今朝の、夕闇と炎を見ながら伊澤孝平著「そういう時代の旅と人」を読む と題する記事で、本の書かれたそういう時代とはどのような時代だったかを説明しました。それは昭和26年から27年にかけての時代に書かれた本なのです。
この期間は昭和25年6月に勃発した朝鮮動乱の最中で、世界中が第三次世界大戦に発展するのを恐れていた時代でした。朝鮮動乱は昭和26年末までには戦線がおさまり停戦条約は昭和28年に決定したのです。
伊澤孝平著「そういう時代の旅と人」の内容を深く理解するためには当時の国際情勢を理解しておくのが良いと思います。
この戦争には以下のように世界中の国々が参戦したのです。
左が韓国側で、右が北朝鮮側です。
国際連合軍 医療スタッフ
韓国
アメリカ合衆国
イギリス
フランス
カナダ
オランダ
ベルギー
トルコ
タイ
フィリピン
ルクセンブルク
ギリシャ王国
コロンビア
オーストラリア
ニュージーランド
エチオピア帝国
南アフリカ連邦
デンマーク
イタリア
ノルウェー
インド
スウェーデン 北朝鮮
中国(中国人民志願軍)
ソビエト連邦(顧問団派遣及び物資支給)
そして仁川に上陸したマッカーサー軍は破竹の勢いで満州国境まで攻め上がりました。マッカーサーはトルーマン大統領の反対を押し切り満州へ原爆を投下し、侵入し、中国共産党軍の息の根を止めようと強く主張しました。
それは核戦争の第三次世界大戦を引き起こす可能性があります。
アメリカもその可能性のそなえ核戦争の準備をしていた時代でした。
ここでトルーマン大統領はシビリアン・コントロールを守るために昭和26年4月11日にマッカーサーのすべての軍務を解任したのです。それは正解でした。ソ連の参戦を未然に防ぎ、第三次世界大戦への火種を消し去ったのです。
しかしマッカーサーの解任後もアメリカには彼の主張を支持する人が多かったのです。
朝鮮動乱は中国共産党軍が北朝鮮を救ったという歴史的な事実を残し、現在の中国軍の自信過剰の原因の一つになっているのです。
そこで次の下の左の図をクリックして、拡大してご覧下さい。動乱中の最前線の移動を示す図になっています。そして11月には最前線が満州にせまっているのが分かります。
マッカーサーが満州に原爆攻撃を主張したのはこの1950年11月ころで、前線は満州の国境にせまっていたのです。
右の図は仁川上陸後、ソウル市で市街戦をしている米兵の写真です。
この朝鮮動乱は日本からも6000人もの人員が機雷除去の掃海艇に乗って参戦しています。そして朝鮮動乱特需で日本の復興にはずみがついたのです。
この日本へ大きな影響を与えた朝鮮動乱をもう一度いろいろな角度から再考すべきと思います。(続く)
====参考資料=========================
マッカーサー解任はこうして起きた。
1951年3月24日にトルーマンは、「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしていたものの、これを事前に察知したマッカーサーは、「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を政府の許可を得ずに発表した後38度線以北進撃を命令し、国連軍は3月25日に東海岸地域から38度線を突破する。
またマッカーサーは、満州国建国後に行われた日本の多額の投資により一大工業地帯、すなはち満州の工業設備やインフラストラクチャー施設を、ボーイングB-29とその最新型のB-50からなる戦略空軍で爆撃し、中国軍の物資補給を絶つために放射性物質の散布まで検討された。
この頃マッカーサーによる中華人民共和国国内への攻撃や、同国と激しく対立していた中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入、さらに原子爆弾の使用の提言など、戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢の意向を無視し、あからさまにシビリアンコントロールを無視した発言が相次いだ。
