午後から武蔵野公園に行き風景写真を撮って来ました。風の無い暖かい午後でした。
妻が生まれ育った鎌倉の家の近所の風景です。
写真は順々に、鎌倉海岸、江ノ電、文学館、御成小学校、長谷寺です。
写真はインターネットからお借りしました。
老人は思い出の中に生きております。思い出は次第に美化され楽しいものになります。老境が華やかになるのです。
今日は私が生きた昭和という時代を写真で示そうと思います。昭和11年に仙台に生まれた私の記憶に残る光景の写真です。満州建国があり真珠湾攻撃があり、そして敗戦です。激動の時代でした。
1番目の写真は満鉄の「あじあ号」の写真です。大連と哈爾賓の間の950Kmの鉄道を走る「あじあ号」が幼少時に見た絵本にありました。
1932年(昭和7年)2月初め頃には、関東軍は満洲全土をほぼ占領し、3月1日、満洲国の建国が宣言されました。
2番目の写真は昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の光景です。ラジオが軍艦マーチを勇ましく放送していました。
3番目の写真は昭和20年7月のB29による空襲の様子です。これで全国の都市が焼かれたのです。当時、向山という高台に住んでいた私は仙台を空襲するB29の編隊を無邪気に眺めていました。
4番目の写真は焼け野原になってしまった仙台の街です。空襲の翌日、見に行きました。それは7月12日でした。
5番目の写真は敗戦後の日本を統治していたマッカーサー司令官と昭和天皇です。マッカーサー司令官の統治は昭和20年から26年までで、その後日本は独立国になったのです。
6番目の写真は進駐軍兵士との混血児を収容したエリザベス・サンダース・ホームの門です。混血児を育てたのは沢田美喜の愛でした。沢田美喜は2000人に及ぶ恵まれない子供たちに深い愛情を注いだのです。この写真は数年前に私が撮りました。
7番目の写真は1960年、昭和35年に私が留学したアメリカのオハイオ州立大学です。Ph・Dを頂きました。
8番目の写真は昭和39年に開通した東海道新幹線です。
9番目の写真は1964年、昭和39年に開催された東京オリンピックで金メダルを取った日貿貝塚の女子バレーのチームです。
最後に昭和時代の主な出来事の一覧を掲載しておきます。
(1)昭和の戦前期
1927年(昭和2年) 昭和金融恐慌、東方会議、山東出兵、南京事件。
1928年(昭和3年)済南事件、張作霖爆殺事件。
1929年(昭和4年) 世界恐慌。
1930年(昭和5年) ロンドン海軍軍縮会議、濱口首相遭難事件。
1931年(昭和6年) 柳条湖事件、満州事変。
1932年(昭和7年) 血盟団事件、五・一五事件、第一次上海事変、満州国建国。
1933年(昭和8年) 国際連盟脱退、滝川事件。
1936年(昭和11年) 二・二六事件、西安事件、阿部定事件。
1937年(昭和12年) 盧溝橋事件、第二次上海事変(日中戦争(支那事変)始まる)。
1938年(昭和13年) 張鼓峰事件。国家総動員法。
1939年(昭和14年) 第二次世界大戦開戦、ノモンハン事件。
1940年(昭和15年) 日独伊三国軍事同盟、日華基本条約締結。
1941年(昭和16年) ゾルゲ事件、大政翼賛会、日ソ中立条約締結、真珠湾攻撃。
12月8日 南方作戦発動、太平洋戦争(大東亜戦争)始まる。
1942年(昭和17年) ドーリットル空襲、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦い。
1943年(昭和18年) アッツ島の戦い、学徒出陣、同盟国イタリアが連合国に降伏。
1945年(昭和20年) 硫黄島の戦い、沖縄戦、占守島の戦い、国際連合設置、九州大学生体解剖事件。
3月10日 東京大空襲。
3月26日 沖縄戦。
5月 同盟国ドイツが連合国に降伏。
7月 ポツダム宣言。
8月6日 広島市への原子爆弾投下。
8月8日 ソ連対日参戦。
8月9日 長崎市への原子爆弾投下。
8月10日 ポツダム宣言受諾の決定。
8月15日 玉音放送。
9月2日 降伏文書調印。
(2)昭和の戦後期
戦後のアメリカなどによる占領期、1945年(昭和20年) - 1952年(昭和27年)
1946年(昭和21年) - 1950年(昭和25年) 農地改革
