後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

北朝鮮の協調外交への変化は歴史の転換点

2018年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム
韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩委員長が会談し、年内に朝鮮戦争の終戦宣言を行い、休戦協定を平和協定に転換するため韓国と北朝鮮と中国とアメリカの首脳会談を推進することで合意したのです。朝鮮半島の非核化もあらためて確認したのです。これはつい先日の4月27日の事でした。
会談の結果として、「朝鮮半島の平和と繁栄、統一に向けた板門店宣言」を発表したのです。
そして拉致問題について金委員長は文在寅大統領から日本の意向を聞いた上で、日本とも会談すると言ったのです。
この後のトランプ大統領と金委員長の会談が順調に行けば、朝鮮半島は完全に終戦し、平和条約が出来るのです。

従って私は文在寅大統領と金正恩委員長の会談を戦後の日本をとりまく国際関係の「歴史の転換点」として高く評価しています。
この結果は日本の国際外交政策や国内の軍備強化政策や、さらには平和憲法の改正などへ大きな影響があると考えられます。
影響には日本にとって良い影響と悪い影響の双方があるでしょうが、平和が来るという事が最大の良い結果です。
ですからこそ私は先日の記事で今回の南北の会談を高く評価したのです。
そして金正恩委員長の外交政策の転換を称賛したのです。
その前回の記事の題目は、「血も涙も無いと思われていた金正恩委員長の本物の笑顔に感動」というものでした。
ところがこの記事に対するコメントの多くは「金正恩は過去に何度も騙したから、信用するな!歴史の転換点などではない!」という意見でした。
そして、「側近を殺し、日本人を拉致するような極悪人の言うことは信用するな!」と言うのです。
このようなコメントは感情的なものです。現状を変えたくない臆病者のコメントです。
血も涙も無い金正恩委員長でさえ一度くらいは善いことをするのです。
極悪人でも平和をもたらす大きな善を行おうとしているのです。
今回の金正恩委員長の行動は過去の感情抜きで客観的に評価すべきです。称賛すべきです。
悪魔のような人間でも善人に豹変出来るのです。その逆も真理です。人間の本質とはそういうものです。
他人を自分が裁いてはいけません。それは神のすることです。
神が金正恩委員長を地獄に落とすか否かは人間の知るところではないのです。

私が今回のことを歴史的転換と言ったのにはさまざまな意味があるのです。
まず第一に韓国の大統領と北朝鮮の金委員長が板門店の韓国側の土地で和気藹々として会談したのです。これこそ従来には無かった歴史的事件です。
第二に朝鮮半島全土から核兵器を排除することを韓国の大統領と北朝鮮の金委員長が相互に確認し発表したのです。これも従来には無かった歴史的事件です。
そして第三に文在寅大統領は安倍総理の拉致被害の解決の願いを金委員長に正確に伝え、日朝会談の仲介をしてくれたのです。韓国は何時も慰安婦問題などで日本を非難して来ましたが、今回初めて日本のためになることをしてくれたのです。これも従来には無かった歴史的事件です。
この他いろいろありますが、今回の韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩委員長の会談は戦後73年の日本と朝鮮半島の関係におけるじ実に大きな歴史的転換なのです。
それを認めたく無いのは感情論なのです。臆病者の感情論なのだと思います。

このあとトランプ大統領との会談が順調に行けば朝鮮半島と日本に真の平和が来るのです。もしアメリカとの会談が決裂すれば日本も巻き込んだ米朝戦争になります。
どちらにしても巨大な歴史的転換になるのです。
ここで重要なことは悪人でも善いことをしようとしたら褒めることです。そうするともっと、もっと善いことをしたくなります。それが人間というものではないでしょうか?
金委員長を人間が裁いてはいけません。それは神のすることです。
親鸞は悪人でもお釈迦さまは救ってくれると言いました。弥陀は老少善悪の人をえらばず。 善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。私はそれを信じています。

今日の挿絵代わりの写真は先日、三鷹市の緑と花の公園で撮って来たヒナゲシの花の写真です。最後の写真の風に揺らいでいる薄紫色の花はアグロステンマという花だそうです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









宗教に関心があるならニコライ堂の日曜礼拝を一度は見て下さい

2018年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
佛教でもキリスト教でも、イスラム教でも、とにかく宗教というものに少しでも関心のある方はお茶の水のニコライ堂の日曜礼拝を一度はご覧下さい。本を幾ら読んでも分からない宗教の本質的な部分が簡単に理解できます。
日曜礼拝のことを日本正教会では「聖体礼儀」と言います。きらびやかな聖職者の行列と美しい宗教音楽の極致のような混声合唱で神への崇拝を示しています。人間の神を敬う深さを儀式で示すとこのようになるのです。宗教の全てに普遍的な神への憐れみを願う儀式です。キリストの聖なる体の一部を(聖体)を頂くという儀式です。

日本正教の聖体礼儀は2000年前のキリストの生きていた頃のユダヤ教の礼拝式の形式を墨守してきたのです。新約聖書は始めはギリシャ語で書かれたのです。そのギリシャ語の原典に書いてある内容を忠実に教えています。キリスト教の正統的な宗派なので正教と言います。
この宗派はギリシャからビザンチンへそしてロシアへ伝わって、1855年函館へ上陸しました。日露戦争の時、ロシア本部から独立し、日本に根付いて日本正教会という宗教法人になりました。しかし教義と礼拝形式は2000年前の通り、一切の変更無しで、まったく同じなのです。宗教の本質の一つは「永遠に変わらない」という性質を含んでいます。そのことを礼拝式を実見して体験できるのです。

しかし、少しでも宗教に関心のある人はヨーロッパで起きた宗教改革のことを知っています。各国の近代化革命も共産主義革命も知っています。アメリカ流の自由と平等な民主主義も知っています。そのような極く普通の常識人がニコライ堂の日曜礼拝を見ると非常に大きなショックを受けるかも知れません。そこには聖職者と合唱隊と平信徒の恐ろしい差別があります。神に祈る儀式の大部分は聖職者だけがします。合唱がそれを助けます。平信徒は黙って祈るだけです。
昔、ロシアには貴族と農奴しか居ませんでしたと聞きます。農奴は文盲でしたから祈祷書は読めません。代わりに聖職者が全て読みます。そんな封建時代の圧政を連想させるのです。正直に言えば、見てはいけないものを見てしまったような暗然とした気分になりました。でも次の瞬間、気が付きました。それは自分の勘違いで、会堂全体にイエス様の笑顔が見えるようです。マリア様の優しい眼差しが見えます。壁に掛けた無数のイコンのマリア様は微笑んでいるのです。
儀式の見かけ上の荘厳さは人間の弱さの表れなのかも知れません。堅苦しい儀式が、実は自分の郷里の実家に帰った時のように寛いだものに感じられるのです。
普通の日本人がニコライ堂の日曜礼拝をみるとき一番重要なことは、儀式の豪華さや厳粛さの中に漂う「マリア様の優しさ」や「イエス様の慈しみ」を想像しながら見ることと思います。
すると場違いな所に来たという感じや違和感が消えてなくなります。心から楽しめます。宗教というものに少しでも関心のある方は是非一度、ニコライ堂の日曜の聖体礼儀をご覧下さい。本には書いてない色々なことをご発見出来ると思います。

今日は日曜日なので私どもはカトリック小金井教会のミサにいきます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

写真は東京のお茶の水にあるニコライ堂で撮りました。










下記の記事は上の記事に関連した記事の一覧です。

(1)投稿日 2014年04月30日 趣味としての宗教あれこれ(7)お茶の水のニコライ堂へ遊びに行く
(2)投稿日 2009/11/30 豪華絢爛な音楽ページェントが予約申し込み無しで気軽に楽しめます
(3)投稿日 2009/11/29 今日は夫婦解散、別々の教会へ行きました (金田さんの写真が出ています!)
(4)投稿日 2009/11/25 日本正教会、伝教師、金田一豊、著「なぜローマカトリックから正教会へ帰正(改  宗)したのか」
(5)2009/11/23日本正教会、伝教師、金田一豊、著「ローマカトリック教会と正教会との教義の3つの違い」
(6)投稿日 2009/11/22 お茶の水のニコライ堂での日曜の礼拝に一般の人々も参加できます
(7)2009/11/10ニコライも偉かったが、明治の日本人も偉かった!
(8)投稿日 2009/11/09 ブログを書くための私の取材方法と写真の組み合わせ方
(9)2009/11/08私の記事は間違っていました!ロシア正教と書いたのは日本正教会です
(10)009/11/07ロシアから来た偉大な宣教者、ニコライをもっと知ろう!
(11)2009/11/06日本人のロシアへの感情とロシア正教の布教の関係
(12)投稿日 2009/11/04 ニコライ堂でロシア正教のある聖職者に偶然お会いできました


「ヒナゲシなどの花々の写真をお楽しみ下さい」

2018年04月28日 | 写真
今日は朝から晴れた素晴らしい陽気です。
午後から三鷹市の緑と花の公園に行きました。車で40分くらいの所です。
ヒナゲシが一面に咲いて心地良い風に揺れています。
その他、いろいろな花々も豊かに咲いています。
冬には何も無かった畑に春の花々が溢れるように咲いています。
季節が来るとこんなにも沢山の花が咲くのですね。
写真をお楽しみ頂ければい嬉しく存じます。













