後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

山林の中の小屋の大掃除に行きました

2013年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム

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上は中央高速道路の初狩サービスエリア(下り線)から見た昨日の富士山です。

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上は中央高速道路の釈迦堂サービスエリアと境川サービスエリアの間で見える南アルプス主峰連山の景色です。農鳥、間の岳、北岳が見えます。

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上は韮崎から釜無川岸西の広域農道から見える八ヶ岳です。主峰の牛首岳が右手に見えます。

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上は山林の小屋に上がる悪路から見た昨日の甲斐駒岳です。

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昨日は家内と6年生の孫一人を連れて甲斐駒山麓の山林の中の小屋の大掃除に行きました。

抜けるような青空で途中の道から山々が鮮明に見えました。富士山と南アルプス主峰連山と八ヶ岳と甲斐駒が道順にしたがって次々と現れ、心を奮い立ててくれます。

小屋に着いてから家内と孫は落ち葉焚きを根気良くして、小屋の外を綺麗にしてくれました。

私はチェーンソーを用心深く使って薪切りをしました。

小屋の中で質素な昼食を摂り、午後には壊れて大穴の開いた煙突を取り外しました。家内がハシゴに登ってくれたので次回は煙突修理が完成しそうです。帰りにホームセンターに寄って新しいステンレス製の煙突を買って、帰ってきました。

空気が新鮮な山林の中の小屋で労働をしていると何故か楽しく、そして浩然の気が養われるのです。

晴れ晴れした気分で年の暮れの一日を過ごしました。

そんな様子を示す写真を下にお送りいたします。

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小屋の傍まで上がると雪が残っていました。

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家内と孫が根気良く焚火をして落ち葉や小枝を綺麗にしてくれました。

Img_9122 私はチェンソーで薪切りをしました。

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最後に老朽化して大穴の空いた煙突を取り換えるために身軽な細君がハシゴに登り、壊れた煙突を取り外しました。帰りに新品の煙突を買って、次回に修理を完成する予定です。

上の写真は孫が面白がってハシゴに登っている様子を撮った写真です。


今年のこのブログの掲載記事を振り返って(4)宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」

2013年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム

宮沢賢治は悲しい、美しい物語を沢山書きました。

その物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」というものでした。

彼は法華経の精神をそのように理解し、実行しようとして苦しんだのです。

38歳で亡くなるまでの短い人生を苦しんだのです。

随分と昔に亡くなった人ですが、彼の作品は時代を越えて現在の日本人の

心に澄んだ美しい鐘の音を打ち鳴らし続けています。

このブログでも賢治の鳴らしている鐘の音を聞こうと何度も記事を

書いては掲載してきました。

以下に過去2年間に掲載し記事の一覧を示します。それぞれの記事の

後ろに掲載年月日が示してあります。

記事の題目を眺めて、ご興味のあるものをバックナンバーから探して

ご覧頂ければ嬉しく思います。

そして今年は特に「銀河鉄道の夜」を詳しく書きましたので、下に2編の

記事を再録致しました。どうぞ貴方自身の「銀河鉄道の夜」を探す旅に

お出かけ下さい。

今日は大晦日です。この一年お世話になり有難う

御座いました。

皆様の幸多い新年をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

==下は宮沢賢治についての2012年と2013年の掲載記事です==

宮沢賢治の作品を気楽に読む・・・注文の多い料理店、風の又三郎、

オッペルと象、ドングリと山猫、よだかの星、、、掲載年月日:13/10/27

あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(2)北十字、鳥捕り、

豪華客船沈没など 13/10/26

あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(1)星祭りの夜の

カンパネルラの水死と再会 13/10/25

宮沢賢治、「銀河鉄道の夜」・・・あなたの銀河鉄道、私の銀河鉄道

 13/10/24

「風の又三郎」・・・あなたの又三郎、私の又三郎 13/10/24

金子みすずの童謡詩と鯨の戒名  13/04/10 

みにくいヨタカの姿・・・宮沢賢治の童話「よだかの星」の鳥
13/04/04

宮沢賢治の作品を気楽に読む(11)完結編:注文の多い料理店、

風の又三郎、オッペルと象、ドングリと山猫、よだかの星、、、12/06/01

日本人の手で全世界を佛教国にするという発想は悪くない・・・

そして宮沢賢治のこと  12/05/09

宮沢賢治の作品を気楽に読む(9)「雨ニモマケズ」は法華経から

生まれた詩  12/05/09

宮沢賢治の信奉していた法華経と国柱会の説明  12/05/08
宮沢賢治の信奉した法華経の特徴は何でしょうか?  12/05/08 

宮沢賢治が終生会員だった国柱会とは何か?  12/05/08

宮沢賢治の作品を気楽に読む(8)「注文の多い料理店」の序12/05/08

37歳で逝った賢治の親不幸・・・そして残された原稿の山12/05/04
宮沢賢治の作品を気楽に読む(7)数多くの旅をしていた宮沢賢治12/05/03
宮沢賢治の作品を気楽に読む(6)膨大な作品群に踏み迷う 12/05/02
宮沢賢治の童話集、「注文の多い料理店」の出版 12/04/20

宮沢賢治の作品を気楽に読む(5)大正13年出版の「春と修羅」から12/04/20

宮沢賢治の活躍始まる・・・農学校、羅須地人協会、東北砕石工場技師、

そして東京、樺太、大島への旅  12/04/17

宮沢賢治の作品を気楽に読む(4)盛岡高等農林学校時代の作品12/04/16
宮沢賢治の作品を気楽に読む(3)盛岡中学卒業し、病気で岩手病院に入院  12/04/15
宮沢賢治の作品を気楽に読む(2)盛岡中学3年の頃  12/04/05
盛岡高等農林学校と宮沢賢治  12/04/04 

宮沢賢治の作品を気楽に読む(1)盛岡中学の頃  12/04/03

突然ですが、宮沢賢治の「慟哭」という詩とその朗読をお送りします 11/11/01

===2013年月25日掲載記事:あなたの「銀河鉄道の夜」、

私の「銀河鉄道の夜」(1)星祭りの夜のカンパネルラの水死と再会 

 13/10/25===

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(上の写真の出典は、http://gensun.org/pid/86817 です。)

