後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日の日記、富士山5合目まで上がり紅葉の写真を撮った

2019年10月31日 | 日記
今日はブログに「北信州の滝と紅葉の風景写真をお送りします」という記事を掲載してから8時35分に家を出発して富士山へ向かいました。
中央高速自動車道路を河口湖で出て富士スバルラインで富士山五合目まで上がりました。
途中のあちこちで止まりながら紅葉の写真をとりました。
3合目までは雲が厚く覆っていましたが3合目から上は晴天です。一面の雲海の向こうに南アルプスの連山と八ヶ岳が浮かんで見えました。
5合目手前の広い駐車場に車を入れ車中で持参のオニギリの昼食を食べました。
昼食が終ってもまだ12時になったばかりです。
紅葉の風景をゆっくり楽しみながら河口湖まで下りてきました。
湖も静かに秋の陽射しに輝いて美しかったので河口湖をゆっくり一周しました。
帰路は又中央高速自動車道路です。
自宅に着いたのは午後3時5分前でした。
良い商人は早く店を閉めるということを大切にした小さな旅でした。
写真は富士スバルラインの五合目から見上げた今日の富士山です。

「北信州の滝と紅葉の風景写真をお送りします」

2019年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム
長野県、須坂市の東方の山に不動の滝(落差85メートル)と権現の滝(75メートル)の総称『米子大瀑布」がありまます。2010年10月24日午後2時30分、現地の女性の山岳ガイドの宮川さんが東京から行った26名を引率して出発しました。妻は宮川さんと話を聞きながら登ったそうです。11年もガイドをしているベテランです。山の歴史、草木の名前、北信州独特の方言などいろいろ教えてくれたそうです。
30分登って不動の滝が見える所で私は限界です。そこから登山道が急に険しくなります。険しい登りだけでなく、急な下りも随所にあり大変な行程なことが分かります。
若い頃、山に登っていたので地形からどの程度険しくなるか理解出来ます。
皆と別れて、独りで紅葉の山を満喫しながら悠々と降りてきました。
独りになって急に紅葉が輝き出しました。清流が岩を噛む川原へ降りて、しばし景色を楽しみました。
団体で山を歩くのも良いのですが独りになる時間も大切な事が分かりました。
一歳下の妻は毎日ランニングをしているので健脚です。1時間登って米子瀑布の2つの滝の真下へ行ったり、嘗て1600人もの人々が住んでいた米子硫黄鉱山の村落跡地近くまで行って写真を撮ってきました。

今日は家内が撮って来た写真をご紹介致します。始めの写真に宮川さんが写っています。
小雨の中の写真ですので、鮮明ではありません。

それはそれとして今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘














今日の日記、銀行に行き、「蚕糸の森公園」の樹木の写真を撮った

2019年10月30日 | 日記
朝食後は「富士山の5合目の紅葉の写真をお送りします」という記事をブログに掲載しました。
それから銀行へ行って来月の生活費を下ろし、その足でスーパーに行き日常の食料品を買いました。
スーパーから帰ってから昼食です。
午後は大きな樹木の写真を撮るため日野市の「蚕糸の森公園」に行きました。
ここは戦前から国立蚕糸試験場のあった広い森です。現在は日野市の「蚕糸の森公園」になっています。
大樹の写真を撮り小金井市に帰って車のガソリンを満タンにしました。天気が良いので明日は朝から富士山方面へ遊びに行こうと思っています。
何やら結構忙しい一日でした。蚕糸の森公園で撮った写真をお送りいたします。





「富士山の5合目の紅葉の写真をお送りします」 

2019年10月30日 | 写真
この頃は長距離のドライブが億劫になり行かなくなりましたが富士山の五合目までは何度も行きました。河口湖から富士スバルラインで5合目まで登り車を置いて少し歩くのです。
四季折々に絶景を楽しめますが紅葉の風景も良いものです。
今日は2011年の10月に撮った紅葉の写真をお送りいたします。
5合目から6合目方向へ歩きながら撮った写真です。









こんな写真を見ていると日本はなんと美しい国だろうと幸せな気分になります。
しかし昨日から少し暗い気分です。
アメリカ軍の特殊部隊があイスラム国の首領のバグダーディの隠れ家を急襲し彼と子供3人を殺したというニュースを見て暗い気分になったのです。
以前にアメリカはイラクを軍事占領しフセイン大統領を捕らえ死刑にしました。
2001年の同時多発テロの首謀者のビンラーデンもアメリカ軍の特殊部隊が彼の隠れ家を急襲し殺しました。
そして2011年には反米政権のリビアのカダフィ大佐もNATO軍の空爆で殺されました。
何故私が暗い気分になるか理由があるのです。
それはアメリカというキリスト教の国が個人を標的にして軍事作戦を遂行して殺してしまうからです。
イエス・キリストは教えました。復讐をしてはいけない。恨みを晴らす為に人を殺してはいけない。それは神のすることで人間は行ってはいけないと教えたのです。
宗教の無力さを見て暗い気分になったのです。
特に若い頃アメリカに留学しアメリカの良いところに感動した私にとっては幻滅です。
1960年代のアメリカは理想に燃えていたようでした。
あの理想国家のアメリカは何処に行ってしまったのでしょうか?
美しい紅葉の写真で幸せに思いながらも一方で暗い気分になっています。

今日は富士山の5合目の紅葉の写真をお送りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

写真で感じる鎌倉仏教

2019年10月29日 | 日記
昨日はあきる野市の広徳寺をご紹介いたしました。

1番目の写真がその本堂です。
このかやぶき屋根のお寺を見て私は「嗚呼、鎌倉佛教だ!」と強く感じました。
建てられたのは鎌倉時代の後の1373年ですが、お寺全体の雰囲気が鎌倉仏教そのものです。

