後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

心のいやされるシラサギとアオサギの写真ーちひろさんの作品よりー

2009年08月31日 | 写真

今朝は民主党が308議席にもなり、すっかり嬉しくなって、何も知らないくせに政治の記事を書いてしまいました。何度か読み返しましたが、何かドロドロしたものが心に残り、後味が良くありません。こういう時には「ひかるの」さんや、玲さんや、ちひろさんのブログを見ると精神が落ち着いて気分が良くなります。今回はちひろさんのブログ、「琵琶湖の畔に遊ぶーちひろのデジブラー」、http://blog.goo.ne.jp/hanafubuki33 からシラサギとアオサギの優雅な姿の写真をご紹介いたします。撮影しているちひろさんと鳥たちの心の静かな交流が感じられるようです。琵琶湖の湖畔にはこのようにのどかな所が広がっているのですね。

そしてちひろさんの原文の下にあるコメントも心なごませるようなものばかりです。どうぞちひろさんのブログをご覧になり、他の美しい写真もお楽しみ下さい。ちひろさん、有難う御座いました。(終わり)

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現代中国へ対する相反する2つの意見をご紹介致します

2009年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日の中国に関するこのブログの記事へ対して色々なコメントを頂きました。その中から以下に2つの相反するご意見をご紹介いたします。勿論、NAKAちゃんさんの書いていることは真実と思います。しかし私は、それだから中国政府や中国人を嫌いになってはいけないと信じています。リタさんが書いているように良き友人として根気よく助言を続けるのが最善と信じています。皆様は如何お考えでしょうか? 

====BYOOLのNAKAちゃんさんからのコメント========

藤山杜人さん

私は中国を好きではありません。平和に暮らしていた「チベット」を中国の一部だと武力攻撃し、ラマ教をも支配しようとした。ウイグル自治区での武力弾圧。中国の少数民族は貧しい生活を今もしています。漢民族は各自治区に押しかけて、自分たちの考え方を押し付けている。 そして、安い賃金で労働させている。
少数民族の暴動は多く起きている様ですが、中国では一切報道されていないようです。
大地震後、少数民族の住む地区では殆ど復興されていませんが漢民族がいる地区は復興が進んでいる様です。NHKの番組で時々、中国の報道があります。
少数民族地区に訪問して、実情を報道していました。生活苦を訴えていました。
中国政府に対してどう思うか聞く場面では、口をつぐみ、顔をそむける。言う事が出来ないと解釈しました。批判すれば、密告されて捕まり刑務所行き。地区には中国政府機関があり、いつも監視されていると感じました。取材行動を監視しているのです。

藤山さんは「アメリカの人権擁護団体のヒステリックな叫びを扇動的に報道しているだけです。何と軽率なマスコミの報道ぶりなのでしょう。」と書いています。
●しかし、この意見には賛成できません。中国には言論の自由がありません。
出版会社で発行する本には検閲があります。政府批判、役人の腐敗、各地での暴動等は掲載されません。勇気ある人達は香港で雑誌を作り、中国国内に持ち込んでいます。疑いを持たれれば、監視の目が‥。大都市の一部しか、見てないのではないでしょうか。日本のニュースでは報道されないことでも、TV番組を良く見ると中国の事はよく出ています。(終わり)

=========趣味人倶楽部のリタさんのコメントです======

中国は長い歴史を持つ国です。その間、漢民族とその周辺の民族との長い興亡の歴史があります。現在の中国の版図がほぼ定まったのは、皮肉なことに異民族である満州族の清朝が築いたものです
当然、清朝は中華思想との矛盾という課題に対処しなければならなかった。つまり夷が華(漢族)を支配するという大義が必要だった。

そこで登場したのが漢、満州、モンゴル、ウイグル、チベットの五族の中国として形成される多民族国家の構想です。それが現代の中国にも引き継がれているというのが、私の歴史認識です。
我々島国日本とは違い多くの異民族をかかえる中国の苦悩を我々も理解する必要があります。
彼ら自身が悩み解決していかなければならない問題です。ステレオタイプのマスコミ報道に踊らされるのではなく、それぞれがしっかりと相手を認識していかないと戦前の大本営発表の如く誤った方向に進むことになるように思います。日本、中国、韓国は東アジアでこれから協力していかないといけない重要なパートナーです。藤山杜夫さんのような冷静な判断が多くの日本人ができるようにならないとお互い非難しあってもなにも生まれません。もちろん友人としての助言はしっかりするべきでしょう。
忍耐強く未来に向けて希望を持って行きたいものです

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民主党の圧勝、これで日本の社会が変わる、文化が変わる

2009年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

民主党が圧勝しました。戦後64年、「主権在民」というお題目をさんざん聞かされましたが、今回の選挙で初めてその実感を体験できました。過去55年間も保守的な自民党が政権を握り、国民の知ることの出来ない不明朗な相談をして、歴代の首相を決めてきたのです。