昨日、「風の又三郎」・・・あなたの又三郎、私の又三郎 という文章を

書きました。

そしてハッと気がついたのですが、宮沢賢治の作品は彼の心象風景や

謎めいた表現が沢山書き込んであります。ですから読む人はその心象

風景や謎めいた表現を自分なりに想像してしまいます。

そうすると宮沢賢治の作品は彼から少し離れて、読んでいる人特有の

ものになるのです。大げさに言えば宮沢賢治の作品は読者の数だけ

違ったものになるのです。

今日から始める、連載記事、”あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河

鉄道の夜」” とはそういう意味を込めているのです。

ですから、私の「銀河鉄道の夜」も、読む自分の年齢にしたがって

違ってきます。賢治の作品を何度も読み返している人が沢山いるのは

そのせいもあるのでしょう。

そこで筑摩書房の宮沢賢治全集第十巻の中にある「銀河鉄道の夜」

をもう一度読んでみました。

第十巻には「ポラーノの広場」、「オッペルと象」、「風の又三郎」、

「北守将軍と三人兄弟の医者」、「グスコーブドリの伝記」、

「銀河鉄道の夜」、そして「セロ弾きのゴーシュ」が編纂されています。

その中で何故か「銀河鉄道の夜」には、私にとって理解できない謎が

沢山あって、気になって仕方が無い作品なのです。

しかし最近体力がどんどん無くなってきて、いずれは私もこの銀河鉄道

に乗る運命にあると感じるようになって来ました。

自分がこの世と別れて「銀河鉄道」に乗ったと考えて、この作品を

読んでみると書いてあることがよく分かるのです。

この作品のあらすじです。

夏の夜空にかがやく天の川には銀河が流れていて、そこに鉄道があり

列車が走っているという話です。人間は死んで天に登り、星になる。

ですから銀河鉄道の汽車に乗っている人は死んだ人です。

主人公のジョバンニ少年が、星祭りの夜に水死した親友の

カンパネルラを探しに行きます。カンパネルラは、水に落ちて溺れ

そうになっている友人のザネリを助けるために飛び込んで、

水死したのです。一方ザネリは助かるのです。

カンパネルラを探そうと暗い丘に登って行きます。そしてジョバンニは、

いつの間にか銀河鉄道の汽車に乗っているのです。そして其処で

カンパネルラを見つけ、一緒に汽車の旅をします。

その列車にはいろいろな人が乗ってきます。

ただ一つだけご紹介すれば、大きな氷山にぶつかった豪華客船の

沈没の時、無理にボートに乗らずに死んでしまった少女と弟が

ぬれ鼠で乗って来るのです。大学生の家庭教師も一緒です。

3人は皆、沈没の衝撃で靴を失い、裸足です。それがいつの間にか

温かい柔らかい靴を履いています。それがこの汽車の不思議な

ところです。童話ですから「タイタニック號」という名前は書いて

ありませんが、私はそのように想像しています。

最後に、一緒に乗っていたカンパネルラもみんなも銀河鉄道の

列車から消えて行きます。ジョバンニは降りて現世に帰る時が来ます。

親友のカンパネルラと永遠の別れです。ジョバンニは現世に戻り、

病気の母親を助け、真の幸福を求めて元気よく生きて行きます。

この童話の一行、一行がしみじみとしています。一行、一行にこの

世の悲しみが滲んでいるのです。涙が出て来るのです。

もう一度読んでみてこの作品のキーは死んでしまった愛する人と

再開するという奇蹟です。

再開出来るために重要なのは、ジョバンニとカンパネルラの心温まる

強い絆です。

カンパネルラは川に落ちたザネリを救って、自分が死んでしまうのです。

友のために死んだ者は天国へ行くのです。

行方不明になったカンパネルラの捜索を見ながら、彼の父が自分の

腕時計を凝視して、キッパリ言うのです。「もう駄目です。落ちてから

45分たちましたから。」

この一言に父の悲しみが溢れています。

ですからこそジョバンニは死せるカンパネルラともう一度会わねば

なりません。

そして銀河鉄道の中でカンパネルラを見つけるのです。(続く)

下に参考記事の一覧をつけました。記事の後にある年月日は

このブログ上での掲載日です。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

(下の写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/rocky1010akio/folder/1148396.html?m=lc&p=5です。)

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===そして、あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(2)北十字、鳥捕り、豪華客船

沈没など  13/10/26==============

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(写真の出典は、http://www.tokyo-np.co.jp/tochigi/watarase/1998/11/です。)
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は難しくて自分には分からないと言う人が多いものです。

しかし非常に感動的で、内容の深い、そして美しい作品であることには間違いありません。

そこで何故、難解なのかを考え、自分流に編集しなおして読むと明快になります。すなはち

「私の銀河鉄道の夜」にするのです。

優れた文学作品を編集し直すということは不遜過ぎると怒ってはいけません。こんな読み方も

あるという単なる一例なのです。天上のお釈迦様のそばにいる賢治様も温かくこんな文章も見て

下さっていると私は信じています。

この作品の難解な部分は、

七、北十字とプリオシン海岸、

八、鳥を捕る人、

九、ジョバンニの切符、

と終わりまです。

この部分は筑摩書房の宮沢賢治全集第十巻の、255ページから300ページと45ページもあり

長いのです。

一方、その前の部分は六つの章に分かれているのに、231ページから254ページまでの23ページ

と短いのです。

何故そうなったのでしょうか。

それは軽便鉄道をモデルにした銀河鉄道がこの物語の主題だからです。そして作者はこの銀河鉄道

の客車がこの世のものでなく、あの世の列車だと強く描きたかったからです。

そのためには客車に乗っている人々も、車窓から見える景色も超自然的に描かねばなりません。

不思議な印象を読者へ与えなければいけません。車窓から見える風景もこの世の常識では

理解されないものです。それは夢幻の世界なので脈略がありません。一貫したストーリがあっては

いけません。

その上、登場人物も風景も数が多過ぎます。

それは宮沢賢治の脈略の無い心象風景の連続なのです。情熱を込めて書き込んだ部分なのです。

ある人の心象風景を他人が読んで理解出来る筈がありません。その世界にスッと入り込でしまえば

よいのですが、それが難しいのです。

私は登場人物や風景を自分好みに省略して、以下のようにしました。

七、北十字と乗客たちのキリストの賛美と信仰

八、鳥を捕る人の不思議さ、そして灯台守の話

九、豪華客船沈没で死せる人々

十、友との訣別とジョバン二のこの世への帰還

上の七の始めの部分で、車窓から、青白く後光の射した島の上に白い十字架が見えたと書いて

あります。それは北極の方角でした。

客車の全ての乗客は立ち上がって、ハレルヤ、ハレルヤ、と神を賛美し、信仰が篤い様子です。

これが北十字の部分です。

法華経の宮沢賢治がキリスト教の信者のことを書いたのです。何故でしょうか?

