後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

武器を放棄しても平和にならない、そして、、、

2009年05月31日 | インポート

Golgo13juniorさんからのコメントをご紹介いたします。趣旨は、(1)武器を放棄しても平和にならない、(2)ユダヤ人が中心になっているアメリカへの依存の現状は変わらない。と、いうご見解です。

==============Golgo13juniorさんからのコメント====

 ここで、平和についての私の考えについて述べさせていただきます。 平和に対する考え方で、ユーラシア大陸に住む人間と、島国に住む人間には、大きな違いがあります。

島国では、お互い武器を放棄すれば、平和が近づくとの考えます。ちょっと、乱暴な考えですが。 しかし、大陸人はまったくそうは考えません。というより武器を放棄することが、平和を意味すると理解できないのです。

丸い地球にすむ、多くの人類は、大陸人です。よって、日本人の考えている平和思想は、異端人としての見解となり、国際連合においても、孤立した存在となっております。  では、どうするか?

1500年ごろから、ヨーロッパのユダヤ人社会が、現在にいたるまで、これからも、制覇し続けるでしょう。 現在のアメリカは、このユダヤ人社会が、アメリカの政治、経済をコントロールしていると、知らなければ日本とアメリカの外交問題は、整理がつきません。ここのところを、正しく、理解していない、日本の外務省は、というより、日本の政治家が問題なのです。

日本の利益をどう、守るかの戦略が構築できない、ジレンマがあります。アメリカのユダヤ人コミニュテーの利益のため、日本の政治家や各省庁のキァリア官僚たちは、無意識に働かせさせられています。

今後、日本の自衛隊は、グローバルに、アメリカ軍の尻拭い部隊として、働かせさせられます。それに、NOが言える社会になるか?残念ですが、NOと言えなく、ずるずると引き込まれる状態になります。

それほどまで、ユダヤの世界戦略は巧妙であり、その網の目から逃れることは、不可能です。

ちなみに、アメリカ人口3億人のうち、600万人のユダヤ人の半数300万人が

アメリカの総資産の6割を所有しています。このことを、知らないのが日本人、

特に政治家、キァリア官僚達です。ユダヤは、基本は、金融ですが、世界にグローバルスタンダードというものは、ユダヤスタンダートと解したほうが正解であります。

世界の兵器産業の多くは、ユダヤ人が経営者です。よって、彼らは、常に、世界のどこかで、紛争をしかけ、戦争が維持されることで、彼らの生きがいが生まれています。よって、世界平和と、叫びつづけるアクションは行いますが、決して平和を望んでいないという事実を真摯に受け止めるべきであります。

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教養としてのキリスト教(12)あなたは青白い人魂を見たことがありますか?

2009年05月31日 | うんちく・小ネタ

昔、筆者が少年の頃の話です。闇夜に、ある墓地のそばを独りで歩いていたとき、青白く光る人魂を見ました。テニスボール位の大きさの玉が炎を少し上げて、ユラユラ揺れて、中空に浮かんでいるのです。怖くなり一目散に走って帰ってきました。

昭和20年前には燈火管制で漆黒の闇が夜を支配していたのです。幽霊を見たという友人も沢山いました。人魂も幽霊も死んだ人がこの世に未練があって夜な夜な遊びまわっているのだとも聞きました。当時は土葬の人も多かったので人魂もよく出たのだと思います。現在も出ているのでしょが、夜道が明る過ぎて見えないのでしょう。

キリスト教の教義の中で理解しにくいものに「聖霊」というものがあります。神学的に難しい説明をするから益々分からなくなります。簡単に言ってしまえば「聖霊」は人魂と同じようなものなのです。人魂は、人間の霊魂がテニスボール位の青白い炎の玉になって揺れています。「聖霊」は神の「気持」が赤い炎の玉になったものです。それが天からスウーッと降りて来てキリストの弟子たちの体に入ったのです。入った途端に弟子たちは世界中の言語が喋れるようになったのです。そこで弟子たちは各地に散って布教を始めます。キリスト教という世界宗教はこうして始まったのです。イエスキリストがローマ兵によって処刑されてから50日目に起きたことです。

今日の日曜日は復活祭から50日目なので「聖霊降臨の主日」といい、神の霊(神魂)が炎を上げて天から降ってきたことを祝う祭日です。炎は舌のように上が細くなって揺れていたようです。青白いというより暗い赤色のような絵が昔から伝わっています。

カトリックで一番重要なものは、神とキリストと、この聖霊です。これを「父と子と聖霊」と言って多くの祈りの冒頭で唱えます。「父と子と聖霊のみ名によって、、、、、、」というように祈ります。この3つを3位と言い、それらが融合することを三位一体と言います。この三位一体のことを英語ではtrinity と言います。また聖霊はholy ghostといいます。聖なるオバケですね。カトリックの教会へ行くと必ず祭壇の右に赤いガラスで覆われた電球が下がっています。これが聖霊なのです。

私は人魂も幽霊も信じています。従って聖霊降臨も信じています。日本人はキリスト教を我々の実生活とは遠く離れた外国の宗教と理解します。大きな距離感を持ちがちです。しかし仏教も儒教も、遠方の外国の教えです。

