後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

武田一族興亡の地をめぐる旅(2)信玄の生まれた積翠寺と産湯の井戸

2010年09月30日 | 旅行記

信玄の生まれた積翠寺は甲府盆地を見下ろす険しい山懐にあります。車で登って行くと雨雲が山にかかり陰鬱な雰囲気です。信玄の父の信虎が戦いに行っている間、暗殺を恐れた正室の大井の方が隠れて、長男の信玄を産み落としたのが積翠寺です。なにもこんな侘びい山の寺に隠れて子供を産む必要が無いと思います。しかしそれが殺伐とした戦国時代の生き方でした。山の寺の暗欝さに心が寒くなります。

晴信(後の信玄)は1521年に積翠寺で生まれ、1573年に上洛の途中の三河で病気になり死にます。満52歳の短い人生でした。

母、大井の方は甲府盆地の西の方の国衆領主であった大井信達の娘でした。夫であった信虎が1541年に長男の晴信によって駿河へ追放されたとき、正室の大井の方は同行しないで甲府の館に留まりました。夫より息子のそばに居たかったようです。現在でもよくある場面です。信虎と信玄の不和は性格の相違と、信玄の領地拡大戦争へ信虎が反対したためと想像されます。

武田家の初代、信義は周辺の領主を倒し、甲斐の国を統一しました。それから19代目の信玄は野心家で甲州だけであきたらず、信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領有したのです。織田信長や徳川家康と張り合う大型の戦国大名でした。

したがって現在でも甲府盆地の中では郷土の英雄としてとても大切にされています。甲府盆地に入ったら信玄を褒めないと人間関係がおかしくなります。その反対に甲府盆地の西側の高遠、諏訪、や東の大月へ行くと信玄に占領された歴史があり評判が良くありません。その事は次回に少し詳しく書きます。

下に積翠寺の写真を示します。9月28日に家内が撮影しました。

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尖閣列島問題でなぜ中国政府が狂気のように理不尽なことをするのか?・・・想定される3つの原因

2010年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム

日本人は、カッカしないで冷静になって考えないと大変間違った判断をしてしまいそうです。今回の中国政府の理不尽な反応ぶりには何か深い理由がある筈です。以下に私の個人的な分析を書いてみたいと思います。

この問題を中国の国内問題として考えてみると意外に因果関係が明快に分かるような気が致します。そうすると、その理由を3つ程想像できます。

(1)中国の制海権のおよぶ東シナ海の海域を日中中間線を越えて沖縄列島近くまで拡大しようとしている長期戦略の第一歩のようです。

現在、東シナ海、南シナ海にはアメリカの原子力空母や原子力潜水艦が自由に巡回していて、その制海権はアメリカが握っています。それを中国側が取るために数年前から中国は海軍力を増強し、航空母艦まで建造中です。経済的に自信をつけた中国は軍備増強と制海権の拡大を長期的戦略としているのです。

(2)国際的に軟弱な友好政策を取ってきた胡錦濤国家主席と温家宝首相の権力再強化の目的で対日強固姿勢を打ち出し、軍部の支持を得ようとしたのが今回の原因の一つです

中国は国家主席や首相の権力が弱くなると、権力者は日清戦争から第二次大戦に至る日本の侵略の悲惨さを持ちだして、反日運動を繰り広げます。すると学校で習った日清戦争による台湾の領有や、1919年の対華21ケ条要求などで中国人の心の底に持っていた復讐心が頭をもたげます。政府がそれを煽りたてるのです。すると大衆はそのような権力者を熱烈に支持します。

(3)日米安保の現実的な効力を試すために強固姿勢と理不尽な要求をして日本とアメリカの反応を観察する目的もあります。

丁度、昨年来、普天間基地移転問題で日米安保が弱くなっています。アメリカは日本の防衛に情熱を失っているのです。そんな折にアメリカはどの程度日本の為に支援をするでしょうか?結果は明白でした。アメリカは口では日本を支援しましたが海軍の巡回強化はしませんでした。むしろ計画されていた米中の海軍共同演習をしました。これで中国は安心して制海権の及ぶ海域を日中中間線を越えて沖縄近海まで広げることが出来る勢いです。

さて上記は私の個人的な分析結果です。このような分析が日本のマスコミに報道されず感情的な記事だけがまかり通っている状態に心配を禁じ得ません。

原因が分かれば対策も立てやすいものです。

皆様はどのようにお考えでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

                         藤山杜人


尖閣列島は日本固有の領土だという証明が薄弱すぎる!