1946年(昭和21年) 伊豆諸島返還。日本国憲法公布(1947年(昭和22年)5月施行)、人間宣言、昭和南海地震。
1951年(昭和26年) サンフランシスコ講和条約・(旧)日米安全保障条約締結。
1952年(昭和27年) 主権回復。トカラ列島返還。
1954年(昭和29年)自衛隊発足。第五福竜丸事件。
1956年(昭和31年)日ソ共同宣言発効、国際連合に加盟。
1960年(昭和35年) (新)日米安全保障条約発効、安保反対闘争、日米新安全保障条約、カラーテレビ放送開始。
1964年(昭和39年) 第二水俣病発生、東京オリンピック開催。
1965年(昭和40年)日韓基本条約締結。
1968年(昭和43年)東名高速道路開業、小笠原諸島返還。
1970年(昭和45年) 日本万国博覧会(大阪万博)開催。よど号ハイジャック事件。
1972年(昭和47年) 札幌オリンピック、あさま山荘事件、沖縄返還、日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明調印。
1976年(昭和51年)ロッキード事件
1978年(昭和53年)成田空港開港、日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約締結。
1987年(昭和62年)国鉄分割民営化によりJRグループが発足。
1988年(昭和63年)リクルート事件。
1989年(昭和64年)昭和天皇崩御、皇太子明仁親王が天皇に践祚。平成に改元。
以上は以下の資料をもとに抜粋し整理したものです。
「日本史の出来事」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%87%BA%E6%9D%A5%E4%BA%8B
戦前の昭和11年に生まれ昭和33年に大学を卒業した私にとっては上の出来事はよく新聞でも読み鮮明に覚えております。そして戦前、戦後の食糧難の苦しい経験と相まって昭和の出来事は忘れることが出来ません。
皆様は昭和という時代をどのようにお考えでしょうか?
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
毎年夏になると、浅草や各地でサンバカーニバルがあります。キリスト教と関係の無い日本独特のお祭りです。その写真をお送り致します。写真はインターネットからお借りしました。
今日のカトリック関口教会の年間第4主日のミサの風景の寫眞をお送り致します。
カトリック関口教会の年間第4主日のミサのインターネットからの映像に従ってお祈りのことばを言ったり信仰宣言をして自宅であずかりました。聖歌も歌いました。
カトリック関口教会の年間第4主日のミサのインターネットからの映像に従ってお祈りのことばを言ったり信仰宣言をして自宅であずかりました。聖歌も歌いました。
絶海の孤島への独り旅。憧れでした。男のロマンです。ある時、絶海の孤島、神津島へ旅しました。そこで聞いた美少女の話です。韓国の美少女、おたあジュリアにまつわる恐怖の秘密の話です。
私は2006年に神津島へ旅をしました。おたあジュリアは今でも島の人々に大切にされ尊敬されていることを知りました。
1番目の写真は神津島の写真です。写真の出典は、http://runo345.btblog.jp/ です。
2番目の写真は2006年に私が撮った神津島の荒波です。神津島は太平洋の波頭に浮かぶ小さな孤島なのです。
おたあジュリアは秀吉の朝鮮出兵の時、捕まって、韓国から日本へ連行されて来ました。日本に来てからキリスト教の信者になりました。しかし一方、キリシタン弾圧が厳しくなっていたのです。
キリスト教の信者のおたあジュリアはむごい拷問にあいます。しかし絶対に棄教しなかったのです。ジュリアは神津島への遠島の刑を言い渡されます。
流された神津島では、ジュリアは罪人にも拘わらず貧しい人々の世話をして島民に愛されます。島民に尊敬され、親切にかくまわれます。
その時代にはキリシタンへ親切にしたり、尊敬した人々はキリシタンと同罪の罰を受けます。
ですから神津島の島民はジュリアを尊敬している事を絶対に秘密にしていました。それは島の人だけの恐怖の秘密だったのです。
時代は明治維新になり、明治、大正となりましたがジュリアを尊敬しているということは大声で話すことではなかったのです。
