後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「憲政史上最長の政権を作った安倍総理の大きな成果」

2020年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
 安倍首相は在職日数が憲政史上最長です。さらに次の首相が決まるまで記録は伸び続けるのです。
安倍首相は最長の政権を作っただけでなく、次のような大きな成果を上げました。
(1)トランプ大統領と親密になり日米安保を強固にし日本の安全保障を守りました。アメリカだけで
なくロシアのプーチン大統領や中国の習近平国家主席と何度も会談し日本の平和を守りました。
(2)地球儀外交を展開し日本の国際的地位を高め日本への観光客の増大をもたらしたのです。
(3)国内では「アベノミクス」政策を進めて好景気が続きました。
(4)コロナ問題でも非常事態宣言を適切に出し、コロナ対策に一生懸命に働きました。
上記の4つの大きな成果を上げ、さらに権力を乱用しないので官僚や自民党の政治家と良い関係を作ったのです。その結果、明治維新以来、最長の政権になったのです。
その一方、北方領土問題と拉致問題には何も出来ませんでした。日韓関係も悪くしました。しかしこれらの問題は誰が総理になっても解決出来ない問題なので 安倍首相の失点ではありません。
失点と言えばあれほど意気込んでいた憲法改正ができなかったことがあります。しかし憲法改正に関する世論調査の結果では常に憲法改正反対者が多数あり、安倍首相は世論に従っただけです。これは総理の権力を乱用しなかった一つの例です。

この写真は8月28日に辞意表明の会見をする安倍晋三首相(時事通信社)です。
この記者会見の一部始終をテレビで見た私は記者達の質問が皆敬語を使い礼儀正しいことに驚きました。安倍首相の大叔父の佐藤栄作首相の辞任の記者会見では新聞記者は出て行け!、テレビ記者は残れ!と怒鳴った佐藤総理を思い出していました。
数多くの質問に答える安倍総理も丁寧でした。これではマスコミに評判が良い筈です。
そこでインターネット上の記事をいろいろ調べました。そしたら安倍首相を良く評価している記事が多いのです。もちろん悪く評価している記事もあります。
その2つの記事の抜粋を以下に示します。

(1)「憲政史上最長の政権を作った安倍総理」、https://hbol.jp/227037
安倍首相が他のどの首相よりも「時間」という資源を有していた。これまでの多くの首相が、力を発揮する上で最大のハードルとなったのが「時間」の不足でした。多くの首相が1年から2年で辞任しています。一方、安倍首相以前の連続在職日数トップだった佐藤栄作首相は、高度経済成長を腰折れさせることなく、沖縄返還などの外交成果もあげています。
安倍首相の「時間」という資源は、国会と与党内、世論で多数派を占める支持勢力によってもたらされていました。2012年の第二次安倍政権の発足以降、衆参の議席は常に過半数を超える与党議席で占められていました。自民党内では、石破派を除く実質的な総主流派体制でした。内閣支持率は、在任中の大半の期間で「支持する」が「支持しない」を上回っていました。
つまり、安倍首相は、戦後のあらゆる首相を上回る「力」を持っていたのです。おそらく、安倍首相を上回る「力」を持ちうる首相は、なかなか現れないでしょう。
そこで、戦後の首相でもっとも「力」を有していた安倍首相の成果とレガシーを振り返ることは、意義あることです。なぜならば、首相として何ができるのか、首相であっても何が困難なのか、一つの限界を示しているからです。
米国は安倍政権を高く評価していた。安倍氏がオバマ、トランプ両大統領との信頼関係を築き、日米同盟が強化されたからだ。安倍政権は安保法制を整備し、集団的自衛権の行使にも道を開いた。
2014年から4年半、自衛隊統合幕僚長を務めた河野克俊氏は「自衛隊を憲法に明記することを目指した憲法改正が実現しなかったのは残念だが、日本の防衛政策を前進させた功績は大きい」と評価する。
かつて米国に赴任して防衛駐在官を務めた伊藤俊幸・金沢工業大学虎ノ門大学院教授(元海将)も「集団的自衛権の行使によって、一緒にいる米軍艦艇を守ることが可能になった。特定秘密保護法により、米軍情報の提供も増えた。2017年に北朝鮮ミサイル危機が起きたとき、日米同盟が揺るがなかったのは、こうした努力があったからだ」と語る。伊藤氏は、第2次安倍政権が国家安全保障局を創設し、国家安全保障戦略の策定を始めたことで、一貫した安全保障政策が可能になったとも語った。
一方、安倍首相はトランプ米大統領やロシアのプーチン大統領、中国の習近平国家主席らとのトップ外交を推進し、「外交の安倍」を政権の看板に据えた。
西田恒夫元国連大使は「トップ同士の信頼関係によって二国間関係を維持するのは、伝統的な外交手法。安倍首相はトップ同士だけの会談も頻繁に行った。それだけ、外交に自信があったのだろう」と語る。(終わり)

(2)「安倍首相の経済政策で経済は急ブレーキ、残りは「不安」と「課題」」、https://www.businessinsider.jp/post-218940
自民党内に有力なライバルがいない中、第2次安倍政権は大型の国政選挙での勝利を背景に「安倍一強」と評される官邸主導の政治を取り仕切ってきた。
ただ、その政治をめぐっては評価は分かれる。読売新聞オンラインは「経済政策『アベノミクス』を進めながら、日米関係を基軸とした外交や安全保障政策で成果を重ねてきた」(2020年8月24日)と論評。経済界も、経済最優先の政策をおおむね評価している。
確かに企業の「経常利益」は48兆4000億円(2012年度)から過去最高の83兆9000億円(2018年度)に拡大。有効求人倍率も0.82倍(2012年12月)から1.64倍(2018年9月)で45年ぶりの高水準をマークした。なお、コロナ禍前の2019年12月は1.57倍だった。
実際、人々は好況を実感できていたのだろうか。総務省の家計調査によると、総世帯のうち勤労者世帯の実収入は1カ月平均46万7774円(2012年)から51万2534円(2018年)となり実収入は増加傾向だ。
厚生労働省の国民生活基礎調査でも、1世帯あたりの年間平均所得は537.2万円(2012年)から552.3万円(2018年)と14万円ほど増えた。
ただ、所得の分布状況では平均所得金額以下の世帯は60.8%(2012年)から61.1%(2018年)に。新型コロナ禍で中間層がさらに沈み、貧富の格差が一層拡大することも懸念される。
安保政策をめぐっても評価は分かれる。「積極的平和主義」を標榜する安倍政権は、これまでの憲法解釈を変更。集団的自衛権の一部行使を容認する「安全保障関連法」を成立させた。
これは「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」(憲法9条)を憲法で謳った戦後日本にとって、安保政策の大きなターニングポイントとなった。
なおも残る政治課題…北方領土、東京五輪の行く末は?
安倍首相は歴代の内閣総理大臣の中で史上最も長くその職にあった人物として歴史に名を残すことになったが、なおも政治課題は残る。
ロシアのプーチン大統領との間で「私たちの時代で終止符を」と意気込んだ北方領土問題は棚上げとなり、「(東京)オリンピック・パラリンピックが開催される2020年、日本が大きく生まれ変わる年にするきっかけとしたい」と豪語した憲法改正も実現は難しい。
そもそも、来年の五輪開催すら危ぶまれている状況だ。2021年に、この国はどんな道を歩んでいるのだろうか?(終わり)

さて安倍総理は歴代の総理の中で優等生です。しかし列島改造を唱え所得倍増をした田中角栄のような野性的な魅力はありませんでした。記者会見ではよく喋り弁舌さわやかです。昔から「巧言令色鮮し仁」と言いますが安倍総理には人徳が感じられません。自分の奥さんの友人の幼稚園経営者や親友のゴルフ友人へ便宜を与え、これらの問題をウヤムヤにしたのです。鮮し仁です。もっとも政治家に人徳を求める私が馬鹿なのです。

