後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「キリスト像の撤去まで求める過激な主張の根拠──黒人差別反対運動」

2020年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム
この記事の題目は次のNewsweekの記事の題目そのままです。カトリックの私はショックを受けました。しかし読んでみると内容は悪いものではありません。
新聞や週刊誌の見出しは衝撃的なものが多いものですが、読んでとみると「ナーンだ」と感じるのです。
今回そのまま以下に転載する記事もそういう記事です。まあお暇があったらお読み下さい。

Newsweek, 2020年6月25日(木)
「キリスト像の撤去まで求める過激な主張の根拠──黒人差別反対運動」
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/06/post-93782.php

1番目の写真はお馴染みのイエス・キリスト像です。この像こそが白人による抑圧の象徴だという主張です。
<南軍の将軍や建国の父の彫像が次々に破壊・撤去されるアメリカで、キリスト像こそが白人至上主義のプロパガンダと攻撃される理由>
人種差別に対する抗議デモの広がりに伴い、南北戦争の記念碑などが次々に撤去されているアメリカで、ついにイエス・キリスト像までが槍玉に上がっている。
制度的な人種差別の象徴だとして、ツイッターでイエス像の撤去を呼びかけたのは、市民活動家のショーン・キング。脅迫コメントの殺到を受けて、「キリスト教白人至上主義者」の暴力を糾弾している。
「イエス像を撤去したら『おまえを殺す』という脅迫を、この48時間に約500件受けた。驚きはしない。キリスト教白人至上主義者の暴力性は今に始まったことじゃないからだ」──キングは6月24日にそうツイートした。
ミネアポリスで黒人のジョージ・フロイドが白人警官に拘束されて死亡した事件をきっかけに、アメリカでは長年にわたる組織的な人種差別に抗議するデモが広がり、各地で南軍の記念碑やコロンブス像などが破壊されたり撤去されたりしている。
キングは22日、「肌の白いヨーロッパ人」としてイエスを描いた彫像や壁画やステンドグラスなどは「白人優位主義の一形態」であり、「抑圧の道具」として創作された「人種差別主義のプロパガンダ」であるとして、破壊すべきだとツイートした。

「イエスは黒人だった」説
キングの主張は、現在のパレスチナで生まれたイエスが白人であるはずはなく、むしろ黒人だったはずだ、という説に基づいている。
白い肌のイエスを擁護する人々は、キリスト教という宗教ではなく、白人優位のイデオロギーを信奉しているのだと、キングは断じる。
「イエスは金髪碧眼でなければならないと言うなら、その人が信じているのはキリスト教ではなく、白人優位主義だ。この国では何百年間も、宗教としてのキリスト教ではなく、キリスト教の衣をまとった白人優位主義がまかりとおってきた」
キングのツイートは反発と嘲笑の的になったが、こうした過剰反応こそが自分の主張の「正しさを証明している」と、23日にキングはツイッター上で反撃した。
「私は敬虔なキリスト教徒で、正式に叙任された聖職者であり、長年主任牧師を務めてきた。キリスト教世界の内部における白人優位主義に対する私の批判が気に入らず、私を殺したいとまで思うなら、そう思う側に問題がある。一部キリスト教徒の白い肌へのこだわりは、いつの時代にも危険なものだった」
キングは浅黒い肌をしたイエス像をアップしている。英BBCがドキュメンタリー番組のために再現したイエスが生まれた当時のパレスチナの男性の顔だ。彼に言わせると、これは最もイエスの実像に近い描写だ。

2番目の写真は英BBCがドキュメンタリー番組のために再現したイエスの写真です。
キングはニューヨークのブルックリンに本拠を置く活動家で、かつては「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命も大事)」運動のリーダーの1人だったが、主宰する組織の不正会計疑惑で激しい批判を浴びた時期もある。
その組織「ジャスティス・トゥギャザー」は、警察の暴力の被害者と家族を支援する名目で寄付を募っていたが、既に解散。2万7500ドルの寄付金の払い戻しを要求されたが、いまだに応じていないという。
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2番目の写真を見ても私は驚きません。イエス様のお姿は私にとってどうでも良いのです。
一番大切なことがイエス様の教えを書いた新約聖書の中身なのです。信仰とはそういうものなのです。
イエス様は中近東のベツレヘムで生まれました。人種的にはアラブの血の混じった地方です。私は昔からイエス様のお顔は浅黒く、しかし立派な表情をしていたと信じていました。
2番目の写真のイエスの写真はアフリカの黒人の顔です。それも悪くはありませんが、アラブの血の顔は浅黒いのです。

見出しのショックを受け、読んでみたら大した記事でありません。しかし人種差別運動はここまで徹底するのかと考えさせる記事なので敢えてご紹介いたしました。

「甲斐駒岳の麓に遊び花と森の写真を撮る」

2020年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県の西に甲斐駒岳と八ヶ岳があります。麓は北杜市という広大な高原です。昨日は甲斐駒岳の麓にある山小屋に遊び花と森の写真を撮って来ました。今日はその写真をお送りいたします。

1番目の写真は昨日の甲斐駒岳です。昨日は青空でしたが甲斐駒岳は厚い雲に覆われていました。甲斐駒岳は標高3000m近くあり頂上が白い花崗岩で覆われている美しい山です。

2番目の写真は甲斐駒岳の麓に咲くタチアオイの花です。

3番目の写真も同じ花畑に咲く花の写真です。

4番目の写真は色とりどりなタチアオイの花です。

5番目の写真は甲斐駒岳の麓の森に入って行く道です。美しい雑木林に囲まれた道です。

6番目の写真は奥深い森に囲まれた私の小さな小屋です。小屋の中で家内と昼食のオニギリとシュークリームを食べて来ました。窓の外には鬱蒼とした樹々が見えます。遠方でホトトギスが鳴いています。