2010年09月29日 | 日記・エッセイ・コラム

尖閣列島の問題になると、多くの人々がそれは日本の領土として証明されていて議論の余地がないと平気で言います。

その言い方はあまりにも感情的であり、「客観的証明」というものをひどく軽々しく考えているようです。実に寒心に耐えません。

本来、証明とは欧米人もアジア人も全ての人々が納得する幾つもの証拠が存在している場合に使って良い言葉なのです。日本人だけが納得する証拠は幾ら数え上げても証拠になりません。

1940年まで日本人のカツオ節工場が存在していたから日本の領土だという証拠になるという主張は、全く証拠になりません。大日本帝国の軍隊に守られてカツオ節工場があったとしたら、それは武力領有で、敗戦後、中国側へ返還されるべきだと中国側は主張します。

証拠は先方も周りの国々も納得するものでなければ証拠と言えません。

韓国や台湾やフィリピンの人々に尖閣列島の領有権がどの国にあるか聞いてご覧なさい。日本ですと明確に答える人が何人いるでしょうか?

日本政府はこれまで尖閣列島が日本の領土だという証拠を作り、その事実を周辺国へ宣伝して来なかったのです。

勿論、住民に住んでもらい、自衛隊を常駐させ実効支配をする努力もして来なかったのです。固有の領土としての努力をしていないで巡視艇がいきなり中国漁船を拿捕すれば中国政府にうまく利用されてしまいます。

日本政府の自閉症的な発想と外交戦略の欠如が今回の事件があばきだしていると思っています。

さて貴方はどのようにお考えでしょうか?反論を頂ければ大変嬉しく存じます。


武田一族興亡の地をめぐる旅(1)初代、信義が元服した武田八幡宮

2010年09月29日 | 写真

武田一族で偉大だったのは初代の信義と19代目の信玄の2人です。一族の滅亡は信玄の次の勝頼の時です。織田信長・徳川家康連合軍の追撃で、甲府盆地を出て東の大月の岩殿城へ向かって逃げます。しかし岩殿城の謀反により途中の天目山で打ち取られます。1582年でした。その墓は天目山の麓の景徳院にあります。

今回の小さな旅は、武田家初代の信義が元服式をした武田八幡宮から始まって、信虎、信玄、勝頼の3代の屋敷、「躑躅ケ崎館」跡地(武田神社)、信玄が長野から移転させた甲州善光寺、そして天目山の麓の景徳院をめぐる旅をしました。

下の写真は平安時代末から鎌倉時代にかけて源頼朝、源義仲、と並んで覇を競い合った武田信義が館を構えていた韮崎市の武田の里に現存する武田八幡神社と武田の里の風景です。尚、写真の下のは、Wikipedeaの「武田信義」の項目からの抜粋文を参考資料として付け加えます。

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武田 信義(たけだ のぶよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%BE%A9

源清光の次男。逸見光長双子の兄になる(一説に逸見光長とは異母兄弟)。甲斐源氏四代目当主であり、武田信玄で名高い甲斐武田氏の初代当主である。大治3年(11288月15新羅三郎義光の孫である源清光の次男として生まれる。逸見太郎光長と一卵性双生児として生まれた。逸見光長は巳刻に生まれ、武田信義は午刻に生まれる(『尊卑分脈』に記述有り)。幼名を龍光丸・勝千代といった。保延6年(1140)、13歳で武田八幡宮にて元服し、武田太郎信義と名を改める。これ以来、武田八幡神社は甲斐武田氏の氏神となる。武田の名字は河内源氏の一族の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清常陸国武田郷(現:茨城県ひたちなか市)から甲斐国に配流されて武田氏を名乗ったのに始まる。