今日は憲政史上最長の政権を作った安倍総理の成果に関して私の感想を書きました。安倍総理は歴代の総理の中でも優れた政治家でした。しかし人徳が少ないとも感じました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


「秋の花々の写真をお楽しみ下さい」

2020年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は8月31日です。明日からいよいよ九月。秋が訪れます。今朝は猛暑も過ぎ少し涼しい風が吹いてます。空は曇りで淋しい雰囲気です。
そこで今日は自分が撮った秋の花々の写真をお送りいたします。お楽し頂けたら嬉しく思います。

1番目の写真は秋になると真っ赤に実るホウズキです。花ではありませんが秋らしい実なので掲載いたしました。都立薬用植物園で撮りました。

2番目の写真は食用の菊の花です。都立薬用植物園で撮りました。

3番目の写真は秋の彼岸に咲くヒガンバナです。墓参りに行った日野市の大昌寺で撮りました。

4番目の写真はススキです。山梨県北杜市の尾白の湯のそばで撮りました。

5番目の写真は自宅の庭に今年も咲いたジンジャーの花です。

6番目の写真はシオンです。北杜市の尾白の湯のそばで撮りました。

7番目の写真はホトトギスです。都立薬用植物園で撮りました。

8番目の写真は秋に咲くフヨウです。鎌倉の円覚寺で撮りました。

9番目の写真は小金井公園で撮った皇帝ダリアです。皇帝ダリアは毎年晩秋に咲きます。

私が花の写真を撮る時に工夫していることを書いてみたいと思います。
(1)花のクローズアップの写真がお好きな方々が多いのでまず花のクロ-ズアップ写真を撮ります。そしてクローズアップだけでなく、家内は茎や葉を入れた写真も撮ります。また花がどのような場所に咲いているかが分かるような写真も撮ります。それを花のクローズアップ写真と組み合わせて掲載します。
(2)詩情を感じさせるような背景も一緒に写真に入れて撮ることもあります。
例えば4番目の写真のススキの写真の背景に秋らしい淋しい空を写しました。秋の詩情を感じさせます。
(3)花々の写真にその場所の歴史を感させるものを入れます。
例えば8番目の写真のフヨウの背景に円覚寺の座禅堂を入れました。鎌倉時代の歴史を感じて頂けたら幸いです。

以上のように私はいろいろ考えて写真を撮りますが。写真の出来はそれほど良くありません。
しかし自分で撮った花々の写真を眺めていると何故か幸福感につつまれるのです。
いろいろな写真を撮った時の思い出が甦って来て楽しいのです。大体いつも家人が傍にいて話し合いながら撮ります。彼女は花々がどのような場所に咲いているか分かるような写真が好きです。

さてあなたは写真を撮る時にどのような工夫をなさっているでしょうか? ご意見を頂けたら大変勉強になります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「今日は動画配信の年間第22主日ミサにあずかりました」

2020年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は年間第22主日ミサです。動画配信のミサにあずかりました。(https://www.youtube.com/channel/UCc2LbUPcHohKUgO2dYhrCvw/videos )
今日の動画配信のミサの写真を3枚お送りいたします。





以下は今日の菊地功神父さまの説教の全文です。
https://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/
年間第22主日A(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年8月30日

わたしたちは、人生の道程を歩むとき、常に選択を迫られて生き続けています。人生の歩む方向を大きく変えてしまうような重大な選択もあれば、日々の生活の中で次に何をするべきなのかと言った小さな選択まで、ありとあらゆる選択に直面しながら、わたしたちは人生を歩み続けています。

新型コロナの感染症がなかなか終息する気配を見せない中、教会もこの数ヶ月間、様々な選択を迫られ続けてきました。中でも、わたしたちの信仰生活の中心であり、共同体のきずなの見える形でもある主日のミサを、続けるべきなのか中止するべきなのか。その選択は、簡単な決断ではありませんでした。教会はこれからも当分のあいだ、一番大切な聖体祭儀に関して、難しい選択を迫られることになるだろうと想定しています。

教会にとってご聖体の秘跡は「教会生活の中心に位置づけられます」と指摘されたのは、教皇ヨハネパウロ二世でした。(「教会にいのちを与える聖体」3)

単に教会に集まって祈りの時を一緒にできないということに留まらず、聖体祭儀にあってご聖体のうちに現存されている主イエスと一致するという信仰生活の根幹を、教会が自ら放棄することが許されるのだろうか。聖体の秘跡は単なる象徴ではなく、「信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧」であり、「もっとも貴重な宝」であります(「教会にいのちを与える聖体」9)。それを簡単に手放すことなど出来るわけがありません。わたし自身の霊名でもある聖タルチシオのように、命を賭けて御聖体を守りながら殉教していった信仰の先達も多くおられます。

教会全体において、こういった緊急事態に遭遇したときにどうするのかを定めた規則はありません。世界中の司教さんたちが、同じことを考え、悩んだことと思いますが、わたし自身もさまざまな対応を考えながら、いろいろ思いつく度に、今日のマタイ福音のことばが頭に浮かびました。

「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」

昨年の東京ドームで行われたミサで、教皇フランシスコは説教の最後にこう指摘されました。
「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。」

教皇フランシスコは、教会はいのちの福音を告げるための野戦病院であれと言われます。そうであるならば、教会は、困難な状況にあっても、扉を閉ざすことなく祈りの共同体として続けるべきではないのか。ミサを止めようなどと言うのは、恐れをなした人間の弱さに基づく判断ではないのか。そう思い悩みました。いまでも悩み続けています。

同時に教皇フランシスコは、わたしたちには判断の基準があるともいわれます。同じ説教の中で、「キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」と指摘されていました。すなわちわたしたちは、神のいつくしみという視点から判断した場合に、どういう道を選択するべきなのかを考え、よりふさわしい道を識別しなくてはなりません。

教皇ヨハネパウロ二世は回勅「いつくしみ深い神」の中で、こう記しています。
「イエスはとくに生き方と行動を通して、わたしたちの住むこの世の中に愛のあること、行動となる愛、人間に声をかけ、人の人間性を作り上げているすべてを抱きしめる愛のあることを露わにされました。この愛が特に気づかれるのは、苦しみ、不正、貧困に接するときです」

その上で、教皇は、「愛が自らを表す様態とか領域が、聖書のことばでは「あわれみ」と呼ばれています(3)」と指摘します。

すなわち教会はいま、苦しみに接するときにこそ、イエスの模範に倣って、その生き方と行動を通して、愛があることをあかししなくてはなりませんし、その愛のあかしこそは、「あわれみ・いつくしみ」と呼ばれると言うことになります。

神のあふれんばかりのいつくしみは、たまものであるいのちへの愛として表されていることを考えれば、現在の混乱を極めている危機的状況の中で、神のいつくしみという基準からの判断は、いのちを最優先することに他なりません。

たまものであるいのちを守ることを最優先にして、教会は、危機に直面する中での一連の選択を行ってきましたし、その対応が大げさに過ぎるという指摘も受けることがありますが、現在の状況の中でいのちを守ることは、最優先の選択です。

同時に、それでもなお教会は野戦病院であることを止めることも出来ません。わたしたちは、いまのような状況にあっても、「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院」であり続けなくてはなりません。それはすなわち、これまで存在しなかった新しい方法で、野戦病院となる道を探らなくてはならないことを意味しています。わたしたちは、知恵を絞りながら、これまでの前例に縛られることなく、神の望まれる道を実現するための道を見いだす努力を続けていかなくてはなりません。

教皇フランシスコは、「教会を老けさせ、過去に執着させ、停滞させ、動かないものにしてしまうものから、解き放たれていられるように主に願いましょう(35)」と使徒的勧告「キリストは生きている」に記しています。