7番目の写真は小さな小屋のまわりの森です。
帰りに45年前から世話になった牧場主の家にお土産のお菓子を届けました。そうしたら桃を一箱貰いました。山梨県はコメとブドウとモモの有名な産地なのです。温かい人情に触れたようで幸せな気分で帰って来ました。楽しい老境の一日でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「奴隷制度、植民地主義を自ら非難する欧米社会の激変」

2020年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム
現在、欧米社会は激変しています。奴隷制度や植民地主義を自ら非難し始めたのです。奴隷制度や植民地主義に関与した英雄たちの銅像を破壊したり撤去しているのです。アメリカの建国の父、コロンブスの銅像も首を取られたのです。欧米社会の倫理観が激変しているのです。
今日はこれに関連したニュース記事をお送りします。欧米社会の倫理観が激変のニュース記事です。

「アメリカの抗議デモが彫像撤去に発展。署名キャンペーンも」
6/8(月) 17:43配信、Yahooニュースhttps://news.yahoo.co.jp/articles/769eb0c0c2152ddc0a059613f67913dbcb7abf76

 アメリカ・ミネアポリスで黒人男性ジョージ・フロイドが白人警官によって殺害された事件に端を発してアメリアで続く抗議デモ。その影響が、欧米の都市に設置されている歴史的人物の記念像にも波及している。
「ARTnews」によれば、アメリカ・フィラデルフィアでは、60~70年代に黒人を弾圧したフランク・リッツォ元市長の銅像が標的となった。約1週間のあいだ、抗議者たちは市庁舎の前に設置された銅像を破壊。胸に「ブタ」という言葉も塗ったという。こうした激しい抗議を受け、この銅像は6月3日に撤去された。

南部連合の軍司令官を務めたロバート・エドワード・リー将軍像をはじめとする彫像も、抗議デモの対象となった。同州のラルフ・ノーサム知事は4日、ロバート・エドワード・リー将軍像を撤去することを発表。「この像は長いあいだここにあったが、当時もいまも間違っている」とし、「できるだけ早く撤去する」と述べている。

1番目の写真は南部連合の軍司令官を務めたロバート・エドワード・リー将軍像です。

 抗議活動が広がっているイギリスのブリストルでは、17世紀にアメリカ大陸へ10万人の西アフリカの奴隷を輸送した奴隷商人であるエドワード・コルストンの記念碑が壊され、近くのエイボン川に投げ捨てられたと、ガーディアン紙が報道した。
また、ベルギーのブリュッセルでは、1865年~1909年に在位していたベルギーの国王・レオポルド2世の銅像も抗議の標的となった。レオポルド2世は1885年~1908年、コンゴを私有地として支配し、圧政を敷いた。ネット上では、このレオポルド2世像の撤去を求めるキャンペーンがスタート。8日の時点では、約6万人の署名が集まっている。
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コロンブス像破壊される 人種差別抗議で―米
2020年06月11日15時45分 【時事ドットコム記事】https://www.jiji.com/jc/article?k=2020061100785&g=int

【ボストンAFP時事】米マサチューセッツ州ボストンで、市中心部の公園に設置されたコロンブス像の頭部が何者かに切断された。地元警察が10日、明らかにした。米国ではミネソタ州の黒人男性暴行死事件への抗議デモを受けて、奴隷制維持を主張した人物や入植時代の指導者らの銅像を撤去するよう求める声が広がっている。
 地元メディアによると、コロンブス像はフロリダ州マイアミやバージニア州リッチモンドでも、ペンキを塗られたり引き倒されたりした。
 イタリア出身の探検家コロンブスをめぐっては、「新世界」の発見者として米国の学校の教科書で紹介されてきたが、先住民虐殺の時代を招いたと考える人も多い。

2番目の写真は米マサチューセッツ州ボストンの公園で、頭部を切断されたコロンブス像とその前でポーズをとる女性の写真です。

このほかにも奴隷制度、植民地主義を自ら非難する欧米社会関連の記事は多くありますが省略します。
欧米社会が奴隷制度、植民地主義を自ら反省し始めたのです。遅きに失しましたが論理的には正しい方向に動き出したのです。
喜ばしいことです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の年間第13主日のミサも動画配信で与りました」

2020年06月28日 | インポート
今日は年間第13の主日です。ミサを動画配信であずかりました。
日本の全てのカトリック教会はコロナ感染予防のためにミサを止めています。
しかし制限しながら教会でのミサが始まりました。けれども高齢者は出席はしません。
東京大司教区では土曜日の夜に行う主日のミサを動画配信しています。
古い伝統では土曜日の夜に日曜日が始まるのです。ですから土曜日の夜に日曜日の主日のミサも行えるのです。
私どもは何時ものように今日の午前中に昨日の土曜日の夜の主日のミサにあずかりました。
今日のミサの写真を2枚お送りします。そして長崎の隠れキリシタンの里、外海町のカトリック黒崎教会の写真を1枚ご紹介いたしたいと思います。





フランシスコ・ザビエルの紹介:
ローマ法王の使節、イエズス会の東インド管区長の資格をもって、彼はコモリン岬をはじめインド各地を巡り、さらに1545年から47年にかけて、マラッカからモルッカ諸島まで布教に従事した。その間、マラッカの教会で最初の日本人として鹿児島出身のヤジロウ(アンジロウ)らに会い、彼らの母国日本にキリシタン宗門を広める大いなる熱意を抱いた。
1549年(天文18)8月15日にザビエルは鹿児島に第一歩を印した。

薩摩、平戸を経、周防でも同僚フェルナンデス修道士らと伝道したのち、1551年の初めに堺に達し、ついで京都に赴いたが、戦乱のために天皇も将軍も権威がないのを悟る。
落胆のうちに西下した彼は、周防の大内義隆を再度訪れ、数々の珍奇な品を献上してその好意のもとに山口で布教した。ついで豊後にポルトガル船が入港したとの知らせでその地に移り、大友宗麟に謁したのち、1551年ひとまず離日してインドに帰った。