治承4年(11804以仁王の令旨により、甲斐源氏を石和に集結させて挙兵し甲斐国の実権を握る(『山槐記』)。このとき信義は53歳であった。ついで信濃に侵攻し諏訪に進出する。その後、駿河国に進出して駿河目代橘遠茂や長田入道を討ち取り、平家本軍到着以前に駿河を占拠する(『吾妻鏡』)。平家本軍が近づくと弟の安田義定や子の一条忠頼らを引き連れて富士川の戦いにも参戦した。吾妻鏡によると駿河守護となったとされているが、実際には信義は実力で駿河を手中にしていた。その後しばらくの間、東国では源頼朝、武田信義、源義仲の三者が武家の棟梁として並立する時期が続く。


ガンの治療を断り美しく旅立って行った人の思い出

2010年09月29日 | 日記・エッセイ・コラム
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私のマイフレに英国に住んでいる65歳位の男性がいます。Zonサノバビッチさんという名前で文章を趣味人倶楽部で発表しています。

その方が12年前に亡くなった英国人の友人を思い返して、書いた文章を見つけました。メールのやり取りをして、その文章をここに転載する許可を頂きました。しみじみとした文章です。そして美しく旅立った人のためにお墓を作るのです。最後の数行をお読み下さい。この数行の故に、私はZonサノバビッチさんと知り合ったことを誇りに思っています。

ガンの治療を断って静かに人生を終えた人は無宗教でした。私はいい加減なカトリック信者で、このブログでもキリスト教の宣伝まがいの文章を沢山書いています。しかし何時も無宗教の人々へ対する敬意を滲ませた文章を書いてきました。それが本当に良かったとも感じました。是非ご一読下さい。

=====Zon・サノバビッチさん著、「バイバイ」==========

私は、自分の人生において、あれほど感動した経験を持たない。

深い深い寝息を立てられること数時間。それがあるとき止ったと思うと、何か「上品な退席」をされるかのごとく、すっと逝かれた。

ホスピスでのことであったが、前日「気分が悪い」と言われたとき、その翌朝に亡くなるということが、私には分った。 時間まで、、。朝4時。

ジャックさんは、その2週間ほど前、医者から直接自分が癌の末期症状にあることを宣告され、何ら取り乱すことなく、私にこう言われた。

「わしは、もう永く生きてはいない。今度はあの世で会おう。」

(因みに、そのほぼ2年前、膀胱に癌細胞が発見されたとき、「もう年寄りだから」という理由で、手術を受けることを拒否されている。)

このことを思い出すたび、私はいつも目頭が熱くなる。

ジャックさんは、宗教的な人ではさらさらなかったが、その逝き方は実に綺麗であった。事実あれほど美しい死を見たことがない。人間、あんなに綺麗に死ねるものであろうか。 自分の死に対して、何ら「見返り」を期待せず、潔く「バイバイ」と手を振って逝かれた。私はそこにいたく感動したのである。

身寄りと言って大しておられなかったジャックさんの没後の処理は、結局私がすることになったが、彼の遺灰は全身、私の今のグリニッヂの家の庭に埋めた。そして、その上に、灯篭を置いた。

ただ遺憾なことに、私、この極めて上質な人間でおられたジャックさんに必ずしもいつも親切であったとは言いがたい。

今にしてすまないことをしたと思っているが、そんなことを言っても始まらない。私に出来る最高の恩返しは、これからの人生、いかに全うに生きるかということだけであろう。
ジャックさんが逝かれたのは、12年前の5月1日、未明のことである。  享年88歳。

=========終り=============

皆様のご健康を心からお祈り申し上げます。 藤山杜人


今年は夏が暑過ぎて武川米は不作でした!