いま、この困難な状況に直面する中で、教会は様々な選択を迫られています。同時にそれが、信仰をより良く生きるための振り返りの機会をも生み出しています。これまで通りにすべてをつつがなく進めようという誘惑から解き放たれ、教会が教会らしく、常に若さにあふれた教会となるための道を選択する機会を与えられています。

「あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」とパウロがローマの教会に呼びかけたように、わたしたちもまた、この状況の中だからこそ、「何が神の御心であるか」をじっくりと時間をかけながら識別する時を与えられています。

神の道を探し求めながら、信仰をよりふさわしく生きる道を選び続けましょう。(終わり)

「秋の花々の写真を見て残暑を凌ぐ、そして秋の七草」

2020年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は8月28日です。もうすぐ秋ですが相変わらず残暑がきびしい毎日です。毎年こういう時には秋の涼し気な花々の写真を見て残暑を凌ぎます。今年もそういう季節になりました。
そこで今日は去年の秋の花々の写真をお送り致します。写真をご覧いただき涼しい気分になるように祈っています。

1番目の写真は甲斐駒岳の麓の高原の秋の花園です。四季折々花が絶えない花園です。

2番目の写真も同じ花園です。花の好きなある別荘の庭先です。何時もご挨拶して写真を撮らせて頂いています。

3番目の写真は同じ場所のコスモスの花です。秋の高原の涼しい風が吹いていました。

4番目の写真もコスモスの花です。背景の山は甲斐駒岳の山裾です。

5番目の写真は都立薬草植物園のミソハギです。秋の薬草植物園にがいろいろな花が咲いています。

6番目の写真は撫子です。写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E8%8D%89 です。

7番目は桔梗です。写真の出典は6番目の写真と同じです。
秋の花々と言えば万葉集の時代から日本人に愛されて来た秋の七草の花があります。
そこで秋の七草を思い出して、山上憶良の万葉集の和歌を読み返してみましょう。
岩波の「古典文学体系」や角川文庫の万葉集、上巻(武田祐吉校註)を見ると、当時の人々が愛した花の名が出てきます。
山上憶良の和歌の中にある朝貌は現在のキキョウのことです。原文を分かりやすくしたものを示します。

秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種の花
(山上憶良 万葉集 巻八 1537)七種は「七草」と読みます。

萩の花 尾花 葛花(をばな くずばな) なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花
(山上憶良 万葉集 巻八 1538)

秋の七草の花の写真は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E8%8D%89  に出ています。今日、示した写真の6番目、7番目の写真は秋の七草の花です。七草とは萩、尾花、葛、桔梗、女郎花、藤袴、桔梗です。

山上憶良の歌によると、1200年ほど前の日本の野原にはいろいろな花が咲いていたのです。
秋風がわたる万葉時代の野原に花が咲いているのどかな情景が浮かんできます。
二番目の歌は花の名前を羅列しただけですが、その順序と読んだときの音の響きが心地よいのです。2首続けて読むと優雅で気品のある作品のように感じられます。

それにてもこの和歌が作られたのは天平時代の730年ころです。現在よりも1300年も昔のことです。しかし現代の日本人もこの歌を楽しむことが出来るのです。やはり万葉集は確かに素晴らしい文化遺産です。

秋の花と言えば七草の花の他に、彼岸花(マンジュシャゲ)、野菊、ホトトギス、リンドウなどがあります。これらは全て日本古来の花々です。
また海外から来た秋の花もあります。セイタカアワダチソウや、コスモス、カンナや皇帝ダリアなどなどです。
このように四季折々、花々の咲く日本に生まれた幸せをしみじみと感じる季節です。幸福感につつまれます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「稲田の広がる風景は懐かしい故郷を思い出させる」

2020年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム
昔水田の広がる風景を見ながら育って、青年になってから都会に住むようになった人は案外多いのではないでしょうか。私もそうですが、そのような人にとって稲田の広がる風景は懐かしいものです。故郷での楽しかったことをあれこれ思い出します。ですから田圃の広がる風景を見ると幸せな気分になります。
私は仙台市に生まれ育ちました。仙台市には水田がありませんが、郊外に出ると田んぼが遠く迄広がっています。仙台平野は米どころで稲田が果てしなく広がり、夏過ぎには実のった稲穂が風に揺れていました。そして何とも言えない稲穂の良い香りがしていたものです。
終戦の頃は水田の広がる田舎に疎開していました。小学校の校庭で玉音放送を聞いてから田のあぜ道を帰って来ました。イナゴが足もとで飛び跳ねていました。
そして戦後は食糧難の時代でした。米が貴重品でした。その米を作るのが稲田です。ですから当時は水田は非常に大切にされていました。
そんな思い出がありましたから私は時々夏風に揺れる稲穂の写真を撮りに行きます。
自宅から車で1時間走ると稲田の広がる風景があります。東京都の町田市の郊外と「あきる野市」の多摩川べりに稲田があります。
一昨日は町田市の郊外の水田の写真を撮りに行きました。その写真をお送りいたします。





稲穂を見ながら気が付いたことがありました。稲穂の良い香りがしていないのです。昔の稲は強い香りがありましたが現在の稲が香りが無いのです。品種改良で米は美味しくなりましたが稲の強い香りは消えてしまったのです。
イナゴも消えたのかと注意深く見たら家内の足もとにたくさん飛び跳ねいます。何となく安心しました。
そういえば家内の実家のある甲州街道の裏には水田が多摩川の堤防まで広がっていました。婚約時代の夏の夜に家内とその稲田の道を歩いたことも思い出しました。その水田も宅地になり影も形もありません。昔は東京の郊外のあちこちに水田があったのです。時の流れは無情です。昔の懐かしい風景を跡形もなく消してしまうのです。

それはそれとして、一昨日は稲田の広がる風景の写真を撮りながら懐かしい故郷のことをいろいろ思い出しました。稲田の広がる風景を家内と一緒に見て幸せな気分になりました。老境の幸福はこんなところにもあるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日は動画配信の年間第21主日ミサにあずかりました」

2020年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は年間第21主日ミサです。動画配信のミサにあずかりました。今日の動画配信のミサの写真を3枚お送りいたします。





以下は今日の菊地功神父さまの説教の全文です。
https://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/
年間第21主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂(公開配信ミサ)
2020年8月23日

わたしたちは、情報が満ちあふれている社会に生きています。ほんの十数年前と比較しても、驚くほどのスピードで、驚くほどに大量の情報を、どこにいても自由に手にする手段を、わたしたちは手に入れました。ただ、それほど大量に情報を手に入れるようになったわたしたちが、果たして十数年前より賢明な判断をするようになったのかどうかは、わかりません。なぜならば、情報は受け手であるわたしたち一人ひとりがふさわしく処理しなければ意味がなく、わたしたち自身の処理能力にはそれほど大きな変化があったとは思われないからです。もしかしたら、あまりに大量の情報を前にして、翻弄されているだけなのかも知れません。

飛び交っている情報の中には、様々な種類があることをわたしたちは知っています。信頼に足る情報もあれば、全くでたらめな情報もある。善意に満ちた情報もあれば、悪意に満ちた情報すら存在する。

押し寄せる情報の中に取り込まれながら、与えられたいのちをより良く生きようとするとき、わたしたちは、いのちを豊かに育み、心の糧となる情報を見分けなくてはなりません。

残念ながら実際には、例えばフェイクニュースと呼ばれる真実とはほど遠い情報が存在したり、悪意のある情報が、人の心を傷つけ、時には大切ないのちを奪うほどの負の力となることもあります。

今年5月の第54回「世界広報の日」にあたり教皇フランシスコはメッセージを発表され、そのなかで次のように指摘されています。
「わたしたちはどれだけおしゃべりやうわさ話に躍起になって、どれほど暴力や虚言を振るっているのか、ほとんど自覚していません。・・・裏づけのない情報を寄せ集め、ありきたりな話や一見説得力のありそうな話を繰り返し、ヘイトスピーチで人を傷つけ、人間の物語をつむぐどころか、人間から尊厳を奪っているのです」