突然私的なことを書いて恐縮ですが私の家内は鎌倉生まれで終戦の年までそこの幼稚園や小学校に通っていました。
鎌倉は楽しい所だ良い所だとしきりに言うので私も何十回も鎌倉に遊びに行きました。鎌倉のお寺へも何十回も行き写真を撮りました。境内に佇んだり坐ったりしていると、とても穏やかな気持ちになれます。
そうしたら鎌倉佛教とはこういうものだと感じられるようになったのです。それは奈良や京都の佛教と違うのです。

そこで今日は皆様に鎌倉の佛教を感じて頂けるように幾枚かの写真をお送りいたします。

2番目の写真は鎌倉仏教を代表する建長寺の山門です。
建長寺は鎌倉五山の第一位の寺で臨済宗建長寺派の大本山です。建長5年、1253年に幕府五代執権北条時頼が建立したわが国最初の禅寺です。
建長寺の開山は中国から来た蘭渓道隆によってなされたのです。

3番目の写真は建長寺の鐘楼です。鐘楼の鐘は建長寺創建の時に鋳造されたもので国宝に指定されています。鐘楼の屋根が茅葺なのが古さを感じさせます。

4番目の写真は円覚寺の坐禅堂の選仏場の写真です。円覚寺は一般向けの座禅会や学生座禅会などを毎日のように開催していてます。

5番目の写真は海蔵寺です。質素で小さなお寺です。侘びを感じさせるたたずまいです。この雰囲気が好きで何度も行ったお寺です。

6番目の写真は報国寺の竹林です。本堂が立派でないので竹林がこのお寺の魅力です。

7番目の写真は光明寺の山門です。
この光明寺の山門だけは例外的に壮大です。浄土宗の本山の一つの「大本山」なので大きいようです。この寺以外はとにかく小さいのです。お寺の雰囲気も侘しいのです。
鎌倉のお寺はみな質素です。しかしその厳しさ、侘しさが何とも言えぬ魅力なのです。

以上の7枚の写真で鎌倉仏教というものを感じて頂けたと思います。
感じて頂けたらそれで良いのですが蛇足を少々書かせて下さい。

飛鳥時代や奈良時代に日本に入って来た仏教は天皇や貴族のための佛教であり、「護国安泰」の目的で保護されました。
従って一般民衆の救済は重要視されていません。ただ空海、すなはち弘法大師だけは天皇、貴族だけでなく民衆の救済のための行脚をしたことで有名です。
しかし鎌倉時代になると仏教は武士や民衆の魂の救済を重視するようになります。教義も非常に簡単になり、例えば南無阿弥陀佛と念仏を唱えるだけで極楽に行けるという宗派も出てきたのです。誰でも出来る座禅を重視する禅宗が盛んになります。
この新しい仏教への変革を鎌倉時代の仏教改革と言います。禅宗とは臨済宗と曹洞宗と江戸時代に伝えられた黄檗宗です。
このような仏教改革を受けて、鎌倉のお寺は禅宗の建長寺と円覚寺の二つ以外のお寺は規模が小さくて質素なたたずまいです。天皇や貴族の保護を受けた京都の寺のように華やかでありません。静かな小さいお寺が沢山あるのです。
私はもう50年くらい前から鎌倉にとりつかれ何度も訪れました。瑞泉寺、明月院、寿福寺、杉本寺、海蔵寺、報国寺、光明寺、などなど30位のお寺には何度も行きました。ある時は鎌倉や逗子や江の島の宿に泊まり、まだ人のいない朝早くから、読経の声が響く境内を散歩したものでした。

鎌倉の仏教は質素を美徳にした武士や庶民の為の仏教なのです。
鎌倉時代の宗教改革は主に京都で起きましたが、その当時の政治権力が鎌倉にあったので、新しい宗派の寺を鎌倉に建てたのです。
その改革によって生まれた6つの宗派を鎌倉仏教と言います。1、浄土宗 、法然(源空)、2、浄土真宗(一向宗) 親鸞、3、時宗(遊行宗) 一遍(智真)、4、法華宗(日蓮宗) 日蓮、5、臨済宗、栄西、6、曹洞宗 、道元、の6宗派です。

現在、鎌倉にあるお寺の一覧表は末尾の参考資料にありますが、その大部分はこの新しい仏教宗派のお寺なのです。
古い時代に鑑真の開いた奈良仏教の宗派や、空海の真言宗や最澄の天台宗はその教義とは関係なく、天皇や貴族によって保護されたために京都にある寺院仏閣はどうしても華美なものになっているのです。
ところが、これらの宗派のお寺も鎌倉にもあります。真言宗や天台宗のお寺も幾つかあります。
しかしそれらのお寺も質素なたたずまいです。鎌倉の武士や庶民の信仰の対称になっていたので華美な雰囲気はありません。
さて、鎌倉のお寺を訪れると「鎌倉五山」とか「京都五山」という言葉が出てきます。
当時の政治権力者が新しい禅宗の臨済宗などの寺院を格付けし、管理をする制度で選ばれたお寺です。
第一位の建長寺から順々に円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺(第五位)というランクがあったのです。幕府が住職を任命していたのです。
しかし、この鎌倉五山のお寺も贅沢とはほど遠いたたずまいを見せています。
そんな鎌倉なので茶道も盛んでした。お寺の僧たちが茶道を愛したのです。現在でも抹茶を出してくれる店があちこちにあります。
鎌倉のお寺めぐりの魅力は「わびさびの世界」にあるようです。日本人の心の琴線を掻き立てるのです。勿論外国の観光客もこの「わびさびの世界」を感じ鎌倉を再訪する人も多いのです。

今日は鎌倉仏教を写真で感じて頂けるような紹介をしたつもりです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人

