後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「東京の裏庭、奥多摩の紅葉風景」

2022年11月30日 | 写真
奥多摩は東京の裏庭です。新宿駅から電車で立川駅乗り換えで1時間くらいで行けます。

私の家は立川に近いので、家族連れでしょっちゅう行ってました。思い出が沢山ある懐かしい観光地です。
そんな奥多摩の紅葉風景の写真えをお送り致します。

写真は「奥多摩の紅葉風景の写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。

「冬の花(11)千葉県谷沢水仙郷の花の写真」

2022年11月30日 | 写真
千葉市の南東の 鋸南町の谷沢水仙郷は自然の景観をそのままに山道を囲む斜面に水仙が広がっています。 普通車10台 ぶんの駐車場があります。
地図は、https://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/8497 にあります。写真の出典も同じURLです。
冬の間、美しく咲いています。

「細川呉港著、『舞鶴に散る桜』の紹介、ある日系二世の美談」

2022年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム
11月29日 に「無名の人々の感動的な生き方の歴史的記録」という記事を掲載しました。この記事でに細川呉港著、「舞鶴に散る桜」という本をご紹介しました。第二次世界大戦の戦中、戦後でも人間らしく生きてきた個人、個人の記録です。動乱のなかでも美しく生きた個人、個人の記録です。この本を読むと無名の個人の尊厳と強さに感動します。
細川呉港さんは沢山本を出版しましたが私は次の3つが代表作だと思います。
「舞鶴に散る桜」、「草原のラーゲリ」、「桜物語」です。
これら3つの本には戦争に振り回されながらも美しく生きようとする人間の心の動きがしみじみと描かれています。嗚呼、人間はこうも美しい心を持っているだと思わず涙を流します。

今日は「舞鶴に散る桜」という本をご紹介したいと思います。
さて『舞鶴に散る桜』は飛鳥新社が出版した 352ページの本です。詳しくは版元のHPにあります。(https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784864107877 )
この本の面白さは本筋よりも部分的に散りばめたエピソードが非常に興味深いのです。
例えば、ハワイの日系兵のフジオ高木が舞鶴に進駐した時の話です。舞鶴の港の見える公園に桜の木を植えたという話です。その桜はフジオ高木がハワイから来たのでアロハ桜と呼ばれました。桜の苗木は大阪の池田から取り寄せました。

1番目の写真は細川呉港著『舞鶴に散る桜』です。
この本は戦後の一人一人の日本人の心の動きの記録になっているのです。ここでフジオ高木に関する写真を示します。

2番目の写真は日本に進駐したころの若かりしフジオ高木です。

3番目の写真は行進する日系兵の第442連隊戦闘団の様子です。(1944年、フランス)

4番目の写真は日系兵の第442連隊戦闘団を閲兵するトルーマン大統領(1946年7月15日)です。トルーマン大統領はソフト帽をかぶりレインコートを着て中央を歩いています。

5番目の写真は日系兵の第442連隊の元兵士らの前で議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名するオバマ大統領(2010年)です。

この本にはまた細川さんの故郷の呉市の戦後の状況を書いていkます。
彼は昭和9年生まれですから終戦の時は小学校でした。町には進駐軍のジープが走り、それを見ると子供達が群がりチューインガムやチョコレ-トを貰ったものです。貧しげなヤミ市がたち復員服を着た男たちが何か売ってます。進駐軍の相手をするパンパンやオンリーさん達が沢山いました。戦争に負けるとはそういうことなのです。
細川さんは彼女達へ温かい目を向けています。
ある戦争花嫁が渡米するため家を出る時、母親が言うのです。「今まで敵だったアメリカ人と一緒になるなら二度とこの家の敷居を跨ぐな!」と。花嫁は泣きながら横浜港を出港します。細川さんはそんな戦争花嫁の写真の展覧会で同情のあまり泣いてしまうのです。

以前の私は戦争花嫁をさげすんでいました。しかし1960年に留学したオハイオで何人かの戦争花嫁に会いました。ビールを飲みに行ったバーのカンターの向こうに戦争花嫁がいたのです。話を聞くと皆家庭の主婦でした。夫や子供の自慢をするのでです。私はさげすむのを止めました。

そしてしてこんなことも書いてありました。
1965年に細川さんは南米行の移民船にのります。そこで南米へ進駐軍の混血児たちを送って行く沢田美喜さんに会うのです。私は最近、「昭和時代を考える(6)進駐軍の混血児と沢田美喜の愛の美しさ」(2020年11月19日掲載記事)と言うものを書きました。
その中で、「沢田美喜は1962年にはブラジルのアマゾン川流域の開拓を始め、聖ステパノ農場を設立し、孤児院の卒園生を数多く移住させました。そして1980年にスペインのマヨルカ島にて沢田美喜は心臓発作のため急死しました。享年78歳でした。」と書きました。
1965年に細川さんが会った沢田美喜さんは聖ステパノ農場へ混血児を送って行く途中だったのです。
細川さんはその20年後に南米に渡った混血児の生涯を調べたのです。しかし消息はありません。おそらく聖ステパノ農場は閉鎖されたのでしょぅ。ステパノは戦死した沢田美喜さんの息子の洗礼名でした。