その上で教皇は、「道具として用いられる物語や権力のための物語は長くは続きませんが、よい物語は時空を超えます。いのちをはぐくむものなので、幾世紀を経ても普遍なのです」と指摘され、主イエスご自身によって紡ぎ出されるいのちを育む物語にこそ普遍的な価値があるとして、耳を傾けるようにと呼びかけられます。

さらに教皇は、聖書に記された物語は、イエスを中心にした「神と人間との壮大なラブストーリー」だと指摘して、次のように述べています。
「イエスの物語は、神の人間への愛を完成させ、同時に、人間の神へのラブストーリーも完成させます。ですから人間は、種々の物語から成るこの物語の中の重要なエピソードの数々を、世代から世代へと語り伝え、記憶にとどめなければなりません」

情報が荒波のように押し寄せる現代社会に翻弄されながら、いのちをより良く生きようとするわたしたちは、時空を越えていのちを育む物語を選び取り、それに生き、そしてその物語を自分のものとして、さらに多くの人へと語り継いでいかなくてはなりません。

本日のマタイ福音では、主イエスが弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねた話が記されています。

主は、「みんなはわたしのことをなんて言っているのだ」と、まるで現代を生きるわたしたち自身が、しばしば気に病んでいるようなことを尋ねられます。

それに対して弟子たちは、現代を生きるわたしたちがそうするように、「あっちではこう言っていた、こちらではこう言っていた、あの人はこう言っていた」などと、聞いてきた話をイエスに伝えます。聞いてきた話、すなわち「うわさ話」であります。

考えてみれば、わたしたちは「うわさ話」に取り囲まれています。わたしたちを包み込んで大量に流れている情報の多くも、極端に言えば「うわさ話」に過ぎません。その内容にだれも責任を負うことなく、出所も確かではなく、それがどういう効果を社会に及ぼすのかも配慮されないまま、そして時には悪意を込めて、一人歩きをするように社会に流されていく「うわさ話」は、なぜなのかわたしたちの興味をそそります。大量に流れている情報を処理できずに困惑するとき、単純明快に結論を出してくれる「うわさ話」を、ありがたいと感じる誘惑もあります。しかし「うわさ話」は多くの場合、自分とは異なる存在との差異を強調することで、自らの立場を有利に感じさせ、自尊心をくすぐってくれる誘惑です。無責任な「うわさ話」は、差別を生み出す負の力を秘めています。いや、実際にいのちを奪ってしまうほどの、暴力的な負の力を秘めています。

だからこそ主イエスは弟子たちに、「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか」と迫ります。「うわさ話はもう良い、あなた自身はどう考え、どう判断しているのだ。自分の決断をここで明確にしろ」と、迫力を込めてイエスは弟子たちに迫ります。

すなわち、どこかの誰かが解説してくれるわかりやすいイエスの姿ではなく、自分自身がイエスと対峙して、その物語に直接耳を傾け、具体的に出会う中で見いだした、「わたしのイエス」について語るように求めているのです。

いのちを育む真理の物語は、どこかの誰かの知恵から生み出されるのではなく、パウロが「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを極め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と記したように、人知を遙かに超えた神ご自身が語られる言葉、すなわち人となられた神の言葉である主イエスから生み出され、物語られます。

教皇は先ほどのメッセージの終わりにこう記します。
「そうしてわたしたちは、語り手である主──決定的な視点をもつ唯一のかた──のまなざしをもって、主要な登場人物たち、つまり今日の物語の中でわたしたちのすぐそばにいる役者である兄弟姉妹に歩み寄ります。そうです。世界という舞台では、だれも端役ではありませんし、どの人の物語も、生じうる変化に開かれているからです」

すなわち、ご自分の真理の物語を語られる主イエスは、今度はわたしたち自身が自分と主との物語を他の人に向けて物語ることを待っておられます。そしてそのすべてが、たとえどんな物語であっても、いのちの与え主である神の前では、一つ一つが大切なのだと指摘されています。

「わたしたちは、欺きはしないいのちと愛という宝と、誤らせも失望もさせないメッセージを持っています。・・・それは時代後れのものになったりはしない真理です」と、教皇フランシスコは「福音の喜び」(265)に記していました。

あふれんばかりの情報に翻弄されることなく、心静かにイエスの物語に耳を傾け、イエスと出会い、いのちを育むメッセージを、ひとりでも多くの人に伝えていく努力を続けましょう。

「月日が流れ、いたずらに馬齢を重ねる老境の悲しみ」

2020年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム
多くの人は70歳前後で仕事を止めて旅行やそれそれぞれの趣味を楽しみます。この老境は人生の中でも実に楽しい時期です。

しかしその一方仕事を止め社会から離れると何か淋しいものです。他人のために役に立たないでいたずらに馬齢を重ねているだけの毎日です。月日は容赦なく足早に流れ、次第に体力も気力も弱くなって行きます。これが老境の悲しみです。

その一方、老境になると亡き祖父母や家族への感謝の気持ちが湧いてきます。恩人や友人を懐かしみ感謝するようになります。人間は感謝している間は幸福な状態なのです。

このように老境は淋しいものですが人生で一番幸せな時期でもあるのです。

そんなことを考えながら昨日は独りで丹沢山の麓の宮ヶ瀬湖までドライブして来ました。
昨日撮った宮ヶ瀬湖の風景写真をお送りします。





宮ヶ瀬湖までのドライブにはもう一つの楽しみがあります。
それは曲がりくねった大垂水峠(おおたるみ峠)を越えるドライブの楽しさです。甲州街道の大垂水峠は東京都と神奈川県の境です。甲府と松本へ続く甲州街道の難所です。ドライブの面白さは難所の道を慎重に走ることにあります。高速道路を飛ばすのも良いものですが私は峠を越えるドライブの方が好きです。箱根の峠も御坂峠も笹子峠も楽しいドライブです。
昨日撮った大垂水峠の頂上と途中の道の写真をお送りします。



それにしても毎日猛暑ですね。皆さまお元気で猛暑を凌いでいらっしゃいますか。
今日もつまらない駄文を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料、宮ヶ瀬湖ものがたり==========
宮ヶ瀬ダム(みやがせダム)は神奈川県愛甲郡愛川町半原と相模原市緑区青山、更に愛甲郡清川村宮ヶ瀬の3市町村に跨る、一級水系 相模川水系中津川に建設されたダムである。湖名は宮ヶ瀬湖(みやがせこ)です。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E3%83%B6%E7%80%AC%E3%83%80%E3%83%A0 より)

神奈川県内の相模川水系では流域面積の大きい中津川は、合流点より下流に厚木市などの人口密集地帯があり、特に治水の重要性が指摘されていたことからダムによる洪水調節が計画された。当初は「中津川ダム」として計画されていた宮ヶ瀬ダムは、1969年(昭和44年)よりダム建設のための予備調査が開始され、2年後の1971年(昭和46年)より特定多目的ダム事業としてスタートした。堤高156.0mの重力式コンクリートダム、総貯水容量約2億トンという首都圏最大のダム計画は難航する補償交渉を経て、計画発表から29年後の2000年(平成12年)12月に完成した。関東地方では奈良俣ダム(楢俣川・158.0m)に次ぐ高さで浦山ダム(浦山川・156.0m)と並び、総貯水容量は奥多摩湖(小河内ダム)や奥利根湖(矢木沢ダム)に次ぐ関東屈指の大ダムである。