===参考資料=================
(1)鎌倉の寺院一覧:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82%E5%86%85%E3%81%AE%E5%AF%BA%E9%99%A2%E4%B8%80%E8%A6%A7
鎌倉地域
扇ガ谷 英勝寺 東光山 浄土宗 玉峯清因 英勝院 1636年(寛永13年)
鎌倉地域
扇ガ谷 海蔵寺 扇谷山 臨済宗建長寺派 心昭空外 上杉氏定 1394年(応永元年)
鎌倉地域
扇ガ谷 護国寺 (鎌倉市) 立正山 日蓮正宗   日達 1969年(昭和44年)
鎌倉地域
扇ガ谷 寿福寺 亀谷山 臨済宗建長寺派 栄西 北条政子 1200年(正治2年) 鎌倉五山第三位
鎌倉地域
扇ガ谷 浄光明寺 泉谷山 真言宗泉涌寺派 真聖国師 北条長時 1251年(建長3年) 鎌倉観音霊・・・・以下省略します。
(2)日本の仏教宗派一覧:http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/bukkyou26-4.htm
(3)鎌倉仏教:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E4%BB%8F%E6%95%99
「鎌倉新仏教」とは、一般には次の6宗を示している。
浄土宗 法然(源空)
浄土真宗(一向宗) 親鸞
時宗(遊行宗) 一遍(智真)
法華宗(日蓮宗) 日蓮
臨済宗 栄西
曹洞宗 道元
(4)鎌倉五山:
我が国の禅宗のうち、臨済宗の寺院を格付けをする制度。すなわち、幕府が任命した住持(住職)を順次上位の寺に昇進させることにより、幕府の管理下に置き、コントロールしようというもの。 鎌倉幕府の五代執権、北条時頼の頃、中国の五山の制に倣って導入したのが始まりで、その時々に応じて入る寺院や順位などが変動した。最終的には、京都と鎌倉にそれぞれ五山、その上に「五山之上(ござんのうえ)」という最高寺格として南禅寺が置かれた。現在の五山の順位が決まったのは、至徳3(1386)年、室町幕府三代将軍・足利義満の時。ちなみに、五山の下には、十刹、諸山がある。
(京都・南禅寺 - 別格上位)
建長寺 - 第一位
円覚寺 - 第二位
寿福寺 - 第三位
浄智寺 - 第四位
浄妙寺 - 第五位
(5)鎌倉の寺院マップ:http://www5d.biglobe.ne.jp/~shocoma/tp/kmmp.htm
そして、https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=znOgXTlC1ISA.k2mXDagL2b0E&hl=en_US

今日の日記、市役所に行き武蔵野の風景写真を撮りに行く

2019年10月28日 | 日記
今朝は「写真で見る奇蹟のように残った茅葺屋根の古刹」という写真記事をブログに掲載しました。
それから市役所に行き「介護保険」の来年度の更新手続きの書類を提出してきました。
私は10年以上以前から足がふらつく難病にかかっています。高齢になるにしたがって小脳が委縮する小脳脊髄変性症という治療方法の無い老人病です。
4年前から介護保険の一番下の「要支援1」という保険の支援を東京都から受けています。。
そのお陰で車で送迎付きのリハリビ゙に週に1回通っています。また歩行を助ける歩行器も格安でリースしています。
そんな事情なので介護保険に感謝しています。
この難病は小脳だけの病気なので幸い大脳は健全です。気分も毎日爽快なのです。
大脳か健全なので自動車の運転には支障がありません。体のどこにも痛い所はありません。庭木の枝を切降ろすなどの労働も出来ます。
写真も撮れます。しかし行った先々では身軽な家内が走り回って写真を撮ってくれます。
今日の午後は埼玉県所沢の武蔵野の写真と清瀬市金山緑地の欅が少し黄葉した写真を撮って来ました。









写真で見る奇蹟のように残った茅葺屋根の古刹

2019年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム
茅葺屋根は縄文時代から明治時代を経てつい最近まで日本人を雨露から守ってくれました。
茅葺屋根は日本の文化の支えでした。ですから茅葺屋根は日本人の心のふるさとなのです。
したがって日本のあちこちに茅葺屋根の江戸時代の農家を復元し展示してあります。

一方お寺の屋根はみな豪華な瓦葺でした。かやぶき屋根の古いお寺が無いのです。かやぶき屋根のお寺があったら古い雰囲気になり歴史を感じさせる筈です。
私はそんな古刹を数年探しておりました。それが先週の土曜日に偶然発見したのです。
そのお寺は東京の西の郊外のあきる野市の広徳寺です。臨済宗建長寺派のお寺で室町時代の応安六年(1373年)に鎌倉建長寺の心源希徹禅師に請うて創建された古刹です。境内が1万2千坪もあり大木に囲まれた静かな別世界です。
これこそ私が数年探していた茅葺屋根の古刹です。感動しました。
今日はかやぶき屋根の広徳寺を写真でご紹介いたします。総門、山門、本堂が東西に一列になっている古刹です。

1番目の写真は本堂です。圧倒的な感動に包まれて私は椅子に長い間坐って眺めていました。椅子とは最近使い始めた歩行器の椅子です。椅子に座ってゆっくり写真を撮りました。

