後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

小平市、海岸寺の今日の梅の花の写真をお送りします

2018年02月28日 | 写真
小金井市と小平市の境の五日市街道の北側にある臨済宗妙心寺派の瑞雲山海岸禅寺は毎年、梅の写真を撮りに行くところです。住職様が何時も庭を掃き清めていてし清々しい気分になります。
誰でも自由に散歩してよいように山門がいつも開いています。
今日も庭に入り、ゆっくり梅の花の写真を撮りました。ついでにスイセンの花の写真も1枚撮りました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。














妙心寺派の教え
生活信条
一日一度は静かに坐って 身と呼吸と心を調えましょう
人間の尊さにめざめ 自分の生活も他人の生活も大切にしましょう
生かされている自分を感謝し 報恩の行を積みましょう

信心のことば
わが身をこのまま空なりと観じて、静かに坐りましょう
衆生は本来仏なりと信じて、拝んでゆきましょう
社会を心の花園と念じて、和やかに生きましょう

海岸寺の概要、https://tesshow.jp/tama/kodaira/temple_miyuki_kaigan.html
臨済宗妙心寺派寺院の海岸寺は、瑞雲山と号します。海岸寺の創建年代等は不詳ながら、秩父郡三峰山境内にあったといいます。江戸時代、当地が南泉寺の抱地だったことから宝林庵という庵室があったといい、この庵室を一寺にしたいとの要望により、海岸寺を元文元年(1736)当地へ引寺したといいます。堂宇を建立できなかったことから、元文4年(1739)江戸済松寺の末寺となり、済松寺6世石慧堅禅師を中興開山としたといいます。

妙心寺について、http://www.myoshinji.or.jp/about/index.html
正法山妙心寺は臨済宗妙心寺派の大本山です。
インドの達磨大師さまから中国の臨済禅師さまを経て、妙心寺開山無相大師さまへと受け嗣がれてきた一流の禅を宗旨・教義としています。
1337年、95代の花園法皇さまの勅願によって創建された妙心寺の開山、無相大師さまの法流は四派に分かれ、全国3400ヵ寺に広がっています。
お釈迦さまを大恩教主と尊崇し、その教えを心にいただく禅の安心を求めます。
開山無相大師さまの最期の教え「請う、其の本を務めよ」と開基花園法皇さまの「報恩謝徳」の聖旨による仏法興隆を実践します。
自身仏を信じて坐禅に励み、足下を照顧しながら生かされている自分を感謝して、社会を心の花園と念じ和やかな人生を目指します。

春の歳時記、梅の花と雛祭りと、その思い出

2018年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム
明日はもう3月です。雛祭もすぐです。
この季節の歳時記と言えば梅の花と雛祭りではないでしょうか?
そこで梅の花と雛飾りの写真をお送りいたします。梅の花の写真は府中市郷土の森博物館公園で撮りました。雛飾りの写真はネット検索してお借りしたものです。









思い返してみると雛飾りを見たのは新婚の頃でした。戦前、戦後の困窮した時代に育った私は雛祭どころではなかったのです。それに男だけの兄弟でしたから女の子のお祭りとは縁が無かったのです。
結婚した妻が持参してきた七段の雛飾りを飾った時には吃驚したものです。
しかし何年か後には七段の雛飾りは大変なので最後の写真のような小さなものがガラス箱に入っているものに変えました。
毎年3月3日がちかづくとそれを床の間に飾り、菱餅や雛あられや白酒を供えています。ドイツに住んでいた時は折り紙で雛を作り飾って子供達と「今日は楽しい雛祭・・・・」などと歌っていました
我が家の季節の歳時記です。
男の孫達が幼い頃は毎年、家内と雛祭りを楽しんでいたものです。菱餅や雛あられを食べたり白酒を飲むのが楽しかったようです。
ある年になったら、孫達は、「もうそんな年じゃないよ!雛祭リは勘弁!」と言って寄り付かなくなりました。
それでも家内は一人で楽しんでいます。3月4日になると急いで雛飾りを仕舞っています。「しまうのを忘れるとお嫁に行けない」と言いながら苦笑しています。自分の年を思い出しているのです。
雛祭りには桃の花を飾ります。
しかし関東では4月末にならないと桃畑が咲きません。ところがある年から山梨県の桃の産地で3月3日に桃の花祭をしているのです。車で行ってみると花がまだ咲いていない広大な桃畑の中に大きなビニールハウスがあります。桃の花祭はその中でしていたのです。
入場料を払って入ると良い香りの桃の花が満開です。床几に座って桃の花を見ながら甘酒を楽しみます。そして帰りにはお土産として抱えられるだけの桃の蕾の枝をくれたのです。何か小さな桃源郷に行ったような豊かな気分で帰って来たものでした。
その前後から4月末になると毎年、山梨県の桃の産地に満開の桃畑を見に行くようになりました。
それは広大な桃畑です。
南アルプスの雪の山稜を背景にして咲く桃畑の風景こそ桃源郷です。
毎年我が家の小さな雛祭りを見ると雄大な桃畑の満開の風景を思い浮かべます。
皆様、是非一度、山梨の広大な桃畑の満開の風景をご覧ください。是非お出掛けになって下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

さっぱり面白くない7枚の写真をお送りします

2018年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム
今日、お送りする7枚の写真は美しい花々の写真ではありません。見て感動するような絶景の写真でもありません。
とにかく詰まらない写真です。日本の宗教に関する写真ですので、宗教に興味の無い人にとっては全く面白くない写真です。
しかし日本民族の文化的風景として気軽にご覧頂けたら嬉しく思います。
それでは早速、先週2、3日かけて撮った写真を示します。

1番目の写真は昔農道だった三叉路の交差点に立っている庚申塔です。小金井市の教育委員会の書いた説明板に江戸末期の寛政6年、1794年に建てられたとあります。
この庚申塔には時々、花が供えてあるので、現在でも信仰の対象になっているのでしょう。
この庚申信仰は実に奇妙です。中国の道教の庚申信仰が日本に伝承されたものでした。
その信仰とは人の体内に住む三匹の虫にまつわる俗信です。旅人の安全を守る馬頭観音や道祖神とは全く違うのです。しかもこの俗信の内容が時代とともに、どんどん変化して行ったのです。
なお詳しくは、2017年03月16日掲載の記事、「あなたはご存知ですか?実に奇妙な庚申塚のことを」をご覧下さい。