マッカーサーが暴走を続けた末に、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することによってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にし、その結果として第三次世界大戦に発展することを恐れたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーをすべての軍の地位から[36]解任した。国連軍総司令官および連合国軍最高司令官の後任には同じくアメリカ軍の第8軍及び第10軍司令官のマシュー・リッジウェイ大将が着任した。
解任されたマッカーサーは、4月16日に専用機「バターン号」で家族とともに東京国際空港からアメリカに帰国し、帰国パレードを行った後にアメリカ連邦議会上下両院での退任演説をし、退役し軍歴を閉じた。==(以下は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89に続く。)
一昨日の夜は独りで山小屋に泊まり、「そういう時代の旅と人」という本を読んでいました。
まずその小屋の窓から見えた夕闇の中の林の風景の写真を示します。
夕方の明るさが消えると窓の外は漆黒の闇です。木々の梢を渡る夜風の音がザワザワと怖い音をたてています。人里離れた山林の中は急に気温が下がり厳寒の冬です。
しかし室内には心強い薪ストーブが炎をあげて燃えています。その炎を見ながら、上着を脱いでシャツ姿で、「そういう時代の旅と人」という本をゆっくりと読みました。
早く床についたので次の朝は日の出前に起きました。
コーヒーを淹れて独り朝食を食べていたら窓から朝日の光が射し込んで来ました。
「そういう時代の旅と人」という本は伊澤孝平氏が昭和26年12月12日から昭和28年1月25日まで1年1ケ月の欧米諸国の旅行記です。伊澤氏は戦後文部省はじめての在外研究員として派遣されたのです。
ですから「そういう時代」とは第二次大戦後すぐの頃のことです。ヨーロッパの都市は激しい爆撃で破壊され、まだ荒廃していた時代です。
日本では米の統制で配給制度が続いていてまだまだ戦後の食糧難の時代です。
私の育った仙台での昭和26年の食生活は麦の入ったご飯と塩漬けのニシンやイワシに味噌汁と決まっていました。肉もバターも運が良ければ週に一回くらい口にできます。普通はクジラの肉を食べていました。
そして隣の朝鮮半島では昭和25年から昭和28年まで血みどろの朝鮮動乱が続いていたのです。北朝鮮に釜山近郊まで追い落とされた韓国を救うためにマッカーサーの指揮する海兵隊がソウルのそばの仁川に上陸し戦況を一挙に逆転したのです。この戦争にはイギリス、フランス、オランダ、ベルギーなどのヨーロッパ諸国も参戦したのです。
そういう時代のパリー、ロンドン、ベルリン、アルト・ハイデルベルヒなどの街々の様子は現在とは非常に違います。人情も世相も違います。
我々現在の日本人がすっかり忘れていた時代です。そういう時代をもう一度思い出してみることが非常に重要だとしみじみ思ったのです。
そこで「そういう時代の旅と人」という数回の連載記事を書くことにしました。
さて著者の伊澤孝平氏のことをご紹介します。明治34年生まれ、東京帝国大学を卒業法学部助手を務め、、昭和2年東北帝国大学法学部に転勤、教授として昭和33年まで勤めました。その後関西大学法学部長などを勤めましたが、昭和49年逝去されました。専門は商業や金融業に関する法律で、日本のその業界の近代化に大きな貢献をしたのです。
この本は死後27年経過してから伊澤氏の長女の美代子さんと夫の村野啓一郎氏の共同編集によって平成12年11月に出版されたのです。
そして先日、村野氏の旧宅、顧想園を見学した折に家内が美代子さんから戴いてきました。
この本に関する連載では原文の抜粋をそのまま使用する予定なので版権4に問題があります。
そこで顧想園サポートクラブ 富塚 健二さんにお願いして村野美代子さんへ電話をしいただきました。ご快諾を得たという知らせがあったので、いよいよ明日から始めることが出来ます。
現在、豊かな生活をしている日本人が大戦後のヨーロッパの街々の荒廃を想い、平和の重要さをふたたび確認し、平和を守る決心を新たにするように祈りつつ連載記事を進めて行くつもりです。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料======================
朝鮮戦争:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89
朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、195年6月25日 - 1953年7月27日休戦)は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争。
当事国ばかりでなく諸外国が交戦勢力として参戦し、朝鮮半島全土が戦場となって荒廃した。1953年に休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され南北二国に分断された。現在も両国間に平和条約は結ばれておらず、緊張状態は解消されていない。北朝鮮側による領空・領海侵犯を原因とした武力衝突がたびたび発生している。(以下省略)
よく老後の為にと貯金している人が多いものです。なにせ年金制度が次第に崩壊すると新聞に出ているのですから。それでつい貯金だけに夢中になっている人がいます。
しかし現役時代には趣味へも投資しておくべきです。時間とお金を投資しておきます。
そうすると引退後がすごく楽しくなるのです。
昨日から来て一泊しているこの質素な山小屋も現役の間に買ったものです。
誰でも現役のころは仕事が忙しく、趣味どころではありません。しかし老後を大いに楽しむためには現役の間に趣味を持っていることが肝要です。
現役のころは時間がないかわりお金があります。贅沢をしないで、生活費を切り詰めてでもお金を趣味に投資して置くのです。
例えば別荘用の土地を少し買って置く。趣味の為の電動工具を一式買って置く。中古のヨットやモーターボートを買って置く。釣り道具と釣り用の小舟を買って置く。
趣味の山歩きの為の小屋を大きな山の麓に作って置く。
スポーツ、ダンスを習う。絵画や音楽など趣味のために良い先生について習って置く。お花や茶道の師匠について習って置く。外国語、日本の古典文学(万葉集や源氏物語など)先生について本格的に勉強して置く。どれでもお金と時間を多くかけた方が、一般的には引退後が一層楽しくなります。
引退後は仕事仲間が居ません。しかし趣味を通じての知人・友人が沢山出来ます。
狭い分野の仕事だけの仲間は非常に特殊な視野の方々です。ことの良し悪しは別にして仕事仲間とはそういうものでしょう。
引退後は時間が豊富にあり、趣味を楽しむ時間は拡大します。自然に趣味を通しての知人・友人が増えます。視野や生活環境が非常に違う方々です。
人間の営みの多種多様さとその華やかさに吃驚します。
そのお陰で、自分の生活の巾や視野が広がり、豊かになります。引退後が人生で一番幸せな時代になります。
筆者の趣味は37歳の時に始めた山林の中の小屋と、48歳で始めたクルーザーヨットです。そしてこのブログです。ブログは山林の中で知り合った木内正夫さんに薦められ、手取り足取りコンピューターの使い方を教えて貰ったお陰で楽しんでいます。
下に掲載した写真は1973年に山林の中の80坪の土地の中を流れている小川の様子です。80万円で買いましたがその後小屋を建て、この小川に上ってくるヤマメや岩魚と40年間遊んでいます。そこから車で少し走ると八ヶ岳で、もう一枚の写真のように美しい杜があります。
ブログをしていると誰にでも気軽に声をかけることが出来ます。「田舎暮らしですか?私も小屋を持ってますよ。」とか話かけます。
ヨットのある現場では、「美しいヨットですね。チョット見せてくれませんか?」と言います。それでキャビンの中へ招じて貰えれば友人になれます。
最後に実に恥ずかしい話をして終わりにします。若い頃、欧米の研究者と競いあっていました。ところが彼等はみな別荘やヨットの趣味を持っています。
何がなんでも彼等に遅れをとっては口惜しい!どうしてでも勝ってやりたい。趣味の世界でも。
こんな浅はかな競争心と見栄で始めたのが山林の中の小屋とヨットの趣味です。
決して引退後を楽しむために始めたわけではありません。現在も軽佻浮薄な人間ですが、若いときの軽佻浮薄ぶりのお陰で引退後の生活が人生で一番楽しいものになりました。皆様はいかがでしょうか?(終わり)
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。 後藤和弘(藤山杜人)
・
・
大型客船が接岸できる桟橋は1889年に建設が始まりました。そして1894年には現在の大桟橋の前身の「鉄桟橋」が完成します。その後、拡張工事が行われ1913年には幅43m、長さ738mの桟橋が完成します。