そもそもこの童話の舞台はキリスト教を信じている西洋のある国と設定されているのです。

死んで銀河鉄道に乗ってくる人々は一応キリストの信者なのです。

あの世に行くということはイエス様の足もとに行くことなのです。ですから当然、始めの部分に

北の十字が出てきます。そして終わりの部分に出て来る南十字星へと繋がって行くのです。

宮沢賢治は熱心な仏教徒でしたがキリスト教も好きだったのです。

この同じ章にあるプリオシン海岸は飛ばし読みします。

八、鳥を捕る人の不思議さ、そして灯台守の話

この部分は6ぺージくらいしかありません。

鳥を捕ってそれを平らな形のお菓子にしてしまいす。それを商売にしている人が乗り込んで来るの

です。

その鳥を捕る人は、列車が停車すると、客車の外に出て、空から降りてくる鳥の足を次々に

つかまえるのです。つかまえた鳥を大きな袋に入れるのです。

袋の中で鳥たちの目が光っていますが、次第に弱々しくなり、しまいには消えてしまいます。

鳥の息が絶えたのです。そうするとその鳥たちは平べったいお菓子に変わるのです。

そして客車に帰ってきた鳥捕り人は、その鳥のお菓子をちぎってジョバンニとカンパネルラへ

与えるのです。傍の灯台守も調子よいことを言いながら一緒に食べます。

内容が不思議な上、童話的に面白いので誰でも丁寧に読むと思います。飛ばし読みはしない方が

良い部分です。

九、豪華客船沈没で死せる人々

丁度、宮沢賢治がこの童話を書いている頃にタイタニック号が沈没します。

そして、ある豪華客船に乗っていた少女と弟と、その家庭教師がずぶ濡れになって

銀河鉄道に乗り込んでくるのです。みんな裸足で、青ざめています。

この部分は268ページから296ページまでの28ページもある長い部分です。

九の豪華客船沈没で死せる人々、と 十の友との訣別とジョバンニのこの世への帰還、

を纏めて、原本では、一つの章にして、「ジョバンニの切符」という題にしています。

そこで私はそれを二つの章に分けて読みやすくしてみました。

その上、九 豪華客船沈没で死せる人々、を読むときは死んだ少女とカンパネルラやジョバンとの

会話を拾い読みすると脈絡がつながって明快になるのです。

そして、十の友との訣別とジョバンニのこの世への帰還、の始めの部分の296ページで、

カンパネルラが不思議な石炭袋のそばで本当の天上を見つけるのです。そこに、先に死んでしまった

カンパネルラの母が見えるのです。(カンパネルラの水死の場面で父親しか描かれていなっか

謎が解けるのです。)

カンパネルラはアッというまに母の方へ飛んで行ってしまいます。訣別がこうして起きるのです。

「ジョバン二はまるで鉄砲玉のようにたちあがりました。そして誰にも見えないように窓の外へ

からだを乗り出して、力いっぱいはげしく胸をうって叫び、それからもう咽喉いっぱいなきだしました。」

その後、ジョバンニはこの世に帰ってくるのです。そして母と一緒に住むのです。

この部分は5ページだけです。

この悲しい、美しい物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」です。宮沢賢治の多くの

作品の基調低音と同じです。彼は法華経の精神をそのように理解し、実行しようとして苦しんだのです。

38歳で亡くなるまでの短い人生を苦しんだのです。(続く)

それはそれれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

(下の写真の出典は、http://www.voiceblog.jp/ilmuffin/car36.htmlです。)

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今年のこのブログの掲載記事を振り返って(3)人命救助をした村田奈津恵さん

2013年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

以下は2013年10月3日掲載の記事です。私達は村田奈津恵さんを忘れません。

=「踏切 で自分が犠牲になって人命救助した村田奈津恵さんと、献花する人々の群れ

ことの顛末はJR横浜線の踏切で倒れていた74歳の男性を村田奈津恵さんが助け、自分が電車にひかれて亡くなったのです。10月1日午前11時30分ころのことでした。

電車が来る直前に遮断機の下りている踏切内に飛び込んで、倒れていた人を助けたのです。助けることに夢中だったに違いありません。自分の安全を犠牲にしてしまったのです。

そしてその直後からいろいろな人々が現場に花束を供えました。近所の商店街の世話人が献花台も用意してくれました。

私は村田奈津恵さんの崇高な行為に頭が下がります。そして献花に訪れた人々の優しさに感動しています。

下に現場の踏切の写真と、村田さんの写真、そして献花の写真2枚をお送りします。

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このように自分が犠牲になって他人を助けようとした例は12年前にもありました。

JR新大久保駅で線路に落ちた日本人を助けようとしたのは韓国から来た男性の留学生の李秀賢さん(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E9%A7%85%E4%B9%97%E5%AE%A2%E8%BB%A2%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85でした。救助に成功せず、自分も間に合わず電車にひかれてしまったのです。この美談は後に、「わたしは忘れない」という映画にもなりました。

なおこの時、47歳の日本人カメラマン、関根史郎さんも李さんと一緒に線路に飛び込んで落ちた人を助けようとして死亡しました。

この新大久保駅転落事故は最初に線路に落ちた人、それを助け出そうとした日本人カメラマン、そして李さんの3人が亡くなってしまったのです。痛ましい事故でした。

突然ですが、私はカトリックの信者です。自分の命を犠牲にして他人を助けた人はみんな天国へ行くと信じています。亡くなった方がキリスト教の洗礼をうけていなくても、仏教徒でも、無宗教でも必ず天国へ行きます。浄土へ行きます。天国や浄土は同じものです。ですから村田さんも大塚駅で亡くなった韓国の留学生も、関根史郎さんもみんな天国に行きます。

私の信仰とはそういうものです。そして献花に訪れた人々へは必ず神さまのいつくしみがあります。神様が感謝しているのです。

ついでに書けばアウシュビッツ収容所で自分が犠牲になり、他人の命を助けたコルベ神父も同じように天国に行っています。

このコルベ神父と村田さんと、そして韓国の留学生、李秀賢さんと関根史郎さんは天国で平等に並んで微笑んでいます。神の前では差別が絶対にありません。完全な平等だけがあるのです。

私は一昨日から、村田さんの優しさ、献花に訪れた人々の優しさに体がつつまれています。

村田さんのご冥福をお祈りいたします。

そして残されたお父上と家族の平安をお祈り申し上げます。

下に昨日の東京新聞の記事を転載しておきます。

=========昨日の東京新聞の記事(抜粋)=======

 人を救おうとする勇気の代償に、尊い命が失われた。横浜市緑区の踏切で、一日午前に起きた事故。亡くなったのは緑区台村町、会社員村田奈津恵(なつえ)さん(40)と判明した。一緒に踏切待ちをしていた娘を、目の前で失った父恵弘(しげひろ)さん(67)は、沈痛な面持ちで娘の死を悔やんだ。 (小沢慧一)

 緑署などによると、事故が起きたのは一日午前十一時半ごろ、緑区中山町のJR横浜線鴨居(かもい)-中山駅間の川和(かわわ)踏切。うずくまっていた男性(74)を助けようとした村田さんが、東神奈川発橋本行きの普通電車(八両編成)にはねられ、死亡した。男性は鎖骨を折るなどの重傷を負った。