2番目の写真も近所の自動車道路の脇にある弁財天を説明している石碑です。
インドのヒンズー教の女神の弁財天の傍から有難い水が湧いているのです。

3番目の写真はその弁財天を祀った祠の写真です。
昔の三叉路の交差点に立っていて、後ろはコンビニ店の広い駐車場になっています。
写真の左手前に寿福水の水道の蛇口が写っています。近所の人がここから水を汲んで行きお茶やコーヒーを淹れて飲んでるようです。

4番目の写真は府中市の鎌倉期に出来た高安寺の境内にある薬師様や観音様やいろいろな如来や菩薩の像です。この寺は曹洞宗なのでご本尊はお釈迦さまです。ですから釈迦像は別格に大きく作ってあります。
しかし宗派によっては釈迦如来も薬師如来も観音菩薩も同じ大きさで並んでいる場合もあります。日本の仏教ではどの如来、どの菩薩を信仰の対象としても良いのです。つまり多神教的なのです。

5番目の写真は高安寺の本堂の前に立っている曹洞宗の開祖の道元さまの像です。本尊の釈迦如来と同じように信仰の対象です。

6番目の写真は高安寺に一画にある地蔵菩薩の像です。
このお寺を参りに来た人はまず、薬師様や観音様やいろいろな如来や菩薩の像に手を合わせて拝みます。次に本堂の前の道元さまに手を合わせて拝みます。本堂の前に進み釈迦如来に合掌します。そして帰りがけにお地蔵さんを拝みます。

7番目の写真は東村山市にある鎌倉期創建の臨済宗建長寺派の正福寺の境内にある地蔵堂の写真です。
正福寺地蔵堂 は1952年3月29日に国宝に指定されました。東京で国宝の建物はここだけだと自称しています。調べてみると成程、東京内は国宝の建物はほとんどありません。京都や奈良に集中しています。
その理由で正福寺では地蔵堂を非常に大切にしています。
この地蔵堂は禅宗様仏殿の代表作の一つだそうです。尾垂木の墨書から室町時代の応永14年(1407年)の建立と分かりました。同時代の建築である鎌倉の円覚寺舎利殿と規模・形式が近似しています。内部には本尊地蔵菩薩像のほか、多数の地蔵菩薩の小像が安置されているのです。
ですからお寺にお参りに来た人々は本堂の本尊の千手千眼観音菩薩よりもこの地蔵堂の本尊地蔵菩薩像の方を大切にしているようです。それは毎年この地蔵堂を中心にしたお祭りから私が勝手に考えたことですが。

今日お送りしました7枚の写真で示したいことは、日本民族はいろいろな神様や仏様たちに守られている幸せな民族だということです。
このように多神教的な文化風土で穏やかに暮らしている民族です。
そんな独特の民族文化を描きたいと思い7枚の組写真をお送りいたしました。
その他の不思議な信仰について皆様のお教え頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

梅の花の写真をお送りいたします

2018年02月26日 | 写真
今日は午後に東村山市の狭山公園に行きました。傍の農家の梅畑に白梅が咲いていました。
少し気に入った写真が撮れたのでお送りいたします。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。







下の2枚の写真は狭山公園の風景です。




平昌オリンピックの国別メダル数と北朝鮮の金メダル

2018年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム
平昌冬季オリンピックは昨日終了しました。
毎晩、テレビで見ながら、しみじみ平和の有難さに胸を熱くしました。それは束の間の平和だけに一層感動的なものでいた。特に北朝鮮と韓国は白地に青く朝鮮半島の形を染めた大きな旗をなびかせて一緒に入場行進をしている光景は彼等の悲願を表徴しているようで印象深い光景でした。
それぞれの競技種目においても素晴らしい映像を見せてくれました。
終了後の各国のメダル取得数を示します。
この表の出典は、https://www.jiji.com/jc/pyeongchang2018?s=medal です。

順位 国・地域  の後の数字は順々に、 金、銀 、銅 、合計を意味します。
https://www.jiji.com/jc/pyeongchang2018?s=medal
1位 norノルウェー 14 14 11 39
2位 gerドイツ 14 10 7 31
3位 canカナダ 11 8 10 29
4位 usa米国 9 8 6 23
5位 nedオランダ 8 6 6 20
6位 sweスウェーデン 7 6 1 14
7位 kor韓国 5 8 4 17
8位 suiスイス 5 6 4 15
9位 fraフランス 5 4 6 15
10位 autオーストリア 5 3 6 14
11位 jpn日本 4 5 4 13
12位 itaイタリア 3 2 5 10
13位 oarOAR 2 6 9 17
14位 czeチェコ 2 2 3 7
15位 blrベラルーシ 2 1 0 3
16位 chn中国 1 6 2 9
17位 svkスロバキア 1 2 0 3
18位 finフィンランド 1 1 4 6
19位 gbr英国 1 0 4 5
20位 polポーランド 1 0 1 2
21位 hunハンガリー 1 0 0 1
21位 ukrウクライナ 1 0 0 1
23位 aus豪州 0 2 1 3
24位 sloスロベニア 0 1 1 2
25位 belベルギー 0 1 0 1
26位 espスペイン 0 0 2 2
26位 nzlニュージーランド 0 0 2
28位 kazカザフスタン 0 0 1 1
28位 latラトビア 0 0 1 1
28位 lieリヒテンシュタイン 0 0 1

そして報道写真を幾つか転載させて頂きました。

1番目の写真は2月18日、スピードスケート女子500mの試合直後、小平奈緒選手が涙を流す李相花選手を抱きしめ、激励している写真です。この場面は、今大会で最も感動的な場面として記憶に残ると言われています。

2番目の写真はエキシビションの演技後、ロシアのアリーナ・ザギトワ(右)と並ぶ羽生結弦です。(遠藤啓生撮影)

3番目の写真はエキシビションの演技を終えた各国の選手達です。

4番目の写真は各国の選手が仲良く一緒に入場行進した閉会式の様子です。

さて今回の平昌オリンピックでの政治ショーでは北朝鮮が金メダルを取ったという評価もあるのでご紹介します。それはイスラエルの新聞、「エルサレム・ポスト」の2月12日の紙面に出てい評価です。
各国の政治的な宣伝競争で北朝鮮が抜群の勝利を遂げたという評価です。
金正恩党委員長の妹の金与正 副部長ら高位級代表団が平昌の開会式に出て、韓国の文大統領を北朝鮮に招待したのです。
その上、北の美女軍団は華やかな応援の演技を連日、見せてくれたのです。
この演出は国際的に大評判になったことは皆様ご存知の通りです。
しかし北朝鮮の国内でも非常に評判になったのです。以下に関連の報道を示します。

「妹・金与正を「アイドル化」した金正恩のメディア戦略」<金与正の韓国訪問を北朝鮮メディアは大きく報道、これも金正恩の新たなメディア戦略なのか>(ttps://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/02/post-9558.php )