血も涙も無いと思われていた金正恩委員長の本物の笑顔に感動

2018年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム
金正恩委員長は側近の高官を冷酷にも処刑しました。韓国の延坪島を無残にも砲撃しました。実の兄を暗殺させました。何百人の韓国人と十数人の日本人を拉致しました。荒れる冬の日本海へ数百人の漁師を粗末な木造船に乗せ出漁させました。このイカ漁で多数の遭難者を出たのです。そして昨年は長距離ミサイルを連発し、核実験も実行したのです。
ですから多くの人々は金正恩委員長には血も涙も無いと思っていたのです。それは当然なことではないでしょうか?
その金正恩委員長は文在寅韓国大統領の2人だけの会談で次のように語ったと報じられています。
「(板門店まで車で来る途中で)朝鮮戦争で故郷を失った失郷民や砲撃を受けた延坪島の住民のように砲撃を怖がっている方々が、今日の南北会談に期待を持っていることを想いました」
そして私は昨日、今日のテレビニュースで金正恩委員長の本物の笑顔を見たのです。
今迄は偉そうに威張った顔しか見たことが無かった私は心中から感動したのです。
まさに歴史の転換点の場面を見て胸に熱いものが湧き上がってきました。
それは戦後73年間続いた南北朝鮮の緊張が氷解した瞬間でした。真に朝鮮半島に暖か春がやって来たのです。
それでは金正恩委員長の本物の笑顔の写真を示します。

1番目の写真は文大統領に笑顔で近寄し手をとって一緒に南北の境界線をまたいだ場面です。文大統領が「私はいつごろ(境界線を)越えていけるだろう」と話したのに対し、金委員長が「いま越えましょう」と誘い、文大統領の手を取って北朝鮮側に入った。事前のシナリオにはない演出だったそうです。

2番目の写真はその後、文大統領と金委員長が抱き合っている光景です。

3番目の写真は板門店の韓国側の徒歩の橋のベンチに座って30分間、2人だけで話合っている場面です。2人は昔からの知り合いのように寛いで楽しそうに話合っています。とても和やかで良い場面でした。同じ民族で通訳の要らない朝鮮語で喋っている様子が良かったです。

4番目の写真は記者発表をしている金委員長の笑顔です。このように活き活きした笑顔を従来見たことがありません。素晴らしい写真です。

5番目の写真は会談の前に文大統領と金委員長が笑い合いながら歩いている場面です。2人の笑い顔が暖かい空気を醸し出しているようです。

6番目の写真は昨夜の歓迎夕食会を前にした文大統領夫妻と金委員長夫妻の記念写真です。

7番目の写真は文大統領の奥さんと金委員長の奥さんの写真です。若い金委員長の奥さんが年上の文大統領の奥さんより少し後ろに立っています。長幼の序をわきまえた賢さが偲ばれます。何処かの総理大臣の奥さんと比較してはいけません。

こうして韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩委員長は会談し、年内に朝鮮戦争の終戦宣言を行い、休戦協定を平和協定に転換するため南北米、または南北米中の首脳会談を推進することで合意したのです。朝鮮半島の非核化もあらためて確認したのです。

 両首脳はこうした内容を柱とする「朝鮮半島の平和と繁栄、統一に向けた板門店宣言」を発表したのです。
 「新しい平和の時代が開かれたことを8000万人のわが民族と世界に厳粛に宣言した」として、南北は朝鮮半島で先鋭化する軍事的緊張状態を緩和し、戦争の危険を実質的に解消するため共同で努力していくことを決めたのです。

さてこの後、6月のトランプ大統領と金委員長の会談が順調に行けば、朝鮮半島は完全に終戦し、平和条約が出来るのです。
そうすると北朝鮮は日本による朝鮮併合の賠償金を要求してきます。日本は韓国に巨額の賠償をいろいろな形で支払って来たのです。
これから工業の近代化に手する北朝鮮が日本からの資金援助を期待するのは自然な成り行きではないでしょうか?
それは必ず拉致問題の解決と連動すると考えた方が良いかも知れません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「アメリカの動物愛護と菜食主義と仏教の不殺生戒」

2018年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム
菜食主義は理想的な生き方です。私はそう思いますが実行出来ません。ですから菜食だけで生きている人を尊敬しています。
私の考えを先に書けば、アメリカの動物愛護と菜食主義と仏教の不殺生戒は深い根のところで繋がっていると思います。
そこで今日は菜食主義に関連する問題をいろいろ考えてみたいと思います。
最近、ペットとして動物を飼うことが広く普及しています。ペットは人間の精神を豊かにし日常の生活をより幸せにしているのです。
そして欧米ではクジラやイルカの保護運動も盛んです。それとともに動物愛護運動も盛んに行われています。
これらの人間と動物のかかわりあいは仏教の不殺生戒とどのような関連があるのでしょうか?
今日はアメリカの動物愛護の歴史と仏教の不殺生戒にまつわる問題を考えてみたいと思います。
この関連の周辺にあるいろいろな問題を提起しているだけの記事です。明快な結論はありません。

日本では天武天皇や聖武天皇など歴代の天皇が肉食禁止令を発布した歴史があり、明治維新以前の日本人はほとんど四つ足の動物は食べていなかったのです。
ですからアメリカの動物愛護運動は歴史が浅いと言えるかも知れません。しかしそう簡単には言えないとも思います。
それではアメリカにおける動物愛護運動の歴史を簡単に見てみましょう。
以下は、http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2016/12/02/124340 からの抜粋です。
アメリカの最初の公式な動物愛護団体は1866年に設立したニューヨークのアメリカ動物虐待防止協会( American Society for the Prevention of Cruelty to Animals)ですが、同様の団体がペンシルバニアやマサチューセッツにも同時期に存在していました。
 動物愛護団体の登場の背景には様々な要因があります。産業革命以後の近代工業の進歩もそれに含まれる要因です。
人々が自然から離れていくにつれて、動物との関係へのノスタルジアが発達していったのです。
また、中産階級が経済的に余裕が出来たことにより、ペットを飼うことが以前よりも一般的になったことも理由の一つです。これは日本の経済高度成長とともにペットが広く普及してきた事情と同じです。
アメリカで動物愛護運動が始まった頃の社会では動物に対する虐待(cruelty)が広く行われていると運動家たちは考えており、彼らは全ての形の虐待に対して様々な反対運動を展開していったのです。馬の酷使などのその一例です。
動物の問題についての関心が南北戦争以前から存在していた証拠はありますが、組織的な動物愛護運動は南北戦争の直後から登場したのです。
アメリカの動物愛護には「動物の権利運動」だけでなく「動物の福祉運動」も含まれているのが特徴です。
それは19世紀の馬の酷使からの解放から最近のシーワールドでの見世物のシャチの解放までの複雑な長い歴史があるのです。

その上イギリスのインド領有に伴って、欧米でもインドの菜食主義の考えが紹介されます。ベジタリアンに対する興味が広がったのです。
ヨーロッパにも菜食主義者は居ますが、特に最近、菜食実践者の人口増加が著しいのが、アメリカ合衆国です。
最近のアメリカではベジタリアンをビーガンと言うそうです。このビーガンという呼び方はビヨンド・ミート(Beyond Meat)に由来する略語なのです。

そのアメリカのビーガン(ベジタリアン)ですが、2009年の時点でビーガンを実践している人は、アメリカ全土でたった1%程度しかいませんでした。
それが2013年の時点では2.5%に、2017年には6%まで増加し、人数にすると2,000万人近くのビーガン人口がいると推定されています。
特に若年層での増加が顕著なのです。
ビーガン(ベジタリアン)は特に若い世代に多く、アメリカでは菜食実践者の約半数が35歳未満です。
アメリカに行くとレストランには必ずベジタリアン・メニューが完備してあります。

さて中国、朝鮮や日本の食文化と佛教の不殺生戒の歴史を考えてみましょう、
以下は、http://kumamoto.lin.gr.jp/shokuniku/eiyochisiki/bukkyo/index.html らの抜粋です。
日本人の食文化史には、外国にない特徴があります。それは、おそらく仏教の肉食禁止令が何回も出されていることです。
 仏教はインドで生まれ、シルクロードを通って中国に入り、更に朝鮮半島を経由して日本に渡ってきました。
そして肉食禁止の思想が根付いたのは、極東の地日本ででした。
中国では、仏僧以外には、肉食禁止は定着しませんでした。
朝鮮半島の歴史では仏教の伝来した四世紀から五世紀にかけては肉食は自由でした。しかし 六世紀から肉食禁止が始まりました。高句麗、百済は早くから、そして最後に新羅が殺生禁止を唱えました。統一新羅の時代には殺生厳禁、魚を食べることすら禁止しました。

わが国でも、奈良時代にはかなり、動物性の食品は摂られています。しかし、平安時代の末期には、肉食禁止令が徹底します。
鎌倉仏教で一段と肉食禁止が厳しくなり、牛乳という用語が一部の文献から姿を消えます。
しかし大衆の間ではひそかに肉食は続けられていました。鳥は禁止されていなかったので、ウサギも一羽二羽と数え、みなし鳥としてひそかに食していました。しかし、国民全体の栄養状態に影響するほどの量はなく、わが国は菜食主義の国だったと言えます。

さて、そこで問題提起です。
(1)アメリカにおけるビーガンが佛教の不殺生戒と関連があるのでしょうか?関係ないようですが深い所では繋がっているようにも考えられます。
(2)菜食主義は太らないのでアメリカで流行しているのでしょうか?単純にそう理解したら間違っていると思います。
(3)人間は動物を殺すことは残酷だと素朴に感じて殺生を禁じたのでしょうか?そうかも知れませんがもっと深い理由があるのでしょうか?
(4)アメリカの動物愛護運動と日本の殺生禁止と同じ部分と違う部分はどこでしょうか?
(5)アメリカのクジラやイルカの保護は過激です。日本人はクジラやイルカを食べるのを止めた方がよいのでしょうか?
皆様のお考えをコメントとして投稿して頂けたら嬉しく存じます。

私は肉食ですが何時も菜食主義の人を尊敬しています。お寺の住職だった祖父と叔父は殆ど肉を食べない菜食でした。叔父は夏に、蚊が腕に止まるのを扇子でソッと追い払い殺しませんでした。そんなことを思い出しながら今日の記事を書きました。

今日の挿し絵代わりの写真は庭に咲き出したジャーマンアイリスの写真です。近所の上品ご婦人から、10年以上前に株を頂いたアイリスです。綺麗な声で、言葉が美しくて、何時も姿勢が良い高齢の方でした。亡くなってからもう7年になります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







金正恩さんの豹変で日本に真の平和が来る!

