後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

多数の側近が離反するトランプ大統領とアメリカ社会の混乱

2018年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
私は戦後に出来たばかりの新制中学校の二期目の入学者でした。そこではアメリカ社会の自由と平等を教わりました。個人の尊厳と人権の重要性を教わりました。
民主政治とはどのようなものかも教わりました。三権分立や政教分離も教わりました。
新制中学校には昭和23年から昭和26年までの3年間在学していました。たった3年間でしたが私の「ものの考え方」を決定してしまったのです。その理想の国に憧れて、大学を卒業してからアメリカに留学しました。費用は一切フルブライト制度などによってアメリカ側が出してくれたのです。
オハイオに住んでみると人々はみな親切で礼儀正しく、アメリカは想像通りの理想社会でした。
この若い時の経験から私はアメリカこそ世界一の国だと信じて来ました。
しかしトランプ大統領になってから私のアメリカ像が破壊されたような気分なのです。
第一に彼はアメリカ社会の良識を踏みにじり、社会を分断し、国際関係では平和的な協調主義を止めました。
アメリカ一国だけが良ければよいのです。自国の金銭的利益だけを優先した露骨な外交政策なのです。
その上、彼には人徳が無いのです。
側近や政府の高官が次々離反して去っていくのです。
少し古い情報ですが昨年の8月までトランプ大統領のもとを去って行った人々を下記に示します。

アメリカの 辞任・解任の一覧
https://blog.goo.ne.jp/hatokaku/e/3b8890e978ba6d9e3365588c8bc97844
米トランプ大統領周辺の辞任・解任〔×:解任、▲:辞任、○:任命〕
2016/11/18 辞任▲ クラッパー米国家情報長官が辞表(辞任は2017/01)
2017/01/20 解任× イエイツ司法長官代行を解任(僅か10日間の運命)
2015/02/10 辞任▲ タルーロFRB理事(64)が4月初めに辞任
2017/02/13 辞任▲ フリン大統領補佐官(国家安全保障)が辞任
2017/02/17 辞退△ ワーウォード退役中将にフリンの後任を断わられる
2017/03/08 辞任▲ ダニエル・ラッセル国務次官補(3年半東アジア担当)
2017/03/11 解任× バララNY連邦検事が解任される
2017/03/31 辞任▲ ケイティ・ウォルシュ次席補佐官が辞任
2017/04/06 解任× バノン首席戦略官をNSC常任委員から外した
2017/05/13 解任× コミーFBI長官を解任
2017/05/17 任命○ ミュラーを米司法省が特別検察官に任命
2017/05/18 辞任▲ マイク・ダブキ(47)米WH広報部長が辞表
2017/06/01 辞任▲ マスクが大統領助言委員会の委員を辞任
2017/07/19 辞任▲ ショーブ倫理局長辞任(2017/07/06発表)
2017/07/22 辞任▲ スパイサー報道官8月一杯で辞任

昨年8月から今年の8月までの辞任も上のリストの同じような人数です。大物では前のティラーソン国務長官が今年の4月に辞め、ポンテオ氏が後任になりました。
そして今年の秋にはホワイトハウス法律顧問、ドン・マギャン法律顧問が辞任するのです。
https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/bbcworldnewsjapan/world/bbcworldnewsjapan-45351736

これだけ側近や政府の高官が辞める原因は一言で言えばトランプ大統領に人徳が無いからです。
そしてこの事はアメリカ中の350社の新聞社を敵にしてしまったのです。
その詳細は次のこの欄の記事にあります。
『米国350以上の新聞社、社説で一斉にトランプ氏非難』(2018年08月21日、掲載記事)
この記事の冒頭部分だけを再び掲載します。
・・・トランプ大統領になってからアメリカの社会は揺れ動いています。社会の分断が起きているといいます。トランプ大統領一派のアメリカの利益だけを考える人々と国際社会の協調と平和的話合いを重視する人々に分断してしまったのです。
トランプ大統領は躊躇することなく地球環境の悪化を防ぐパリ協定から脱退しました。貿易のTPP協定から脱退しました。NATO加盟国のドイツ、フランス、ドイツなどへ軍事費の増加を要求しました。アメリカさえ良ければ国際社会が混乱してもよいという考えなのです。メキシコからの不法移民を防止するため高い壁を作ると主張します。移民の人権を無視して、不法移民の家族を引き離し送還しようとしました。
これらの政策は従来の良識的なアメリカの伝統を無残にも打ち砕いてしまったのです。
このトランプ大統領の独裁的な権力行使にアメリカの350以上の新聞社が社説でトランプ大統領を民主主義を踏みにじっていると非難したのです。
トランプ大統領は全米の350社の新聞社を敵に回したのです。
その上、Face Bookなどの大手の社会ネットワークサービス(SNS)などもニセ情報を流していると攻撃したのです。
このようにアメリカの大統領が全米の350以上の新聞社を攻撃し敵対することは歴史上初めてのことです。それは民主主義の根幹である言論の自由への攻撃なのです。
アメリカ社会は揺れ動いています。以下省略します。・・・

このように問題の多い大統領ですが2期8年の任期を全うする勢いです。
アメリカの大統領には大きな権力が制度上与えてあるからです。
大統領の選出には国民による直接選挙と、その結果に従って、各州に割り当てた人数の代表者による間接選挙が2年間にわたって慎重に実施されます。この2年間の丁寧な選挙で選ばれた大統領なので外交や軍事における独裁的な権限が与えられているのです。ですからトランプ大統領はこの権限を行使しているだけなのです。
アメリカは法治国家なのです。
安保体制の費用分担や日米貿易にも大きな問題が起きつつあります。それにしても困ったものです。

今日の挿し絵の写真は順々にフランスの自由の女神像、ニューヨークの自由の女神像、東京の自由の女神像、 青森県にある自由の女神像です。
自由の女神像は世界各国にあありますが、日本では東京、青森県おいらせ町、函館市、石巻市、郡山市、横浜市、武蔵野市などにあります。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










デパートの婦人服はもう秋の色

2018年08月30日 | 写真
まだまだ猛暑が続いています。しかし空を見上げると気温の低い高空には秋の雲が流れてます。
地上にも秋が来てる場所があるはずです。朝からいろいろ考えました。
そうです。デパートの婦人服売り場にはもう秋が来ている筈です。
午後から立川市の高島屋に行きました。
予想通り秋の色彩の綺麗な服が並んでいます。落ち着いた静かな色合いです。眺めていると心が静謐になり幸福感につつまれます。黒っぽい服が多く、もう晩秋を感じさせます。
家内は秋の花畑に飛び込むようにして消えてしまいました。
私はひかえ目にそっと幾枚かの写真を撮りました。
そんな写真をお送りいたします。









自由に花摘みの出来る花畑のある公園

2018年08月30日 | 写真
花の植えかえる時期に花々を自由に切って良い公園があります。
三鷹市「花と緑の広場」という,
住宅地の中の小さな公園です。
自由に切って良い期間は年に3、4回あります。
管理事務所に確認した上で申込書に記入するとハサミを貸してくれます。
何処の区画が切り取り自由か確かめて、その花畑に入って好きな花を切って下さい。
昨日はジニアとキバナコスモスでした。家内が花摘みしている時の写真と花々の写真をお送り致します。













日本のおもな洋画家80人の大作の合同美術展

2018年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
嗚呼、見ると大変疲れる展覧会です。
日本の有名な洋画家の、それぞれ作風がまったく違う力作が40点並んでいます。40点ずつを展示時期を2回に分けて合計80点展示しています。北海道から沖縄までの国立公園の風景が描かれています。
絵画に詳しくない私でも何人もの画家の名前は憶えています。その展示作品を見ると同じ画家の他の油彩画を思い出そうとします。そうしないと隣にある違う画家の絵画の前に移動できないのです。
私はまだ認知症になっていませんが老人性の度忘れが付きまといます。かたわらの家人が他の絵を思い出して教えてくれます。
昨日はこんな展覧会の後期の展示の40作を見て来ました。

『絵画で国立公園めぐり―巨匠が描いた日本の自然―』という展覧会です。
会場は小金井市立はけの森美術館です。
今回の企画展の会期は、
前期:8月4日(土曜)から8月26日(日曜)までと後期:8月28日(火曜)から9月17日(月曜・祝日)までです。
作品は大体同じ大きさで、縦横、65cmX 80cmの大作が2回に分けて40枚ずつ展示します。
それぞれの画家が本気て取り組んだ芸術性豊かな油彩画なのです。
すべて文部省関係者が選んだ昭和の有名な洋画家です。文部省の予算で実施したようです。
絵画一枚、一枚が当然ながら画風がまったく違うことです。
それではこの企画展の様子を写真で示します。