2006年に私は神津島へ東京から高速水中翼船で行きました。船にゆられて4時間。遥か外洋に浮かぶ小さな火山島へ旅をしました。山ばかりで平地が少ない小さな島でした。島ではわびしい民宿に投宿しました。燗酒を傾けつつ、宿の主人から島の昔話を聞いたのです。
彼は低い声で話し出しました。
「朝鮮風の石碑が岬に有りますよ。おたあジュリアの墓です」 と。
しばし沈黙の後、彼は話し出します。
「小西行長が朝鮮征伐のとき連れ帰った娘です。キリシタンだったのでここへ流された女です。当時の島の貧しい人々を助け勇気づけたので女神のように思っている人が多いです」 ・・・・
「おたあ、は立派な女です。元気に島の人々の面倒を良くみたのです。困った人の相談に乗り、悲しむ人々を慰めました。おたあは本当に優しく賢い女だったのです」
「おたあ、に島の人々は感銘を受け、彼女の島での生活を温かく助けたのです。しかしキリシタンを助ければ幕府から重い処罰を受けます」
「ですから神津島の人々はこのおたあジュリアのことは絶対に秘密にしたのです」・・・「秘密は明治、大正になっても固く守られたのです」
「島の人々は今でも、おたあのことを尊敬しています。まあ、つまらない話かもしれませんが」・・・
現地へ行ってみないとローカルな歴史は分からないものです。神津島とおたあジュリアの歴史は島の民宿に泊ったので知ることが出来たのです。
旅の後すぐにおたあジュリアのことを調べてみました。
おたあは3歳の時、日本へ連れて来られ、アウグスチノ小西行長の養女となり、洗礼を受けジュリアという名を授かりました。関が原の合戦の後、小西行長は石田三成とともに三条河原で斬首されます。
そしておたあは家康の側室の侍女となります。しかし信仰を持っていたので家康の言いなりになりません。
そんなおたあは桃山、江戸、駿河と移され、禁教令と共に神津島へ流刑になったのです。
それは慶長17年、1612年のことでした。小西行長の友人の石田三成一族も神津島へ隠れ住み、ジュリアを助けたという話もあります。
現在は、毎年、神津島おたあジュリア顕彰会などの主催で「ジュリア祭り」があります。カトリック東京大司教区と韓国のカトリック教会が共同でおたあジュリアの慰霊祭も同時に行っているのです。
3番目の写真はおたあジュリアの絵です。
ジュリアの姿絵は、https://www.asahi.com/articles/photo/AS20190515000709.html から転載しました。
4番目の写真は神津島にある記念塔で彼女のお墓と想定されています。
5番目の写真は韓国の切頭島へ神津島から引っ越したジュリアのお墓です。1972年日韓の友情によって移設されました。
毎年、5月になるとジュリア祭りが現在でも開催れています。おたあジュリアは慶長2年(1597年)に日本へ連行されたとすると、神津島へ来た時はまだ18歳の若さでした。
今日は孤島、神津島とおたあジュリアの話をご紹介いたしました。
それはそれとして今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考情報=========================
神津島は伊豆諸島の島の一つで、活火山の火山島。東京都神津島村。周辺の島も含め数十個の単成火山があり「神津島火山群」を成している。島の形はひょうたん型をしており天上山(標高572m)を中心とした北部と、秩父山のある南部とに大きく分けられる。 南部と北部の間の西側の前浜沿いに主な集落がある。民宿などが4つほどある。温泉もある。
黒曜石を産出し、後期旧石器時代から矢じりや刃物として大量に本州に送られた。
神津島へは東京、芝浦から水中翼船が出ている。旅客機は東京の調布飛行場から出ています。
常夏の八丈島のフリージアの花やブーゲンビリアの花などの写真をお楽しみ下さい。昔、冬に八丈島に行きましたら花々が豊かに咲いていました。そこは常夏の島なのです。
毎年、八丈島フリージア祭りを行います。今年の2024年は、3/23(土)~ 4/7(日)です。 この期間中にはフリージア畑に入って香り高い花を摘むことも出来るのです。
フリージア祭りの詳細は、https://www.freesiafesta.com/ をご覧下さい。
1番目の写真は三原山の眼に広がるフリージア畑の写真です。