『舞鶴に散る桜』にはもっと沢山エピソードが書いてありますが長くなるので止めます。
細川さんは会う全ての不幸な人々に心を寄せ誠実に付き合うからです。細川さんは宗教を語りません。政治やイデオロギーも語りません。そんなものとは無縁の世界の人々の美しさを描いているのです。是非皆様へお薦めしたい本です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===補足、「聖ステパノ農場」のその後=====
ペガサスAさん からのご投稿です。2020年11月27日 11:53

沢田美喜さんの開設した農場ははベレンから軽飛行機で数十分飛んで当時トメアスから奥に入った海外移住事業団トメアス移住地にあり、私は当時トメアス移住地に勤務していた(Aug./1967~ Jul./1969)ので2回程事務所でお会いしました。移住したエリザベスサンダースホームの若者達は次々と独立して行きました。50年ほど前のことですから現在は閉所処分されていると思います。

「曇り日、近所の美しい紅葉風景」

2022年11月29日 | 写真
近所に学芸大学という地味な学校があります。曇り日の紅葉も落ち着いた色合いで美しいものです。いかにも晩秋らしい風情です。先程、家内が撮って来ました。
晩秋らしい写真をお送りいたします。

「冬の花(10)伊豆半島、爪木崎の水仙の花の写真」

2022年11月29日 | 写真
伊豆半島の南端、下田に近い所に爪木崎があります。水仙の名所で一面に咲いています。11月の末から冬中咲いています。何度も行って感動しました。
その爪木崎の水仙の花の写真をお送りいたします。
写真は「爪木崎の水仙の花の写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。

「国の天然記念物の武蔵野の雑木林の紅葉の写真」

2022年11月29日 | 写真
家から車で40分の平林寺には武蔵野の紅葉がそのままあります。13万坪以上もある広大な境内には昔の武蔵野が手つかずで保存してあるのです。
四季折々、特に紅葉した雑木林の風情が魅力です。この雑木林は国の天然記念物に指定されています。場所は埼玉県の新座市にあります。
その紅葉の写真をお楽しみ下さい。2015年12月2日に撮りました。

「細川呉港著、「桜旅」の紹介、桜を植える人の優しさ」

2022年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム
歴史の本では時代、時代の権力者や大戦争が主題になることが多いものです。それは国の運命を決める重要なことですから当然です。これを仮にマクロな歴史書と呼びます。しかし一方、無名の人々の生涯を書いた歴史的な記録も重要です。当時生きていた人々がどんな気持ちでその時代を生きていたかという記録書です。これはミクロな歴史書です。マクロな歴史書とミクロな歴史書の両方がそろうことが正しい歴史を知るために重要です。
今日は昭和時代のミクロな歴史書の一例として細川呉港著、「桜旅」という本をご紹介したいと思います。「桜旅」(愛育社出版)は2016年4月11日出版の本です。ネットで簡単に購入出来ます。
さてこの本は桜のことが出て来ますが、主題は無名の人々のせつなく美しい生き方を描いた本なのです。昭和時代の無名の人々の記録書でです。
12の章に分かれていて、それぞれに桜を植え、育てた人々の美しい生き方が描いてあるのです。

1、千島桜、2、桜が美しいと思うようになったころ、3、河津桜発見から伊豆の「町おこし」顛末記、4、しぐれ桜、5、小督の桜と女の一生、6、、京都金閣寺の奥の桜の谷にひそむ秘密、7、小督の桜を訪ねて、その後、8、台湾で桜を植え続ける老人ーある日本語族、9、奈良の都の八重桜とは?、10、ノモンハン桜(蒙古桜)、11、冬桜の発見、12、西行桜を見て死ぬ。