 現場は遮断機と警報機のある踏切。村田さんは、恵弘さんが運転する乗用車の助手席に乗り、車列の先頭で踏切が開くのを待っていた時に、踏切の中の男性を見つけた。村田さんは車を降りて遮断機をくぐって踏切の中に入り、男性を線路のわきに動かしたという。

 近くにいた別の男性が踏切に備え付けの電車の緊急停止ボタンを押し、踏切内に村田さんと男性がいるのを見つけた運転士が急ブレーキをかけたが、間に合わなかった。署は男性が踏切内にいた経緯と、村田さんがはねられた詳しい状況を調べている。

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長崎のハウステンボスの花園の写真をお送りいたします

2013年12月30日 | 写真

今年のブログ記事を振り返って見ています。

そうしたら美しい花の園写真がありました。

長崎のハウステンボスの花園を2013年の4月16日に撮った写真です。

午後の間は晴れていて鮮明な写真になりました。しかし上から4番目と5番目の2枚の写真は夕方に撮ったので暗い画面になりました。

もう一度、掲載いたしますので、オランダの花園を想像しながらお楽しみ下さい。

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日本人は何故キリスト教の洗礼を受けないか?・・・気楽にお読み下さい!

2013年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

今朝のミサに出ている間に、日本人は何故キリスト教の洗礼を受けないか?と、いろいろ気楽に考えていました。

日本全国では、プロテスタント系の大学が56校もあり、その上カトリック系の大学が20校もあるのです。

しかし卒業生のほとんど全員が洗礼を受けないのです。

その原因は日本の文化的土壌にあるのです。仏教的社会土壌にあるのです。

洗礼を受ける人が少ないことを私は嘆いてはいません。それが自然だと思っています。第一に洗礼などというものは絶対に強制すべきでないのです。

カトリック系の大学の卒業生はその教義や歴史を学ぶチャンスもあり、学内には教会もありミサに出ようと思えば出席できるのです。しかし学校側は強要しません。

日本人は仏教について、宗派の違いはあまり気にしません。曹洞宗でも浄土宗でも浄土真宗でもあまり区別しません。お寺にも行きますが神社にも参拝します。

ところがキリスト教の洗礼を受けると日本の社会から「のけ者」にされる予感がするのです。私も洗礼を受ける前はそのような予感を持ち、恐ろしかったです。

そして洗礼を受けるとキリスト教の戒律に縛られて、自由に人生を楽しむことが出来なくなると暗い気持ちになります。

江戸時代にはキリシタンは邪宗門の信者として見つかれば処刑です。江戸時代だけでありません。第二次大戦中は米英のスパイとして白眼視されたのす。

このキリスト教徒を「のけ者」にする風潮は現在でも日本人の心の底に棲みついているかも知れないのです。

そんなことは全て判っていましたが、私は何故か洗礼を受けました。

そして40年以上、毎週、ミサに出ていると、上に書いた「恐れ」は全くの誤解であり、自分の感じ方が間違っていたことに気がついたのです。

カトリックの洗礼を受けて、私は一層自由に人生を楽しめるようになったのです。

自分の狭量さが弱くなり、仏教でも神道でも、あるいは中国の道教でも別けへだてなく尊敬できるようになったのです。仏教の良さが深く理解できるようになったのです。

そして私は日本社会から「のけ者」にされたことが一度もありませんでした。その気配すら感じたことがありません。

「のけ者」にされる原因は、自分が他の人を見下したり、差別するからだと確信出来たのです。

カトリックには一切強要される戒律はありません。

毎週の日曜日のミサに出るのが唯一の戒律かも知れませんが、出ない人もいます。年間をとうしてクリスマスと復活祭の時だけミサに出る豪の者もいるのです。

私がミサに出るのは楽しみのために出るので、それが義務とか戒律と感じたことはありません。

ミサに主席すると何とも言えない解放感と充実感があるのです。心が軽やかになって明るい気分になるのです。

毎週といっても旅行に出たり、亡くなった恩人のお葬式があればミサは欠席します。

ミサに出ることを金科玉条と堅く考えてはいけません。この世の義理を欠いてはいけません。人情を無視してはいけません。

しかしながら、ミサは日本人にとって日常的な光景ではありません。

それでも慣れてしまえば神社やお寺の光景と同じになってしまいます。少なくとも私にとっては日常的な見慣れた風景になっています。

最後に、そのミサの間に、成人式を挿入して行っている風景をお送りしてこの雑文を終わりにいたします。この写真は今年の1月13日(日)に撮ったものです。

お読み戴きまして有難う御座いました。

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この様にカトリックは世界中の各地でその現地の民族文化を尊重しています。

下に全国のカトリック系大学を示します。

藤女子大学(殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会)、天使大学マリアの宣教者フランシスコ修道会)、仙台白百合女子大学シャルトル聖パウロ修道女会)、上智大学イエズス会)、上智大学短期大学部聖心女子大学聖心会)、清泉女子大学聖心侍女修道会)、聖母大学(マリアの宣教者フランシスコ修道会)、白百合女子大学(シャルトル聖パウロ修道女会)、東京純心女子大学長崎純心聖母会)、清泉女学院大学(聖心侍女修道会)、清泉女学院短期大学南山大学神言会)、南山大学短期大学部京都ノートルダム女子大学ノートルダム教育修道女会)、聖トマス大学神戸海星女子学院大学(マリアの宣教者フランシスコ修道会)、ノートルダム清心女子大学(ナミュール・ノートルダム修道女会)、エリザベト音楽大学(イエズス会)、聖カタリナ大学(聖ドミニコ宣教修道女会)、聖カタリナ大学短期大学部聖マリア学院大学長崎純心大学(長崎純心聖母会)、鹿児島純心女子大学(長崎純心聖母会)、青森明の星短期大学(聖母被昇天修道会)、聖霊女子短期大学聖霊奉侍布教修道女会)、聖園学園短期大学(聖心の布教姉妹会)、桜の聖母短期大学コングレガシオン・ド・ノートルダム)、星美学園短期大学扶助者聖母会)、カリタス女子短期大学(ケベック・カリタス修道女会)、聖セシリア女子短期大学京都聖母女学院短期大学ヌヴェール愛徳修道会)、大阪信愛女学院短期大学ショファイユの幼きイエズス修道会)、和歌山信愛女子短期大学(ショファイユの幼きイエズス修道会)、久留米信愛女学院短期大学(ショファイユの幼きイエズス修道会)、聖マリアンナ医科大学


今年のこのブログの掲載記事を振り返って(1)日本の石器時代の生活を明らかにした

2013年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

今年の掲載記事で何度も取材をし私、書いていて一番楽しかった記事は日本の旧石器時代の生活を説明した2013年1月7日の記事でした。

その準備として、このブログで神奈川県相模原市の田名向原遺跡について、相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中という記事を掲載しました。2万年前の住居跡が発見された場所です。