それ以来、横浜港は外国航路の拠点になり、日本郵船や大阪商船などの表玄関になります。そして外国の海運会社も欧州航路とアメリカ航路の定期便を運航していたのです。この期間が横浜港の一番はなやかな時代だったのです。
その詳細は末尾の参考資料に示しました。
戦後もメリケン波止場として、下の写真のように日本郵船の氷川丸などが北米などへ出航していたのです。
当時は外国に行く人をこのように盛大に見送ったのです。ひょっとするともう二度と会えないと考えている人も多かったのです。
この氷川丸も旅客機の普及で1960年に就航を止め、現在は山下公園に係留され公開されています。
1960以後は旅客機の時代になり大桟橋は淋しい所になります。特に貨物船はコンテナ船になり大黒ふ頭のようなところへ去ってしまったのです。
ところが1990年代になると豪華客船が流行になり、大桟橋が再び脚光を浴びるようになったのです。
そこで横浜市は斬新な桟橋の設計を公募することにして、世界中へ呼びかけました。それは2002年のことでした。
その公募には660件の応募があり、その中から最優秀作品としてイラン生まれのファッシド・ムサヴィさんという女性とスペイン生まれのアロハンドロ・ザエラ・ポロさんという男性の2人の合作による設計が優勝したのです。
その設計図にしたがって建設されたのが現在の大桟橋です。
その桟橋は実に独創的な構造になっていて散歩していると自然に屋上に上がって行きます。そして青い海が見え、その向こうに横浜の美しい街々が見渡せるのです。
客船の岸壁という機能と市民の憩いの海上公園としての機能をあわせ持った楽しい場所です。
一階は広大な駐車場になっているので私も何度も散策に行きました。下にその大桟橋関連の写真をしめします。
まず設計者のファッシド・ムサヴィさんとアロハンドロ・ザエラ・ポロさんの写真を示します。
彼等の履歴は、http://www.osanbashi.com/outline/designer.htmlにあります。
下は大桟橋の全景です。
(写真の出典は、http://shige-f.blog.so-net.ne.jp/2009-09-23です。)
下には桟橋の突端部部に草が植えてあって公園になっている様子を示します。
この桟橋は徹底的に木造になっています。下にその屋上部分の様子をしめします。
(写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E3%81%95%E3%82%93%E6%A9%8Bです。)
下はこの桟橋の屋上から見た街の風景です。私が撮った写真です。
この大桟橋は入場無料の公園です。係留されている船に乗り込むのは禁止ですが、その他は自由に散歩できます。
一階の広大な駐車場は有料です。
とにかく素晴らしい場所なので一度お出かけになって下さい。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和(藤山杜人)
====参考資料:「大さん橋」================
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E3%81%95%E3%82%93%E6%A9%8B)
抜粋文を以下に示します。
こうして鉄桟橋は外国航路の貨客船における日本の主要拠点となり、当時の日本郵船、東洋汽船、大阪商船など日本海運業界の表玄関の一つとして利用され、外国海運業界の外国定期航路の拠点として活躍した。欧州航路では英国P&O、北ドイツ・ロイド、フランス郵船、北米航路では米国太平洋郵船、カナダ太平洋汽船、アメリカンプレジデントライン等が定期航路を敷くようになった。新港埠頭が完成すると、外国航路の一部を移譲した。新港埠頭4号岸壁は日本郵船の北米航路が使用し。9号岸壁は欧州航路が接岸する等鉄桟橋の負荷を緩和させた。鉄桟橋は外国籍船と日本郵船のシアトル航路が発着するようになった。新港埠頭4号岸壁からは、太平洋戦争後もシアトル航路に復帰した日本郵船の氷川丸が発着を続けた。しかし氷川丸は1960年に最終航海を終了させるに伴い新港埠頭の旅客業務も終了した。
(中省略)