2018年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム
去年まで何本もの長距離ミサイルを日本越しに太平洋に打ち込んこんでいた狂気じみた独裁者の金正恩が豹変したのです。
核実験の停止とミサイル発射の停止を宣言したのです。
これはトランプさんが空母打撃群を同時に3隊も北朝鮮沖に派遣して金正恩を脅迫した結果でした。
本当に金正恩は既に実戦配備している核兵器と長距離ミサイルを放棄するでしょうか?
私は疑問に思っていました。
ところが昨日、金正恩さんが負傷した中国人の観光客を見舞い、その上、平壌の中国大使館を自ら訪問し中国から在任していた中国人大使へ遺憾と哀悼の意を伝えたというニュースが飛び込んできました。
一国のトップが外国の大使館を訪問するのは破天荒な出来事です。その上、事故で負傷した中国人観光客の手を握って勇気づけている金正恩さんの写真も大きく公表されているのです。この写真を見て私は昨年まで独裁者、金正恩と呼び捨てにしていましたが、少し礼儀正しく、「金正恩さん」と書くことにしました。
何故なら、彼は本気で核兵器と長距離ミサイルを放棄する決意だと感じたからです。
この私の個人的な勘が正しければ日本に真の平和が来るのです。北朝鮮が日本にとって投資先になり日本企業の大きな市場になるからです。北朝鮮は共産党独裁の現在の体制のまま市場経済に移行して、現在の中国を小さくしたような国になる筈です。懸案の拉致問題も解決します。

それでは昨日の産経、電子版のニュースを見てみましょう。

『金正恩氏が中国大使館訪問 北朝鮮交通事故で哀悼』2018.4.24 13:23
https://www.sankei.com/world/amp/180424/wor1804240037-a.html
まず大きな一枚の写真が掲載されています。それは事故で負傷した中国人観光客の手を握って勇気づけている金正恩さんの写真です。
(朝鮮中央通信=共同が配信した写真です)
そして以下のニュースの文章が続いています。

 中国外務省は23日、北朝鮮の黄海北道で22日夜に交通事故があり、中国人32人を含む計36人が死亡したと発表した。中国国営中央テレビのニュースサイトによると、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長は23日朝、在北朝鮮中国大使館を訪れ、遺憾と哀悼の意を伝えた。
金氏が他国の大使館を訪れるのは異例。事故から一夜明けてすぐに訪れることで、3月の中朝首脳会談で改善した中国との関係を重視する姿勢を表した。金氏は病院も訪れて負傷者を見舞い「全力で治療に当たり、中国側と協力して事故後の処理をしっかりと行う」と表明した。北朝鮮の朝鮮中央通信も24日、金氏が大使館と病院を訪問したことを報じた。
 中国国営通信の新華社によると、事故では中国人観光客の一行が乗ったバスが橋から落ちた。死者には北朝鮮人4人が含まれる。ほかに中国人2人が重傷という。中国国家衛生健康委員会は23日、医療チームの北朝鮮派遣を発表した。(共同)・・・・・

以上のニュースは北朝鮮が中国に非常に強い親近感を感じていることを示しています。そして北朝鮮が中国を手本にして市場経済体制に移行したいことを暗示しています。
6月に予定されているトランプ大統領との会談で北朝鮮とアメリカは、1950年の朝鮮動乱以来続いている戦争状態を停止し平和条約を作る可能性が大きいのです。
そうすれば北朝鮮は外資導入をし、国内の工業を活性化する筈です。勿論、北朝鮮は日本企業にとっても大きな市場になります。懸案の拉致問題も解決します。

その結果、東アジアには真に平和な時代がやって来るのです。そこには巨大な中国と日本があり、少し経済規模の小さな韓国、台湾、北朝鮮、ロシア(極東地区)という独立国が経済関係を強めながら平穏な世界の一地方になるのです。そしてこの地域はアメリカ、カナダ、オーストラリアとの経済的結びつきが非常に重要になって来るのです。
経済的結びつきは戦争防止の強力な保険です。
上の方で、私が「真の平和」と言っているのはこのような意味の平和なのです。

さて今日の挿し絵代わりの写真は人間が育てた藤の花の写真2枚と、山に自然に咲いている藤の花の写真3枚です。
栽培した藤の花の色は鮮やかです。一方、山に自然に咲いている藤の花は何とも言えない美しい淡い藤色です。山の藤の写真は中央高速道路の藤野サービスエリアの後ろの山の写真です。一昨日撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









失われた時をもとめて、旧甲州街道を彷徨う(1)鶴川宿と上野原宿

2018年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
過ぎ去った時代を想像して懐かしく想う。古い街道をさまよって失われた時を探しもとめる。何故か心が静かになり空色の幸せな気分になる。それが老境の私の趣味です。
妻籠宿、馬籠宿、奈良井の宿、そして大内の宿は何度も行って静かな幸せな気分で帰って来ました。
そこには素晴らしい宿場町が完全に保存されています。でもあまりにも遠方なのです。
晴れた日の午後に気楽に出掛けるわけにはいきません。
しかし考えてみると近くにも古い街道もあります。日本橋から下諏訪までの江戸五街道の一つの旧甲州街道です。
宿場町は中山道の奈良井の宿と異なり完全には保存されていません。しかし街道沿いの家々は軒の長い旅籠風に建てられたものが多いのです。そして江戸時代の本陣も保存、公開してあります。
昨日は久しぶりに旧甲州街道の鶴川宿と上野原宿まで行ってきました。交通の辺鄙な鶴川宿には江戸時代の旅籠風の家々があります。懐かしい風景です。一方、上野原町は鉄道の駅が出来て発展しました。旧甲州街道には商店が立ち並び江戸時代の風情は消えています。
ただその時代から続く「酒饅頭」を作っている店が数軒あります。過ぎ去った時を求めて永井酒饅頭店から素朴な酒饅頭を沢山買って帰りました。そんな老境の趣味を昨日撮ってきた写真で示します。

1番目の写真は旧甲州街道の宿場の位置を示した地図です。昨日行った鶴川宿と上野原宿は山梨県で、この地図の真ん中近くにあります。甲州街道は徳川幕府が設置した街道の一つで江戸と甲州を結んでいます。関東地方の五街道は甲州街道、奥羽街道、日光街道、中仙道、東海道です。旧甲州街道は現在の甲州街道とほぼ同じところを通っていますが、その小佛峠は現在の甲州街道の北です。それに相模湖は江戸時代には無かった人造湖なので、相模湖宿は存在しません。それに相当する場所には小原、与瀬、吉野の宿が置かれていました。

2番目の写真は鶴川宿を示す石碑です。鶴川宿は現在の甲州街道の上野原町を通り過ぎて上野原警察署の前の切通しの坂を下り、右折して鶴留川の川原の方角へ下ります。この下る道が旧甲州街道です。鶴川の橋を渡った処に写真に示したような「鶴川宿」という石碑が立っています。宿場はこの石碑から坂道を登った場所にあります。

3番目の写真は現在の鶴川宿の風景です。特に保存した宿場町ではないので普通の民家が並んでいるだけです。しかし現在の甲州街道から別れているので車の往来も無い静かな所です。

4番目の写真は旧甲州街道から分れた昔の風情が残っている道の写真です。白壁の家と倉が旧懐の情を起こさせます。

5番目の写真は旧街道に面した家の写真です。最近改築したような家ですが2階の軒を街道の方向に長く伸ばして作ってあります。このような構造は江戸時代の宿場の旅籠の建物の特徴です。このような家は旧甲州街道のあちこちに沢山あります。21世紀になっても江戸時代の旅籠の形が残っているのです。何故か心が静まります。

6番目の写真も軒を街道の方向に伸ばした家です。本来なら1階には軒が無く2階の軒だけを長く伸ばすものです。軒下の2台の車は江戸時代には無かったものです。

7番目の写真は鶴川宿の本陣と考えられる立派な門のある家の白壁の倉です。甲州街道は甲州や信州などからの参勤交代の行列が通った道でした。甲府城に詰める甲府勤番や八王子千人同心の武士達が江戸への往復で通った道です。また江戸庶民が富士講に通った道でもありました。そして幕府御用達の宇治茶を江戸まで届けるお茶壺道中も通ったそうです。
そんなことを想いながら鶴川宿を散策して来ました。