1番目の写真は会場の小金井市立はけの森美術館です。

2番目の写真は1934年、中村研一作の「大雪山」です。

3番目の写真は1956年、 中村琢二作、「妙高山」です。中村琢二は中村研一の弟です。

4番目の写真は1953年、鈴木信太郎作、「厳島」です。

5番目の写真は1953年、坂本繁二郎作、「黎明の根子岳」です。

6番目の写真は今回展示された80枚の油彩画の全てを所有、常設展示している「小杉放菴記念日光美術館」の内部の光景です。

7番目の写真は小杉放菴記念日光美術館の外部の光景です。

この小杉放菴記念日光美術館をここでご紹介する理由は、その展示品の数が多く内容が充実しているためです。日光市立の美術館で、日光出身の小杉放菴の日本画が多数あります。
この秋に日光に一泊して見に行くつもりです。
そして放菴の日本画の他に今回小金井市立はけの森美術館で展示された洋画も収蔵、展示されています。その主な絵画を以下に示します。

北海道から沖縄までの国立公園の絵画;
0102-NPAoJ01
中根寛
サロベツ原野より利尻礼文を望む
1977(昭和52)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm

0102-NPAoJ05
辻永
双湖台より見たるペンケ・パンケ
1932(昭和7)年
油彩・カンヴァス
60.6×80.3cm
阿寒国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ08
中村研一
大雪山
1934(昭和9)年頃
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
大雪山国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ13
林武
十和田湖
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
十和田八幡平国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ14
北川民次
八幡平
1957(昭和32)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
十和田八幡平国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ15
向井潤吉
浄土ガ浜
1957(昭和32)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
三陸復興国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ20
猪熊弦一郎
塩原の渓流
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
日光国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ23
中村善策
尾瀬沼
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
尾瀬国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ25
児島善三郎
発哺よりの展望
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
上信越高原国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ26
小山敬三
浅間山
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
上信越高原国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ27
中村琢二
妙高山
1956(昭和31)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
上信越高原国立公園
平成24年度/寄贈


0102-NPAoJ30
中川紀元
梓山
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
秩父多摩甲斐国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ31
三栖右嗣
小笠原父島から南島・母島を望む
1977(昭和52)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
小笠原国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ34
和田英作
三保富士
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
富士箱根伊豆国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ37
山下新太郎
黒部峡谷鐘釣附近
1932(昭和7)年
油彩・カンヴァス
80.3×65.2cm
中部山岳国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ38
中澤弘光
上高地大正池
1932(昭和7)年
油彩・カンヴァス
60.6×80.3cm
中部山岳国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ39
和田三造
中部山岳
1932(昭和7)年頃
油彩・カンヴァス
60.6×72.7cm
中部山岳国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ43
小磯良平
伊勢神宮
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
80.3×65.2cm
伊勢志摩国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ48
刑部人
鳥取砂丘
1970(昭和45)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
山陰海岸国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ50
牛島憲之
日御碕
1964(昭和39)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
大山隠岐国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ53
鍋井克之
新和歌ノ浦
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ54
野間仁根
摩耶山からの展望
1956(昭和31)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ55
田村孝之介
淡路島
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ56
小絲源太郎
鳴門
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈


0102-NPAoJ58
藤島武二
屋島よりの展望
1932(昭和7)年頃
油彩・カンヴァス
53.0×72.7cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ60
高畠達四郎
琴平宮
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ61
梅原龍三郎
朝の仙酔島
1932(昭和7)年頃
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ62
鈴木信太郎
厳島
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ63
須田国太郎
春の来島海峡
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ64
海老原喜之助
大華山
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ65
宮本三郎
姫島
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
瀬戸内海国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ68
小林和作
由布岳
1956(昭和31)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
阿蘇くじゅう国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ69
田崎廣助
久住山
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
阿蘇くじゅう国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ71
坂本繁二郎
暁明の根子岳
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
60.6×72.7cm
阿蘇くじゅう国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ72
石井柏亭
雲仙・春
1934(昭和9)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
雲仙天草国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ73
野口彌太郎
雲仙・夏
1953(昭和28)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
雲仙天草国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ74
三岸節子
天草
1956(昭和31)年
油彩・カンヴァス
80.3×65.2cm
雲仙天草国立公園
平成24年度/寄贈

0102-NPAoJ76
有島生馬
霧島連山遠望
1931(昭和6)年
油彩・カンヴァス
65.2×80.3cm
霧島錦江湾国立公園
平成24年度/寄贈

少し長くなりましたが結論を書きます。
この『絵画で国立公園めぐり―巨匠が描いた日本の自然―』という展覧会は日本の洋画の愛好家にとっては是非見るべき展覧会と信じています。巡回とあるので全国各地に行くようです。
見逃したら日光の小杉放菴記念日光美術館で展示を確認した上でご覧になると良いと思います。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


東日本大震災を支援した台湾、韓国、中国、アメリカ、その他の国々を忘れない!

2018年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
なかなか実行出来ないことですが、懸情流水 受恩刻石という教えがあります。
「 情を懸けしは、水に流し、恩を受けしは、石に刻むべし」と読むそうです。短縮して刻石流水の四文字熟語もよく使われているようです。
そこで今日は「恩を受けしは、石に刻むべし」の教えに従って東日本大震災を支援した国々の恩を石に刻むような思いでもう一度お送りいたします。
あれからもう7年の月日が流れたのです。まず写真をご覧下さい。

1番目の写真は来日した台湾南部の泰武村の子どもたちが伝統舞踊を披露し、津波被害の大きかった岩手県山田町の子供達を励ました時の写真です。2012年2月28日、岩手県山田町で撮影した写真です。
台湾の支援は迅速で支援内容も実に充実していました。支援金額も最高レベルで日本人に感銘を与えたものです。

2番目の写真は台湾政府からの緊急援助物資の写真です。
馬英九総統は3月11日当日に「日本側の要請を受けたら、すぐに救援隊を出動したい」と語り、緊急救援隊を翌日3月12日に世界のどこよりも早く派遣してくれたのです。
物資支援として、3月14日~6月6日の間に発電機801台、毛布8735箱、寝袋3487箱、スリーピングマット236箱、衣類(防寒具、レインコート、手袋、マフラーを含む)6866箱、食品(クッキー、ポップコーン、米、缶詰等を含む)16.5㌧+18941箱などなどを送ってくれたのです。
日本側では北海道、青森県、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県、東京都、新潟県、埼玉県、山梨県の災害対策本部、被災地、避難所等に至急送ったのです。

3番目の写真は港に散乱する漁網を日本人とともに片づけている米軍兵士です。
2011年3月12日以後の新聞にはアメリカ軍の大規模で、多岐にわたる救援活動が毎日のように報道されていました。この作業をアメリカ軍は「ともだち作戦」という名前をつけて大規模に展開したのです。

4番目の写真は倒れて通行の邪魔になっている立ち木を切り、取り除いている兵士の写真です。
これらアメリカの兵士は全て「ともだち作戦」に参加した兵士です。
アメリカ軍の支援は沖に停泊した航空母艦からの多量の救援物資のヘリによるピストン輸送でした。
単に物量を誇るだけではなく被災者の心に寄り添うものでした。
3番目と4番目の写真に示すように兵士は被災地の後片付けのために泥にまみれたのです。
そして港が津波で破壊された離島には上陸用舟艇で緊急上陸して食料を運び、後片付けに汗を流したのです。あるアメリカ海軍の小型艦艇は壊れていない港に接岸して船内のシャワーと風呂を泥まみれの被災者へ提供したのです。これは津波で家が流された被災者に非常に感謝されました。

この他に2011年4月1日の読売新聞一面には、「日米、不明者を一斉捜索」と題した記事が出ています。米海軍と海上自衛隊と海上保安庁の艦艇が一斉に三陸沖、仙台湾、福島沖に展開し海上に流れ出た生存者や遺体の発見に努力したのです。
特に三陸沖にある空母・ロナルド・レーガンからはヘリ20機を飛ばして海上の捜索に当たるのです。艦艇は15隻ていどが展開し、捜索にあたったのです。

5番目の写真は韓国の街に大震災直後にかかげられた横断幕の写真です。
「日本の痛みを一緒にわかち合いましょう」と書いてあります。韓国語でも大きく書いてあり、道行く韓国人は日本人のために祈ってくれたのです。
尚この写真は数日前にも掲載しましたが、日本の新聞には出なかったので何度でもこの欄に掲載します。私が認知症になって最近同じ写真を掲載したことを忘れた訳ではありません。石に刻むためです。

6番目の写真はキリスト教の信者達が日本への義援金や支援物資を荷作りしている光景です。皆が黒服を犠牲者のために祈りながら作業をしているのかも知れません。
この写真も数日前に掲載しましたが、日本の新聞には出なかったので何度でもこの欄に掲載します。

7番目の写真は中国の温家宝首相が大震災後に原発の爆発のあった福島県を訪問した時の写真です。農協の野菜の販売所で放射能の恐怖をものともせずサクランボ、ミニトマトを食べるパフォーマンスをした時の写真です。
この写真も日本の新聞には出なかったので中国の新聞から転載しました。何度でもこの欄に掲載します。石に刻むためです。
一方、中国の胡錦濤国家主席は「犠牲者の方々に深い哀悼の意を表し、一日も早い復興をお祈り致します」との電報を今上天皇に宛てに送りました。
中国地震局は大震災の翌日、3月12日夜、日本の被災者に、人道援助を提供するため国際救援隊15人を13日朝に派遣すると発表し、国営新華社通信は「四川大地震で日本から支援を受けた恩に報いたい」という論評記事を配信します。
中国赤十字会は同日、日本赤十字社に100万元(約1260万円)を緊急援助し、必要に応じた人道援助をすることを決定したのです。