2番目の写真は本堂の右に同じ高さで続く庫裏の写真です。同じ高さで続いているので本堂が非常に大きく見えます。茅葺屋根でも非常に豪華な感じを与えています。

3番目の写真は広徳寺に賓客が来た時に使う玄関です。唐破風の豪華な造りになっています。

4番目の写真は普段に使う庫裏の出入り口です。

5番目の写真は本堂の右前にある堂々たる鐘楼です。銀杏の大木も長い歴史を物語っているで、傍に立っている家内と比較するとその大きさが分かります。

6番目の写真は2階建ての大きな山門です。あきる野市の重要文化財です。

7番目の写真はこの寺で一番古い室町時代の総門です。あきる野市の重要文化財です。

8番目の写真はこの総門の蛙股と木組みを写した写真です。この構造は室町時代のものです。広徳寺の総門はあきる野市で最も古い建物です。

この寺には有名なカヤの大木とタラヨウの大木もあります。
今日示しました本堂や庫裏は江戸時代のものですが創建時代の鎌倉佛教の様式を忠実に遺していると言われています。
本堂の前に長く座っていると鎌倉時代にタイムスリップしたような気分になります。
日本は広いです。根気よく探せばこのような茅葺の大きな堂宇があるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


隠れキリシタン260年の歴史は日本民族の誇り

2019年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム
おはようございます。こんにちは。秋も深まってまいりましたが皆様お元気のことと存じます。
今日は日曜日です。日曜日には宗教にまつわる短い文章を書くことにしています。
今日は隠れキリシタンが自分達の信仰を260年守り続けたことは立派だったという私の感じ方を書きます。信仰に対する誠実さは日本民族の誇りではないでしょうか。私は隠れキリシタン達を尊敬しています。

さてキリストの教えを書いたものが福音書です。それは仏教のエッセンスを書いた般若心経のようなものです。
福音書は明快です。神が人間を愛するのでイエスを地上に送りました。イエスは地上で人々へ、「神を信じるとパライソ(天国)へ行ける」と教えます。そして人々の罪を全て背負って十字架にかけられ処刑されるのです。3日後に生き返って、愛する弟子たちにもう一度会いに来るのです。そして互いに愛しなさい、敵をも愛しなさい、と言って天に登り、神の右の座に着くのです。世界の最終日の最後の審判の時に信者に永遠の命を与えるのです。信者は自分の肉体が永遠に復活することを信じています。
この教えは1549年にフランシスコ・ザビエルによって日本へ伝えられました。

1番目の写真はザビエルです。
この絵はザビエルの死後、日本で描かれ、大阪府の茨木市で、「隠れキリシタン」の家系の家で1919年に発見されました。ザビエルの来日以後、実に370年目に大阪府で現れた肖像画です。現在は神戸市立博物館にあります。

ご承知の通り豊臣秀吉が始めたキリシタンの禁教政策は徳川家康に引き継がれ、三代将軍の家光の時に徹底的に実行されるのです。キリシタンとして捕縛された信者が日本全国で多数処刑されたのです。
秀吉以来の処刑者は一説によると30万人に及ぶとも言われています。
信者を処刑しただけでなくあらゆる教会や集会所を破壊し尽くしたのです。
残ったのは隠れキリシタンの家の納戸(押し入れや戸棚)の奥に隠くした福音書の断片や祈祷書だけになったのです。信者だけが隠れて集まり、聖母像(マリア観音)の絵や彫像を持ちだし、農家の奥の部屋で一緒にミサを立てたのです。
この事実はキリスト教が背負って来たヨーロッパ文化が消し去られた状態を意味します。美しい異国的な教会も、聖歌も、伴奏の楽器も、絢爛豪華な法衣も全て無くなったのです。
福音書や祈祷書だけが残ったのです。もしキリスト教が日本人の心の中に根付いていなければ、これで終りになる筈でした。しかしキリストの教えが根付いていたのです。
260年も代々と人々の心の中に信じられてきたのです。
そしてもう一つの伝承と共に。「神父様が必ず帰って来て教会を建ててくれる」という伝承です。
明治維新後にフランスから長崎へ来たプチジャン神父の所へ隠れキリシタンがやってきます。そして「神父様が帰ってきて教会堂を建ててくれると260年間信じてきました」と言いだしたのです。

あなたは日本人は凄い民族だとお思いになりませんか?
キリスト教の背負ってきた華やかな西洋文化が完全に無くなっても、弾圧に耐え、教義だけを260年も代々信じて来たのです。踏み絵を踏んで表向きは仏教徒になりすまして居ました。その一方で、隠れて集まりミサを立て、祈り続けて来たのです。
この隠れキリシタンの歴史は私たちへ一つの強いメッセージを送り続けています。
「どんな宗教でもその伝来の時背負って来た文化や習俗が無くなっても、人々の心に永遠に根付くものです」というメッセージです。

私はカトリックの信者です。本当はキリスト教のことはあまり深く理解していません。信仰も弱いと思っています。しかし何故カトリックか?と問われれば「隠れキリシタン」を尊敬しているからです。それだけの話ですが、皆様はどのようにお考えでしょうか?
この記事をお読み頂けた方々へ深く感謝いたします。そしてお読み頂いた方々の上に神様の慈しみが豊かにありますように心からお祈り申し上げます。

2番目の写真は長崎にある26聖人の像です。出典は、http://www.asahi-net.or.jp/~yj9m-nkmr/seijin.htm です。二十六人のうち、日本人は二十名、スペイン人が四名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ一名であり、すべて男性でした。舟越保武氏の作です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「人間が好きだから人生という旅が楽しくなる」、続き

2019年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム
私の人生において何の縁故もない本当に数多くの日本人に親切にして貰い助けて貰いました。
外国でも色々な人々に助けられ親切にしてもらいました。
そんな体験のお陰で私は人間が好きになりました。人間が好きになると人生が一層楽しくなったのです。
それで昨日は「人間が好きだから人生という旅が楽しくなる」と題する記事を掲載しました。
4つの短い雑文の組み合わせですが、昨日は前半分の二つを掲載しました。昨日掲載した項目は次の通りです。
(1)不登校の生徒が好きになった話
(2)特攻隊員の悲劇を悲しみその心情に心打たれる

