後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

静かに渓流と話す人のいる毛針釣場

2019年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム
毛針釣りでは羽虫に似せた釣針をソッと川面に浮かせ、岩魚(イワナ)が底から飛びあがって食いついた時釣り上げるのです。
音をたてずに静かに渓流と話し合いながら何処に岩魚が潜んでいるか教えて貰います。
清流の水音とかすかな風の音しか聞こえません。静寂です。
そんな空気を楽しむのが渓流釣りです。何故か高尚な趣味のようです。
釣り人に会うと無言で微笑むだけです。声をたてない修行僧のような雰囲気です。
そんなのが好きなので何度も行く場所があります。奥多摩にある養沢毛鉤専用釣場です。
今回もその静寂の中の自然を楽しんで来ました。撮って来た写真をお送りいたします。









毛鉤専用釣場は全国的にも珍しいものです。この釣り場は戦後の1955年にトーマス・ブレークモア氏というアメリカ人が作ったのです。彼の記念碑も管理棟の前にあります。
ブレークモア氏(1915〜1994)は養沢川の清らかな流れに魅せられ故郷オクラホマで親しんだフライフィッシングを楽しむために自己資金で川を借り上げて魚を放流し毛鉤専用の釣場を開業したのです。
最初のオープンは1955年6月1日だったそうです。
その後運営は養沢地域に委ねられ現在は社団法人として養沢地域全体で管理運営を行っています。その収入で清流を守るための落葉樹の植林や環境整備などに使っているそうです。
この釣り場ではニジマスとヤマメを定期的に放流しています。そしてブラウンマスやイワナも棲息しています。
ところで一般のルアーフィッシングでは小魚の形の疑似餌を用いますがここではそれは禁止です。毛針だけ使って良いのです。
毛針を疑似餌にする釣り方は昔から日本にもありました。それはテンカラ釣りと言います。
養沢毛鉤専用釣場では毛針のフライフィッシングとテンカラ釣りの専用釣り場なのです。
      
日本の伝統的な毛針釣りであるテンカラ釣りとイギリスで生まれたフライ・フィッシングとの相違点はリールの使用の有無だけです。
テンカラ釣りは誘いの精妙さで喰わせるので、テンカラ釣りの人は毛針の精巧さにはあまりこだわらないそうです。
私自身は毛針り釣りをしたことはありませんが昔から憧れていました。本も沢山読みました。特に井伏鱒二の書いた渓流釣りの本は今でもよく覚えています。
帰宅してから家内と釣りの話をしました。彼女はあれは鮎を釣っていたのだと言います。
川で釣りの人を見たらすべて鮎を釣っていると思っていたそうです。毛針で鮎の釣れない理由を説明したら納得しました。家内は知っていることも多いのですが、とんでもない思い違いをしていることも多いのです。

それにしても釣りは奥深い趣味です。自分でしないだけに一層、釣りを趣味にしている人を尊敬しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「川遊びをしている子供達の写真を撮りに行く」

2019年07月31日 | 写真
夏は子供達にとって楽しい季節です。
縁日の夜店に心がときめきます。プールや海水浴に行きます。川遊びに夢中になります。
川遊びと言えば東京にも最適な場所が幾つもあります。多摩川上流やその支流の秋川です。東京の郊外で奥多摩に比較的近い八王寺や立川や小金井の子供達は奥多摩へ川遊びに行きます。
川で楽し気に遊んでいる子供達を見るとこちらまで幸せになります。昔は自分の子供達を何度も連れて行ったものです。
そんな思い出もあるので夏になると川遊びをしている子供達を見に行きます。
昨日は檜原村を流れている秋川で川遊びをしている子供達の写真を撮りに行きました。
幸福そうな家族が一緒に川の流れと戯れています。お父さんは椅子ごと清流に浸かり涼しそうにしています。
写真を撮りながら家内も楽しそうです。
こうして老境の一日も清流のように流れ行きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









夏が来ると思い出す戦争(3)特攻隊と米軍の甚大な損害

2019年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は軍備を強化しつつあります。ヘリコプターの母艦を改良して垂直離着陸の出来る戦闘機を乗せた航空母艦にしています。兵器もアメリカから先端技術を用いたものを導入しています。
日本人は74年前の戦争の悲惨さを忘れているのです。
こんな時代だからこそ昔の戦争の悲惨さや残酷さを思い出すことが重要ではないでしょうか。

そんな想いで今日も昔の戦争の愚かさ残酷さをもう一度書いて置きたいと思います。平和を願う方々がご覧になるように祈ります。
今日は込み入った内容の記事ですので、分かり易くするために次のように3つの部分に分けて個条書にします。
(1)何故、日本人は特攻の14009人の死は無駄だったと思い込んでいるか?
(2)特攻関連の戦死者は14009名だった。
(3)日本軍が沈めた連合国軍の艦船と損害の概略。

さてそれでは3つの項目を少し詳しく説明します。
(1)何故、日本人は特攻の14009人の死は無駄だったと思い込んでいるか?
1945年、日本はアメリカ連合軍に完膚無きまでに敗けました。日本を占領したマッカーサ-総司令官のGHQは日本の軍国主義を根絶するためにあらゆる手段、方法を用いたのです。
その重要な一つに新聞の検閲と放送や出版物の徹底的な規制でした。
そして日本の軍部の戦果は具体的に報道することを禁止し、日本軍は戦略の無い愚かな戦争をしたと宣伝したのです。
従って神風特攻隊も全く無駄だったと主張したのです。当然、日本人は特攻は無駄だったと思い込んでしまったのです。
しかし一方、アメリカ国内では神風特攻隊の上げた大きな損害を発表していたのです。勿論この事実は日本の新聞には一切発表させなかったのです。
以下にアメリカの新聞記事などをご紹介いたします。