太平洋戦争終結により大桟橋は連合国に接収され、サウスピアと改称された。降伏調印の為に米国戦艦ミズーリ号に向かった重光外相も大桟橋から小型船に乗船している。連合国も当初GHQを置いたのも大桟橋に程近いホテルニューグランドであり、大桟橋が時代の節目で日本の歴史に深くかかわることが横浜の開港以来の宿命を如実に表している。大桟橋は1952年2月15日に接収解除となり、北米定期航路にはアメリカン・プレジデント・ラインの「プレジデント・ウィルソン」や「プレジデント・クリーブランド」、欧州航路にはP&Oの「チューサン」やオリエントラインの「オロンセイ」などが就航し、日本郵船の氷川丸がシアトル航路に復活するなど、第二の往事を迎えた。また移民船として「ぶらじる丸」、「あるぜんちな丸」等が就航し、1960年代初頭までの第二の南米移民ブームを支えた。また、またのちに、ナホトカ定期航路も開設され、その低価格による欧州渡航が人気を博した。この頃の氷川丸でフルブライト留学生として渡米した人々も少なくなく、また宝塚歌劇団の渡米にも利用された。(以下省略)
横浜は江戸末期に開港した港町です。中国やヨーロッパやアメリカの人々がそれぞれの文化を背負ってやって来ました。
現在、カトリック教会やミッションスクールのフェリス学院のある山の上には欧米人が住みました。現在、外人墓地のある丘の上です。
その山の下の町には中国人が住みます。そして現在の中華街になったのです。
そして横浜の大桟橋からはアメリカやヨーロッパへ行く客船が出航し、日本からの留学生を運んだのです。洋行帰りの人々も大桟橋に降りたのです。
旅客機が普及する1960年頃までは、横浜こそが文字通り外国文化の窓だったのです。
このような歴史のおかげで、横浜にはいろいろな外国の文化が根をおろしました。
そのせいで横浜には、現在も独特の異国文化の香りがただよっています。そしてそれは明治、大正、昭和という時代の懐かしい雰囲気を醸し出しているのです。
この横浜の文化的で、何故か懐かしい雰囲気が好きで何度も行きました。
そこで今日から、「異国文化の香漂う懐かしい横浜」という連載記事を書き進めて行こうと思います。
第一回の今日は中華街と崎陽軒のシウマイについて写真を示しながら書いて行きます。
かなり広い中華街の出入り口には上のような豪華な門がついています。この門の中に入るとそこは昔の中国の世界です。
道教の関羽廟もあります。中国人が長い線香に火をつけて、膝まづいて三拝しています。町の光景は下のようです。
何度か中華料理を食べに店にはいりましが中国人の応対が古い中国を感じさせます。
この中華街を訪問すると、ああ古い中国文化はこのようなものだったのと感じるのです。高層ビルの立ち並んでいる現在の中国の町とは非常に違います。
そして昔懐かしい崎陽軒があります。
真空パックをした現代風の崎陽軒のシューマイは全国で売っています。しかし真空パックをしていない作りたての素朴なシウマイは横浜でしか売っていません。
下の写真の550円の箱に昔風の豚のひき肉と貝柱のシウマイが15個入っています。小さな白い陶器の入れ物に入った醤油とカラシがついています。この白い陶器の醤油入れが戦前の昔のままなのです。
この素朴なシウマイは中華街まで行かなくても横濱駅東口の「そごう」の地下でも売っています。
話は変わりますが、家内は戦前に食べた崎陽軒のシウマイが美味しかった感動を絶対に忘れないのです。昔のままの材料で、昔のままの製法で作ったシウマイでなければいけません。ですから私は横浜に行くたびに必ず崎陽軒の昔風のシウマイを老妻へのお土産として買います。
崎陽軒の古いお客を大切するその気持ちも嬉しいのです。幸せを感じるのです。
家内の喜ぶ顔を想像しながら今日も3箱買って帰って来ました。隣の義姉と表の息子家にも分けます。
上の写真は、「そごう」の地下にある崎陽軒の売り場の写真です。
「異国文化の香りただよう懐かしい横浜」などと高尚な連載記事のはじめに食べ物の話になってしまい、いささか恥ずかしいです。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
目の前に昭和時代に太平洋を往復した客船、氷川丸の係留してある横浜、山下公園は私の大好きな公園です。
今日は年に3回ある大学時代の同級生の昼食会が横浜のベイ・クオーターのレストランでありました。毎回必ず山下公園に寄ります。
昭和という時代を感じさせる山下公園界隈の写真を下にお送り致します。
・氷川丸は公開しています。入場料を払うと船内が見物出来ます。
チャップリンの泊まった一等船室も見られます。 圧巻は当時の巨大なエンジンルームです。