そこで今日は以下にその記事を再掲載いたします。田名向原遺跡展示館を4回訪問して調べた結果です。

当時の人々の生活の実体の展示に従ってご報告いたします。学芸員の説明を聞くと展示はかなり考えて作ってあると思いました。

2万年前の日本は寒冷期で年間の平均気温が8度近く低かったと推定されています。当時の日本は樺太やシベリア北部位の気温だったのです。

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冬は非常に寒いので、現在のイヌイットのように分厚い獣の毛皮の服を着て寒さを防いでいたと想像出来ます。足には毛皮のブーツを履かないと氷の上は歩けません。上の絵は木々が緑ですから冬ではありませんので裸足のようです。手前にあるのが毛皮のブーツの複製品です。

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この絵は現在は絶滅したオオツノジカを数人で槍で狩っている様子です。川は相模川で向こうの山は丹沢連峰の前山です。

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木の実や食用の植物を採集するのは女の仕事ではなかったという想像図です。勿論、こういう仕事が好きな男性もこうして採集していたに違いありません。植物は現在のシベリアの植生に似せて描いてあります。

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これは女性が「なめし皮」を作っている様子を示す絵です。

出てくる石器には皮を掻いて脂肪分を取り除いて「なめし皮」にする「掻器」という石器が沢山あります。布を織ることを知らなかった旧石器時代には「なめし皮」の需要が大きく、貴重な材料だったのです。「なめし皮」は多量の食料と交換出来たと想像出来ます。

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獣の皮で覆った小屋の前で石器を作っている様子です。冬の寒い時期は小屋の中で石器を作っていた証拠が残っていました。この2人はまだ一人前でなく石器の下準備をしているようです。

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これは石器作りの名人あるいはマイスターの絵です。石器作りの名人になると裕福な生活が出来た筈です。切れ味が良くて頑丈な石の刃物は多くの食料と交換出来ると考えれられます。四季折々一年を通じて食料に困ることは無かった筈です。

この遺跡には3000個もの石器が出て来たので石器作りのセンターだったと想像されます。

さて最後に当時の人々が食べていたと考えられる動物の絵を示します。

現在の日本では絶滅したマンモスやナウマンゾウやバイソンやヘラジカなどがいたのです。北海道とカラフトはシベリア大陸と陸続きになっていて、そのような動物が日本へも歩いて来たと信じられています。

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如何でしょうか?

次の縄文時代になってやっと土器が出来たのです。旧石器時代の日本人は焚火で獣肉を焼いて食べました。生でも食べたでしょう。そして焼いた石で覆い、埋め込んで蒸し焼きにもしました。遺跡からは料理に使った石が多量に出て来たので「蒸し焼き」が好まれていたようです。

家族関係はどのようなものだったのでしょうか?考えると興味が尽きません。(終わり)

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====関連の掲載記事一覧================

日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見

私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷

所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代

相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中

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黒曜石を運んだミラクルな海上輸送:福岡市在住の伊藤俊幸氏のブログ http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_09_1kokuyouseki_umi.html 

下にこのブログから黒曜石の流通経路を示す図面を2枚転載します。

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鈴木一郎氏の「私の作品集」をご紹介します

2013年12月28日 | 写真

このブログでは2年前や3年前に掲載した写真をまた使ったりしています。古い文章の一部を書き直したりしてまた使います。

自分では懐かしさもあり、つい何回も使います。でも読者の方々にとっては又同じものを使っているとあきれられたり、軽蔑されたりしているのではないかと恐縮しています。

それくらいなら写真のお上手な方々のお写真をお借りして、このブログでご紹介した方が良いと思います。そんな訳で今まで随分多くの方々のお写真を、お許しを得て、ご紹介してきました。

今日は偶然、素晴らしい作品集を発見し、作者の方のご快諾を頂きましたので下に5枚の傑作をお送りいたします。

その作品集は鈴木一郎氏の「私の作品集」(http://osarika.com/~saport/index.html)です。

光の輝きと、その陰影が見事に組み合わせてあり、幻想的な芸術写真になっています。写真を見るといろいろなことが連想させられます。いろいろと考え込ませます。そして私の精神に何か強いインスピレーションを与えるのです。

鈴木一郎氏の「私の作品集」はそのような写真集なのです。

下の5点は私が感動したものを選びました。しかし「私の作品集」の20点の写真の全てをご覧く方が良いと存じます。

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安倍政権による株価上昇政策と普天間基地移設問題解決

2013年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム

小泉総理大臣の退任以来、迷走していた日本の政治状況が昨年の安倍総理の就任で大きく改善されました。

安倍総理は強力な株価上昇政策を実行し、昨年は8000円ほどの日経平均株価を今週は16000円台まで上昇させたのです。この成果はまれに見る政府の経済政策の勝利でした。

そして外国へ自ら何度も足を運び、各国首脳と熱心に交渉し、多くの外交的得点を挙げたのです。この国際的な外交努力も高く評価すべきと信じています。

その上、昨日は沖縄県の仲井真弘多知事が宜野湾市の中央部分を占有している普天間基地の名護市辺野古への移設に同意したのです。

これで17年間にわたり懸案となっていた普天間基地返還問題に明るい前進が出来たのです。

仲井真知事の決断の陰には菅官房長官や石破幹事長の沖縄関係者への必死の説得があったのです。このようなチームワ-クの強さを見ると安倍政権が今後もいろいろな分野で大きな成果を出すと考えられます。

しかし今回の仲井真知事の決断に対して沖縄県民の全てが支持しているわけではありません。現地では同じ県内移転への反対デモもありました。

そこで、ここで改めて沖縄の基地問題を見直してみましょう。

下の図は沖縄県の米軍基地を示しています。ジット眺めて、その広大さをご理解下さい。

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沖縄県に観光旅行に行った方々は嘉手納基地と普天間基地が人口密集部の真ん中に存在している事実に気がついたと思います。

特に普天間基地は宜野湾市の中心部にあり住宅街のすぐ横を巨大な爆撃機やオスプレイが離着陸しているのです。

何故、沖縄県にこんなに基地が集中しているのでしょうか?