今日はその続編として後半の二つの項目をお送りいたします。

(3)私は隠れキリシタンの人を尊敬し好きになりました
隠れキリシタンの人々を尊敬し好きになりました。その結果、信仰の道へ導かれカトリック信者になってしまいました。
若い頃、世界各地の民族の生き方に興味があり色々手当たり次第に雑然と本を読んでいました。
その雑多な本の中に、片岡弥吉氏の「長崎の殉教者」という本が混じっていました。昭和45年3月30日初版発行の「角川選書33」です。
隠れキリシタンはもちろん日本人ですが、何か別の種族のようで、興味本位に読んでいました。でも何か感動し、長崎市本原町35番地に住んでいた著者の片岡弥吉氏へ手紙を出しました。丁寧な御返事をいただきました。その返事に誘われて片岡氏の他の本を読み、その後で遠藤周作の「沈黙」を読みました。読む順序が偶然良かったので沈黙の意味がよく理解出来ました。
戦国時代や江戸幕府の初期に捕まったキリシタンや外国人の神父を棄教させるために拷問にかけるのです。いくら長い間拷問を受けても神は助けに来ません。イエス様もマリア様も慰めに来てくれません。殉教して死が訪れるまで神は沈黙を守ります。これがカトリックの信仰です。どうしますか?
遠藤周作はこのような信仰のあり方に疑問を感じたのです。そして「沈黙」という小説を書いたのです。
私は「沈黙」を読んだおかげで興味が倍加しました。神が困ったときに助けに来なくても良いと思いました。
一生続けるつもりは無くそんな考え方を少し体験してみようと、気軽に洗礼を受けました。
後で考えると「隠れキリシタン」に捕まってしまったようなものです。
洗礼を受けてから48年ですが私は相変わらずミサに行っています。
隠れキリシタンや片岡弥吉さんや遠藤周作さんなどは素晴らしい人間です。それで人間が一層好きになりました。

(4)中国のある共産党員を私は好きになりました
中国人の共産党員が私を信頼し何でも見せてくれたのです。
以下は共産党員の周栄章教授が案内して見せてくれたことです。
北京の大学へ行ったのは1981年から数年です。観光客の行かない学生食堂で学生と一緒によく食事をしました。中国の大学は原則として全員寮生活で朝昼晩の三食は大きな学生食堂で摂ります。料理の品数は少ないが北京料理です。食器は自分が寮から持ってくる琺瑯引きの鉄製のドンブリです。食べ終わったらまた寮へ持ち帰り自分で洗うのです。
よく見ると、隣にもう一つ学生食堂があります。
回族学生専用の食堂だそうです。回族は豚肉を一切食べないのでラードで炒めた料理もいけません。回教の定めに従った方法で殺した羊を食べるのです。豚肉抜きの異なるメニューの回族学生の食堂なのです。
北京の街には回族食堂という看板を掲げた店が多いのです。白い布で髪の毛を隠した女や丸い帽子をかぶった男の回教徒が大勢歩いています。
あるとき、中心街に近い大通りを埋め尽くして羊の群れが悠々と流れていました。独特の帽子をかぶった回族の羊飼いを、だれも非難がましく見ないのです。ある季節になると羊の市が立つのです。羊の群れは北京の風物詩です。
高層ビルが林立する現在では見られない中国の思い出の風景でした。
こんな風景を見たので私は周栄章教授やその他の中国人一般が好きになってしまったのです。

今日は「人間が好きだから人生という旅が楽しくなる」という雑文の続編を掲載しました。4つ程の体験のうち後半の2つです。

今日の挿し絵の写真は10月に咲き出す花の写真です。写真は上から順に、シクラメン 、ボタン 、マリーゴールド 、ペチュニア、サルビアです。写真の出典は、https://hananokotoba.com/10gatsuhana/ です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)











過ぎ去った今年の夏の思い出の花々の写真

2019年10月24日 | 日記
この頃は朝夕が寒くなってきました。あんなに暑かった夏の日々が恋しいくらいです。
そこで過ぎ去った今年の夏の思い出の花々の写真をお送りしようと思います。
お時間のある方はゆっくりお楽しみ下さい。
写真と花名の由来や花言葉の出典は、http://hananokotoba.com/natsu/ です。

1番目の写真はアガパンパスです。
花名の由来、
属名の学名「Agapanthus(アガパンサス)」は、ギリシア語の「agape(愛)」と「anthos(花)」が語源となり、「愛の花」という意味があります。
別名は紫君子蘭(ムラサキクンシラン)、英語ではアフリカンリリー(African lily)とも呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉も「愛の花」という意味をもつアガパンサスの名前にちなんだものとなり、「恋の訪れ」「ラブレター」の花言葉がつけられました。「知的な装い」の花言葉は、淡青紫色の涼しげで繊細な花姿に由来するといわれます。

2番目の写真はアサガオです。
花名の由来、
花名のアサガオ(朝顔)は、朝に花を咲かせ、昼にしぼんでしまう様子を「朝の美人の顔」に例えた「朝の容花(あさのかおばな)」の意味であるといわれています。
花言葉の由来、
花言葉の「はかない恋」は、朝咲いて午後にはしぼんでしまう短い命の花であることに由来します。また、「固い絆」の花言葉は支柱にしっかりとツルを絡ませることにちなみます。

3番目の写真はアリウムです。
花名の由来、
属名の学名「Allium(アリウム)」は、「におい」という意味の言葉が語源となり、この属の植物の多くが強いにおいを放つことにちなむといわれます。ラテン語で「allium」はニンニクを意味します。
花言葉の由来、
花言葉の「深い悲しみ」は、アリウムの花姿が悲しみたたずむ人間を連想させることに由来するともいわれます。