日本の新聞は台湾から援助については詳しく何度も報道しました。
それから日米安保条約のあるアメリカ軍の「ともだち作戦」については連日詳しく報道したのです。
しかし隣の韓国や中国からの支援の詳細はほとんど報道されなかったのです。

日本のマスコミは公平さが非常に欠落しているのです。
台湾、アメリカ、西ヨーロッパの国々のニュースは重要視し大きく報道しますが韓国と中国に関しては日本に対して悪いニュースだけを報道し、良いニュースは全く報道しない傾向があるのです。
何故でしょうか?その理由の考察は別稿でします。
今日はこれで止めて下の参考資料に東日本大震災の復旧を支援した世界の191ケ国、34地域のことを書いておきます。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料==================
「東日本大震災の復旧を支援した世界の191ケ国、34地域を忘れない!」

人間は他人への恨みは忘れいが、他人から受けた恩は忘れると言います。

今年で東日本大震災が起きてから丁度7年になります。
あの時、世界中の国々や地域から日本は大きな支援を受けました。直接、被害を受けなかった日本人もあまりの悲惨な津波の被害と福島原発の爆発に呆然とし、悲しみに打ちひしがれていました。そんな時に世界中から暖かい激励と救助の支援を受けたのです。
私自身も勇気づけられました。希望の光が見えて来ました。
被災地に来て復旧作業をするボランティアたちに頭が下がりました。この恩は絶対に忘れないと決心もしました。
もう7年にもなるのですね。
そこでインターネットを検索して東日本大震災で打ちひしがれた日本を支援してくれた世界の191ケ国、34地域のことを調べました。
あまりにも膨大な資料がありました。そこでそのほんの一部の抜粋を以下に示します。
(1)「東日本大震災に対する日本国外の対応」
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%AF%BE%E5%BF%9C )
ここでは、東日本大震災に対する日本国外の対応について記述してあります。
日本に対し、2011年5月2日の時点で、国連に加盟する191ヶ国の国、および幾つかの国や地域、約43の国際機関等からの支援の申し入れや見舞いの言葉があったのです。
そこで参議院では、4月15日に「東日本大震災に対する国際的支援に感謝する決議」が全会一致で可決しました。
例えば、中華人民共和国の温家宝首相は「中国政府を代表して日本政府と日本国民に対しお見舞いを申し上げる」という電報を菅直人総理に送るとともに、必要な援助を提供する意思があることを表明しました。
また、胡錦濤国家主席は「犠牲者の方々に深い哀悼の意を表し、一日も早い復興をお祈り致します」との電報を今上天皇に宛てに送ったのです。
中国地震局は3月12日夜、日本の被災者に、人道援助を提供するため国際救援隊15人を同月13日朝に派遣すると発表しました。
国営新華社通信は「四川大地震で日本から支援を受けた恩に報いたい」という論評記事を配信しました。
中国赤十字会は同日、日本赤十字社に100万元(約1260万円)を緊急援助し、必要に応じた人道援助をすることを決定しました。
一般市民の間でも支援の声は高まり、北京の大学生や会社員ら、有志の若者が仲間に義援金を呼び掛け、既に約5000元が集まったのです。同日午後、中国国際援助隊は生存者の捜索に必要な設備や救急医療物資など4トンの物資を携行し、羽田空港に到着します。
中国政府商務部は14日、毛布2000枚、テント900張、手提げ式応急灯200個などといった3000万元(約3億7500万円)相当の援助物資追加支援を決定し、初回分は14日、上海から空輸され、宮城県登米市に提供されたのです。第二陣は28日にミネラルウォーター6万本やゴム手袋325万組がそれぞれ茨城県、日本赤十字社に提供され、第三陣は31日にゴム手袋1万組、仮設トイレ60個、スニーカー2万5000足が提供されたのです。
さらに別枠で、3月16日、中国政府は日本政府の要請に応じてガソリンと軽油各1万トンを日本政府に対して提供することを決定、それぞれ4月2日、3日に日本に到着、被災地に送られました。
また新聞は「過去の遺恨による民族主義は天災や人道とは関係ない」とし、四川大地震の際に日本が援助したことを受け「民族の感情を超越した人道主義」と評し「必要なのは学ぶことと助け合うこと」と伝えたのです。
3月19日、東京電力は中国外務省を通じて中国の三一重工業集団有限公司に高さ62メートルから放水できるポンプ車の購入を打診すると、三一重工が無償での提供を申し出ます。
この巨大なポンプ車は1台約8500万円で、運搬にかかる費用を含めた約1億円を同社が提供し、24日に日本到着後、陸路で福島に向かい、31日より福島第一原子力発電所の原子炉冷却作業を開始します。
4月1日、中国政府はガソリン1万トン及びディーゼル油1万トンを緊急支援物資として被災地に提供しました。
そしてその後、温家宝首相は東北の被災地をつぶさに訪問し、直接、被災者を励ましたのです。
上記で中国の支援をご紹介したのは以前に韓国と台湾の支援を詳しくご紹介したので、その続きです。
ついでにタイの支援をご紹介いたします。
タイのプミポン国王夫妻は3月12日に、「地震と津波で甚大な被害が出たことを深く悲しんでいる。両陛下と全ての日本国民に心からの弔意を表す」と弔意を表する書簡を送って来ました。
アピシット・ウェーチャチーワ首相は、国民向けテレビ番組で「日本は長年にわたる開発のパートナーであり、重要な友好国」と述べ、支援する姿勢を明確にしたのです。
また、毛布や食料など救援物資のために2億バーツ相当の予算を組む予定だと明かします。
同月13日にはレスキュー隊員と捜索救助犬の派遣を決め、日本の大学を卒業した医師35人の派遣も検討します。
タイ政府は義援金の送付をすでに決め、国民からの援助物資の受付や義捐金を受け付ける銀行口座を設置します。
3月25日までに政府より500万バーツ、国王夫妻より500万バーツが日本赤十字社に寄付された他、支援物資としてワチラーロンコーン皇太子より毛布2万枚、パチャラキティヤパー王女より救助袋15,550セット、寝袋1000式、缶詰9000缶、タイ政府・国民から即席麺2万4000個、缶詰1万9200個、飲料水1万5000本、懐中電灯400個を贈って来ました。
タイ政府は5月9日にも日本語が話せる医療支援チームの派遣を予定しており、被災者、特に小児に対する感染症防御のための支援活動を予定していると発表したのです。
以上はアジアの2ケ国の中国とタイの例ですが、その他の世界各国の支援の状況は以下のように掲載されています。
(1)「東日本大震災に対するアジア諸国の対応 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/東日本大震災に対するアジア諸国の対応
... 東日本大震災に対する日本国外の対応 > 東日本大震災に対するアジア諸国の対応. 東日本大震災に対するアジア諸国の対応(ひがしにほんだいしんさいにたいするアジアしょこくのたいおう)では、東日本大震災に対するアジア諸国の対応について記述する。
‎東アジア - ‎東南アジア - ‎中央アジア - ‎西アジア
(2)「東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応
東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応(ひがしにほんだいしんさいにたいするヨーロッパしょこくのたいおう)では、東日本大震災に対するヨーロッパ諸国の対応について記述する。 ..... トルコ:東日本大震災に対するアジア諸国の対応#西アジアを参照。
(3)「東日本大震災に対する北アメリカの対応 - Wikipedia」
https://ja.wikipedia.org/wiki/東日本大震災に対する北アメリカの対応
メジャーリーグベースボール (MLB) およびメジャーリーグベースボール選手会 (MLBPA) が併せて50万ドルを、日本の地震と津波の被害に対する義捐金として国際連合児童基金 (UNICEF) に寄付すると発表した。また、MLBの「Japan Relief」特設ページで寄付 ...
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これらの資料を見て、私は胸が熱くなります。
こんなに世界中の国々が日本を助けようと支援したのです。
日本は間違いなく国際社会の一員なのです。そして日本は世界中の国から大切に思われ愛されているのです。
有り難くて、有り難くて頭が自然に下がります。

日本軍のスパイだった江沢民の父、それへの近習平の対応

2018年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム
江沢民は中国共産党の歴史的な汚点でした。実父の江世俊が日本軍の支援で出来た汪兆銘、南京政府のスパイ部門の高官だったのです。つまり漢奸の息子だったのです。共産党に入党する資格など無かったのです。
それが鄧小平の後の共産党総書記になり、常軌を逸した数々の反日政策を実施したのです。
この反日政策については2018年08月22日に掲載した『今年は日中平和条約40周年(3)江沢民の反日政策と中国の高度成長』に詳しく書いてあります。

今日は江沢民の実父の江世俊が日本軍側に協力した事実とそれを明るみし、投獄された呂加平を近習平が2016年に釈放した事実を説明いたします。
この事は習近平の中国と日本との関係の将来を考える上で一つの重要な足掛かりになるのです。
話は1940前後の上海から最近の習近平まで関係する複雑な話なので、分かり易く個条書きにします。