沖縄県は、米軍が多大の犠牲を払ってやっと占領した初めての日本の県だったからです。

米軍はその犠牲の大きさを想うと、絶対に沖縄は日本へ返還したくなかったのです。

従って沖縄返還にあたっては、広大な米軍基地を残存させたのです。

そして沖縄は厳しい冷戦構造の中共とソ連に対峙する最前線基地として重要だったのです。

冷戦が終わっても、中国が軍備拡張をしている現在は、沖縄の戦略的重要性が再び増大しているのです。そこで普天間基地の写真を下に示します。

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(上の基地の配置図とこの普天間基地の写真の出典は、http://www.nippon.com/ja/behind/l00055/です。)

沖縄の米軍基地は68年前の血みどろの沖縄戦の悲劇を背負った存在なのです。一朝一夕には解決できない深い問題なのです。全ての日本人が考えるべき問題なのです。

その普天間基地の移転に一歩前進をさせたのが安倍政権なのです。久しぶりに胸のつかえが取れたような気分になった人も多かったと思います。

さてその安倍総理が靖国神社を電撃的に参拝したのです。

私は靖国神社の存在の功罪を議論するつもりはありません。

英霊を慰める行為は大切なことです。

しかし大きな外交上の失点を作ってしまったのです。

中国は韓国だけでなくアメリカ政府も怒ってしまったのです。

総理大臣の職にある人は個人的な思想や宗教的信念を勝手に表明して、国家へ損害を与えるべきでな無いのです。総理大臣を引退してから表明すべきです

就任以来の経済政策や外交活動で大きな得点をあげ、して普天間問題の解決をした安倍総理の慢心でした。個人的感情を出してしまったのです。

政治家をもっともっと靖国神社参拝のもたらす利害得失を冷徹に考えるべきなのです。人間としての倫理的善悪でなく経済的得失や外交的利害を計算すべきだったのです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


寒さに強い冬の花々の写真をお楽しみ下さい

2013年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム

京王フローラル・ガーデンは冬は落葉してしまい花も少なくなります。そこで冬季の入場料は安くなります。それでも寒さに強い小さな花々を一生懸命植えて、努力しています。そのような冬の花々の写真をお送りします。お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。

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日本のキリスト教と庚申塔信仰の間(4)私のカトリック信仰は仏教的で、排他性は無い

2013年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム

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(上の写真と下の2枚の写真は鎌倉の円覚寺の風景です。出典は、http://www.engakuji.or.jp/gallery/です。)

まったく個人的なことですが、私の父方の祖父は兵庫県の宝塚から能勢電鉄で入った山の村落のお寺の住職をしていました。それは曹洞宗の正林寺というお寺でした。その祖父は戦前に亡くなり、父の弟が後を継ぎました。その祖父の戒名は高天秀嶽大和尚といいます。

History_img021 昭和11年生まれの私は毎年、夏になると一家でそのお寺に帰省し、お寺の暮らしを体験しました。

左がそのお寺の鐘楼を見上げた光景の写真です。

お寺の暮らしが珍しい上に、お盆には施餓鬼供養という一大イベントを毎年見たのです。近隣のお寺から多くのお坊さんが集まって、本堂でお経を唱和し、そして銅鑼を鳴らしながら輪になって歩き、お経を唱えるのです。

そして叔父の住職さんと一緒に小坊主の法衣を来て、村落の一軒、一軒を回り、お盆のお経を詠んだのです。

私はこうした宗教的体験をしたのです。

その後成長していろいろな本を読みました。

そして日本の隠れキリシタンの歴史に感動し、35歳の時カトリックになったのです。

それ以来40年以上、毎週の日曜日にはミサに参加しています。

私のカトリック信仰の内容を考えてみると、仏教の影響を深く受けていることに気がついています。

そもそも1549年にザビエルがカトリックを持ち込んで以来、数々の宣教師が日本の文化的土壌を重視し、現地順応主義をとりました。戦国時代末期に長く日本で活躍したヴァリアーノ神父も順応主義でした。

当然のことながら日本のカトリックの信仰の内容はヨーロッパや南米のものとは違います。

教理や教義は世界共通ですが、信じる人々の心の動きが違うのです。国々によって文化的な土壌が違うので自然にそのようになります。

日本が中国から道教を受け入れた場合にどのように変化してきたかを考えて以下の連載記事を書いてきました。

日本のキリスト教と庚申塔信仰の間(1)信仰の種類や宗派には優劣が無い

日本のキリスト教と庚申塔信仰の間(2)日本にあるキリスト教には排他性が無い

日本のキリスト教と庚申塔信仰の間(3)日本にある中国の道教起源の信仰

そして上の連載内容の補足として以下の記事も書きました。

庚申信仰の時代による変遷

今よみがえる70年前の懐かしい光景・・・そしてあなたの幼少時の光景は?

以上の考察によって明らかになったことは道教が日本に入るとその信仰内容が変化し、仏教的になることです。そして神道とも混淆します。

異なった宗教の習合や混淆はどこの国でも起きますが、日本のそれは程度が激しいように思われます。そして大乗仏教的になるのです。神仏混淆も普通です。

このような文化的土壌のある日本ではキリスト教も例外ではありません。

教理や教義は変更しませんがその信仰内容が以下のように変化しています。

(1)先祖崇拝を否定しない。

(2)仏教的文化土壌に根着くためにはキリスト教の排他性を弱める。

しばしば意図的に、「キリスト教は排他的で、戦争の原因になっている!」と言う人がいます。この言い方は雑過ぎます。「十字軍が活躍した中世のヨーロッパのキリスト教は排他的で、戦争の原因になっている!」と言い直すべきです。

そして判ったような顔をして、「そもそも一神教は排他的だ。だから戦争の原因になる!」と断言する人もいます。これも比較文化人類学的に考えると雑過ぎます。「そもそも民族というものは排他的だ。だから戦争の原因になる!」と言い直すべきです。

イエス様の教えたことは愛と平和の重要性でした。

ついでに書きたいことがもう一つあります。よく受ける質問です。

「私だけが洗礼を受けると先祖はみな地獄に行くのですか?子供が洗礼を受けたがりませんが、やはり地獄へ落ちるのですか?」

私は確信して答えます。「神様の愛は人間が想像出来ないくらい大きいのです。先祖様のことも子供のこともすべて神様に任せなさい。神様やイエス様は絶対に悪いようにはしない筈です。」

そして、こんな質問も受けます。「洗礼を受けたら仏式のお葬式や法事には出られなくなりますか?」

私の答えは簡単です。「従来通り出て下さい。欠席して親類や友人、知人の心を傷つけてはいけません」。

イエス様の教えたことは愛と平和なのです。

上と下に私の好きな鎌倉の円覚寺の風景写真を3枚お送りします。(連載の終わり)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