今朝のニュースで民主党が308議席を取り、圧勝したことを知りました。自分も民主党へ投票しました。これで政官財癒着の不明朗きわまりない日本の政治・官僚制度が崩壊すると思い、おのずと笑いが出てきます。

しかし今回の結果は政治のパラダイムを変えるだけでは無いと思います。主権在民を実感した人々が多かったと信じています。ですから社会全般が大きく変わります。社会が変われば文化も変わります。どのように変わるのでしょう? その具体的なことはこれから起きる社会的な現象なので不明です。

しかし変化の方向は明確に予想できます。

(1)国民一人一人の力で政権を変えられると実感できたので、個人の力を尊重するような社会へ変化するでしょう。したがって文化も個人の独創性を今まで以上に尊敬する社会になるでしょう。 このように言うといかにも欧米型の社会になると主張しているようです。しかし日本には独自の文化、宗教が現存しています。したがって欧米と同じ社会や文化には絶対にならないと信じています。

(2)民主党の政権公約(最近はマニフェストと言うらしい)を見ると、個人個人の生活の質の向上に大きく貢献するような政策が多く含まれています。消費税の据え置き、子供を有する親への支援、高速道路の無料化、国民年金の明確強化などなどです。どれも明るい方向性を持っています。決して大企業や土木建設会社へお金を流そうという政策は見当たりません。

その方向性は、人々のQaulity of Life(人生や生活の質)の向上という方向性です。消費税の据え置きや高速道路の無料化の政策などなどはこの方向へ大きく寄与する筈です。

(3)民主党の目指す社民党や国民新党との協力は野党、与党を問わず、上の二つの方向性を持つ政治家の数を次第に増加させると思います。そして政治家一人一人の個人的な素質の向上に役に立つと信じています。

(4)今回の民主党圧勝のかげを注意深くみると自民党でも真面目に、明朗に仕事に励んで来た候補者は皆当選しています。このことは国民一人一人の判断は厳正であることの証左です。真面目に仕事をしていれば報われる社会へと変化する方向を示しています。

今回当選した人々で、私の好きな自民党の政治家を例に挙げます。野田聖子さん、石破さん、額賀さん、高市さん、横路さん、などです。また少しやりすぎて失敗した鈴木宗男さんも北海道、大地の党で当選しました。小渕首相がやめたときエリツエン首相との北方領土交渉を潔く良く止めていれば立派なことだったのです。権力に溺れて失敗しました。しかし個性的で独創的な政治家なので、私は好きです。

なお額賀さんは過去2回の団体旅行でインドネシアと中国へご一緒しました。実直で目立たない政治家ですが見識の深さに感動したことがあります。このブログでも絶賛した記事を掲載したことがあります。

さて皆様は今回の選挙結果へどのような感想をお持ちになったでしょうか?コメントとしてご意見を頂ければ嬉しく思います。(終わり)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。      藤山杜人


毒ギョーザ、偽ブランド商品、環境破壊、それでも中国を好きになれますか?

2009年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム

今朝、ウイグル地域やチベット問題に関連して中国の国内の実態の一端を書きました。中国へ好意的な書き方です。それに対して、毒ギョーザ、偽ブランド商品、環境破壊、それでも中国を好きになれますか?というご批判が聞こえてくるような気がします。

そうです。私の意見は、それでも中国を好きになるように努力するのが良いという考えです。自分の心を豊かにするためにも良いという考えです。相手を嫌ったら、相手もこちらが嫌いになります。中国の経済発展が早く、やがては日本を追い越しそうです。軍事力も拡大の一方です。だから嫌いというのでは余りにも心が貧し過ぎます。

日本は韓国、台湾、中国、などまず近隣の国々としっかりした友好関係を築くのが第一に重要なことと信じています。そうしないと欧米諸国は日本を尊敬しないと思います。

相手の非を攻撃するのではなく、寛大な気持ちで対応するのが国家の品格ではないでしょうか?

話が飛びますが、御巣鷹山でボーイングの大型旅客機がアメリカの会社の整備が間違って墜落し、大参事になりました。この時、日本政府はアメリカ政府へ対して謝罪の要求をしませんでした。当然です。民間会社同士の契約の誠実さの問題に政府が介入しないのは当然です。

中国の毒ギョーザを輸出したのは一民間会社でした。それも日本人が憎いので起こした事件ではなく、会社へ怨みを持っていた元従業員が見境無く起こした事件のようでした。

中国の毒ギョーザの時には、日本の政府が執拗に中国政府へ謝罪を要求しました。「アメリカへは遠慮するが、中国へは高飛車な態度をとる」という日本人の卑屈さを見るようで、悲しい思いをしたのは私だけだったのでしょうか?