まずマッカーサー太平洋戦域連合軍総司令官の感想です。
(出典は、https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13128680533 です。)
「沖縄では、特攻の日本軍機による攻撃で我が軍は艦船36隻沈没、破壊368隻、航空機損失800機の損害を出した。これらの損害は米海軍がメルボルンから東京までの間に受けたそれまでの損害を遥かに超えるものである。」

そして太平洋艦隊司令長官のニミッツ元帥はもう少し具体的に語っています。
(4ヵ月にわたった沖縄戦で)「我が海軍が被った損害は、戦争中のどの海戦より遥かに大きかった。沈没30隻以上、損傷300隻以上、9000人以上が死傷もしくは行方不明になった。この損害は主として日本軍の航空攻撃、主に特攻によってなされた。」

またアーネスト・キング海軍元帥も次のように語っています。
「4月6日からはじまった日本機の特攻攻撃は、いままで嘗てなかった激烈なものだった。この特攻戦は凄惨を極めた。(略)海上では戦死行方不明4907名、戦傷4824名であった。 艦船は沈没36隻、損傷368隻であり、飛行機の喪失は763機であった。」

特攻が開始された1944年10月から終戦までのわずか10ヶ月間に、米海軍史上最大の損害を与えたのです。
日本人が特攻は無駄だったと思い込んでいたのは完全に間違っていたのです。
さてその詳細へ進む前に次の5枚の写真をご覧下さい。


1番目の写真は霞ヶ浦西岸の陸上自衛隊武器学校敷地内にある予科練特攻隊戦死者の展示館、「雄翔館」の外に立っている予科練生の銅像です。2008年10月24日 に私が撮った写真です。

2番目の写真は1944年10月25日、神風特攻隊敷島隊の零戦の特攻で搭載燃料と弾薬が誘爆して爆沈した護衛空母セント・ローです。以下の写真の出典は、「https://ja.wikipedia.org/wiki/特攻で損害を受けた艦船の一覧」です。

3番目の写真は1945年1月1日、リンガエン湾に向けて航行中にスールー海で神風特攻隊旭日隊の特攻を受け炎上する護衛空母オマニー・ベイです。この後に沈没しました。

4番目の写真は1945年6月10日、特攻機が至近弾となって大きく傾いた駆逐艦ウィリアム・D・ポーター(en:USS William D. Porter (DD-579))です。復旧作業も実らずこの後に横転し沈没しました。

5番目の写真は1944年10月30日神風特攻隊葉桜隊の零戦1機の特攻を受け艦載機が次々と炎上している軽空母ベローウッドです。奥は同じく特攻で炎上する正規空母フランクリンです。

さて沖縄戦だけで艦船36隻沈没、破壊368隻、航空機損失800機の損害を与えた特攻隊の戦死者は如何ほどだったのでしょうか?

(2)特攻関連の戦死者は14009名だった。
2008年10月現在確認されている特攻隊員戦死者数は次の通りです。
海軍
海軍航空特攻隊員:2,531名
特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名
回天特攻隊員:104名
震洋特攻隊員:1,081名
合計:4,156名

陸軍
陸軍航空特攻隊員:1,417名
丹羽戦車特攻隊員:9名
陸軍海上挺身隊員(マルレ):263名
合計:1,689名

この他に第二艦隊戦没者、回天を搭載して出撃し未帰還となった母艦潜水艦搭乗員、移動中の乗船海没などにより地上戦に参加した戦没者等の特攻作戦関連戦没者が、
第二艦隊戦没者:3,751名
回天部隊関連戦没者:1,083名
震洋部隊関連戦没者:1,446名
陸軍航空関連戦没者:177名
海上挺身隊関連戦没者:1,573名
空挺部隊関連戦没者:100名
その他(終戦時自決・神州不滅特攻隊、大分702空等)戦没者:34名
合計:8,164名
以上合計14,009名を数えるのです。(Wikipediaの特別攻撃隊より引用しました)

(3)日本軍が沈めた連合国軍の艦船と損害の概略。
出典の、http://kokoteikoku.web.fc2.com/Zakki/Senka.html に感謝し、その前半をそのまま転載します。
・・・日本軍の総合戦果(艦船)の集計です。・・・
主に太平洋戦記2の史実解説を参考としました。
間違ってるところもあるかと思いますので、気が付いた時に修正していきます。
連合国軍喪失艦船(太平洋戦域)
太平洋戦域で沈んだ連合国軍の艦船です。
喪失したというだけで事故なども含みますのですべて日本軍が沈めたというわけではありませんが、
間接的には貢献しているので日本軍の戦果に含めてもいいかと思います。
戦艦4隻
空母4隻
軽空母2隻
護衛空母(軽装備の空母)5隻
重巡洋艦11隻
軽巡洋艦6隻
駆逐艦74隻
護衛駆逐艦(軽装備の駆逐艦)4隻
潜水艦60隻
日本の潜水艦が撃沈した連合国商船184隻(907000総トン)
爆撃や砲撃などで沈めたものは不明