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今日は繁田さんの美艇へ招ばれました

2013年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

先月の18日に、霞が浦のセイリングへ行きました。その時は繁田さんのアレンジで中村さんのパーティ仕様のヤマハ24フェスタの栃木さくら号に乗せて頂きました。

繁田さん、中村さんたちと強風下の豪快なセイリングを楽しみました。

その時の記事は、男の本当の優しさを体験しました。です。

そして今日は繁田さんのヨットに招待して頂きました。ヤマハの26フィートですが、キャビンが広く、船体がブルーに仕上げてあり美しいヨットです。

早速、出航となりましたが、エンジンは快調なのに、前進、後進を入れ替えるギアーを動かすワイヤーが外れていて機走出来ません。

ヨットのトラブルはいろいろ起きるので、沖で故障しなくて幸運だったと思います。

美しいキャビンの中でコーヒーをご馳走になりながら、一緒にオニギリの昼食を食べました。

繁田さんは江田島の育ちで、呉の高校のヨット部で各種のレース参加したベテランです。

今日は、繁田さんの「ヨットの楽しい体験」や「怖い体験」の話を聞きながら時の経つのも忘れてしまいました。彼は本物の快男子です。

キャビンの中でコーヒーを飲みながらヨットの体験談を聞くのは実に楽しいものです。

帰りは常磐高速を一気に飛ばして帰宅しました。

下に繁田さんの艇の写真などをお送り致します。

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上は繁田慎吾さんと彼の美しいヨットです。

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上は広々したキャビンです。繁田さんのお顔がピンボケでした。

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繁田さんの艇の上から見た今日の土浦港の光景です。

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霞が浦へ流れ込む桜川の河口の風景です。桜川の橋の上から、毎回、この風景を見ると、ああ、霞が浦に着いたとホットする場所です。

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上の写真は繁田さんが育った江田島の写真です。帰宅後、どのような所なのか検索して見ました。写真の出典は、http://scootist.blog98.fc2.com/blog-date-20110904.html です。繁田さんが懐かしくお思いになるのではないかとお送り致します。

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繁田 慎吾さんの投稿: 「広島側から見た江田島ですね。古鷹山の裏側に旧海軍兵学校、現海上自衛隊第一術科学校があります。」


私達が学校で習う日本の歴史は現実とは違い過ぎる!

2013年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

私たちが学校で習う日本の歴史の教科書は明治政府成立以来、文部省が指導して作ったものです。廃藩置県を実施し、明治天皇と中央政府が全権力を握り、国内を統一しました。国内を統一し富国強兵を実行し欧米の植民地になるのを防ぎました。

従って国民へ教える日本とは飛鳥時代から江戸時代まで天皇と幕府の権力が国の隅々まで統一し、一糸乱れぬ統治をしていたと教える必要があったのです。日本は近代国家と変わらぬ一つの強力な国として存続していたと信じさせる必要があったのです。

したがって地方地方に小規模な武力集団が居て農民を勝手に領有し、一方では中央政権へ年貢の一部を上納し、忠誠を誓っていた実態は教えないことになっていました。このような武力集団の頭は、国人とか国衆と呼ばれ領主として君臨していたのです。国衆が強大になった場合は守護職を天皇から委託され公的にも権限を振るっていたのです。飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国と時代が変わっても地方の小さな武力集団と領主の存在は変わらなかったのが実態だったのです。その領主が成り上がった戦国大名で徳川側についた一群が江戸時代の各藩として生き残ったのです。

現在の東京にはそのような領主が作った城跡が沢山あります。江戸城、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどです。そしてこの領主の作った城の名前が品川区、世田谷区、渋谷区、板橋区、練馬区、立川市、八王子市、桧原村という名前と関係があるのです。これは東京地方の一例で、同じようなことは全国の各地にあると思います。

誤解を恐れずに明快に言えば、日本は明治維新以前までは完全な地方自治がおこなわれていたのです。明治維新はこの地方分権を完全に消滅させることになったのです。それを現在、地方自治の重要性を宣伝しています。しかし現在の国家体制のままでは地方分権への変革には大きな制約が存在しています。それは武力無き自治権です。当然、国家政策と国税の許す範囲の中に限定された地方分権なのです。

このような視点で日本の歴史を見ると、地方、地方の歴史を調べることの重要さがご理解できると思いま。

下に一例として埼玉県にある行田城のことを簡略にご紹介いたします。

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埼玉県、行田市は利根川と荒川の間にある低地です。周りは水を満々と湛えた水田が果てしなく広がっています。江戸時代にはこの水田はほとんど沼や湖でした。文政6年(1823年)、岩崎長谷の描いた「忍名所圖絵」を見ると沼に長い橋がかかり、その袂で農民が鵜飼をしています。

そんな湖沼を外堀代わりに忍城を作ったのが、熊谷を本拠にしていた戦国武将の成田顕泰(あきやす)です。1479年に完成しています。外堀のような湖沼が周りに広がり、敵が近づけない難攻不落の名城でした。その後111年間、1590年の秀吉による関東平定まで成田氏の城として存続しました。

1590年の秀吉の小田原城攻略の時には、城主の成田氏長が北条氏に味方します。

石田三成の率いる軍勢が忍城を取り囲みました。三成は湖沼の地形を巧みに利用して水攻めに出ました。利根川と荒川へ延長14kmもの堤を築き、多量の水を流し込んだそうです。今でも堤の一部が三成堤という名で残っています。

深い水で完全に囲まれましたが、なかなか落城しません。それを見た人々は、「城が浮いているから落城しない。浮き城だ!」と言い合ったそうです。

しかし、小田原城が落ちた後では、忍城も開城せざるを得ません。

江戸時代には徳川の城として、親藩、譜代16人の城主が在城する。

上の写真にある白い天守閣のような建物は三階櫓と称する建物で1702年に完成しました。1639年に忍城に城番になった阿部忠秋が城の大改修をした時に作りました。

全く根拠意の無い想像です。「江戸幕府へ遠慮して天守閣を作らないーでも天守閣のように見える立派な三階櫓を作ろう!」、こんな気持ちがあったのかも知れません。江戸時代は常に徳川幕府の意向を伺いながら生きて行かねばならない時代でした。

幸い、阿部氏はその後184年間城主を務めます。明治維新後、城は取り壊され民間へ払い下げになりました。現在の三階櫓は1988年に行田市によって再現された建物です。撮影日時:20086月7日午後1時頃。(終わり)


このブログでは考えて楽しくなったり、元気になるような事を書いています。

2013年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

文章を書いたり、読んだりする作業は面倒くさいものです。ですから書きながら楽しい思いをする、そして読んで下さる方々も楽しい、元気がでる、明るい気分になる、そのような記事にしたいと思っています。

その為にはいろいろな方法があります。

その一つに何か問題を提供して、読者に楽しみながら考えていただくという方法があります。

解答は私も分りません。いや正解の無い問題です。

しかし問題の内容が意味深くないといけません。日常茶飯事に関する問題は重要ですが、ありふれた話題なのでなるべく避けています。

一例を下にあるお墓の写真で説明します。

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この写真の説明に短い文章を付けます。「外国人の神父さんやシスター達のお墓は何故か質素な木の十字架のお墓が多いのです。故郷に帰らず日本の土になったのです」。それだけの文章をつけます。

読者の方々は、何故、質素な墓なのだろうと考えます。何故、故郷の先祖代々のお墓に帰って眠らないのだろうと考えます。

そしてマリゲレータさんとはどんな人だったか検索して調べる人も居るでしょう。あるいはピザにマリゲリータというものもあるからイタリア系の人だったと思う人もいます。

私も検索して見ました。http://blogs.yahoo.co.jp/myyurieru/18282977.html に「マルガルタの黙想会」の事が書いてありました。

しかしどうも、シスター・マリガリータとは別人のような気がします。ですから正解は解りません。と、書くと親切に教えてくれる方がいます。それまで待つことにします。

さてこの写真をみて元気が出るでしょうか?明るい気分になるでしょうか?