かつてニクソンショックというものがありました。中国の問題を日本政府と相談しないで、日本の頭越にニクソンが訪中し、勝手に友好条約を結んでしまったのです。慌てた田中首相はその後で日中友好条約を結んだのです。中国は日本の属国でないのですからアメリカが勝手に外交交渉をすのも自由です。日本が共産党中国と外交交渉をするのも自由だったのです。

どうも日本人の深層心理には中国を弟分に思いたい心理が現在でも脈々として流れているようで心配です。これは、私だけの誤解であることを祈って終わりとします。(終わり)


山林の中の小屋へ通じる淋しい道、本当に淋しい道です、そして漆黒の夜の怖さ

2009年08月30日 | 写真

日本の面積の8割は山々という話を聞いたことがあります。町を離れ、一歩林の中に踏み込むと道が延々と続いています。林はやがて昼なお暗い森となって何処までも続くのです。人気のない淋しい道を2Kmも登って行ったところに私の小屋が有ります。1974年に完成したので、既に35年通い続けたことになります。下の桜並木の舗装道路から未舗装の悪路に分け入り、2Kmも林の中を登ってゆくのです。

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なだらかな小山の上が平地になっていて質素な別荘が10棟ほど建っています。その一番低い所に小川が流れていて、その小川を境にして私の小屋が建っています。回りは大きな松林や、クヌギやコナラの雑木林です。「陸の絶海の孤島」のような場所です。別荘が10棟あっても普通は誰も泊まりにきていません。夜は人家の灯も見えず漆黒の闇です。

本当のことを言うと独りで泊まるのは怖いのです。窓には鉄製の鎧戸を閉め、金属製のドアに鍵をしっかりかけ、電灯を明るくともし、夜を過ごすのです。林の方で野鳥の叫び声が聞こえたり、枝の折れる音が響いたりします。薪ストーブを燃やしながら時を静かに過ごします。057

怖い思いをしながら眠って、次の日、朝日が明るく射してくるのを見たときほど嬉しいことはありません。生き返ったような気分なのです。顔を洗って、すぐ熱いコーヒーを淹れます。コーヒーの香りが漂い、生きていることの歓喜を味わうのです。

小屋に独りで泊まるのがそんなに怖いとは大げさ過ぎると思います。しかし私は生まれつき怖がり屋でした。その癖、怖い思いをするのが好きなのです。

時々、家内と一緒にに泊まりますが、怖さには変わりません。何が怖いのかは分かりませんが怖いのです。家内は怖くないと平気です。

この怖さこそが魅力で35年通い続けたのかも知れません。空気が新鮮で美味しい。自然がいっぱいで心も体も癒される。それは他人へ説明できる魅力です。分かりやすいので、よくそのように説明します。しかし本当の魅力は森の中の漆黒の夜の怖さなのです。

お分かり頂ければ嬉しく思います。(終わり)

   


貴方は何故中国を嫌うのですか?-マスコミが報道しないウイグル族やチベット問題―」

2009年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム

平和的なデモを武力で鎮圧することは悪であり、非難すべきです。

中国政府がウイグル自治区やチベット自治区でデモを武力鎮圧しました。そのために、多くの日本人が中国を嫌いになっているようです。マスコミの報道が正しければ、75%の日本人が中国を好きでないと思っているそうです。しかし、漢民族が中国内のイスラム教徒やチベット仏教信者(ラマ教信者)を、現在でも大切に思い、共に仲良く暮らしてゆこうと努力しているのです。日本のマスコミはこのことを一切報道しません。アメリカの人権擁護団体のヒステリックな叫びを扇動的に報道しているだけです。何と軽率なマスコミの報道ぶりなのでしょう。そこで今日は私の見た中国国内の実態を報告します。

◎中国のイスラム教徒と漢族の食習慣

北京の大学へ行ったのは1981年から数年です。観光客の行かない学生食堂で学生と一緒によく食事をしました。中国の大学は原則として全員寮生活で、朝昼晩の三食は大きな学生食堂で取ります。料理の品数は少ないが美味しい北京料理です。食器は自分が寮から持ってくる琺瑯引きの鉄製のドンブリです。食べ終わったらまた寮へ持ち帰り自分で洗います。

よく見ると、隣にもう一つ広大な学生食堂があります。イスラム教信者(回族)の学生専用の食堂です。回族は豚肉を一切食べません。ラードでいためた料理もだめです。回教の定めに従った方法で殺した羊は食べます。一方、豚肉抜きの北京料理は考えられないので、異なるメニューの学生食堂が二つ必要になります。