以上の内訳は以下の通りです。
(1)アメリカ軍
戦艦 2隻(判定 難しいところ。普通の海上なら5隻撃沈だが、港で浅くて3隻復活してるので2隻か)
オクラホマ(41.12.8 真珠湾攻撃により沈没したが浮揚のまま放置)
ネバダ(41.12.8 真珠湾攻撃により大破着底したが浮揚修理で復活)
アリゾナ(41.12.8 真珠湾攻撃により沈没)
カリフォルニア(41.12.8 真珠湾攻撃により沈没したが浮揚修理で復活)
ウェストバージニア(41.12.8 真珠湾攻撃により沈没したが浮揚修理で復活)
空母 4隻
レキシントン(42.5.8 珊瑚海海戦にて沈没)
ヨークタウン(42.6.7 ミッドウエー海戦後潜水艦の雷撃にて沈没)
ホーネット(42.10.26 南太平洋海戦にて沈没)
ワスプ(42.9.15 潜水艦の雷撃にて沈没)
軽空母 1隻
プリンストン(44.10.24 レイテ海戦にて空襲により沈没)
護衛空母(軽装備の空母) 5隻
リスカムベイ(43.11.24 潜水艦の雷撃により沈没)
セントロー(44.10.24 レイテ海戦にて特攻機により沈没)
ガンビアベイ(44.10.24 レイテ海戦にて砲撃により沈没)
オマニーベイ(45.1.4 特攻機により沈没)
ビスマルクシー(45.2.21 硫黄島沖にて特攻機により沈没)
重巡洋艦 7隻
ノーザンプトン(42.11.30 ルンガ沖夜戦にて沈没)
シカゴ(43.1.30 レンネル沖海戦にて沈没)
ヒューストン(42.3.1 バタビア沖海戦にて沈没)
インディアナポリス(45.7.30 伊58の雷撃にて沈没)
アストリア(42.8.9 第一次ソロモン海戦にて沈没)
クインシー(42.8.9 第一次ソロモン海戦にて沈没)
ビンセンス(42.8.9 第一次ソロモン海戦にて沈没)
軽巡洋艦 3隻
ヘレナ(43.7.6 クラ湾夜戦にて沈没)
アトランタ(42.11.13 第三次ソロモン海戦にて沈没)
ジュノー(42.11.13 第三次ソロモン海戦にて沈没)
駆逐艦 60隻
平甲板型(第一次大戦時の旧式駆逐艦) 11隻
ファラガット型 3隻
ポーター型 1隻
マハン型 7隻
クレイブン型 4隻
シムス型 4隻
リバモア型 8隻
フレッチャー型 19隻
A・M・サムナー 3隻
護衛駆逐艦(軽装備の駆逐艦) 4隻
潜水艦 46隻

(2)イギリス軍
戦艦 2隻
プリンス・オブ・ウェールズ(41.12.10 マレー沖海戦にて沈没)
レパルス(41.12.10 マレー沖海戦にて沈没)
軽空母 1隻
ハーミス(42.4.29 セイロン島沖海戦にて沈没)
重巡洋艦 4隻
コンウォール(42.4.5 セイロン島沖海戦にて沈没)
ドーセッシャー(42.4.5 セイロン島沖海戦にて沈没)
キャンベラ(42.8.9 第一次ソロモン海戦にて沈没)
エクセター(42.3.1 蘭印にて砲雷撃により沈没)
軽巡洋艦 1隻
パース(42.3.1 バタビア沖海戦にて沈没)
駆逐艦 8隻
潜水艦 4隻

(3)オランダ軍
軽巡洋艦 2隻
ジャワ(42.2.27 スラバヤ沖海戦にて沈没)
デ・ロイテル(42.2.28 スラバヤ沖海戦にて沈没)
駆逐艦 7隻
潜水艦 8隻

(4)ソ連軍
潜水艦 2隻

以上の表で注目すべきはイギリスの潜水艦4隻とオランダの潜水艦8隻が沈んでいることです。
多くの戦後教育を受けた日本人は太平洋地域で連合国側がイギリス、とオランダを含めて、これだけ数多くの悲劇が起きたことを知りません。

それでは上に示した表は正しいでしょうか?私は原資料のアメリカ海軍がネット上に発表している以下のような情報を確認しました。
(1)「第二次世界大戦中のアメリカ海軍の喪失艦一覧」
https://ja.wikipedia.org/…/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B…
(2)Tabular Summary of U.S. Submarine Losses During World War II
https://www.ibiblio.org/hyper…/…/rep/WDR/WDR58/WDR58-II.html
原資料は沈没した場所の正確な経度と緯度と月日が示されています。

そして数を付き合わてみると上で示した数字には2,3隻の誤差があるようですが大体において正しいことを確認しました。

これ以上はあまり長くなりますのでここで止めます。
詳しくは以下の私が書いた記事も合わせてご参照下さい。

(1)日本の攻撃で沈んだ連合軍の60隻の潜水艦、嗚呼、戦争の悲劇!
2017年09月25日
(2)「特攻隊による400隻艦船の損害に関する米海軍からの公開一覧表」
2017年09月22日
(3)「何故多くの人は特攻は無駄だったと信じているのか?」
2017年9月12日掲載
(4)沖縄沖で特攻で大破した空母、駆逐艦など404艦艇と航空機763機に対する評価
2017年08月20日
(5)特攻攻撃が与えた意外に大きい連合国側の損害の一覧
2017年08月14日
(6)日本文化と武士道が特攻隊の悲劇を生んだ
2017年08月14日