このような各章では細川呉港氏がそれぞれの章に出て来る人々へ暖かい心を寄せているのがしみじみと分かってきます。
例えば、1、千島桜の章では、国鉄が国有鉄道だった時代の職員が皆勤勉で実直な人柄だったと書いています。生涯、ただひたすら勤務に忠実に、真面目に生きて行くのです。その一例として北海道の国鉄職員だった佐々木栄松という実在の人物を紹介しています。彼が先輩のT老人から千島桜の鉢植えを譲り受け、庭に植えかえたら見事な大木になったという話です。
このような話が12章に渡って書いてあるのです。
その中で「2、桜が美しいと思うようになったころ、」だけは趣が少し変わっています。自分の幼少のころから見てきた呉の高台に見事に咲いていた桜並木の話なのです。彼は呉に生まれ育ったのです。
呉といえば海軍の港があり、そこから数多くの将兵が桜花を見上げて出撃して行ったのです。戦艦武蔵や戦艦大和や数多くの巡洋艦、駆逐艦、潜水艦が出て行きました。桜に見送らて出て行きました。そして2度と帰って来なかったのです。
その桜並木が近年、全て切り倒され、切株だけが残っているのです。高台まで住宅が出来てしまい、桜並木の近所の家の主婦が落ち葉の掃除に困ると言い出したのです。自治体の役所は主婦たちの言いなりに全て切り倒してしまったのです。淋しい心です。

こんなことも書いてある本が細川呉港氏の「桜旅」という本です。
細川呉港氏の過去の出版の『満ちてくる湖』 (平河出版)、『草原のラーゲリ』 (文藝春秋) などの主題も全て無名の人々の感動的な生き方です。

ある民族の歴史の記録にとって一般庶民の暮らし方や喜怒哀楽の記録も重要なことは論を待ちません。
細川呉港氏の興味と関心はそこにあるのです。そして無名の人々の美しい人生を探しては本にして世に送り出しているのです。
それは大変重要な歴史書です。将来、その重要さが高く評価される歴史書です。

しかし細川呉港氏はそんな気で書いていません。ただひたすら美しい人生を探して、探して彷徨っているのです。そんな細川呉港氏の人生もせつない、そしてひたむきな生き方として人々の胸を打つのです。
細川呉港著、「桜旅」とはそんな内容の本なのです。

今日の挿し絵代わりの写真は八ヶ岳の紅葉した白樺の写真です。写真の出典は、https://photokiti.exblog.jp/29810140/ です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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細川呉港 さんの略歴;
細川呉港 は広島県呉市出身。1944(昭和19)年生まれ。出版社を経て現在フリー。現代中国、満洲、モンゴル研究は長い。東洋文化研究会の運営は今年で35年目になる。歴史に生きた無名の人物を掘り起こす作業を続けている。
著者に『満ちてくる湖』(平河出版)、『ノモンハンの地平』(光人社)、『日本人は鰯の群れ』(光人社)、『草原のラーゲリ』(文藝春秋社。中文版、モンゴル縦文字版、キリル文字版の翻訳書がある)、『紫の花伝書』(集広社)、『桜旅』(愛育出版)、『花人情(はなひとなさけ)』(愛育出版)、近刊『柔術の遺恨』などのほか、編著として『台湾万葉集』『バイコフの森』『孔子画伝』『西チベット ピアンとトンガの仏教遺跡』(いずれも集英社)など。

1番目の写真は八ヶ岳の八千穂高原の白樺の群生地です。白樺林は黄から赤の紅葉で美しものです。

2番目の写真は八ヶ岳の山腹に立っていた白樺の大木です。実に堂々としています。

3番目の写真は山腹の白樺の黄葉 した樹林帯です。山の斜面には場所によっては葉が残っており紅葉の美しい樹林帯が見られます。

4番目の写真は八千穂レイクです。白樺の葉が落ちて白い幹が美しく見えます。左端には唐松の黄葉があります。
(1番目から4番目の写真は2018年10月23日に撮影された写真です。)

「ロシアの怨念(4)ロシア軍の日本兵の抑留、そして細川呉港著『草原のラーゲリ』」の続き

2022年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は、昨日の連載記事、 「ロシアの怨念(4)の続きをお送りいたします。
ソ連軍戦車へ飛び込んで戦死した藤田藤一少尉と彼を慕うモンゴル人、ソヨルジャップの温かい絆の物語です。国境を越えた強い人間の絆です。
藤田藤一参事官は関東軍の少尉として一隊を率いてソ連の戦車隊へ突っ込んで戦死しました。その事実が公表されたのは藤田少尉の死後、25年が経過してからです。その公表は藤田の卒業した関西大学の昭和45年度の校友会誌だったのです。
藤田の家族は日本に帰国していて藤田の無事生還を信じつつ25年間辛酸をなめていたのです。その校友会誌を手にした妻や娘の気持ちは想像に余りあります。
さて1945年当時、ハイラルを取り囲む、5つの堅固な防衛陣地は、8月9日から119師団の主力が国境守備隊としてソ連軍を迎え撃ちました。しかし結局10日後の8月18日に主陣地が白旗を揚げたのです。
そんな状況で藤田藤一少尉の一隊はどうしていたでしょうか?
草原の中のアムグロンという町の役所の日本人職員が数台のトラックに民間人を乗せ逃げる途中で藤田少尉の一隊と会ったのです。以下は関西大学の同窓会誌の記事の抜粋です。