8番目の写真は鶴川宿から江戸に向かい次の上野原宿の現在の旧甲州街道の風景です。ここは明治に鉄道が通ったお陰で江戸時代の風情は消えてしまいました。シャッターを下ろした商店の並ぶ淋しい街道町です
しかし3、4軒の酒饅頭を作っている店だけは健在です。

9番目の写真は古い永井酒饅頭店の写真です。上野原を通うれば必ず酒饅頭を買う店です。甘い物が好きだった家内の父へお土産として買った店です。何十年もの間、変わらず素朴な酒饅頭を作っている創業いらい100年以上の店です。昨日も10個買い今朝は朝食としてコーヒーと共に食べました。酒麹で発酵させた分厚い皮が美味しいのです。江戸時代の味です。

それはさておき最後に旧甲州街道の45の宿場町を書いて置きます、
日本橋、内藤新宿、下高井戸宿[杉並区]、上高井戸宿[南烏山]、国領宿[調布市国領町]、下布田宿[調布市布田]、上布田宿[調布市布田]、下石原宿[調布市下石原]、上石原宿[調布市上石原]、府中宿[府中市宮町]、この後で多摩川を渡ります。
日野宿[日野市日野本町]、横山宿[八王子市横山町]ここで現在の甲州街道と分けれ裏高尾の道に入って行きます。

駒木野宿[八王子市裏高尾町]、難所の小仏峠[八王子市裏高尾町]、小原宿[神奈川県相模原市緑区小原]、与瀬宿[緑区与瀬本町]、吉野宿[緑区吉野]、関野宿[緑区小渕]、上野原宿[山梨県上野原市上野原]、鶴川宿[上野原市鶴川]、野田尻宿[上野原市野田尻]、犬目宿[上野原市犬目]、下鳥沢宿[大月市富浜町鳥沢]、上鳥沢宿[大月市富浜町鳥沢]、猿橋宿[大月市猿橋町猿橋]、駒橋宿[大月市駒橋]、大月宿[大月市大月]、下花咲宿[大月市大月町花咲]、上花咲宿[大月市大月町花咲]、下初狩宿[大月市初狩町下初狩]、中初狩宿[大月市初狩町中初狩]、白野宿[大月市笹子町白野]、阿弥陀海道宿[大月市笹子町吉久保]、黒野田宿[大月市笹子町黒野田]。

此処から難所の笹子峠道になります。笹子峠[大月市笹子町黒野田]、駒飼宿[甲州市大和町日影]、鶴瀬宿[甲州市大和町日影]、勝沼宿[甲州市勝沼町勝沼]、栗原宿[山梨市上栗原]、石和宿[笛吹市石和町市部]、甲府柳町宿[甲府市城東]、韮崎宿[韮崎市本町]、台ヶ原宿[北杜市白州町台ヶ原]、教来石宿[北杜市白州町下教来石]、蔦木宿[富士見町落合]、金沢宿[茅野市金沢]、上諏訪宿[諏訪市諏訪]、下諏訪宿[下諏訪町]

これらの宿場町は私の甲斐駒岳の麓の山林の中の小屋への行き帰りによく通って写真を撮ってあります。
それらの宿場町を連載として今後ご紹介したいと思います。皆様も江戸時代に帰った思いでお楽しみ頂けたら幸いです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


藤田嗣治画伯の愛国心と悲劇、そして神の愛

2018年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
フランスで有名な藤田嗣二画伯は1886年に東京で生まれ 1968年にスイスで死にました。享年82歳でした。お墓はパリの郊外にあります。
彼の生涯を考えてみると次の3つの時期に分けられると思います。
(1)フランスで活躍し、「乳白色の肌」の裸婦像などで絶賛を浴びた時代
   (1913年、27歳で渡仏、1940年帰国)
(2)帰国し、戦争中に陸軍美術協会理事長として率先して戦争画を描き国威発揚に活躍していた時代
(3)戦後、フランスに逃げ、フランスの国籍を得て洗礼を受け、宗教画を描いていた時代
  (1949年渡米、フランスに行き帰化、1968年に死去)
今日の記事で私が主張したいことは、偏狭な愛国心は危険な愛であり、一方神の愛は人間に真のやすらぎを与える愛だという事実を主張したいのです。天才画家の運命も例外ではありませんでした。
フランスで画家として活躍し絶賛を浴びた後、帰国し、軍部に協力したのです。そしてその偏狭な愛国心は敗戦で挫折します。
戦後はフランスに逃れ、神の愛を知り洗礼を受け、幸せな晩年を過ごしたのです。
彼の一生は毀誉褒貶の多い波乱万丈の一生でした。
それでは上に書いた(1)、(2)、(3)の3つの時期の藤田嗣二画伯の作品を見てみましょう。

1番目の写真は「乳白色の肌」の裸婦像です。この乳白色は彼独特の手法で描いたもので、彼が一躍有名になったのもこのような裸婦画のせいでした。

2番目の写真は彼の婦人画の一例です。裸婦画でない普通の絵画でも彼の画家としての天才ぶりを発揮していたのです。

3番目の写真は1941年の、「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」と題する大きな油彩です。ノモンハン事件で戦死した遺族の依頼で藤田画伯が描いた戦争画です。

4番目の写真は日本軍が初めて玉砕をした、「アッツ 島の玉砕」の油彩です。
この絵画がアッツ島陥落後に東京で展示された時、藤田画伯は軍服のような国防色の服を着て、この絵画の前に立ったのです。
そして彼はこの絵の前に遺族の弔慰金の募金箱を置き、観覧に来た人々からの浄財を集めていたのです。 人々が弔慰金を入れると藤田画伯は丁寧に敬礼をして感謝していたそうです。

5番目の写真は秋田の七夕祭りの様子を描いた非常に大きな絵画です。絵の前に並んでいる人間の大きさと比較してご覧ください。秋田に長期間滞在して描いた大作です。彼は日本の平和な風景も描いていたのです。

6番目の写真はランス市のシャンパン製造会社のルネ・ラルー社長の支援で藤田画伯が建てた「平和の聖母礼拝堂」です。

7番目の写真は藤田画伯の描いた「平和の聖母礼拝堂」の壁画です。戦後は日本の国籍を捨てカトリックの洗礼を受け、教会の壁画とステンドグラスの原画を心静かに描いたのです。
レオナール藤田嗣二も人生の終り頃は神を信仰し、平穏な老境だったのです。
多くの日本人画家は印象派の真似をしますが、レオナーレ・フジタだけは真似をせず独創的な芸術を創ったのです。その作品は彼の思想や私生活とは関係なく、現在でも世界中で高く評価されています。

しかしそれにしても、何故、レオナーレ藤田は大日本帝国陸軍の要請で陸軍美術協会理事長になり数多くの戦争画を描いたのでしょうか?その原因を考えてみます。
彼の父は森 鷗外が就任していた陸軍軍医総監という役職についていました。それは陸軍中将相当の地位だったそうです。
兄の嗣雄の義父は、陸軍大将児玉源太郎です。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野がいました。
幼少のころから陸軍特有の偏狭な軍国主義の雰囲気の中で育ったのです。藤田嗣二はもともと軍国主義者だったのです。ですから戦争画を描いた原因が理解できます。
その上、パリで絵描きと成功すればするほど藤田は内心では日本人としてのアイデンティティーを思い悩んでいたに相違ありません。
1940年に帰国し、陸軍からの要請で戦争画を描いたのは自然な成り行きです。彼は間違いなく率先して戦争に協力したのです。
一般的に言えば愛国心は非常に重要な愛の一種です。しかしその中身が問題です。
私自身は強い愛国心を持っていますが、いつも偏狭な愛国心だけは避けてきたつもりです。
それでは偏狭でない愛国心とは何でしょうか?それは人類愛に裏打ちされた愛でなければなりません。人類はみな平和に幸せに暮らすべきだという思想が裏にあり、表では自分が生まれ育った国を大切に思うような愛国心です。それは戦争を拒否する愛です。
この人類愛はキリスト教の神の愛と共通するのです。
戦後、日本で戦争協力者として迫害された藤田画伯はフランスに逃れ、そこで神の愛を知ったのです。

戦後、占領軍は藤田画伯を戦犯として逮捕するという噂におびえて知人宅に潜んでいたそうです。
逮捕はまぬがれましたが、彼の心をひどく傷つけた のは人々の執拗な非難でした。とくに特高にいじめられた共産主義者の非難は陰湿で耐えられなかったようです。
そしてついにフランスへ亡命するように逃れ、1955年にはフランス国籍を取り、日本人でなくなったのです。1957年にはカトリックの洗礼を受け、名前もレオナーレ・フジタと称したのです。しかしフランスのマスコミも戦争協力者の藤田画伯には冷ややかだったそうです。
所詮、人間の愛は儚いものです。しかし神の人間を愛する心は永遠なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===レオナーレ・フジタに関する参考資料=====
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、Léonard FoujitaまたはFujita, 1886年11月27日ー1968年1月29日)は東京都出身の画家・彫刻家。現在においても、フランスにおいて最も有名な日本人画家である。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家である。
藤田嗣治は、1886年(明治19年)、東京市牛込区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。
父・藤田嗣章(つぐあきら)は、陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。
義父は陸軍大将児玉源太郎である(妻は児玉の四女)。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野が、従兄には小山内薫がいる。このように父や義父が陸軍の中将や大将であったので自然軍国主義者になったのだと思います。
第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国した。
フランスに長らく暮らし欧米の事情に通じていた藤田とて、緊迫の一途をたどる当時の政治情勢に逆らうことはできず、日本においては陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年この戦争協力による批判に嫌気が差して日本を去った。また、終戦後の一時にはGHQからも追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もあった。
1949年にフランスに逃げた藤田は、1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。
1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死去した。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクルに葬られた。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。
以上の文章の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%97%A3%E6%B2%BB です。

