後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

先進国の核実験と北朝鮮の核兵器、ミサイルの問題

2017年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
 今日の主張は欧米先進国が過去にさんざん核実験をしてきたので、後発国の北朝鮮の核実験やミサイルの発射を非難出来ないという主張です。それは公平というものではなく、先進国の傲慢だという主張です。
しかし私は北朝鮮は日本にとっても仮想敵国であり、その核保有には、先進国の核保有とともに強く反対します。
先進国のわがままは、これまで多量の炭酸ガスを放出してきた欧米諸国の地球温暖化防止交渉にも見られます。
今日はまず過去の先進国の数多くの核実験の歴史をもう一度見てみます。
さて2015年時点で、世界には約16000発の核兵器が保管されています。そしてその90%以上はアメリカとロシアが持っているのです。北朝鮮は、8発を保有しているに過ぎません。わずか0.05%です。この情報の出典は、http://useful-info.com/dprk-nuclear-test-footage です。
国連安全保障理事会は2016年2月2日、核実験と事実上の長距離弾道ミサイル発射を強行した北朝鮮に対する制裁決議を全会一致で採択しました。
しかし私はアメリカも含めた強大な核兵器保有連合が北朝鮮を非難するという構図だと感じました。巨悪が小悪を責め立てる風景に違和感を感じるのは私だけでしょうか?だからといって私が北を弁護するのではありません。国際間の歴史的公平さを夢想しているのです。
そして世界にある16000発の核兵器がこの我々が住んでいる美しい青い地球を死の荒野にしないようにと強く祈っているのです。
まず宇宙船から見た美しい地球の写真をご覧下さい。

1番目の写真は宇宙船から見た地球の写真です。出典は、http://ryoko-tatsujin.net/trend/8921/ です。
この美しい地球の上で初めての原爆実験は先の世界大戦中に行なわれました。

2番目の写真は1945年7月16日にアメリカ ネバダ州で行われた人類初の核実験の様子です
詳細はトリニティ実験を検索するとあります。
この写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93 です。

3番目の写真は1953年に行われた原爆の大砲による発射実験の様子です。大砲は 280mmカノン砲を使用しました。核出力は広島に投下されたのと同じ15ktですが、原爆を大砲で撃つという実戦的な核実験でした。
写真の出典はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93 です。

4番目の写真は北朝鮮水爆核実験の行われた豊渓里の場所を示す地図です。出典は、http://useful-info.com/dprk-nuclear-test-footage です。

このような写真で示した核実験は過去に非常に数多くなされて来ました。
核実験を行ってきた国々はアメリカ合衆国、ソ連、イギリス、フランス、中華人民共和国、インド、パキスタン、朝鮮民主主義人民共和国などです。
核実験は1945年から約半世紀の間に2379回も各国で行われたのです。そのエネルギーはTNT換算で530メガトンで、これは広島へ投下されたリトルボーイの3万5千発以上に相当するそうです。恐ろしいことではありませんか?

5番目の写真は各国の核実験の回数を縦軸に、1945年から2014年までの年号を横軸に示した図面です。
出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93 です。

このような多数の核実験が大部分終わってしまってから北朝鮮が核実験に以下のように乗り出したのです。
2006年10月9日 咸鏡北道吉州郡豊渓里で初の核実験。
2009年5月25日 咸鏡北道吉州郡豊渓里で2回目の核実験。
2013年2月12日 咸鏡北道吉州郡豊渓里で3回目の核実験[8]。
2016年1月6日 咸鏡北道吉州郡豊渓里で初の水爆実験。しかしこの実験の水素爆弾というのは疑わしい見方も多い。
2016年9月9日 5回目の核実験。

私は何度も書くように北朝鮮も含めた全ての国の原爆保有に強く反対する立場です。しかし北朝鮮だけ非難する最近のマスコミの風潮には疑問を感じているのです。
例えば長距離ミサイルの発射で、北朝鮮だけを非難する報道がなされていますが、以下のネット報道のようにアメリカも同様の実験をしているのです。
『米国空軍がICBM発射実験 北朝鮮をけん制か』 (2017年8月3日)
http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000106843.html
北朝鮮情勢が緊迫するなか、アメリカ空軍が今年4回目となるICBM(大陸間弾道ミサイル)の発射実験をしました。
 8月2日午前2時すぎ、カリフォルニア州のバンデンバーグ空軍基地から大陸間弾道ミサイル「ミニットマン3」が発射されました。ミニットマン3は核弾頭の搭載が可能ですが、今回は搭載していません。アメリカ空軍はミサイルが7000キロ近く離れたマーシャル諸島に落下し、実験は成功したと発表しました。アメリカ空軍は「性能を確かめるための予定通りのテストだ」としていますが、北朝鮮に対する警告や牽制の狙いもあるとみられています。

このようにアメリカは自由に太平洋に大陸間弾道ミサイルを撃ち込んでいますが、日本のマスコミは大きく報道しません。
北朝鮮がミサイルの実験をするたびに小学校などの防空演習をし、マスコミは大騒ぎをします。
防空演習で再軍備の強化を促進しやすい社会の雰囲気になることは仕方のないことです。
それにしても北朝鮮がミサイル実験のたびに大騒ぎをする日本の様子を韓国のマスコミが冷笑しているという記事を見ました。
もう少し大局的に冷静に対応できないものでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料================================
アメリカの太平洋のマーシャル諸島での核実験;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93
1946年7月1日からアメリカ軍占領下にある日本の委任統治領であるマーシャル諸島のビキニ環礁で核実験を行い、1947年にアメリカ領となった後も核実験を継続し、エニウェトク環礁と合わせて67回の核実験を行った[2][3]。
1946年7月、原爆実験クロスロード作戦では、日本の戦艦長門など約70隻の艦艇が標的として集められ、そこを原爆で攻撃して効果を測定した。1回目は7月1日に実験(エイブル)し、2回目(ベイカー)は7月25日に行なわれた。
その後、太平洋核実験場として指定され、1954年3月1日ビキニ環礁で水爆実験(キャッスル作戦)では、実験計画では数Mtクラスの爆発力と見積もっていたものが、実際には15Mtの爆発力があったため予想よりも広範囲に死の灰が拡散して、多数の被曝者を出した。
ビキニ環礁の島民は、強制的にロンゲリック環礁へ移住させられ、現在に至るまで帰島できない。
日本のマグロ漁船第五福竜丸など数百〜千隻の漁船が死の灰で被曝した。
240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り、実験の3日後に住民全員が強制避難させられた。
ビキニ環礁面積の80%のサンゴ礁が回復しているが、28種のサンゴが原水爆実験で絶滅した。

私は気持ちが落ち込んだ時ゴッホの絵を見ます

2017年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム
以前から私は気持ちが落ち込んだ時ゴッホの絵を見ることにしていました。
あれはオハイオ州で仕事をしていた頃のことです。仕事にいきづまり、心がしばしば落ち込むことがありました。そんな折には車を駆って隣りの州のピッツバーグの美術館に行きます。あまり有名なものではありませんが、ゴッホの絵が5枚ほどあるのです。ゴッホ独特のタッチと色彩を見ていると心の底から元気が湧いてくるのです。それ以来、気持ちが落ち込むとゴッホの画集を開いて見るようになりました。
そして老境に至り、仕事から解放されると不思議に落ち込むことも無くなりました。老境とは良いものだと独り微笑んでいます。
しかし先週、猪苗代湖へ旅をして少し落ち込んでしまいました。あまりにも激しい雨で心に描いていた夢が無残にも破れてしまったのです。
落ち込むほど大げさではありませんが深く落胆をしたのです。
そこでゴッホの絵画をいろいろ検索して鑑賞しました。元気が湧いて来ました。絵画から感じることは人さまざまです。元気の湧いてくる方はいらっしゃいますでしょうか?
今日はゴッホの絵画を7点お送りいたします。
検索していろいろなHPを見較べていますが、「ヴァーチャル絵画館」:http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/Gogh.htm は色彩が一番鮮明で、多くの絵画を網羅しています。このHPからゴッホの絵を7枚を選んでお送りします。
ゴッホの絵がお好きな方々は喜んで下さると信じています。

1番目の写真は、ゴッホ「モンマルトルの家庭菜園」1887年です。 ゴッホ美術館 アムステルダム収蔵です。

2番目の写真は、ゴッホ「アルルのはね橋」1888年、54x65cmです。  クレラー・ミュラー美術館、オッテルロー、オランダ収蔵です。

3番目の写真は、ゴッホ「スヘフェーニンゲンの浜辺」1882年です。 アムステルダム市立美術館収蔵です。

4番目の写真は、ゴッホ「アルルのゴッホの部屋」1888 年 72 X 90 cmです。 アムステルダム、ファン・ゴッホ国立美術館収蔵です。 

5番目の写真は、ゴッホ「夕方のカフェテラス(アルルのフォラン広場)」1888年9月、81 x 65.5 cmです。 クレラー・ミュラー美術館、オッテルロー、オランダ収蔵です。