翌年中国布教を志してゴアから旅立ったが、広東沖のサンショアン島で病死した。ときに1552年12月2日。遺骸は現在ゴアのボン・ジェズ教会にあり、右腕だけはローマのジェズ教会に安置されている。1622年、聖人の位に列せられた。

「日本人と神社とのかかわり」

2020年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日です。みなさまお元気でしょうか。日曜日には宗教に関する記事を書くことにしています。
そこで今日は日本人と神社とのかかわりについてスケッチ風に描いてみたいと思っています。
日本人なら幼少の頃、神社の境内で遊んだ事があると思います。そこはいつ行っても清潔で、子供が遊び回っても叱られない自由な空間です。特に神主さんが住んで居ない神社は蝉取りをしようが、野球をしようが誰にも叱られません。
祭礼の日になると日頃の腕白ぶりをやめ、何事も無かったように楽しく出店を見て楽しみました。その恩返しに元旦にお賽銭を持ってお参りに行ったものです。
老年になった現在でも神社を見ると入って行ってお賽銭を上げます。幼少の頃に遊ばせてくれた恩返しのつもりです。
神社や神道は日本古来の宗教です。山や木や、もろもろの神様や偉い人達がご神体として祀ってあります。家内安全や五穀豊穣を願ってお祈りします。
多くの日本人は神社を遊び場にして育ったと思います。家内安全を祈った場所でした。この様な場所を持っている日本人は幸せだと思います。
このように日本人と神社や神道とのかかわりは軽やかで一見重要でないようにも見えます。
しかし神社や神道は日本民族の基底にある重要な文化の一部なのです。
以下では3つの神社の写真と富士山信仰の宗教的な登山の風景写真2枚を掲載します。
神社の写真は九州の祐徳稲荷神社と京都の賀茂別雷神社と北海道の札幌稲荷神社の写真です。
祐徳稲荷神社は何年か以前に行きましたが日本一豪華な神社です。神主さんたちが沢山いました。とても子供が境内で野球をして遊べるような雰囲気ではありませんでした。故郷の神主さんがいない質素な神社を懐かしく思い出しました。

1番目の写真は日本一豪華な九州の祐徳稲荷神社です。

2番目の写真は京都の賀茂別雷神社です。賀茂別雷神社の写真の出典は、http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005602.html です。

3番目の写真は北海道の札幌の伏見稲荷神社です。

4番目の写真は富士山の宗教的登山の風景写真です。出典は、http://www.fusokyo.org/activity.html です。

5番目の写真も富士山の宗教的登山の風景写真です。
さて4番目と5番目の写真の富士山の宗教的登山の風景は珍しいと思いますので、少し説明を加えておきます。
富士山の宗教的登山とは富士山を神と信じ、富士山へ登ることです。登れば神のふところに抱かれて、神と自分が一体になるのです。神様が自分の体に乗り移ってくれるのです。自分の人間としての汚さを洗い流してくれるのです。「六根清浄、お山は晴天」と唱えながら杖をつき、白い装束で一列になって登るのです。
それは深い、深い宗教的な境地なのです。キリスト教でもイエス様が自分の身の中に居るという表現を使う時があります。何か勇気がいる事を行う時、自分が行うのではなくイエス様が行ってくれるのだと意識します。そうすると不思議に心配が無くなり正しい事が出来るようになるのです。
このように神と自分の合体感を得る体験はどんな宗教でも重要な事としています。その為の修業の方法がいろいろ決まっているのです。
富士山の宗教的登山は修験道の一つです。神道と仏教とが習合して出来た修験道です。
宗教のことをあまり知らない人は、「修業すれば人は誰でも良い人間になれる」と言います。それは半分嘘で、半分しか正しくありません。いくら修業を積んでも良い人間になれない多くの人間が居ます。その一方で、修業を積んで良い人間になれる人もいます。
ここで重要な事は結果でなく、修業中の人間はその間だけでも善人になれる事なのです。
間違いを恐れずに書けば、いかなる悪人でも善人になれるとはこういう意味なのです。
修験道にもそのように深い宗教性があるのです。写真からご想像頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「店の廃業は顧客にとっても悲しい出来事、坂東簗の店仕舞い」

2020年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム
人生にはいろいろ悲しい出来事が起きるものです。例えば何十年と付き合ってきた近所の酒屋さんが廃業した時はショックを受けました。悲しい出来事でした。新婚以来、ずうっと花々を買って来た花栽培の店が突然、倒産しことも悲しい出来事でした。
そしてよく行った利根川上流の坂東簗が6年前に廃業した時もショックを受けました。あれから随分たちましたが坂東簗のことは忘れられません。
そこで今日は利根川上流の坂東簗にまつわる思い出を書いてみたいと思います。
毎年、今頃になると坂東簗から、「今年も7月1日から9月30日まで営業を致しますのでお越しください」と案内状が来ていました。それが2015年の手紙は店仕舞いの挨拶状でした。何十年も家族とともに楽しんできた坂東簗が無くなるのです。悲しい出来事です。
簗で捕った鮎を見晴らしの良い川岸で食べるのは毎年の我が家の楽しい年中行事でした。それが消えてなくなるのです。
坂東簗の発祥は江戸時代末期です。戦争の影響で一旦閉鎖されましたが、昭和29年に利根川の別名「坂東太郎」の名を冠して再び営業を始めました。そこは関東地方では有名な鮎料理の簗でした。
鮎を食べていると夏草の茂る利根川の広い川原が見渡せて、その向こうには榛名山や伊香保の山並みが見えるのです。その風情ある情景が忘れられません。
この坂東簗が営業を止める理由はいろいろな事情があるのでしょうが、何と言っても近年、鮎そのものが不味くなり客足が途絶えがちなったためです。
美味しい鮎は果物のスイカのような高貴な香りがして、食べると適度に油ものっていて意外に芳醇な味がするのです。
その香りと味は鮎が川石に生えている苔を食べているからだと言われています。そのスイカのような香りのする苔が川の生態変化で無くなってしまったと言われています。
そして安価な養殖鮎がスーパーに並んでいます。坂東簗でも釣り師が持ち込む天然鮎を使っていたようですが、その天然鮎が不味くなってはどうしようもなかったのでしょう。数が足りなくて養殖物を使っていたのかもしれません。
私の家内が鮎が特に好きだったので毎年のように坂東簗に通いました。娘夫婦、息子夫婦孫と一緒に楽しんだものでした。しかし鮎の味が不味くなる一方で、客の数も減ってきました。

