後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「甲斐駒岳の山麓の高原に咲いていた夏の花々」

2022年07月31日 | 写真
山梨県、北杜市の甲斐駒岳の山麓には夏の花々が咲いていました。2年前までは毎年行きました。長距離のドライブが出来なくなって最近は行っていません。懐かしい花々です。
高原に咲いていた夏の花々の以前の写真をお送り致しま。
お楽しみ頂ければ嬉しく思います。





 

「イグナチオ教会の今日の 『第18日ミサ 』 の風景」

2022年07月31日 | 写真
イグナチオ教会の今日の 『第18日ミサ 』 の風景です。
司式はフローレス神父さまでした。
動画配信は、
https://www.youtube.com/watch?v=aDU2xVXonBw です。
【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読
コヘレトの言葉(コヘレト 1:2, 2:21-23)
第2朗読
使途パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ 3:1-5, 9-11)
福音朗読
ルカによる福音 (ルカ 12:13-21)







「猛暑でも活き活きと咲いている花々」

2022年07月31日 | 写真
猛暑の夏になりました。猛暑でも活き活きと咲いている花々の写真をお送り致します。夏の強い日差しや高い気温にも負けずに元気に咲いてい花々です。
写真の出典は、https://lovegreen.net/flower/p174611/2/ です。
1番目の写真はタチアオイです。
2番目の写真はグラジオラスです。
3番目の写真は色鮮やか夏のダリアです。

4番目の写真はいかにも日本的なキキョウです。

「聖イグナチオ教会の7月31日の 10 AM の年間第18主日ミサ」

2022年07月31日 | 日記
カトリック麹町 聖イグナチオ教会の7月31日の 10 AM の年間第18主日ミサをご案内致します。
動画配信は、
https://www.youtube.com/watch?v=aDU2xVXonBw です。
【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読
コヘレトの言葉(コヘレト 1:2, 2:21-23)
第2朗読
使途パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ 3:1-5, 9-11)
福音朗読
ルカによる福音 (ルカ 12:13-21)
朝10時以後でしたらミサの動画配信で何時でもミサにあずかることが出来ます。
なお関口教会からも動画配信があります。
写真は50年以上前に私が行っていた 聖イグナチオ教会の写真です。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りきたします。後藤和弘(藤山杜人)





「夏の珍しい花々の写真です」

2022年07月29日 | 写真
夏の珍しい花々の写真です。
写真は順に以下の通りです。
1,黒磯市役所跡に咲く大きなノリ空木の見事な花です。
2,奈良市ののシコンノボタン(紫紺野牡丹)です。
3,那珂川の水辺に見事に花を咲かせている臭木の見事な花です。
4,自生のナツツバキです。
これらの写真は「夏の花」を検索し、出て来た数多くの写真から珍しい花を選びました。



 

「唐の長安にも咲いていた百日紅の写真をお楽しみ下さい」

2022年07月28日 | 写真
暑い夏に長い間咲いているサルスベリは百日紅(ひゃくにちこう)とも言います。鮮やかな紅色や薄紫やピンク、白などの花が咲きます。 
中国原産の花であでやかな花なので、唐の長安の宮廷に沢山植えられていました。
中國人が好きな花なので江蘇省徐州市、湖北省襄陽市、四川省自貢市、台湾基隆市などで市の花とされています。
日本に渡来した時代は明確に分かっていませんが、おそらく遣隋使や遣唐使が持って来たに違い無いと私は想像しています。
近くの都立武蔵野公園に暑い夏に長い間、満開になっています。写真をお楽しみ下さい。



このサルスベリが謳われた和歌と俳句をご紹介いたします。
和歌:
足引のやまのかけぢの猿滑りすべらかにても世をわたらばや・・・藤原為家『夫木和歌抄』(藤原 為家は、鎌倉時代中期の公家・歌人です。)
そして『夫木和歌抄』は、鎌倉時代後期に成立した私撰和歌集です。選者は地方武士の藤原長清でした。

例句:
袖に置くや百日紅の花の露     貞室 「玉海集」
籠らばや百日紅の散る日まで    支考 「菊の香」
散れば咲き散れば咲きして百日紅  千代女 「松の声」
百日紅ややちりがての小町寺    蕪村 「夜半叟句集」
百日紅ごくごく水を呑むばかり   石田波郷 「鶴の眼」
さるすべり美しかりし与謝郡    森澄雄 「游方」

サルスベリの花言葉は『雄弁』です。
サルスベリの花言葉の中でも、木の外観に由来するものが「雄弁」です。枝先に花が群生する姿が華やかで堂々としていることから、この花言葉が生まれました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「思い出の旅(3)アメリカ軍との凄惨な地上戦があった沖縄を巡る旅」

