沖縄と言えば第二次世界大戦中のアメリカ軍との凄惨な地上戦を忘れることが出来ません。戦闘は昭和20年4月2日に始まり6月23日に終りませた。 日本人は20万人が死にアメリカ兵は2万人が戦死しました。
沖縄への旅はあまりに美しい自然と人々の戦争の悲しみのある所への旅です。
今日はこの沖縄を巡る旅をご紹介したいと思います。
沖縄へは2002年以来、4回観光旅行に行きました。レンタカーで広大な基地の周りや観光客の行かない淋しい島へも行きました。
自然の美しさは圧倒的です。想像以上です。今日はその美しさと沖縄の人々の深い悲しみをご紹介致します。
感動的な自然の美とは対照的に、沖縄の人々の悲嘆は深いのです。案内人の話す琉球王朝時代の悲しみ。第二次大戦中の悲惨さ。そして今も続く基地の広大さ。人々の苦しさ悲しみは現地へ行ってみてやっとほんの少し分かります。
沖縄の自然の美しさはいろいろな本に書いてあります。たくさんの写真集もあります。しかし私が特に感動した写真集は和田義明さんのフォトギャラリー(http://wadaphoto.jp/japan/oki0.htm )です。そこで和田義明さんの写真をお借りして沖縄の美しい自然をご紹介致します。
1番目の写真は沖縄本島に西に見える伊江島です。海の碧さが違うと思いませんか。
2番目の写真はは沖縄本島の西海岸にあるホテルです。海が綺麗な上に、ホテルが立派で、格安で素晴しいサービスなのです。
3番目の写真は西表島から由布島へ浅瀬を渡る水牛車の光景です。
写真では分かりませんが水牛の動きがゆうゆうとして、この世のものではない動きをするのです。御者が三線を弾いて琉球時代から伝わる民謡を不思議な節回しで唄います。
4番目の写真は仕事を終えた水牛がのんびりとしている光景です。由布島は熱帯植物園の様です。
5番目の写真は西表島にある川を観光船で遡った時の岸辺の風景です。ガジュマルが水の中へ根をおろしているのが見えます。川を数キロ遡ると熱帯林の中で下船し、林の中を散策します。幹が平らに数か所分かれて地中へ入っている板根というものがあります。異境へ踏み込んだ気分になります。
沖縄は別世界です。沖縄本島の他に宮古島、石垣島、西表島、波照島、竹富島、伊江島、などなど多くの美しい島が散在しています。
さて沖縄の人々の深い悲しみについて書きます。悲しみは江戸時代から始まりました。
1609年に薩摩藩が琉球王国へ侵攻し、琉球王国は薩摩藩へ重い税金を納めることで琉球王国の存続が認められたのです。財政的に困窮した琉球王府は宮古諸島などへ厳しい人頭税を課したのです。
宮古島に行くと観光バスが、人頭税石の前に一時停車して「この石柱より大きくなった男子には一人一人税金が取られ、薩摩藩へ送られたのです」と悲しげな説明があります。バスの中はシーンと静まりかえります。私もビックリして那覇市の大きな本屋さんで郷土史の本を3冊買って、沖縄の歴史を勉強しました。
6番目の写真は 宮古島にある人頭税石です。
本で詳しく調べたらこの人頭石より大きくなったら税金をかけたというのはウソでした。実際は15歳から50歳の男性にかかった税金で、その税額はその男の家の収穫量、身分、年齢、などによって細かい等級が決まっていました。決して男の身長によって決めたのではありません。税金は粟などの農産物や反物で納められました。
この人頭税は驚くなかれ明治になっても続けられ、1903年になってやっと廃止されたのです。
薩摩藩の苛斂誅求によって困窮した琉球王国は未開墾の島々へ農民を移住させたのです。ところが村落全員がマラリアで死んでしまったという話も観光バスのガイドさんが悲しげに言います。未開墾の島々にはマラリアがあるので昔から人が住んでいなかったのです。
沖縄へ行くとサンゴ礁が美しいです。しかしそのサンゴ礁で出来あがった島々は水はけが良すぎて、サトウキビや粟などの農作物しか出来ないことにすぐ気がつきます。
人間が住むには過酷過ぎる島々なのです。過酷な生活の悲しさが沖縄の文化の基底に流れているのです。
さて薩摩藩の圧政の後、明治政府は1879年(明治12年)に琉球処分を断行し、琉球王国は完全に消滅しました。
ところが琉球王国は昔から清王朝を宗主国として貢物を送っていたのです。薩摩藩の横暴をけん制する目的もありました。
したがって明治政府が琉球王国を領土化した時に何人もの沖縄人が清国へ亡命したのです。そして清の政府へ「琉球王国の再興」を願い出るのです。日本政府の横暴をけん制する目的もありました。
しかしこの琉球王国の再独立運動はに1894年の日清戦争で日本が勝った結果、終焉したのです。
沖縄の独立運動は1945年の敗戦後にも起きたのです。それはある意味では当然だったのです。
1854年に那覇を訪れたペリー提督は琉球王国と琉米修好条約を締結するのです。江戸幕府と結んだ日米修好条約とは別なのです。
したがってアメリカ側の理解では日本と沖縄は違う国なのです。
その上、米兵の血を流して上陸作戦をした米軍です。上陸した米軍は凄惨な地上戦を繰り広げます。機関銃や火炎放射機で沖縄の住民も殺戮したのです。それは歴史に残る残酷な地上戦でした。この地上戦でアメリカ兵も多数戦死します。ですから戦後に沖縄に広大な米軍基地を作る気分になったのです。
米軍の沖縄占領とともに独立運動がまた起きます。明治政府以来の強引な「同化政策」に苦しんだ人々が立ちあがったのです。日本共産党や社会党は沖縄独立運動を支援したのです。
しかしソ連や共産党中国とアメリカの冷戦状態の緊迫化がこの独立運動を無視することになったのです。
日本中にある米軍基地と沖縄の米軍基地を統一的に運用して軍事戦略を立てるほうが有利になります。それと同時に佐藤首相がアメリカ軍への財政支援も言いだすのです。いろいろな事情が相乗効果をあげて、1972年にニクソン大統領と佐藤首相の間で沖縄の日本への返還が決まったのです。戦後27年間も沖縄はアメリカの領土だったのです。
戦後の沖縄の運命はすべて、日本政府とアメリカ政府が頭越しに決めて来たのです。
7番目の写真はひめゆりの塔(手前)と 奥に見えている慰霊碑です。多数の女学生が看護師として動員されて死にました。
日本と沖縄との関係は悲しい関係です。沖縄戦や健児の塔ひめゆりの塔の悲劇だけではないのです。もっと、もっと深く長い歴史的な背景があるのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)