6番目の写真は、ゴッホ 「収穫」 1888年6月 73 x 92 cm、です。ファン・ゴッホ国立美術館、アムステルダム収蔵です。

7番目の写真は、ゴッホ 「糸杉のある麦畑」1889年51.5 x 65 cmです。 個人蔵です。

さて何故、私が今回の猪苗代湖への旅で深く落胆をしたのでしょうか?
昨日、大学時代の今は亡き友人の星野君が猪苗代湖のヨットに3回ほど招待してくれたことを書きました。
彼のヨットは楽しい構造のクルーザーです。後ろのキャビンへ降りてゆくと大きなパーティ向きの部屋がありました。船尾が大きく湾曲して張り出していて、そこに大きなガラス窓が横並びについているのです。シャンパンやビールを飲みながら、美しい猪苗代湖が風波を立てている様子が眺められたのです。
彼と猪苗代湖へ行くには、まず私が新幹線で福島の彼の家に行きます。するとその後は彼の車で磐梯ー吾妻スカイラインに上がり、檜原湖の脇を通って磐梯ゴールドラインを下って猪苗代湖に行きました。往復、檜原湖を何度も見て通ったのです。
その檜原湖の絵画を私は毎日、自宅で眺めているのです。
檜原湖の絵はやはり大学時代の友人の立石君が描いたもので、その展覧会にも星野君と一緒に行きました。そしてその後、星野君は6年前に亡くなりました。
ですから今回の旅では磐梯ゴールドラインを登って何十年ぶりかに美しい桧原湖を眺め、星野君を追悼したいと思っていたのです。
しかしあまりにも激しい雨で何時交通止めになるか分かりません。行けませんでした。東京に帰ってみると、一層残念に思います。
それで先週から少し落ち込んでいたのです。しかしこうして7枚のゴッホの絵を眺めていると元気な気分になります。
個人的なことを書いて失礼しました。
皆様はゴッホの絵を見るとどのような感想をお持ちでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
=====Vincent van Gogh(1853-90年)=============
http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/Gogh.htmより。
オランダのプロテスタントの牧師の息子であった。ゴッホ自身も信仰心が厚かった。
伯父のヴィンセントが経営するグーピル商会で仕事をしていた。当時、パリ、ロンドン、ハーグで絵画を扱っていた。しかし、経営者にも仕事にも幻滅し、7年後、23歳でこの仕事は辞めている。
その後イギリスへ渡り、学校で教えた。この間にゴッホは、プロテスタント主義に傾いていく。
オランダへ一旦帰り、アムステルダムの大学で聖職者になるための教育を受けようとした。しかし、実際の試験勉強では宗教と何の関わりもないことアカデミックなことを勉強しなくてはならない。
落胆したゴッホはブリュッセルの副音伝道学校へ入る。しかし、ゴッホの過剰な信仰は、学校側に警戒される。
3ヶ月後、鉱夫たちの説教のため、ボリナージュ地方へ派遣される。ゴッホは人々の貧困を見て、自らも同化しようとする、あまりにも行き過ぎた熱意のため解任。
ゴッホの激しい性格は、他の人からは常に過度に映り、危険視されたのだった。
ゴッホとしては単に、キリスト者として貧しい生活を送りたい、というゴッホは、幹部と決裂し、ハーグ出て画家を目指すことになる。
ハーグでもゴッホは、一人の娼婦を救おうとして、家を提供してしまう。プロテスタント教会の伝統的なモラルから、明らかにかけ離れた生活者になってしまったのだ。
キリスト教による救済を断念したゴッホは、今度は、政治的な傾向へと向かう。実際に運動家ではなかったが、精神的には社会主義の理想へと引っ張られていった。実際、当時の社会は、社会主義が大きな勢力として台頭してきた時代であった。
パリに出ると特に、社会主義やアナキズムの賛同者が画家仲間でも多くいた。ゴッホは画家が協同制作するコミューンを夢見た。
大変な読書家だったゴッホは、ゾラ、ディケンズ、ヴィクトル・ユゴーなどの作家についても、攻撃的写実主義によって貧困層の受難を描写する点で、自分と共通点があると考えていた。
オランダの画家では、聖書の場面を人間性あふれる豊かな感性ととも描いたレンブラントを賞賛し、フランス画家のオノレ・ドーミエの、民衆版画で、権威を嘲笑う手法に共感していた。
そしてミレーは、ゴッホが最も賞賛した画家だった。宗教的な主題を直接描くのではなく、働く農民に尊厳を与えるその手法は、聖書の世界に深く関わっていると考えたからである。
1886年、ゴッホはパリの弟テオのところに同居した。初めてモネ、ルノワール、ドガ、ピサロなどを目の当たりにした。印象派の影響で、ゴッホの絵はくすんだ色彩から、一気に生き生きした色彩へと変貌した。
1888年南フランスへ行ってからは、作品は外見以上に深いものを主題として求め続け、ゴッホの心情を表現するようになり、ますます個性的になっていった。
1890年7月、オヴェールで自殺した。生前に売れた絵は1点だけだったが、その頃には既に、画家仲間から作品は知られるようになり、評価され始めた時期であった。

猪苗代湖の美しさを見た石器時代、縄文時代、古墳時代の人々

2017年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
先週に会津の猪苗代湖を訪れました。
会津といえば多くの人は維新戦争の時の会津の鶴ケ城の落城と少年の白虎隊の自刃の悲劇を思い出します。兵士のほか多くの女性、子供の命も失われました。観光客は再建された美しい会津城と白虎隊のお墓に行きます。
しかし今日は猪苗代湖や会津地方のもう一つの姿をご紹介したいと思います。

1番目の写真は冬の猪苗代湖に群がる白鳥の姿です。後ろの山は火山の磐梯山です。
(写真の出典は、http://rabbit191.blog.so-net.ne.jp/2011-02-26です。)

2番目の写真は夏の猪苗代湖です。ヨットの写真です。出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/theearth99/17541627.html です。

3番目の写真は猪苗代湖の西南岸のヨットの係留風景です。写真の出典は、http://ameblo.jp/normanhiga/entry-11034780813.htmlです。
個人的な思い出の深いヨットの係留風景です。今は亡き星野君もここにヨットを係留していました。
星野君とは、仙台の大学の専門課程の1957 年と1958年に机を並べました。
卒業と同時に彼は父が経営する精密鋳物会社の仕事をするために福島へ行ってしまいます。
それから15年間くらいはお互いに多忙で会うこともありませんでした。ところがある時の同級会の折、彼がヨットの話をしていました。猪苗代湖で大きなキャビンのクルーザーでセイリングしているのです。
そして「花春カップ」というクルーザーレースへ3回ほど私を招待してくれたのです。花春カップとは猪苗代湖のそばの大きな酒造会社、花春が主宰するレースなのです。花春は現在でも酒造をしていて、今回の旅の宿で、花春の「庄助の酒」をゆっくり飲みました。
彼のヨットはヤマハ29という楽しい構造のクルーザーです。船体の真ん中の甲板に操縦席があります。その後ろのキャビンへ降りてゆくと大きなパーティ向きの部屋があり、簡単な炊事用具もついています。
船尾が大きく湾曲して張り出していて、そこに大きなガラス窓が横並びについているのです。シャンパンやビールを飲みながら、美しい猪苗代湖が風波を立てている様子が眺められのです。
レースでは、彼のヨットは遅い船なので、いつも終りの方を走ります。前の方を列を作って競い合いながらセイリングしている他のヨットの夢幻的な光景を見ながら悠々と走ります。
遅れてゴールしても、船体ごとにハンディキャップがついているのでレース結果は何時も2位か3位でした。
残雪の磐梯山を眺めながらの花春カップは終生忘れられない思い出になりました。
花春カップの後は福島の彼の家に寄り、奥様や息子さん達と一緒に夕食をご馳走になったこともあります。
それから又何年かが過ぎ去りました。今度は私が霞ヶ浦にクルーザーを係留していました。以前、猪苗代湖でお世話になったことを思い出して彼を招待しました。一緒に仙台の大学時代の同級生も招待しました。7人が集まりました。
彼は福島から大きな荷物を背負ってやって来ました。
かなり激しいセイリングの後のパーティの時、彼がその大荷物を解き始めました。ぶ厚い断熱バッグの中から出てきたのはよく冷えたシャンパン3本でした。その上冷えたシャンパングラスも、人数分の7個も出て来たのです。高級なシャンパンです。男ばかり7人のキャビンの中が途端に華やかになったものです。
こんなセイリングの会を4回ほどしました。何時も熱心な彼は福島からシャンパンを担いでやって来るのです。その星野君は2011年の9月に病で亡くなりました。私のヨットには彼が預けていた白いデッキシューズだけが残りました。
それはそれとして、この美しい猪苗代湖を石器時代、縄文時代、古墳時代の人々も見て感動していたに違いありません。