「都立薬草植物園の季節の花々の写真」

2018年04月22日 | 写真
先週、撮って来た花々の写真です。
順々に、1赤いボタン、2白いボタン、3ポピー、4紋付ヒナゲシ、5ハナビシソウ、6シロバナシラン、7アイリス です。
今日の午前中は教会のミサに行きました。午後はこのような花々の写真を見て楽しく過ごします。
お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。













「今年も裏高尾に分け入り新緑の桂の林の写真を撮る」

2018年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
裏高尾には約1400本の桂の木を昭和3年に林野庁が植えた見事な桂林があります。現在でも林野庁が木道を整備し、一般へ公開している場所です。
今年も、昨日の午後カメラを持って明るい緑の桂の林の光景を撮って来ました。
桂は私の大好きな木です。1980年に自宅の庭に植えたら成長が早くすぐに大木になってしまい困ったことになりました。折角、成長しましたが、泣く泣く切ってしまった苦い経験があります。
それ以来、山の桂を見つけて鑑賞することにしました。桂は秋になると美しく黄葉して,甘い独特の芳香を放ちます。
神代植物公園にも桂の林があります。
そんなことを考えながら今年も明るい緑の桂の林の光景を撮って来ました。
毎年同じ風景の写真を撮れる幸せを噛み沁みながら散策して来ました。
新緑の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「今年の藤の花の写真をお楽しみ下さい」

2018年04月20日 | 写真
季節の移り変わりは早いですね。
ついこの間、桜が散ったと思っていましたらもう藤の花が咲いています。先程、都立薬草植物園に行ってその写真を撮ってきました、
裏の雑木林の散歩道も良かったです。もうすぐ皐月です。
風薫る五月も間も無くやって来ます。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。





共産主義が日本へ与えた深い影響、その三

2018年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前の日本は軍国主義のせいで自由がありませんでした。戦後は日米安保の枠組みでアメリカの政策へ反対する自由がありませんでした。特に日本が経済成長を達成するまでは経済的にもアメリカに隷属していたのです。1980年頃、鄧小平が実権を握るまでの中国は貧しい国だったのです。
このような日本の社会の状況では共産主義は若者の憧れでした。共産主義国家の実態を知らない日本の若者にとって、共産主義は自由を与えるものと見えたのです。たとえそれが幻想だったとしても共産主義は若者の自由の砦のように誤解されていたのです。
国家や社会による束縛を嫌う若者たちにとって、共産主義は若者たちを自由へ解放するイデオロギーだったのです。
このような書き方は戦前、戦後の日本の社会の閉塞感を知らない人々にとっては理解しがたいものです。
そこで今日は北海道帝国大学のある学生が軍人の指導に反発して共産党に入党した実例をご紹介いたします。その若者の辛い一生の物語です。

話が回りくどいことをお許し下さい。
小生は淋しい山林の中に小屋を持っています。もう45年間も通っています。そこは高級別荘地とはあまりにも違い、自然がいっぱいある淋しいところです。鹿や猪や猿が走りまわっている山奥です。
その一帯には質素な小さな別荘も沢山あります。水道は自家水道でガスはありません。
そんな場所なので小屋の価格が格安なのです。そいう所にはお金持ちは来ません。つつましい生活から貯金をした人が自然の中で過ごすという大きな夢を持ってやって来るのです。横浜や東京からやって来ます。とにかく皆がロマンチストなのです。移住して住み着いた人もいます。
移住したある男性は北海道帝国大学で軍部の指導に反発して日本共産党に入党したのです。そして共産主義者として生涯を送ったのです。

1番目の写真は彼の住んでいた別荘の前に広がる牧草地の風景です。
彼は東京を離れ、山梨の甲斐駒の見える所に家を建て、この牧草地のすぐ隣に独りで住んで居ました。彼とは20年以上付き合いました。そして2012年6月に会ったのが最後になってしまいました。
私の小屋の近所をよく散歩していたので、時々会いました。いつもニコニコしていて、優しそうな老境の人です。その風貌が善良そうでした。雑木林の中を独りで歩く様子に気品があり、背筋が通ったような雰囲気でした。
時々、私の小屋に寄ってくれました。いつものように椅子をすすめ話します。
山に来たら、前歴や職業のことを聞くのは御法度です。ですから20年以上彼と交流がありましたが、何をしてきた人なのか一切分かりませんでした。
ところがある時、彼が自分の前歴を話し出したのです。ニコニコしながら、「私は共産主義者でした」と静かに言います。
大正13年生まれ。都内の旧制中学、旧制高校を卒業後、山岳部のある北海道帝国大学へ進みます。中学時代から山岳部で登山をしていたので山岳部のある大学を選んだのです。
その北国の大学で共産主義に出合うのです。純粋で、ロマンチストの彼は乾いた紙が水を吸うようにすっかり共産主義を吸いこんでしまったのです。丁度、第二次世界大戦の始まった頃でしたので軍部は北大の学生に飛行場建設の作業を命じたのです。
彼はこの命令に反発を感じました。軍部独裁の風潮へ反発したのです。当時の若い彼にとっては共産党に入って軍国主義に反対する決心をしたそうです。
卒業は終戦直後でしたが、すぐに東京の代々木の共産党本部へ行って入党してしまったのです。そして代々木の本部で生涯働きました。徳田球一さんや、野坂参三さんや、志賀義雄さんなどの部下として働いたのです。この3人の性格の違いを面白おかしくいろいろ話してくれました。
しかし戦後は軍部に代わってマッカーサーが共産党を弾圧しました。当然、彼は日本の官憲に追われ、おちこちへ逃走する生活だったそうです。しかし彼は一度も捕まらずに逃げおおせたと言っていました。
彼の学生時代は下宿生活でした。札幌で下宿していた家のお嬢さんと結婚します。
しかし官憲の取り締まりが奥さんの親族全てに及ぶのを見て、離婚を決意します。
戦前は「主義者」が親類に一人でも居ると一族が酷い目に会う時代だったのです。戦後の日本の官憲の取り締まりも同様だったのです。
思わず長話になってしまいました。
フッと気が付くと周りの林に夕闇がせまっています。足元が暗くなると危ないので、家内とともに彼を小川の渡り場の所まで送って行きました。
「またお会いしましょう!」と言って別れました。小川の向こうの雑木林の中に彼の後ろ姿が次第に小さくなって行きます。彼が帰る道だけがほの白く見えます。
2012年6月に、パンが好きだという彼に、家内が東京で買ったパンを届けたことがありました。彼は留守中でしたが、すぐ私達の小屋へお礼を言いに来ました。そして「ボケ」が進んできたので、間もなくお別れになるかも知れないと言います。
彼に会ったのはそれが最後になりました。
2012年の7月に山小屋へ行った時、彼の意識が混濁してしまったので救急車で病院に入ってしまったと近所の人から聞きました。その後、遠くの病院に行ってしまったのです。もう二度と会えません。

2番目の写真は雨戸の閉まっているその後の彼の家です。

3番目の写真は彼の家の前の牧草地から撮った甲斐駒岳の風景です。彼を偲んで2014年の4月8日に撮った写真です。大正13年生まれなので、生きていれば95歳になる筈です。時々、彼の思い出を懐かしんでいます。

今日ご紹介したある共産党員の話は一例に過ぎません。日本の戦前、戦後の若者たちが共産主義に魅力を感じたのは当時の社会の閉塞感が原因だったのです。それに比べ現在の日本の社会の自由さは素晴らしいと思います。現在の日本の若者は自由でのびのびとしています。戦前、戦後のように共産主義に憧れる若者は非常に少なくなりました。
その上、日本共産党は綱領から暴力革命路線を廃棄したのです。良いことです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

アッツ島玉砕とアリュート族の日本への抑留の悲劇

2018年04月18日 | 日記・エッセイ・コラム
産業革命以来、欧米諸国には近代工業が発展します。それにしたがうように世界の少数民族がつぎつぎに消えて行ったのです。
多様な民族文化も消滅しました。これはどうしようもない歴史の必然です。しかし悲しいことです。
そして消えて行く少数民族に限りない哀惜の念が湧いてきます。
そんな理由で今日はアッツ島に住んでいたアリュート族の苦難の運命を取り上げてみたいと思います。