2022年07月28日 | 日記・エッセイ・コラム
沖縄と言えば第二次世界大戦中のアメリカ軍との凄惨な地上戦を忘れることが出来ません。戦闘は昭和20年4月2日に始まり6月23日に終りませた。 日本人は20万人が死にアメリカ兵は2万人が戦死しました。
沖縄への旅はあまりに美しい自然と人々の戦争の悲しみのある所への旅です。
今日はこの沖縄を巡る旅をご紹介したいと思います。
沖縄へは2002年以来、4回観光旅行に行きました。レンタカーで広大な基地の周りや観光客の行かない淋しい島へも行きました。
自然の美しさは圧倒的です。想像以上です。今日はその美しさと沖縄の人々の深い悲しみをご紹介致します。
感動的な自然の美とは対照的に、沖縄の人々の悲嘆は深いのです。案内人の話す琉球王朝時代の悲しみ。第二次大戦中の悲惨さ。そして今も続く基地の広大さ。人々の苦しさ悲しみは現地へ行ってみてやっとほんの少し分かります。
沖縄の自然の美しさはいろいろな本に書いてあります。たくさんの写真集もあります。しかし私が特に感動した写真集は和田義明さんのフォトギャラリー(http://wadaphoto.jp/japan/oki0.htm )です。そこで和田義明さんの写真をお借りして沖縄の美しい自然をご紹介致します。

1番目の写真は沖縄本島に西に見える伊江島です。海の碧さが違うと思いませんか。

2番目の写真はは沖縄本島の西海岸にあるホテルです。海が綺麗な上に、ホテルが立派で、格安で素晴しいサービスなのです。

3番目の写真は西表島から由布島へ浅瀬を渡る水牛車の光景です。
写真では分かりませんが水牛の動きがゆうゆうとして、この世のものではない動きをするのです。御者が三線を弾いて琉球時代から伝わる民謡を不思議な節回しで唄います。

4番目の写真は仕事を終えた水牛がのんびりとしている光景です。由布島は熱帯植物園の様です。

5番目の写真は西表島にある川を観光船で遡った時の岸辺の風景です。ガジュマルが水の中へ根をおろしているのが見えます。川を数キロ遡ると熱帯林の中で下船し、林の中を散策します。幹が平らに数か所分かれて地中へ入っている板根というものがあります。異境へ踏み込んだ気分になります。
沖縄は別世界です。沖縄本島の他に宮古島、石垣島、西表島、波照島、竹富島、伊江島、などなど多くの美しい島が散在しています。

さて沖縄の人々の深い悲しみについて書きます。悲しみは江戸時代から始まりました。
1609年に薩摩藩が琉球王国へ侵攻し、琉球王国は薩摩藩へ重い税金を納めることで琉球王国の存続が認められたのです。財政的に困窮した琉球王府は宮古諸島などへ厳しい人頭税を課したのです。
宮古島に行くと観光バスが、人頭税石の前に一時停車して「この石柱より大きくなった男子には一人一人税金が取られ、薩摩藩へ送られたのです」と悲しげな説明があります。バスの中はシーンと静まりかえります。私もビックリして那覇市の大きな本屋さんで郷土史の本を3冊買って、沖縄の歴史を勉強しました。

6番目の写真は 宮古島にある人頭税石です。
本で詳しく調べたらこの人頭石より大きくなったら税金をかけたというのはウソでした。実際は15歳から50歳の男性にかかった税金で、その税額はその男の家の収穫量、身分、年齢、などによって細かい等級が決まっていました。決して男の身長によって決めたのではありません。税金は粟などの農産物や反物で納められました。
この人頭税は驚くなかれ明治になっても続けられ、1903年になってやっと廃止されたのです。
薩摩藩の苛斂誅求によって困窮した琉球王国は未開墾の島々へ農民を移住させたのです。ところが村落全員がマラリアで死んでしまったという話も観光バスのガイドさんが悲しげに言います。未開墾の島々にはマラリアがあるので昔から人が住んでいなかったのです。