今日は太平洋戦争で起きた事実の一部だけをご紹介しました。
上の書いた事実で引き起こされた残酷さと悲劇の数々をご想像下さい。
戦死した多数の日本兵やアメリカ兵などはみな若くして尊い命を失ったのです。戦死者の約10倍の兵士が戦傷を負ったのです。その家族たちの悲嘆もご想像下さい。

この昔の戦争の残酷さをもう一度思い起して、世界に真の平和を作るように努力すべきです。

犠牲になった日本の特攻隊関連の全ての死者のご冥福をお祈りします。
同時に戦死した連合国軍の死者のご冥福をお祈りします。
そして太平洋戦争に巻き込まれ戦没した全てのアジア人のご冥福を心からお祈りいたします。後藤和弘

白崎謙太郎著、「小網代ヨット史」の貴重な歴史的価値

2019年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム
2019年07月24日 に『白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の貴重な歴史的価値』を掲載しました。今日は続編として『白崎謙太郎著、「小網代ヨット史」の貴重な歴史的価値』を送りいたします。
先日ご紹介した「日本ヨット史」には明治維新前後の草創期の頃から第二次大戦後までのまでの日本のヨットの歴史が詳しく書いてあります。
そして今日ご紹介する「小網代ヨット史」には第二次大戦後から現在までの日本のヨットの歴史が書いてあるのです。
ですから、この2冊の本を読むと明治維新から現在までの日本のヨットの歴史が理解できます。
はじめに一つだけ説明します。「小網代ヨット史」は沖に係留したヨットのことを書いた本です。
設備の整ったヨットマリーナに陸置きしたヨットことは書いてありません。
沖に係留したヨットの持主こそ本物のヨットマンなのです。

1番目の写真は三浦半島の油壷の沖に係留されているヨットの写真です。自分で撮った写真です。

2番目の写真は同じく三浦半島の葉山マリーナに陸置きしてあるヨットの写真です。自分で撮った写真です。

3番目の写真の手前がシーボニアマリーナに陸置きしたヨットで、遠くの海に整然と沖に係留したヨット群が小網代ヨット倶楽部のヨットです。この写真は他からお借りしました。

さて白崎謙太郎著、「小網代ヨット史」の内容をご紹介します。
この「小網代ヨット史」は小網代ヨットクラブから刊行された本です。
「小網代ヨットクラブ」http://koajiroyc.jp/から購入出来ます。
日本で外洋ヨットをなさっている方々は「舵」誌に渡辺修治さんが連載していた「ドン亀ものがたり」をご記憶のことと思います。白崎謙太郎さんはその渡辺修治さんのヨットの弟子でした。
この『小網代ヨット史』は戦後から現在までの日本のヨットの広範な記録が整然と紹介してあります。
この本は小網代ヨットクラブの 創立60周年記念誌として出版されたのです。
白崎さんは「小網代ヨットクラブ」の会員です。小網代湾は三浦半島の先端近くにあるヨットの泊地です。3番目の写真にその風景を示してあります。
この本は決して小網代湾のヨットだけではなく、全国の外洋ヨットの戦後の歴史が書かれています。
この本の内容は次の通りです。
(1)イギリス海軍退役中佐のA.A.マッケンジーが外洋ヨットの取り扱い方や外洋ヨットレースのルールなどを教えてくれた戦後黎明期の歴史が詳しく書いてあります。
(2)渡辺修治、福永昭などが小網代湾でヨットクラブ、「小網代フリート」を結成し、それが現在の「小網代ヨットクラブ」に発展した歴史が客観的に描いてあります。
(3)日本の伝統的漁村文化を背負った漁師たちと根気よく話し合い、円満にヨット用係留地と倶楽部ハウスを作った経緯が詳しく書いてあります。
(4)外洋ヨットの係留方法や外洋でのレースの爽快さが余すところ活き活きと書いてります。

私はこの本を手に取っていろいろな感想が熱く胸に湧き上がってきました。
嗚呼、自分の25年間のヨットの趣味は何と軟弱な趣味だったのだろうか!休日の朝、霞ヶ浦の岸壁に係留してあるヨットに家内と乗り、沖を帆走して風が強くなった来たら港に逃げ帰るという軟弱な趣味だったのです。
しかし沖に係留してあるヨットではまず岸から小舟で渡って行かねばなりません。台風が来たら安全な場所に避難しなければなりません。ヨットの保守、管理は全て自分の手でしなくてはいけないのです。ですから沖泊のヨットの持主はヨットのことの全てを熟知します。本物のヨットマンなのです。
その上、沖に係留するためには近辺の漁業組合と円満な友好関係を築く必要があるのです。

日本の漁村文化では沿岸の海を所有しているのは漁協なのだという伝統があります。
海の貝や海藻や魚は地元の漁師の所有物だという伝統的な考え方なのです。
その漁村の沖にヨットを係留するのです。
ですからこそ近辺の漁業組合と円満な友好関係を築く必要があるのです
このような漁村文化の小網代湾に多数の外洋ヨットを整然と係留するためには1955年以来、漁協との円満な話し合いがなされて来たのです。
そして2006年6月に小網代湾の漁協敷地に「小網代ヨットクラブ」のクラブハウスが完成したのです。
この「小網代ヨット史」には単にヨットのことだけでなく地元の漁協との友好関係の重要さが書いてあるのです。
それも沖に停泊するヨットにとって重要なことなのです。
いずれにしても白崎謙太郎著、「小網代ヨット史」は感動的な本です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料================
現在の日本の漁港におけるヨットの係留の実情。