2010年09月28日 | 写真

昨日から山梨の甲府に一泊する小さな旅に行きました。

北杜市の稲田は酷暑のせいで稲の実りが悪くて農家の人々が困っていました。稲刈りの済んだ田とこれからの田が混じり合い山里の秋の風景が広がっていました。

そんな風景写真をお楽しみ下さい。天気が悪くて良い写真ではありませんが。

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追憶を誘うコスモスの花

2010年09月28日 | 写真

コスモスの花を見ると何故か昔の事があれやこれやと思い出させてくれます。私はコスモスの花を「追憶の花」と心の中で呼んでいます。

去年の9月19日に、車で40分程の立川基地跡に出来た昭和記念公園へ行きました。家内と自転車を借りて3時間ほどサイクリングしました。コスモス祭りで、丁度満開でした。家内が撮った写真なので上手ではありませんが、お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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低質な教育が日本の弱体化の原因になっている・・・尖閣列島問題で浮き彫りになった日本の弱さ

2010年09月28日 | インポート

9月24日の記事に、世界を支配する帝国としてのアメリカを内側から支えるもの という題目の文章を掲載しました。趣旨はアメリカの強烈な大学教育が世界帝国としてのアメリカを内側から支えているという考えを書いたものです。

それを受けてイギリスに永く在住しているzonさんから英国の大学もアメリカ同様ですというコメントを頂きました。それを下にご紹介致します。

その前に、何故日本は尖閣列島問題で右往左往するかを考えて見ました。その原因は常日頃国際関係を戦略的に考える能力が日本人には無いからだと思います。

相手の国の政策を長期的に観察して将来起きうる現象を予測しようとする態度が皆無なのです。船長を逮捕すれば当然この様な反応をすると予測出来た人が居なかったのです。それは日本人の外交能力の欠如です。日本の弱さをさらけ出してしまったのです。その原因は日本人一人一人が大学で戦略的に考える訓練を受けていないからです。大学教育を国際的に比較すると極端に低いからです。

それを裏ずけるのがzonさんのコメントの内容と感じています。以下にそのコメントを掲載致します。

======zonさんのコメント==============

私、小学校から大学まで、ずーっと日本の学校に行きましたが、日本の所謂「教育制度」には、不満を持ち続けていました。一度も学校が面白いと思ったことはありません。

目下英国に住んでいますが、もし、英国かアメリカで学校へ行ったのならば、私の人生、また物の見方は大きく変っていたものと思います。このことに関しまして、あるSNSに日記として書きました。それを僭越ながら、全て掲載セさせて頂きます。要旨は、貴殿のお書きになったものとほぼ同じです。

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近代化の先輩英国に永く住んでいるからといって、この国の制度の方がすべてよいという気は、さらにない。日本にもたくさんよいところがあって、時々なぜ英国くんだりにまで来て住んでいるのかと思うほどである。 さて、その日本にあらまほしき所。

入学試験制度の全廃である。ことに大学のそれ。

ドイツやフランス、アメリカの制度も同様だと思うが、英国では、「入試」というものはない。それでは、どうして入学者を決めるのかというと、その前段階の学校での試験がすべてで、それは学校とは無関係の団体が施行する全国共通試験。その試験結果と、その学校からの内申書、及び面接で入学者を決める。また、そのとき、日本の国立大学に入るときのように、全教科をほぼ一律に履修しなければならないなどという理不尽なことはない。

もう永く日本を離れているので、日本の現状を知らないとのお叱りを受けるかもしれないが、そのときはお許し願いたい。しかし、私が日本にいた頃は、「(大学)入試」という一回きりの試験のもつ比重が余りにも大きすぎると、いつも思っていた。

一本勝負に弱い生徒もあるであろうし、そこで偶々実力が十分に出せないということも勿論あるであろう。そして、その一回きりの試験が、大げさに言えば、生徒の将来の指針にまで影響するというのであるから。これは、日本の学校が、入れば、まず余程のことがない限り卒業できるという奇妙な事実によるところが大きい。