観光について:
ダムは完成以後地域の観光拠点としても整備されている。首都圏から50km圏内の近距離にあることから、直下流にある神奈川県立あいかわ公園と共にピクニックなどが行える行楽地として、週末・祝日になると観光客が多く訪れる。国土交通省の相模川水系広域ダム管理事務所は宮ヶ瀬ダムを積極的に開放して、市民へ事業に対する理解と啓蒙を図っている。ダムではインクラインを利用したダム天端と直下部を結ぶケーブルカー(鉄道事業法に準拠する正式な鉄道ではない)を設置し、ダムと下流にある神奈川県立あいかわ公園とのアクセスを促している。

宮ヶ瀬湖では夏の花火大会を始め、12月にはクリスマスツリーが湖畔に飾られ、夜にはイルミネーションで彩られる。湖畔の宮の平代替地には水源地域対策特別措置法の補助によって建設された「宮ヶ瀬水の郷」やビジターセンターがある他、早戸川の国際マス釣り場、中津川・布川沿岸のキャンプ場群、ダム下流のふれあい村など多くのレジャー施設が設けられている。

「あなたは亡くなった家族とどのように交流していますか?」

2020年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
自分を大切にし愛してくれた父母も亡くなります。親切に可愛いがってくれた祖父母も亡くなってしまいました。不運にも若い夫婦でも死別することもあります。あなたは亡くなった家族とどのように交流していますか?
多くの人は写真をかざってその写真に時々話しかけます。盆やお彼岸に墓参りに行って墓に眠っている懐かしい家族と話し交流します。亡くなった家族はあの世に居るのです。あの世で永遠に生きているのです。
私は家内の実家の墓参りに必ず行きます。家内が亡くなった父母や祖父母と交流して幸せそうにします。そんな姿を見ると自分も心の中で亡くなった私の父母や祖父母と交流します。ですから私は墓参りが楽しいのです。墓参りが好きです。
私の祖父はお寺の住職でした。祖父の死後、叔父が住職になりました。お寺では亡くなった人と此の世の人の交流を助ける行事をいろいろします。お経を毎日あげるのは檀家の亡くなった人を供養するためです。そしてお釈迦さまと交流するのです。
亡くなった人々と交流する行事に灯篭流しもあります。
今日は九州のある佛教会の行っている灯篭流しと長崎の精霊流しをご紹介いたします。
夏になると、あちこちで灯篭流しがおこなわれます。夏の暗い川面にほのかに光る灯篭を流します。故人の冥福を祈ります。楽しかった思い出を懐かしみます。祖父母、両親、親族、恩人や友人との別れの悲しさが癒されます。
そんな灯篭流しの一つに九州の延岡市の延岡仏教会が主催する五ヶ瀬川の『流れ灌頂(かんじょう)』があります。今年はコロナで中止しましたが、以前の写真をお送りいたします。

1,2、3番目の写真の出典は、https://nobekan.jp/season/summer/%E6%B5%81%E3%82%8C%E7%81%8C%E9%A0%82%EF%BC%88%E3%81%8B%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86%EF%BC%89/ 
 です。



『流れ灌頂』は、毎年8月18日に延岡市仏教会が主催となり、延岡市に江戸時代から伝わる夏の宗教行事です。もともとは水害や水難事故の犠牲者の霊を供養するために始まったと言われています。近年は水害も無くなったので亡くなった全ての人を供養するための灯篭流しになりました。
川面を照らしながら流れていく灯篭の姿は幻想的で、人たちはゆっくりゆっくり流れていく灯篭に手を合わせながら故人の冥福を祈り、先祖の霊と交流します。亡き祖父母や両親のことを思い出します。幼友達のことも思い出します。
暗い川に浮かんだ灯篭がゆっくりと流れて行きます。だんだん小さくなってしまいには暗い川下に消えて行きます。

灯篭流しと言えば似たものに長崎の精霊流しもあります。
この長崎の精霊流しでは精霊船を町中を賑やかに引いて行って、海に流すのです。海の向こうにある浄土に亡くなった人の精霊を送り、冥福を祈ります。今年はコロナのため無観客で行われました。以前の精霊流しの写真を示します。

4番目の写真は長崎大学医学部の精霊船の写真です。新型コロナウイルス感染防止のため、今年の精霊流しは無観客でした。 毎年8月15日に行われる精霊流しは、遺族が故人の霊を弔うために精霊船を海に送りだします。出典は、http://blog.livedoor.jp/naika2staff/archives/3492201.html です。

5番目の写真は賑やかに送るもう一つの精霊船の写真です。出典は、http://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/print.aspx?id=20080815000441 です。
その動画は、https://www.youtube.com/watch?v=_zW-sFin_nQ です。

長崎の精霊流しと灯篭流しは非常に違います。灯篭流しはあくまでも静寂を守ります。一方長崎の精霊送りは船を送るとき爆竹を鳴らします。威勢の良い掛け声をかけます。騒々しく陽気に死者を送るのです。その陽気さの中に深い悲しみがひそんでいるのです。
その深い悲しみを美しく歌いあげたのが さだまさしの「精霊流し」という歌謡曲です。

さだまさし「精霊流し」、https://www.youtube.com/watch?v=cx_tm60Yc24


去年のあなたの想い出が
テープレコーダーからこぼれています
あなたのためにお友達も
集まってくれました

二人でこさえたおそろいの
浴衣も今夜は一人で着ます
線香花火が見えますか 
空の上から

約束通りにあなたの愛した
レコードも一緒に流しましょう
そしてあなたの舟のあとを
ついてゆきましょう

私の小さな弟が
何も知らずにはしゃぎまわって
精霊流しが華やかに
始まるのです

以下省略します。
この歌は若くして亡くなってしまった恋人か、あるいは妻か夫を偲んだものと一般的には理解されています。
残された者の深い悲しみがせつせつと唄われています。
是非、https://www.youtube.com/watch?v=cx_tm60Yc24 の動画で若かった頃のさだまさしの歌をお聞きになって下さい。
この歌を恋人か、あるいは妻か夫を偲んだものと理解しても良いと思います。
しかし、歌詞の設定は恋人同士でも、婚約者でも、新婚でもないそうです。

この悲しい歌が私の耳に焼き付いています。焼き付いて何十年にもなりますが、毎年夏になると長崎の精霊流しや灯篭流しを思い出します。
今日は九州のある佛教会の行っている灯篭流しと長崎の精霊流しをご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
========参考資料=============
さだまさし「精霊流し」の出来たいきさつ。

歌詞の設定は恋人同士でも、婚約者でも、新婚でもないそうです。
さだまさし、いとこの兼人さん、その母親の三人が登場人物です。母親は「おばさん」と呼んでいます。
もともと、まさしの両親一家とおばさん一家は中国に住んでいて日本に帰ってきたそうです。
帰国後、おばさんは離婚して、ジャズ喫茶「椎の実」をひらいたそうです。兼人さんはそのおばさんの息子だったのです。
さだまさしは兼人君と仲が良かったようです。その兼人君が海でヨットのオールを流され、それを拾うために海に飛び込んだのです。しかし兼人君は海から二度と帰って来なかったそうです
息子がおばさんより先に死んでしまったのです。

そして年があけて次の年の夏に、兼人さんの初盆を迎えます。
さだまさしの故郷の長崎では、お盆行事として「精霊流し」が行われます。
この歌は、「精霊流し」の時に、さだまさしが、兼人君を偲び、おばさんとの思い出をつづった歌だそうです。
おばさんの着物が浅黄色なのは、長崎の風習に従って息子の新盆に着る着物の色だそうです。

あの頃あなたがつま弾いた
ギターを私が弾いてみました
いつのまにさびついた糸で
くすり指を切りました

あなたの愛した母さんの
今夜の着物は浅黄色
わずかの間に年老いて
寂しそうです

約束通りにあなたの嫌いな
涙は見せずに過ごしましょう
そして黙って舟のあとを
ついてゆきましょう

「奥多摩で涼しげに川遊びをしている人々の写真」

2020年08月19日 | 写真
奥多摩で涼し気に川遊びをしている人々の写真をお送りいたします。ご自分も川遊びをしていると思って涼しいご気分になって下さい。一昨日、JR御岳駅の上流の多摩川で撮りました。