1943年6月にアッツ島の玉砕があり、日本兵2,638名が戦死しました。第二次大戦の初めての玉砕だったので、その詳細は広く知られています。
日本軍の1942年6月の占領から玉砕に至る経緯は、「https://ja.wikipedia.org/wiki/アッツ島の戦い 」に詳しく掲載されています。
その一方、アッツ島の原住民、アリュート族を襲った悲劇はあまり知られていません。
今日はアッツ島のアリュート族40人の北海道の小樽への強制連行とその後の24人の死の悲劇をご紹介したいと思います。
もともとアリューシャン列島には少数民族のアリュート人が住んでいました。ロシア皇帝がベーリング隊をその地域の探検に派遣して以来、アリュート族はロシア人の迫害にあったのです。
ロシア人が行く以前には、25000人以上のアリュート族がアリューシャンの島々に住みついていたと言われています。それが1700年代の後半には1000人前後に減ってしまったと記されています。(白崎謙太郎著、「明治・海・2人」、2018年出版)
ロシアは島々にロシア正教を押し付けロシアの領土にして疫病を持ち込んだのです。それはスペインの南米征服に似た現象でした。
列島を完全にロシアの領土にした後で、1867年にロシアはアリューシャン列島とアラスカをアメリカへお金で売り渡したのです。
ですから現在はアリューシャン列島とアラスカはアメリカの領土です。
しかしアメリカ政府はアリューシャン列島とアリュート人達をほとんどかえりみなかったのです。
このアッツ島の原住民については、http://www.campus.ouj.ac.jp/~stew_hon/HTML/aryu-to01.html に詳しく報じてあります。
以下はその抜粋です。
まずは地図をご覧下さい。

1番目の写真はカムチャッカ半島からアラスカ半島に弓なりに並んだアリューシャン列島も地図です。

2番目の写真は夏のアッツ島の風景です。短い夏には草花も一面に咲いています。

3番目の写真は寒い時期のアリュート族の一家の写真です。衣類は全てアザラシやオットセイやラッコの皮です。

4番目の写真は夏の季節のアリュート族の一家の写真です。アザラシやオットセイやラッコの皮の衣服を脱いでいます。
アリュート族は蒙古族が1万年以上前に東進したものでカムチャッカ半島に住む少数民族に近いと言われています。

さて日本軍は列島の東側のダッチ・ハーバーを1942(昭和17)年6月の4日と5日に空爆しました。続いて日本軍は6月8日に列島の西端アッツとキスカの両島に上陸し占領したのです。キスカ島には数名の米海軍の気象観測員しかいませんでしたが、アッツ島には42名のアリュート人が住んでいました。
 日本軍の侵攻にともない威嚇発砲の流れ弾が当たったことが原因に1人の女性が死にます。
占領の間に老衰のために1人の男性が死にます。
そしちて1942年の9月に日本軍は40名のアリュート人を小樽へ強制的に連行したのです。
 そのいきさつや、小樽での生活については1980年になってやっと公表されました。
『諸君』12-10、1980 に「昭和十七年・小樽・四十名のアリュート人」という記事が掲載されたのです。
また1980年の『法学セミナー』には「アリュート民族と戦後補償」という記事も出ます。
そして『中国新聞』1995年8月31日には「アリュート人と日本」という記事も掲載されたのです。
このようにアッツ島の40人のアリュート人の強制連行の悲劇は1980年まで多くの日本人は知らなかったのです。
その原因はアメリカ占領軍のGHQの報道規制によるのではないかと考えられます。

さて捕虜ではなく、強制連行されたアリュート人は小樽警察外事課の管轄におかれ、接収された民間の家で寝起きしていました。
警官が交代して監視していたアリュート人の行動はある程度自由だったようですが、生活の詳細は知られていません。
戦後、アリュート人は週6日の強制労働があったと訴えていますが、その証拠は、小樽には無いそうです。
進駐軍の追及を恐れて当時の記録は敗戦のときに処分されたので、公式の情報は現存しないのです。
アリュート人は近いベントナイト採掘場で1日1円をもらって働いていたといいます。
それよりも食事が悲劇をもたらします。
アリュート人はアッツ島では高タンパク質・高カロリーの海獣を食事にしていました。しかし小樽では1日に茶碗2杯分の米とわずかなおかずしかなく、彼らは常に空腹に苦しんでいたのです。
 このような貧しい食料事情も関係して、結核菌保持者だったアリュート人の10数名が発病して、アメリカへ帰国する1945(昭和20)年9月まで、強制連行された40名の40%にあたる16名が小樽で死亡した。そのほかに、小樽で生まれた5人の赤ちゃんの4人が死亡した、という悲惨な状況だったのです。

 敗戦とともに解放されたアリュート人の試練はそのあともつづきます。1945年にアメリカへ帰国した25名のアリュート人は故郷のアッツ島にかえることが許されず、病人は病院に収容され、子どもは全寮制学校に、大人たちはアッツ島から800キロも離れているアトカ島に強制的に移されてしまったのです。

 1995年の8月、抑留されていた1人のアリュート人ニック・ゴロドフさんが、高木健一法律事務所主催『戦後補償国際フォーラム‘95』に参加するとともに50年ぶりに小樽を訪れます。
長橋病院(現国立療養所小樽病院)に保管されている自分のカルテ、そして小樽で亡くなった父などのカルテを見ることが目的でした。病院でアリュート人を対象に人体実験が行なわれていたとゴロドフさんもアリュート人一般も信じているのです。
アリュート民族の代表団体アリュート協会の会長も人体実験があったという公式見解を表明しているほどです。


5番目の写真はアリュート人は収容された若竹町(現勝納(かつない)町)にあった2階建ての木造施設の写真です。
写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/hattor123inakjima/34323369.html の北海道新聞の記事です。
記事の題目は、「消えた外国人 戦時の抑留、4、アリュート 異郷で病魔 犠牲次々」でした。

この記事の内容に次のような文章があります。
・・・戦後、当事者のアリュートらから聞き取りを行った放送大学のスチュアート・ヘンリ客員教授(民族学)=東京都=はアリュート
人の死亡について、食料事情の悪化が響いたとみる。「アリュートはアザラシやクジラなど高タンパク、高カロリーのものを日常的に食べていましたが、戦時中の小樽ではそうした高タンパク源はほとんど手に入らなかった」
仲間を亡くしたアリュートは大八車にひつぎを乗せて全員で火葬場に向かった。その痛々しい光景が何度も繰り返された。
 
救いもあった。スチュアート教授は言う。「43年から帰国まで担当した(小樽警察署の)鹿内武四郎巡査は夫婦で親身になって自分たちの世話を焼いてくれたと聞きました」
鹿内夫妻は食料の調達に奔走。結核が彼らの命を脅かしていると分かると、療養所の医師を訪ね、食事療法を学んで帰った。それでも結核の悲劇を防ぐことはできなかったが、夫妻の苦労はアリュートたちにもおのずと知れていた。・・・

以上がアッツ島に住んでいた40人のアリュート人の悲劇の物語です。
産業革命以来、欧米諸国には近代工業が発展し、世界の少数民族がつぎつぎに消えて行ったのです。今日の話はその一例の具体的な経緯なのです。近代文明の発達とともに少数民族が消えて行くのは歴史の必然とは言いながら淋しいです。悲しいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

肉体の老化は防げないが精神の老化は簡単に防げる

2018年04月18日 | 日記・エッセイ・コラム
高齢になればなるほど肉体は老化します。これは自然界の生物と全く同じです。その老化を防ぐことは大変難しいものです。
しかし精神の老化は気の持ちようで実に簡単に防げます。
今日は私が実行している5つの具体的な方法をご紹介したいと思います。
(1)絵画や音楽の好きな分野を出来るだけ広げるように努力します。
例えば絵画と言えば、日本画にも水墨画から色彩明瞭な琳派の絵まで多種多様あります。その上西洋の油絵にも中世の暗い宗教画やルネサンス期の明るい絵画もあります。印象派や抽象画もあります。
油絵に関してば、印象派の絵画しか興味が無いという態度では精神の老化がどんどん進みます。
例えば抽象画にも興味を持ちます。
ここに、Piet Mondrian(Netherland,1872-1944)の抽象画を3枚とWassily Kandinsky(1866-1944)の絵画を2枚示します。
これらの絵画の出典は、http://fennser.pixnet.net/blog/post/9866898-flash-art---mondrian-部落格藝術時鐘%28向抽象藝術 です。









これらの絵画に関する説明は省略して、話を進め、精神の老化を防ぐ方法の2番目の方法を紹介します。

(2)常に新聞やマスコミを見て国際関係の変化に好奇心を持つ。
国際関係といえば韓国や中国のことだけではありません。西洋の国々の関係にも好奇心を持つのです。中東の戦乱やアフリカの情勢にも好奇心を持つのです。日本人はとかくアメリカと中国に関心を持ちます。しかし世界にはもっと沢山の国々があって、それらが全て複雑に関連しています。複眼の目を持って好奇心を絶やさないで考えることが精神の老化を防ぎます。

(3)狭い分野の読書だけにふけっていると老化します。広い分野の読書をして精神の老化を防ぎます。
高齢になるにしたがって読書が面倒になります。本を読まなくなります。そして自分の興味の狭い分野だけの本を読むようになります。
本の分野には、日本の古典、欧米の文学作品から現代の小説、詩、和歌、俳句とジャンルが広いものです。
どれか一つだけに興味を持たないで広く、浅く読むようにします。それには新聞の文芸欄が便利です。時々素晴らしい俳句や詩を発見することがあります。面白い時事川柳もあります。日曜日には新刊の本の書評もあります。