4番目の写真は西会津から出土した縄文土器の写真です。出典は、http://inaka-pipe.net/20160706/ です。

5番目の写真は杵ガ森前方後円墳です。左側に前方部があったのですが、削られて消滅しているののが残念です。
会津盆地には 4世紀後半に作られた古墳が多数あります。その最大のものは全長114mの前方後円墳です。 JR会津若松駅から東へ約1キロメートルのところにあります。 その上、大変珍しい三角縁神獣鏡も古墳から出て来ました。このことから、当時の大和朝廷の勢力を後ろだてとした豪族が会津にも存在し、死後に巨大な墓が作られたものと考えられます。
古墳の写真と文章は「越後と会津の古墳群」http://www5a.biglobe.ne.jp/~mt2000/minamitouhoku-1b.html からの引用です。
さて会津地方の古代の歴史を簡単に紹介しておきます。
出典は、https://www.aizukanko.com/kk/aibase/01shirou/rekishi/rekishi_01.htm です。
1万年以上前に打製の石器を用いる人々が住んでいました。(大沼郡会津高田町・耶麻郡高郷村 塩坪遺跡)
塩坪遺跡から出土した石器は福島県でも代表的な旧石器時代 の遺跡で、今から15,000~14,000年前のものと考えられています。この遺跡は、見晴らしがよく水の便も 良い阿賀川の河岸段丘の上にあり、直径10mほどの範囲から約2,000点の資料が発見されています。
当時の人々は、土器を作ることを知らず、打ち欠いただけの石器を用いて狩りや動物の解体を行っていたと考えられています。
そして縄文時代(7,000年前ごろから2,500年前頃)になると磨製石器や縄文式土器が使用され始めます。
はじめの頃は東北や北海道に近い形の土器が使われていたが、次第に関東や北陸地方の影響を受けた文化が進み、土器の種類も増え美しい文様をつけたものが現れます。人々はたて穴住居に住み、狩りや漁などをして暮していたのです。(耶麻郡塩川町常世・耶麻郡  高郷村夏井など)
時代が下り弥生時代の2,000年ぐらい前になると弥生式土器が使われ、稲作が行われるようになりました。
やがて鉄器も使い、湖周辺の低地にも住むようになります。貧富の差や階級が出始めた様子です。
それが大和(古墳)時代になると4世紀末頃から会津にも大和朝廷の支配をうけた豪族が現れ、大塚山古墳(会津若松市)や亀ヶ森古墳(会津坂下町)が築かれたのです。
「古事記」に記された四道将軍の記事に「相津(アイヅ)」の伝説があり、後に「会津」の地名になります。
その後の5世紀から6世紀には会津各地に古墳が作られます。
特に大塚山古墳 は最大で全長114mの前方後円墳です。
以上のように会津盆地は旧石器時代から人が住み着き、とくに猪苗代湖周辺は稲作が盛んだったようです。
そのお陰で平安時代から豪族の館があり、それが戦国時代の城になり、やがて秀吉の家臣の蒲生氏郷が城主になり現在見られるような大きな規模の会津城を作ったのです。
今回の会津への旅でいろいろ考えたことを書いてみました。長くなってしまってご免なさい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

平和の祈りと全世界に展開する多数の米軍基地の現実

2017年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
多くの日本人は戦争の悲惨さを知っています。そして毎年、8月になると広島や長崎の原爆の犠牲者の慰霊祭が行われます。
そして8月15日には東京の武道館で天皇陛下、皇后陛下もご出席し、300万余の犠牲者の慰霊祭を行います。
このように全国で慰霊祭をし、平和を祈る8月も間もなく終わろうとしています。
そこで今日はある方から私のブログの記事へ対して頂いた平和への想いをご紹介し、続いて世界にある米軍基地の現実を考えて見たいと思います。
次のコメントは8月20日掲載の「沖縄沖で特攻で大破した空母、駆逐艦など404艦艇と航空機763機に対する評価」という記事に対して恵須さん から頂いた「8月、平和への想い」と題した一文です。
 ===「8月、平和への想い」========================
いつも日記読ませていただいております。浅学な私には分からないことも時々ありますが。すぐに反応ができないこと、毎度のことながらお許しください。今回は特攻隊のこと、そして皆さんのコメントを読んで、私の平和への思いをちょっとは書きたくなりました。
軍部の過ちだったとしか思えない戦争の中で失われた、特攻隊の若い命、信じられないような悪条件の中での絶望的な戦いの果てに消えていった兵士達の命、そして空襲や原爆で失われた無抵抗の国民の命。ともすれば戦績、勇気を讃えることから、過去の戦争を讃えるような風潮がありますが(後藤さんもそこを懸念されておられると思いますが)、失われた幾多の命をもっと悲しみ、そこから学ぶことが私達に課されたことだと思います。人間は戦争の歴史から何を学んだのでしょう。戦争には双方の主張があるのだから善し悪しを簡単にいうべきではないという意見は分かるのですが、国際問題の解決に戦争という手段を使わないということを、世界中が、誓って決めるほかはないと私は思います。
どんどん新兵器を開発してそれが戦争の抑止力になるなどとんでもないことです。大国は、自分のところだけ脅すための(抑止力という言葉で飾って)武器を持って、他の国(自分のところと同盟関係にない国)にはそれを保有することを許さないということを誰もおかしいと思わないのでしょうか?そんな非現実的不戦を唱えて攻めてくる国があったらどうするのだという声がすぐに聞こえてくるようです。
確かに、それがあるから各国の軍備の拡大が止まらない訳ですから。でも、そんなことを繰り返していたら、将来どの国も国家予算の大部分が軍備費用になってしまうのではないのでしょうか?その挙句に国を失い、地球を壊してしまうでしょう。そしていつの世も犠牲になるのは国民です。国民全員が戦争に反対しても国は戦争をするでしょうか?私達は家族や自分を守るために不戦の意思を勇気をもって叫び、祈り続けなければならないと思います。
==================================
この上のような想いは多くの人々が共通して持っていると思います。
8月には日本各地で世界に平和が来ますようにと祈りました。
しかし何故この青く美しい地球に真の平和が来ないのでしょうか?
その原因はいろいろでしょうが、今日は全世界に展開している米軍基地の現実を考えてみます。

1番目の写真は全世界に展開している多数の米軍基地の分布図です。出典は、http://manaoki.seesaa.net/article/388804731.html です。
地図の赤いバルーンは米国領内で、赤いピンは100以上の基地(施設)がある国、黄色のピンは10-99の国で日本も該当しています。そして緑は1-9の基地(施設)がある国々を表しています。基地の定義と数え方が曖昧なので数字は大体の数とご理解下さい。
これを見ると米軍があたかも全世界を占領しているように見えます。1990年頃のソ連の崩壊で米軍基地が昔の共産圏まで広がっているようです。
その米軍の規模は144万人で先端技術に支えられた最新鋭の装備を誇っているのです。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D をご覧下さい。
概略を抜粋すると以下のようにまります。

2008年の統計です。現役軍人数:144万人、予備役 149万人で順位は世界第一位だそうです。
そしてアメリカ軍の管轄地域は次のように全世界を覆っているのです。
管轄地域別の一覧;
アメリカ北方軍(USNORTHCOM)- 北米担当
アメリカ中央軍(USCENTCOM)- 中東担当
アメリカアフリカ軍(USAFRICOM)- アフリカ担当
アメリカ欧州軍(USEUCOM)- 欧州担当
アメリカ太平洋軍(USPACOM)- アジア・太平洋地域担当
アメリカ南方軍(USSOUTHCOM)- 中南米担当

その上、機能別でも組織化されています。
アメリカ特殊作戦軍(USSOCOM)- 特殊作戦担当
アメリカ戦略軍(USSTRATCOM)- 核兵器と宇宙軍とサイバー軍を統括
アメリカ輸送軍(USTRANSCOM)- 戦略輸送を担当

以上のようにアメリカ軍の規模は非常に大きく、そして全世界を管轄しているのです。
その上、最新鋭の装備も持っているのです。写真にその一部を示します。







これらの写真のような先端的な装備を持っているアメリカ軍が世界に展開して駐留しているのです。
以下に一例として中東地域での駐留国の様子を示します。数字は2007年の統計です。

アメリカ中央軍(USCENTCOM)
アフガニスタン〔10,107人〕
(アフガン攻撃から継続。最盛期は約2万人。2006年にNATOに指揮権が移譲
クウェート〔7,097人〕イスタンブール協力イニシアティブ
 イラク〔6,137人〕:パートナーシップ協定
イラク戦争により駐留。最盛期には15万人以上が配置されたが、終戦により大半が撤収した。
バーレーン〔5,894人〕

海軍の第5艦隊が駐留。
カタール〔1,064人〕
中央軍の現地司令部が置かれている。
ヨルダン〔1,834人〕
アラブ首長国連邦〔888人〕
 エジプト〔308人〕
サウジアラビア〔438人〕 、湾岸戦争前後は数十万まで増加したが、現在、主要部隊は周辺湾岸国へ移転。
シリア〔1,103人〕
 パキスタン〔103人〕
レバノン〔96人〕
キルギス〔64人〕:海兵隊
 オマーン〔25人〕:マシーラ空軍基地、スムライト空軍基地に駐留、海兵隊
イスラエル〔28人〕:相互防衛援助協定、主要戦略的パートナー

全世界の人々が真に平和を祈っても地球上を覆う米軍基地があるというのが現実です。
この悲しい現実がある限り戦争が起きる可能性が常にあると考えざるを得ません。
このような現実の中で平和を保つためにはアメリカに根気よく外交的な働きかけを続け可能な限り戦争の実行を避けるようにしなければなりません。それは困難な道です。中国の政策も研究して、中国の動きも考慮に入れるべきです。
日本の平和、そして世界の平和を少しでも実現するためには強く、強く平和の祈りをすることが非常に大事です。
それと同時に国際友好を築くためのあらゆる努力をすることも重要です。そして世界平和を実現するための賢い外交努力も必要です。