出典は、www.hachijo.gr.jp/blogs/第52回八丈島フリージアまつり%E3%80%80325日%EF%BD%9E48日/ です。
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2番目の写真は八丈島の花畑です。
3番目の写真は八丈島の冬でも咲いている花です。2009年1月28日から4日にわたって八丈島へ独り旅をした時に撮りました。
4番目の写真は摘んだ花束です。出典は、https://www.freesiafesta.com/ です。
5番目の写真は八丈島のストレチア(極楽鳥花)です。出典は、https://www.freesiafesta.com/ です。
八丈島で感動したことは大きな島全体が熱帯性の植物で覆われていて、さながら天然の植物園のように見えることでした。
一度冬にお出かけになると感動なさると思います。
生来軽率な私は若い頃から離れ島への独り旅に憧れていました。はっきりした理由もなく離れ島はロマンティックな別世界のように憧れていたのです。
しかし若い頃は忙しくて旅に出る余裕もありません。しかも離れ島は数多くあるのです。東京都の離れ島を列挙すると次のようになります。
大島(伊豆諸島|大島町)
利島(伊豆諸島|利島村)
新島(伊豆諸島|新島村)
式根島(伊豆諸島|新島村)
神津島(伊豆諸島|神津島村)
三宅島(伊豆諸島|三宅村)
御蔵島(伊豆諸島|御蔵島村)
八丈島(伊豆諸島|八丈町)
青ケ島(伊豆諸島|青ケ島村)
父島(小笠原諸島|小笠原村)
母島(小笠原諸島|小笠原村)
硫黄島(小笠原諸島|小笠原村)
南鳥島(小笠原諸島|小笠原村)
(有人離島一覧、 https://ritokei.com/shima )
上の島のなかで私が訪れた島は、大島、神津島、八丈島だけです。
今日は八丈島への独り旅について書きたいと思います。
しかしその前に藤村の独り旅の詩をご覧下さい。
「小諸なる古城のほとり」 -落梅集より- 島崎藤村
小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず 若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る
・・・中略・・・
暮行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
千曲川いざよふ波の 岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む
さて私は2009年1月に冬の波荒れる八丈島へ独りで旅をしました。
帰りの船が悪天候で欠航したので非常に印象深い旅になりました。
芝浦の桟橋から遥か286Kも船に揺られて翌朝辿り着いたのです。
着いてみると八丈島は想像以上に大きな島でした。
島の東に10万年前の噴火山の三原山があり、西に1万年前に出来た八丈富士があり、その間が平野で農村が広がっています。
そして西の海上には八丈小富士という急峻な火山が突き出ています。この3つの山が近過ぎず、遠過ぎず、丁度良い距離でどっしりと座っています。この配置が雄大な景観を作っています。島の周囲は60Kmです。
冬の荒波で帰りの船が欠航したので長い逗留になりました。そこでレンタカーを借りて島の隅々まで走り回りました。
江戸幕府の島役所跡や古い集落や秀吉の家老だった宇喜多秀家のお墓にも行きました。そして八丈島の自然の景観も楽しみました。
島の西にある八丈富士の中腹に広大な牧場があり、そこまで車が上がれます。写真を撮るには丁度よいので2回登りました。
1番目の写真は八丈富士のある西半分の写真です。西山 (八丈富士) の麓は平野になっていて農村が広がっています。左奥の海上には八丈小富士が見えました。
手前の町は大賀郷町です。左の方向に飛行場が見えます。そして町の左右に港があります。風の向きによって客船の発着する港が変わります。
2番目の写真は車でもっと八丈小富士に近づき撮った写真です。昔は人が住んでいて小学校もありましたが現在は無人島です。
私は伊豆七島の大島や神津島へは何度か行きましたが、景観の雄大さという点で八丈島は抜群です。