それは見る人の考え方次第です。故郷を離れて日本人の為に働いた人が居る。そうだ私ももう少し元気に頑張ろう。そう思える人は幸せです。

楽しかった大学生の頃、親切だったシスターに会った事を思い出した人も居るかも知れません。感謝の気持ちで当時の楽しい思い出を楽しめれば幸運な人です。

一生の間、シスターとは一切縁のない人々も多いものです。私も縁がありません。しかし北海道のトラピストのお菓子をお土産に貰った事がある人々は多いと思います。美味だった事を思い出すと楽しくなります。くれた人を思い出し、感謝します。

たった一枚の写真からいろいろな思いが広がり楽しめます。

このようにいろいろ考えられる記事にしたいと写真や文章を掲載しています。どうぞ来年もこのブログをお楽しみ下さい。大晦日も近づいて来ました。

上の文章を面白いと感じなかった方々のために、下に、せめて冬バラの写真をお贈りいたします。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

都立神代植物公園には広大なバラ園があります。冬のバラの写真です。

お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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寒い日々が続いているので暖かい温室の花の写真をお送りいたします

2013年12月24日 | 写真

最近、寒波が全国を覆っていますね。

庭の水盤も毎朝氷ります。

そこで暖かい温室の花々の写真をお送りします。神代植物公園の温室で撮った写真です。温室の中は春の陽気でした。気持ちだけでも暖まって下されば嬉しく思います。

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今夜は楽しいクリスマス・・・その真実と虚構

2013年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

今夜は楽しいクリスマスパーティをする家々が多いと思います。

子供のいる家では今夜、子供が寝ている間にサンタクロ-スがプレゼントを持ってきます。25日の朝の子供達の喜ぶ声が聞こえます。

これは日本の楽しい年中行事としてすっかり定着しています。

戦前生まれ、戦後育ちの小生の思い出の中にはクリスマスはありません。お正月が楽しかったのです。年齢も、お正月にみんな一斉にとるので誕生日のお祝いはありませんでした。

しかし戦後の復興が進むにしたがって、アメリカ占領軍の影響もあって、クリスマスが全国へと広がりました。経済の高度成長の頃には会社主催の豪華なクリスマスパーティが盛んでした。飲食街では三角帽子を被って酔った人達を見かけたものです。

それが次第に家庭中心の心温まる年中行事になってきたのです。

大変素晴らしいことです。

さてクリスマスはイエス・キリストが12月24日の夜から25日の明け方にかけて母マリアから馬小屋でうまれたということを祝う祭りです。

今日は、このクリスマスに関連する言い伝えや、歴史の真実と虚構を気楽に雑談風に書いてみたいと思います。もちろん歴史学者でもない小生が書くものですから気楽にお読みください。

まず真実から書きますと、旅に出たヨゼフとマリアが宿屋の部屋が取れなかったので、イエスを外の馬小屋か羊小屋か納屋で産んだということは間違いの無い真実のようです。

2000年ほど前の当時の中近東のシリア地方(現在の地中海東沿岸一帯)は現地のヘロデ王が支配していましたが、ローマの軍門に下り、ローマ帝国が完全に占領します。ヘロデはローマへ忠誠を誓い、王権を認められたのです。賢い政治的妥協です。

当時のローマ皇帝はアウグストウスでした。

彼はローマの全領土の住民に、登録せよとの勅令を出したのです。全住民は急いで出身地へ戻って、登録しなければいけません。

多くの人々が急に旅をするので当然、宿屋が足りなくなります。

ナザレで大工をしていたヨゼフと、身ごもっていた妻マリアが出身地のベツレヘムの町に着いた時はすでに宿屋が全て満員でした。

寒い野外で夜を明かすよりは馬屋か納屋の中の方がまだましです。

その馬屋の中でマリアがイエス様を生むのです。そして飼い葉桶の中に藁を暖かく敷き、生まれたばかりの赤子を寝かせるのです。

この辺の聖書の記述はローマ皇帝アウグストウスの勅令とも合致するので真実だと思います。

しかしイエス様の生まれたのは約2000年も前のことです。正確な月日など分かる筈が有りません。

そこで次第に冬至の頃と設定して誕生を祝う人々が増えて12月24日に定着したのです。冬至から次第に日が長くなりやがて春が来るのです。ですから冬の暗い北ヨーロッパでは原始宗教の祭りとして冬至祭が盛大でした。

それとキリスト教が混淆したので冬至に近い、12月24日の夜から翌朝にキリストの誕生日を祝うことになったのです。北方民族の冬至祭と合流したのでサンタクロースはフィンランドの森に住んでいるのです。

ですから12月24日はクリスマス・イヴというのは宗教的な虚構なのです。

その時、シリアの東方の砂漠の部族の3人の賢者が星に導かれて拝みにきます。これが後に、「東方の三賢者」と伝わっています。これも虚構です。

しかし星に導かれて3人の賢人が砂漠を歩く姿は何故か美しさを感じさせます。詩的な虚構です。

それから処女マリアが聖霊によって身ごもったというのも宗教的な虚構です。

新約聖書にはヨゼフが自分の憶えのない子をマリアが身ごもったので誰にも知られないようにマリアを離縁しようとしたと書いてあります。これは人間感情として本当だったと思います。しかしヨゼフはこの子を受け入れるのです。

このような歴史的真実と宗教的虚構はどの宗教にもあるものなのです。

お釈迦様が4月8日に摩耶夫人の腋の下から産まれたので、その日は楽しい「花祭り」をします。それも歴史的真実ではなく宗教的虚構です。

しかし私はカトリックの信者です。当然、すべての宗教的虚構を大切に思っています。尊重しています。それが人間として当然の姿勢と信じているからです。

日本のカトリック信仰は1549年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島へ第一歩を印したときに始まります。クリスマスは彼が日本へ持ち込んで来たものです。

ですからクリスマスの頃になると毎年、長崎や五島列島のことをあれこれ考えます。

今日は長崎の隠れキリシタンの里、外海町のカトリック黒崎教会のHPから写真を3枚ご紹介いたしたいと思います。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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