船がお好きな方々にとっては桜木町の港に係留されている帆船日本丸と共に必見すべき船です。
・
・下は昭和の雰囲気ただよう横浜ニューグランドホテルです。以前は山中湖にも夏限定の支店があり泊まったことのある懐かしいホテルです。
今回、中国が一方的に拡大した防衛識別圏を示したものが左の図面です。
従来の日本と韓国の両方の防空識別圏に無断侵入して拡大したのです。
図面の出典は、http://www.jiji.com/jc/c?g=int&k=2013112300140です。
この防空識別圏の意味は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E7%A9%BA%E8%AD%98%E5%88%A5%E5%9C%8Fに書いてあるので詳細は省略します。
簡単に言ってしまえば、中国の防空識別圏に侵入した日本の飛行機を中国空軍が撃ち落とす危険がある空域なのです。
昔、アンカレッジを離陸し、ソウルへ向かっていた大韓航空機の大型旅客機をソ連の戦闘機が撃ち落とし、乗客全員が死亡した大事件が起きました。
大韓国航空の旅客機がソ連のカムチャッカや千島上空のソ連の防空識別圏に誤って侵入したためです。
ソ連は一切謝罪しませんでした。
上の図面をよくご覧下さい。今回、中国が拡大した防空識別圏の中に尖閣諸島が含まれています。
従って尖閣諸島の上空を日本の飛行機が飛べば中国空軍の戦闘機が飛んで来て、迎撃体制で近づいて来て日本の飛行機を追い出そうとします。
この時、日本の飛行機が言うことをきいて進路を日本の方向へ変えれば良いのです。しかし変えなければ撃ち落として良いのです。
ところがはるか遠方の高空で進路を変えたか変えなかったかは証明が困難です。ですから日本機がたとえ帰路に向かっても、中国の戦闘機は自動誘導のミサイルで撃墜する可能性があります。
後で中国は日本の飛行機が指示に従わなかったから撃墜したと発表すれば国際的にはそれで良いのです。
今回のことで驚いてはいけません。
北朝鮮の防空識別圏は日本海にもあります。
次は北朝鮮をそそのかせて、それを拡大させ、北海道や青森、秋田、山形、新潟の沖にある日本海の中にある日本の離れ島を北朝鮮の防空識別圏に取り込むかも知れないのです。
中国は日本を挑発しているのです。
左の図面にある日本の防空識別圏は実はアメリカ空軍が設定したのです。ですからアメリカは今回は即座に反応し、中国を非難する声明を発表しました。
このような中国の喧嘩腰は何故起きるのでしょうか。
日清戦争以来、満州事変、上海事変、日中戦争と日本と負け戦を続けた中国人が受けた深い屈辱がこんな形になって跳ね返って来たのかも知れません。
人間は屈辱を与えた人はそれを簡単に忘れるが、屈辱を受けた人は絶対に忘れないのです。困ったものです。悲しいですね。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
魚介類には市場魚介図鑑(http://www.zukan-bouz.com/zkanmein/koukakumokujiebi.html)に示されている通り、食用の魚介にはすべて固有の名前がついています。
どこかのホテルの社長は大きなバナメイエビはクルマエビと同じですと言ったり、小さなエビは全部シバエビと言うのだと強弁していましたが、それは全部ウソです。
下の写真のようにエビの名前と図鑑が明快になっているのです。
左がクルマエビで右がバナメイエビです。
バナメイエビはクルマエビ科に属するエビの一種で東太平洋原産で、メキシコやペルーの南米沿岸でとれ食用として広く漁獲・養殖されているのです。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%8A%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%93)
そして下にバナナエビの写真を示します。
バナナエビは体色に模様がなく、一様に黄白色(バナナ色)をしているので、この名前があるそうです。
東南アジアからペルシア湾まで西太平洋インド洋でとれます。漁獲高や養殖の多い種類です。
日本では「タイショウエビ」として流通している場合もあるそうです。
以上のようにクルマエビもバナメイエビもバナナエビも良く似ていて、同じクルマエビ科の属していますが、それぞれ違うエビなのでです。生息地も違うのです。