(1)日本軍は上海にスパイ・謀略組織を作った。
この組織は上海のジェスフィールド路76号という地名にあったことから、ジェスフィールド機関と呼ばれていました。
土肥原機関や梅機関に属していた特務機関で、親日派中国人により構成されていました。江沢民の実父の江世俊もこの機関に関係していたと考えられます。

(2)1940年に日本軍の支援で出来た汪兆銘、南京政府はこのジェスフィールド機関をそのまま引き受け、南京政府の務特機関とします。江沢民の実父の江世俊はこの特務機関の高官でした。

1番目の写真は南京政府主席の汪兆銘が自分の軍隊を閲兵している場面です。
この南京政府は1945年の日本の敗戦とともに消滅し、政府の要人や高官は漢奸として処刑されます。汪兆銘は日本に逃れ名古屋ですぐに病死しました。
南京政府は日本側へ協力し、日本軍の武力を背景にして重慶の蒋介石政権に対抗したのです。

(3)江沢民の実父が日本軍側に協力した事実を公表した者は中国政府によって皆投獄された。
江沢民が上海閥として頭角を表すようになると彼の実父のことを公表する者も出て来たのです。
しかし江沢民の実力を買っていた鄧小平はその情報を無視します。そして江沢民の秘密を暴露した者はみな官憲によって逮捕、監禁されたのです。

(4)江沢民に引き上げらた胡錦濤も江沢民の実父のことは「臭いものに蓋をする」をしたのです。恩義のある江沢民の弱点を暴くことが出来なかったのです。

(5)現在の国家主席の近習平は江沢民には何の恩義もありません。その上、江沢民の残存勢力を現在の政権中枢から排除したいのです。
ですから近習平は投獄されていた呂加平を2016年に釈放したのです。
軍隊を完全に掌握した近習平は政権運営に自信が出来たのです。

(6)江沢民の実父が日本軍側に協力した事実は中国共産党の正史には書かれないでしょう。それは単なる噂として次第に忘れられる運命にあります。

以上の経緯から近習平は世界の大国になった中国の運営に自信を持ち、今後は「一帯一路」のようなグローバルな政策に力を入れると考えられます。
日本をアメリカからなるべく引き離し、中国のグローバルな政策へ協力させるのが中国にとって得策なのです。
最近、ゆっくりながら確実に進行している日中友好の動きは今後10年位は続くでしょう。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料========================
「一帯一路提唱5周年 習近平氏が新国際秩序作りを強調」2018.8.27
https://www.sankei.com/world/news/180827/wor1808270020-n1.html

【北京=藤本欣也】中国の習近平国家主席が現代版シルクロード経済圏構想として「一帯一路」を提唱してから5年になるのを記念し、北京の人民大会堂で27日、「一帯一路推進5周年座談会」が催された。
 習氏は重要講話を発表し、一帯一路について「世界の統治システムを改革するために新たな構想とプランを提供したものだ」と意義を強調、中国主導による新たな国際秩序作りに改めて意欲を示した。
 一帯一路をめぐっては、習氏が2013年9月7日、カザフスタンで「シルクロード経済ベルト(一帯)」の共同建設構想を発表。10月には、インドネシアで「21世紀の海上シルクロード(一路)」の共同建設を提唱した。以後、統合されて一帯一路と呼ばれるが、最近は“脱シルクロード化”が進み、中国はオセアニアや中南米地域などからも参加国を募り、巨大経済圏の構築を目指している。

理稀ちゃんを救出した尾畠 春夫さんのことをもう一度考えよう

2018年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
猛暑の今年、8月の中旬に山口県で2歳の藤本理稀(よしき)ちゃんが行方不明になりました。その3日後に大分県から駆け付けたボランティアの78歳の尾畠 春夫さんが山の中で元気にしているを発見し、抱いて連れ帰り、母親へ手渡したのです。
それ以来、私は尾畠 春夫さんとはどういう人間なのか考えています。
そこでまず彼のボランティアに対する想いを皆様と一緒に読んでみたいと思います。
文章の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/尾畠春夫 です。

・・・軽ワゴン車に食料や水、寝袋などの生活用具を積み込み、助ける相手側に迷惑をかけないのが信条。「自己完結するのが真のボランティアだ」と言う。
「対価、物品、飲食、これは絶対、頂かない。敷居をまたいで家の中に入ることもボランティアとして失格だと思っている。私はそれで良いと思うんですよ。人がどうしようと関係ない。尾畠春夫は自分なりのやり方がある。」
私は被災地に行ったら「暑い」とは絶対に言わない。もし自分が被災者であったならば、どう思うのか。ボランティアさせていただいているという立場を忘れてはいけません。当然ですが、言動すべてに気をつける必要があります。赤い服を着ているのもこだわりです。背中には名前が大きく書いてあります。これには理由があり、被災している方は身元がわかるほうが安心するんです。さらによく話すこと。黙っていると怖いでしょう。赤い服もそうですが、すべては安心感をもってもらうためです。」

私の生き方について、
ボランティアを本格的に始めたのは、大分県別府市にあった店を閉めた65歳のころ。「学歴も何もない自分がここまでやってこられた。社会に恩返しがしたい」と思ったから」と、全国各地で車中泊しながら、ボランティア活動を行ってきた。
「人に、世の中に、恩返ししたい」が口癖。
「『かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め』。人の命は地球より重い」

活動費は自分の年金から捻出。
「東日本大震災のボランティア活動で、酒をやめました。それまで自分は浴びるほど飲むタイプでした。南三陸の避難所のベイサイドアリーナには1800人もの避難者がいた。ぎゅうぎゅう詰めで身動きできない。にもかかわらず、誰も文句を言わない。同じ日本人でありながらこんな思いをしている人がいるんだと思った。酒なんか食らっている場合ではないと思ったんです。それから7年5ヵ月一滴も飲んでいません。ただ、酒を断ったわけではありません。中断しているだけです。解禁するときは東北3県の仮設住宅がすべて取り除かれたときと決めています。」

「孫が突然うちに来た。当時、孫は高校生でしたが、真剣な顔で『話があるんだ。じいちゃん、タバコをやめろ』と言うんです。65歳を過ぎると体力が急激に落ちるから絶対にやめろって。自分はヘビースモーカーで、ピースを2箱吸っていました。これはうれしかった。孫の言うことは天の声だと思い、その場ですべて燃やしました。ちなみに、この孫は登山をしています。私の影響だそうです。これ以上うれしいことはないですよ。」
78歳時点での将来の夢は「夜間の高校に行って勉強したい」。

2018年8月の理稀ちゃんの捜索について、
「人の命より重いものはない。尊い命が助かってよかった」と涙を浮かべた。
行方不明になった子供を探していた家族に対し「私が抱きしめて直にお渡しします」と約束していた。無事に発見された後の取材では「口約束も契約。警察が『渡してください』と来たけど、『イヤです』と言った。言うたことは守る。」と話した。
その後のマスコミの取材にこう答えた。「私は子どもを産んだ覚えはないけど、女の人じゃないけど。だけど、十月十日おなかに入れて命がけで産んでおっぱい飲ませた子どもを、3日、4日って行方不明になっていたら、お母さんは正常ではないと思うんです。だから私はお母さんに『必ず見つけたら、必ず手渡しで渡す』って約束したからね。だから警察官が、法律みたいなのがあって『決まりだから渡してください』って言ったけど、だめですと言った。約束は守らないけんと思ったから、それを守らせてもらったんです。」・・・・

私の感想です。
尾畠 春夫さんは宗教の話を一切しません。しかし法華経の利他行を実践する菩薩です。
尾畠 春夫さんはキリスト教の話を一切しません。隣人愛の話もしません。
宗教など一切関係ないようです。人間が生まれながらに持っているボランティア精神を実行したのです。宗教の無力さを考えざるを得ません。そんな感じを受けています。
皆様のご感想をコメントとして頂けたら嬉しく思います。

写真に尾畠 春夫さんと藤本理稀ちゃんを示します。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




====参考資料===========================
尾畠 春夫(おばた はるお、1939年 - )は、大分県速見郡日出町在住のボランティア活動家。元鮮魚商。2012年、大分県「ごみゼロおおいた作戦功労賞」、2014年、環境省「平成26年度地域環境美化功績者表彰」受賞。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/尾畠春夫 より)
大分県の貧しい家庭に生まれ、小学生の時から近所の農家に奉公に出た。28歳のとき、別府市内に鮮魚店「魚春」を開業。40歳から趣味で登山をはじめ、45歳の時に北アルプス55山を単独縦走。2003年、60歳頃からは、ホームグラウンドとしていた由布岳登山道の整備などのボランティアを開始。65歳からは本業だった鮮魚店をやめ、余生をボランティアに捧げる。新潟県中越地震、東日本大震災、熊本地震、西日本豪雨などの多くの被災地で活動を継続。2011年3月、東日本大震災被災地の宮城県南三陸町では、がれきの中に埋もれた思い出の写真などを拾い集める「思い出探し隊」の隊長として活動。若いボランティアから「師匠」と慕われていた。2012年、大分県から「ごみゼロおおいた作戦功労賞」、2014年には、環境省「平成26年度地域環境美化功績者表彰」を受賞している。2018年8月15日に山口県周防大島町で行方不明の2才児を救出。2018年8月20日には、大分県知事・広瀬勝貞が尾畠の長年の功績を讃え、大分県功労者表彰を授与する意向を示しており、22日には在住する日出町も「日出町功労者表彰」を贈る方針を明らかにしている。