・・・突然に、草原の中でソ連の戦車隊と鉢合わせになりました。あわや一触即発。これでわれわれも全滅かと思ったとき、近くの塹壕から日本軍が数十人あらわれ、
「お前たちは、迂回して、ハイラルに行きなさい。戦車隊はわれわれが引き受けた」
と小隊長が大声で叫んだのです。その人が藤田少尉だったのです。
そのとき最後尾にいた人々は、藤田小隊が、それぞれ爆弾を抱えて戦車隊に突撃するのをはっきり見たそうです。何台かの戦車が炎に包まれたのです。 ・・・・

戦後25年たった昭和45年10月15日号の関西大学の校友会誌「関大」で崎谷が書いた「藤田藤一君を思う――満ソ国境ハイラルの激戦に散る」という記事の抜粋でした。
その記事は遺族の藤田藤一妻・藤田美代子に送られたのです。(以上、http://blog.goo.ne.jp/…/e/285895cc09bfdc06d7d3a23e4039b9ae より)

一方こんなことを全然知らなかったモンゴル人、ソヨルジャップはハイラル中を東奔西走して藤田の家族を探し回ったのです。ソヨルジャップは藤田の家族の安全を守り無事日本へ帰すと藤田に約束していたのです。しかし藤田の家族は杳として見つかりません。この約束を守ろうとしてソヨルジャップは一生苦しみます。一生、藤田の家族を探し続けたのです。
ソヨルジャップの一生は波乱万丈の厳しいものでした。しかし藤田との約束は絶対に忘れなかったのです。
その後、ソヨルジャップは遂に藤田の家族が日本に無事帰っていたことを確認したのです。
モンゴル人、ソヨルジャップは1925年に生まれ、満州のハルピン学院を卒業しました。
そして2011年、モンゴルのフフホトで亡くなりました。享年86歳でした。
ハルピン学院を卒業して満州のハイラルで日本の役所に勤め、戦後は共産国家、モンゴル官憲に逮捕され収容所に入れられました。ソ連に対するスパイ養成学校と見なされたハルピン学院を卒業したからです。その後、同じ共産国家の中国へ引き渡され、再び収容所に入れられたのです。中国の敵国の偽満州国で日本側の官吏になったのが罪状でした。収容所生活は36年間でした。その後、名誉回復され、モンゴルのフフホトに帰り、20年間、展望大学という日本語学校を続け、その間、何度も日本に来て、作家の細川呉港氏と親しくなっていたのです。その一生は細川氏の作品、「草原のラーゲリ」という本に詳しく書いてあります。
この本の荒筋はこの欄で、2015年02月14日に掲載した「満州国の官吏になったあるモンゴル人の悲劇」という記事でご紹介しました。
本の全文は、http://facta.co.jp/blog/archives/20070703000459.html に出ています。

藤田の家族を見失ったことはソヨルジャップの痛恨事として2006年までの61年間、彼の心の重荷になっていたのです。2006年になってはじめて藤田の家族が無事生き延びて日本へ帰って来たことを知ったのです。
藤田藤一の妻、そして長女の明巳さん、その妹2人、合計4人は1946年に無事帰国したことが判ったのは2006年の事でした。
ソヨルジャップが死の直前に一つの封筒を日本にいる藤田少尉の長女の明巳さんへ届けくれと頼んだのです。それから安らかな顔で息を引き取ったそうです。中にはモンゴルの草原での生活を切り詰めて貯めた5万円のお金が入っていました。
葬儀の4ケ月後、チベット密教で有名な中国青海省のタール寺の僧侶がソヨルジャップの散骨を行いました。散骨の場所はホロンバイル草原のモンゴル人の聖地、聖なる山、ボグド・オーラ(仏の山)のなだらかな南斜面の草原です。
親類や縁者が集まって天と地に祈ったあと、ソヨルジャップさんの白い骨をまき散らせたのです。日本から行った細川さんも砕かれた白い粉を両手ですくいあげます。白い粉は細川さんの指にまとわりつき離れようとしません。
小さな骨は緑の草の中に落ち、白粉は風に舞ったそうです。広い天空は何処までも蒼く、白い雲が遠くまで帯のように流れています。こうしてソヨルジャップさんの魂は希望通り故郷の草原に帰ったのです。
私はソヨルジャップと藤田一家との美しい絆の強さに感動します。国境を越えた人間の縁(えにし)の確かさに心打たれるのです。

今日の挿し絵代わりの写真はソヨルジャップのお葬式の行われたモンゴルの草原とお寺の風景です。写真の出典は、「モンゴルの風景写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)