イギリスで、入試をなくせば、当然それに代わる学力査定手段が要るが、それがイギリスの外郭団体の施行する全国共通試験という訳である。ただ、ここでの問題点は、全国規模ということになると、生徒の学力に相当の「ばらつき」があるので、試験問題の難易度にかなりの柔軟性をもたさなばならぬことであろう。しかしこれも、生徒の受ける試験を同一学科内でも数種類用意することによって解決される。そして、生徒が選択する試験科目にもっと幅をもたせること。音楽、体育、美術、ITといった様なものにも、従来の科目と同じ権利を与えること。

この様に中等教育(日本の中学と高校)の学力査定(試験)にはるかに大きな重要性を持たせることによって何が起こるかというと、中等教育がもっと充実したものになるであろうこと(私が高校生の時には、大学入試のことばかりが頭にあって、高校生活を楽しんだとは、とてもいえたものではなかった)。また、浪人生、したがって予備校というものは当然なくなるであろう。ただ、塾は存続するかも知れない。

そして、そんなに「苦労して」入った日本の大学。

これは、もう恥ずかしくて、口にするのも憚られる程である。責めは、当然勉強をしなかった私にあるが、しかし、「それでも」卒業させてくれる日本の大学制度というものがおかしいと思うのは私だけであろうか。

「単位」とかいって、とにかく何かを提出すれば、通してもらえる。いかにも日本的に「表面的形式」が整えばそれでいいという、、。

余りにも自分が何も知らないということが如何にも恥ずかしく、英国では、「大学を出た」などとは、とてもとても言えたものではない。他の日本人にも決して言わない。

ところで、比較的最近(2004年)、当地の大学を「出た」。これは胸を張って言える。

ロンドン東部にある、大学のランク付けでも殆ど最下位に属するくらいの小さな大学、しかも、私が学んだのは「看護学」という、一般には、難しいとは見做されていない学科。

然し、それでもそれでもそこを無事に卒業するのは、日本の大学を出るより遥かに遥かに難しかった。そして、学生生活は余りにも忙しかった。一体当地の大学とは、「プロフェッショナル」を養成するところという概念が確立しているようで、学生に課される課題の焦点がすべてそこに当てられている。「形式が整えばいい」などという様なものではない。

試験に落ちたことも何度か。然し無事すべての「単位(Unit)」が取れて、卒業できたときは、それはそれは嬉しく、角帽にガウンを羽織り、5千円の出席料もものともせず、胸を張って卒業式に出た。そして、その後すぐに職にありつき、今もそこで働いている。

勿論、日本の大学にも、きわめて優秀な学生が沢山おられることは知っている。然し、それと同じく、私の様に、何も学ばず「卒業」された学生が多いということも知っている。ただ、私の様なのが、「大学卒」と呼ばれるのがおかしいと思うだけのことである。投稿日時: 2010/09/26 01:05=======終り========

さて皆様のご意見はいかがでしょうか?コメントを頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

                         藤山杜人


死後、有名になった田中一村画泊の絵画世界

2010年09月27日 | インポート

田中一村の絵を前にして私は言葉が出ません。ご覧下さい。出典は、http://www.ne.jp/asahi/yoshida/gaia/tanaka/frm.htm です。このHPを書いている方の文章もぜひお読みください。そしてこの方のHPの全て:http://www.ne.jp/asahi/yoshida/gaia/index.htm の数々の随筆も是非お読みください。

====註:田中一村画伯について===========

1908年ー1977年、69歳で没。以下の出典はWikipedeaより。

1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意する。1958年、奄美大島に渡り大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始める。だが、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。

没後に南日本新聞NHKの「日曜美術館」の紹介でその独特の画風が注目を集め、数年前から全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。鹿児島県は奄美大島北部・笠利町(現・奄美市)の旧空港跡地にある「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」を2001年オープンした(館長宮崎緑)。生誕100年にあたる2008年には、奈良県高市郡明日香村奈良県立万葉文化館[1](館長中西進)で「生誕100年記念特別展 田中一村展―原初へのまなざし―」が開催された。

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尖閣列島問題は対華21ケ条要求に対する中国の復讐か?

