日本の3世紀から6世紀までを古墳時代といいます。
古墳と言えば大和地方ということになっています。それは学校で習う古墳時代は大和地方を強調する習慣があったからと思います。
しかし古墳は北海道の江別古墳群から九州の鹿児島まで全国にあったのです。
その詳細な分布図とそれぞれの古墳の形状や大きさは「古墳マップ」(http://kofun.info/)に詳しく掲載されています。
この古墳マップには3853カ所の古墳の詳細な情報があります。
その上、最近更新された古墳として埼玉の 二子山古墳や香川の 富田茶臼山古墳などなど十数カ所の古墳も紹介されています。
私は古墳に何故かロマンを感じています。それで暇になるとこの古墳マップを開いて全国の古墳の写真を眺めています。
古墳の作られたころはまだ文字が無かったので誰の古墳なのか分からいのです。それ故、想像が自由です。
弥生時代から大和朝廷が全国を統一するまでの間には地方、地方に武力を持った豪族が割拠していて、数多くの独立領土を持っていた時代でした。
全国の古墳はこのような地方、地方の豪族の墓なのです。
今日はその実例として、自分が何度も訪問した埼玉県の古墳と山梨県の古墳をご紹介いたします。
1番目の写真は「さきたま古墳群」の航空写真です。出典は「さきたま古墳群」を検索すると出てきます。
『日本書紀』によると534年、安閑天皇より笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が武蔵国国造を任命され、埼玉郡笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持ったとされる。何の基盤もない当地に突如として、畿内に匹敵する中型前方後円墳が現れたこと、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘に見える「ヲワケ」の父の名の「カサヒヨ」が「カサハラ」と読めることなどから考えれば、笠原を本拠とした武蔵国国造の墓ではないかと一躍有名になりました。
2番目の写真はこのさきたま古墳群の将軍塚前方後円墳です。2008年の6月に自分で撮った写真です。
3番目の写真はこの将軍塚前方後円墳を取り囲んでいる濠の写真です。
そして4番目の写真は山梨県の前方後円墳の甲斐銚子塚古墳です。
5番目の写真は甲斐銚子塚古墳の前方部から80メートルほど東側にある丸山塚古墳です。
それでは埼玉県の古墳群について簡単な説明をします。
この地に古墳のあることは、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』や『忍名所図会』に記されているそうです。
1893年(明治26年)には将軍山古墳が発掘されました。1935年(昭和10年)の埼玉村古墳群調査で、前方後円墳11基、円墳11基が確認されていいます。1938年(昭和13年)8月8日には、9基の大型古墳が国の史跡に指定さます。
戦後の1966年(昭和41年)以降、整備がはじめられ、1968年(昭和43年)に「風土記の丘」整備に先立つ航空写真測量で墳丘・濠の影が認められます。
同年8月に稲荷山古墳もその事業の一環として発掘調査されました。
この時出土した鉄剣から、1978年(昭和53年)9月の保存処理中に金象嵌銘文が検出されたことで、この古墳群が日本国中に知れ渡ることとなったのです。
その後、さきたま風土記の丘という公園として整備され(現在のさきたま古墳公園)、古墳のほかに移築民家(旧遠藤家、旧山崎家)、さきたま史跡の博物館、はにわの館(実際に埴輪を作ることができる)などが展示してあります。
主な古墳には、二子山古墳(埼玉県では最大規模の古墳)など以下のものがあります。
稲荷山古墳
稲荷山古墳 - 金錯銘鉄剣が出土。推定全長120mの前方後円墳。後円部径62m。
丸墓山古墳 - 日本最大の円墳。直径約100m。
二子山古墳 - 武蔵国最大の前方後円墳。全長135mの前方後円墳。後円部径66m。
将軍山古墳 -全長101mの前方後円墳。後円部に横穴式石室の内部が見学できる展示館が設置されている。
愛宕山古墳
瓦塚古墳 - 形象埴輪が多数出土。
奥の山古墳
鉄砲山古墳 - 数少ない三重の周濠を持つ前方後円墳。全長112mの前方後円墳。
中の山古墳
もっと詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%BC%E7%8E%89%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4 をご覧下さい。
この記事の1番目の写真も上記のURLから転載させて頂きました。深く感謝の意を表します。
一方、山梨県の古墳群の説明をいたします。
甲斐銚子塚古墳は、山梨県甲府市下曽根町にある前方後円墳で国の史跡に指定されています。(指定名称は「銚子塚古墳 附 丸山塚古墳」)。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E9%8A%9A%E5%AD%90%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3)
山梨県内では最大規模の古墳で、4世紀後半の築造と推定され、古墳時代前期では東日本最大級の規模になります。
「銚子塚」とは江戸時代の地誌類において前方後円墳に見られる通称で、側面が銚子(柄の長い酒器)に見えることからの名称と考えられているそうです。
所在する甲府市下曽根町は甲府盆地の南東縁に位置しています。
笛吹川の左岸、盆地南部に広がる曽根丘陵北端にあります。
一帯は大型古墳が集中的に分布する地域で、甲斐銚子塚古墳は盛土と推定される標高340メートルの東山台地に広がっています。
甲斐銚子塚古墳は標高260メートル付近にあり、下曽根・上向山地区にかけて大丸山古墳、丸子塚古墳、かんかん塚古墳とともに東山古墳群を構成しています。南西の米倉山にも古墳群がある。
詳しくは上のURLをご覧下さい。
このように3世紀から6世紀にかけた古墳時代に作られた古墳は全国の都道府県に散在しているのです。
是非、皆様のお住まいの地方の古墳を見に行くことをお薦め致します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