また一歩外に出ると北京の街には回族食堂という看板を掲げた店が多いものです。白い布で髪の毛を隠した女や丸い帽子をかぶった男の回教徒が大勢歩いています。あるとき、中心街に近い大通りを、羊の大群が悠々と流れている光景を見て驚いたことがあります。独特の帽子をかぶった回族の羊飼いが一人ついています。だれも非難がましく見ません。回族の当然な権利なのです。ある季節になると北京の市内で羊の市が立つそうです。羊の群れは北京の風物詩でもあったのです。この光景は1985年頃まで続きました。高層ビルが林立する現在では見られない中国の風景でした。漢民族とイスラム教徒は仲良く混じって暮らしているのです。

宗教的戒律のない漢民族は、北京料理に飽きると回族食堂にはいります。漢族は羊に違和感を持たないのです。回族食堂では帽子をかぶったイスラム教徒も漢族も肩を並べて仲良く料理を楽しんでいるのです。共産党独裁の中国でも回族はその伝統的食習慣を守りながら悠々と生きているのです。この状態は中国の歴史とともに古い生活様式なのです。

      @北京の北、承徳にあるチベット仏教のポタラ宮

中国が歴史的にチベットを領有し保護した時代がありました。特に清朝の皇帝はチベット仏教を大切にして、ラサにあるポタラ宮と同じ寺を北京の北230Kmにある承徳の郊外に作ったのです。私も1981年に、この清朝の避暑山荘を訪問しました。郊外にある豪華絢爛たるラマ教寺院の壮大な規模に圧倒されました。当時は文化大革命で建物が徹底的に破壊されていましたが規模の大きさと崩れたレンガの華やかな装飾に圧倒されたのです。このような中国とチベットの歴史的な友好関係を無視して中国を一方的に非難するのは公平を欠くような気がします。

勿論、ダライ・ラマ氏は傑出した仏教徒です。しかし彼はチベットの独立を主張していません。自由な宗教活動を要求しているのです。中国政府が誠実にダライ・ラマ氏と話し合うことを祈っています。

承徳にあるチベット仏教のポタラ宮風の寺院は、現在、完全に復元され「世界遺産」として登録されているそうです。下にその写真を掲載します。写真の出典は、

承徳の避暑山荘:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%85%AB%E5%BB%9F です。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 藤山杜人

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美味しい武川米の稲田の写真

2009年08月29日 | 写真

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山梨県の西端に北杜市があり、その武川町は江戸時代から美味しい武川米(むかわまい)を産出してきました。コシヒカリや秋田小町が出来た現在でも味では甲乙つけがたいと評判です。今年も稲がたわわに実りました。写真で味はご想像出来ませんが稲穂の香りはご想像がつくと思います。風景をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。撮影:8月27日、Mrs.藤山

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どんなに科学技術が発達しても航空機だけは日本には製造出来ません

2009年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム

埼玉県の所沢には昔、陸軍の飛行場があり、明治44年、徳川大尉が始めてフランス式の飛行機を飛ばせたのです。そこには現在、航空発祥記念館があり現在の陸上自衛隊の使っていた飛行機が数多く展示してあります。自衛隊で使っている飛行機はほとんど全てアメリカ製です。日本の民間航空会社の旅客機もアメリカ製です。

私は戦後教育を受け、「科学技術はアメリカに追い付き、追い抜け!」 という掛声にしたがって、ある分野の工業技術の研究をして来ました。色々な分野の日本の技術はアメリカに追いつきましたが、航空機製造技術だけは絶対に追い付けないのです。今後も追いつけないでしょう。

所沢の、航空発祥記念館を訪問する度に、暗澹たる気持ちになって展示物を見て回ります。他の人々は展示してある全ての飛行機を日本製と誤解しているのか楽しそうに見ています。決して暗い表情はしていません。

何故、日本の航空機製造技術はアメリカに絶対に追い付けないか?を説明する前にプロペラのついたアメリカ製の輸送機とジエット戦闘機の写真を示します。2枚の大きな写真の下にはプロペラ軸を高速に回転させるための9気筒の星型エンジンとジェットエンジンの写真も示します。全てアメリカ製です。

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YS-11という国産の旅客機がありましたが、エンジンだけはローリスロイス製のものを使っていたので純粋に日本製とは言えません。

第二次世界大戦で勝ったアメリカは日本占領と同時に全ての日本の飛行機を破壊し、その後一切の航空機産業を厳しく禁じたのです。朝鮮戦争ではアメリカの空軍機の簡単な修理をするようになり、その後航空自衛隊の拡大に従ってアメリカの空軍機を日本で組み立てることを許します。日本独自で飛行機を設計、開発することは長い間、禁じられてきました。