漁協や市区町村役場で尋ねてみてください。
認識しておくべきことは、
 ・条件の良い漁港は係留可能であっても空きが無い。
 ・市区町村の広報で募集を行うときもあるが、応募者が非常に多い。
 ・市区町村が直接関与しない場合は、漁協の組合員の保証人が必要な場合が多い。
係留したい漁港の管理者や漁協の組合員等に知り合いがいると情報を教えてくれます。
【重要なこと】
仮に係留できたとしても、漁港では台風等の対策は全て自己責任です。
マリーナのように修理、保守管理をしてくれる人はいません。
漁港の設備は組合員以外は通常使えません。
上架用の施設や給油も利用できないことが多いです。
船底塗装はビーチングで、給油はポリタンクを運んでということになります。

「いけません!それは体に毒です!」

2019年07月26日 | 写真
美味しいものはとかく体に毒です。特に高齢者にとっては油の多い料理はいけません。
しかし月に1度くらいは良いだろうと今日は体への毒をいろいろ買って来ました。立川市の高島屋の地下です。
幸いにも家内は上の方の洋服売り場へ行っています。
「いけません!それは体に毒です!」という家内の声が聞こえるようです。でも本人は居ません。自由って良いものですね。
写真は先程撮って来た高齢者の健康に良くないものです。









「スイスのアルプスに咲く花々の写真です」

2019年07月26日 | 写真
スイスのアルプスに咲く花々の写真をお送りいたします。
1番目の写真はピラセロ・ミヤマコウゾリナ(キク科)です。↓
2番目の写真はニバリス・リンドウ(リンドウ科)です。「アルプスの青い星」という別名がついている美しい花です。↓
3番目の写真はハレリ・キオン(キク科)です。
4番目の写真はビストルタ・イブキトラノオ(タデ科)です。日本のイブキトラノオの母種で、よく似ています。↓
5番目の写真はハクサンチドリです。日本にもあります。
写真の出典は、「スイスアルプスで出会った花たち7」
https://sat6999oru.at.webry.info/201709/article_5.htmlです。









「珍しい海辺の花々の写真をお送りします」

2019年07月25日 | 写真
珍しい海辺の花々の写真をお送りします。

1番目と2番目の写真はハマボッスです。
3番目の写真は五葉木通の花です。
4番目の写真はヤマシャクです。
5番目の写真はアケボノスミレです。
写真の出典は、「清治の花便り」 https://tombee.exblog.jp/25279295/ です。









白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の貴重な歴史的価値

2019年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム
1988年、舵社から出版された、白崎謙太郎著、「日本ヨット史」は名著です。史的価値の高い本です。
この本はわが国におけるスポーツとしてのヨットの歴史を、その発祥から第二次世界大戦の終戦に至るまでを区切りとして、「舵」誌の昭和60年12月号から62年4月号までの16回にわたって連載した“日本ヨット史稿”をまとめた本です。
現在も入手は可能で次の amazonから購入出来ます。
https://www.amazon.co.jp/日本ヨット史-文久元年-昭和20年-白崎-謙太郎/dp/4807243012
この本と2017年出版の白崎謙太郎著の戦後のヨット史を書いた「小網代ヨット史」を読むと明治維新前から現在までの日本のヨットの歴史が分かるのです。日本におけるヨットの歴史を書いた本は他にあまり無いのです。
そこで今日は白崎謙太郎著、「日本ヨット史」を紹介したいと思います。
さっそくですが、この本の全体の構成を以下に示します。
1章 横浜浮世絵と古写真
第2章 最初期のヨット
第3章 横浜ヨットクラブの誕生
第4章 T.M.ラフィンと幻のアルバム
第5章 日本人ヨットの胎動・大正時代
第6章 日本ヨット協会設立のころ
第7章 ヨットレースの幕あけ
第8章 Lクラスと外人クラブ
第9章 国内5メーターと設計の発展
第10章 ブルーウォーター派の台頭
第11章 戦前の外洋ヨットレース
第12章 知られざる野尻湖のヨット
第13章 戦前のオリンピックとヨット
第14章 もう一つの伝統・九州のヨット
第15紹 軍国主義下のヨット

この本によるとヨットが日本へ入って来たのは明治維新前後からです。
横濱に在住していたイギリス人などの欧米人が自分達の趣味として楽しんでいたのです。そうして横濱ヨットクラブが明治19年(1886年)に出来たのです。
このクラブや他の外人のヨットクラブが週末毎に横濱で盛んにレースを展開していました。
「日本ヨット史」の面白い点は、明治初期から大正12年の関東大震災までの横濱における外人ヨットマンを詳しく調べ上げ正確に記録している点にあります。
そしてそのヨットの建造場所も突き止めています。横濱での小さな造船所で欧米人や中国人、そして日本人の船大工によって作られたのです。その詳細は省略しますが著者の白崎謙太郎氏の資料の読み方が厳正なので信頼出来ます。
例えば江戸幕府が貧しい漁村を横濱港として整備し、欧米人へ開放する準備の経過などの一節は歴史的研究として一論文を成すくらい検証が厳密です。
明治19年頃までには、多くの在住欧米人がヨットを所有するようになったのです。
写真に明治20年頃に横浜で使われていたヨットを示します。外国人在住者の多かった神戸港や長崎でも同じような光景があったと想像できます。