もう間もなく平和を祈る8月も終わろうとしています。

今日は皆様とご一緒に、「世界に真の平和が来ますように!」とお祈りしたいと思います。後藤和弘(藤山杜人)

「教会のミサに行く人、行かない人、どちらでも良い」

2017年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日です。少しだけ宗教に関することを書きます。
日本人の多くはキリスト教のことを知っています。そしてその考え方に何となく影響を受けています。例えば、「人はパンのみで生きてはいけない」という言葉を知っています。
美味しいものを食べることばかり考えないで、もっと精神的なものを求めなさいという意味に解釈しているようです。解釈は自由で良いのです。
しかし教会でこの言葉の説明を聞くと、「人はパンのみで生きてはいけない。神の言葉で生きよ」という教えだと言います。
このように教会に行くといろいろと面白いことが聞けるのです。
そして私は次のような理由で教会に行きます。
(1)教会に行かないと本当のイエスの教えが理解できない。
(2)教会に行くと神やイエスさまが私を愛して下さっていることが確信出来る。
(3)神の存在を信じたり、信じなかったりする私の心が少しだけ「信じる」方向に傾く。
(4)いろいろな結果として教会に行くことが楽しくなる。日曜日はドライブして遊ぶより楽しくなるのです。
さて宗教は、どんな宗教でも本で読んだだけで理解は深まりません。本で勉強したのものは「教養としてのキリスト教」というもので、かなり皮相的な理解なのです。
どんな宗教でも宗教的訓練(Religious Training)や修行が絶対に必要だと、私個人は考えています。
佛教には不立文字という言葉があります。お釈迦様の悟りの境地は文字では説明出来ないという意味です。
修行や座禅をして始めてその境地が理解できるのです。私はこのことを信じています。
キリスト教での修行は毎週ミサに出ることです。ミサの中で座禅のように静かに祈ることです。
これを毎週実行するとイエスの教えが体験的に理解できるのです。
私は1969年にドイツのローテンブルグに3ケ月滞在している間に、若いインド人のフェルナンデス君と毎週カトリックの教会に行きました。まだ洗礼前でも、知らずに、イエスの体のパンを神父さんから貰って食べていました。その時、私の「教養としてのキリスト教」はいかに皮相的な理解だったかを思い知ったのです。そこでいずれ帰国したらカトリックの洗礼を受ける決心をしたのです。
ですから現在でも教会に行くことは宗教的訓練だと思っています。それは楽しい訓練なのです。
楽しい修行なのです。何故楽しいのでしょうか?その訓練をしているとイエスさまを身近に感じます。
神が愛していてくれると感じるのです。
教会のミサに行く人、行かない人、どちらでも良いのです。それはまったく個人の自由です。
しかし教会に行くと、何故か修道院の存在理由が分かるような気がするのです。仏教の修行の重要性が分かるような気がします。
それだけの話です。

今日の挿し絵代わりの写真は天草の崎津集落の風景写真です。出典は、https://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/assets/sakitsu/ です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






「曇り日の猪苗代湖へ旅して来ました」

2017年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム
天気が悪いのも風情があるかと思い猪苗代湖と会津若松に旅して来ました。でも2日目は雨がひどく降り、風情どころではありませんでした。
昨夜は会津若松市の東山温泉に泊まりました。
走行距離は往復で680Kmでした。
猪苗代湖の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









トランプ大統領はやはり白人主義者!しかし閣僚が支えている

2017年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム
トランプ大統領が最近、白人主義のKKK結社を擁護するような発言をして、アメリカ各界の激しい非難を浴びました。経済界の代表で構成した経済政策諮問会が解散したのです。今後、経済界の支援が受けにくくなったのです。
この動きはアメリカの社会を大統領みずからが分断することになり、アメリカ社会の混迷は深まるばかりです。
アメリカは1960年代にキング牧師の公民権運動で黒人差別を撤廃し、社会の正義を貫きました。その後も学校や会社での黒人差別の撤廃に血の滲むような努力をして来たのです。アメリカはあらゆる実生活の場面でやっと黒人差別を無くすことに成功したのです。そしてその集大成が黒人のオバマ大統領の誕生だったのです。
これでアメリカ人は世界中に対して自国の社会の理想と正義を誇れるようになったのです。
しかしトランプ大統領は、この理想的なアメリカ社会を分断し、理想を捨て去るような行為をしたのです。
マスコミ界はますます大統領非難を強めています。
この各界の非難をかわすために大統領は8月18日に、スティーブン・バノン首席戦略官兼上級顧問を辞めさせました。バノン氏は「反移民」「保護貿易」「米国優先」等の主唱者だったのです。これでケリー大統領首席補佐官を軸に路線転換が進むと予想されています。
このようにアメリカの中枢部は安定していませんが、アメリカの外交攻勢と世界への軍事力の展開は、オバマ政権の時代より強化されています。
オバマ政権時代の弱腰外交と消極的な軍事展開のおかげで中国が南シナ海に軍事基地を作ったり、北朝鮮が核弾頭長距離ミサイルを開発出来たという主張が度々なされています。
本来、アメリカ大統領は外交と軍事力展開には権力があります。しかし予算の編成権は議会にあります。
ですから予算の伴うメキシコ国境での壁の建設は一向に進みません。予算を必要とする公約は実行出来ないのです。
以上のような大統領の差別主義とマスコミ界との対立からトランプ大統領は辞任するのではないかという噂も新聞に出ています。
しかし私はトランプ大統領政権は非常に優秀な人材を集めているので、簡単には崩壊しないと考えています。
マスコミは大統領の極端なネットへの書き込みや人種差別的な発言を大げさに騒ぎ立てますが、閣僚はそれぞれの分担の仕事を静かに推進しているに違いありまん。
それではトランプ政権の閣僚の顔触れはどのようになっているでしょう?
http://www.johoseiri.net/entry/2016/12/13/070000 の情報を抜粋して下に示します。
1)インナーサークル(トランプ側近と身内):ペンス副大統領やクシュナー上級顧問等
2)軍人・強硬派:マクマスター補佐官、マティス国防長官、ケリー国土安全保障長官、セッションズ司法長官等
3)実業家:ムニューチン財務長官、ロス商務長官、コーン国家経済会議委員長等
4)論功行賞と女性:カーソン住宅都市開発長官、ヘイリー国連大使、デボス教育長官等
5) トランプ氏の意図が見える人事としては、通商強硬路線を取るライトハイザーUSTR長官やCO2規制の反対論者(プルイット環境保護局長官)、オバマケア反対論者(プライス厚生長官)等の閣僚入りが挙げられます。

6)大使人事では、親イスラエル派のフリードマン氏(弁護士)やウィリアム・ハガティ氏(民間コンサル会社在籍時に3年間東京に在住の知日派)、テリー・ブランスタッド氏(元アイオワ州知事/習主席の「長年の友人」)等、駐在国寄りのスタンスをもった人材が指名されました(テリー氏は緩衝役とみられる)。

以上を見やすく一覧表にしますと次のようになります。
副大統領:マイク・ペンス氏:(元インディアナ州知事)
大統領首席補佐官:ジョン・ケリー氏(元米南方軍前司令官・元海兵隊大将)
大統領上級顧問:ジャレッド・クシュナー(実業家、トランプ氏娘婿)
国家安全保障担当大統領補佐官:ハーバード・マクマスター氏(元陸軍中将)
大統領補佐官兼国家経済会議議長:ゲーリー・コーン氏(元ゴールドマンサックス社長兼COO)
米通商代表部(USTR)代表:ロバート・ライトハイザー氏(元USTR次席代表)
通商製造政策局長:ピーター・ナバロ氏(元カリフォルニア大教授)
国務長官:レックス・ティラーソン氏(元エクソン・モービル会長兼CEO)
国防長官:ジェームズ・マティス氏(元中央軍司令官)
中央情報局(CIA)長官:マイク・ポンペオ氏(元共和党下院議員)
国家情報長官:ダン・コーツ氏(前上院議員)
司法長官:ジェフ・セッションズ氏(元共和党上院議員)
財務長官:スティーブン・ムニューチン氏(元ゴールドマンサックス幹部)
商務長官:ウィルバー・ロス氏(元「WLロス&カンパニー」会長)
国連大使ニッキー・ヘイリー氏(元サウスカロライナ州知事)
運輸長官:イレイン・チャオ氏(元労働長官)
内務長官:ライアン・ジンキ(元共和党下院議員)
環境保護局長官:スコット・プルイット氏(元オクラホマ州司法長官)
エネルギー長官:リック・ペリー氏(元テキサス州知事)
保健福祉長官:トム・プライス氏(元共和党下院議員)
住宅都市開発長官:ベン・カーソン氏(元神経外科医)
中小企業庁長官:リンダ・マクマホン氏(プロレス団体WWE創設者)
労働長官:アレクサンダー・アコスタ氏(元フロリダ国際大学法科大学院長)
教育長官:ベッツィ・デボス氏(慈善活動家)
農務長官:ソニー・パーデュー氏(前ジョージア州知事)