ある時、店のなかを見物してまわりました。料理場の外の廊下に古い写真が沢山飾ってあります。明治、大正時代に前橋の金持ちが人力車で乗り付けています。それには芸者さんの乗った人力車も続いているのです。栄枯盛衰は世のならいという言葉を思い出します。
鮎料理の衰退は、鮎が不味くなっただけが原因ではありません。街々に美味しい手軽なレストランや寿司の店が展開し、イタリアンでも中華でも何でも簡単に楽しめるようになったのも一つの大きな原因になっているのです。人々の食の好みが鮎や鯉などの川魚料理だけでなく多様になったのです。
坂東簗も店仕舞いしましたので、自分で撮った写真を掲載し、群馬県地方の一つの食文化の記録を残したいと思います。

1番目の写真は坂東簗です。関越高速道路の渋川インターを出て、前橋方向に戻り利根川を渡るとすぐにこの坂東簗があります。

2番目の写真は鮎の焼き場の写真です。店の玄関を入ると直ぐに左手に広い焼き場があり、菅笠をかぶった職人たちが汗を流して熱心に数多くの鮎を焼いています。
鮎料理は塩焼きだけでなく、味噌焼き、鮎の甘露煮、鮎のフライ、鮎のうるか、鮎のお澄まし、鮎ごはんなどが出ます。

3番目の写真は坂東簗の客席から見える利根川の川岸の風景です。客席に座ると木を組んだ簗が見え、その向こうに利根川と榛名山が広がっています。

4番目の写真は鮎を取る簗です。鮎料理を注文すると、料理が来るまでしばらく時間があります。写真のような簗に降りて水流を眺めます。簗の先端には時々、鮎の小さなものやハヤが上がってきます。拾って備え付けの木箱に入れて生かしておきます。子供が自由に持ち帰って良いのです。簗から上がってくると塩焼きが来ます。熱いうちに中骨を抜いて食べます。

5番目の写真は家内が鮎を食べているところです。昔、幼少の頃、多摩川の天然鮎を沢山食べたことを思い出すそうです。
このように利根川で取れた鮎を川風に吹かれながら食べる風習はもう無くなってしまったのです。
群馬県地方の一つの食文化の終焉です。群馬県の夏の風物詩が一つなくなったのです。ささやかながら記録を残したいと思います。
考えてみると日本の地方には特色ある食文化がありました。しかし時代とともに消えて行く運命にあるのではないでしょうか。淋しいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「初夏の風物詩、入谷の朝顔市と下町情緒への憧れ」

2020年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は初夏の風物詩、入谷の朝顔市をご紹介したいと思います。そして私の下町情緒への憧れを少し書いてみたいと存じます。
さて入谷朝顔まつりです。
この朝顔市は今年は中止ですが、去年までは毎年7月6日から8日まで開催され、日本最大の朝顔市でした。この三日間は入谷鬼子母神や言問通りに120軒の朝顔業者と100の露店が並び、毎年約40万人もの人出で賑わっていたそうです。
入谷の朝顔が世に知られるようになったのは、江戸時代末期の頃といわれています。最初は御徒町で栽培されていたものが、時代の変遷とともに入谷の植木屋が造るようになったそうです。明治中期になるとその出来栄えの素晴らしさから、鑑賞用として広く知られるようになりました。
最盛期の頃は、花粉の交配によって一千種類もの朝顔が花を咲かせたといいます。その後、大正の時代に一度入谷の地から姿を消した朝顔ですが、戦後に朝顔同好会により、再び朝顔市として今の姿を取り戻すこととなりました。
江戸時代から夏の風物詩として江戸っ子に親しまれてきた朝顔。時代を超えて、江戸の夏が感じられる三日間です。
詳しくは、入谷朝顔市;http://www.gotokyo.org/jp/kanko/taito/event/iriya_asagao.htm をご覧下さい。
5枚の写真にこの朝顔市の朝顔の花の写真をお送りいたします。









朝顔市と言えば入谷は下町なので下町情緒があふれているに違いありません。
私は下町に住んだことがありません。そのせいか私は下町情緒に強い憧れを持っています。
そこで東京の下町について書いてみます。出典は、「下町情緒あふれるエリア」、https://rtrp.jp/articles/84951/ です。
これは人情味あふれる東京の下町をまとめて紹介した資料です。
江戸時代のはじめは、下町とよばれていた地域は神田のあたりでした。ですが、時代が経過していくとともに下町は拡大していきます。現在の東京の代表的な下町は日本橋、京橋、神田、下谷、浅草、本所、深川と言われています。
さて入谷の歴史です。
入谷は昔、豊島郡坂本村の一部でした。江戸時代には正式な行政地名ではなかったのです。
室町時代までは入谷一帯は千束池の底にありましたが、戦国時代に埋め立てられて開墾されたのです。その後目立った開発はされず、入谷土器という焼き物が生産されていたことが知られているだけです。
江戸時代末期から明治時代に入って、朝顔栽培が盛んになり、やがて入谷朝顔市が開かれる場所として有名になりました。
また「恐れ入谷の鬼子母神」と謳われた入谷鬼子母神も旧入谷町内にあります。
このような下町の日本橋、京橋、神田、下谷、浅草、本所、深川には人情篤い江戸の町人文化が残っているのです。
それは江戸城の近所や山の手の武士階級の文化とは違います。
江戸の町人文化を言葉で説明するのは難しいのですが、江戸落語の世界と言えばお分かりと思います。
義理人情に篤いがどこか抜けている親しみ易い長屋の住人の持っている文化です。武士の格式ばった文化とは違います。
私が下町情緒に強い憧れを持っているのは江戸落語の世界が好きなせいだからと思います。