航空機技術の一番難しい部分は軽くて大きな出力のあるジェットエンジンを開発することです。そしてエンジンは一旦始動したら絶対に故障してはいけません。エンジンの故障は、即墜落になり大きな事故になります。安全で軽くて大きな馬力のエンジンを作る方法は長年の経験の積み重ね以外に道が無いのです。どんなにコンピューターが発達しても、それで設計したエンジンの信頼性は長い間使ってみなければ絶対に分からないのです。

飛行機産業の技術レベルは墜落事故の数に比例して上がります。墜落の原因を究明して、その原因を根気よく取り除くことが信頼性向上の一番確かな方法です。軍用機はある程度安全性を犠牲にして攻撃能力を高めます。軍用機で安全性に信頼が置ける飛行機が育ったら、その技術を民間旅客機へ解放するのです。

従って軍用飛行機を多数製造しているアメリカは旅客機の製造技術も自然に高くなるのです。どうでしょうか?ここまで説明すると、日本では絶対に値段と安全性の上でアメリカを凌ぐ飛行機が製造出来ない理由がご理解頂けたと思います。

日本の工業技術は軍需産業と関係の少ない自動車や家電に限定すれば世界一の技術と誇っていられるのです。

時々、「日本の工業技術は世界一だ」 と気楽に話す人がいます。

そんな話を聞くたびに私は暗い気持ちになります。皆様はどうでしょうか?暗い話は終わりにしたほうが良いので止めます。(終わり)


体験主義の陥穽―私は中国人として受け入れたー

2009年08月29日 | インポート

中国の首相の周恩来が死んで5年目の1981年の命日の頃に北京に居ました。その年、中央政府は、周恩来の私的な追悼会を厳しく禁じていたのです。 私を北京へ招待してくれたのが北京鋼鉄学院の

周栄章教授でした。その周さんが、「貴方を秘密の追悼会へ案内するから夜はホテルで待っていて下さい」と声をひそめて言います。夜も遅くなって11時頃、暗夜にまぎれて連れて行ってくれた所は北京鋼鉄学院の深い地下室でした。核戦争のために地下深く掘った立派な防空壕です。明るい照明のついた大部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾ってあり、美しい花々も供えてあるのです。

周さんが言います、「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が幾ら厳禁しても追悼会は実行します。それこそが中国人の心意気なのです」と。

外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信じたのでしょうか?不思議な体験です。

この体験は2つの強い印象を私に与えました。一つは、中国人は決して中央政府の言いなりにはならないという驚きの体験です。そしてもう一つは、「ああ、私は中国人に心底信用され、中国人の仲間として受け入れられた」という喜びでした。

さて皆様はこの私の個人的な体験をどのように理解し、評価するでしょうか?

人間は自分の体験のみが真実で普遍的に正しいと主張したい悪い傾向を持っています。私はこの体験から、「中国人全ては恩のあった政治家へ人情厚く、恩を忘れない人々です。そして一介の外国人でも心底から信用して仲間として受け入れてくれる国なのです」、という主張をしたいと思います。でも、そうしたら大きな間違いを犯すことになるでしょう。

他の日本人は中国で、それぞれ違った体験をしている筈です。

体験主義の陥穽とは、自分の体験だけを信じて、他人の体験を尊重しないことにあります。「体験のフィルターを通してみると物事が歪んで見える」とは体験主義の陥穽への警告なのです。

しかし自分の良い体験は一生の宝になります。他人の体験を熱心に聞き、それを尊重する寛大な精神がある限り生涯の財産になります。この私の大切な財産を贈ってくれた周栄章教授は2004年に北京で安らかに永眠しました。

皆様は外国で、その国へ受け入れらた、と実感する体験をなさった事があるでしょうか?コメントとしてお知らせ頂ければ大変嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。 藤山杜人

追記:周栄章さんと一緒に何度か遊んだ頤和園の風景を彼の思い出のために掲載します。

写真の出典は:頤和園(いわえん)http://konoha929.fc2web.com/beijiiwaen.html です。

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学校で教える歴史は常に権力者に都合の良いことだけを教える傾向があります

2009年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム

今朝掲載しました、「明治維新以後の日本はアジアの植民地解放に貢献したーそれに感謝している国と感謝していない国―」という記事に対して、趣味人倶楽部のyuyuさんという方から以下のようなコメントを頂きました。

=====yuyu」さんのコメント=================

戦後の教育なのでしようか日本の戦争責任が多く語られ、日本人の大部分の人々は、「戦争で非道を極めたのは日本」 と信じているのではないでしょうか。戦争には略奪、暴行も確かに存在したのでしようが、それは一部の不届きな兵士の業です。私は長い間、台湾と韓国と同じくらい深く交流をしてきましたが、対日感情の大きな違いを肌で感じました。そして、中国は地域によって大きな差があるようです。アジアの植民地解放に、軍人として独立戦争へ参加して、働いた日本人のお話も納得です。正しい教育をせめて国内はするべきですね。