上の一覧表を見ると優秀な軍人の将官や州知事経験者、実業家の成功者たちが目立ちます。
確かに従来の政界での大物政治家はいません。
しかしアメリカの各界の成功者の特徴は、柔軟な思考力と独創性を持っていることです。
従って私はトランプ大統領の政権は安定して大国アメリカを管理、運営して行くと考えています。
今後もトランプ大統領は数々の物議をかもすような書き込みをネット上にするでしょうが、日本のマスコミはもっともっと閣僚たちの活動に関する報道をしてもらいたいと願っています。

今日の挿し絵代わりの写真は「KITAHOのデジカメ散歩」、http://kitaho321.blog25.fc2.com/page-1.html からお借りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は、ホトトギスの一種です。

2番目の写真は、ヤブランです。

3番目の写真は、ナツズイセンです。

4番目の写真は、ツリガネニンkジンです。

5番目の写真は、レンゲショウマです。

沖縄沖で特攻で大破した空母、駆逐艦など404艦艇と航空機763機に対する評価

2017年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
『特攻攻撃が与えた意外に大きい連合国側の損害の一覧』という記事を8月14日 に掲載しました。
その記事の中で、連合国側が受けた損害について、アーネスト・キング海軍元帥の次のような報告をご紹介しました。
「4月6日からはじまった沖縄沖での日本機の攻撃は、いままで嘗てなかった激烈なものだった。この特攻戦は凄惨を極めた。(略)海上では戦死行方不明4907名、戦傷4824名であった。 艦船は沈没36隻、損傷368隻であり、飛行機の喪失は763機であった。」
(出典は、 List of United States Navy losses in World War II、https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_United_States_Navy_losses_in_World_War_II です。
日本語は、https://matome.naver.jp/odai/2144809749091311801 にあります。)
この沖縄戦での損害の数字は、マッカーサー太平洋戦域連合軍総司令官と太平洋艦隊司令長官のニミッツ元帥の報告とほぼ同じなので正確な損害数と考えられます。
表題の大破した空母、駆逐艦などの数を404艦艇としているのは、アーネスト・キング海軍元帥の報告の中の沈没36隻と損傷368隻の合計を示した数字です。航空機の763機はアーネスト・キング海軍元帥の報告の中の数字をそのまま示したのです。

その上、日本軍の特攻は1944年10月のフィリピン沖で始まっていますので連合国側の特攻から受けた損害は上の数字より大きなものにまります。
特攻が開始された1944年10月から終戦までのわずか10ヶ月間に、米海軍史上最大の損害を与えたのです。その損害の内訳は次の通りです。
(1)特攻で撃沈された艦船と廃艦、
撃沈・廃艦の総合計 護衛空母4隻 駆逐艦38隻 他28隻 合計70隻
(2)特攻で撃破された艦船
正規(含軽空母)空母20隻 護衛空母13隻 戦艦11隻 巡洋艦12隻 駆逐艦150隻 その他100隻以上 合計300隻以上(撃破の内108隻は戦闘行動が不可能になる深刻な損害)

一方、太平洋戦争中日米水上艦船がいたるところで激しい海上戦を展開しましたが、それで失われた米駆逐艦は16隻、また日独潜水艦が沈めた米駆逐艦15隻で合計31隻にすぎないところを見れば、たった10か月の特攻攻撃期間で駆逐艦38隻を沈めたのは特攻攻撃によるものだったのです。
また特攻で損傷した艦、300隻以上は沈みはしませんでしたが戦闘能力は無くなったのです。
日本軍は大戦中50000機の航空機を損失しましたが、その内のわずか2550機の5%程度の特攻機がこれだけの戦果を挙げたのです。
============================================
以上のように特攻攻撃は大きな戦果を挙げたのですが、占領軍GHQはこの事実の日本における報道を規制したのです。日本の軍国主義が復活する原因になりそうな全ての種類の情報を秘密にしたのです。そして日本人の自信を失わせるために「自虐史観」を教育したのです。
以上の趣旨の記事でした。
それに対して趣味人倶楽部で頂いたコメントは以下のようなものでした。
===趣味人倶楽部で頂いたコメント===========================
つーさんさん 2017年08月15日 21:42
素晴らしい分析だと思います。わたしも特攻はほとんど意味のないものだと考えていました。ほめられた作戦ではないですが、特攻に参加した戦士としてはありがたい評価ではないでしょうか。もっと、おおやけにして欲しいと思います。ただし、「特攻のような作戦は取るべきではない」という文言のもとにです。

MMさん 2017年08月15日 22:26
うーん。興味ある資料です。私も特攻というのは殆ど実質的な意味がない作戦だとばかり思っていました。本日NHKでインパール作戦の番組をやっていたので見てましたが、戦争は極力避けるべき手段です。ただ、戦争経験の年配者がとにかく戦争は嫌だという意見を聞くと、時々疑問は感じます。平和は結局自分だけが戦争をしないというだけでは達成されないのも事実だと感じています。
戦没者のご冥福をお祈り申し上げます。

きんときさん 2017年08月15日 10:25
そうだったんですか、彼等が無駄死にをしていなかったことが分かりました。
同年代の私、生きて、昔を偲んで居ますが、段々分かってくるにつれ、若い遺影が安らかに眠ってくれ、と祈るばかり。

リタさん 2017年08月15日 10:50
特攻に参加させられた若者たちのことを思うと本当に哀しくなります。こんな作戦を考え出した当時の軍部の狂気を改めて認識させられます
今回は特攻の戦果について語られていますが、その戦果が日本人の怖さ、狂気を米軍に実感させて本土決戦の困難さを思い起こさせたのではないか。その恐怖心が皮肉にも米軍の損害を減少させるために原爆投下に結び付いた一因ではないかとも思っています。
特攻で亡くなった方々にはつらい言い方ではありますが戦争というものはそういう狂気が狂気の連鎖を起こす残酷なものだと思います。
だからこそ彼らの死を無駄にしないためにも
現代の我々日本人は不戦の誓いを持ち続けなければならないと思います。

でいしゅうさん 2017年08月15日 10:07
2005年8月31日に知覧へ行きました。壁の写真で探すと、地元出身の特攻隊員もいました。童顔の隊員がほとんどでした。
城山三郎著の指揮官たちの特攻には「花びらのような幸福は、花びらよりも早く散り、枯れ枝の悲しみだけが永く残る」とあります。  
     おどけ顔写して逝きし雲の峰    蛍となりて帰らむ母のもと

===FaceBookで頂いたコメント===============
Moritoshi Hiramine
ありがとうございます。今、好戦的過ぎる発言に 世界の注目が 極東と 二人の 指導者 に注がれています。 この戦争は始めては、いけません! 祈るのみ!
8月15日 9:03

Moritoshi Hiramine 理路 と言うものは、そのような発言に 在るのだと考えて共鳴します! その うえで、 愛国精神で 特攻した青年のみたまには、礼と感謝を 捧げる 人々に 共鳴し、私も 実践します。
8月16日 19:59

矢野 信保
戦争というものは、どちらかがよほど一方的に理不尽にしかけたのでなければ、どちらが悪いと一方的に決めつけることは出来ません。前の戦争についても、一方的に日本だけの責任にするのは間違っています。しかし、戦争は、どちらも人間を獣にしてしまい、多くの犠牲なしではすみません。戦争にならない様に政府は最大限の努力をしなければなりませんが、一方あらゆる事態に備えて国民を守る方策をとる責任があります。災害に対してあらゆる備えをせず、そういうことは起こらないだろうから、備えをしない、というのは怠慢です。戦争に対しても同じことがいえます。私達は、その上で戦争にならないよう祈りたいと思います。
8月15日 12:34

高間 一平
自殺を罪と取る西洋の宗教 英雄とみなす東洋の宗教 この差が 今のテロにつながってその現実に出ています、亡くなられた方には失礼ですが 特攻とは自殺をとか書き換えれば 例え家族のため でも 馬鹿げた行動なのですね 家族も生きていてくれた方が良かったに違いない。戦争を美化する事自体が特攻になっていく、今の北朝鮮については 戦争にはならないでしょう、彼が隠れ始めているのは 戦争より 暗殺が唯一の平和対策だから 世界はそこに行くのを彼も知っているからでしょう、しかし 洗脳されてしまった 軍部が 特攻精神で 馬鹿をする可能性は十分あり得ることです。
8月15日 14:01

矢野 信保
一旦戦争が起きたら、国民として自分の国の為に戦争に出向くか、反対して刑務所に行くか、選ばねばなりません。戦争美化とか言う前に、特攻で出撃した人たちがどの様な思いで出撃されたか、遺された遺書をじっくり読んで考える時をもちたいと思います。
8月15日 21:07

高間 一平
戦争時の行動を美しくいうことも犯罪に近いと思っています 事実を正確に伝えてこそ 平和に貢献します
8月16日 6:42

浦野 明人
特攻隊でこの様な卑怯な指揮官もいたのです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/.../q12106139537...
もっと見る
特攻隊指示者で戦後逃げて生き延びたのは誰?
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
8月16日 9:53

中村 正彦
昨日のN H K スペシャル でもインパール作戦を報道していましたが、人命軽視の参謀による強行的な行軍と 死ぬ事を目的とするその思想が多くの犠牲者を出した原因である事は明白です。
8月16日 17:30