理稀ちゃんを救出した尾畠 春夫さんのことをもう一度考えよう

2018年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
猛暑の今年、8月の中旬に山口県で2歳の藤本理稀(よしき)ちゃんが行方不明になりました。その3日後に大分県から駆け付けたボランティアの78歳の尾畠 春夫さんが山の中で元気にしているを発見し、抱いて連れ帰り、母親へ手渡したのです。
それ以来、私は尾畠 春夫さんとはどういう人間なのか考えています。
そこでまず彼のボランティアに対する想いを皆様と一緒に読んでみたいと思います。
文章の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/尾畠春夫 です。

・・・軽ワゴン車に食料や水、寝袋などの生活用具を積み込み、助ける相手側に迷惑をかけないのが信条。「自己完結するのが真のボランティアだ」と言う。
「対価、物品、飲食、これは絶対、頂かない。敷居をまたいで家の中に入ることもボランティアとして失格だと思っている。私はそれで良いと思うんですよ。人がどうしようと関係ない。尾畠春夫は自分なりのやり方がある。」
私は被災地に行ったら「暑い」とは絶対に言わない。もし自分が被災者であったならば、どう思うのか。ボランティアさせていただいているという立場を忘れてはいけません。当然ですが、言動すべてに気をつける必要があります。赤い服を着ているのもこだわりです。背中には名前が大きく書いてあります。これには理由があり、被災している方は身元がわかるほうが安心するんです。さらによく話すこと。黙っていると怖いでしょう。赤い服もそうですが、すべては安心感をもってもらうためです。」

私の生き方について、
ボランティアを本格的に始めたのは、大分県別府市にあった店を閉めた65歳のころ。「学歴も何もない自分がここまでやってこられた。社会に恩返しがしたい」と思ったから」と、全国各地で車中泊しながら、ボランティア活動を行ってきた。
「人に、世の中に、恩返ししたい」が口癖。
「『かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め』。人の命は地球より重い」

活動費は自分の年金から捻出。
「東日本大震災のボランティア活動で、酒をやめました。それまで自分は浴びるほど飲むタイプでした。南三陸の避難所のベイサイドアリーナには1800人もの避難者がいた。ぎゅうぎゅう詰めで身動きできない。にもかかわらず、誰も文句を言わない。同じ日本人でありながらこんな思いをしている人がいるんだと思った。酒なんか食らっている場合ではないと思ったんです。それから7年5ヵ月一滴も飲んでいません。ただ、酒を断ったわけではありません。中断しているだけです。解禁するときは東北3県の仮設住宅がすべて取り除かれたときと決めています。」

「孫が突然うちに来た。当時、孫は高校生でしたが、真剣な顔で『話があるんだ。じいちゃん、タバコをやめろ』と言うんです。65歳を過ぎると体力が急激に落ちるから絶対にやめろって。自分はヘビースモーカーで、ピースを2箱吸っていました。これはうれしかった。孫の言うことは天の声だと思い、その場ですべて燃やしました。ちなみに、この孫は登山をしています。私の影響だそうです。これ以上うれしいことはないですよ。」
78歳時点での将来の夢は「夜間の高校に行って勉強したい」。

2018年8月の理稀ちゃんの捜索について、
「人の命より重いものはない。尊い命が助かってよかった」と涙を浮かべた。
行方不明になった子供を探していた家族に対し「私が抱きしめて直にお渡しします」と約束していた。無事に発見された後の取材では「口約束も契約。警察が『渡してください』と来たけど、『イヤです』と言った。言うたことは守る。」と話した。
その後のマスコミの取材にこう答えた。「私は子どもを産んだ覚えはないけど、女の人じゃないけど。だけど、十月十日おなかに入れて命がけで産んでおっぱい飲ませた子どもを、3日、4日って行方不明になっていたら、お母さんは正常ではないと思うんです。だから私はお母さんに『必ず見つけたら、必ず手渡しで渡す』って約束したからね。だから警察官が、法律みたいなのがあって『決まりだから渡してください』って言ったけど、だめですと言った。約束は守らないけんと思ったから、それを守らせてもらったんです。」・・・・

私の感想です。
尾畠 春夫さんは宗教の話を一切しません。しかし法華経の利他行を実践する菩薩です。
尾畠 春夫さんはキリスト教の話を一切しません。隣人愛の話もしません。
宗教など一切関係ないようです。人間が生まれながらに持っているボランティア精神を実行したのです。宗教の無力さを考えざるを得ません。そんな感じを受けています。
皆様のご感想をコメントとして頂けたら嬉しく思います。

写真に尾畠 春夫さんと藤本理稀ちゃんを示します。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




====参考資料===========================
尾畠 春夫(おばた はるお、1939年 - )は、大分県速見郡日出町在住のボランティア活動家。元鮮魚商。2012年、大分県「ごみゼロおおいた作戦功労賞」、2014年、環境省「平成26年度地域環境美化功績者表彰」受賞。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/尾畠春夫 より)
大分県の貧しい家庭に生まれ、小学生の時から近所の農家に奉公に出た。28歳のとき、別府市内に鮮魚店「魚春」を開業。40歳から趣味で登山をはじめ、45歳の時に北アルプス55山を単独縦走。2003年、60歳頃からは、ホームグラウンドとしていた由布岳登山道の整備などのボランティアを開始。65歳からは本業だった鮮魚店をやめ、余生をボランティアに捧げる。新潟県中越地震、東日本大震災、熊本地震、西日本豪雨などの多くの被災地で活動を継続。2011年3月、東日本大震災被災地の宮城県南三陸町では、がれきの中に埋もれた思い出の写真などを拾い集める「思い出探し隊」の隊長として活動。若いボランティアから「師匠」と慕われていた。2012年、大分県から「ごみゼロおおいた作戦功労賞」、2014年には、環境省「平成26年度地域環境美化功績者表彰」を受賞している。2018年8月15日に山口県周防大島町で行方不明の2才児を救出。2018年8月20日には、大分県知事・広瀬勝貞が尾畠の長年の功績を讃え、大分県功労者表彰を授与する意向を示しており、22日には在住する日出町も「日出町功労者表彰」を贈る方針を明らかにしている。

絵画で国立公園めぐり―巨匠が描いた日本の自然―

2018年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム
いや驚きました。国立公園の絵葉書のような絵が並んでいる展覧会と思って行ったらそうではなかったのです。
縦横、65cmX 80cmの大作が40枚も展示してあったのです。それもそれぞれの画家が本気て取り組んだ芸術性豊かな油彩画なのです。文部省の予算で頼まれた絵画です。嗚呼、芸術家は絵葉書のような絵画は死んでも描かないのです。
結論を先に書けば「見るべし!」です。前期、後記の両方の展示合計80点の絵画が見られます。足の悪い人はエレベーターで2階に上がれます。中村研一の風景画が沢山展示してありました。
しかし困ったことは絵画一枚、一枚が当然ながら画風がまったく違うことです。見て行くと疲れるのです。
それでも一枚、一枚がそれぞれ感動的なのです。
以下にこの美術館の紹介と展示絵画や中村研一の絵の説明をお送りします。
私共の住んでいる東京都小金井市には小さな市立美術館があります。「はけの森美術館」と言います。
小金井に住んでいた画家、中村研一のアトリエと住居を2004年に小金井市が寄付されて開設された美術館です。
何時もは中村研一の作品を常設展示していますが、数多くの企画展も開催しています。
今回は以下のような企画展をしていたのです。

「小杉放菴記念日光美術館所蔵 絵画で国立公園めぐり―巨匠が描いた日本の自然―」
この企画の概要は次のようなものです。
アメリカ合衆国で生まれた国立公園の真似をして、日本でも昭和初期に国立公園が出来ました。その公園を絵画で紹介する「国立公園洋画展覧会」が企画されたのです。
当時の有名な洋画家たちに絵画を頼み、26点が完成します。
1932(昭和7)年に東京や大阪などでその展覧会が開催され、大好評を博したそうです。
その後、絵画も随時追加制作され、最終的には80点のコレクションとなります。
 今回の展示は国立公園の絵画コレクションのある小杉放菴記念日光美術館の絵画を展覧するものです。
巡回館のうち関東地域では小金井市立はけの森美術館のみでの開催となり、全80点を前・後期に分けて紹介します。
 また、併せて二階展示室では当館所蔵作品から、小金井での日常の光景を出発して、日本各地を描いた中村研一の旅の様子を展示します。
今回の企画展の会期、
平成30年8月4日(土曜)から9月17日(月曜・祝日)
前期:8月4日(土曜)から8月26日(日曜)。後期:8月28日(火曜)から9月17日(月曜・祝日)※会期中、作品の入れ替えを行います