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そうですね。私の言いたかったことです。戦後の日本の歴史教育はアメリカへ追従するあまり明治維新以後の日本のかかわった全ての戦争を悪と断罪し、その戦争がアジアの国々へどのような影響を与えたかという客観的記述が皆無に等しいのです。その事は戦争が悪だということと関係のない影響なのです。

インドネシアでは敗戦後、多くの日本兵がインドネシアの独立戦争へ義勇兵として参戦し、オランダ軍と戦い、それらの日本人は現在、インドネシアの国立墓地に丁重に葬られているのです。

日本のマスコミは戦後、オランダの対日感情が悪いのは戦争中の捕虜虐待のためと報道していますが、その原因は戦後に日本兵がインドネシア独立のために戦ったからでもあるのです。原因が色々あるときその一つだけを学校の歴史で教えて、欧米に追従していれば、間違った歴史感を与えることになります。

ついでに言えば、チャンドラ・ボースがドイツへ行って、ヒットラーにインドの独立を支援を頼んだのです。そうしたらヒットラーは、「インドの独立は150年はやい!」と言って冷笑したそうです。その後、チャンドラ・ボースを潜水艦でドイツから招いたのが日本だったのです。ボースは日本の支援でインド人による義勇兵で組織したインド解放軍を作り、インパール作戦で日本軍とともにインドへ攻め込んだのです。これは客観的事実で現在のインドと日本の関係を理解するために重要な歴史なのです。それを日本の学校では明確に教えてないのです。

教科書に文部科学省の検定があるかぎりこの問題は解決しないと思います。

皆様は日本の学校で教えている歴史をどのようにお考えでしょうか? (終わり)


甲斐駒山麓で偶然見つけたターシャ!

2009年08月28日 | 写真

北杜市の真原桜並木の青葉のトンエルを車でゆっくり走っていました。車窓から左を何気なく見ると、緩やかな南向きのスロープの広い庭に淡い色の花々が咲き乱れ、小さな木造の家の前に白髪の婦人が椅子に腰掛け、膝の上に白い布を広げているのが目に止まりました。

「ターシャが!」、と家内がつぶやくのです。すぐに引き返して、路肩に車を停め、訪れました。

細い路地を入り、名刺を出しながら声をかけました。晴れやかな笑顔の老婦人がやさしい声で話します。十数年前に、息子さんとこのへんを回ってここの土地を買い、小屋を建てたそうです。「二人で東京から時々泊まりがけで庭作りに通ってきます。息子も造園が好きで一年を通うして花々が咲くようにつくってくれました」と微笑みながら話して下さいました。南向きの傾斜地には、まさしくターシャの庭のように自然そのままの草花が豊かに咲いています。息子さんはボランテア活動をしながら、時々「草木染めの体験教室」も開催しています。

写真をお楽しみ頂ければ嬉しくおもいます。(終わり)

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色々な庭園とターシャ・テューダーの庭

2009年08月28日 | うんちく・小ネタ

日本が明治維新後、文明開化をし、西欧流の庭園が入ってきました。それまでは小堀遠州流などの庭園が主流でした。現在でも少し大きなお寺の本堂の裏手には、この庭園を楽しむことが出来ます。山の巨岩や滝や湖を小さな築山や池で再現し、見る人に雄大な風景を想像させます。

西洋の庭園はベルサイユ宮殿の庭のように原則として左右対称、幾何学的に整然とした人工美を誇っています。自然の風景に対抗するような造園芸術です。

ところがターシャ・テューダーの庭は自然にあるがままの草花を美しく配置し、育てた庭です。人工的な造園ではなく自然の野原に咲く花々の美を凝縮、再現したような庭です。

日本人にに馴染み易い庭園なので大変人気があり、各地にそれを倣ったターシャ流の庭園があります。

ターシャ・テューダーはアメリカの絵本作家です。1915年生まれで高齢の女性です。それで日本の園芸好きの女性のあこがれ的存在になっています。(2008年6月になくなりました)

皆様もターシャの庭を検索して、その自然なままの草花の風景をお楽しみ下さい。

下の写真は山林の中に自然に咲いているホタルブクロの写真です。昨日、山梨の甲斐駒の麓で見つけました。(終わり)

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明治維新以後の日本はアジアの植民地解放に貢献したーそれに感謝している国と感謝していない国―

2009年08月28日 | インポート

戦争は悪魔の所業です。戦争は絶対にしてはいけません。しかし明治維新以後の日本は数々の戦争をしました。大きな悲劇の傷跡は今でも残っています。

しかし結果的にアジアにあった欧米の植民地の解放と独立へ大きく貢献したことは歴史的事実であり否定のしようが有りません。しかし、この日本の貢献へ感謝している国と、反対に日本を憎んでいる国があるのです。結論を出す前に以下のエピソードをお読み下さい。