「現在と比較すると貧しくても幸福そうな本来の日本人の写真」

2020年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカ人のエドワード・モースは130年前の明治時代に来日して当時の日本の写真をたくさん撮りました。そしてカラーを後から彩色したのです。その写真は小学館の「百年前の日本」(1983年初版発行)という写真集に掲載されています。
私は明治時代の人々の写真を見てその貧しさに吃驚しました。現在の豊かな生活と比較しながら、当時の日本の貧しさと人々の姿を見て胸が痛みました。
そして次に怒りを感じました。学校では明治維新で日本は近代国家になったと教えます。日清戦争や日露戦争に勝って日本の領土も広がり豊かな国になったと教えます。しかし人々の生活は貧しく、江戸時代と殆ど同じだったとは教えません。学校での歴史教育は日本にとって都合の良いことばかり教えているのです。多分、文部省がそのように指導しているのでしょう。
しかし時間をかけて考えながら虚心に写真を見ていくと違うことを発見しました。写っている人々は貧しくても一人残らず幸福そうにしているのです。嗚呼、これこそ本来の、そして本物の日本人ではないかと思いました。いつの時代も日本人は貧しさに敗けないのです。笑って幸せそうにしているのです。すごい民族です。
それと同時にこんな写真を撮ったエドワード・モースの豊かな人間性に心が打たれます。彼自身も人間は貧しくても幸福になれると信じていたのです。この信念を証明するような人々の姿を写真に撮ったのです。エドワード・モースは権力者の華やかな姿より普通の人々の姿に興味があったのです。何時も人々の日常生活と人の幸せを考えていたのです。
電車の窓から見える大昔の大森の貝塚を発見したのは決して偶然ではないのです。エドワード・モースは昔の日本人は何を食べ、どんな生活をしていたか考えていたのです。白い貝殻のように見える堆積物を見れば自然に貝を食べていたと想像がつくはずです。貝類は素早く泳ぐ魚より捕まえ易いのです。貝類は旧石器時代や縄文時代から食べられていたのです。大森の貝塚を発見したのはエドワード・モースの人間の生活に密着した素晴らしい歴史観だったのです。一般庶民の日々の生活こそ、その民族の歴史であると考えていたのでしょう。
明治時代にエドワード・モースが撮った写真を見ながら私は彼の素晴らしい歴史観に感動しました。
歴史には権力者の歴史もあります。貴族の華やかな文化史もあります。一般庶民の生活の歴史もあります。戦争の歴史もあります。しかし従来は何故か一般庶民の生活の歴史だけは見落とされていたのです。

今日はエドワード・モースが撮った写真を見ながら感じたことを書きました。

彼が撮った明治時代の人々の写真をもう5枚追加します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









「涼しい高原の別荘で夏を過ごす人の楽しさと苦労」

2020年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム
この猛暑の夏でも涼しい高原の別荘に滞在して悠々と過ごしている方々もいると思います。
そんな別荘に憧れる人も多いと思います。
別荘を持っていると楽しいことは事実ですが、森の中で小川の傍の粗末な建物ですと湿気や害虫や野生動物との戦いで苦労が絶えないのです。
梅雨明けに久し振りに行ってみると屋内に湿気が充満し山ヒルが部屋中を這いまわっています。玄関の上には蜂が大きな巣を作っています。カヤネズミ一家も棲みついてます。
着いた日は窓を開けて室内を乾燥させ山ヒルを退治します。蜂の巣は防護服を着て殺虫剤のスプレーで蜂を追い払い取り除きます。戸棚の上に巣を作って棲みついているカヤネズミ一家も追い出します。丸い巣を取り除き跡を清掃します。別荘は楽しいのも事実ですが苦労も覚悟しなければなりません。
そこで今日は別荘の楽しさと厳しさを書いてみたいと思います。
まず私の小さな山の家の近くの風景写真をご覧下さい。

1番目の写真はよく遊びに行った白樺湖と蓼科山の写真です。長野県の諏訪湖から車山や霧ヶ峰の方へ登った所にあります。冬は家族とスキーやスケートを何度も楽しみました。

2番目の写真は甲斐駒岳の風景です。私の小屋はこの山の麓の山梨県の北杜市にあります。深い森の中の小屋です。電気は引きましたが水道はありません。

3番目の写真は小屋へ登って行く雑木林の中の道路の風景です。夏は樹々の葉が繁って暗い道ですが冬には落葉して明るい道になります。樹々の葉の香りがして楽しい山道です。

4番目の写真は山林の中にある私の山小屋です。1974年に完成した時、当時の武川村の役場から役人が調べに来てくれました。丁寧に見た上で「これは山林の中の小屋です。ですから不動産税は一切ありません」と言明したのです。それ以来不動産税は払っていませんが、最近は環境保全税とかいう名目で北杜市へ毎年税金を払っています。
「これは山林の中の作業小屋です」ということなので私は別荘と言わずにいつも「山林の中の小屋」と言ってました。いわゆる別荘とは違い小屋です。

5番目の写真は庭を流れている小川の冬の様子です。以前やヤマメが棲んでいましたが最近は小さなカエルだけが棲んでいます。夏にはオハグロトンボが流に沿って飛び交います。この小川の水を汲んで水洗トイレに使います。炊事用の水や飲み水は持参します。若くて元気な頃は家内と数日間よく逗留しました。ハンモックで揺れながら本を読んでいた家内を思い出します。

こんな小さな別荘でも楽しい思い出が沢山あります。
庭の小川のほとりで学生さんたちと夏の夜に一緒にビールを飲んだものです。当時は缶ビールが無く全て瓶に詰まっていました。そして生ビールは木の樽でしか配達しません。
下の方の村落にあった野本商店という酒屋さんの若い主人が生ビールの樽を担いで届けてくれました。それは個人向けの小さな樽でしたが、20リットルくらいは入っていました。十数人で長い夏の夜にゆっくり飲んでは雑木林の中を散歩したものです。

夜の雑木林と言えば犬と一緒に散歩していた若い奥さんのことを思い出します。私が、「犬が用心棒のような役目をするから怖くないのですね」と言いました。するとすかさず、「いえ、私が犬の用心棒なのです」という答えが返って来ました。彼女は絵を描くのが趣味で毎年展覧会に出展しています。
この小川のほとりではバーベキューもしました。夏には孫達が小川で水あそびをしていました。テントやハンモックを楽しんだり、小川の向こうの崖をイノチガケと言いながら登って、広い牧草地で野球をしました。
生活用水は全てこの小川から汲んでいました。お風呂の水もこの小川から電動ポンプで汲み上げていました。お風呂専用の小屋は自分で作りました。

楽しい事はもっと沢山ありますが森の中に小屋を持つと湿気や害虫や野生動物との戦いで苦労が絶えないのです。小屋を持ってみると現実の厳しさに辟易することが多いのです。
まず第一に泊まりに行く場合は自宅から布団や衣類を車に積んで持って行く必要があります。夜具を置いておくと布団はジットリと湿ってしまいます。
床や壁にカビも生えます。ですから着いたら早速カビを拭く掃除から始めなければなりません。虫や山ヒルも棲みついています。カヤネズミ一家も棲みついてます。

ある時は小鳥が薪ストーブの煙突の中に巣を作っていました。取り除くのに苦労しました。イノシシが小川の岸辺を掘り返してミミズを食べます。庭を掘り返して穴だらけにします。
小屋を持つとカビと湿気と虫と野生動物との戦いを避けることが出来ないのです。
賢い奥様族はこの事態をあらかじめ、よく聞いて知っています。ですから別荘へは絶対に行かず、素敵な高原のホテルに泊まります。ロマンチストの夫が別荘を買うと言えば反対はしません。しかし自分は絶対に一緒に別荘に行きません。