尚、中村研一は東京美術学校卒の画家で1895年に生まれ 1967年(昭和42年)まで活躍しました。
1920年、東京美術学校を卒業し、同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞を受賞します。1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となったのです。
1923年、パリに留学します。ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けています。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞し、1929年、『若き日』が第10回帝展で特選を連続受賞します。そして、1930年、『弟妹集う』が第11回帝展で帝国美術院賞を受賞したのです。
絵の才能に恵まれた一流の洋画家だったのです。

1番目の写真は今回の企画展で前期展示の中村研一《大雪山》1934年です。小杉放菴記念日光美術館 所蔵です。

2番目の写真は今回の企画展で後期展示予定の、石井柏亭《雲仙・春》 1934年です。小杉放菴記念日光美術館所蔵です。

3番目の写真は前期展示の、和田英作《三保富士》1953年です。小杉放菴記念日光美術館所蔵です。

4番目の写真は、中村研一「車を停む」1932年、北九州市立美術館、です。

5番目の写真は、中村研一《弟妹集う》1930年 住友クラブ蔵、です。
 
6番目の写真は我が家にある中村研一須磨の浦の風景画で、40cmX50cmです。裏に日動画廊から購入したことが書いてあります。

7番目の写真も我が家にある中村研一の秋海棠の絵です。20cmX25cmの大きさです。これも日動画廊から購入したものです。

北海道の孤高の画家、木田金次郎展、その透明で美しい青色

2018年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム
展覧会の会場に入ると人々がシーンと静まって、絵を見て立ちつくしています。
何事ならんと絵を見ると何かにガーンと殴られたような感じがします。この感じを受ける絵画展は何度かありますが、その瞬間、「嗚呼、来て良かった」と思うのです。
そして78点の木田金次郎の油彩画を静かに見ました。
暗い、しかし透明で美しい青色を基底にした色彩で北海道の漁港や山を描いた絵画です。
何故か悲しい色彩です。でも悲しみだけではありません。描いている画家の研ぎ澄まされた独創性が絵画に深味を与えています。北海道の淋しさが偲ばれます。岩内という漁港に住みついて貧しさの中で彼の心は絵を描くことだけを考えていたのです。
有島武郎、ただ一人、木田金次郎の絵画を認め、励ましていました。しかし中央の画壇では誰も見向きもしない無名の画家だったのです。そして美しい青色を基底にした色彩の画風は一生変わりませんでした。変節しないのです。
ですからこの展覧会は、あるテーマを持った交響曲を聞いているような感じがします。静かに歩いていくと何度もテーマのメロディが少しづつ形を変えて出て来るのです。
それは北海道の厳しさです。淋しさです。そこに生きる人間の心情です。激しい絵筆の動きが感じられます。
そしてその絵画に隠れている心を想像しました。それは北海道に住んでる人だけが持つ自然の美しさに対する厳しい心情なのです。北海道のローカル文化なのです。
以前に何処かで見た北欧の風景画のようでもありますが、この北海道独特の心情が美しさを一層きわだたせているのかも知れません。
この色彩や絵筆の動きの激しさは写真で表現することは難しそうです。でも写真を示します。

1番目の写真は会場入り口です。受付の人に頼んで入り口だけ撮らせて貰いました。

2番目の写真はこの展覧会で「どうぞ写真を撮って下さい」と書いてあった大きなポスターです。
絵は「秋のモイワ」と題した木田金次郎の1961年の絵です。

3番目の写真は「菜の花畑」です。(油彩、1956(昭和31)年 北海道銀行蔵)

4番目の写真は「東山から見た早春の岩内山」です。(油彩、1960(昭和35)年 木田金次郎美術館蔵)

5番目の写真は「海」油彩画です。(1936(昭和11)年、佐藤正広氏蔵)

結論は心からお薦めの絵画展です。

木田金次郎美術館は北海道の岩内町にあります。詳細は,http://www.kidakinjiro.com/ をご覧下さい。
その他、木田金次郎展の予定を示します。
●東京:府中市美術館 7月21日(土)~ 9月2日(日)
           [ https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/index.html ]
●札幌:JRタワー・プラニスホール 10月13日(土)~11月4日(日)
●ニセコ:有島記念館 11月23日(金・祝)~12月16日(日)

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料===========================
「木田金次郎展 有島武郎の死、大火乗り越え昇華」
https://www.sankei.com/life/news/180729/lif1807290013-n1.html

 木田金次郎といっても知る人は多くはないかもしれない。小説家と青年画家との交流や創作の苦悩などをつづった有島武郎(たけお)(1878~1923年)の小説『生れ出づる悩み』のモデルとされた画家だ。同書の出版から100年を記念して、東京の府中市美術館で「木田金次郎展」が開催されている。
 展覧会場に「海」という印象的な作品がある。夕焼けの太陽は黄色く輝き、海面にも反射してギラギラとまぶしい。40代前半の作で、創作意欲がみなぎるようだ。
 西洋美術を紹介し、絵画に造詣が深かった有島から才能を見いだされた木田は、ほとんど独学で野性的ともいえる激しい絵を描いた。描いたのは、青年期の一時期を除きほぼ生涯を過ごした北海道西部にある故郷・岩内(いわない)町だ。
 木田は10代半ばで絵を描き始めたが、漁業を営む実家の傾きかけた生活を支えるために漁師に。20代半ばで本格的に油彩画を始め、東京で活動したいという思いを交流のあった有島に手紙で伝えた。しかし有島は、「既に立派な特色を備えた画は余計な感化を受けないで純粋に発達させた方が遥(はる)かに利益だと思います」と、岩内での活動を勧めた。
 大正12年、有島が愛人と心中自殺。木田は画業に専念することを決意し、制作を重ねた。モチーフとなったのは漁村など身近な風景だった。

 昭和29年、木田を不幸が襲う。台風による大火で岩内の市街地の8割が灰燼(かいじん)に帰した。木田の家も全焼し、約1500点の作品を焼失してしまう。61歳のときだった。
 故郷と作品を失ったショックは相当だっただろう。しかし、木田は過酷な現実を直視した。変わり果てた港に足をはこび、破損した漁船を描いた。太陽は緑色で、「海」のようなまぶしさはみじんもない。心の痛みが表出しているようだ。
 その後はいっそう猛烈に制作を開始。31年の「菜の花畑」は、春になり菜の花が咲き誇る大地を明るく活写。生命の息吹と喜びに満ちている。自然を賛美しているかのようだ。バラやボタンも、赤などの鮮やかな色彩で描出した。35年の「夏の岩内港」は、漁船がひしめき合うように停泊するにぎやかな港を題材にした。筆致は素早く激しい。復興を遂げ、活気のある姿を生き生きととらえた。
 「木田にとって、有島の小説のモデルとみられることは喜びでもあり、負担でもあったのではないでしょうか。有島の死や、自身の作品が失われてしまったことで過去の重しがなくなり、むしろ精力的に独特の作風を確立した、という見方もできます」と、同美術館の鎌田享学芸員は話す。
 油彩画を中心に約80点を展示。東京での大規模な展覧会は39年ぶりとなる。有島の木田に宛てた手紙や絵画など関連資料も紹介している。(渋沢和彦)

木田金次郎
 きだ・きんじろう 明治26年、北海道生まれ。41年、東京の開成中学に入学。42年、同中学を中退し、京北中学に編入学。この頃から絵を描き始めた。翌年、同中学を中退。一時、札幌で過ごし、展覧会で有島武郎の絵画作品を見て感銘を受け、有島の自宅を訪問し、交流が始まった。大正8年、東京の有島邸で習作展を開いた。昭和3年、満州・朝鮮に写生旅行し、大連の満鉄倶楽部で個展を開催。29年、北海道文化賞を受賞。37年、69歳で死去した。

東日本大震災後の韓国人の支援を我々は絶対に忘れない!

2018年08月25日 | 写真
ここでご紹介する写真は、東日本大震災が起きた後に韓国で撮られた写真です。
これらの写真は友人の中村 文政 さんから教えて頂いた写真集です。
写真は、http://cadot.jp/impression/1794.html?detail から転載いたしました。
2011年の3月11日の東日本大震災の後で、韓国人は我々を激励するメッセージを韓国の町中に掲示し、多額の義捐金や救援物資を送ってくれたのです。その上多数のボランティアの韓国人が被災地の復興に汗を流してくれたのです。
韓国の人々、本当に有難う御座いました。ご恩は絶対に忘れません!


