4番目の写真はオジギソウです。
花名の由来、
オジギソウ属の学名「Mimosa(ミモザ)」は、ギリシア語の「mimos(身振り、まね)」が語源で、この植物がおじぎのまねをすることに由来します。
このようにミモザは本来オジギソウ属を指す植物名ですが、フサアカシア(アカシア属)の葉がオジギソウのものに似ていることから、誤ってフサアカシアをミモザと呼ぶようになりました。
英語では「敏感な草(Sensitive plant)」、漢名では「含羞草(恥ずかしがる草)」と呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉の「繊細な感情」「感受性」「敏感」は、オジギソウの葉に軽く触れるだけで、葉が閉じ垂れ下がってしまうことにちなみます
5番目の写真はカラスウリです。
花名の由来、
属名の学名「Trichosanthes(トリコサンセス)」は、ギリシア語の「thrix(毛)」と「anthos(花)」が語源となり、花びらの縁部が細裂して糸状になることに由来します。
和名の烏瓜(カラスウリ)は、熟した赤い実をカラスが好んで食べることにちなむともいわれます。しかし、特にカラスの好物という観察例はほとんどないようです。
英語では「Japanese snake gourd(日本のヘビウリ)」とも呼ばれます。
花言葉の由来、
花言葉の「よき便り」は、実のなかの黒褐色のタネの形状が結び文に似ていることに由来するといわれます。特異なタネの形状はカマキリの頭部や打ち出の小槌にたとえられることもあります。
「男ぎらい」の花言葉は、この花が日没後にレースのような純白の花を咲かせ、日の出前にはしぼんでしまうことにちなむといわれます。

どうぞ花々の写真を眺めがら悠々したご気分で今日の午後をお過ごし下さい。

「人間が好きだから人生という旅が楽しくなる」

2019年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は「人間が好きだから人生という旅が楽しくなる」という雑文を書いてみたいと思います。4つの短い雑文の組み合わせです。組み合わせと言ってもお互いに関連の無いものです。
私の人生において何の縁故もない本当に数多くの日本人に親切にして貰い助けて貰いました。
外国でも色々な人々に助けられ親切にしてもらいました。
そんな体験もあったからでしょうが、私は人間が次第に好きになりました。そして人間が好きになると人生が一層楽しくなったのです。
4つ程の体験を思い付くままに書いてみます。

(1)不登校の生徒が好きになった話
1994年から1998年まで不登校生が多い特別な高等学校の顧問のような仕事をしていました。通信高校制の勉強をし、3年後には高校卒業資格を取ることが出来る学校です。
中学校や高校で不登校になり勉強について行けなくなった生徒の高校卒業資格取得を支援する学校です。
顧問のような立場だったので、よく両親や不登校生だった生徒の相談に乗りました。不登校関係の本もいろいろ読みました。それで明解に分かったことが二つありました。
(1)これは紛れもない病気である。(学校へ行こうとすると頭痛や腹痛が本当に起きる)
(2)病気の原因は複雑であり、またその原因を不登校生と話し合ったり、議論すると病状がますます悪くなる。親や先生も原因を子供に追求したり、説教するとますます悪くなる。
(1)は説明の必要がない。
(2)は複雑な心因性の病気の原因を本人と一緒に追求したり議論すると本人はもちろん周りの家族を傷つける結果になるのです。そのことが病状を一層悪くするのです。間違った親や先生の対応が一層悪くするのです。
病気ですから説教しても直らない。例えば風邪を引いている人へ「咳をするのを止めなさい!そうすると風邪が治りますよ」と言ったとしたら、それは馬鹿げている。
不登校生へ学校へ行きなさいということほど馬鹿げた話は無い。本人も行きたいのだ。
病気だからかかり易い人、かかり難い人が居る。かかり易い生徒は「人間関係を作ることに生まれつき不器用な人間」なのです。
人間関係がうまく作れないのには2つのタイプがあります。
他人へ対して攻撃的で独善的な人。そしてもう一つは性格が優しすぎて、自分が他人を傷つけるのが怖くて人間関係が器用に作れない人。そして、自分の心が傷つくことに過敏になり過ぎる人。
不登校になる生徒は圧倒的に後者のタイプの人です。
不登校生と1時間、2時間と話し合っていると、まず彼らの優しさに圧倒されます。こちらが不愉快になるような言葉を絶対に喋りません。数人の不登校生と話し込んで例外なくすっかり好きになってしまいました。人間ってこんなに優しくなれるのだ、という感慨にとらわれます。
すると相談にくる両親へ言うべきことが分かります。「学校へ行きなさい」は禁句ですよ。「不登校は病気だから絶対に直るよ。親だから心配はしているよ。食事だけは部屋へ届けるから健康だけには注意してね。気が向いたらコンビニへでも買い物に行って良いよ。」それ以上のことは言ってはいけないのです。ただ温かい気持ちで接することだけが重要になります。
こんな体験で不登校生が好きになってしまいました。
その延長として「引きこもり」なども善い人間性の表れのように思っています。周りの家族の心労が大きいだけに、本人からは距離をおいて、一層好きになって上げればよいのです。でも言葉でいい過ぎないように。
こんな体験で私は不登校の生徒が好きになったのです。

(2)特攻隊員の悲劇を悲しみその心情に心打たれる
現在確認されている特攻隊員戦死者数は以下の通りです。
海軍
海軍航空特攻隊員:2,531名
特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名
回天特攻隊員:104名
震洋特攻隊員:1,081名
合計:4,156名

陸軍
陸軍航空特攻隊員:1,417名
丹羽戦車特攻隊員:9名
陸軍海上挺身隊員:263名
合計:1,689名

この他に第二艦隊戦没者、回天を搭載して出撃し未帰還となった母艦潜水艦搭乗員、移動中の乗船海没などにより地上戦に参加した戦没者等の特攻作戦関連戦没者が
第二艦隊戦没者:3,751名
回天部隊関連戦没者:1,083名
震洋部隊関連戦没者:1,446名
陸軍航空関連戦没者:177名
海上挺身隊関連戦没者:1,573名
空挺部隊関連戦没者:100名
その他(終戦時自決・神州不滅特攻隊、大分702空等)戦没者:34名
合計:8,164名
以上合計14,009名を数える。(Wikipediaの特別攻撃隊より引用しました)