沖縄へ行くとサンゴ礁が美しいです。しかしそのサンゴ礁で出来あがった島々は水はけが良すぎて、サトウキビや粟などの農作物しか出来ないことにすぐ気がつきます。
人間が住むには過酷過ぎる島々なのです。過酷な生活の悲しさが沖縄の文化の基底に流れているのです。
さて薩摩藩の圧政の後、明治政府は1879年(明治12年)に琉球処分を断行し、琉球王国は完全に消滅しました。
ところが琉球王国は昔から清王朝を宗主国として貢物を送っていたのです。薩摩藩の横暴をけん制する目的もありました。
したがって明治政府が琉球王国を領土化した時に何人もの沖縄人が清国へ亡命したのです。そして清の政府へ「琉球王国の再興」を願い出るのです。日本政府の横暴をけん制する目的もありました。
しかしこの琉球王国の再独立運動はに1894年の日清戦争で日本が勝った結果、終焉したのです。
沖縄の独立運動は1945年の敗戦後にも起きたのです。それはある意味では当然だったのです。
1854年に那覇を訪れたペリー提督は琉球王国と琉米修好条約を締結するのです。江戸幕府と結んだ日米修好条約とは別なのです。
したがってアメリカ側の理解では日本と沖縄は違う国なのです。
その上、米兵の血を流して上陸作戦をした米軍です。上陸した米軍は凄惨な地上戦を繰り広げます。機関銃や火炎放射機で沖縄の住民も殺戮したのです。それは歴史に残る残酷な地上戦でした。この地上戦でアメリカ兵も多数戦死します。ですから戦後に沖縄に広大な米軍基地を作る気分になったのです。
米軍の沖縄占領とともに独立運動がまた起きます。明治政府以来の強引な「同化政策」に苦しんだ人々が立ちあがったのです。日本共産党や社会党は沖縄独立運動を支援したのです。
しかしソ連や共産党中国とアメリカの冷戦状態の緊迫化がこの独立運動を無視することになったのです。
日本中にある米軍基地と沖縄の米軍基地を統一的に運用して軍事戦略を立てるほうが有利になります。それと同時に佐藤首相がアメリカ軍への財政支援も言いだすのです。いろいろな事情が相乗効果をあげて、1972年にニクソン大統領と佐藤首相の間で沖縄の日本への返還が決まったのです。戦後27年間も沖縄はアメリカの領土だったのです。
戦後の沖縄の運命はすべて、日本政府とアメリカ政府が頭越しに決めて来たのです。

7番目の写真はひめゆりの塔(手前)と 奥に見えている慰霊碑です。多数の女学生が看護師として動員されて死にました。

日本と沖縄との関係は悲しい関係です。沖縄戦や健児の塔ひめゆりの塔の悲劇だけではないのです。もっと、もっと深く長い歴史的な背景があるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日は桐の花の写真をお楽しみ下さい」

2022年07月27日 | 写真
今日は桐の花の写真をお楽しむ下さい。
桐の 原産地は中国です。
写真の出典は、https://kurashi-no.jp/I0020239 です。
花言葉は「高尚」です。
花言葉は中国の神話から来ています。伝説上の「鳳凰」は桐の木にだけ止まるのです。ですから桐は神聖な木です。このことから花言葉は「高尚」なのです。




「戦前のプロ野球の若林忠志選手の思い出と少年の頃の友人達」

2022年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前のプロ野球、阪神の若林忠志選手の思い出と少年の頃の友人達のことを書いてみたいと思います。若林選手は「七色の変化球」(ストレート、カーブ、シュート、スライダー、シンカー、ドロップ、ナックル) で有名でした。1936年に阪神に入団したハワイ生まれの日系二世でした。
私が小学3年生の時の終戦後、仙台市の向山小学校の校庭で野球の指導を受けました。
終戦後、若林選手は仙台の霊屋下の私の友人の家に寄寓していました。その友人の本間君が向山小学校の校庭に連れて来たのです。
彼はホームベースの打席に立って我々相手にノックをして丁寧に指導しました。優しく声をかけてくれました。
若林選手の大きく重い皮製のグローブが珍しく感動した記憶が残っています。当時は皮製のグローブは高嶺の花だったのです。

1番目の写真は阪神時代の若林忠志選手です。
若林選手の指導は一回だけでした。その後、彼は石巻の奥さんの実家へ引っ越して仙台から去ってしまったのです。若林選手の指導を受けたのに私はその後野球は上手になりませんでした。生まれつきの運痴なのです。
そんな事があった当時の私の友人たちの思い出を書きます。

この部分については数日、逡巡していました。こんな私的なことをブログに書くべきでないかと。しかし書くことにしました。
若くして仙台を出てアメリカへ留学した私は一別以来、友人たちとは会っていません。

まず萩生田啓一君へ私の疎遠をお詫びします。君の家にはしょっちゅう遊びに行き優しい母上に随分とお世話になりました。北海道炭鉱に勤めていた父上にも親切にして貰いました。お霊屋下の奥の方に家があり近所に住んでいた宮内
量君ともよく一緒に遊んだものです。
君が大学卒後、七十七銀行に入り、その得意先まわりの折に私の大学の実験室を訪ねてくれたことがありました。新しい職場に張り切っている様子でした。それが君に会った最後になりました。性格の優しい君に会えると期待しつつ10年前に開催された同窓会に行きました。君は旅立っていました。