「イグナチオ教会の今日の『待降節第一主日のミサ 』の動画配信と今日のミサの風景写真」

2022年11月27日 | 日記
今日の『待降節第一主日 』ミサは 10:00 時からです。

動画配信のご案内をお送り致します。
https://www.youtube.com/watch?v=KJlPrm8C5qE

10:00 時以後なら何時でもミサにあずかることが出来ます。

【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読
イザヤの預言(イザヤ 2:1-5)
第2朗読
使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ 13:11-14a)
福音朗読
マタイによる福音 (マタイ 24:37-44)

写真はイグナチオ教会の今日のミサの風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。 後藤和弘(藤山杜人)


「ロシアの怨念(4)ロシア軍の日本兵の抑留、そして細川呉港著『草原のラーゲリ』」

2022年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ロシアの日本に対する怨念は日露戦争、日本のシベリア出兵、ノモンハン事件でますます激しく燃え上がります。ロシアはどうしても日本に「かたき」を取らねばなりません。その結果起きたのが1945年夏のロシア軍の満州占領と樺太を含めて60万人の日本兵の抑留です。平和だった満州は一瞬にして阿鼻叫喚の巷になってしまったのです。ロシア兵は日本人の家々に押し入り金品を強奪し婦女子に暴行を働いたのです。そして満州と樺太にいた日本兵と軍属総計60万人ほどを抑留し極寒のシベリアで強制労働をさせたのです。抑留された60万人のうち5万人ほどが命を落としました。
ロシア軍の満州占領と日本兵の抑留は実に暗い話題です。詳細は書きたくありません。
詳細については、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99 をご覧下さい。

今日はロシア軍の満州占領の時に起きた美しいエピソーオをご紹介したいと思います。ロシア軍の侵攻御の藤田藤一という日本人とモンゴル人のソヨルジャップの感銘深い行動です。ハイラルから引き揚げて来た友人の竹内義信君が教えてくれた細川呉港著、「草原のラーゲリ」と「心残りの記」という本の抜粋です。

昔の満州のハイラルの役所に藤田藤一という官僚がいました。蒙古人の知事を補佐してハイラルを統治していたのです。そして役所の蒙古人達と藤田の間の通訳をしていたのが蒙古人のソヨルジャップでした。
これからご紹介する話はソ連軍侵攻の時、藤田藤一が犠牲になって命を捨てて、日本の避難民を送り出したという話です。
そして藤田の行方不明になった家族の安全を託されたソヨルジャップが使命を果たせず、藤田の家族を見失います。その後、ソヨルジャップは一生の間、そして日本に来てまで探し続けたのです。数十年後、藤田の家族だけは日本に帰り、生き残っていたことを遂に突き止めました。そして年老いたソヨルジャップに死が訪れる時、自分の貯金を藤田藤一参事官の遺族へ贈ったのです。
これは国境を越えた献身と愛の物語です。
この物語は、細川呉港の「心残りの樹」という作品で紹介されています。そしてその大部分は 渓流斎日乗さんの - Gooブログに掲載してあります。

