出すときは嫌がらせをするのです。

タイヤをパンクされたこともあります。

私自身はは葬式はあげないつもりなので、で他人の葬式には参加しないのです。お葬式に参加すると、賦役がすごくて、いろいろ働かさられるのです。

そのほか、どぶ掃除も参加しません。

しかし区費?という金は必ず払えと言れます。これが合計で莫大な金額になる上に、使途不明金があるのです。
今は大都市に移住を考えていますが、田舎の自分の所有する不動産はまったく売れないのです。困っています。
========= 旅人ふじさんのコメント終わり==

私も東京から長野の田舎へ移住してきましたが、土地の方との交流は全くと言っていいほどありません。

ここ伊那では自治区(自治会のようなもの)と言う組織がありますが、納付する金額がエラク高くて見返りは殆どないと言っていいくらいです。

ですから私は加入を断りました。

東京のような財政豊かな都市と違って、田舎は財政規模が小さいが故に、行政がやるべきことをその自治区に丸投げしているのです。ゴミ収集ひとつとっても車で収集所に持っていかねばなりません。私も車の運転に自信がなくなったら東京に戻りますよ。

追記:

自治区への加入は止めましたが、必要な書類や情報は市役所から郵送されて来ます。また市役所のHPを見ればなんでも分かります。

私の隣人は名古屋へ行ったきりで、たまに帰ってくるだけなので、こちらが世話をしてあげているような雰囲気です。

私は東京にマンションを残していますので、病気になったら東京に帰るつもりです。


水連の花咲く皐月の水辺

2012年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム

すがすがしい風に誘われて京王フローラル・ガーデンに行ってきました。

家内が気に入ったヨーロッパ風の花園です。いろいろな花々が香り豊かに咲いていました。順次ご紹介したいと思います。

まず始めは水連の花咲く皐月の水辺の風景をお送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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田舎暮らしを楽しくする為の鉄則、1、2、3・・・これさえ守れば絶対に楽しくなる!

2012年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム

山美しく、水清い山里に質素な小屋を作り、田舎暮らしを楽しもうとする場合を考えてみます。

周りの環境が良いので楽しい生活が出来ると思うのが当然です。

しかしそれには想像もしていなかった難しい問題が起きるのです。それはその山里に昔から住んでいた人々との付き合い方の難しさです。それは都会と全く違います。

まずそれを理解した上で田舎暮らしを始めないと快適で愉快な生活は出来ません。

以下に田舎暮らしを楽しくする為の鉄則、1、2、3を書きます。自分が40年間くらい田舎へ通った体験から身に沁みて得た経験です。これさえ守れば絶対に楽しくなると確信しています。

しかし以下の鉄則は場所と周りの人々の考え方によって、少し調整しなければなりません。重要なことは以下の3点を参考にして相手の気持ちを尊重することです。

(1) 隣の農家や牧場に毎回、必ずオミヤゲを持って行くのが鉄則です。 

まず田舎では自分達が招かれていない客人であることを忘れない事です。毎日、汗水ながして農業や牧畜をしているそばで、何もしないでブラブラ遊んでいる人を見たら、あなたはどのように感じるでしょうか?私だったら不愉快に思います。

ですから村人へは愛想よく挨拶をし、都会から行くたびにお土産を必ず隣の農家へ持参することが重要です。お菓子でも良いし、田舎には珍しいちょっとした食べ物が良いのです。高価なものである必要はありませんが心のこもった物でなければいけません。隣の1軒、2軒だけで良いのです。あたたの好意は噂で中に伝わります。

(2) 家族が一緒に行った時に、必ず挨拶に連れて行くことが鉄則です。

家族全員で挨拶に行き、家族ぐるみでお付き合いするのが第二の鉄則です。自分の家族構成や家族仲の良いことは噂で中に広がります。そうすると安心して付き合ってくれます。

独身の男の場合は、隣の農家へ行って、独身であることを丁寧に説明します。

家族が毎回行かないで自分だけが行く場合が多い人もいます。

たまに家族が一緒に行った時に、必ず挨拶に連れて行くことが鉄則です。

田舎の人は家族関係を非常に重要視します。

私の家内は時々山の小屋へ行きますが、その折には隣の牧場へ必ず挨拶に行きました。これで私が一人で行ったときも牧場の人が親切にしてくれたのです。雪で車が小屋まで行けない時は、その牧場に車を置かせてくれて、搾りたての牛乳をくれるのです。

(3) 田舎へ移住しても、都会の家を老後の為に保持しておく事が鉄則です。

住民票を移し、住民税も不動産税も役場へ納めても、都会から移住した人へは行政サービスがあまり無いのが当然です。それを田舎文化として受け入れるだけの寛容さが必要です。