これは全くの余談ですが、長年一緒に住んでいる家内は下町文化よりも山の手文化を背負っています。それも私が下町情緒に憧れている理由の一つです。つまらぬことで失礼しました。

それにしても初夏の風物詩、入谷の朝顔は本当に美しいですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、薬用植物の花の写真を撮りに行く」

2020年06月24日 | 日記
コロナ問題でしばらく閉園していた都立薬草植物園に花の写真を撮りに行ってきました。
大きな樹々もある広い植物園なので空気が新鮮で心地良い初夏の風が吹いています。
家内が撮った写真をお送りいたします。5枚の写真の花の名は順々にウイキョウ、ハンゲショウ、セイヨウナツユキソウ、カルトン、モチツツジです。全て薬の原料になります。









「私が中国共産党のある党員と非常に親しくなったいきさつ」

2020年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム
これは私の個人的な感情です。中国が西洋の植民地主義で侵食されたことに怒りを感じていました。東洋人としての怒りです。
清朝の終わりころから英領の香港やポルトガル領の厦門が作られ、いろいろな大都市に西洋諸国の租界という治外法権の区画が作られたのです。このことに私は怒りを感じていました。
それはさておき私は1979年に初めて中国大陸の人々に会いました。      
1979年、ベルサイユ宮殿前の国際会議場で北京鉄鋼学高学院の周栄章教授たちに会ったのです。私は彼に西洋の植民地主義に対する怒りを話しました。英語で話し合ったのです。
周栄章教授は共産軍とともに天津市を占領し、民生行政に参加した人でした。毛沢東による中国革命に参加した共産党員でした。
周氏は日本軍が真珠湾で米太平洋艦隊を攻撃した時、ものすごくうれしかったそうです。日本は太平洋へ軍事作戦を拡大するので、中国本土の戦争は中国にとって楽になると考えたからです。実はこれだけではないようでした。西洋植民地主義で清朝以来痛めつけられた中国人にとって、兄弟分の日本が西洋人に痛撃を与えたからです。

さてベルサイユ宮殿前の国際会議場で会った人によって私は北京鋼鉄学院と瀋陽にある東北工学院へ招待されました。
1981年に北京鋼鉄学院の周栄章教授が私をある秘密の部屋に案内したのです。彼が声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言いました。
暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ大學の地下室でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていました。彼は「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が禁止しても、周恩来の追悼はちゃんとやるよ。それが中国人の根性なのです」と言い切りました。
中国の首相、周恩来が死んだ時、中央政府は公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止していたのです。
外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用できたのでしょうか。このような体験は、中国も日本も権力者と一般の人々との考えが違うことを教えてくれました。

旧満州の中国東北部の瀋陽に行った時、東北工學院の陸学長がニコニコして「私は日本人の作った旅順工大の卒業です」ときれいな日本語で言いました。そこで、東北大学金属工学科で私が電気冶金学を習った森岡先生が旅順工大にいたことを話しましたら、「悪い先生もいましたが、大変お世話になった素晴らしい日本の先生もいました。ご恩は忘れません」と懐かしそうでした。中国人は個人の付き合いと国家同士の論争とは分離して考えているようです。

また北京鉄鋼学院での話に戻ります。周栄章教授から「1959年にソ連と中国が大喧嘩をした理由を知っていますか」と聞かれたことがありました。「日本の新聞では、イデオロギー路線の論争でソ連が絶交して出て行ったことになっている」と私。
周栄章教授は苦笑いして、「イデオロギー論議なんて高尚な話ではない。ソ連の空軍と海軍が中国全土の空港と港湾を自由に使い、すべての軍事作戦の指揮権をソ連に与えよと要求したからである。簡単に言うと、中国全土がソ連の植民地になるということだ」
「それは知らなかった」と私。
「毛沢東は断固拒絶した。ソ連は中国全土から引き揚げる時、無償供与した工業設備をネジ一本まで貨車に積んでシベリア鉄道で撤収した。私の大學でもすべての実験装置が持って行かれ、ガランとした建物だけが残った」。
昔、上海の英国租界の公園に「中国人と犬は入るべからず」という看板があった。この看板を中国人は絶対に忘れないのです。

以上のようないきさつで私は中国共産党の党員の周栄章さんと非常に親しくなったのです。私の西洋植民地主義への怒りが中国人の怒りと共鳴したのです。
最近欧米でも植民地主義への反省が起こり、各地で植民地主義へ加担した英雄たちの銅像が撤去されるようになりました。2004年に旅立ってしまった周栄章さんもあの世で喜んでいる筈です。

今日の挿絵代わりの写真は西安の写真です。私が周栄章さんのお陰で見た西安の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は西安の大慈恩寺の境内にある大雅塔です。ここに玄奘三蔵法師の持ち帰った経典が保管されていました。
私は1981年に許可を貰ってこの大雅塔の最上階まで登ったことがあります。当時は文化大革命の後だったので大雅塔の土の階段が崩れていたことに心が痛みました。現在は綺麗に修復され立ち入り禁止になっていると聞きました。

2番目の写真は大慈恩寺の境内にある玄奘三蔵法師の記念堂です。
写真の出典は、http://www.e-asianmarket.com/xian/xiantemple01.html です。

3番目の写真は西安の青龍寺にある空海の記念碑です。青龍寺は隋の時代、582年に創建されました。空海は、ここで恵果和尚から密教の教義を学びました。写真の出典は、https://bluebird-story.com/qinglongsi/ です。

4番目の写真は西安にある兵馬俑です。
西安の兵馬俑の写真の出典は、https://nanimonio.com/day20-xian-china-emperor-qinshihuangs-mausoleum-site-museum-huaqing-palace-huimin-street/ です。