私は11年前に霞ヶ浦の陸上自衛隊武器学校敷地内にある予科練特攻隊戦死者の写真や関係資料の展示館、「雄翔館」へ行きました。
特攻機とともに突っ込んで行った若者の写真と遺書が数多く展示してあります。皆の顔が悲しそうに見えます。悲壮な雰囲気です。
老人の私から見ると皆子供のように見えます。こんな人々を死に追いやった日本民族の歴史を忘れないようにしたいと思っています。
霞ヶ浦へヨットへ行く折に、時々湖畔にある予科練の跡地の「雄翔館」を訪れました。
葉山マリーナで知り合った元予科練生だったT氏の話によると「雄翔館」は予科練の生存者がお金を集めて作ったそうです。
「雄翔館」の隣にある庭園の予科練生の像には今朝供えたような生花がありました。
そんな体験もあったので九州の知覧にある特攻隊記念館も見ました。
私は何時までも特攻隊員の悲劇を悲しみその心情に心打たれるのです。

少し長くなりますので以下の2項目は明日に記載いたします。
(3)私は隠れキリシタンの人を尊敬します
(4)中国人の共産党員が私を信頼し何でも見せてくれました

今日は「人間が好きだから人生という旅が楽しくなる」という雑文を書いてみました。4つ程の体験を思い付くままに書いてみました。

今日の挿し絵の写真は今年最後のコスモスの花の写真です。三鷹の花と緑の公園で撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)











今日の日記、鶏飯を焚き秋の稲田の写真を撮りに行く

2019年10月23日 | 日記
時々自分で料理をして楽しみます。午前中に鶏飯を焚きました。
重要なことは鶏肉と人参と舞茸を丁寧に小さく切ることです。鶏肉は上等な胸肉を少々使います。肉が多過ぎないようにします。
よく洗い水に30分浸けた米に鶏肉と人参と舞茸を混ぜます。醤油、日本酒、しょうが片を加え電気釜で焚き上げます。
途中で釜を開け味見をして醤油を適量加え余す。鶏飯を美味しく作るコツは醤油を入れ過ぎないことです。
途中で味見をし上品な味に仕上げるのです。
のです。
今日の昼食はこの鶏飯でした。家内が味を褒めました。
午後からはあきる野市の秋川沿いの稲田の写真を撮りに行きました。
稲田はすっかり刈り取られ稲の束が乾してありました。
ここは奥多摩の檜原村から流れ下る秋川のお陰で大昔から水稲栽培がされていた地域です。
お米の収穫が多かったのでお寺も建っています。天台宗の圓通寺です。醍醐天皇の延喜3年(903)に、比叡山延暦寺の讃海阿闍梨の開創と伝えられている古いお寺です。
稲の束が乾してある稲田の風景や秋川の流れや圓通寺の写真をお送りいたします。









清貧の生活を心がけて趣味は贅沢に

2019年10月23日 | 日記
自分の一生は貧乏だったと認めています。しかしやせ我慢してお金を節約して贅沢な趣味を持っていました。そうすると自分が貧乏なことを忘れて人生が楽しくなったのです。豊かな気分になったのです。
しかし「贅沢な趣味」の意味は気分は贅沢だがなるべくお金を使わないことを意味します。

今日はそんな「贅沢な趣味」を二つご紹介します。
一つは別荘を楽しむ趣味で二つ目はキャビンのあるヨットの趣味です。

自分が貧乏だから持っているお金だけで出来る趣味を楽しむ。これが人生を輝かしい日々に変える為の鉄則と確信してきました。
まず別荘の趣味ですが最小の出費にするために整地した別荘地ではなく山林を少しだけ買います。そしてその山林の中に小屋を作るのです。
美しい山林に囲まれた小屋なのて泊まっていると豊かな気分になります。窓の外にある見事な樹々の風景が贅沢な気分にしてくれます。
別荘と「山林の中の小屋」との出費の違いは大きいものです。建造費が違います。別荘地と山林地とは値段も違う上、不動産税が雲泥の差です。
しかし豊かな想像力と自然へ対する憧憬が強ければ同じように楽しめます。ロマンチシズムを持っていると、より一層豊かに趣味を楽しめます。
6畳位と4.5畳の小屋を45年間、増築もせず通っています。
何年か前に中古の電気釜という文明の利器を持って行ったことがありました。
それを使って美味しいご飯を炊いたのです。
友人を招んで、青空の下で家内と3人で昼食を楽しみました。
それだけで楽しいのです。豊な気分になれるのです。
見上げると丘の稜線に立つ雑木林が落葉し、向こう側の青い空が見えます。
テーブルの足元には清らかな水音をたてて小川が流れています。
昼食は炊き上がったばかりの鶏飯だけです。お茶と漬物だけの質素な食事です。モリアオガエルの冬眠のさせ方が食卓の話題でした。
これが私の貧乏だが贅沢な趣味の一つです。写真をお送りします。

1番目の写真は鶏飯を焚くために使った中古の電気釜です。

2番目の写真は出来上がった鶏飯の昼食です。テーブルの足元には清らかな水音をたてて小川が流れています。

さてもう一つの贅沢な趣味をご紹介します。ヨットの趣味です。
お金はそんなにかかりませんでしたが気分はとても贅沢な趣味でした。
このヨットの趣味は50歳から75歳まで25年間楽しみました。体力が無くなり75歳で止めました。
ヨットの趣味は素晴らしい体験でした。
しかしヨットの趣味はお金がかかる、危険だ、仲間が必要だという誤解があってなかなか始める人が少ないのです。そこでこの3つの誤解を解くためにいささか自分の体験をふまえてご説明したいと思います。