      ◎ ベトナムと日本の関係の歴史

1990年代に入り、日本企業は中国やベトナムへ工場を移転・拡大しはじめた。ところが、工場建設の許認可から、生産管理、利潤の送金などでトラブルが生じた。日本企業はアメリカやヨーロッパで工場を建設し、順調に生産を続けてきたが、経験が役に立たない。 そういった現実を踏まえて、あるビジネス学校が「ベトナム・中国ビジネス講座」という夜間講習会を実施したことがある。私はその講座を企画し講師を探す仕事を担当したことがありました。

ベトナムの企業活動に関する法律や規則を教える。ベトナム語を教える。そしてその他にベトナムと日本の関係の歴史を教える。この3分野をカバーしました。

日本との関係、特に第二次大戦中の関係については、日本の敗戦後ベトナムに残留してホーチーミンの部下としてフランスと戦った二人の日本兵と一人の銀行家を講師として依頼したのです。そして自らの見聞や体験を語ってもらいました。

     @温顔の将校ホーチーミン

フランスと戦った二人の日本兵が言います。「作戦の最中、川を渡ることがしばしばあった。川岸に来ると兵隊は下半身裸になり、服を着た将校を背負って渡る。軍隊では当たり前の習慣である。残留日本人は皆将校になったので、服を着たまま兵の肩に載って渡る。ふと前を見ると、将校服の老人がズボンをたくし上げて歩いて渡って行く。向こう岸にたどり着き、渡河した老将校の顔を見ると、それは温顔のホーチーミンだった。兵隊へ「ご苦労さん」と言っているようにニコニコ顔で振り返っていた。こんな場合、日本軍出の将校は兵から飛び降りる。一方ベトナム人将校は自分の行動を続ける。ホーチーミンも将校に歩いて渡れと命令しなし、そんなことを期待もしない。しかし、このエピソードは数日でベトナム全軍に広がる」

ベトナム兵の士気が上がるのは当然であろう。元日本兵はホーチーミンの部下として戦った6年間を人生の中で一番輝かしい期間だったと言う。

   @日本兵帰還の特別列車

1951年になり、朝鮮戦争が始まる。ホーチーミンは中国の毛沢東と相談してベトナムに居る日本兵を北京経由で帰国させることにしました。郷愁の念にかられる残留日本兵に深い感謝を伝え、北京までの特別列車を仕立て送り返したのです。

講師を引き受けたF氏とY氏になぜ残留したのですかと聞いた。「ホーチーミン軍に加われば、食料に困らないと聞いたからですよ。共産主義が正しいとか大東亜共栄圏がよいとか考えませんでした。食べ物の誘惑でしょうね」

     @ベトナムの銀行制度を作った横浜正金銀行の人

もう一人の講師H氏は元横浜正金銀行の幹部であった。ホーチーミン軍の財務担当幹部としてベトナムの銀行制度の骨子を作った。H氏は「ホーチーミンは官僚主義を憎んでいた。ベトナム共産党もすぐに官僚的文化に染まり、その結果、一般人民が被害を受けることを憎んでいた。彼は一般民衆の幸福を第一に考え、アメリカ、ソ連、中国からの完全な独立を確信していた」と語った。

この元横浜正金銀行の幹部であったH氏は帰国後も東京にベトナム大使館開設の為に働き、東京の代々木八幡に開設されたベトナム大使館に協力を続けていたのです。

  @日本へ感謝している国とそうでない国

さて、上に書いたエピソードはベトナムに関するエピソードです。しかし似たようなことはビルマやインドネシアなど幾つかの国々にもあり、日本はアジアの植民地解放に大きな貢献をしたのです。このことで日本へ今でも感謝している国々は、西から言うと、インド、ミャンマー、タイ、ベトナム、カンボジア、ラオス、インドネシア、等です。

反対に日本軍が占領して圧政を敷いた国々では日本を憎んでいます。中国、朝鮮、シンガポール、フィリッピン、マレーシア、などです。

植民地解放へ貢献しても占領して暴虐ぶりを見せつければ感謝されないのは当然ではないでしょうか?皆様は如何お考えでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。  藤山杜人


手術後はじめて山林の中の小屋へ行って来ました

2009年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム

手術後は傷痕も痛みますが、気力がなかなか回復しませんでした。しかし今朝は山梨県、北杜市の甲斐駒山麓の山林の中の小屋へ日帰りで行ってきました。ドライブ中は気分が良く、往復270Kmの道から見える山々の晩夏の緑を楽しんできました。

小屋では家内が庭の清流の写真を撮っていましたので、2牧の写真を掲載します。上の写真の右手の見える四角のワクは孫たちがテントを張ってキャンプごっこをする場所です。

松林に松蝉が鳴き、涼しい風が吹き、夏の終わりを告げていました。山荘に独り住んでいる鬼家(オニイエ)さんを訪問して来ました。お元気そうでした。(終わり)