これらの古い写真は白崎さんが見つけたのです。熱海駅前で歯科医をしていた館野常司氏を訪問し、古いヨットの写真集から転写したものです。
日本で一番古いと考えられるこのヨットの写真集は米人のラフィン氏が持っていて、後には、末娘のミス・ラフィンが秘蔵していたのです。彼女は親切に歯を治療してくれた歯科医でヨットマンの館野常司氏へ写真コピーを提供したのです。そして白崎さんが遂にそのコピー写真集の写真を撮ってきたのです。
はじめ日本人はヨットには関心を示しませんでした。少なくとも大正時代になるまでは外人だけの遊びでした。
このような状況の週末毎の華やかなヨットレースは、大正12年の関東大震災で消えてしまったのです。
震災で横濱は壊滅し、在住していた欧米人の事業も破滅に追いやられ、ヨットどころでは無くなったのです。関東大震災の横濱の被害は想像を絶する凄さだったのです。
日本人がヨットというスポーツを始めるようになったのはこの関東大震災後からなのです。
明治維新前後から実に50年間も経過してからヨットが日本人の間に普及しはじめたのです。その間に日清戦争があり、日露戦争があり、イギリス製の軍艦が多数輸入され大活躍していたのです。
何故ヨットの普及が50年間も遅れたのでしょうか?
日本には江戸時代以前から連綿として船を遊びの目的に使う文化が存在していませんでした。但し船頭に艪を漕がせて、船内で客が飲食しながら景色を楽しむ屋形船は各地にありました。
お客を運ぶ、荷物を運ぶ、魚を獲る、などと実用的な目的だけに使用していたのです。
高価な船を遊びだけに用いる事は贅沢過ぎ良い事と考えられていなかったのです。
そのような事を考えると横濱で盛んに活動していた外人のヨットクラブが日本人へ影響を与えるのに50年間もかかった理由が理解できます。

日本人自身がヨットを所有し、小型ヨットのディンギーでレースを始めたのは昭和の初期からです。そして昭和11年のベルリンオリンピックへ初めて参加したのです。監督は日本ヨット協会生みの親の吉本祐一、コーチとして艇および帆走規則に詳しい理論家の小澤吉太郎が加わり、主将、財部実を含めて総数7名の日本代表団が参加したのです。
はるばるシベリア鉄道でベルリンへ行ったのです。結果は惨敗でした。

一方、日本の大型ヨットによる外洋レースは昭和12年に三浦半島の鐙摺港(現在の葉山湊)を出発して大島を回ってくるというコースで開催されました。
日本人が乗り組んだ4艇が参加して、26時間で帰って来たアオイ号が優勝しました。その後、鐙摺港から熱海沖の初島を回る外洋レースも開催されます。
しかし外洋レースに必要なハンディキャップの計算方法が分からず、大らか過ぎるレースでした。
こうしてやっと日本人自身によるヨットが始まったのですが、昭和12年からの中国との戦争、そして第二次世界大戦の勃発で日本のヨットも中断してしまうのです。
ここまでの歴史は白崎謙太郎著の「日本ヨット史」に詳しく書いてあります。

戦後すぐに、進駐軍の将校が横濱などで本格的な外洋向けのクルーザーの建造を指導したのです。そして外洋レースに必要なハンディキャップの計算方法を日本人へ教えたのです。初めは進駐軍の将校が中心になって大島周りの外洋レースが盛んに行われたのです。
昭和26年に日本が独立するとアメリカ軍人も本国に帰る人が多くなります。大型ヨットは日本人へ引き継がれ、外洋レースは日本人が主体になって組織した日本オーシャンレーシングクラブが主催して毎年行われるようになったのです。
そうして1970年代から始まった経済の高度成長に従って小型ヨットのディンギーも大型のクルーザーヨットも一気に盛んになります。
結論的に言えば現在の日本のヨットは戦後、アメリカの進駐軍のお陰で本格的になったと言っても過言ではありません。
この戦後のヨットの普及の歴史は2017年出版の白崎謙太郎著「小網代ヨット史」に記録されています。
いずれこの「小網代ヨット史」の内容もご紹介したいと思います。

以上のように「日本ヨット史」には草創期の頃から第二次大戦後までのまでの日本のヨットの歴史が詳しく書いてあります。
この本はわが国のヨットの歴史を調べようとする人にとっては絶対に貴重な資料です。
それだけではありません。明治維新後、日本政府が西洋文化を導入する時、軍事技術や議会制の導入を優先し、ヨットのような「遊びの文化」を無視してきたことも示している本です。
それが日本に導入されたのは敗戦後に進駐して来たアメリカ将校によってなされたのです。
白崎謙太郎著、「日本ヨット史」は何故かいろいろなことを考えさせる内容の本です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===この記事に関連のあるバックナンバー==========

「後藤和弘のブログ」https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama
(1)白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(1)全体の構成、そして渡辺修治さんとの絆、2011年11月30日
(2) 白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(2)明治時代、横濱に在住した外人のヨット、2011/12/01
(3) 白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(3)明治20年代の横濱にあったヨットの写真集の発見、2011/12/03
(4)白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(4)ベルリンオリンピックへの参加と戦前の外洋レース、2011年12月24日
(5)新刊紹介、白崎謙太郎著、「小網代ヨット史」、2017年08月04日