しかし小屋や別荘の良さは何と言っても気が向いた時フラリと行けることです。誰もいないので気がねなく遊べることです。大自然の中に溶け込めることです。小屋を持つことの苦労など私にとっては些細なことです。

それにしても私の家内はよくついて来てくれました。
老境に至って振り返って考えてみると、よく付き合ってくれた家内に沁みじみ恩義を感じます。落ち葉掃きや小川の清掃が好きで飽きずに楽しそうに働いていました。感謝しております。それにしても私どもは小さいながらも別荘のような小屋をもてた事は幸運でした。

今日は別荘のような小屋を持つことの楽しさと厳しさを体験にもとずいて書きました。
別荘を持つことをお考えの方々のご参考になれば嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「信州の無言館訪問と戦没画学生の油彩画と日本画」

2020年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム
あれは10年以上前のことでした。東京駅のギャラリーで戦没学生の油彩画と日本画の展覧会がありました。信州の無言館から貸し出された絵です。召集され出征前の何日間に画学生が今生の想いを込めて描いた絵画です。
無言舘は、長野県上田市、別所温泉近くの山の中にあります。
感動した私はさっそく別所温泉に泊まって、翌日山の中の道を迷いながら無言館にやっと辿り着きました。
鎮魂という言葉を連想させる、修道院のようなコンクリート製の建物でした。
戦没画学生の作品を常設展示しています。館長の窪島誠一郎さんが全国の遺族を訪問し、一枚一枚集めた絵画です。集めた絵画は数百点あると言います。

1番目の写真は無言館です。私と家内は展示してある画学生の遺作の絵画を一枚一枚を丁寧に見て行きました。ガランとした館内に我々の足音だけが響きます。その足音は鎮魂の音楽のように響いたのです。
帰宅後、私は戦没画学生の作品をインターネット上で皆様にご紹介しようといろいろな本を探しました。
そうしたら多数の遺作絵画は、NHKきんきメディアプラン発行、「無言館 遺された絵画」2005年版に掲載されていることが判りました。すぐにこの写真集を購入しました。

今日はこの写真集から8枚の戦没画学生の作品をご紹介いたします。

2番目の写真は杉原基司さんの「神戸東亜ロード」です。
杉原基司さんは神戸生まれ、東京美術学校を卒業し、戦闘機に乗りました。昭和20年2月16日、厚木飛行場の上空で来襲して来た米軍機と空中戦をし、激墜され戦死しました。享年23歳でした。
戦死した後で妹が書いています。
・・・水泳部で派手に水しぶきをあげていた兄。ガラスの窓にドクロの絵を描いて妹の私を泣かせた兄。クラシックと讃美歌しかなかったわが家でジャズやクンパルシータを初めて聞かせてくれた兄。そんな兄が、美校を卒業して海軍予備学生となり、沢山の兵隊さんが死ぬゼロ戦を志願したのは、やっぱり持ち前の好奇心”飛行機に乗りたい”と思ったからでしょうか?
昭和20年2月16日、、、、厚木上空に初めて米軍戦闘機が来襲したとき兄は23歳の生命を散らしました。・・・

3番目の写真は金子孝信さんの「子供たち」です。
大正4年、新潟県生まれ。昭和15年、東京美術学校卒業。同じ年に入隊し、仙台の予備士官学校を出て、昭和17年5月27日に中国の華中の宣昌にて戦死。享年26歳。出征の朝までアトリエで天の岩戸を題材にした大作を描きつづけていました。見送りに来た友人に「これは自分の最後の作品。天地発祥のもとである天の岩戸に自分は帰っていくんだよ」と言って出征していきました。そしてそのとおりになったのです。姉を描いた美しい日本画もありますが、「子供たち」という題の日本画を掲載します。彼の家は代々、由緒正しい神社の宮司だったのです。

4番目の写真は岩田良二さんの「故郷風景」です。
東京美術学校卒、入隊後病気になり除隊、昭和24年11月24日病没。享年31歳。
飲まず食わずの行軍が病弱だった良二の体を壊したのです。息絶え絶えで復員。そんな彼を優しく迎えてくれたのが阿波、池田ののどかな風景でした。病床から見える光る吉野川、段々畑の広がりを何枚も、何枚も描いたのです。病気が治ったら東京へ行って絵の勉強をもっとしたいと言いつつ死んで行きました。しかし故郷の風景を再び見ることが出来た幸運に私の心も少しなぐさめられます。

5番目の写真は興梠 武さんの「編物をする婦人」です。
東京美術学校卒。昭和20年8月8日ルソン島、ルソド山にて戦死。享年28歳。
この絵は一番下の妹の絵。絵を描いて出征し、妹は間もなく病気で死にます。その報告を戦場で受け取った興梠 武さんは半狂乱になったそうです。
間もなく天国で二人は会って、静かに見つめあって暮らしていると信じています。ご冥福をお祈りいたします。

6番目の写真は山之井龍朗さんの「少女」です。
大正9年、横濱生まれ、絵画は洋画家だった父から習う。昭和16年出征。1945年5月9日、フィリッピン、ルソン島バギオにて戦死。享年24歳。
尚、龍朗さんの弟、俊朗さんも後から出征し、龍朗さんの戦死よりも前に戦死してしまったのです。俊朗さんは昭和18年4月26日南洋の海に沈む。享年21歳。
この絵はきっと妹の百合子さんを描いたものと思います。

7番目の写真は日高安典さんの「無題」です。
大正10年、名古屋生まれ。絵画は独学。昭和18年出征。昭和20年4月15日、フィリピン、セブ島にて戦死。享年24歳。
弟さんの話、「戦死の知らせは安典の名を書いた紙切れが一枚入っている白木の箱が一つ届いただけなんです。いつも剛気で涙などみせることのなかった母が、あの時だけは空の箱を抱いて肩を震わせて泣いていたのをおぼえています。」

8番目の写真は蜂谷 清さんの「祖母の像」です。
大正12年、千葉県、佐倉に生まれる。絵画は独学。昭和18年出征。
昭和20年7月1日、フィリッピン、レイテ島にて戦死。 享年22歳。
「ばあやん。わしもいつかは戦争にゆかねばならん。そしたら、こうしてばあやんの絵も描けなくなる」と言いつつ丁寧に、丁寧に描きあげた祖母の像です。ばあやんの「なつ」は清を特にかわいがったのでした。
戦争がはじまってしばらくした日 清は慈愛の祖母なつの肖像画を描く。なつの眼、口もと、鼻、頬、顎、手・・・・  その皺一本一本を、けっして見逃すまいとするように清は精魂込めて画布にきざみこんだのです。

9番目の写真は芳賀準録さんの「風景」です。
大正10年、山形県に生まれる。昭和15年、東京美術学校入学。昭和18年出征。昭和20年2月2日、フィリッピン、ルソン島にて戦死。享年23歳。
兄弟姉妹は準録の幼い頃からの画才に期待しやさしく見守っていたのです。

私は夏が来ると戦没画学生のこと、無言館のことを思い出します。20歳30歳台で亡くなった画学生達、若すぎます。嗚呼。そして何も残さず命の灯を消されてしまった2百万人余の戦士達の無念を想います。
戦前の昭和11年に生まれた私は折にふれて太平洋戦争のことをいろいろと思い出すのです。
そんな想いの中から今日は信州の無言館訪問の思い出と戦没画学生の油彩画と日本画をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日は動画配信の聖母被昇天ミサにあずかりました」

2020年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は聖母被昇天ミサです。動画配信のミサにあずかりました。今日の動画配信のミサの写真を3枚お送りいたします。