2010年09月27日 | 日記・エッセイ・コラム

尖閣列島は地図で見ると台湾の付属列島のように見える。地質学的にもそう言えるといしたら台湾に所属するのが自然です。

それを日本の領土にしたのは1985年の日清戦争後に台湾を日本の植民地にした時、尖閣列島も日本の領土になります。第二次大戦で日本が負けたときに台湾も返却したのですから尖閣列島も日本のものでは無いのです。と書くといきり立つ日本人が居ると思いますが、上記は中国人が考えそうな事を書いてみたに過ぎません。争い事に勝つためには敵の考えを知るのが鉄則です。

ところが尖閣列島問題はもっともっと根が深い問題と理解したほうが日本の為になると信じています。

日清戦争の後も日本政府は理不尽な要求を中国へ対して繰り返し行ってきたのです。1919年の対華21ケ条要求もその一例です。第一次世界大戦で勝ち組になった日本がドイツの持っていた山東省の青島市の租界を取り、近辺の権益を取ったのです。それだけではありません。中国政府は日本人の政治、経済、軍事の顧問を置くこと。警察は日中共同とし、兵器は全て日本より輸入する事。日本人の学校、病院、寺院へ土地所有権を与えること。揚子江地域での日本の鉄道敷設権を認める、などなどの理不尽な要求をしたのです。

その結果、中国では現在でも有名な五四運動が1919年に勃発したのです。そして五四運動と対華21ケ条要求は中国の教科書に現在も乗っていて、中国共産党の歴史の最重要項目として教えているのです。

尖閣列島問題で中国政府が理不尽な要求をしているのはこの対華21ケ条要求の復讐なのです。そのように考えると簡単に理解できます。復讐をするのが人間の本性です。

日本は1919年以後もつぎつぎに中国へ対して理不尽な要求をし続けたのです。

イエス様が「復讐はするな!それは神が行うことである」と幾ら言っても人間は聞く耳を持っていません。

中国人の復讐心が起きないような長期的な、そして戦略的な外交政策を考え出さないかぎり同じことが繰り返し起きます。日本人の背負っている負の遺産を冷静に分析し、賢い外交政策の展開なしでは解決になりません。皆様はどのようにお考えでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

五四運動の資料は、http://kids.gakken.co.jp/jiten/3/30009280.htmlに御座います。

対華21ケ条要求の資料は、http://kids.gakken.co.jp/jiten/5/50021750.htmlに御座います。


あなたは、こんなにやさしい顔を見たことがありますか?

2010年09月26日 | インポート

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上の写真はイエズス会石神井修道院の若い修練者が聖なるパンを信者に与えている場面です。この修練者の表情をよくご覧ください。限り無くやさしい表情をしています。そうです。イエス様の愛が彼の顔に漂っているのです。今年の春頃から毎週、日曜のミサのお手伝いに修道院から小金井教会へ来てくれています。

何度か立ち話をしてみると素晴らしい青年です。感動しましたのでイエズス会石神井修道院を訪ねて見ました。7月26日の暑い日でした。その折の記事を下に再掲載いたします。あわせてお読み頂ければ嬉しく思います。

イエズス会石神井修道院の写真だけを、とりあえずお送りいたします

このブログの記事ではいろいろな方々のインタビュー記事もあります。今日は気楽な気持ちで、イエズス会石神井修道院を取材してきました。

ところが、お会いして下さった塩谷恵策神父様に感銘を受け気楽な訪問記が書けなくなりました。博識な上、学問的に体系化された修道院の歴史を明快にご説明して下さいました。何も知らない小生へ分かり易くお話して下さったのです。