八丈島で感動的なことは、島全体が熱帯性の植物で覆われていて、さながら天然の植物園のように見えることです。
3番目の写真は島の大賀卿町の中央にある東京都立公園です。公園の真中にドライブウエイがあって車で楽しみながら通り抜けられるようになっています。
車を停めて歩いていたら、赤ん坊を抱いた母親に会いました。島の観光案内のような話をしてくれました。そして三原山の東の山麓の樫立に團伊玖磨の記念館がありますと教えてくれました。
4番目の写真は島の主産業の観葉植物の栽培地の風景です。三原山の麓にあったアロエの花です。1月の末なのにウグイスが啼いていました。
八丈島で忘れられない人に歴史民俗資料館でお会いした細谷昇司氏という方がいます。
地域歴史の専門家で、その後、数か月にわたってメールの交換もしました。島独特の風習や歴史を教えて頂いたのです。
例えば、八丈島から約6000年前の縄文時代の人々の遺骨や石器・土器が出土していることを教えて頂きました。
そして石斧の石は海岸にあるような石ですが、土器に使われた粘土は火山で出来た島には無い粘土です。従って縄文人は土器を持って太平洋を渡って本州から来たのです。それを証明するために海用のカヌーで伊豆半島、大島、神津島と島づたいに漕ぎ渡った青年の写真も送ってくれたのです。
5番目の写真は團伊玖磨の記念館の中にある作曲室です。写真は地方新聞、「南海タイムス」の2002年5月31日の掲載写真です。
随筆と言えばこれまでに、いろいろ読みました。寺田寅彦、中谷宇吉郎、團伊玖磨などのものは長年愛読してきました。團伊玖磨の「パイプのけむり」は、アサヒグラフに連載されていました。1963年に八丈島の樫立に別荘を作った翌年から2001年に亡くなる直前まで40年近く続いた随筆です。朝日新聞社から27巻の本として出版されていますので、お読みになった方々も多いと思います。
外国で仕事をしながら忙しく書いたものや、葉山の自宅や、八丈島でゆっくり書いたものなど変化があって飽きさせません。
世界の珍しい風物や人情、そして八丈島の自然、人々や植物のことなどが軽妙洒脱な筆致で活き活きと描いてあります。話題は多岐ですが、いずれも上品な書き方で、文章の裏に人間愛が流れています。読後の爽快感が忘れられません。
八丈島では團伊玖磨氏を誇りにしています。2002年の没後一周忌に團さんの別荘を公開し、遺品や著作を展示しました。
八丈 島では島唯一のホテルに投宿していました。そこから島の寿司屋に通いご主人から島の周辺で取れる魚のことをいろいろ教わりました。地魚の姿を見たいと言ったら、スーパーに沢山並んでいますと教えてくれます。翌日行ってみたら、成程スーパーの魚売り場に活き活きした地魚が5種類ほど並んでいます。
独り旅は淋しいものです。家族旅行のように楽しくはありません。
しかし旅先で会う人がみんな優しく話しかけてくれるのです。そしてその地方独特の暮らし方や地域の歴史を教えてくれるのです。
藤村ではありませんが、「八丈の海辺のほとり 雲白く遊子悲しむ」の境地です。欠航の船よ、明日は波荒れるとも出てくれ・・・と想いながら日が暮れ行きます。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料==============
八丈島生成の地質学、
東京の南方海上287キロメートル、御蔵島の南南東方約75キロメートルにあり、東山(別名:三原山・標高701メートル)と西山(別名:八丈富士・標高854メートル)のふたつの火山が接合した北西-南東14キロメートル、北東-南西7.5キロメートルのひょうたん型をした島。面積は山手線の内側とほぼ同じ。(面積の比較)
富士火山帯に属する火山島で、東山は約10万年前から約3700年前まで活動し、約4万年前にカメソウノ鼻火砕流、鴨川火砕流を噴出した噴火で山頂部に6×4.5kmの東山カルデラを形成したと考えられている。完新世内では約4千年前と約6.6千年前に規模の大きな噴火が発生している。最終噴火は有史以前であり歴史記録上の噴火はない。西山は数千年前から活動を始めた新しい火山で、山頂に直径約500メートルの火口がある。1487年12月、1518年2月、1522年 - 1523年、1605年10月、1606年1月に噴火が記録されており、特に1606年の記録には、海底噴火によって火山島ができたとされる。
