ロシアの日本に対する怨念は日露戦争、日本のシベリア出兵、ノモンハン事件でますます激しく燃え上がります。ロシアはどうしても日本に「かたき」を取らねばなりません。その結果起きたのが1945年夏のロシア軍の満州占領と樺太を含めて60万人の日本兵の抑留です。平和だった満州は一瞬にして阿鼻叫喚の巷になってしまったのです。ロシア兵は日本人の家々に押し入り金品を強奪し婦女子に暴行を働いたのです。そして満州と樺太にいた日本兵と軍属総計60万人ほどを抑留し極寒のシベリアで強制労働をさせたのです。抑留された60万人のうち5万人ほどが命を落としました。
ロシア軍の満州占領と日本兵の抑留は実に暗い話題です。詳細は書きたくありません。
詳細については、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99 をご覧下さい。
今日はロシア軍の満州占領の時に起きた美しいエピソーオをご紹介したいと思います。ロシア軍の侵攻御の藤田藤一という日本人とモンゴル人のソヨルジャップの感銘深い行動です。ハイラルから引き揚げて来た友人の竹内義信君が教えてくれた細川呉港著、「草原のラーゲリ」と「心残りの記」という本の抜粋です。
昔の満州のハイラルの役所に藤田藤一という官僚がいました。蒙古人の知事を補佐してハイラルを統治していたのです。そして役所の蒙古人達と藤田の間の通訳をしていたのが蒙古人のソヨルジャップでした。
これからご紹介する話はソ連軍侵攻の時、藤田藤一が犠牲になって命を捨てて、日本の避難民を送り出したという話です。
そして藤田の行方不明になった家族の安全を託されたソヨルジャップが使命を果たせず、藤田の家族を見失います。その後、ソヨルジャップは一生の間、そして日本に来てまで探し続けたのです。数十年後、藤田の家族だけは日本に帰り、生き残っていたことを遂に突き止めました。そして年老いたソヨルジャップに死が訪れる時、自分の貯金を藤田藤一参事官の遺族へ贈ったのです。
これは国境を越えた献身と愛の物語です。
この物語は、細川呉港の「心残りの樹」という作品で紹介されています。そしてその大部分は 渓流斎日乗さんの - Gooブログに掲載してあります。
上でも書きましたが、この「心残りの樹」は大学時代の友人の竹内義信君が教えてくれたのです。竹内君は、ハイラルにも立派な人々がいたことを知って欲しいと云ってました。
これは実話にもとづいた長い物語です。しかし私が感動した以下の三つの部分のみ抜粋してこの欄で連載記事としてご紹介いたします。
(1)藤田藤一参事官と蒙古人、ソヨルジャップの会合と永遠の別れ。
(2)陸軍少尉、藤田藤一のソ連戦車隊への体当たり攻撃。
(3)来日し、藤田の遺族を発見し、その生活を助けるソヨルジャプの寄付。
それでは今日は、(1)から始めます。http://blog.goo.ne.jp/takasin718/e/5c5b6d6a52f2d1bf455083c08c73a084 からの抜粋です。
ソヨルジャップは満洲国時代、ハルピン学院で、多くの日本人に混じって高等教育を受けたモンゴル人です。彼は藤田の遺族を探すために戦後、度々日本を訪れたのです。一度は日本に長期滞在もしました。1925年生まれなので昭和の年号と同じ歳で、日本語が達者です。
彼は昭和17年にハルピン学院を卒業し、生まれ故郷の満洲蒙古、ハイラル(海拉爾)の省公署に勤務しました。
その役所は興安北省公署だったのです。省長はモンゴル人、その下に日本人の参事官や職員もいましたが、実質的には参事官がすべて行政をとり仕切っていたそうです。
その興安北省公署の参事官が藤田藤一だったのです。その役所でソヨルジャップが人格者の藤田と会合し強い絆で結ばれたのです。