その他、多数。
=========================================
以上のように特攻隊が連合国側に大きな損害を与えた事実を知らなかった日本人が多かったのです。
このような事実は正しい歴史的実として再度、掲載すべきと思い、ここに掲載します。
誤解の無いように書き加えておきます。特攻隊の与えた損害がどんなに大きくても、このような非人間的な攻撃方法は未来永劫に厳禁すべきです。



排他的な感じを与えている東京の教会の建てもの

2017年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
教会に関心はあるけれど入りづらいという話をよく聞きます。そして試しに入ってみるとミサや礼拝から、何か異様な雰囲気が感じられて困ったという話も聞きます。
京都にある神社仏閣のように拝観料を払って気軽に観光気分で行ければ良いのですがという意見も聞きます。
そこで2、3日前から東京にある教会の写真をあれこれ見てみました。
適当に選んで、それらの教会の写真を示します。
私もしげしげ写真を見ました。そうしたら確かに教会の建物は異国的な上に、排他的な印象を与えていると私も感じました。
そうですね。日曜日の朝に、教会に入って見物するためには少し勇気が必要ですね。
しかし平日は誰もいなくて出入り自由です。自由に入ってステンドグラスの美しさや聖画などを楽しめます。全世界のカトリック教会の扉には24時間、鍵がかかっていません。まったく出入り自由なのです。ですから平日は平気に入れます。でも日曜日の朝は少し勇気がいります。
ある日曜日の朝、私はお茶の水のニコライ堂に勇気を持って入りました。確かに異様な雰囲気です。
しかし入り口の受付で少し太いローソクを300円くらいで買いましたらもう楽しくなりました。それを拝観料のようなものと思い、内部の壁にあるマリア様の聖画の前に立てました。すでに数本のローソクに炎が揺れていたので火を分けて貰いました。
礼拝は全てロシアの聖歌を和音美しく唄いながら進んでいきます。いわゆる歌ミサなのです。
その合唱が非常に芸術的で感動しました。少し不謹慎な書き方をすれば、それは質の高いミュージカルのように楽しいのです。
他の教会でも日曜日の午前中に入ると聖歌の合唱がありますので楽しいのです。聖歌はよく練習していますので聞いて楽しめるのです。
その音楽を一度聞いてしまうと教会の建物は排他的な印象を与えていると感じなくなります。自分の世界が少し広がるのです。
その上、何度か教会の礼拝を見物に行くと、キリスト教を理屈ではなく心で、魂で理解出来ることがあります。
聖書には分かり難い部分が沢山あります。私も理解できない個所が多くて困っています。しかし上に書いたように教会に日曜日の朝に行くとキリスト教を理屈ではなく心で、魂で理解出来るのです。私は間違っているでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

写真とその説明の出典は、https://matome.naver.jp/odai/2140126579258482201 です。

1番目の写真は1891年(明治24年)に竣工したニコライ堂です。、様式はロシヤビザンチン風、構造は煉瓦造です。
http://www.orthodoxjapan.jp/
ニコライが文久元年(一八六一)、ロシヤより来日し建てた正教会の聖堂です。
正式には日本ハリストス正教会教団復活大聖堂(ニコライ堂)と言います。
〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台4丁目4−1−3 東京復活大聖堂

2番目の写真はカトリック神田教会です。
鉄骨・鉄筋コンクリート造、ルネッサンス・ロマネスク様式で1928年 (昭和3年)竣工 しました。
http://catholickandachurch.org/
カトリック神田教会は1874年(明治7年)1月に創建され東京の教会でも有数の歴史を持つ教会です。

3番目の写真はカトリック築地教会です。1927年 (昭和2年)竣工しました。
http://tsukijicatholic.jp/
もとは1874年 (明治7年)東京で最初に建てられた教会で、東京市から居留地の一部を借り入れパリ・ミッション会が仮聖堂を建てた。

4番目の写真はカトリック碑文谷教会(サレジオ教会)です。1954年(昭和29年)竣工です。鉄筋コンクリート造、ロマネスク様式 です。http://home.m06.itscom.net/salesio2/side_a/salesio.html
1948年にサレジオ修道会がこの地に宣教拠点を置き、翌年に幼稚園が併設され、1954年 現在の教会堂が建設されました。

5番目の写真はカトリック東京カテドラルです。
現代的な技術を用いた鉄筋コンクリート造で1964年(昭和39年)に竣工 しました。http://cathedral-sekiguchi.jp/
カトリック東京大司教区の本部のある教会です。文京区関町3丁目にあります。
===貴重なコメントをFace Bookで頂きましたので追加します========
本田 伸樹さんより、
日本の神社・仏閣は、参道から山門(鳥居)をくぐり、境内には日本人ならなんら心の抵抗なく入れます。けれどその建物・・・本堂やお宮の中にはそう簡単には入れません。またカトリックやオーソドックスのように聖画像を「ちょっと見」気分で拝観するような気安さはなく、ご本尊を拝むのは本堂の奥に鎮座しているそれを、覗き込むように見ることしかできないのです。またご本尊を秘仏として公開していない寺院もあります。一方で日本の寺社には庭園の美を楽しむことができます。私は常々思うのですが、建物のみならず日本の教会に寺社のような美しい庭園を備えている教会があればいいのになあ、と思います。日本の教会は歴史が新しく、そんなに広い敷地を入手することができないのは解っていますが、もし可能ならカトリックの御聖堂の荘厳さが与える印象と同様に、日本人の心性に訴えられるのでは、と考えることがあります。ところで、カトリックは聖堂自体が聖別されたものと考える一方で、プロテスタントは建物について、そういった考えはありません。あくまで「幕屋」の延長で、機能本位です。それはヨーロッパの荘厳なカトリックの聖堂を観た経験のある私としては、味気ない気もします。またヨーロッパのカトリック教会では、平日の昼間でも、副祭壇の聖画像に向かって祈りを捧げている信徒の姿を見受けます。こうした点はカトリックに一日の長があるようです。ともあれ、キリスト教信仰の本質は建物にあるのではなく、その中心となるのは神様を愛し、神様から愛され神様に従っていく信徒の信仰です。しかし、こうした「クリスチャン」の姿が一方では、一般の日本人の方には「特殊」なものと映り教会の敷居を高くしているのかもしれません。クリスチャンと言えどもそこら辺のオイチャン、オバチャンと同じだよ、と一般の方に理解してもらう必要があるのではないでしょうか?そういえば、「寅さん」は亡くなる前、病床洗礼をお受けになったそうです。誠に尊いことだと思います。

矢野 信保 さんより、
私が長崎にいました頃、文化財保護指導員として担当していました地域に大浦天主堂が在りました関係から、何度も大浦天主堂を訪れる機会がありました。教会は天主堂を一般に公開しておられましたが、信者の方々が静かにお祈りをしておられる所に、場所をわきまえない観光客が天主堂に入り、大声で話ながら中を行き来する姿を見て、信者の方をお気の毒に思いました。その様な光景を何度も見ました。その後、信者の為の天主堂が近くに建てられ、歴史的建造物である大浦天主堂は、今まで通り一般に公開されるようになり、ホッとしたのを覚えています。

「東京から消えて行く稲田の写真を撮りに行く」

2017年08月19日 | 写真
東京都の昔の西多摩郡、北多摩郡、南多摩郡には、1970年頃まで、あちこちに稲田が広がっていたものです。日野、八王子、青梅などには稲田が一面にあったのです。
しかし高度成長とともに次第に姿を消しました。田畑は宅地に変わってしまいます。現在は町田市の都立小山田緑地公園のそばの谷地に稲田が少しあるばかりです。
少し遠方ですが、多摩丘陵幹線道路を根気よく走り、稲田の写真を撮ってきました。
青田を見ると幸せな気持ちになります。昔、疎開した東北の農村の夏や、生まれ育った仙台市の郊外の稲の香りなどを思い出します。
緑の葉が繁っている田、白い花をつけた田、小さな稲穂を付けた田を探しました。

地方にお住まいの方にとっては珍しくないと存じますが今しがた撮って来た写真をお送りいたします。







10年で消えてしまった儚いもの

2017年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム
文明がどんどん発達すると便利なものが次々に現れて、それまで愛用していたものが消えて行きます。人々に忘れられ、それが存在していたことすら誰も知らなくなります。博物館や文献に残っているだけです。
その一つの例が「ガス燈」です。
明治30年代、1907年から1915年頃までのほぼ10年間くらいだけ存在していました。
それまではロウソクや菜種油の行灯や石油ランプでしたが、イギリスで発明されたガス燈が日本にも輸入され明治30年以降、日本の夜の照明として普及しました。街や建物にガス灯が灯った時、当時の人々はその明るさにどんなに驚き、喜んだことでしょう。
さて日本でロウソクが最初に登場したのは奈良時代だそうです。当時のロウソクは中国から輸入された蜜蝋蝋燭と考えられています。恐らく、仏教の伝来と共に伝わったのでしょう。
ロウソクは現在でも使われていますが、「ガス燈」は完全に忘れられてしまいました。
ガス燈が10年間しか命のなかったのは1913年にタングステン電球が量産されるようになったからです。そして電燈は電線さえ引けば何処でも灯るのです。
そのような「ガス燈」の展覧会が小平市の「ガス・ミュージアム」でありましたので先日行って来ました。「ガス・ミュージアム」とは東京ガスが運営しているガスに関連したものの展示館です。
ガス燈とは吊り下げたり、壁に固定したり床に立てたりした燈火で、ガス管で常に都市ガスを供給する照明器具です。
それでは撮ってきた写真を示します。