追記:上の資料には2つの間違いがあります。
1、渡辺修治さんを潜水艦乗りの将校と書きましたがそれは間違いです。渡辺修治さんは東大工学部船舶工学科出身の技術将校で海軍では潜水艦を設計し建造監督をしていました。
2、上の資料の中に横型の帆では風上に登るのは不可能という表現が含まれていますが、正しくは横型の帆は立て型の帆のようには容易に風上には登れないという表現にすべきでした。
以上2点の間違いを慎んで訂正いたします。

「今日の相模湖の風景写真」

2019年07月24日 | 写真
天気が悪くて数日、遠方に行きませんでしたが、今日は晴れました。午後から相模湖までドライブして来ました。
富士五湖の一つの山中湖から桂川が流れ下り相模湖に注いでいます。相模湖からは相模川になって平塚で相模湾へ出ます。
今日の相模湖の風景写真をお送りいたします。帰途は曲がりくねっ大垂水峠を越えました。









参院選挙で安倍首相派が勝った5つの理由

2019年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今回の参院選挙で自民党、公明党の与党が躍進して参議院の議席の半数以上になりました。衆議院でも以前から半数以上でしたから安倍首相は独自の政策を気楽に国会に提案し、国会の賛成を得られるようになりました。安倍さんの笑顔が印象的でした。
この勝利の原因は総理大臣就任以来の安倍さんの政策が広く国民に良く評価され支持されたためです。国民の評価が国会に反映されることは何と言っても民主主義の良さです。
私は安倍首相が特に好きでも嫌いでもありませんが、今回の参院選挙で安倍首相派が何故勝ったか客観的に考えてみたいと思います。
理由はいろいろあるでしょうが、私は彼の功績を外交面と国内政治の面から5つの理由に整理してみました。
(1)外交面での成果
1)トランプ大統領と素早く信頼関係を作り、それを維持して来た成果。
日本の安全保障にはアメリカの大統領と固い信頼関係を築くことが鉄則です。
安倍総理はまだ在任中だったオバマ大統領を無視してトランプ氏の大統領選挙の勝利を祝すために素早くトランプ氏を訪問し直接祝意を伝えたのです。これは外交儀礼上、顰蹙ものですが効果は覿面で、それ以来トランプ氏は安倍さんをシンゾウ、シンゾウと呼んで信頼するようになったのです。
この安倍さんの素早い外交行為は後の日米安保の日本側の負担や日米貿易におけるアメリカの要求を大幅にやわらげる効果に繋がったと考えられます。

2)アメリカの主張するペルシャ湾の安全を守る有志連合への参加を慎重にしている功績。
安倍さんは中央省庁の官僚の意見をよく勉強して外交政策を決めているようです。つまり官僚の使い方が上手なのです。以前、田中角栄の娘の田中真紀子さんが外務大臣の時、外務省の官僚の意見を聞かずにアメリカの重要人物との会談を突然キャンセルして大騒ぎになりました。安倍さんは絶対にこういうことはしません。
ペルシャ湾の安全を守る有志連合への参加を慎重にしていたのは外務省の官僚の意見だったと私は考えています。
最近、ヨーロッパのNATO諸国がアメリカの主張する有志連合へ参加しないことを決定し、それを発表したのです。安倍さんの慎重な態度はNATO諸国との信頼関係を強めることにつながります。日本の国益を守ったと評価されます。

3)イラン訪問など全方位外交の積極的推進は日本の海外経済活動に貢献する。
安倍さんは就任以来、気軽に外国に行き首脳外交に数々の成果をあげて来ました。
最近のイラン訪問やイスラム教のいろいろな国の訪問は日本の原油輸入の安全に大きな貢献をする筈です。
一方、中国との友好関係も着実に推進しています。
以上のように安倍さんの外交面での活動は歴代の総理に比較すると立派なものです。
しかし韓国とは子供っぽい感情的な喧嘩をしています。日本のような大国の総理の態度ではありません。
日韓友好を推進すべきです。韓国は日本の重要な貿易相手なのです。幼稚な喧嘩は止めるべきです。

(2)国内政治の面での評価
1)憲法改正を急ぎ過ぎる。
いろいろな新聞社が世論調査をしています。その結果によると安倍政権の急いで取り組むべき施策は1老後の生活の経済的保証、2地域経済の活性化と格差の是正、そして3憲法改正の真剣な議論の開始の順序になっています。
憲法改正はいずれ必要だが急ぐべきではないというのが国民の総意なのです。
それなのに安倍さんは在任中に憲法改正の国民投票の法律を作ると豪語しています。
現在の憲法は「平和憲法」なので日本が平和なのだと信じている人が多いのです。この人達の説得は容易ではありません。元々右翼の安倍さんの気持ちは分かりますが急ぐべきではありません。

2)各方面に気配りし国内各地へ行く気軽さは評価される。
自然災害の度に各地へ行って被災者を慰め勇気づける安倍さんの態度は好感を持たれます。
最近のハンセン病患者や家族を勇気づけるため裁判の控訴取止めも好感を持たれます。
安倍さんのこのような各方面への気配りが長期安定政権につながったと思います。

以上、私の評価は少し甘いものです。
さて皆様は安倍政権についてどのような評価をなさってるでしょうか?ご意見を頂けたら嬉しく思います。

今日の挿し絵代わりの写真は山梨県の甲斐駒岳の麓に咲いている花々の写真です。私が撮ったものです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)