上でも書きましたが、この「心残りの樹」は大学時代の友人の竹内義信君が教えてくれたのです。竹内君は、ハイラルにも立派な人々がいたことを知って欲しいと云ってました。
これは実話にもとづいた長い物語です。しかし私が感動した以下の三つの部分のみ抜粋してこの欄で連載記事としてご紹介いたします。
(1)藤田藤一参事官と蒙古人、ソヨルジャップの会合と永遠の別れ。
(2)陸軍少尉、藤田藤一のソ連戦車隊への体当たり攻撃。
(3)来日し、藤田の遺族を発見し、その生活を助けるソヨルジャプの寄付。
それでは今日は、(1)から始めます。http://blog.goo.ne.jp/takasin718/e/5c5b6d6a52f2d1bf455083c08c73a084 からの抜粋です。
ソヨルジャップは満洲国時代、ハルピン学院で、多くの日本人に混じって高等教育を受けたモンゴル人です。彼は藤田の遺族を探すために戦後、度々日本を訪れたのです。一度は日本に長期滞在もしました。1925年生まれなので昭和の年号と同じ歳で、日本語が達者です。
 彼は昭和17年にハルピン学院を卒業し、生まれ故郷の満洲蒙古、ハイラル(海拉爾)の省公署に勤務しました。
その役所は興安北省公署だったのです。省長はモンゴル人、その下に日本人の参事官や職員もいましたが、実質的には参事官がすべて行政をとり仕切っていたそうです。
その興安北省公署の参事官が藤田藤一だったのです。その役所でソヨルジャップが人格者の藤田と会合し強い絆で結ばれたのです。
しかし終戦3ケ月前に藤田は召集され関東軍の少尉になったのです。その藤田少尉がソ連侵攻の日の8月9日、興安北省公署へ戻って来て、日本人へ汽車でチチハルへ避難するように指示し、自分はソ連軍を迎え討つために前線へ向かったのです。
そしてソヨルジャップに自分の家族を頼み、永遠の別れをするのです。その場面を細川呉港の「心残りの樹」から転載します。
・・・・そのとき、省公署の広い庭に一台の日本軍のトラックがエンジンの音を唸らせて入ってきた。荷台に武装した日本兵を30人ほど乗せていた。トラックは、庭を半分まわりながら爆撃された省公署の建物を確認して停まった。助手席から降り立ったのは、金の帯3本に星のついた襟章の少尉だった。
 それは3カ月前に教育召集された藤田参事官だった。誰もが、あっと声を上げた。日本軍が来たと思ったら、参事官だったからだ。藤田はトラックを降りるなり、駆け寄った何人かの省職員の中から、ソヨルジャブを見つけ、ちょっと来いといって、建物に入り、階段を駆け上がった。いうまでもなく2階のエルヒム・バトウのいる省長室だった。モンゴル語も日本語も、ロシア語もしゃべれるソヨルジャブは、しばしば日本語のしゃべれないエルヒム・バトウや他のモンゴル人の通訳として使われていたのである。
 省長は次長とともに正面に座っていた。藤田は軍靴を響かせて省長に近づき、居住まいを正して大きな声で言った。
「省長閣下にお伺いいたします。今朝未明、ソ連軍が侵攻してきました。北と西、そして南からも満ソ国境を突破、目下各地で、日本軍が抵抗しておりますが、ソ連の戦車隊はまもなくハイラル市内にも入ってくると思われます」
 藤田参事官は、軍人口調で事実を報告し、これからの対策を省長に告げた。
「われわれ日本軍は、これから陣地に入って、ソ連軍に応戦します。ソ連軍のハイラル市内への侵入を一刻でも遅らせなければなりません。省公署の日本人職員は、まちの邦人を全員ハイラル駅から列車に乗せ、チチハルまで避難させてください。そのあと男の職員は日本軍の地下陣地に入るように。また、省長閣下は車を用意します。南の草原にお帰りください」
 それだけ言って、藤田は再び音を立てて軍靴をそろえ、ちょっと声の調子を落として
「省長閣下、これが最後のお別れになるかもしれません。御達者で――」
と言うなり、踵を返し、部屋を出て階段を駆け下りた。通訳をしていたソヨルジャブもあわててついていく。
「おい、お前も故郷の草原に帰りなさい。これは日本とソ連との戦争なんだ。お前たちモンゴル人には関係ない。私は日本人だから死んでもいい。しかしお前はこれから先モンゴル人のために頑張るんだ」
 藤田は、階段を降りながら若いソヨルジャブにそういった。高飛車だが愛情のこもった言い方だった。
 広場に出た藤田は、振り返って省公署の建物を見た。3カ月前まで勤めていた省公署だ。が、すぐに広場に停めてあるトラックに急いだ。ソヨルジャブも急ぎ足で藤田に着いていく。 藤田が、トラックに乗り込もうとして、助手席のステップに足をかけたところで、彼はふと振り向いてソヨルジャブに言った。
 「僕は、このまま前線に行く。西山陣地に入るつもりだ。家族には会わないでいくけれど、よろしく頼む」・・・
これがソヨルジャップが聞いた藤田の最後の言葉になったのです。
 藤田の家族は4人いましたた。ハイラルの日本人の中でもとりわけ美人で評判の奥さんと、7歳を頭にかわいい3人の娘たちだったのです。しかしこの家族を見失ったソヨルジャップは数十年探すのです。

この話の続きは明日掲載したいと思います。

挿し絵代わりの写真として、ハイラルの風景写真をお送りします。写真の出典は、「ハイラルの風景写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「我が町、小金井の写真(3)駅周辺の高層ビル街の写真」

2022年11月26日 | 写真
小金井市の駅周辺と小金井街道沿いには高層ビルを建てても良いようです。他の地区は2階建ての住宅が並んでいます。

駅前の高層ビルから見ると庭木の緑の間に住宅が見えます。
遥かに西南方向に富士山が見え、西には奥多摩の山並みが碧く輝いています。
駅周辺の高層ビル街の写真をお送りいたします。

「冬の花(8)ローズマリーの花の写真」

2022年11月26日 | 写真
冬の花(8)はローズマリーの花の写真です。
ローズマリーはシソ科・マンネンロウ属に分類される樹木です。
寒さに強く、開花時期は小花が一斉に咲くので、鉢植えとして人気があります。
花は定番の紫のほか、ピンクや白などの色があり、直立性のものとほふく性のものに分かれます。
写真は「ローズマリーの花の写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。