(1)ヨットはお金のかかる趣味で自分にはむいていないという誤解
確かにヨットの新品を買おうとしたら300万円から600万円くらい必要です。しかしヨットの中古品なら驚くほど安いのです。
キャビン付の長さ26フィート位のヨットなら100万円くらいで新品同様の中古品が買えるのです。琵琶湖や瀬戸内海方面には安い中古艇が沢山あります。ネットでヨットの中古品を検索すると沢山の情報があります。30万円や50万円の船もあります。
問題はヨットの係留料です。湘南のマリーナなら年間100万円以上ですが、霞ヶ浦の茨城県の経営の場所なら年間5万円の係留料です。全国の県庁が管理している係留場所は格安なのです。根気よく探せば安い係留場所があると思います。
ですから100万円から150万円もあればキャビン付の中古のヨットを買って、ヨットの趣味が始められのです。少しの準備金があれば始められる素晴らしい趣味なのです。

(2)ヨットは転覆して危険だという誤解
ヨットはすぐに転覆してしまうので危険きわまりないと思っている人がいます。
しかしヨットには2種類あって、「すぐに転覆するヨット」と「絶対に転覆しないヨット」があります。前者はキャビン(客室)の無い小型ヨットでディンギーと言い、後者はキャビンがあり、クルーザー・ヨットと言います。
クルーザー・ヨットは長さが普通6m以上で、屋根のついた気密なキャビンを持っています。そして船底に転覆防止のために重い鉄板が水中へ突き出ています。その重りのお陰で、船がどんなに傾いても直ぐに起き上がります。
ですから「ヨットはすぐに転覆する」という理解はディンギーに関しては正しく、クルーザー・ヨットに関しては大きな誤解なのです。

(3)ヨットには仲間が必要という誤解
私はヨットには独りで乗りました。時々家内が一緒に乗って、帆走を手伝いますが、基本的には独りで帆走します。どんな強風が来てもクルーザー・ヨットは横倒しになりません。安心です。ですから私は何度も一人で乗りました。

3番目の写真は私が一人で帆走している光景を家内が岸壁から撮った写真です。

4番目の写真は方向転換の時、トラブッてジブセールを絡めた時の写真です。こういう時は一人でない方が良いと感じます。

舟の甲板の下は全て気密な空間になっていて、幾つかの船室になっています。
炊事用のコンロや流しも付いています。要するに生活出来るような構造になっているのです。後ろの出入り口さえ閉めてしまえば、この生活空間には絶対に水が入らないような気密構造になっているのです。
霞ヶ浦のような平水では逆巻く大波はめったに起きません。怖いのは強風だけです。しかし強風になりヨットが傾き、マストが水面につきそうになると風はセイルの上を吹きぬけて行きます。セイルに風の力が加わらない状態になるのです。ですから横倒し近くなっても暫く辛抱しているとヨットがひとりで起き上がります。起きあがったら、すかさずセイルを下ろして、エンジンをかけて帰港するば良いのです。
こういう怖い経験を何度かしました。スリル満点で後から愉快になります。
安全な構造になっているのです。ですから仲間は要らないのです。

5番目の写真はキャビンの中の炊事コーナーです。 流しと2口コンロのある料理コーナーです。
夜になれば港に係留して、キャビンで簡単な料理を作ってビールを飲みます。
寒い冬でも泊ります。お正月には重箱につめたお節料理を持ちこんで家内と食べて帰ってきます。
たまには昔の同級生やヨットで知り合った友人を招待して一緒にキャビンやデッキでパーティをします。一緒にレースにも参加します。
デッキやキャビンのパーティは、場所が狭いせいかすぐに打ち解けたパーティになります。お客がシャンパンなどを持参してきます。私はオードブルの大皿を準備します。
いろいろな楽しみ方があるのです。ヨットは奥行きのある趣味なのです。

今日は気分は贅沢だがなるべくお金を使わない趣味を2つご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の日記、律令国家の武蔵国を偲んで来た

2019年10月22日 | 日記
今日は一日中雨でした。テレビで天皇陛下の即位式典をみていました。
午後2時半過ぎに雨が止みましたので、武蔵国の東山道武蔵路の姿見の池に行き律令国家時代を偲んで来ました。
少し説明します。
律令国家の武蔵国の国衙は現在の府中市にありました。そこから武蔵路を北に行った所に国分寺と国分尼寺がありました。
その武蔵路をもう少し北に行くと姿見の池と恋ガ窪の宿場がありました。
武蔵路は上野国府 - 新田駅(上野国) - 武蔵国府 というルートでした。鎌倉時代には鎌倉街道と呼ばれ明治維新まで重要な街道として使われていました。
武蔵路は発掘調査の結果、幅12mの道路跡が台地上から谷部にかけて490mの長さで確認されています。
今日は姿見の池の畔に車を停め律令国家の武蔵野国を偲んで来ました。家内が撮った姿見の池の写真をお送りいたします。









「今日の日記、鮮魚を買いに行き喫茶店で時を過ごしました」

2019年10月21日 | 日記
今日の午後は久しぶりに日野市にある角上魚類店まで行き鮮魚を買いました。買ったのは美しい色のイトヨリでかなり大きい魚です。時鮭、サワラ、宍道湖の大蜆、烏賊なども。
その後、日野市の豊田にあるアイグランというパン屋さんの喫茶コーナーで家内とカスタードクリームパンとコーヒーを楽しみながら秋の日をゆっくり過ごしました。
老境の平穏な幸せでした。 鮮魚とパン屋さんの写真です。