しかし終戦3ケ月前に藤田は召集され関東軍の少尉になったのです。その藤田少尉がソ連侵攻の日の8月9日、興安北省公署へ戻って来て、日本人へ汽車でチチハルへ避難するように指示し、自分はソ連軍を迎え討つために前線へ向かったのです。
そしてソヨルジャップに自分の家族を頼み、永遠の別れをするのです。その場面を細川呉港の「心残りの樹」から転載します。
・・・・そのとき、省公署の広い庭に一台の日本軍のトラックがエンジンの音を唸らせて入ってきた。荷台に武装した日本兵を30人ほど乗せていた。トラックは、庭を半分まわりながら爆撃された省公署の建物を確認して停まった。助手席から降り立ったのは、金の帯3本に星のついた襟章の少尉だった。
それは3カ月前に教育召集された藤田参事官だった。誰もが、あっと声を上げた。日本軍が来たと思ったら、参事官だったからだ。藤田はトラックを降りるなり、駆け寄った何人かの省職員の中から、ソヨルジャブを見つけ、ちょっと来いといって、建物に入り、階段を駆け上がった。いうまでもなく2階のエルヒム・バトウのいる省長室だった。モンゴル語も日本語も、ロシア語もしゃべれるソヨルジャブは、しばしば日本語のしゃべれないエルヒム・バトウや他のモンゴル人の通訳として使われていたのである。
省長は次長とともに正面に座っていた。藤田は軍靴を響かせて省長に近づき、居住まいを正して大きな声で言った。
「省長閣下にお伺いいたします。今朝未明、ソ連軍が侵攻してきました。北と西、そして南からも満ソ国境を突破、目下各地で、日本軍が抵抗しておりますが、ソ連の戦車隊はまもなくハイラル市内にも入ってくると思われます」
藤田参事官は、軍人口調で事実を報告し、これからの対策を省長に告げた。
「われわれ日本軍は、これから陣地に入って、ソ連軍に応戦します。ソ連軍のハイラル市内への侵入を一刻でも遅らせなければなりません。省公署の日本人職員は、まちの邦人を全員ハイラル駅から列車に乗せ、チチハルまで避難させてください。そのあと男の職員は日本軍の地下陣地に入るように。また、省長閣下は車を用意します。南の草原にお帰りください」
それだけ言って、藤田は再び音を立てて軍靴をそろえ、ちょっと声の調子を落として
「省長閣下、これが最後のお別れになるかもしれません。御達者で――」
と言うなり、踵を返し、部屋を出て階段を駆け下りた。通訳をしていたソヨルジャブもあわててついていく。
「おい、お前も故郷の草原に帰りなさい。これは日本とソ連との戦争なんだ。お前たちモンゴル人には関係ない。私は日本人だから死んでもいい。しかしお前はこれから先モンゴル人のために頑張るんだ」
藤田は、階段を降りながら若いソヨルジャブにそういった。高飛車だが愛情のこもった言い方だった。
広場に出た藤田は、振り返って省公署の建物を見た。3カ月前まで勤めていた省公署だ。が、すぐに広場に停めてあるトラックに急いだ。ソヨルジャブも急ぎ足で藤田に着いていく。 藤田が、トラックに乗り込もうとして、助手席のステップに足をかけたところで、彼はふと振り向いてソヨルジャブに言った。
「僕は、このまま前線に行く。西山陣地に入るつもりだ。家族には会わないでいくけれど、よろしく頼む」・・・
これがソヨルジャップが聞いた藤田の最後の言葉になったのです。
藤田の家族は4人いましたた。ハイラルの日本人の中でもとりわけ美人で評判の奥さんと、7歳を頭にかわいい3人の娘たちだったのです。しかしこの家族を見失ったソヨルジャップは数十年探すのです。
この話の続きは明日掲載したいと思います。
挿し絵代わりの写真として、ハイラルの風景写真をお送りします。写真の出典は、「ハイラルの風景写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)