1番目の写真は天上から吊り下げたり、卓上のに置いて用いるガス燈です。

2番目の写真は畳の上の置いて針仕事や読書をするためのガス燈です。

3番目の写真は玄関や廊下の壁に固定して用いるガス燈です。

4番目の写真は宴会場の壁際の机の上に置いて華やかな雰囲気を作っていたガス燈です。

5番目の写真は明治時代のガス会社の建物で、ガス・ミュージアムの主棟です。もう一つこのような建物が並んでいます。

6番目の写真は今回の企画展の趣意書です。
この展覧会はガス燈の装飾のためのガラスや支持金具の美しさを楽しんでもらうとするものです。しかし同時に、昔の燈火の発展に歴史を考えさせ、そして昔の夜の暗さを想像させるのです。昔は現在より月の光が大切でした。星空が輝いていました。
そんなことを想像させる楽しい展示会でした。10月9日まで展示しています。
それにしてもたった10年の命とは儚いものですね。ガス燈とは。
このよう生活用具は他にもたくさんあります。皆様はどのような例をご存知でしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

広大な北海道別海町の終戦直後の貧しさと現在の豊かな風景

2017年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム
始めにこの記事で何を主張したいかを書きます。
『戦争は軍人の命を取るだけでなく富を食いつくし、庶民の生活は何時までも貧しさから抜け出せないのです。戦後72年の平和がしみじみと有難いのです。』という主張を書きたいのです。
昨日、「写真で見る明治時代の貧しさと人情の篤さ」と題する記事を書き明治時代の貧しい生活の様子を示す数枚の明治時代の写真を示しました。
その貧しい生活は日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、太平洋戦争という戦争の連続で太平洋戦争後まで、ほとんど変わらなかったのです。
日本の庶民の生活が豊かになったのは1970年代の経済の高度成長の頃からのことなのです。
その戦争直後の生活と現在の生活の比較を写真で示そうと思います。
場所は北海道東部にある別海町の牧場地帯の様子です。
戦争直後の写真は趣味人倶楽部の「でいしゅうさん」がお送り下さいました。
現在の風景写真は2012年の9月に観光旅行に行ったおりに自分で撮った写真です。
別海町の終戦直後と現在の風景を比較して見ると、日本の農村の生活が非常に豊かになったことが分ります。
さて北海道の東部に広がる別海町は海岸には野付半島があり、内陸は牧草地が広がり、ヨーロッパの農村風景を連想させている美しい場所です。
この別海町では酪農が盛んで、全国1位の生乳生産量です。年間生産量は43万トンだそうです。
そして海岸部の本別海、尾岱沼等ではサケ、アサリ、ホタテ、ホッカイエビなどの漁業が盛んです。
まず2012年の9月の旅の折りに撮った現在の写真を4枚示します。

1番目の写真は別海町のある牧場の入り口の写真です。
広大な別海町を車で走っていると次々とこのような牧場の看板が出て来ます。牧場の建物は入り口から遥か奥の方に小さく見えます。

2番目の写真は偶然、通りかかった道産馬の牧場です。開拓のために活躍した重量馬の子孫です。農作業に使う目的ではなく、趣味で飼っているのです。重量物を曳く道産馬レースに出すために飼っているようです。

3番目の写真は別海町の広い牧草地です。
牧草地の端は緑豊かな森によって区切られています。開拓民はこのような森を開拓して牧草地に変えていったのです。

4番目の写真は牧草を刈り取り冬の牛の餌にする巨大な塊です。
白い包みは、トラクターで牧草を刈り取って、圧縮してビニール布で丸めた巨大な塊です。こうして牧草を貯蔵し、発酵させてから乳牛に食べさせると消化が良いそうです。

さてこのように美しい景観の別海町ですが、終戦直後の風景はどのようだったのでしょうか。
下の4枚の写真でその様子を示します。

5番目の写真は終戦後に入植したある農民が住んで居た家です。冬の寒さの厳しさが偲ばれるような粗末な作りになっています。

6番目の写真は道産馬で牧草地を耕している光景です。人間は馬の引く犂(スキ)の上に座っています。

7番目の写真は生産された多量の牛乳を缶に入れて道産馬に引かせて牛乳の殺菌工場へ運んでいる様子です。別海町には昔から雪印や森永の牛乳処理工場があったのです。

8番目の写真は終戦後も長期間、活躍したガソリンカーの写真です。戦争中の昭和16年に導入されたようです。現在は廃線になりました。
上に示した終戦後の4枚の写真についていた、でいしゅうさんの説明文を、許可を得て下に掲載いたします。
「私が別海町の住民だった期間は2年間だけでしたが、此処の地方の歴史を調べ歩きました。
野付半島の砂嘴には幻の町「きらく」があったそうです。今でも茶碗の欠片がたくさんあります。しかし安物の陶器です。アイヌの城塞もあり矢じりなども出土しています。
興味があったのは、植民鉄道です。最初は馬力で、その後はディゼルカーで運行していました。当時のレールは家畜競り市の屋根の材料とか、バックネットの骨組みになって残っています。鉄路の跡もわかります。間もなくその跡も、記憶もなくなるでしょう。現在は国道の橋に跨線橋の名前が残っています。そして廃線になった国鉄線も残っています。
戦争中の掩体壕跡やB29のプロペラも残っていて、面白いですね。すべて「別海町百年史」よりの受け売りです。文化的なものは何もありません。私の好きな刀剣もありません。
歴史的なものは壊しています。昔の町には馬を繋ぐ輪があったそうです。何も残っていません。
浜に行けば内地の漁師の仮小屋の残骸があるだけです。アイヌの痕は何もありません。内陸部は牧場に代わり「新酪農計画」で牧草のみが茂っています。」

さて北海道全体を見ますと牧畜だけでなく、富良野には香水の原料にするラベンダーの花畑が広がっています。その上、北海道の米の生産量は全国1位なのです。( http://suido-ishizue.jp/kindai/hokkaido/05.htmlより)
このように農業が盛んな北海道の生活は終戦後まで貧しかったのです。
自動車もトラクターも無く、荷物の運搬も耕作作業も全て馬に頼っていたのです。
その農村風景は明治時代の北海道の開拓時代と変わりが無かったのです。

何を言いたいのか?
戦争は軍人の命を取るだけでなく富を食いつくし、何時までも貧しさから抜け出せないのです。戦後72年の平和がしみじみと有難いのです。

それにしても日本は本当に豊かになったものですね。しかし貧しかった頃を忘れてはいけないと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「明治時代の写真をもう5枚追加します」

2017年08月17日 | 写真
写真は順に、台所で料理をする4人の女、魚屋の店先、農村の作業風景、うちわ作りの家内工業、子供相手の飴屋の風景です。

これらの写真を見ていると明治期の庶民の生活は江戸時代とほとんど変わっていないことがよく分かります。
変わったのは都会にいる政治家、官僚、軍人などの指導層の生活ぶりが洋風になってきたことなのでしょう。
第二次世界大戦の終戦までは洋風化した都会と貧しい農漁村の暮らしには大きな差異があったのです。現在は日本全国ほぼ同じ生活レベルになっています。有難いことです。









平和な街の風景を中国の東北地方の写真でみる

2017年08月16日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は終戦記念日でした。平和というものの大切さをあらためて心に刻む日です。
昭和という時代には日中戦争や太平洋戦争があり、数多くの大きな悲劇がありました。
2度と戦争をすべきでないという思いが胸に湧きおこります。
戦争に巻き込まれ命を落とした数千万人の人の冥福を祈る日々が続きます。
テレビでは連日のように悲しく、暗い映像が流れています。
そこで今日は、ホッとするような中国の今昔の街の平和な風景写真をお送りいたします。
中国の瀋陽と大連の平和な風景です。戦前と戦後の風景です。

1番目の写真は瀋陽駅前の昔の写真です。
写真の出典は、http://www.geocities.jp/ramopcommand/page035.html です。
私は1981年に瀋陽に3週間ほど滞在しました。東北学院の金応培教授に呼ばれ講義をしたのでした。北京から列車で行き、下り立った瀋陽駅の前はこの写真のようでした。建物は流石に少し綺麗になっていましたが風景の感じは同じでした。

2番目の写真は現在の瀋陽駅前の風景です。写真の出典は、http://www.tripadvisor.jp/LocationPhotos-g297452-Dalian_Liaoning.html#26043437 です。
現在の写真は鄧小平の市場経済政策による経済発展の成果を如実に示す風景ではありませんか。そして街の風景が平和で楽しそうに見えるのです。

3番目の写真は瀋陽の繁華街の昔の風景です。出典は1番目の写真と同じです。
東北工学院で私が働いている間、家内は外事課の職員の孫麗娟さんに瀋陽の繁華街などを案内してもらいました。その話によると表通りは綺麗になっていたが、横道や路地には露店があり日本の戦後のようだったと言います。
1976年にやっと終息した文化大革命の内戦からの復興がまだだったのです。