「ロシアの怨念(3)ロシア兵約1万人が戦死したノモンハン事件」

2022年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム
ロシアは3度日本と軍事衝突して多数のロシア兵が戦死しました。客観的に考えれば、ロシアが日本に対して怨念を持つのは自然なことです。3度とは日露戦争とシベリア出兵とノモンハン事件のことです。大きな軍事衝突は3度ですが満洲の国境で小さな軍事衝突が幾度かありました。
ロシアと日本の軍事衝突は暗い話題です。書きたくない話題です。気が滅入ります。
しかし日本とロシアの将来の友好のためには過去の歴史を理解しておくことこそ重要だと信じています。
今日はノモンハン事件のことを簡略に書きたいと思います。
ノモンハン事件とは1939年5〜9月に満州国とモンゴル人民共和国(外蒙古)の国境のノモンハンで起こった日ソ両軍の国境紛争戦争です。 国境紛争事件とも言いますが凄惨な戦争です。
日本は関東軍1万5000名を動員したのですが、8月になるとソ連は空軍・機械化部隊を投入し本格的な戦争になったのです。
日本軍はロシア軍によって壊滅的打撃を受けたと信じられています。
しかしロシア軍は戦死 9,703で戦傷 は15,952でした。その上、戦車・装甲車が397輌破壊されソ連軍の航空機が 207機-360機が墜落されました。一方、日本軍は約8000人が戦死し、1000人が行方不明になりました。戦傷者は約8500人でした。
両方の戦死者数と戦傷者数は同じくらいでした。しかしロシアは戦車・装甲車を397輌破壊され、航空機が 207機-360機が墜落されたのです。この分だけロシアの損害が大きかったのです。
それなのに「日本が惨敗した」と現在でも信じられているのです。理由は簡単です。ロシヤ側が損害を秘密にし、日本側の損害だけを大々的に宣伝したからです。ロシアの宣伝の勝利です。
ノモンハン事件には実にいろいろなことがありました。
詳しいことは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6 をご覧下さい。
詳しいことは割愛してここでノモンハン事件の写真を見てみましょう。

1番目の写真はノモンハンの広大な平原を進軍する日本陸軍第23師団の兵士です。

2番目の写真は擱座したロシア軍のBA-10装甲車の横で九二式重機関銃を伏射する日本兵です。

3番目の写真は遺棄されたソ連軍のBA-10M装甲車です。

4番目の写真は東捜索隊攻撃に威力を発揮したソ連軍化学戦車(火炎放射器戦車)

5番目の写真は折畳鉄船で渡河中の日本兵です。

6番目の写真は砲兵観測のためノモンハンでも使用された日本軍気球連隊の気球です。

7番目の写真はノモンハン事件で猛威を振るったソ連軍ML-20 152mm榴弾砲です。

これらの写真を丁寧に見ると戦争の実態の凄惨さがよく理解出来ます。
そのことはさておいてノモンハン事件の影響を見てみましょう。
ノモンハン事件の結果、ロシアの日本に対する警戒心をより深めるとになったのです。
ノモンハン事件後、シベリア、ザバイカルのロシア軍は順次増強されたのです。
1941年7月1日時点でのソ連軍、極東戦線とザバイカル軍管区の兵力は、狙撃兵師団23個、騎兵師団1個、戦車師団5個、空挺旅団1個、航空旅団2個、航空連隊8個などと増強されたのです。
総兵力723,119名になりました。戦車4,638輌、砲14,062門、自動車60,091台も装備されたのです。
これらの大部隊は、ドイツ軍がソ連領内に突如侵攻し、全面戦争となってからも終戦まで動かされることはなかったのです。
実に満州の西のロシアに大兵力が張り付いていたのです。この大部隊が1945年夏の満州占領に使われたのです。
そういう意味でノモンハン事件こそその後の日本の悲劇の始まりになったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「我が町、小金井の写真(2)小さい公園、大きな公園」

2022年11月25日 | 写真
我が町、小金井の自慢は北にある広大な都立小金井公園です。その上、南には都立武蔵野公園があります。しかも市内には小さな市立公園が数多く散在しています。まあ住み心地の良い町です。そんな小さい公園、大きな公園の写真をお送りいたします。