しかし高齢化が進み病気になると治療が困難になります。

まず、交通の便が悪いので病院まで行くのが困難になります。

その上、地方の病院の治療システムや医者の意識が都会のように合理化されていません。それは医療技術よりも重要な場合が多いのです。

要するに都会から移住した人はまともな治療が受けにくいと想定すべきなのです。

ですから高齢に達したら、都会に保持していた家へ引っ越して、住民票も健康保険も都会へ移転するのが鉄則です。

私の小屋の近辺で、別荘を畳んで又都会へ引っ越した家族が2軒ありました。

さて以上の鉄則を完全に無視して、孤高を守りながら独りで悠々と田舎暮らしを楽しんでいる人も案外多いようです。不便な生活は覚悟の上です。

病院の遠さや、治療の困難さは覚悟の上です。その覚悟さえあれば上に書いた3つの鉄則は完全に無視しても良いのです。

私の言いたい結論はどちらにしても田舎暮らしを楽しくするにはかなり強い決心と努力が必要だということです。

下に楽しげな風景を示します。しかし写真の裏には苦しみもあるのです。

それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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・下の別荘は私の小屋ではありません。私が憧れている近所の別荘です。

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今日は気楽にフリー・メソジスト小金井教会の礼拝に行ってきました

2012年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログでは仏教のことや、キリスト教のいろいろな宗派のことを紹介してきました。

正しい紹介であったか否かは確信が持てません。ただ気楽に訪問したり、調べたりして、自分の感想を述べて来ただけです。

今日は近所の東京フリー・メソジスト教団の小金井教会の11時10分からの礼拝に出席して来ました。

この宗派のキリスト教はアメリカで発展したプロテスタントの教会の一つのようです。毎週カトリック小金井教会のミサに出ている私にとっては感想と言えば、どうしてもカトリックとの比較から書きたくなります。

まず楽しかったことは教会の雰囲気が如何にもアメリカ的に気さくで、親切で、堅苦しくないことです。

カトリックでは神父さんや助祭さんが立派な法衣を着て、白い服の侍者達をつれて祭壇の上に立ちます。聖職者と平信徒には厳然とした違いがあります。

フリー・メソジスト小金井教会では、みんなが平服です。壇上に立つのは司会の信者であって、牧師さんではありません。要するに牧師と信者の間には上下関係がありません。牧師は説教の時だけ壇上に現れるのです。非常に平等主義が徹底しているのに驚きます。

フリー・メソジスト小金井教会は戦後の荒廃の中で、1953年にアメリカ人の未亡人によって建てられました。エバ・B.ミリカン宣教師がその人です。

彼女によって種蒔かれた自由なキリスト教が東京に花を咲かせているのです。聖霊の助けを受けた日本人がフリ-メソジスト教会を広げ、伝承しているのです。

私は心楽しく一緒に聖歌を歌い、説教を聞きました。

今日の説教はタイのチェンマイに在住している日本人のため、現地のフリーメソジスト教会の牧師をしている野尻孝篤さんがなさいました。

イエス様によって悪い人々がどのように救われるか?神様は一人、一人をいかに深く愛しているか?そして聖霊は私達、個人、個人にどのように働きかけているか?

重厚な神学的な話に、分かり易い例え話をまじえてくれるので理解が容易なのです。名説教でした。

神と子(イエス)と聖霊の三位一体の話を実に分かり易く話してくれたのです。

説教の内容はカトリックと全く同じです。同じ聖書を使っているのですから当たり前の事ですが、何故か安心しました。

この後、カトリックではイエス様の体として聖なるパンを神父さんから貰うのです。しかしプロテシタント教会では、それは神秘主義的過ぎるとして省略します。

まあ、それも一つの考え方です。

最後に主任牧師の宮川浩二さんが事務連絡をしました。その始めに他の教会から今日だけ礼拝にきている数名の紹介がありました。私のこともカトリック小金井教会から来ましたと紹介があり、私は立ちあがって礼をしました。これこそアメリカ流です。カトリックでは決してこのように他教会の会員を紹介しません。

帰路、歩いていたら中年の女性が自転車で追い付いてきて話しかけます。「カトリックの人が自由に他の教会へ行って良いのですか?」と。私は同じキリスト教ですから、自由にして良いと思っていますと答えます。彼女はさらに、「私はまだ信者ではありません。ただ昔幼稚園がカトリックだったので聞いてみただけです」と言います。私はカトリックのミサの時間を教えて、「気楽に行って御覧なさい。幼稚園の頃の楽しい日々を思い出しますよ」と言って別れました。このような気楽な会話が出来るのが、いかにもアメリカ的なフリー・メソジスト教会の特徴の一例なのです。

それにしても礼拝の後で、主任牧師の宮川浩二さんがわざわざ時間をとって私に会って下さるというのです。しかし少し急ぐ用があった私は帰ってきてしまったのです。大変失礼なことをしたと後悔しています。でも牧師様は必ず許してくれます。イエス様が罪深い人々を許すのですから。(終り)

下に今日撮った写真をお送り致します。

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・上が主任牧師の宮川浩二さんです。

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・礼拝中の合唱隊による讃美歌。

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上がタイのチェンマイにあるフリーメソジスト教会から一時帰国している牧師の野尻孝篤さんの説教の場面です。

参考資料:

フリー・メソジスト教会の由来と日本伝道小史

自由メソジスト教会は、B.T.ロバーツが当時の北米メソジスト監督教会における自由主義神学的傾向にともなう聖会(聖霊によるきよめをもとめるために行う集会)の軽視、教会の有料座席制度、秘密結社との関わりなどについて批判し、同教会ジェネシー年会において除名され、総会への上告が認められなかったため、同志とともに独立し、聖書主義、福音的アルミニアンプロテスタント主義とともに座席の完全無料化、あらゆる差別からの自由を訴えた。信徒の誓約事項に、盟約により自由を拘束される結社に加入しないことが含まれている。「フリー」には自由のほか、「無料」の意味もこめられている。

日本における自由メソジストの伝道は北米総会外国伝道局宣教師柿原正次河辺貞吉らの淡路島伝道に始まる。河辺貞吉は当初、大阪東部メソヂスト教会(現・日本基督教団東梅田教会)との契約で淡路島全島トラクト配布と開拓伝道を展開していたが、柿原正次の要請によりともに自由メソジスト教会の働きにつき、1898年自由美以福良基督教会を設立。

1903年大阪で行われた第5内国勧業博覧会に際し会場で天幕伝道を行い、そこから道がついて現在の大阪日本橋キリスト教会に発展する。のちに聖書解釈問題で教会を去る西阪保治(文書伝道者、日曜学校教材の出版事業や「聖書大辞典」編纂で知られる)、馬場嘉市亀水松太郎(のち独立して現在の日本基督教団阿倍野教会・大道教会を開拓)河辺満甕らを輩出している。

初期から現在まで毎年新年聖会を開催するほか、関西聖会との関わりも深い。戦後、北米総会の引退牧師夫人エバ・B.ミリカンが宣教師として来日、自宅を開放して学生伝道を行ったが、信仰的に一致できなくなり、1958年に単立教会となる。ここから現在の東京フリー・メソジスト教会に発展する。

1960年代後半の70年安保闘争は大学紛争として各学園に吹き荒れ、神学校・キリスト教主義学校にもその波は押し寄せた。そのような中で1970年、日本自由メソヂスト教団総会が大阪万博靖国神社問題、大阪キリスト教短期大学の問題などをめぐり紛糾し、「自由メソヂスト変革委員会」を名乗る教職・信徒によって封鎖される。その後このいわゆる「教団問題」が長期化し、教団の再生とアルミニアンプロテスタント主義に立つことを願う諸教会は1984年に日本フリーメソジスト教団を結成した。現在、関西地区、関東地区、兵庫県などに27の教会・伝道所がある。


この美しい島々が米・中・日本の争いの舞台になっています!

2012年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム

まず下のパラオの島々の美しい写真をお楽しみ下さい。

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・(出典はナショナル・ジオグラフィック社の写真集より)

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このように平和な太平洋の島々へ中国が露骨な経済援助をしています。その援助金額は2009年に2億ドルに増大しています。中国が太平洋の覇権を取ろうとすれば、当然ながらパラオ、ミクロネシア、マーシャル諸島に海軍基地が必要になります。それを援護する戦闘機の離着陸出来る飛行場も必要です。

それはかつての日米で戦われ太平洋戦争の経過を見れは明明白白です。

このキナ臭い中国の進出に対抗して、日本は沖縄、名護市で「第6回太平洋・島サミット」を開催し、昨日、閉会しました。特に重要な変化は、今回から米国が参加し、米国が太平洋島嶼国への関与を強く打ち出したのです。その米国の新しい動きに日本とオーストラリアが緊密に協力することを約束したのです。

「第6回太平洋・島サミット」に参加した国は、パラオ、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島、パプアニューギニア、キリバス、ツバル、サモア、クック諸島、ソロモン諸島、バヌアツ、フィジー、トンガなどです。

この「第6回太平洋・島サミット」の機会に日本はこの地域に今後3年間で、400億円の経済援助をする決定をしています。

下にこの太平洋・島サミットに参加した国の地図を示します。

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上の地域は第二次大戦で日本が負けるまで、「日本の依任統治領」として1920年から1945年まで領有していた地域だったのです。

75歳以上の日本人ならその地域は日本領を示す赤い色で描いた地図を学校で使っていたことを覚えているでしょう。

さて詳しいことは省略しますが現在この地域の島々には数多くの華僑が住んで、経済力を握っています。これらの華僑は以前は台湾と米国へなびいていたのです。しかし中国大陸との貿易が飛躍的に増大した現在は共産党国の中国へ魂を奪われているのです。

野田首相が「第6回太平洋・島サミット」を開催し、米国とオースラリアの協力を取り付けた事は非常に大きな外交上での得点です。野田さん、なかなかやるなと感心しました。しかし、太平洋の島々における華僑の勢力を考えると簡単な問題でなないと思います。

国会議員の選挙では外交は得票にならないと言います。地元の利益優先の選挙になりがちです。しかし日本の経済と安全は外交に大きく左右されるのです。

日本人の皆様がもっと、もっと、外交に関心を持つようにと祈っています。

それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)