4番目の写真は現在の信用の繁華街の風景です。祭のように歩行者天国になっていて、人々が楽しげに歩いています。
私は1981年に金応培教授の案内で瀋陽のカトリック教会のミサに行きました。文化大革命で紅衛兵が教会を破壊し、椅子を薪にしたそうです。信者は荒れた石畳の床に膝まづいて祈っていました。
その1981年はヨハネ・パウロ2世が日本を訪れ、長崎まで巡礼したのです。
瀋陽の教会の人々はヨハネ・パウロ2世の日本訪問の様子を知っていました。口コミで知っていたのです。
それはそれとして、ついでに大連市の今昔の街の平和な風景を示します。出典は上記と同じです。







上で示した昔の写真と現在の写真の間には90年くらいの時が流れているのです。
沢山の戦争がありました。満州事変、日中戦争、ソ連軍の侵入、中国共産党軍と国民党軍の戦争、文化大革命という戦争などです。
それを想うと、現在の瀋陽や大連の平和で美しいい街の風景を見ると感慨無量です。
この平和の有難さと改めて心に刻みます。

日本も中国も北朝鮮も韓国も台湾も、そして全世界が平和であるように心から祈ります。
そして皆様のご健康もお祈りいたします。

特攻攻撃が与えた意外に大きい連合国側の損害の一覧

2017年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「日本文化と武士道が特攻隊の悲劇を生んだ」と題する記事を掲載しました。
その冒頭の部分は次のようでした。
日本の300万人余におよぶ犠牲者の鎮魂を深く祈る日です。そしてアジア地域での中国人、フィリピン人などアジア人と米英豪などの総数、2千万人とも言われている犠牲者のご冥福をお祈りします。みんな日本軍の犠牲になったのです。
その上、ヨーロッパ戦線での何千万人の犠牲者に心を寄せる日です。世界第二次大戦は人類史上で初めての一番大規模で悲惨な戦争でした。
あれから茫々72年。人々は決して悲劇の数々を忘れません。想像を絶するいろいろな悲劇が起きました。
今日は日本軍だけにあった組織的な特攻隊が何故実行され、6000人余の戦死者を出したか考えてみたいと思います。
その内訳は、海軍、4,156名 、陸軍、1,689名 という数が報告されています。・・・

そこで今日はこの特攻隊、6000余人の犠牲によって連合国側にどの位の損害があったのかを客観的に書いてみたいと思います。
まずマッカーサー太平洋戦域連合軍総司令官の感想からご紹介いたします。(出典は、https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13128680533 です。)
「沖縄では、特攻が殆どの日本軍機による攻撃で我が軍は艦船36隻沈没、破壊368隻、航空機損失800機の損害を出した。これらの損害は米海軍がメルボルンから東京までの間に受けたそれまでの損害を遥かに超えるものである。」

太平洋艦隊司令長官のニミッツ元帥はもう少し具体的に語っています。
(4ヵ月に渡った沖縄戦で)「我が海軍が被った損害は、戦争中のどの海戦より遥かに大きかった。沈没30隻以上、損傷300隻以上、9000人以上が死傷もしくは行方不明になった。この損害は主として日本軍の航空攻撃、主に特攻によってなされた。」

そしてアーネスト・キング海軍元帥も次のように語っています。
「4月6日からはじまった日本機の攻撃は、いままで嘗てなかった激烈なものだった。この特攻戦は凄惨を極めた。(略)海上では戦死行方不明4907名、戦傷4824名であった。 艦船は沈没36隻、損傷368隻であり、飛行機の喪失は763機であった。」

特攻が開始された1944年10月から終戦までのわずか10ヶ月間に、米海軍史上最大の損害を与えたのです。その損害の内訳は次の通りです。

(1)特攻で撃沈された艦船と廃艦、
撃沈・廃艦の総合計 護衛空母4隻 駆逐艦38隻 他28隻 合計70隻
この内訳は以下の通りです。
護衛空母 セント・ロー  オマニー・ベイ  ビースマルク・シー合計3隻


駆逐艦(掃海・輸送・護衛各型を含む)、21隻
アブナ・リード  マハン ワード  レイド ロング  ディカーソン ブッシュ  エモンズ コルホーン  マナートLアベール  プリングル アーロンワード  リトル モリソン  オバーレンダー  ベイツ バリー  ドレクスラー ウィリアムD ポーター トゥィッグス  アンダーヒル キャラハンなど。

大型給油船 ミシシネワ(排水量25800トン)他輸送船等27隻

特攻で大破し廃艦スクラップとなった艦船、護衛空母 、サンガモン

駆逐艦、合計17隻、
ブルックス ベルナップ  ロイツェ ニューコム  モリス ハーディング  ハッチンス ハガード  ルース シェイ  イングランド ヒューwハドリー  エバンス ザッチャー  バトラー シュブリック  ウィリアムディッターなど。

(2)特攻で撃破された艦船
正規(含軽空母)空母20隻 護衛空母13隻 戦艦11隻 巡洋艦12隻 駆逐艦150隻 その他100隻以上 合計300隻以上(撃破の内108隻は戦闘行動が不可能になる深刻な損害)

太平洋戦争中日米水上艦船がいたるところで激しい海上戦を展開しましたが、それで失われた米駆逐艦は16隻、また日独潜水艦が沈めた米駆逐艦15隻で合計31隻にすぎないところを見れば、たった10か月の特攻攻撃期間で駆逐艦38隻を沈めたのは特攻攻撃によるものだったのです。
また特攻で損傷した艦、300隻以上は沈みはしませんでしたが戦闘能力は無くなったのです。
日本軍は大戦中50000機の航空機を損失しましたが、その内のわずか2550機の5%程度の特攻機がこれだけの戦果を挙げたのです。

以上のように連合国の損害を文章で示すと分かり難いのですが、それを整理して一覧表にしたものが以下のURLにあります。是非ご覧ください。
『特攻攻撃が与えた損害の一覧』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%94%BB%E3%81%A7%E6%90%8D%E5%AE%B3%E3%82%92%E5%8F%97%E3%81%91%E3%81%9F%E8%89%A6%E8%88%B9%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
この一覧表は次のように整理、分類されています。
1連合軍の被害、1.1沈没、1.2損傷による除籍処分、1.3損傷、1.3.1巡洋艦以上、1.3.2駆逐艦以下
そしてそれぞれの表には、沈没日、艦名、艦種、場所、戦死者、負傷者の項目が示してあり、非常に分かり易い一覧表になっています。

さて日本側の6000人余の戦死者を出した特攻隊の犠牲に対して、以上の連合国の損害は大きかったでしょうか?小さかったでしょうか?この問いに対する議論ほど空しいものはありません。
ただ日米の両軍の全ての犠牲者の冥福を祈るだけです。

ところで表題に『特攻攻撃が与えた意外に大きい連合国側の損害の一覧』に書きましたが、「意外に大きい・・・」の 部分は私個人の感じ方です。
戦前生まれ、戦後のマッカーサー占領軍の指導による教育は、日本の軍国主義の復活を徹底的に防ぐ目的の教育でした。従って野蛮な特攻攻撃は何の戦果も上げられなかった、無意味な作戦だったという内容の教育でした。
戦後の満員の映画館のニュース映画では特攻機がアメリカの戦艦の銃撃で無残に黒煙を吹いて海に墜落して行く場面を何度も見ました。たまに特攻機がアメリカの戦艦に体当たりして、艦上で燃える特攻機に対して何本もの消火ホースで水をかけている場面も出ますが、アメリカ側の損傷は軽微なのです。
そのようなニュース映画ばかり見て育ちました。
冒頭に紹介したマッカーサー太平洋戦域連合軍総司令官や太平洋艦隊司令長官のニミッツ元帥の談話はアメリカ国内向けの談話で、日本の新聞では殆ど掲載されませんでした。当時は全ての報道に対してアメリカ軍司令部、GHQの検閲が厳しかったのです。
今日、ご紹介した連合国側の損害が明るみになったのは戦後、随分後になってからなのです。
戦後の教育を受けた高齢者は表題にある、「意外に大きい・・・」という表現に同感すると思います。

今日の挿し絵代わりの写真は特攻隊出撃直前の搭乗員たちの写真と、彼等が生まれ育った仏教国、日本のお寺の風景です。
お釈迦様はすべての生きものを殺してはいけないと教えました。人間の弱さと無常を感じます。
1番目の写真の出典は、http://www.sankei.com/premium/news/150406/prm1504060008-n1.htmlです。
2から4番目までのお寺の写真の出典は、http://www.miyabi-kyoto.net/sp/midokoro.html#05 です。

終戦の日、8月15日に当たり、全ての戦争犠牲者の鎮魂と冥福を祈ります。後藤和弘







===参考資料============================
List of United States Navy losses in World War II、https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_United_States_Navy_losses_in_World_War_II
日本語は、https://matome.naver.jp/odai/2144809749091311801 にあります。
太平洋戦争でのアメリカ海軍喪失艦
太平洋戦争の勝者であるアメリカの海軍艦艇喪失数は、例えば日本が戦艦を8隻失ったのに対してアメリカは2隻だけというように少ない。それでもここに挙げた戦艦、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦だけでもアメリカは140隻前後失っており、戦力が低下していく中で日本軍がいかに戦ったかがうかがえる資料です。