(4)体が動かなくなってもスポーツには好奇心を持ち続けると精神の老化を防げます。
それには新聞やテレビのスポーツ関連の報道をみることです。我が家では幸いにも家内がスポーツなら何でも好きです。頼まなくても解説してくれます。ですから私も大谷のアメリカでの活躍ぶりを良く知っています。先の平昌オリンピックでのフィギアスケートの詳細も面白かったです。ジャンプやノルデックの結果も興味を持って見ていました。
その上、日本のプロ野球で今年はDeNAが優勝しそうなことも知っています。
テレビでゴルフもボクシングも見ます。そして人間の限りない運動能力に感動しています。精神の老化を防いでいます。

(5)全てのことを前向きに考えます。明るい希望を持って考えます。すると精神の老化を防げまます。
マスコミにはいろいろな犯罪や政治家の汚職や天災などの暗いニュースが絶えません。
私はまず犯罪の被害者に心を寄せます。同情します。
しかし悪いことをした人にもいろいろな事情が重なっているものです。ですからその悪人を憎まないようにします。「人を裁いてはいけない。裁くのは神のすることだ」という句を口のなかで言います。自分の精神が安定します。
しかし稀には極秋非道な犯罪人というような場合もあります。このような人は発達障害者です。胎児の間の脳機能のある部分の発達が正常でなく総合失調症などの障害が残る場合があります。
古い話で恐縮ですが戦後すぐに金閣に放火して全焼させたいた若い修行僧がいました。京都府警が逮捕して取り調べましたが、放火の動機が分からないのです。そこで修行僧は発達障害の総合失調症だったという説があります。私はアスペルガー障害などの発達障害をかなり深く調べたことがあります。ですから金閣の放火の原因は総合失調症ではないかと考えています。もしそうならそれは天災であったとも理解出来るのです。
「人を裁いてはいけない。裁くのは神のすることだ」と呟くと心が平穏になります。明るい気分になります。こうして精神の老化を防いでいます。

以上は私の努力目標です。必ずしも完全には実行していません。いずれ精神も間違いなく老化します。そしてこの短かった邯鄲の夢も終わります。しかし終りまで明るい気分でいられそうな感じがしています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

共産主義は何故西洋のキリスト教国で生まれたか?

2018年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム
共産主義は19世紀、20世紀の世界に非常に大きな惨禍をもたらしました。
この共産主義はキリスト教の西洋世界で生まれたのです。従ってキリスト教の鬼っ子とも呼ばれることがあります。
今日は何故共産主義がキリスト教のドイツやイギリスなどの国々で生まれ、1917年のロシア革命に繋がったか少し考えてみようと思います。
このロシア革命は強大なソ連を作り、1990年の解体まで世界に数多くの戦争の原因になったのです。20世紀の世界に数知れない悲劇の原因になったのです。

まず有名な『共産党宣言』(1847年)の結びの文章をお読み下さい。
・・・最後に、共産主義者はどこでも、あらゆる国の民主主義政党との同盟と協調に努める。共産主義者は、その見解や目的を隠蔽することを、軽侮する。共産主義者は、自分たちの目的が、これまでのいっさいの社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを、公然と宣言する。(終り)

ドイツのマルクスとイギリスのエンゲルスは、1847年に次のように主張しています。
資本主義社会をブルジョワジー(資本家階級)とプロレタリアート(労働者階級)の階級対立によって特徴づけ、ブルジョワ的所有を廃止するためのプロレタリアートによる権力奪取を共産主義者の当面の目標とすべし。そうすると各人の自由な発展が、万人の自由な発展の条件となるような協同社会(共産主義社会)を形成するのです。

分かり易く言えば、共産主義とは、生産手段を企業などの私的所有から社会的所有を目指す思想です。それを実現した国家がソ連や中国や北朝鮮やベトナム、ラオス、カンボジア、キューバ、そして数多くの東欧、中央アジアの衛星国だったのです。
これらの国々の共産主義は、一党独裁と計画経済と個人崇拝などによって特徴づけられたのです。

さてこのような共産主義は何故キリスト教国で生まれたのでしょうか?
結論を先に書けば産業革命後に生まれた労働者たちの悲惨な状態をキリスト教の組織や教会がどうすることも出来なかったからです。
資本家階級と労働者階級の間の不平等の解決にはキリスト教は全く無力だったのです。

キリスト教は人間の平等と自由を盛んに叫びながら労働者たちの悲惨な状態を助けることが出来ません。
キリスト教を基盤にした西洋の国々の人は何か新しい考え方で資本家と労働者の不平等を解決しようとしました。
西洋の社会には自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、ギルドの親方と職人、のような差別が厳然と存在し、それをキリスト教が認めてきた歴史があります。
キリスト教は人間は平等で差別があってはいけないと教えています。その教えと現実の矛盾が産業革命で拡大したのです。
そこで、いっさいの社会秩序の暴力的転覆によって一挙に解決しようとしたのが共産主義だったのです。

私はカトリックの信者です。その立場の観点から考えると共産主義者は2つの大きな間違いをおかしています。
(1)人間の平等と自由とは、あくまでも神の前での平等と精神の自由を意味しているのです。この世で人間が社会生活をしている限り完全な平等がある筈がありません。職場での上下関係や貧富の差は常に存在します。
人間が完全に平等になれるのは神の前に並んで立った時だけなのです。
それだけではありません。共産国家でさえ大きな不平等が厳然と存在します。共産党員と一般人、党員の中の序列の上の者と下の者、汚職が出来る権力者と下級党員、都会に住む人と農民、上級軍人と兵士、などなど実に多くの不平等が存在するのです。
所詮、人間は神の前でしか平等になれないのです。
(2)共産主義では社会秩序の暴力的転覆、すなわち武力革命を実行します。
これはキリスト教の「汝殺すなかれ」という基本的な教えと完全に矛盾しています。どんなに目的が立派でも武力を用いてはいけないと教えているのです。
イエス・キリストは、彼の教えが分かり易く正しいものだったのでユダヤ社会で有名な人気者になりました。イエス・キリストを尊敬する人々の一部は彼がユダヤをローマの支配から解放してくれると期待しました。軍事的にローマの総督を追い払いユダヤの独立を達成してくれると期待した人もいたのです。
しかしイエスは言明します。私はユダヤの王ではない。そう言って自らすすんでピラト総督の裁判を受け、十字架の上で死んだのです。墓に葬られた後に生き返り人々へ永遠の命を与えようとしたのです。
イエスはこの世で革命を起こしユダヤをローマ支配から解放することなど考えてもいなかったのです。

共産主義医者はこの点を間違ったのです。共産主義はキリスト教の限界を取り除こうとしたのかもしれません。これが共産主義がキリスト教の鬼っ子と言われる所以です。
ソ連の長期独裁者、スターリンが少年の頃、神学生だったことに粛然とします。嗚呼。

今日の挿し絵代わりの写真は信州の蓼科湖の傍にある彫刻公園の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)











==参考資料、http://redmole.m78.com/bunko/kisobunken/sengen1.html より抜粋==
(1)共産主義の原理
   ――共産主義者の信条草案――
☆ 一 問 共産主義とはなにか?
    答 共産主義とは、プロレタリアート解放の諸条件にかんする学説である。
☆ 二 問 プロレタリアートとはなにか?
    答 プロレタリアートとは、ただその労働〔力〕を売ることにだけによって自分の生活をささえ、どんな種類の資本の利潤によってでも、自分の生活をささえていない、社会階級をいう。プロレタリアートの禍福、その生死、その全生存は、労働にたいする需要のあるなし、したがって景気のよしあしや、制御できない競争の変動によって左右されるのである。要するに、プロレタリアートまたはプロレタリア階級とは、一九世紀〔以後〕の労働する階級のことである。
☆ 三 問 では、プロレタリアートは、いつでもいたわけではないか?
    答 そうだ。貧乏ではたらく階級は、いつでもいた。そしてまた、はたらく階級は、ほとんど貧乏であった。しかし、いまいったような状態でくらしていた貧乏人、労働者、すなわちプロレタリアというものは、いつでもいたわけではない。ちょうど、競争が、いつでも自由で、また無拘束であったわけでなかったのと同じことである。
☆ 四 問 プロレタリアートは、いかにして発生したか?
    答 プロレタリアートは、産業革命によって発生した。その産業革命は、一八世紀の後半にまずイギリスにおこり、それから世界のあらゆる文明国で、つぎつぎにおこったものである。この産業革命は、蒸気機関や、さまざまな紡績機械や、力織機、その他あらゆる機械装置の発明によってひきおこされた。これらの機械は非常に高価で大資本家だけが調達できたのだが、いままでの生産様式全体をかえてしまい、これまでの労働者をおしのけた。機械はこの労働者がその不完全な紡ぎ車や機(ハタ)でつくるよりは安価な、良質な商品をつくることにより、それができたのだ。こうして、これらの機械は、工業をそっくり大資本家の手にひきわたし、労働者のわずかな財産(道具、織機、等々)をまったくがらくたにした。そのため、資本家は、まもなくすべてのものを自分の手におさめたのに、労働者の手にはなに一つのこらなかった。・・・以下省略。

(2)共産党宣言
序言
一 ブルジョアとプロレタリア
二 プロレタリアと共産主義者
三 社会主義的および共産主義的文献
四 種々の反政府党にたいする共産主義者の立場
共産主義の原理
共産主義者同盟への中央委員会の呼びかけ