東山と西山の間にある低地には、20以上の側火山(寄生火山)があり、海岸近くには神止山などのマグマ水蒸気爆発による火砕丘がある。17世紀までに数回活動した記録があるが、規模は大きくなかったと考えられている。
気候は、暖流である黒潮の影響を受け、海洋性気候となっている。年平均気温は17.8℃となっており、高温多湿。年間を通して風が強く、雨が多いのが特徴。そのため、「常春の島」とも言われている。
梅の開花は早いです。2.3日見ない間にもう満開になっていました。今年の小金井公園の満開の梅林の寫眞をお楽しみ下さい。
人間は老境に到ると元気が無くなります。体が硬くなって若い時のように活発に動けません。自然の摂理です。
しかし心や精神は若い時のように活き活きとして生活することが出来ます。
今日は老境を楽しく生きる方法をご紹介致します。
私が心がけている4つの方法です。読み易いように(1)、(2)、(3)、(4)と別けて書きます。
(1)熱帯の花々や植物を見て情熱を貰う
活き活きとして生活する第一の方法はいろいろな所にある温室を訪れて熱帯の植物を見ることです。
温室の中ではこんな寒い冬でも花々が咲き、実をみのらせ、緑濃い葉が茂っています。それらを見ると人は自然に情熱を感じ、その情熱が自分の体に乗り移ってきます。熱帯の花々写真を2枚示します。
2枚の写真は独立行政法人筑波実験植物園の温室にて2010年1月に撮影しました。
熱帯の植物を見ると情熱を感じるのは個人的な体験に関係しているのかも知れません。
まだ中年で元気の良いころに赤道直下のシンガポールに行ってイギリス人が遺して去っていった熱帯植物園を訪問したのです。
シンガポールは赤道にあるので四季が無く一年中気温32度です。夜になっても30度です。植物園には大きな熱帯の花々が咲き、空を覆う巨大な樹木が繁っていたのです。そして聞いたことのない声で熱帯の鳥が鳴いているのです。それは圧倒的な光景でした。そして熱帯の情熱を感じたのです。その情熱が体の中に沁み込んだのです。
それ以来、私は日本でも各地の温室を訪ねては植物から情熱を貰っています。
そのシンガポールの植物園の光景は心に焼き付いて、温室の植物を見るたびに思い出し興奮するのです。そしてものの見方が情熱的なるのです。
私はこのように老境でも情熱的に過ごしています。
(2)外国のことに好奇心を燃やし続ける
情熱的に生きるとはどういう生き方なのでしょうか?
それは毎日、すべてに対して疑問を感じ、何事にも好奇心を持って活き活きと考える生活を送ることだと思います。しかし考える問題は文化的に意義があり、また社会的に新しい考え方を示唆出来るような問題を取上げたいものです。
ここで重要なことは外国のことを善意で考え建設的に思うことです。意地の悪い好奇心ははいけません。
外国と言えば欧米、アフリカ、南米、アジアの国々まで多数あります。
しかしここでは韓国を一つの例にして考えてみます。最近の私のブログに書いた韓国に関する記事を列挙します。
「韓国理解のために(1)まず朝鮮の歴史を知る」、2021年01月04日
「韓国理解のために(2)韓国の世界遺産をご紹介します」、2021年01月05日
「韓国理解のために(3)驚異的な韓国の熱烈な宗教信仰」、2021年01月07日
「韓国理解のために(4)豊かな朝鮮民族の文学作品」、2021年01月12日
「韓国理解のために(5)韓国の美少女、おたあジュリアの話」、2021年01月13日
「韓国理解のために(6)卓越した磁器焼成と美しい白磁」、2021年01月15日
「韓国理解のために(7)韓国は1919年の上海の亡命政府から始まる」、2021年01月16日
「韓国理解のために(8)恩を絶対に忘れなかったある韓国人」、2021年01月18日
以上のように韓国のことを善意で考え建設的に描くと自分が活き活きとなるのです。これは韓国に限ったことではありません。中国、アジア諸国、いや全ての国々のことを善意で考え建設的に思うと私は情熱的になるのです。
しかし皆様はどんな国にも悪いところがあるのだから悪いところを書かないのは客観的でないと言うでしょう。公平でないとお考えでしょう。それは分かります。しかし私は外国の悪いことは書きません。それが私にとって元気になる方法なのです。