北朝鮮の朝鮮労働党機関紙・労働新聞は、金永南 高人民会議常任委員長と、金正恩党委員長の妹の金与正党第1副部長ら高位級代表団が、平昌冬季五輪に合わせて韓国を訪れたことを写真入りで大きく報じた。
これを見た平壌市民が、様々な反応を見せている。デイリーNK内部情報筋によれば、「平壌の地下鉄やバスの車内では、金与正同志の南朝鮮(韓国)訪問の話があちこちから聞こえる。人が集まったかと思えば、金与正同志の話ばかりだ」という。
たしかに、金王朝の「プリンセス」が笑顔を振りまく写真を多数紹介するスタイルは、かつてのおカタいだけの北朝鮮メディアにはなかった手法だ。その新しい宣伝戦略が、金与正氏を「アイドル化」しているのかもしれない。

5番目の写真はこの報道に掲載されていた金与正の写真です。

今回の冬季オリンピックを楽しむだけでなくその政治的な役割を少し考えて書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

府中市にある曹洞宗高安寺の境内風景

2018年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム
鎌倉期から続くお寺が隣町の府中市にあります。祖父が住職をしていた里のお寺も曹洞宗だったので境内の雰囲気が懐かしくて時々散歩に行きます。
昨日の午後は春のように暖かかったので、久しぶりに高安寺に行きました。
境内の風景写真をお送りいたします。4番目の写真のお坊さんの像は曹洞宗を開いた道元さまです。何時行っても活け花が供えてあります。
曹洞宗のお寺のご本尊様は釈迦牟尼仏となっています。道元さまは本堂のお釈迦様を守るような位置に立っています。













この高安寺の特徴は時代、地代の戦の軍事拠点として使われてきた歴史にあります。
以下に、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%AE%89%E5%AF%BA からの抜粋をお送りします。
・・・このお寺は平安時代に藤原秀郷が武蔵国府近郊に置いた居館を市川山見性寺に改めたのが始まりとされる。平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経もこの寺に立ち寄って武蔵坊弁慶が大般若経を書き写したと言われている。ここは武蔵国府の近くにあり国衙荒廃後にはここが重要拠点と見なされるようになり、南北朝時代には、新田義貞が分倍河原の合戦で本陣を構えている。これら一連の戦乱によって寺が炎上するなどして見性寺は荒廃してしまった。

そこで暦応年間(北朝、1340年前後)に入ると、足利尊氏が建長寺の大徹禅師を開山として招き臨済宗の禅寺に改めて再興した。この際、尊氏が進めていた安国寺の一つとしてこの寺を位置づけ、名称も尊氏の旧名(高氏)から龍門山高安護国禅寺と命名された。これによって高安寺は室町幕府の保護を手厚く受けて、一時は塔頭10・末寺75と称されるほどの大寺院となった。

だが、それは同時に室町幕府足利氏、あるいはその指揮下にあるとされた鎌倉公方の影響力を深く受ける事となり、軍事拠点としての色彩を帯びる事となった。永徳元年/弘和元年(1381年)には小山義政討伐に向かう第2代鎌倉公方足利氏満が、続いて応永6年(1399年)には応永の乱に呼応して将軍足利義満打倒を図ろうとした第3代鎌倉公方足利満兼が、それぞれ高安寺に陣を置いている。

この状況は第4代鎌倉公方足利持氏の代にも変わらず、応永30年(1423年)に常陸国の小栗満重討伐の帰途に高安寺に入りここに仮の政庁を置いた。だが、翌年には失火による焼失を招いてしまい、再建を行う事になった。そして永享11年(1438年)には関東管領上杉憲実討伐のために持氏が再び高安寺に陣を構えた。ところが、持氏の反幕府的姿勢に業を煮やしていた当時の将軍足利義教が持氏討伐を命じた事を知り急遽鎌倉に引き揚げる事になると、時は既に遅く鎌倉は陥落して持氏は滅亡する事になった(永享の乱)。

逆に康正元年(1455年)に行われた再度の分倍河原の合戦(享徳の乱の緒戦)では、第5代鎌倉公方足利成氏が籠もる高安寺に攻め寄せた上杉軍を成氏が打ち破っている。

その後もその地政学的条件から上杉氏・後北条氏などによって軍事的に利用される事も多く、度々の戦乱で衰退・荒廃した。江戸時代初期には海禅寺(現在の青梅市)の末寺に入り、宗派も曹洞宗と改めた。

現在の本堂は寛永元年(1624年)に火災に遭い消失したものを享和3年(1803年)に再建したもの。本堂正面には「等持院」の扁額があり、これは開基となった足利尊氏の法嗣名である。明治5年(1872年)に建てられ左右に仁王像を配する山門、安政3年(1856年)に建てられた鐘楼と共に東京都選定歴史的建造物に選定されている。・・・

それにしても昔は国内で何度も戦があったものですね。お寺は大きい建物だので多くの武士が寝泊まり出来たので何度も利用されたのです。
日本に内戦が無くなり平和な時代が続くようになって本当に幸せです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

共産党独裁の中国を内側から眺める、そして胡耀邦による民主化

2018年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム
中国人は信義に篤いと言います。私の親友は中国革命に参加した正真正銘の共産党員で周栄章という人でした。この人も実に信義に篤い人でした。
私は彼の招きで1980年から何度も中国へ行きました。そのお陰で共産党独裁の中国を内側から眺めることが出来ました。
今日は私が見た当時の中国の実情を書いてみたいと思います。
まず驚愕的な体験を書かせて下さい。深い地下室で見た驚きの光景です。

中国の首相、周恩来が1976年に死んだ時、彼をしたう民衆が4月の清明節に北京天安門広場に集まりました。大追悼会です。このような周恩来追悼集会が中国全土に広がったのです。
当時は毛沢東も存命で、四人組が権力を握っていたのです。毛沢東は周恩来の人気に嫉妬し、憎んでいたのです。
これは日本の新聞に詳しくは出ていませんでしたが、毛沢東一派は天安門広場の群衆に対して軍隊に攻撃させ、蹴散らせたのです。これを第一次天安門事件と言います。
その後も、中央政府は周恩来の公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止していました。
1980年に北京に行った私に、周栄章教授が声をひそめて、
「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言うのです。

暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ大學の地下室でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文などとともに花束などが飾られていました。
周さんは「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやります。それが中国人なのです」と言い切りました。
外国人の私が政府側へ密告しないとどうして信用したのでしょうか。即座に、私は周栄章さんを終生の親友と感じました。
中国人は一旦親密になると生涯その関係を信じて良いのです。絶対に裏切らないのです。一生安心して付き合えます。周栄章さんもそんな男でした。2004年に亡くなりました。
彼は共産軍と共に天津市を占領し、占領後の天津市の行政を担当し住民の暮らしを平穏なものにするう努力をしたと言っていました。
この体験から中国の共産党独裁は必ずしも一枚岩ではなく内部に入ってみると政府に反対する人が沢山いることが分ったのです。
中國人がたてまえとして偉いと言う政治家は毛沢東、江沢民、そして習近平のような強権をふるう政治家です。本当に好きな政治家は劉少奇、周恩来、鄧小平、そして胡 耀邦なのです。
この4人は自分の権力拡大よりも人民の暮らしが良くなるように本気で努力したのです。
中国人は心の底の本音としてこの4人に親しみを感じ感謝しているのです。
こんなことは全て親友の周栄章さんから聞きました。
彼は正真正銘の共産党員でしたが私に共産主義が良いとは一度も言いませんでした。
私が共産主義は間違っていると言いました。彼は答えません。苦しそうに、「中国が共産主義を選んだにはそれなりのい理由があったのです」と言うのです。

共産党独裁の弊害はすぐに分かりました。当時の北京の街路の壁や電柱に、『為人民服務』という標語が沢山貼ってあったのです。意味は共産党員は人民のために服務しますという意味です。これが異常に多く貼ってあることは、逆に共産党員は人民のために服務しないで、権力をかさにきて私腹を肥やしていることを暗示しているのです。
中国の悪い側面の一例は最後に書きます。
一休みして周栄章さんに楽しく案内して貰った頤和園と北海公園の仿膳飯荘の写真を示します。

1番目の写真は夏の離宮、頤和園の風景です。あまり感動したので何度も行きました。
日本人も北京に行ったら必ず行く名所なのでよくご存じの方も多いと思います。

2番目の写真は故宮の北にある北海公園の石の回廊です。
あれは確か、1980年のある秋の夜でした。この石の回廊を、夜風に吹かれながら、周さんと2人だけで歩いていました。その先にある仿膳飯荘で北京鋼鉄学院の学長が私の歓迎会をしてくれるというのです。(写真の出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-57.htm )

3番目の写真は仿膳飯荘の入り口の写真です。

4番目の写真は仿膳飯荘の料理の写真です。(出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm)
出された料理は女性権力者の西大后の好きそうな小さく綺麗に盛り付けた、いわゆる宮廷料理でした。しかし私の味の趣味は西大后様とは随分と違うようでした。のちに行った家内はその精妙さに惑わされたのか感激していました。

5番目の写真は北京鴨です。(写真の出典:http://imagenavi.jp/search/#!/ )
周さんは北京鴨の有名店でなく裏町の小さな北京鴨店へ何度も連れて行ってくれました。
あまり冷えていない五星ビールを注文し、前菜でビールを飲んでいるとやがて見事に焼きあがった鴨が出てきます。
うす暗い北京鴨の店でいろいろな話をしました。自分で皮を切り取って、白い餅に乗せ、ネギと味噌を塗って、餅でくるりと巻いて食べるのです。

周栄章さんさんはその後、何度も日本に来て私の家にも来てくれました。思い出は沢山ありましがこれで止めて、最後に胡耀邦さんのこと書いて置きたいと思います。
彼は、1981年から1987年まで中国共産党主席でした。
胡耀邦さんの行ったことを3つだけ紹介いたします。
(1)1980年5月29日にチベット視察に訪れ、その惨憺たる有様に落涙したと言われ、ラサで共産党幹部らに対する演説にて、チベット政策の失敗を明確に表明して謝罪し、共産党にその責任があることを認め、ただちに政治犯たちを釈放させ、チベット語教育を解禁した。更にその2年後中国憲法に基づき、信教の自由を改めて保証した上で、僧院の再建事業に着手させ、外国人旅行者にもチベットを開放した。しかし、この政策は党幹部から激しく指弾され、胡耀邦の更迭後撤回された。

(2)1983年11月の訪日では昭和天皇と会見して天皇訪中を要請(当時交渉を担当したのは胡錦濤)、日中首脳会談では中曽根康弘内閣総理大臣が、中国側の提示した3原則に「相互信頼」を加えて4原則にしたいと述べ、民間有識者からなる『日中友好二一世紀委員会』の設立を提案し、胡はこれに賛同し。他方胡は、日本の青年3000人を中国に1週間招待するプランを披露して日本側を驚かせた。

(3)1989年4月8日の政治局会議で熱弁を振るった直後、心筋梗塞のため倒れ、一旦は意識を取り戻したものの2回目の発作を起こし、4月15日に死去した。その後、胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは激化していった。五・四運動の70周年記念日にあたる5月4日には北京の学生・市民10万人がデモと集会を行い、第二次天安門事件へと発展した。ここで趙紫陽総書記も学生運動に同情的な発言を行ったことで、鄧小平ら長老の鎮圧路線を妨害するものとされて失脚した。

もっと詳しくは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%80%80%E9%82%A6 をご覧下さい。
ここに胡耀邦さんのことを書くのは現在の中国では一切禁止されているからです。中国共産党は胡耀邦中国共産党主席は存在していなかったとして全ての記録を抹殺し、彼に関することはネットにも書いてはいけないのです。
これこそ共産党独裁の弊害ではないでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

まだある我が家の夫婦喧嘩の原因

2018年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム
3日前に、「我が家の夫婦喧嘩の原因」を書きました。
その原因は妻と私の日本語に関する考え方の違いによる夫婦喧嘩です。
私は言葉というものは時代、時代によって変わるので新しい言葉や外来語や変な略語を使います。流行語も適切に使います。よく言えば生きた言葉を使います。
しかし妻は古い日本語を大切にし、流行語を使いません。なにせ万葉集や源氏物語にある言葉が美しいと思い、昭和の言葉が良いと思い込んでいるのですから困るのです。夫婦喧嘩になります。
しかしよく考えてみると我が家の夫婦喧嘩の原因はまだあります。
大げさに言えば、澄みきった夜空の星のように無数にあります。その中から文化的に意味のある原因、社会的に意味のある原因だけを拾い上げ続編を書いていきたいと思います。

今日は写真の撮り方の考え方の違いによる夫婦喧嘩です。
私が毎日、雑文を書いてその挿し絵代わりに掲載している写真が良くないと言うのです。
ぞれでは妻が撮った写真3枚と私が撮った2枚を掲載して意見の違いをご説明いたします。