古墳と言えば大和地方ということになっています。それは学校で習う古墳時代は大和地方を強調する習慣があったからと思います。
しかし古墳は北海道の江別古墳群から九州の鹿児島まで全国にあったのです。
その詳細な分布図とそれぞれの古墳の形状や大きさは「古墳マップ」(http://kofun.info/)に詳しく掲載されています。
この古墳マップには3853カ所の古墳の詳細な情報があります。
その上、最近更新された古墳として埼玉の 二子山古墳や香川の 富田茶臼山古墳などなど十数カ所の古墳も紹介されています。
私は古墳に何故かロマンを感じています。それで暇になるとこの古墳マップを開いて全国の古墳の写真を眺めています。
古墳の作られたころはまだ文字が無かったので誰の古墳なのか分からいのです。それ故、想像が自由です。
弥生時代から大和朝廷が全国を統一するまでの間には地方、地方に武力を持った豪族が割拠していて、数多くの独立領土を持っていた時代でした。
全国の古墳はこのような地方、地方の豪族の墓なのです。
今日はその実例として、自分が何度も訪問した埼玉県の古墳と山梨県の古墳をご紹介いたします。
1番目の写真は「さきたま古墳群」の航空写真です。出典は「さきたま古墳群」を検索すると出てきます。
『日本書紀』によると534年、安閑天皇より笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が武蔵国国造を任命され、埼玉郡笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持ったとされる。何の基盤もない当地に突如として、畿内に匹敵する中型前方後円墳が現れたこと、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘に見える「ヲワケ」の父の名の「カサヒヨ」が「カサハラ」と読めることなどから考えれば、笠原を本拠とした武蔵国国造の墓ではないかと一躍有名になりました。
2番目の写真はこのさきたま古墳群の将軍塚前方後円墳です。2008年の6月に自分で撮った写真です。
3番目の写真はこの将軍塚前方後円墳を取り囲んでいる濠の写真です。
そして4番目の写真は山梨県の前方後円墳の甲斐銚子塚古墳です。
5番目の写真は甲斐銚子塚古墳の前方部から80メートルほど東側にある丸山塚古墳です。
それでは埼玉県の古墳群について簡単な説明をします。
この地に古墳のあることは、江戸時代の『新編武蔵風土記稿』や『忍名所図会』に記されているそうです。
1893年(明治26年)には将軍山古墳が発掘されました。1935年(昭和10年)の埼玉村古墳群調査で、前方後円墳11基、円墳11基が確認されていいます。1938年(昭和13年)8月8日には、9基の大型古墳が国の史跡に指定さます。
戦後の1966年(昭和41年)以降、整備がはじめられ、1968年(昭和43年)に「風土記の丘」整備に先立つ航空写真測量で墳丘・濠の影が認められます。
同年8月に稲荷山古墳もその事業の一環として発掘調査されました。
この時出土した鉄剣から、1978年(昭和53年)9月の保存処理中に金象嵌銘文が検出されたことで、この古墳群が日本国中に知れ渡ることとなったのです。
その後、さきたま風土記の丘という公園として整備され(現在のさきたま古墳公園)、古墳のほかに移築民家(旧遠藤家、旧山崎家)、さきたま史跡の博物館、はにわの館(実際に埴輪を作ることができる)などが展示してあります。
主な古墳には、二子山古墳(埼玉県では最大規模の古墳)など以下のものがあります。
稲荷山古墳
稲荷山古墳 - 金錯銘鉄剣が出土。推定全長120mの前方後円墳。後円部径62m。
丸墓山古墳 - 日本最大の円墳。直径約100m。
二子山古墳 - 武蔵国最大の前方後円墳。全長135mの前方後円墳。後円部径66m。
将軍山古墳 -全長101mの前方後円墳。後円部に横穴式石室の内部が見学できる展示館が設置されている。
愛宕山古墳
瓦塚古墳 - 形象埴輪が多数出土。
奥の山古墳
鉄砲山古墳 - 数少ない三重の周濠を持つ前方後円墳。全長112mの前方後円墳。
中の山古墳
もっと詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%BC%E7%8E%89%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4 をご覧下さい。
この記事の1番目の写真も上記のURLから転載させて頂きました。深く感謝の意を表します。
一方、山梨県の古墳群の説明をいたします。
甲斐銚子塚古墳は、山梨県甲府市下曽根町にある前方後円墳で国の史跡に指定されています。(指定名称は「銚子塚古墳 附 丸山塚古墳」)。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E9%8A%9A%E5%AD%90%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3)
山梨県内では最大規模の古墳で、4世紀後半の築造と推定され、古墳時代前期では東日本最大級の規模になります。
「銚子塚」とは江戸時代の地誌類において前方後円墳に見られる通称で、側面が銚子(柄の長い酒器)に見えることからの名称と考えられているそうです。
所在する甲府市下曽根町は甲府盆地の南東縁に位置しています。
笛吹川の左岸、盆地南部に広がる曽根丘陵北端にあります。
一帯は大型古墳が集中的に分布する地域で、甲斐銚子塚古墳は盛土と推定される標高340メートルの東山台地に広がっています。
甲斐銚子塚古墳は標高260メートル付近にあり、下曽根・上向山地区にかけて大丸山古墳、丸子塚古墳、かんかん塚古墳とともに東山古墳群を構成しています。南西の米倉山にも古墳群がある。
詳しくは上のURLをご覧下さい。
このように3世紀から6世紀にかけた古墳時代に作られた古墳は全国の都道府県に散在しているのです。
是非、皆様のお住まいの地方の古墳を見に行くことをお薦め致します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)