(3)日本の四季の移ろいと自然の花々を大切に思う
上記で第一の方法として温室の中に繁茂する熱帯の樹木や花から情熱を貰うことを書きました。
しかしそれだけでは充分ではありません。日本の四季の微妙なうつろいや季節ごとに自然に咲く花の静かな美しさを見ることも大切なのです。そして日本の自然から情熱を学び取るのです。
私は関東地方の花々のある山野や公園を何度も、何度も見て来ました。幸い去年までまでは免許があり、自宅から半径200Km位で日帰り出来る範囲は何度も行きました。
例えば「府中郷土の森博物館公園」で、真冬に毎年一番早く咲き出す蝋梅(ロウバイ)の満開の様子を何度もしげしげと眺めて来ました。そこは1月に毎年行く所です。甘く清らかな香りが一帯に漂っています。そしてロウバイの花園の向う側には多摩川の光る川面が見えるのです。それではそのロウバイの花の写真を2枚示します。
そして私は花々だけではなく武蔵野の雑木林が大好きです。何故か雑木林の風景を眺めると情熱的になるのです。日本の四季折々の自然の風景をみて活き活きしています。
(4)神道や仏教やキリスト教のことを考え元気になります
日本には古来から民族宗教として神道がありました。西暦6世紀にインドの大乗仏教が中国から入って来ました。そして西暦1549年にザビエルによってキリスト教が伝承されます。
仏教と神道は混淆され明治維新までは仏教と神道は一体として人々に信仰されていたのです。現在でも神社とお寺は並んで存在している風景は珍しくありません。それらは同じものとして一体化されていたのです。
一方キリスト教は250年の禁教時代がありました。九州の外海地方のキリシタンは表面上、寺の檀家となって暮らしていたのです。
少し深く考えると潜伏キリシタンが厳しい禁教の下で250年も生き残ったのは神道信者や仏教徒の目に見えない保護や支援があったからなのでしょう。幕府の権力者を恐れない農漁民の崇高な勇気が250年の潜伏キリシタンの歴史を作ったのです。
そんなことを考えると勇気が湧いてきます。活き活きと生きていけるのです。
今日は老境でも活き活きと情熱的に生きる4つの方法を具体的に書いてみました。皆様はどんどんな方法をとっていらっしゃいますか?
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
決して上手な写真ではありませんが、花の写真を撮るのが私の趣味です。花を眺め、写真を撮っている間が楽しいのです。花を植え、育てた人の優しさを想い、幸せな気分になります。
家に帰り、撮って来た写真をほんの少し修正します。色彩は変えません。明るさだけを修正することがあります。端に余計なものが写っている場合は少しトリミングをします。
それから皆様へお送りするのです。
花の写真を撮った場所へ行きたい方々のためにその場所の全体の風景写真も1枚つけます。
場所の名前を明記して、検索すればHPから交通の便が分かるようにいたします。
私が四季折々おとずれる花園は大体決まっています。
都立小金井公園、都立武蔵野公園、三鷹市花と緑の広場、都立神代植物公園、都立薬草植物園、府中市郷土の森博物館公園などです。検索するとHPがあります。
それぞれの場所には季節ごとに特有の花々が咲いています。すべて頭の中に記憶しています。
こんなに花が好きになったのは活け花をしていた妻の影響です。花の名前を教えてくれます。花の特徴や咲く季節などを教えてくれます。それと老境にいたると花と遊ぶ時間がふんだんにあります。
植物や花に関心が向くようになります。人間が枯れてくると植物の気持ちが分かるようになるのです。
下らない講釈は止めます。
三鷹市花と緑の広場で以前に撮って来た花の写真をお送りします。まだ今年は咲いていませんが夏の花園の風景をお送り致します。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
これ日本語ですか?
次の津軽弁を聞いて理解できますか?
https://www.youtube.com/watch?v=DMzhJzw8tzk
寫眞は弘前城です。出典は、
https://www.photo-ac.com/main/search?q=%E5%BC%98%E5%89%8D%E5%9F%8E&srt=dlrank&qt=&p=1&pt=A です。