内海範夫君。君は長身で知的な少年でした。今回の大津波で流された宮城県の名取市の閖上港町から汽車通学していたので心配していました。君の友人に聞きました。石巻日赤病院に医者として定年まで勤めていたそうですね。定年後、実家のあった閖上港町に帰って暫くして病気で亡くなったそうですね。ですから大津波が来る前だったのです。幸いだったのかも知れませんが何故か悲しいです。

有路敏夫君。君の家は愛宕神社の山の中腹にありました。何度も遊びに行きましたね。君は小柄な体に機敏そうな顔をしていました。よく走り回って遊んでいましたね。勉強は苦手だったようですがいつも数多くの友人が君の周りにいました。友達のめんどう見が良かったです。何故か君のパーソナリティーが魅力的だったのです。多くの人が君の事を懐かしそうに話してくれました。

我孫子遜君。美声でよくイタリア歌曲を歌って聞かせてくれましたね。満州からの引き揚げで、都会的な雰囲気をまき散らしていました。
大学を卒業してからすぐに東京で一緒に飲みましたが、その後、君が証券会社で忙しくなり会えなくなりました。そして若くして病死したのです。その頃のことをよく知っている友人が同窓会で君の華やかな活躍ぶりを話してくれました。それにしても若すぎる死でした。君は実に印象深い人でした。

村木良彦君。きみは10年ほど前に亡くなり東京の増上寺でお葬式があり私も参列しました。
テレビマンユニオンを創り、テレビの有名な旅番組を沢山つくりましたね。
仙台時代は君の東八番町の家によく遊びに行きました。肺を病んでいた上品な母親がいましたね。中学校と高校では一緒に演劇部でよく遊んだものです。君はその後東京大学に入りました。そのころ訪ねて行った私へ大井町駅のそばでトンカツをご馳走してくれました。仙台はまだ貧しい時代だったのでトンカツなど食べたことも無なかったのです。あの美味しさを忘れません。それにしてもテレビ界では有名なプロデューサーとして活躍しましたね。このブログでも君の追悼文を4年前に掲載しましたよ。

早坂清作君。君は喧嘩が強かったですね。その君が何時も非力な私を守ってくれました。どういう訳か君は僕の保護者のようになってくれていました。貧しい時代で、世の中は殺伐としていました。学校でも喧嘩が絶えませんでした。現在のよう陰湿ないじめはありませんでしたが鉄拳がものを言う時代でした。
そんな学校で喧嘩の強い君が守ってくれたおかげで大変心強かったです。そのお礼を何時か言おうと思っていたら、君は既に旅立ってしまったのです。
早坂清作君、私を守ってくれて有り難う。そのことは一生忘れない。

その他いろいろ友だちが沢山いましたが、この辺で止めます。

今日は既に亡くなってしまった昔の友人たちの冥福をお祈りいたします。後藤和弘

そして今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 

ついでに掲載した4枚の写真は昔の友だちと遊んだ青葉城や経ケ峰や霊屋下の風景です。
2番目の写真は青葉城からの仙台市の中心街です。
3番目の写真は伊達政宗に霊廟がある経ケ峰です。広瀬川が蛇行しています。
4番目の写真は経ケ峰の麓にある霊屋下という町です。広瀬川が霊屋下という町を囲んで流れています。

5番目の写真は霊屋下橋です。伊達政宗の霊廟がある経ケ峰への橋なので欄干に石の灯篭が並んでいます。


「私の避暑法、白馬岳の大雪渓の写真を見て涼しい気分になる」

2022年07月25日 | 写真
若い時は北アルプスなどに登り高山の冷気を楽しみました。もう実際には登れません。
そんな私の避暑法は白馬岳の大雪渓の写真を見て涼しい気分になるることです。
皆様も大雪渓の写真を見て涼しい気分になって下さい。

写真の出典は、https://www.yamareco.com/modules/yamainfo/ptinfo.php?ptid=52 です。





「富士五湖の湖畔に咲いている夏の花の写真」

2022年07月24日 | 写真
富士五湖の湖畔に咲いている夏の花の写真です。
写真の出典は、https://www.fuji-net.co.jp/report/cat-flower-nature/1428/ です。
以前は夏によく行ったものです。最近は長距離ドライブが出来なくなって行ってません。懐かしい夏の風景です。




「イグナチオ教会の今日の 『第17日ミサ 』 の風景です」

2022年07月24日 | 写真
イグナチオ教会の今日の 『第17日ミサ 』 の風景です。
司式はガルラダ神父さまでした。
【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読
創世記(創世記 18:20-32)
第2朗読
使途パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ 2:12-14)
福音朗読
ルカによる福音 (ルカ 11:1-13)