1番目の写真は京王フローラル・ガーデンの妻が撮った写真です。ガーデンの全体がどのような感じなのか分かるように撮るのが良いと言います。
一方、私はこの写真をネットに掲載すると小さいサイズになるので何を撮ったか分からなくなるから駄目と言います。夫婦喧嘩になります。

2番目の写真も妻が撮りました。これはかなりクローズアップしてありますからネットに掲載できます。しかしこの写真の意図が分かり難いのです。妻は白いモクレンの蕾が膨らんで春もそこまで来ていると言いたいのです。このように説明をしなければいけない写真はネットの雑文の挿絵としては不適切です。せっかくですが私は使いません。夫婦喧嘩になります。

3番目の写真はロウバイの花の盛りが過ぎる頃モクレンの蕾が白くなり咲き出す準備をしている光景を撮った写真です。妻はこういうふうに季節感がいきいき感じられる写真が良いと言います。
成程と思いますが、挿し絵代わりの写真には使いません。説明しないといけない写真は挿し絵代わりとしては失格です。挿し絵はあくまでも文章の内容の邪魔をしないような飾りでなければいけないと私は思っています。妻の撮った写真は使いません。夫婦喧嘩になります。

4番目の写真は私が撮った福寿草の写真です。パッと見て綺麗です。季節感もあります。この写真は何だろうと考える必要がありません。挿し絵代わりの写真として使います。これには妻も納得です。夫婦喧嘩になりません。

5番目の写真は私が撮った京王フローラル・ガーデンの一角の写真です。考える必要が無い綺麗な写真です。挿し絵代わりに適した写真です。
しかし妻はこのような園芸種の花だけが人工的に植え込んだ写真は好まないと言います。
福寿草の写真のように自然な感じの花の写真なら良いと言います。しかしその意見は無視します。夫婦喧嘩になります。

さて何故、妻は私の写真にいちいち意見を言うのでしょうか?困ったものです。
その原因は妻の趣味の一つが美術館巡りや絵画展を見に行くことにあります。それで西洋の有名な油絵や傑作な日本画を心に刻んでいるのです。その心にある絵画と私の撮る写真を比較するのです。私の写真の構図と色彩の配置を比較して細かい意見を言います。
若い頃、自分でも油絵を数点描いたこともありました。構図と色彩の配置は確かにオーソドックスです。デッサンもまあまあです。
しかしちっとも面白くない油絵です。はっきり言ってしまえば下手なのです。自分でも下手だと分かって、それ以来、油絵を描くのは断念しました。
賢明な決断です。そうでなかったら下手な油絵が家に溢れていたことでしょう。

私がネットに掲載する文章に、挿し絵代わりに使う写真はあくまでも飾りなのです。飾りが芸術写真になっていたら文章の内容が死んでしまいます。それでなくても拙い内容の文章なのです。挿し絵代わりに使う写真はほどほどに綺麗であれば良いのです。
そのことが理解出来ない妻が芸術的な絵画と比較して意見を言うので夫婦喧嘩になるのです。そして意見の中には成程と思えるものもあるので一層困るのです。つまらない夫婦喧嘩の原因の一つでした。

皆様の奥様は夫が撮った写真にあれこれ意見を言うでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

間違いなく面白くない内容の記事

2018年02月21日 | 日記・エッセイ・コラム
来る日も、来る日も、私はつまらない記事を書いています。読んで下さる方々へ感謝しながら書いています。読んで面白いと感じ、少しばかり幸せな気分になるようなものを書く努力をしています。
毎日、毎日、このような苦心をしていると疲れてしまいます。
そこで今日は皆様が面白がるか否かという心配を忘れ、自分、個人の興味で書きたいことを書いてみたいと思います。私の個人的な思い出を書いてみたいと思います。間違いなく面白くない内容の記事になると思います。

私の父方の祖父は兵庫県の宝塚から能勢電鉄で入った山の村落のお寺の住職をしていました。
それは曹洞宗の正林寺というお寺でした。その祖父は戦前に亡くなり、父の弟が後を継ぎました。その祖父の戒名は高天秀嶽大和尚といいます。
昭和11年生まれの私は毎年、夏になると一家でそのお寺に帰省し、お寺の暮らしを体験しました。

1番目の写真がそのお寺の鐘楼を見上げた光景の写真です。正林寺のHPからお借りした写真です。
お寺の暮らしが珍しい上に、お盆には施餓鬼供養という一大イベントを毎年見ました。
近隣のお寺から多くのお坊さんが集まって、本堂でお経を唱和し、そして銅鑼を鳴らしながら輪になって歩き回るのです。
そして叔父の住職さんと一緒に小坊主の法衣を来て、村落の一軒、一軒を回り、お盆のお経を詠んだのです。
この体験は私の少年の頃の重要な宗教的体験でした。
その後成長していろいろな本を読みました。
そして日本の隠れキリシタンの歴史に感動し、35歳の時カトリックになったのです。この洗礼の決心をした時、少年の頃の私の重要な宗教的体験が非常に役に立ったと思っています。不思議ですが、私は仏教的な宗教体験のお陰で洗礼を受けることに抵抗感が無かったのです。
それ以来47年、毎週のように日曜日にはミサに参加しています。

私のカトリック信仰の内容を考えてみると、仏教の影響を深く受けていることに気がついています。
そもそも1549年にザビエルがカトリックを持ち込んで以来、数々の宣教師が日本の文化的土壌を重視し、現地順応主義をとりました。戦国時代末期に長く日本で活躍したヴァリアーノ神父も順応主義でした。
当然のことながら日本のカトリックの信仰の内容はヨーロッパや南米のものとは違います。
教理や教義は世界共通ですが、信じる人々の心の動きが違うのです。国々によって文化的な土壌が違うので自然にそのようになります。
宗教を信じる人の心の動きは時代によっても変化します。

そこで一例として、日本が中国から道教の庚申塔信仰を受け入れた場合の変化をいろいろ調べてみました。そして以下の連載記事を書いてきました。

日本のキリスト教と庚申塔信仰の間(1)信仰の種類や宗派には優劣が無い(2013年12月18日 )
日本のキリスト教と庚申塔信仰の間(2)日本にあるキリスト教には排他性が無い
日本のキリスト教と庚申塔信仰の間(3)日本にある中国の道教起源の信仰
そして上の連載内容の補足として以下の記事も書きました。
「庚申信仰の時代による変遷」(2013年12月21日 )
「今よみがえる70年前の懐かしい光景・・・そしてあなたの幼少時の光景は?」(2013年12月21日)

以上の考察によって明らかになったことは道教が日本に入るとその信仰内容が時代の経過とともに変化し、仏教的になることです。そして神道とも混淆します。
異なった宗教の習合や混淆はどこの国でも起きますが、日本のそれは程度が激しいように思われます。そして大乗仏教的になるのです。神仏混淆も普通です。