以下は今日の菊地功神父さまの説教の全文です。

聖母被昇天、https://www.facebook.com/bpisaomemo/
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年8月15日

聖母被昇天を祝う今日8月15日は、あらためて言及するまでもなく、日本においては平和を祈念する日でもあります。

毎年、8月6日の広島原爆の日から8月9日の長崎原爆の日を経て、8月15日の終戦記念日に至るまでの10日間を、日本のカトリック教会は「平和旬間」と定めています。

1981年2月23日から26日、日本を訪問された教皇ヨハネパウロ二世は、自らを「平和の巡礼者」と呼ばれ、昨年11月の教皇フランシスコと同様に、東京だけではなく広島と長崎を訪れました。特に広島では、「戦争は人間の仕業です」という有名になった文言で始まる平和アピールを発表され、その中で繰り返し、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と世界の人に向けて強調されました。

当時の司教団は、戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく、具体的な行動を伴わなくてはならないと考え、その翌年(1982年)から、日本にとってもっとも身近で忘れることのできない広島や長崎の事実を思い起こす8月6日から終戦の15日までの10日間を、「日本カトリック平和旬間」と定めました。日本の教会にとって聖母被昇天祭は、平和旬間を締めくくる日でもあります。神の母であり、教会の母であり、平和の女王である聖母マリアの取り次ぎによって、わたしたちが神の平和の実現に至る正しい道を見いだし、その道を勇気を持って歩み続けることが出来るように、祈り続けましょう。

広島平和アピールの終わりで、教皇ヨハネパウロ二世は神を信じる人々に向けて、「愛を持ち自己を与えることは、かなたの理想ではなく、永遠の平和、神の平和への道だということに目覚めようではありませんか」と呼びかけています。「神の平和への道」とは、すなわち「愛を持ち自己を与える」行動であると教皇は指摘します。

あらためて言うまでもなく、教会が語る「平和」とは、単に戦争や紛争がないことを意味してはいません。教会が語る「平和」とは、神の定めた秩序が実現している世界、すなわち神が望まれる被造物の状態が達成されている世界を意味しています。残念ながら、核兵器をはじめとして人間の抱く不信や敵対心に至るまで、神の定めた秩序の実現を妨げる要因は、数多く存在しています。

その文脈で、教皇ヨハネパウロ二世は、「愛を持ち自己を与える」行動が、神の平和を実現する道の一つであることに気がつくようにと促しています。

今年も梅雨の間に各地で集中豪雨が発生し、特に九州では大きな被害が発生しました。加えて新型コロナウイルス対策のため、県外からのボランティア参加が認められず、必要な助けが集まらないのではないかとの不安の声が聞かれました。しかし実際には多くの方が県内から駆けつけ、互いを支え合いながら、復興支援のボランティア活動に取り組まれたとうかがいました。

まさしく、愛を持って自己を犠牲にしながら、助けを求めている人のところへ駆けつけるボランティアの活動は、単なる優しさの象徴ではなく、平和構築の道そのものであります。

その意味では、新型コロナウイルス感染症と闘う医療関係者の方々は、まさしく危機に直面するいのちを救うために、いのちへの愛と尊敬を持って尽力されているのですから、その活動は、平和構築の道でもあるといえます。その働きに、心から感謝したいと思います。

教皇フランシスコは、教会が新たにされて福音宣教へ取り組むようにと鼓舞する使徒的勧告「福音の喜び」の最後に、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります(288)」と記しています。

聖母マリアの人生は、まさしく「愛を持ち自己を与える」生き方であります。聖母マリアの人生は、神の平和を構築する道として、教会に模範を示している生き方であります。

教皇フランシスコは、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と指摘します。

その上で教皇は、聖母マリアは、福音宣教の業において「私たちとともに歩み、ともに闘い、神の愛で絶え間なく私たちを包んでくださる」方だと宣言します。

教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢、とりわけ「正義と優しさの力」は、ルカ福音書に記された聖母の讃歌「マグニフィカト」にはっきりと記されています。天使のお告げを受けたマリアは、その意味を思い巡らし、その上でエリザベトのもとへと出向いていきます。「観想と他者に向けて歩む力」であります。

マリアは全身全霊を込めて神を賛美するその理由を、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と記します。ここに、「謙虚さと優しさは、弱い者の徳ではなく、強い者のそれであること」を見いだすことが出来ると教皇は記します。なぜならば、マリアがこのときその身をもって引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な役割であり、救い主の母となるという、人間にとって最大の栄誉であるにもかかわらず、マリアはそれを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを「マグニフィカト」で歌っています。「強い者は、自分の重要さを実感するために他者を虐げたりはしません」と教皇は指摘されます。

そして「マグニフィカト」でマリアは、御父が成し遂げられようとしている業、すなわち神の秩序の実現とは具体的になんであるのかをはっきりと宣言しています。

「主はその腕を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」

教皇フランシスコが私たちに求めている教会のあるべき姿は、「出向いていく教会」です。教会は、貧しい人、困難に直面する人、社会の主流から外された人、忘れられた人、虐げられている人のもとへ出向いていかなくてはならない。この教会の姿勢は、聖母マリアの「マグニフィカト」にしっかりと根ざしています。

わたしたちは、聖母マリアに導かれ、その生きる姿勢に学び、神の前に謙遜になりながら、自分のためではなく他者のためにそのいのちを燃やし、「愛を持ち自己を与える」ことを通じて、神の平和を確立する道を歩んでいきたいと思います。聖母のように、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力」を具体的に生きていきたいと思います。

神の母聖マリア、あなたのご保護により頼みます。苦難のうちにあるわたしたちの願いを聞き入れてください。栄光に輝く幸いなおとめよ、あらゆる危険から、いつもわたしたちをお救いください。

「昨日はマリア様が天に上げられた祝日」

2020年08月16日 | 写真
昨日はマリア様が天に上げられた祝日です。被昇天の日と言います。カトリック教会は特に被昇天のミサを行います。そこで今日はマリア様の絵画をお送りいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は屏風の前でイエス様を抱く聖母マリア様です。その姿は、まさに無償の愛と信頼の象徴です。東京カルメル のクリスマス カ-ドです。 写真の出典は、https://ameblo.jp/jasmine-lino/entry-12231540734.html です。

2番目の写真はカルロ・ドルチ(1616-!686)作の「悲しみの聖母」です。1655年の油彩、カンヴァス82.5×67cm。東京, 国立西洋美術館にあります。
作品はカルロ・ドルチ39歳の時の佳品である。暗い背景に浮かぶ淡い光背に包まれ、深みのあるラピスラズリで描かれた、青のマントを身にまとった聖母マリアの美しくも悲痛な表情は、観者の心に深く訴えかける。

3番目の写真はFyodor Bruni の1858年作の聖母子です。 何かを訴えかけるような二人の眼差しです。彼は 1799年生まれ、 1875年に亡くなtりました。
写真の出典は、http://mementmori-art.com/archives/15284161.html です。

4番目の写真はニコラ・プッサンの『聖母被昇天』で1650年の作です。ナショナル・ギャラリー収蔵です。ニコラ・プッサンは1594年生まれ 1665年に亡くなりました。バロック時代のフランスの画家です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AF%8D%E3%81%AE%E8%A2%AB%E6%98%87%E5%A4%A9 です。

「真夏の花、百日紅と百日草の花の写真をお送りします」

2020年08月15日 | 写真
サルスベリの花は都立武蔵野公園に咲いています。百日草の花は三鷹市立花と緑の広場です。
お暑いですね。勇気を奮って外を散歩しましたらミンミン蝉がしきりに鳴いていました。遥か遠い少年の頃に、田舎の森でミーンミーンと鳴いていたことを思い出しました。もう10日も過ぎれば秋の気配が漂うのでしょうか。もう少しの辛抱ですね。皆様へ残暑お見舞い申し上げます。