5番目の写真は巨大な兵馬俑博物館の全体の光景です。

「友人たちが次々と消えて行き、そして甲斐駒岳だけが残った」

2020年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
老境の悲しみは親兄弟、親戚、恩人、友人が一人、また一人と旅立って行くことです。
親兄弟や恩人、仕事仲間など我が人生を大きく支えてくれた人々との惜別は深い群青色の悲しみです。そして感謝の気持ちが豊かに湧いてきます。
そしてその一方、人生の余暇に一緒に遊んだ友人たちとの別れには、そこはかとない悲しみを感じるものです。それは淡い水色のような悲しみです。
そんな友人たちの思い出を少し書いてみたいと思います。山梨県の雑木林の中の別荘地で一緒に遊んだ人々の思い出です。

その別荘地では、25人くらいのメンバーで「柳沢清流園管理組合」というものを作りました。45年ほど前のことです。毎年、夏に総会と懇親会をして来ました。

1番目の写真は甲斐駒岳の写真です。別荘地のある場所は麓の深い森の中です。森が少し平らになっている場所です。木を伐採して別荘地にしたのです。
この別荘地ではいろいろな人と知り合いました。大工さん、庭師、会計士、会社員、ブドウ栽培家、不動産業者、そして共産党員などなどです。
大工さんの中川さんはこの地に独りで住み着いていました。別荘を数軒も建て、井戸も掘り 、小型ブルドーザーで悪路も補修して清流園の維持に大きな貢献をした人でした。
何度も彼の家に遊びに行き他愛のない話をしました。彼はたまにしか人に会えないのでいろいろな話をたて続けに話していました。
小さな別荘を作るときの苦心談が主な話題でした。彼はロマンチストだったらしく作る別荘には必ず小さなベランダのついた屋根裏部屋があるのです。露天風呂をつけた家も建てました。
新築の別荘に入れてくれて説明してくれます。2階の屋根裏部屋のベランダに出ると森の梢の上に甲斐駒岳が透けて見えるのです。八ヶ岳も少しだけ見えます。

2番目の写真は別荘地の傍の牧草地から見た八ヶ岳の写真です。
中川さんは自分の別荘の庭に大きな池を作り、鱒を育てていました。その鱒を何度か頂いてきてムニエルにしてビールを飲んだものです。
最後の年の春に会った時は、「娘が旦那と一緒にこちらに引っ越して来る」と言って、楽しみにしていました。奥さんが早く亡くなったので、娘の自慢話を何度もしていたものです。その中川さんは娘の自慢話をした直後に亡くなりました。初夏に旅立ってしまったのです。

3番目の写真は別荘地への入り口の田圃の写真です。中川さんが亡くなった直後です。初夏の田植えの頃でした、私は清流園に遊びに行って彼の訃報を知りました。

4番目の写真は別荘地へ上って行く道です。美しい雑木林の中の道です。
この清流園では、もと代々木の共産党本部で働いていた追平 さんとも知り合いました。一人で住んでいて、よく散歩をする人でした。私の庭にも何度も寄ってくれて話し込んで行きました。北海道帝国大学を出た人で、卒業後から一生、共産党本部で働いていた人です。
徳田球一さんや野坂参三さんの人間的な側面を話してくれたときは大変面白かったものです。
彼は都会育ちなのでパンが好きで近所に美味しいパン屋が無いとこぼしていたものです。 家内が東京の美味しいパンを届けたら満面笑顔になりました。彼も旅立ってしまってもう9年くらにになります。懐かしい人です。

懐かしいと言えば勝沼のブドウ農家だった中村さんも面白い人でした。狩猟が趣味で犬と共に奥深い山々に何日間も入ってイノシシや鹿を撃つそうです。しかしあまり命中しないと言います。獲物の話より山奥で野営する苦労話は面白かったのです。
その彼からブドウ酒の密造方法を教わったのです。まずバケツで多量の規格外のブドウを勝沼から買ってくるのです。
それを潰して、砂糖を加えて、広口ビンに入れて数週間発酵させます。ブドウの皮には天然の発酵菌がついているのです。水で洗っていない規格外のブドウを買って来るのが鉄則です。
時々、味見をし甘味がアルコールになったら完成です。新聞紙で濾して葡萄酒の完成です。直ぐに飲まないと発酵が進み酢になってしまいます。どういう訳か中村さんは新聞紙で濾せと言うのです。
これは密造です。別荘地にも官憲が摘発に来ますかと聞いたら、こんな悪路の奥までは来ないと笑っています。
そしてブドウの産地の勝沼では皆が自家用に作っているので、時々官憲の取締りがあると言います。しかし取締り日は近所の人が皆知っているので見つからないと言ってました。自家用なので官憲も大目に見ているのでしょう。
この中村さんは60歳を過ぎてすぐに亡くなりました。旅立ってからもう20年になります。

それから私の小屋の向かいにかなり立派な別荘を建てた大宮市の長倉さんも懐かしい人です。何度も長倉さんの別荘に行っては一緒に飲みました。気持ちがサッパリした人でした。
息子やお嫁さんが幼子をつれて私の小屋の小川で遊んでいました。その後に長倉さんが急に亡くなったのです。3年前の別荘組合の懇親会で長倉さんの孫が出席していました。大学生の青年になっていました。嗚呼、長倉さんが旅立ってからもう18年もの歳月が流れ去ったのです。

5番目の写真は私どもの質素な小屋の写真です。こんな小さな小屋でも家内と夏には何日も逗留したものです。庭先に小川が流れていて、子供たちが集まっては水遊びをしていました。ほとりに作ったテーブルで友人とビールを飲んだのも楽しい思い出です。
この質素な小屋のお陰で数多くの友人が出来たのです。
こうして柳沢清流園の人々は一人去り、また一人旅立ってしまい創立当時のメンバーは庭師の谷崎さんと私達だけになってしまいました。
しかし別荘の持ち主の二代目がメンバーになって現在も夏の懇親会には三代目の子供も含めて20人くらいが集まります。組合の役員全員も2代目の人に代替わりています。