今年は日中平和条約40周年(4)東日本大震災を支援した胡錦濤と温家宝

2018年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム
江沢民の常軌を逸した反日政策で荒廃した日中関係を友好関係へと軌道修正に努力したのが胡錦濤・温家宝体制でした。その期間は2002年から2012年迄です。
しかしこの間に尖閣諸島問題が起きましたが、それは軍部の意見を背景にした共産党保守派を抑えきれななかった胡錦濤の人間的弱さだったのです。
今日は胡錦濤・温家宝体制が東日本大震災の被害に対して行った暖かい支援をご紹介いたします。
温家宝首相は「中国政府を代表して日本政府と日本国民に対しお見舞いを申し上げる」という電報を菅直人総理に送るとともに、必要な援助を提供すると表明したのです。
また、胡錦濤国家主席は「犠牲者の方々に深い哀悼の意を表し、一日も早い復興をお祈り致します」との電報を今上天皇に宛てに送ります。
中国地震局は大震災の翌日、3月12日夜、日本の被災者に、人道援助を提供するため国際救援隊15人を13日朝に派遣すると発表し、国営新華社通信は「四川大地震で日本から支援を受けた恩に報いたい」という論評記事を配信します。
中国赤十字会は同日、日本赤十字社に100万元(約1260万円)を緊急援助し、必要に応じた人道援助をすることを決定します。
一般市民の間でも支援の声は高まり、北京の大学生や会社員ら、有志の若者が仲間に義援金を呼び掛け、13日に既に約5000元が集まったそうです。同日午後、中国国際援助隊は生存者の捜索に必要な設備や救急医療物資など4トンの物資を持って羽田空港に到着します。
温家宝は2011年4月11日に訪日し天皇とも会見し友好路線をとることを表明します。
胡錦濤も2008年5月に来日し、個人的にも信頼関係にあった当時の福田康夫首相と「戦略的互恵関係の包括的推進に関する日中共同声明」を発表し友好関係へ舵を切ったのです。天皇をも表敬訪問します。
温家宝は2011年5月に再び訪日し、5月21日、東日本大震災の被災地である福島県を訪れたのです。
その時の写真を示します。

1番目の写真は温家宝首相は放射能の恐怖をものともせずに、福島第一原発事故の避難住民が暮らす避難所を訪れた時の光景です。茶髪のお母さんが嬉しそうに笑っています。

2番目の写真は避難所の床に座って子供と遊んでいる温家宝です。

3番目の写真は放射能の恐怖をものともせずに福島県産のサクランボ、キュウリ、ミニトマトを食べるパフォーマンスを行った時の写真です。農協の人々が喜んでいる光景です。

4番目の写真は中国政府が緊急に派遣した救援隊の写真です。

5番目の写真は2011年8月1日、温家宝の招待で東日本大震災被災地の子供たち100人が海南省海南島に到着した時の写真です。チャーター機が仙台空港から海南省海南島に到着したのです。これは2011年の5月に訪日した温家宝首相の招待によるものでした。

この大震災以後、 中国での報道のトーンも、ガラリと一変します。
5月9日の「中国新聞網」は「震災後、中日関係は改善の軌道に入った」と伝えます。
 日中友好議員連盟の訪中には習近平副主席が出迎え、「中日の国民感情を改善し、敏感な問題を穏当に処理し、中日関係をいっそう発展させたい」と応えているのです。また、中国の雑誌「世界知識」は「尖閣問題はアメリカの妨害が根源だ」と攻撃の矛先をアメリカに転じます。
大震災で日中関係改善の流れが決定的になったのです。
胡錦濤の政策は、前任者のイデオロギー、すなわち、江沢民の反日政策、そして、時代の中心であった毛沢東思想とは異なり、社会的・経済的目標を課すことに反対して徳治主義的に道徳規範を成文化したものへ推移していたのです。

ついでに中国側の支援をもう少し詳しく書いておきます。
中国政府商務部は14日、毛布2000枚、テント900張、手提げ式応急灯200個などといった3000万元(約3億7500万円)相当の援助物資追加支援を決定します。
その初回分は5月14日、上海から空輸され、宮城県登米市に提供されました。
第二陣は28日にミネラルウォーター6万本やゴム手袋325万組がそれぞれ茨城県、日本赤十字社に提供され、第三陣は31日にゴム手袋1万組、仮設トイレ60個、スニーカー2万5000足が提供されたのです。
さらに別枠で、2011年の3月16日、中国政府は日本政府の要請に応じてガソリンと軽油各1万トンを日本政府に対して提供することを決定し、それぞれ4月2日、3日に日本に到着し被災地に送られました。
また中国側は「過去の遺恨による民族主義は天災や人道とは関係ない」とし、四川大地震の際に日本が援助したことを受け「民族の感情を超越した人道主義」と評し「必要なのは学ぶことと助け合うこと」と伝えたのです。
3月19日、東京電力は中国外務省を通じて中国の三一重工業集団有限公司に高さ62メートルから放水できるポンプ車の購入を打診、三一重工が無償での提供を申し出たのです。この巨大なポンプ車は1台約8500万円で、運搬にかかる費用を含めた約1億円を同社が提供し、3月24日に日本到着後、陸路で福島に向かい、31日より福島第一原子力発電所の原子炉冷却作業を開始したのです。
4月1日、中国政府はガソリン1万トン及びディーゼル油1万トンを緊急支援物資として被災地に提供もしました。(https://ja.wikipedia.org/wiki/東日本大震災に対するアジア諸国の対応 )

胡錦濤は人間的な胡耀邦を尊敬していました。その詳細は、「胡耀邦との出会い」(https://ja.wikipedia.org/wiki/胡錦濤 )にありますので省略します。温家宝も胡耀邦の引き上げで出世しました。
彼等は周恩来のような人間味豊かな政治家でした。ですから軍部を背景にした共産党保守派を抑えられず尖閣諸島問題では日本に対して厳しかったと考えられます。中国では鄧小平のように軍部を完全に掌握した人のみが強権を振るえるのです。胡錦濤の軍部掌握は弱かったのです。
2012年に胡錦濤・温家宝体制は習近平へ政権を譲ります。続きは次の連載記事で書きます。
なお蛇足ながら東日本大震災で心のこもった大支援をしてくれた台湾と韓国に関しては以前にこの欄で書いたので今日は触れませんでした。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




東京で唯一の米軍基地、広大な横田航空基地の物語

2018年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム
東京でただ一つの広大な米空軍基地の横田基地にオスプレイ、5機が10月1日から正式に配備されることになりました。
オスプレイはヘリコプターのように垂直に離着陸できます。その上、ヘリコプターより速度が非常に早く、航続距離が画期的に長いのです。これは驚異的な技術革新です。
この4月から横浜港から運び込まれた機体が横田に置いてあるという報道も見ました。
好奇心の強い私は昨日、車で横田飛行場の周囲を回って写真を撮りに行きました。何時ものように写真を撮るのは家内です。私は飛行場の金網に密着した細い道を探して車を走らせました。
それでは写真で横田基地の風景や航空機の様子をご説明します。

1番目の写真は横田基地の正門の写真です。看板にU.S. Air Force, Yokota Air Baseと書いてあります。この門の内側はアメリカなのです。一戸建て住宅が並び専用のスーパーなどがあり、おまけに小中学校から高校まであります。

2番目の写真は金網越しに見た滑走路のある方向の風景です。遠方に格納庫らしき建物が見えます。
飛行場の回りをくまなく走りましたがオスプレイの姿が見えません。そこで帰宅後にインターネットで検索して欲しい写真を見つけました。

3番目の写真は横田基地の全景です。背後の山並みは奥多摩の山稜です。
米軍の横田基地は輸送機の専用基地で太平洋の西半分とインド洋までを守備範囲としています。
しかし朝鮮戦争やベトナム戦争の時は戦闘機や爆撃機の基地の役目も果たしたのです。

4番目の写真は2015年9月の横田基地日米友好祭に登場したオスプレイの写真です。この写真はオスプレイの前部から後ろを写した写真ですが、周囲の人間と比べると、その大きさが分かります。なお10月1日から常駐するオスプレイは輸送機に使うので荷物の積載量が多くなるように改装したものだそうです。

5番目の写真は例年、9月に開催される横田基地日米友好祭で公開された米軍の大型輸送機です。
横田基地にはこのような大型輸送機が多数駐機していますが、高い塀に隠されて見えないようになっています。
以前は高い塀ではなく金網でしたので見えたのです。
この4月から運び込まれたオスプレオも高い塀に隠されているらしく、昨日は写真は撮れませんでした。

6番目の写真は離陸したばかりの大型輸送機の写真です。横田基地の中枢部分はセパードを連れた兵士によって厳重に警備されてます。

7番目の写真は2017年11月5日に日本訪問のために横田基地に着いたトランプ大統領夫妻の写真です。
従来のアメリカ大統領は民間の羽田空港に専用機を着陸させ、東京に入ったのです。
トランプ大統領だけ米軍基地を誇示するように横田に降り、すぐに基地の米軍将兵を集め、彼等の士気を上げるような演説をしたのです。
余計なことですが、オバマ大統領は羽田空港から入国し、広島の原爆慰霊式典に出席しました。その後、米軍の岩国基地で将兵を鼓舞する演説をしてから岩国基地から帰ったのです。
これは些細なことですが、トランプ大統領とオバマ大統領の人間性の違いを示しているのではないでしょうか。