イエズス会士にお会いするのは初めてでした。昔から東洋文庫で中国や日本のイエズス会の会員の活躍を読んでいました。イエズス会士に会えるだけで興奮したのですが、お話の内容があまりにも感動的でした。これから少し調べたり、考えたりしてから記事として数回に纏めて見たいと思います。イエズス会の歴史、修道院の種類とそれぞれの役割、ヨーロッパ文化が投影されている教会組織と修道院の関係などを考えて、整理して記事に出来れば幸いと思っています。

今日は取りあえず、4枚の写真をお送りいたします。

上から順に、石神井修道院の書面玄関、船越保武氏作の和風姿のマリア様、石神井修道院の主聖堂、塩谷恵策神父様の御写真の4枚です。

なお船越保武氏は長崎の公園にある26聖人像を造った芸術家で、それに対して高村光太郎賞が1962年に与えられています。敬虔なカトリック信者で東京芸大の教授も務めました。

まず4枚の写真だけをお送りいたします。007 011 015 010


中国はヤクザ的!断固、尖閣列島を守るべしいうご意見をご紹介致します

2010年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログでは私の意見と全く反対の意見もなるべく公平にご紹介するように努力しています。

昨日、私は尖閣列島を無条件で渡したほうが日本の国益にかなうだろうという個人的な意見を掲載しました。趣味人倶楽部とBYOOLというSNSでの反応をみると多くの人が大反対というコメントを頂きました。新聞の記事を判断すると日本人のほとん大部分が尖閣列島は断固守るべしという意見のようです。私は少数意見ではありますが中国へ渡したほうが良いと思っています。その根拠は別記事で明日掲載する予定ですが、yamabousiさんの私への反対意見を以下に掲載いたします。転載を許可して下さったyamabousiさんへ感謝の意を表します。

=====yamabousi さんのご意見=============

藤山杜人さん
・・・「尖閣列島を無条件で中国側へ渡せば、日本は巨大な経済的利益を将来にわたって手に入れることが出来ます。中国から来る観光客や貿易上の利益です。それ以上に重要なことは現在中国内で操業している日本の会社の工場が安全に生産性を上げることが出来ます。尖閣列島周辺の海底原油と漁業から得られる利益よりも大きな利益を得ることの出来る

可能性があるのです。」・・・・
私には全く理解の出来ないご意見です。領土問題をあまりに軽くお考えのように感じます。
私は、尖閣列島は歴史的に見て間違いなく日本の領土で、議論の余地が無いと考えています。その領土を藤山さんの上記の理由で無条件で中国に渡すのはあまりに楽天的なお考えと思います。
そもそも、今回の中国の態度は石原都知事の言を待つまでもなく、私は「ヤクザの行為と同等」と看做しています。一旦ヤクザの言うことを聞いてしまったら、それがもとでずるずると要求が拡大するのはヤクザと健全な市民の関係を見れば明らかだと思います。
強引に自分の要求・主張ばかりを相手に押し付ける相手を信用することは出来ません。これは個人レベルの話しにしても同じことが言えると思います。従って、
中国から来る観光客や貿易上の利益
現在中国内で操業している日本の会社の工場が安全に生産性を上げることが出来る。

と言われても、保証の限りではありません。今回のような理不尽な対応をする国が、上記のを約束してくれるとは思えません。
藤山杜人さんのご意見にはヤクザの腹・気分一つで日本の立場が左右されるような脆さを感じます。
加えて、日本が尖閣列島を中国に譲った場合、日本は世界中から、とりわけアジアの国々から、弱虫日本と看做されるでしょう。そんなことになれば、国益を損なうこと甚だしいと言わざるをえません。
よって、私は藤山さんのご意見には賛同しかねます。

======yamabousi さんのご意見の終り=========

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

                    藤山杜人


台風一過、ついに爽快な秋の日がやって来ました!