別荘地の風景は年年歳歳同じようですが、人々は変わって行きます。
気がついてみると、友人たちが次々と消えて行き、そして甲斐駒岳だけが残ったのです。昔一緒に遊んだ人がみな消えてしまいました。甲斐駒岳だけが何事も無かったように静かに見下ろしています。すべては邯鄲の夢です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「花の好きだった山里のおばさんの思い出」

2020年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は花の好きだった山里のおばさんの思い出を書きたいと思います。楽しい思い出です。
1973年に山梨の山林の中に小屋を作った頃に大変お世話になったおばさんのことです。花が好きで冬以外は庭の花や門の外の道端にも花々を絶やさない小母さんでした。
ご主人は種卵専門の養鶏をしていました。普通の卵の2、3倍大きい種卵を何度も貰い、山小屋の朝食が豊かになり楽しかったものです。栽培した椎茸や野生の胡桃なども頂き、幼かった子供たちが珍しがって大喜びしました。

満州からの引き上げの苦労にも拘わらず明るく親切な夫婦でした。
それから、しばらくして訪ねると、小母さんが独りいて、「主人はこんなふうになりました」と新しい仏壇を指さします。
あんなに明るくて元気な彼が死んでしまうとは。言葉に詰まってしまいました。
息子が1人いて当時は東京で建設重機の運転をしているといっていました。

あれから茫々35年の2008年に久しぶりに寄ってみました。当時、重機の運転をしていて、会ったことの無い息子が出て来て、小母さんは元気だが、定期検査で留守だという。昔話をしてから写真を撮らせてもらいました。
相変わらず庭には花が絶えない。梅も櫻も、そして棚の藤も散った後でしたが、ジャーマンアイリス、オオデマリ、デージー、ボタンなどが咲き誇っています。
「小母さんが居るとき、又来ます」と言って帰ってきました。そして時が流れ2019年の4月にまた行きました。門が鎖で厳重に閉まっていて人の気配がありません。今年の春にも行きました。鎖で厳重に縛ってある門の向こうには花の無い庭が荒れた様子です。
あの花好きだったおばさんも旅立ったのでしょう。2008年に息子さんに会ったのが最後になりました。

花の好きだった山里のおばさんを思い出すたびに、山小屋での楽しかった場面が走馬灯の絵のように蘇ってきます。
私ども夫婦の心の中にはあの養鶏をしていたおじさんも、花の好きなおばさんも活き活きとしています。
ここに示す5枚の写真は2008年に撮った花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










「黒人差別撤廃へのための白人側の真剣な努力」

2020年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム
その場面を見て私は涙ぐんでしまった。それは1990年、オハイオのエリー湖のサンダスキーという港での事です。黒人と白人が一緒にダンスパーティーをしているのです。あるホテルでのことでした。どういう訳か私はその中に紛れ込んだのです。周りの若い黒人と白人が本当に仲良くしている。彼等の心の温かさに圧倒されたのです。それは始めて見る光景だったのです。
それまでは若い黒人と白人が野外で一緒にバーベキュー大会をしているのは何度か見ていましたが。
私はキング牧師の1963年の有名な演説の一節を思い出す。
・・・私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。・・・
この演説に感動した白人たちが黒人差別撤廃へのため涙ぐましい努力をしてきたのです。

黒人差別を禁止する法律もケネディ大統領以来数々作られたのです。
アメリカの大学入試において黒人の合格点は白人より低く設定されています。
雇用の面では1964年成立の公民権法に基づき雇用機会均等が確保されています。
連邦機関や民間企業に黒人、少数民族及び女性を、採用の際に一定数割り当てているのです。
また、解雇の際も黒人や少数民族を優先保護し、従来の労働慣行を無視して白人を先に解雇するのです。
これはアメリカ人から直接聞いたことです。オハイオ州の首都コロンバス市では全ての白人と黒人を一緒の教育をしたのです。そのため毎日スクールバスが黒人街へ黒人の子供を迎えに行き白人の子供だけの小学校へ送り届けていたのです。毎日です。
しかしこの制度は1年で止めてしまったそうです。黒人側からの強い反対のせいで止めてしまったのです。

上に書いたようにアメリカでは黒人差別撤廃へのために白人側が真剣な努力をしてきたのです。
それなのに何故、今回のように警官が黒人を簡単に殺すのでしょうか? 
アメリカの白人を大雑把に2つに分けると「リベラル派」と「保守派」に分けらるのです。「リベラル派」は黒人差別反対ですが、「保守派」は黒人差別賛成の傾向が強いのです。民主党には「リベラル派」が多く、共和党に「保守派」が多い傾向があるのです。
トランプ大統領は共和党です。黒人差別撤廃へのためデモを軍隊で鎮圧するという発想はトランプ大統領としては本音だったのです。
このようにアメリカには多数の「保守派」が居るかぎりアメリカの黒人差別は永遠に続くのです。

しかし今回の黒人差別撤廃のデモには明るい希望が見えます。それはヨーロッパの白人達が本当に怒ってデモをしたことです。
ここに3枚の写真を示します。写真は順々にロンドン、パリ、アムテルダムでのデモの光景です。





そしてアメリカ国内でもアップルやアマゾン、フェイスブックといった大企業が「ブラック・ライブス・マター運動」への賛同を表明したのです。それに呼応して、コカ・コーラ、マクドナルド、ナイキのほか、医薬品大手のMerckやファッションブランドのコーチ、エンタメ業界ではMTV、Netflixなども次々に声明を出し、黒人差別反対運動への協力を表明したのです。

私は今回の黒人差別反対運動で欧米社会での人種差別が少なくなると信じています。根絶されないとしても状況はかなり改善されると信じています。
キング牧師の1963年の有名な演説の内容がこの世で実行されるのです。いやまだまだ満足な状況ではありませんが明るい光が見えてきます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の年間第12主日のミサも動画配信で与りました」