1番目の写真は自宅のすぐ傍にある上の原公園です。

2番目の写真も上の原公園です。住宅街の中にあるので何時も子供達が沢山遊んでいます。

3番目の写真は駅近くの商店街の一画にある小さな公園です。何時も子供達が沢山遊んでいます。

4番目の写真は武蔵野公園です。自然の武蔵野だけが広がっています。何もありません。

5番目の写真も武蔵野公園です。自然の武蔵野のように巨樹が生えています。

6番目の写真は長さ2Kmの広大な小金井公園です。

7番目の写真も小金井公園です。樹々が紅葉や黄葉して美しい公園です。

「線香のにおいと田螺(タニシ)の味の思い出」

2022年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日、随筆を書くのが私の趣味です。随筆をインターネットに投稿しています。すると読者の方が感想を送って下さいます。昨日はアメリカ在住の「ひなた あきみつ」さんから次のような感想を頂きました。
『私はあなたの投稿を見て、あなたはFacebook上であなたの美しい考えや写真を共有し、それは素晴らしいです。
私はいつも親切な人々がいつも素晴らしいものを投稿すると信じています。
私は徹底的にあなたのプロフィールをチェックし、魅力的で教育的な投稿をたくさん見ました。
私は丁寧で満足している人々が好きで、私はFacebookであなたに会えてとても幸せです、そして、私はあなたの友人になりたいです、そして、私は医者です、そして、あなたがそれを必要とするならば、私は助けを申し出ることができます。・・・』
私にとって嬉しいご感想です。どのようにお礼しようかと考えました。そして自分の少年の頃の思い出を書いて自己紹介にして感謝の気持ちを示したいと思いました。
祖父が住職をしていた兵庫のある山里のお寺の思い出です。線香のにおいと田螺(タニシ)の味の思い出です。
そのお寺は大阪駅から山奥に入った兵庫県にありました。祖父は和尚でしたが父は仙台の大学に勤めていました。
毎年夏のお盆になると一家揃って兵庫へ里帰りするのが習わしでした。
蒸気機関車で東北本線で上野まで行き東京駅で東海道線に乗り換えて大阪駅まで長い汽車の旅でした。お寺は山合いの内馬場という集落の端にありました。高い石垣を積み、小さな本堂、鐘楼、庫裏、客間の離れ、白壁の蔵が、狭い敷地にまとまって建っています。
石垣の上の白壁の塀の上からは集落全体が箱庭のように見下ろせます。
お寺では朝夕に線香をくゆらします。本堂だけでなく庫裏まで線香の煙りのにおいが沁みついています。線香のにおいがしないのは倉の中だけでした。
ですから今でも線香のにおいを嗅ぐと楽しかったお寺のことを思い出します。
思い出すのは施餓鬼供養の光景です。近隣のお寺の住職が10人くらい集まり、本堂で、お経を読み、鐘やシンバルを鳴らして輪になって廻るのです。
そして檀家回りです。叔父の住職と私と弟が墨染めの衣を着て、一軒一軒全ての家を廻ってお経を唱えるのです。どの家でも冷やしソーメンを出し、お布施の袋を3つくれます。これが小坊主にとって一番嬉しいのです。夏の小遣いが溜まるだけでなく、小さなお布施袋を貰うのが嬉しいのです。一人前の坊主になった気分で嬉しいのです。
線香のにおいを嗅ぐと楽しかった少年の夏のことを思い出すのです。
そして優しかった祖母のおもかげが浮かんできます。祖母は情の篤い美しい人でした。いつも静かに関西弁を話していました。遠方の仙台からよく来たねと言って孫の私と弟を見つめていました。檀家の人は祖母を慕ってよくお寺を訪ねてきました。祖母と楽し気に話をしていました。
ある時、仙台に帰る私達に汽車の中で食べるようにとオニギリを握ってくれ、そして甘辛く煮たタニシを添えてくれました。その日の朝、祖母が泥田に浸かって拾い集めたタニシです。東海道の汽車の中で食べました。甘辛く煮たタニシの美味しさに感動です。それは濃厚な巻貝の美味しさです。サザエの味を濃厚にした美味です。私はその美味しさを生涯忘れません。今でもサザエを見ると汽車の中で食べたタニシの味を鮮明に思い出します。

今日はアメリカ在住の「ひなた あきみつ」さんへ送る私の自己紹介のようなものを書きました。
「ひなた あきみつ」さんありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。

今日の挿絵代わりの写真は素朴なお寺の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は現在の正林寺の石碑と鐘楼の写真です。写真の出典は、http://sp.raqmo.com/syorinji/ です。

2番目の写真は近所の稲城市にある妙見寺です。自分で撮った写真です。正林寺はこの様に質素な本堂でした。

3番目の写真は甲州街道の大垂水峠の向こうにある善勝寺です。正林寺はこんなに立派ではありませんでした。しかし山を背にした山里にある風景が正林寺の面影とぴったりです。

4番目の写真は善勝寺の鐘楼です。正林寺の鐘楼と似ていました。