序言
 一つの妖怪がヨーロッパにあらわれている、――共産主義の妖怪が。旧ヨーロッパのあらゆる権力が、この妖怪にたいする神聖な討伐の同盟をむすんでいる。法王とツァーリ、メッテルニヒとギゾー、フランスの急進派とドイツの官憲も。
 およそ反政府党で、その政敵たる政府党から、共産主義だといってののしられなかったものがどこにあるか、およそ反政府党で、より進歩的な反政府派にたいしても、また反動的な政敵にたいしても、共産主義という烙印をおす非難をなげかえさなかったものがどこにあるか?
 この事実から二つのことがあきらかになる。
 共産主義は、すでにヨーロッパのあらゆる権力から、一つの力としてみとめられている。
 共産主義者がその見解、その目的、その傾向を全世界のまえに公表して、共産主義の妖怪談に党自身の宣言を対置すべき時が、すでにきている。
 この目的のために諸民族の共産主義者がロンドンにあつまって、つぎの宣言を起草した。宣言は、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、フランドル語およびデンマーク語で発表する。

第一章、ブルジョアとプロレタリア
 ブルジョアジーとは、近代資本家、すなわち社会的生産の諸手段の所有者で、また賃金労働者の雇傭者の階級のことである。プロレタリアートとは、自分の生産手段をもたないので生きるためにその労働力を売るほかない、近代賃金労働者のことである。〔一八八八年英語版へのエンゲルスの注〕
 すべてこれまでの社会の歴史は階級闘争の歴史である。
すなわち、すべての文書によってつたえられている歴史の。一八四七年には社会の前史、記録された歴史の以前にあった社会組織は、ほとんど知られていなかった。その後、ハクスタウゼンは、ロシアの土地共有制を発見し、マウラーは、土地共有制こそ、チュートン種族が歴史に出発した社会的基礎であったことを立証した。そしてしだいに、村落共同体が、インドからアイルランドまでのいたるところで、社会の原始形態であること、あるいはあったことがあきらかになってきた。この原始共産主義社会の内部的組織は、氏族の真の性質、およびそれの部族にたいする関係にかんする、モルガンの仕上げとなるべき発見によって、その典型的な形態においてあきらかにされた。この原生の共同体の解体とともに、社会は別々の諸階級、そしてついには相対立する諸階級へ分化しはじめる。私は『家族、私有財産および国家の起源』(第二版、一八八六年、シュトゥットガルト)のなかでこの解体過程をあとづける試みをした。〔一八八八年英語版へのエンゲルスの注〕
 自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、ギルドの親方と職人、つまり抑圧するものと抑圧されるものとは、つねに対立し、ときには隠然と、ときには公然と、たえまない闘争をおこなってきた。そしてこの闘争は、いつでも全社会の革命的改造におわるか、さもなければ、あいあらそう階級のともだおれにおわった。
ギルドの親方とは、ギルドの正規の組合員、すなわちギルドに所属する親方のことで、ギルドのかしらではない。〔一八八八年英語版へのエンゲルスの注〕
 以前の歴史上の諸時代には、ほとんどどこでも、社会はいろいろな身分に完全に区分されており、社会的地位はさまざまな段階にわかれていた。古代ローマには、貴族、騎士、平民、奴隷があった。中世には、封建領主、家臣、ギルドの親方、職人、《徒弟、》農奴があり、なおそのうえ、これらの階級のほとんどいずれにも、さらにいろいろの階層があった。
 封建社会の没落からうまれた近代ブルジョア社会は、階級対立を廃棄しはしなかった。それはただ、新しい階級、新しい抑圧条件、新しい闘争形態を、古いものにおきかえたにすぎない。
 けれども、われわれの時代すなわちブルジョアジーの時代の特徴は、階級対立を単純にしたことである。全社会は敵対する二大陣営に、直接相対立する二大階級にますます分裂しつつある。すなわち、ブルジョアジーとプロレタリアートに。
 中世の農奴のなかから初期の諸都市の特許市民(プファールビュルガー)が出てきた。そして、この特許市民のなかから、ブルジョアジーの最初の分子が発展した。
 アメリカの発見、アフリカの回航は、勃興しつつあるブルジョアジーのために新しい活動分野をひらいた。東インドや中国の市場、アメリカへの植民、植民地との貿易、交換手段および一般に商品の増加は、商業に、航海に、工業に、空前の飛躍をもたらし、そのことによって、崩壊しつつあった封建社会のなかの革命的な要素を急速に発展させた。
 これまでの封建的な、すなわちギルド的な工業の経営方法では、新しい市場とともに増加する需要にもはや応じえなかった。マニュファクチュアがそれにかわった。ギルドの親方は、工業的中産身分におしのけられた。いろいろな同業組合間の分業は姿をけして、個々の作業場そのものの内部の分業があらわれた。
 だが、市場はますますひろがり、需要はますますふえた。マニュファクチュアでも、もう不十分になった。そのとき、蒸気機関と機械とが工業生産を変革した。マニュファクチュアにかわって近代的大工業が、工業的中産身分にかわって工業的百万長者、全工業軍の指揮官たち、すなわち近代ブルジョアが、あらわれた。
 大工業は世界市場をつくりだした。これは、アメリカの発見によってすでに準備されていたのである。世界市場は、商業に、航海に、陸上交通に、はかりしれない発展をもたらし、その発展がまた、工業の拡大に作用した。そして、工業、商業、航海、鉄道の拡大に比例して、ブルジョアジーは発展し、その資本をふやし、中世からうけつがれたすべての階級を背後におしやった。
 これで知られるように、近代ブルジョアジー自身が、長い発展行程の産物、生産と交通との様式におけるかずかずの変革の産物なのである。
 ブルジョアジーのこれらの発展段階は、いずれも、それに応じた政治的前進をともなっていた。ブルジョアジーは、封建領主の支配下にあっては被圧迫身分であり、コンミューンにおいては武装した自治団体であり、あるところでは独立の都市共和国、あるところでは君主制下の納税義務を負う第三身分であり、ついでマニュファクチュアの時代には身分君主制あるいは絶対君主制下の貴族の対抗勢力であり、また、一般に大君主国の主要な基礎であり、そして最後に、大工業と世界市場とが形成されてからは、近代代議制国家のなかで排他的な政治的支配をかちとった。近代の国家権力は、全ブルジョア階級の共同事務を処理する委員会にすぎない。
「コンミューン」とは、フランスでようやくうまれようとしていた都市が、まだ封建領主と親方から地方的自治と「第三身分」としての政治的権利とを獲得しない以前から、採用していた名であった。一般的にいって、本書では、ブルジョアジーの経済的発達についてはイギリスを、その政治的発達についてはフランスを、典型的な国として引例している。〔一八八八年英語版へのエンゲルスの注〕
 イタリアとフランスの都市の市民は、彼らの封建領主から最初の自治権を買いとるか、うばいとったのちに、自分らの都市共同体をこう読んでいた。〔一八九〇年ドイツ語版へのエンゲルスの注〕
 ブルジョアジーは、歴史上きわめて革命的な役割をはたした。
 ブルジョアジーは、彼らが支配権をにぎったところでは、封建的な、家父長制的な、牧歌的な関係を、のこらず破壊した。人間をそのうまれながらの目上とむすびつけていた色とりどりの封建的なきずなを無慈悲にひきちぎり、人と人とのあいだに、ろこつな利害、無情な「金勘定」のほかには、なんのきずなをものこさなかった。ブルジョアジーは、敬虔(ケン)な法悦、騎士の感激、町人の感傷といった神聖な情熱を、利己的な打算の冷水におぼらせた。彼らは、個人の品位を交換価値に解消し、特許状でゆるされ、りっぱにかちえられたかずかずの特権を、ただ一つの非情な商業の自由ととりかえてしまった。一言でいえば、ブルジョアジーは、宗教的・政治的な幻想でおおわれた搾取のかわりに、公然たる、あつかましい、直接の、むきだしの搾取をおいた。
 ブルジョアジーは、これまで貴いものとされ、敬虔なおそれをもってあおがれてきたいっさいの仕事から、その後光をはぎとった。彼らは、医者や法律家や僧侶や詩人や学者を、自分たちのおやといの賃金労働者にかえてしまった。
 ブルジョアジーは、家族関係からその感動的な感傷のヴェールをはぎとって、ただの金銭関係に還元した。
 ブルジョアジーは、反動がしきりに讃美する中世の蛮力の発揮が怠惰をきわめた安逸生活と格好な表裏一体をなしていたことを、暴露した。ブルジョアジーは、人間の活動がどれほどのことをやれるかを、はじめてあきらかにした。彼らは、エジプトのピラミッドやローマの水道やゴシックの大伽藍とはまったく類を異にした大事業を完成し、民族移動や十字軍とはまったくちがった種類の大遠征をおこなった。・・・以下省略。

そして最後の文章です。・・・最後に、共産主義者はどこでも、あらゆる国の民主主義政党との同盟と協調に努める。
共産主義者は、その見解や目的を隠蔽することを、軽侮する。共産主義者は、その目的があらゆる現存する社会条件を暴力的に打倒することによってだけ達成できることを、公然と宣言する。支配階級は、共産主義革命に恐れおののけばよいだろう。プロレタリアは束縛の鎖以外に失うものはありません。プロレタリアには勝ち取るべき世界がある。
すべての諸国の労働者は、団結しよう!