現在活躍している洋画家、三輪修の作品

2019年07月22日 | 日記・エッセイ・コラム
東京の銀座に日動画廊があります。この画廊の1階は売る絵を展示してあります。そして地下室では企画展をしてるのです。10年以上前にある企画展があり見に行きました。そうしたら三輪修画伯の穏やかな静物画もありました。三輪修さんとは以前からネットの上の友人だったのです。
三輪修さんの絵は家内も私も好きな絵でした。
そこでその後の名古屋日動画廊での三輪修画伯の個展を見に行くことにしたのです。
その個展に展示してあった油彩画の写真をお送りします。

1番目の写真はパリのセーヌ河と橋を描いた油絵です。写真ではありません。水面のかすかな波が静かな流れを表しています。丁寧に仕上げたパリの風景画です。

2番目の写真は、ある女の存在の証明を示す洋服の裾が時の流れとともに次第に消えて行く油彩画です。

3番目の写真は過ぎ去った時を感じさせるヨーロッパの村の風景画です。シーンとした静かな絵です。

4番目の写真もヨーロッパの村の橋の風景画です。

さて 名古屋日動画廊で三輪修さんに直接聞いた話です。
何を描こうとしているのかと聞きました。
「存在を丁寧に、あるがままに描きます。存在そのものに感謝して描きます。そうすると存在の向こうにあるものが見えて来ます」と言います。
これが 三輪修さんの作品を哲学や宗教と別次元の深い精神性を持った絵画にしているようです。
聞くと彼はキリスト教の聖公会の洗礼を受けた信者でした。しかし安易な宗教的な絵は描きません。宗教画のつまらさを感じている私の気持ちからも納得できます。
存在を丁寧に描く。生易しい仕事ではありません。ある色を塗ったら、それが完全に乾くまで何日も待ってから次の色を塗るのです。一枚の油絵を完成するのに何カ月も何年もかかるそうです。
彼の絵は何故か淋しい雰囲気を持っています。孤独感が存在の向こうに弱弱しく漂っています。彼が人生のはかなさを感じているのです。しかし時々何故か歓喜の高揚感を感じているに違いありません。
1番目の写真で示したセーヌ河の橋の下を流れる水面は、その存在を丁寧に何年もかけて描いていって完成したそうです。写真のように見えますが油絵です。水の存在感の向こうに何が見えるでしょうか?
画家、三輪修さんの世界とはそういう世界なのです。
それはさておき、私が三輪修さんの絵をネットではじめて見て感動した絵をご紹介いたします。

5番目の写真は木曽川の風景を描いたものです。何故か魂を強く打たれて私はジッと数十秒息をつめてこの墨絵のような油彩画を見つめてしまいました。
次にこの絵を描いた時の三輪修さんの気持ちを書いた下記の小文をお読み下さい。

・・・先日、行きつけの画材屋さんへ絵具を買いに行った帰り、急に私の生まれ育った場所に行きたくなり、車を走らせました。私が生まれ育った所は、木曽川の近くの尾西市という街で、昔は織物業が盛んで、織機の音が一日中聞こえていました。車が目的地の近くになった時、幼い頃見た風景とはまるで違った建物や看板が目立ちはじめ、がっかりして車を路肩に止めました。
しかし、ふと傍らに目をやると、見覚えのある小川があり嬉しくなりました。ここでいつも四手網を川下に置き、竹竿で川底をつついて、鮒、泥鰌、ザリガニなどを追い込むと、網も破れんばかりに捕れたものでした。その時の嬉しかった事、友達の笑い声、光の暖かさ、魚の匂いなどが、ピンホールカメラの写真のようにぼんやりと目の前に現れ、幼い日の楽しかった日々がおぼろげに甦ってきました。 大人になってからは、こういった感動は、普段あまりないのですが、それでも旅をした時などは、新鮮な驚きや感動を覚えます。家に帰って日常に戻っても、その余韻はぼんやりと心に拡がり、子供の時に覚えたような、ある種のノスタルジーとして記憶されます。
ところで、私の絵は、そういった過ぎ去った時と未来との間で、私の中で熟成された、時間、空間、温度、他に目に見えない何かを現わすことが出来たらと願っています。(みわおさむ)・・・

三輪修さんの絵のメインテーマは常に失われた時と甦る記憶との間なのです。
彼のブログの名前にもなっています。
「洋画家 三輪修 甦る記憶との間で・・・」、https://ameblo.jp/miwa-art/

彼の原画は次の美術展に出ている筈です。

2019一宮美術作家協会展
会期 7月20日(土)~8月4日(日)
    9時30分~午後5時(入館は午後4時30分迄)
休館日 毎週月曜日ただし8月12日は開館)、8月13日(火)
観覧料 一般200円/高校、大学生100円/小・中学生50円
開催場所 一宮市博物館
2階ギャラリーにて会員小品展同時開催
当番日 7月20日(土)9時30分~12時00分
     〃 26日(金)     〃
上の 当番日に行けば三輪修さんにお会い出来ると思います。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「蓮がさりげなく咲いているお寺の風景写真」

2019年07月22日 | 写真
明日は日野市の盆の入り日です。
午後から家内の実家の墓参りに行きました。江戸初期からあるお寺の境内に蓮の花がさりげなく静かに咲いていました。
故人を偲びつつ線香に火をつけました。家内は花を供えていました。
静かな老境の午後でした。




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