2010年09月25日 | 写真

昨日は台風が関東沖の太平洋を抜け、お昼前から青空が広がり、爽快な秋風が吹いています。座敷に寝転がって青空を見上げて、秋風を楽しんでいます。かつて高原を旅した日々のことを思い出しています。酷暑の日々が続き、もう秋は来ないと思うほど長い長い夏でした。65年前の終戦の玉音放送を疎開先の校庭で聞いたことも思い出します。あの時も暑い夏の日でした。あの日からもう65年もたってしまったことが信じられません。一瞬のことのように思えます。

自宅の2階から撮った秋空の写真をお送り致します。今日は皆様も爽快な秋の日を楽しんでいらっしゃると思っています。どうぞご気分良くお過ごし下さい。

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尖閣列島は中国へ渡すのが日本の国益にかなう?

2010年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム

今回の尖閣列島付近で中国船を拿捕、船長を逮捕した事件を客観的に考えると、マスコミに現れる日本人は感情的にだけ反応しています。

例えば尖閣列島を無条件で中国側へ渡した場合の日本が手に入れる利益、すなわち国益は何であるか?このような議論が皆無なのです。

あるいは、渡さないで、自衛隊が島々へ進駐し、中国と局地的な戦争をした場合の戦略と停戦交渉はどのように進めるのかという議論もありません。

上の2つの設問に関しては、アメリカ政府の意思が大きく左右している現実を重要視することが必須のことと思います。

尖閣列島を無条件で中国側へ渡せば、日本は巨大な経済的利益を将来にわたって手に入れることが出来ます。中国から来る観光客や貿易上の利益です。それ以上に重要なことは現在中国内で操業している日本の会社の工場が安全に生産性を上げることが出来ます。尖閣列島周辺の海底原油と漁業から得られる利益よりも大きな利益を得ることの出来る可能性があるのです。

日本は日支事変から第二次大戦の間に中国を侵略していたのです。ですから中国政府は尖閣列島も不法に日本軍によって占領されたと宣伝すれば、中国人は感情的に中国政府を支持します。

従って感情的な争いでは日本政府は敗北するのです。

アメリカ政府の本音は今回の事件で軍隊を尖閣列島へ送らないという方針のようです。中国側の情報専門家はその事を確かめてから、漁船集団を送りだしたのです。

アメリカが軍隊を送らない理由ははっきりしています。それは1992年にフィリッピンのスービック海軍基地とクラーク空軍基地を撤退し、南シナ海に軍事力の空白地帯が出来てしまいました。その上普天間基地問題で日米安保が弱体化しています。この軍事的スキを中国は見逃がす筈がありません。

アメリカ政府は今回の事で、日本へ社交的な支持を表明しています。しかし、軍隊を尖閣列島へ送る意思がありません。その本音は中国の情報員は慎重に調べている筈です。沖縄から海兵隊を後方のグアム島へ撤退させる計画はシナ海の防衛は沖縄列島まで後退するというアメリカの軍事的方針と理解するのが自然です。

何故アメリカはシナ海を半分放棄したのでしょう?

アメリカは目下、中近東アジアでイスラム勢力と死闘を繰り広げています。その上、東南アジアより重要な東ヨーロッパをロシアの拡大しつつある軍事力から守らなければなりません。

アメリカは世界帝国です。しかしその軍事力には限界があります。何処かを完全に守るために何処かを犠牲にせざるを得ません。

竹島の問題も北方四島も問題もアメリカ帝国の本音を知らなければ解決になりません。

このような客観的な報道の姿勢が無さ過ぎます。こんな事を書けるのもブログの特徴です。皆様は今回の事件をどの様にお考えでしょうか?感情的になられないで冷静なコメントを頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。

               藤山杜人

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下の写真はアメリカの原子力空母ジョージワシントンです。これから中国共産党海軍との共同演習へ参加するため東シナ海へ向かうという報道が今朝の新聞にあります。お互いに相手の作戦能力を知るための目的です。

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