ですからそれらを高価なクルマエビと表示すれば偽装表示になるのは当然です。
左がシバエビで右がアマエビです。
左がイセエビで右がメキシコイセエビです。
シロエビも「富山湾のシロエビ」もみんな違うのです。
下の検索表で調べれば一目瞭然です。
特にブラックタイガーは良く使われているので以下に紹介します。
東京湾以南の太平洋側でとれます。東南アジア、オーストラリア、アフリカなどにも棲息しています。
この養殖され輸入されたものは「ブラックタイガー」と呼ばれ、今や我が国のクルマエビ科のエビとしてはもっとも大量に消費されているのです。
相模湾などでもときどき漁獲されるそうですが非常に少ないとのことです。大型のエビであり、味もよいので、東南アジアから大量に輸入されています。
これもクルマエビ科なのでクルマエビの代用に使われています。
今やエビ料理と言えばこのエビを日本人が一番食べているエビなので下に大きな写真を示します。
メニューには敢えてブラックタイガーとは書かないで単にエビと書いてあることが多いようです。
シバエビのカクテルと書かずシュリンプカクテルと書けばよいのです。
高級そうな名前をつけて価格の低い食材を使うのは偽装と言います。
下の検索表でエビの通人になって下さい。市場での呼び名と標準和名との違いや方言による名前の違いも面白いと思います。
===エビ、アナジャコ、スナモグリの名前からの検索==========
http://www.zukan-bouz.com/sakuin3.html
国際ニュースはほんの少し歴史的にみると非常に面白くなります。そしてニュースの裏側にあるいろいろな事情も想像出来て一層面白くなります。
今朝の新聞の「イラン核縮小合意」-欧米、制裁を緩和ーというニュースは最近の一大ニュースです。欧米側とイランとの核開発に関する交渉が妥結したのです。
これで中近東は平和になり、アメリカはいよいよ中国の太平洋進出阻止に全力を注げるようになったのです。
日本産業界がイランとの年間1600億円もの取引が再開できるのです。
ですからこのニュースは日本へも直接的に重要な一大ニュースなのです。
少し歴史的に振り返ってみましょう。
戦後、イランにはパーレビ国王という大変親米的な王様がいて、長い間イランを統治していたのです。それが1979年のホメイニ革命によってイスラム原理主義の国家になってしまったのです。
イランこそアメリカに激しく対立する反米国家の旗手になったのです。
ホメイニ革命では、テヘランにあるアメリカ大使館が襲撃され、アメリカ人外交官達が捕虜になります。
それを奪還しようとした米軍特殊部隊の奇襲がぶざまにに失敗してしまったのです。私も衝撃を受けたものでした。
それ以来、イランは核兵器(原子爆弾も含む)の開発を始め、濃縮ウランの製造装置を建設し、濃縮ウランをどんどん作り始めたのです。それが2002年に発覚します。
欧米側がそれを阻止しようとして交渉を重ねてきました。しかし強固派のイラン大統領がいた間には進展がありません。
これに対抗するために、アメリカやEUはイランの対外資産を凍結し、厳しい金融制裁や貿易制裁を実施してきたのです。
イランの経済は疲弊し、人々の生活が困窮しました。
そんな状態のなかで、今年の8月に穏健派のロハニ大統領が就任したのです。そして僅か3ケ月で「イラン核兵器開発縮小合意」が妥結したのです。もちろん欧米側は経済制裁を緩和すると発表しました。
日本もアメリカの強い圧力で仕方なく厳しい対イラン経済制裁をしてきたのです。
話は飛びますが、私の若い友人がある期間、テヘランの日本大使館に勤務していたことがありました。彼の話によるとイランは常に親日的な国で、日本が嫌々ながら経済制裁をしていることをよく理解していたそうです。イランは日本の友好国なのです。
それはさておき、今度の合意で、イスラエルがイランを空爆するという予定も出来なくなりました。シリアの内戦問題は残りましたが、中近東は今後平和になる方向に動き出したのです。
今回の合意は世界平和の為の重大な第一歩です。いや本当に重大な第一歩になるようにと祈っています。次の世界大戦争の火種が中近東から完全に消えることを祈っています。そしてイスラム教とキリスト教の和解を祈っています。
下に昨日撮った近くの浅間山(せんげんやま)の静かなたたずまいの写真をお送りします。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)