それはさておき、横田基地の歴史を簡略に書いて今日の記事の終りとします。
この飛行場は日本帝国陸軍の航空部隊の基地として1940年に開設されました。
第二次世界大戦後より、アメリカ第5空軍司令部が置かれて、東アジアにおけるアメリカ軍の主要基地になります。
西太平洋からインド洋をカバーする輸送機の空港と兵站基地としての機能を持っています。
2012年3月からは、航空自衛隊の航空総隊司令部なども常駐するようになり、建前上は日米両国の空軍基地となっていますが実質的には米軍の輸送機のための飛行場です。
広さだけを比較すると、沖縄県以外では日本国内最大のアメリカ空軍基地です。
日米の軍用機の運用のほか、近年では北大西洋条約機構(NATO)加盟国である、フランス空軍輸送機も時々利用しています。
東京都調べによる、2005年(平成17年)5月時点の基地関係者数は、軍人3,600人、軍属700人、家族4,500人、日本人従業員2,200人の、合計約11,000人という資料もあります。

この横田飛行場は本州の中央に位置し軍事的にも重要なので日本への返還は難しいようです。石原慎太郎が東京都の知事だった時、横田を民間も使う案を提案しましたが、アメリカ側から相手にされませんでした。
しかし近くの入間飛行場は航空自衛隊に返還され現在は戦闘機が常駐し、茨城県の百里基地と共に本州の防衛を担っています。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


今年は日中平和条約40周年(3)江沢民の反日政策と中国の高度成長

2018年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム
日本と中国の関係は日中平和条約締結後の40年間にも紆余曲折がありました。
田中総理と周恩来総理との日中平和宣言、続いて鄧小平との日中平和条約締結の1972年から1989年迄の17年間は日中熱烈友好の時代でした。
しかし1989年に江沢民が中国共産党第3代総書記に就任してからは日中関係が暗転し険悪な関係になったのです。
2002年に共産党第4代総書記に就任した胡錦濤と温家宝首相が軌道修正に努力しますが保守派の抵抗が強く日中関係は悪い状態が続きます。そして近習平総書記の時代まで尾を引いているのです。
江沢民は常軌を逸した数々の反日政策をとりますが、一方で中国経済の高度成長を導き、中国のGDPを世界2位まで押し上げる原動力になったのです。江沢民のおかげで中国は世界の大国になったのです。
その故に欧米では江沢民を高く評価しています。

しかし今日は江沢民の幾つかの反日政策を示して見ようと思います。
江沢民は1992年に日本を訪問し、その年の秋に天皇を中国に招待しました。
そして1998年には再び日本を訪問し宮中晩餐会で日本の中国侵略を批判する演説をしたのです。このような経緯を考えると彼の反日政策の根の深さを感じざるを得ません。
さてここで関連の写真を見てみましょう。

1番目の写真は江沢民です。

2番目の写真は1992年に訪日した江沢民を宮沢首相らが歓迎晩餐会をした時の写真です。

3番目の写真は小渕首相へ朱鷺の写真を手渡している江沢民の写真です。

4番目の写真は1998年の宮中晩餐会で日本の侵略を取り上げた演説をしている江沢民の写真です。彼は人民服で出席し日本側の顰蹙を買いました。
それでは江沢民の反日政策を分かり易く個条書きで示してみましょう。
(1)中国国内の学校における反日教育を徹底した。
江沢民政権は1994年に「愛国主義教育実施要綱」を制定し、「抗日戦争勝利50周年」にあたる1995年から、徹底した反日教育を推進していったのです。
(2)日中戦争の死傷者を3500万人と主張した。
1994年9月3日に北京で開催された「首都各界による抗日戦争記念ならびに世界反ファシスト戦争勝利50周年大会」で江は演説し、日中戦争の被害者数をそれまでの軍民死亡2100万(抗日勝利40周年の1985年に中国共産党が発表した数値)から死傷者数を含めた上で3500万と主張しました。
(3)中国への侵略を永遠に非難すべきと言った。
1998年8月には、「日本に対しては、台湾問題をとことん言い続けるとともに、歴史問題を終始強調し、しかも永遠に言い続けなくてはならない」と外国に駐在する特命全権大使など外交当局者を集めた会議で指示を出した。
(4)日本の歴史教育は間違っていると非難した。
1998年11月、江沢民は中国の国家元首として初めて日本を訪れます。この訪日で江は「日本政府による歴史教育が不十分だから、(国民の)不幸な歴史に対する知識が極めて乏しい」と発言したのです。
日本に来て歴史教育を激しく非難した中国の国家主席はそれまでいませんでした。当時の日本の小渕恵三首相に「痛切な反省と心からのお詫び」の記述を日中共同宣言に明記するよう要求し、その執拗さから日本国民の反発を買ったのです。
(5)南京虐殺数を30万人と度々主張し。その数字が中国国内で固定化されたのです。

このような江沢民の対日政策によって中国では反日感情が高まり、同時に日本でも嫌中意識が強まっていったのは当然です。
この対日政策の一方で江沢民はアメリカとの友好関係を築いたのです。その詳細は省略しますが、写真を1枚だけ示します。

5番目の写真は江沢民夫妻とジョージ・W・ブッシュ夫妻の写真です。

さて江沢民は何故日本を蛇蝎のように嫌ったのでしょうか?
いろいろな原因があるでしょうが彼の育った環境も原因になっていると思われます。
江沢民は上海に近い江蘇省揚州市に生まれます。実父の江世俊は、日本軍占領下の江蘇省で日本の特務機関の工作員でした。日本軍のスパイだったのです。しかし一方、叔父の江世侯は中国共産党の幹部で日中戦争で戦死します。そこで江沢民は、公式にはこの江世侯の養子ということにしたのです。
日本軍のスパイの息子では共産党内での出世は不可能ですから中国共産党の幹部の江世侯の養子になりすましたのです。
1943年に楊州中学卒業後、汪兆銘政権下の南京中央大学に入学し、日本語を専攻したのです。
この経歴は共産党内での出世にはまずいので、南京中央大学に在籍していたことについて触れられることは無いといいます。
江沢民は日本軍のスパイの息子だったということは公然の秘密です。出生を重要視する共産党の内部では彼の権力を脅かす大きな弱点だったのです。
その弱点を打ち消すためにも政権の座についた江沢民は厳しい反日政策を取らざるを得なかったのでしょう。
同情の余地はありますが、彼の反日政策は日中両国にあまりにも大きな禍根を残したのです。
このお陰で日本は多くの国際関係の交渉で苦境に立ったと考えられます。
それは日韓関係に悪い影響を及ぼしたのです。

私の嫌いなタイプの中国の政治家です。私が好きな中国の政治家は周恩来と胡耀邦、そして胡耀邦の弟子の胡錦濤と温家宝です。
今日の記述は、https://ja.wikipedia.org/wiki/江沢民 を参考にしました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


===参考資料========================
江沢民元国家主席の実父が売国奴(日本傀儡政権の役人)だったことは知る人ぞ知る事実。それを暴いた者は投獄されてきたが、その中の一人、呂加平氏を習近平は釈放した。習近平はタブーを破るのか?その思惑は?
https://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20150324-00044148/

◆江沢民が隠してきた事実
江沢民の実父・江世俊が(大日本帝国時代の)日本の傀儡政権であった汪兆銘率いる南京政府のスパイ機関に勤務していたことは、中国大陸以外ではよく知られた事実だ。江沢民は父親のお蔭で、1943年には汪兆銘傀儡政権下の南京中央大学に入学し、贅沢三昧の日々を送っていた。だから江沢民はピアノやダンスなどの芸事に長(た)けている。そのときの写真も名簿もある。
ところが日本が敗戦すると、漢奸(かんかん)=売国奴と罵倒されるのを逃れるため、江沢民は慌てて、叔父の江世候(またの名を江上青)の養子になったと偽装。江世候は中国共産党の幹部で、1939年に戦死している。
・・・・・
ただ、自らの出自をごまかすために反日を叫び、反日へと大きく舵を切った江沢民の「日帝」売国奴の事実を、この「抗日戦争勝利70周年記念」の年に何故、明るみに出すのか、という疑問は残る。呂加平を釈放したのは、その事実を明るみにすることを許したことにつながるのだから。

第6章 江沢民総書記の時代
http://www.intx.co.jp/ooie-feature04_01_06/
2015年、読売新聞記者を退職した加藤隆則「習近平暗殺計画」(文藝春秋・2016年)32頁は、「江氏の父親が抗日戦争時、日本に協力した『漢奸(売国奴)』」「実父の江世俊が日本軍の反中宣伝機関の高官」であったこと、江沢民の父親が漢奸で、江沢民に経歴詐称があるとの論文を発表した呂加平氏が懲役10年の刑に服していたが、習近平が特赦を認め、2015年3月、党幹部の内部会議で呂氏釈放を報告させた、と報じた。
「江氏が必要以上に反日的態度を表明してきたのも、漢奸の血筋を負い目に思う屈折した感情の裏返しであるとの指摘がある。」と加藤隆則氏が述べるが、江沢民が、総書記在任中にこの情報が日本人に知られていれば、日本、日本人は、心理的に優位な気持ちで接することが出来たと思う。

夏の終わり、公園の風景と花々

2018年08月22日 | 写真
このところ猛暑が戻って来たようです。
しかし公園に行ってみると何となく秋の気配が漂っています。夏の終りが近づいているのです。今日はもう8月の下旬、22日なのです。
小金井公園で撮って来た写真をお送りおたします。