このような文化的土壌のある日本ではキリスト教も例外ではありません。
教理や教義は変更しませんがその信仰内容が以下のように変化しています。
(1)先祖崇拝を否定しない。
(2)仏教的文化土壌に根着くためにはキリスト教の排他性を弱める。
しばしば欧米人を非難するために、多くの日本人は、「キリスト教は排他的で、戦争の原因になっている!」と言います。
しかしこの言い方は雑過ぎます。「十字軍が活躍した中世のヨーロッパのキリスト教は排他的で、戦争の原因になっている!」と言い直すべきです。
そして判ったような顔をして、「そもそも一神教は排他的だ。だから戦争の原因になる!」と断言する日本人もいます。
これも比較文化人類学的に考えると雑過ぎます。「そもそも民族というものは排他的なのです。だから他民族と戦争をする」と言い直すべきです。
イエス様の教えたことは愛と平和の重要性でした。

ついでに書きたいことがもう一つあります。よく受ける質問です。
「私だけが洗礼を受けると先祖はみな地獄に行くのですか?子供が洗礼を受けたがりませんが、やはり地獄へ落ちるのですか?」
私は確信して答えます。「神様の愛は人間が想像出来ないくらい大きいのです。先祖様のことも子供のこともすべて神様に任せなさい。神様やイエス様は絶対に悪いようにはしない筈です。」
そして、こんな質問も受けます。「洗礼を受けたら仏式のお葬式や法事には出られなくなりますか?」
私の答えは簡単です。「従来通り出て下さい。欠席して親類や友人、知人の心を傷つけてはいけません」。
イエス様の教えたことは愛と平和なのです。
ここまでこの詰まらない記事をお読み下さった方々へ深く、深く感謝します。

挿絵代わりに写真として私の好きな鎌倉の円覚寺の風景写真を3枚お送りします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

3枚の写真は鎌倉の円覚寺の風景です。出典は、http://www.engakuji.or.jp/gallery/です。




我が家の夫婦喧嘩の原因

2018年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム
他人の夫婦喧嘩の話など興味が無いとおっしゃる方もいます。
そういう方々の為に昨日撮って来た冬の雑木林の風景写真をまず最初にお送り致します。
多摩湖の西奥にある六道山公園で撮りました。









世の中には一生独身の方もいます。夫婦になって何十年も喧嘩をしない方々もいます。私は独身の人も夫婦喧嘩をしない人も深く尊敬しています。その理由は今日は書きません。今日の主題は私どもの夫婦喧嘩の原因なのです。
原因は沢山ありますが新婚以来、後期高齢者になるまで相変わらず同じ原因になっていることを書きます。
それは妻と私の日本語に関する考え方の違いによる夫婦喧嘩です。
私は言葉というものは時代、時代によって変わるので新しい言葉や外来語や変な略語を使います。よく言えば生きた言葉を使います。
しかし妻は古い日本語を大切にし、流行語を使いません。なにせ万葉集や源氏物語にある言葉が美しいと思い、昭和の言葉が美しいと思い込んでいるのですから困るのです。
流行語の一例は、私が「インスタバエする」写真を撮って来たと言います。毎日、掲載しているような美しい写真です。
こんな言葉を使う瞬間に妻は眉をひそめて、「そんな言葉は使わないでください」と言明します。
私は言葉は生きているものだから古臭い言葉を使うのは間違っていると主張します。
夫婦喧嘩になります。
まだあります。会話をしていても意味不明の文章が出て来るのです。例えば「道路のゴミは困る」と言います。そこで私が誰が困るの?と聞き返します。すると「皆も困るし、ゴミを拾う私も困るのです」と言います。
ようするに文章の主語を省略するのです。私が何時でも主語を明確に言わなければいけないと説教します。すると妻は古い文章を引っ張り出して来て、ここにある文章には主語が書いてありません。しかし前後の脈絡から主語が誰なのか明快に分かるのです。それが日本語の使い方ですと言い張ります。
夫婦喧嘩になります。
それで私は分かりました。曖昧に言うから日本語が美しいのだと分かりました。主語を明快に書き、事実関係をはっきり書いた瀬戸内寂聴さんの源氏物語に何故毀誉褒貶があるか?その理由が理解出来たのです。
日本語に由来する夫婦喧嘩の原因はまだあります。
私は生まれも育ちも仙台です。ですから宮城県の東北弁の中で育ったので標準語の発音が言えないのです。橋と箸と端の発音が皆同じなのです。その上、宮城県の東北弁では言葉が全て濁った発音になります。例えば「学校へ行く」は「がっごうさ いぐ」となります。
「そうです」は「うだうだ」となにます。
一方、東京弁を軽やかに駆使する妻がいささか蔑むように、「正しい発音をなさって下さい」と言います。
私は「東京弁が正しくて、仙台弁が間違っていると一体、誰が決めたんだ」と色めきます。どうも明治政府が決めたようです。
私は「東北弁も関西弁も鹿児島弁も沖縄弁も皆正しいのです」と主張します。
夫婦喧嘩になります。

こんな事を書いていたらキリがありません。結論だけを書きます。
私の妻は伝統的な日本文化が好きな原日本人なのです。日本原人なのです。
一方私は西洋文化の影響を受けた近代的な日本人なのです。これでは夫婦喧嘩になるのは自然の成り行きです。
しかし妻のお陰で日本文化の特徴が深く理解出来たのです。さらに蛇足を書けば日本仏教の曖昧さの本質が見えてきたような気分になったのです。言葉は人間の表現応力のごく一部に過ぎないのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

今日は多摩湖の写真を撮りに行った

2018年02月19日 | 写真
多摩湖は村山貯水池とも言い東京都の水道水の水源の一つです。
冬の多摩湖は水が深い碧色で美しい風景になります。
午後に独りでドライブかたがた写真を撮ってきました。
湖の向こうに見る白いドームは西武球場の屋根です。白い丸い屋根の右の森には西武遊園地が広がっています。
遠方にかすんでいる山並みは奥多摩の山々です。
写真を撮ってから六道山公園に分け入り雑木林の写真も撮りました。
帰りは福生基地の飛行場を大廻りして五日市街道をドライブしてきました。
広々した自然の風景を見て幸せな気分になりました。
老境のある日の午後でした。