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何時までも新鮮で魅力的なブログを作る為の個人的な方法

2009年08月27日 | うんちく・小ネタ

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ブログには日常茶飯事を日記のように書いても楽しめます。また折々の個人的な感情の動きを書いても楽しいものです。子育て日記も孫の成長を読むようで楽しいものです。何を書くかはまったく個人の自由です。

そこで今日は私の書き方をご紹介したいと思います。少しはご参考になれば嬉しく思います。

このブログには写真や文章が掲載してあります。このブログの新鮮さや魅力を永久に保ちたいと思いながら作っています。自分のブログが数年先にもう一度見直して新鮮さが失なわないように書いているつもりです。魅力や内容の価値が減らないような作り方に努力しています。その為に、以下のようなことを心に決めています。まあ、必ず守るという硬い考えではありませんが。

(1)時事問題はなるべく取り上げない。

新聞やテレビで騒がれている政治的ニュースや社会的事件に関連した写真や記事をブログに出すと、その騒ぎが収まるとともにブログの面白さや内容の価値が無くなります。なるべく時流に乗らないようにしてます。

(2)流行の趣味、多くの人々が趣味にしていることをなるべく話題の中心にしない。

例えば、写真は多くの人々が趣味にしています。そこで、上手な写真の撮り方や高級な写真機の情報を中心にした記事を書きたくなります。多くの人の注目を集めますが、新しいカメラが販売されると寿命がなくなります。上手な写真の撮り方はプロの先生から習うのが良く、ブログで伝授するには難しすぎます。それに一番の理由は自分が不器用で写真がとても下手だからです。

(3)自分の家族の個人的なことはなるべく書かにようにしています。

家族の日常茶飯事を、下手な文章や写真で紹介したものは、他人様にはあまり面白くないと思います。しかし、家族の個人的なことでも書き方によっては普遍的な価値も大きく、寿命も永遠に続きます。江戸時代の家族も現在の家族にも共通な喜怒哀楽を鮮明に描き出し、家族の絆を賛美する。そんな記事が書ければ良いのです。難しいことですが、筆者は時々チャレンジしています。

(4)一つの地味なテーマだけをなるべく根気良く追い続ける。

このようなブログは何時までも新鮮さを失いません。寿命も長くなります。でもそのような根気をお持ちの方は少ないのです。このブログではヨットのことと山林の中の小屋のことを根気よく書いているつもりですが難しいものです。話題がなくなり毎回同じような写真や文章になってしまいます。

(5)他の人々のブログを読み、何時までも新鮮さを失わず魅力的な写真や文章を見つける。転載許可の連絡を送り、許可を貰ったら自分のブログへ掲載する。こうすることにより自分のブログの内容がより豊かになり、何時までも新鮮さを失わない。

さて、上記の(1)から(5)だけで良いわけではありません。一番重要なことはブログで取り上げるテーマの選択です。地味なテーマなら何でも良いのではないのです。一瞬、非常に面白く感じさせ、読後に深く考えさせ、読者の生き方へ何か善い影響を与えるようなテーマが選べれば大成功です。無価値なテーマを根気良く続けても、無味乾燥で、あまり価値がありません。

それでは自分のこのブログの寿命は長いのでしょうか? あるテーマを根気良く取り上げた部分と、流行に乗った軽薄な部分とが混じり合った内容になっています。信念と根気が無いのでこうなるのだと思います。一般論を堂々と言うのは易しいのですが、実行が難しいのです。その見本のようになっていて恥ずかしいです。反省しています。

さて試しに趣味人倶楽部の「フォト子さん」の昨年の日記を色々読んでみました。そうしたら霞が浦の帆引き漁の写真が根気良く掲載されています。そして終いにはご自分の傑作写真を郵便局へ頼んで80円切手にして貰っているのです。帆引き漁は江戸時代から続く伝統的な漁です。フォト子さんがこの古いテーマを何回も取り上げているので逆に「日記の新鮮さ」が何時までも失わないと感じました。感心しました。

もう一つはDanielさんの日記です。昨年、ガンがあちこちに転移しているのが見つかりました。何度も手術を受け、治療を受けてきた内容の日記です。これは闘病をテーマにした日記ですがガンになっている人々に大変参考になります。私もガンになりましたので非常に参考になりました。それだけではありませんDanielさんの余裕綽々たる日常生活の様子に励まされます。人間の精神の強さと家族愛の美しさに感動」します。

最後に、何時までも美しくあれと願いつつアメリカのアーミッシュ村の馬車の写真と、私の近所のケヤキの木々の写真をお送りします。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。  藤山杜人

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