2020年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は年間第12の主日です。ミサを動画配信であずかりました。
日本の全てのカトリック教会はコロナ感染予防のためにミサを止めています。
しかし来週から制限しながら教会でのミサが始まります。
東京大司教区では土曜日の夜に行う主日のミサを動画配信しています。
古い伝統では土曜日の夜に日曜日が始まるのです。ですから土曜日の夜に日曜日の主日のミサも行えるのです。
私どもは何時ものように今日の午前中に昨日の土曜日の夜の主日のミサにあずかりました。
そのURLは、https://www.youtube.com/watch?v=XeeN0MUpq2I です。

1番目の写真は無人島に残るカトリック野首教会です。

2番目の写真は今日の年間第12の主日のミサです。

3番目の写真も今日の年間第12の主日のミサです。
ここで無人島に残るカトリック野首教会の説明をします。
五島列島の野崎島の野首地区に住む17世帯のキリシタン信者たちが費用を工面し、1908年(明治41年)に野首教会を完成しました。
五島をはじめ長崎県で多くの教会建築を手がけた鉄川与助が作りました。
野首教会は彼が初めて手がけた煉瓦造りの聖堂でした。
野崎島の島民は最盛期には約650人でしたが、高度経済成長期になると島民が減少し、1971年(昭和46年)に残っていた野首地区のカトリック信徒6世帯31人が島を去り、教会は無人となったのです。
その後、教会は荒れ果てていたが、1989年(平成元年)に長崎県指定有形文化財に指定され、小値賀町によって修復されました。
そして2018年に、ユネスコの世界遺産(文化遺産)になったのです。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する「野崎島の集落」(野首集落跡)に包括される教会なのです。

「大天井岳の斜面とスエーデンの高山植物の花」

2020年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
私は長い生涯で高山植物の花々が一面に咲いている光景を2度だけ見たことがあります。1度目は北アルプスの大天井岳の斜面でした。そうして2度目は夏の白夜のスエーデンの野原でした。
まず一度目の思い出です。
あれは23歳の夏でした。北アルプス表銀座を縦走したのです。
JR大糸線の穂高駅から中房温泉に泊り、燕岳を乗り越して、大天井岳、西岳と尾根道を縦走し、槍の肩の小屋に泊りました。
その時、大天井岳の下の広い斜面に写真に示したような花畑があったのです。
中房温泉から燕岳への急坂に疲れ切っていた私はうつむいて歩いていたのです。すると突然眼前に高山植物の花畑が広がったのです。それは息を飲むような美しい光景です。疲れ切っていたので一層感動したのです。
山の上にこんな広い花畑があるとは想像もしていなかったのです。その後は足取りも軽く槍の肩の小屋まで登ったのでした。
翌日は南岳へ尾根道を縦走し、難所の大キレットを慎重に渡り北穂小屋に泊りました。
翌日はカラ沢を下り、梓川沿いに上高地に出てバスで松本へ帰りました。
大天井岳の下の広い斜面で見た花畑の光景は一生忘れられない思い出になったのです。

2度目に高山植物の花畑を見たのは夏のスエーデンでした。
1972年にストックホルムにある王立工科大学に招ばれ8月から11月にかけて4ケ月間程住んでいたことがあります。私を招んでくれたのエケトルプ教授でした。
自宅にも何度も招待されました。
そうしたらエケトルプ教授の家の裏の野原に一面に日本の高山植物のような花々が咲いていたのです。色とりどりの花々が白夜のうす暗い中に夢幻のように広がっています。
裏に塀や柵がなく野原が果てしなく花畑になっているのです。感動しました。
スエーデンは緯度が高いので夏は白夜で太陽の光も弱々しい国です。ですから日本の高山植物のような花々が平野の野原に咲いているのです。
エケトルプ教授に聞くと、「草花の種を買って来て家の周りの野原に播いたのです」と言います。
そして「よく見て下さい。日本の高山植物のように見えますが、種類は違います」とも云ってました。

あの懐かしいエケトルプ教授が亡くなってからもう何年もの月日が流れました。
しかしエケトルプ教授の家の周りに咲いていた高山植物のような花々が忘れられません。

今日の挿絵代わりの写真は高山植物の花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は日本の北アルプスの高山植物の花畑です。
出典は「山岳ギャラリー」、http://izanaikamada.web.fc2.com/new_natsu_1.html です。写真を撮った方は鎌田則雄さんという山岳写真家です。鎌田則雄さんは、20代の頃に山へ入って以来、約30年もの歳月をかけて撮影を続ける山岳写真家です。 日本アルプスはもちろん、全国各地の美しい山の情景を写真に撮りました。

2番目の写真も鎌田則雄さんの作品です。写真の出典は1番目の写真と同じです。

3番目の写真は高山植物で有名なチングルマの花です。
写真は克ちゃん (id:arb_takahashi)のブログからお借りしました。(http://arb-takahashi.hatenablog.com/entry/2017/07/29/124508 )
チングルマの自生地の大群落で有名なのは、大雪山旭岳裾合平、秋田駒ヶ岳ムーミン谷、白馬大出原などだそうです。

4番目の写真は高山のリンドウの花です。
写真の出典は、https://pixabay.com/ja/photos/リンドウ-花-almの-774987/ です。

5番目の写真は北海道の大雪山のエゾノツガザクラの花です。
写真の出典は、http://www.sounkyo.com/ezonotugazakura.html です。

6番目の写真は高山に咲くサギソウ(鷺草)の花です。
写真の出典は、https://s.webry.info/sp/tomujii.at.webry.info/201308/article_7.html です。

7番目の写真は「高山植物の女王」と称される小さくも美しいコマクサの花です自然・植物写真家の高橋修さんが撮りました。出典は、https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=147 です。

「今日の日記、梅雨の晴れ間に花の広場に遊ぶ」

2020年06月20日 | 日記
昨日まで降り続いた雨が今日はウソのように晴れ上がりました。
午後から三鷹の花と緑の広場に遊びに行きました。
子供たちが走りまわっています。花々が咲いています。
広場の隅に座ってのんびりして来ました。
花々の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。