オリンピックの最中にイランとイスラエルが軍事衝突

2018年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
韓国の平昌では92ケ国からの選手、3000人が各種の冬季オリンピック競技に参加しています。平穏です。平和です。
しかしその最中にシリア内戦を巡って新にイスラエルとイランが軍事衝突を始めるような事件が起きました。何という悲惨な内戦なのでしょうか。
イスラエル難民は500万人以上もいて人口の四分の一がすでに難民になってトルコなどへ逃れて苦しい難民生活をしているのです。
シリア内戦は今迄は分かり易い構図でした。それにあらたにイスラエルとイランの衝突が加わろうとしているのです。
内戦の今迄の構図は『ロシアとイランが支援するアサド大統領側』と『アメリカと中東有志連合が支援する反体制派とクルド民族』との間の戦争でした。このように構図が簡単になったのはアメリカと中東有志連合がイスラム国を撃破して、ほぼ消滅させたからです。
そこにアサド大統領を支援しているイランをイスラエルが空爆し始めたのです。シリア国内のアサド政権とイランの軍事施設を空爆し、イスラエル機がシリア国内で撃墜されたのです。
イスラエルは従来はパレスチナ自治区と激しい内戦を続けていました。それがトランプ大統領の支援を受けて気が大きくなったのか東にあるイランと抗争を始めたのです。
イスラエルはもともとイランの核兵器開発に強く反発していましたので、この機会にイラン本土の空爆も考えているのでしょう。
トランプ大統領のイラン支持の影響がこんな形で出て来るとは考えられませんでした。
シリアでは毎日のように「ロシアとイランとアサド大統領側」と「アメリカと中東有志連合と反体制派とクルド民族」との間で残酷な戦争行為が続いています。それこそ此の世の地獄絵図です。最近もロシア民兵が多数、シリアで戦死しました。
それに加えて、イスラエル軍はシリア領内のシリアとイランの軍事施設12カ所を空爆したのです。
イスラエルとイランの軍事的衝突が激しい状態になったのです。
以下に日本経済新聞ネット版、https://www.nikkei.com/article/DGXMZO26802280R10C18A2FF8000/ からの抜粋を示します。

「イスラエル、イランと一触即発、戦闘機撃墜受け報復連鎖」2018/2/11
 【カイロ=飛田雅則、アンカラ=佐野彰洋】
敵対関係にあるイスラエルとイラン間の緊張が高まっている。10日、イランが支援するシリアのアサド政権が自国を空爆したイスラエル軍機を撃墜した。イスラエルは報復として追加空爆に踏み切った。
イランの影響下にあるレバノンのイスラム教民兵組織ヒズボラも巻き込んだ大規模な衝突に発展する懸念があり、中東情勢を一段と不安定化させかねない。
イスラエル側の説明によると10日、シリア領内からイランの無人機がイスラエル領空に侵入し、同国の攻撃用ヘリコプターがこれを撃墜。その後、無人機侵入への報復措置としてシリア領内のイラン施設を空爆したF16戦闘機の1機がシリアの地対空ミサイルシステムの攻撃を受け、イスラエル北部に墜落した。
イスラエル軍はこれまでもシリア領内でイランやヒズボラが関係する軍事施設などを空爆してきたが、撃墜されるのはシリア内戦が始まった2011年以降初めて。パイロット2人は脱出し救助されたが、1人は重傷という。
これを受け、イスラエル軍はシリア領内の同国とイランの軍事施設12カ所を空爆。シリア人権監視団(英国)によると、アサド政権軍の兵士ら少なくとも6人が死亡した。イスラエルのネタニヤフ首相はイランとシリアの攻撃を「侵略だ」と非難し「主権と安全を守るため必要なあらゆる措置を講じ続ける」と強調した。一方、シリアのアサド政権はイスラエルの空爆を「テロ行為だ」と強く批判した。

イランとの対立を深めるトランプ米政権は今回の局面でも親イスラエルの姿勢を鮮明にしている。米国務省のナウアート報道官は声明で「自らを守るイスラエルの主権を支持する」と表明。「イエメンからレバノンまで地域のすべての人を危険にさらす」とイランを非難した。
アサド政権の後ろ盾のイランも対決姿勢を崩していない。AFP通信によると、イラン外務省の報道官はイスラエル側の主張を「嘘に頼っている」と否定。シリアには自衛の権利があると強調した。

アサド政権を支える一方、米国やイスラエルとの関係も重視するロシアのプーチン政権は地域の緊張の高まりに危機感を強めている。プーチン大統領は10日、ネタニヤフ氏との電話協議で、新たな対立を招く行動を避けるよう迫った。

11年に始まったシリア内戦はイランやロシアが支援するアサド政権と、サウジアラビアなど湾岸アラブ諸国が支援する反体制派、過激派組織「イスラム国」(IS)の三つどもえの戦いが続いてきた。17年10月にISが首都としてきたシリア北部ラッカが陥落。IS掃討作戦はほぼ終了した。

一時は劣勢にあったアサド政権はロシアとイランの軍事支援で盛り返し、現在は優位にある。内戦を機にイランはレバノンのヒズボラをシリアに送り込み影響力を拡大。ゴラン高原周辺などシリアとイスラエルの国境付近でも軍事拠点を築いてきたとされ、イスラエルは危機感を募らせる。

「新たな戦略的局面の始まりだ」。イスラエルと過去に戦火を交えたヒズボラは10日、イスラエル軍機の撃墜を受け、シリアやレバノン上空におけるイスラエルの優位性が低下したとの認識を表明した。

今後、イスラエルとイランの対立がさらに深まれば、欧米などがイランと結んだ核合意に影響する可能性がある。トランプ米大統領は合意の修正を求めており、5月に控える対イラン制裁再発動の是非を巡る判断に影響する可能性もある。

世界の原油輸出の半分近くを担う中東における新たな緊張は世界経済にとってもリスク要因となる。米株式相場の急落で揺れる投資家心理の悪化に拍車を掛ける恐れもある。(終り)

さて日本はイランと比較的友好関係にあります。イスラエルとも良い関係です。しかし安倍総理とトランプ大統領は親密です。何時ものように前のめりになって安倍総理がイスラエルに一方的に肩入れし、イランを敵に回す危険が懸念されます。
韓国の平昌では92ケ国からの選手、3000人が各種のオリンピック競技に参加しています。平穏です。平和です。
日本のマスコミは連日、日本選手の金メダルだけを大騒ぎしています。中東の戦乱を一切忘れたようです。
日本だけの平和だけでなく、世界全体の真の平和にも強い関心を持ち、それを祈りたいものです。

今日の挿し絵代わりの写真は三重県いなべ市の梅林の風景写真です。
出典は、https://4travel.jp/travelogue/11109776 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







あなたの歩く、その足もとに花の咲いてる小道の風景

2018年02月18日 | 写真
歩く道、土の細い道、少し曲がった土の道、その足もとに花が咲いている道。
そんな風景を見ると私の心に幸福感が湧いて来ます。
昔、子供の頃に楽しく遊んだ春の野の小道を思い出すのです。小道の両側の野にシロツメクサの白い花が咲いていました。ヒバリが空高く鳴いています。
少し曲がった道、花が咲いている道を眺めていると、これまでの人生にあゆんだ凸凹道を忘れます。
重い荷を背負ってあえぎながら登った坂道を忘れます。
梅雨時の泥の道に足を滑らせたことを忘れます。
この花園に来ると私は一生懸命、少し曲がった土の道を探します。小道の写真を撮ることに夢中になります。
不思議そうな家人がもっと真っ直ぐな道の写真を撮ったらと言います。もっと花園全体の美しさが分るような構図の写真を撮れば良いのにと言います。
私はかたくなに少し曲がった土の道を探します。小道の写真を撮ります。
こんな人間の気持ちがわかるのでしょうか、この花園には曲がった小道があちこちにあるのです。
それがこの花園、京王フローラル・ガーデンの魅力なのです。

それはさておき、道にはいろいろあります。
華道や茶道のような道もあります。
四国のお遍路道もあります。同行二人といって弘法大師さまと一緒にあるく道です。
そしてキリスト教の信仰の道はイエスさまと一緒に歩く道です。
そんなことを考えながら、これから何時もの日曜日のようにミサに行きます。
こうして今日も老境の日が何事もなく流れ行くのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)










戦国時代の関東平野と川越城の主の移り変わり

2018年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様は上杉謙信と武田信玄の川中島での戦いはご存知と思います。
室町時代の後半の戦国時代の越後や信濃では上杉謙信が君臨し甲斐の国では武田信玄が勢力を拡大していました。
そのせいで信濃や越後や甲斐の中部日本の戦国期の歴史は学校でも習います。
しかし関東平野の戦国期の歴史に興味を持つ人が少なく、知らない人が多いのではないでしょうか。
戦国期の関東平野の歴史は理解し難く、その上、川中島の合戦のようにドラマチックでないのです。一言で言えば面白くないのです。
戦国期の関東平野の歴史が理解し難い原因は、室町幕府が関東平野に「関東管領」と鎌倉府の長官である「鎌倉公方」の両方を置いたことが原因になっています。
当時の関東平野では「関東管領」と「鎌倉公方」の勢力争いが複雑になり、明快に理解出来ない歴史が展開したのです。
関東管領は鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名です。ですから関東管領は鎌倉公方の下部組織であり、その配下なので盾突いてはいけないのです。
ところが関東管領を世襲した上杉氏は、鎌倉から古河に移り住んだ鎌倉公方の「古河公方足利氏」と戦っていたのです。
その一方で小田原城に拠点をおいた後北条氏が関東平野の北部にいる関東管領の上杉氏と古河公方を攻撃したのです。
この3者の複雑な戦争を明快に理解する鍵は埼玉県の川越城にありそうです。
そこで昨日、車を駆って川越城と城下町の写真を撮って来ました。

1番目の写真は現存している川越城の本丸御殿です。日本国内でも本丸御殿が現存している例はきわめてまれで、昭和42年(1967)に埼玉県の指定文化財になっています。現存する大広間と玄関部分は明治維新後、入間郡役所、煙草工場、中学校校舎などに使用されたのです。

2番目の写真は本丸御殿を南に回り下りた場所から見上げた当時の城跡です。この小高い城郭の南端には高い「富士見櫓」が立っていたのです。

3番目の写真は「富士見櫓」の説明板です。川越城には天守閣が無かったので城郭の隅に高い櫓を建て天守閣の代わりにしたそうです。
この場所からは富士山がよく見えたので「富士見櫓」と言われたと書いてあります。

4番目の写真は城下町にある時を知らせる鼓楼の写真です。江戸時代の城下町に当時使われていた鼓楼が復元されています。

5番目の写真は城下町の風景です。東京近辺では、ここ川越市だけに江戸時代を偲ばせる町並みが保存してあります。平日でも多くの観光客が歩いています。
さて川越城の歴史を簡単にご紹介しましょう。
川越城は「関東管領」の扇谷上杉持朝が鎌倉公方の古河公方足利成氏に対抗するため、長禄元年(1457)に家臣の太田道真(資清)・道灌(資長)父子に命じて築城したものです。当初の規模は、後の本丸・二の丸を合わせた程度と推定されています。

やがて川越城は、天文6年(1537)に小田原から北上して来た後北条氏の占拠するところとなりました。
そして天文15年(1546)川越城の奪回を図った上杉氏は後北条氏の奇襲に会い、打ち破られ群馬に逃れ完全に敗退したのです。
それ以後、後北条氏の支配が決定的となりました。川越城を掌中に収めた後北条氏は、周辺の旧上杉氏所領を直轄領に組み込むとともに、城代として譜代の重臣大道寺氏を配置しました。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家に攻められて落城します。やがて同年8月徳川家康が一族家臣を従えて関東に移るにおよび、重臣を重要な地に配して領国の安定を図りました。川越には酒井重忠が1万石をもって封じられ、ここに川越藩の基礎が成立しました。

寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は川越城の大幅な拡張・整備を行い、近世城郭の形態を整えることとなりました。この時、本丸、二の丸、三の丸等の各曲輪、四つの櫓、十二の門よりなり、総坪数は堀と土塁を除いて4万6千坪となりました。

その後も明治維新に至るまで、幕府の要職にある大名が置かれた川越城は、平成18年(2006)に財団法人日本城郭協会から「日本100名城」の選定を受けました。また平成19年(2007)には築城550年を迎えました。
明治維新を迎えると、川越城は次第に解体されていきましたが、大広間及び玄関部分だけは残ったのです。

以上が関東平野の戦国時代の歴史の概略です。
しかし後北条氏は八王子城などを築き武田信玄の関東平野への侵攻にそなえたのです。そして各地にいろいろな武装集団の国衆がいて決して平穏なわけではなかったのです。この国衆は「関東管領」と「鎌倉公方」と後北条氏のいずれかに従っていましたが、関東平野に平和がやって来たのは天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略以後のことです。関東平野の多数の城が天正18年に一挙に落城し、全て秀吉に帰順したのです。
ですから関東の歴史において天正18年(1590)は非常に大きな歴史の転換期だったのです。
この時、太田道灌が康正3年(1457年)に作った江戸城も落城し、やがて徳川幕府は江戸城に入ることになったのです。
日本も広いので地方、地方によって非常に大きな歴史の転換期は違います。皆様の郷土の非常に大きな歴史の転換期は何時でしょうか?


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)