宗教は人間の素朴な共通な心情から生まれたものです。自分の幼児体験や日常の体験と密着しているのも当然です。

聖霊をやたら難しく、そして神秘的に理解するよりも自分の体験のもとづいて理解すると簡単です。キリスト教を簡単に理解する一つの方法と信じています。皆様のお考えはいかがでしょうか?(続く)


里山に急に増えたシカ、サル、イノシシ、クマの話

2009年05月31日 | 日記・エッセイ・コラム

山梨県の甲斐駒や八ヶ岳の山麓の里山に、野生の動物が最近急に増えだしたました。今週、ちょっと日帰りで山林の中の小屋へ行きました。水田地帯から少しだけ車道を入ったところで美しい若鹿にあいました。少し逃げて10mくらい離れた雑木林の中から好奇心いっぱいの目で車の中の小生を覗き込んでいます。帰り道では猿の群れをみました。小屋の周りは数匹のイノシシが餌を探して掘り返した穴が無数にあります。ここ数年で急にイノシシ、サル、シカが増え、クマも時々見えるそうです。

36年間この山林の中の小屋へ通っていますが、5年位前から急にイノシシやシカやサルが増えだしたのです。農家のある水田地帯に接する里山で増えたのですから農作物の被害が大問題になっています。

日本の環境保護運動の成果とおもいます。それと農村の人々が里山に入って材木や薪を取らなくなったためと思います。里山へ人間の手が入らず太古以来の自然林の状態へかえっているのです。下の写真は倒れてしまった松の大木が放置されている様子です。人間の目から見ると荒れ放題の林のように見えて不愉快です。しかしこのような自然林が野生動物にとっては天国なのでしょう。全国の里山にもサル、イノシシ、シカ、やクマが増えすぎて困っているというニュースも見ます。それこそ環境保護の成果です。しかし困っている人々も増えたことも居ます。

皆様の住んでいらっしゃる土地では野生動物は増えているでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈りします。       藤山杜人
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単なる自衛隊の戦力だけの問題では無いと思います

2009年05月30日 | インポート

ここ2、3日、日本の自衛隊の戦力をどうのように考え、運用するか?アメリカとの安保体制から少しずつ独立するのが良いか?など複雑な問題についてご意見を頂き、このブログの本文でご紹介してきました。今日は趣味人倶楽部というSNSの水木りょう様から頂いたご意見を以下にご紹介いたします。水木りょう様、有難う御座いました。

=======水木りょう様からのご投稿=============

この日本の防衛問題は戦後から論争が絶えない問題でありました。
私の今の見解は、観念的な理想論では解決できない複雑な問題と思います。
理想では独立国家だから他国に守ってもらうのではなく、自国の軍隊を持って・・・・云々とあります。
第一次世界大戦、そして日中戦争や太平洋戦争(大東亜戦争)そしてその敗戦やポツダム宣言などの経過があり、そして安保条約などの脈々と続く歴史の流れがあっての今があるわけですね。
その中で同盟国であるアメリカの要請を受けなければならない義務感、そして国際的にも貢献しなければならない義務や使命感があるので、大変複雑な問題と思います。
一方ではアメリカと手を結び、一方では全く譲歩もしない、無慈悲な外交政策をとっているロシアも中国も日本は交流しているのです。
忍耐と誠実だけで務まる外交だったら、もうロシアと平和条約は締結されているでしょう。今まで日本は常に相手のペースに巻き込まれた受動的な外交でアタフタして来た感があります。
今後は我が国が一歩先になって対ロ、対中、対北朝に対して先導的な外交政策を打ち出してほしいと思うものです。そのためには国際的感覚をもったバイタリティ溢れた外交官や政治家を育てる必要があります。単に自衛隊の戦力やシビリアンコントールの問題ではなく総合的に日本の将来を考えなおす時期にきているとおもいます。

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雨で鬱陶しい天気なので、爽やかな富良野の写真をお送りします

2009年05月30日 | 写真

このところ毎日雨です。気持ちが滅入りますね。そこで北海道に住んでいらっしゃる方の「富良野健康生活」というブログから、気持が爽やかになる写真を1枚お送りします。今朝、転載のお許しを頂きました。このブログは気分の悪い時によく見るお気に入りのブログの一つです。いつも心が晴れる北海道の雄大な風景が繊細な感性で映した写真があります。

下の富良野の雑木林の小道の写真からはエドハルゼミの声やカッコーの鳴き声が聞こえてくるようですね。出典は、http://furano2008.blog95.fc2.com/ で御座います。

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ブログを書くと人間が豹変する

2009年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム

ブログを書いているといろいろな人が読んでくれます。ある時、家内の妹に会ったとき、「よく読んでいますよ。でも書いている人のブログ上の印象と実際の日常とがあまりにも違うので驚いています」と、言います。意味が理解出来ず、よく聞いたら、「ブログの上では何時も善良な人格者のように書いてあるが、実生活ではトンデモ無い!という意味ですよ」と、解説してくれました。納得しました。同感です。

この一例はネット社会の虚構性をよく表してしています。ネットでは毎日の実生活から離れてどの様なことも勝手に書けるのです。

人間的に問題の多い自分が、何故ブログを書くときは善良な人格者になれるのでしょう?

原因は幾つかあります。

ブログの上だけでも自分の悪い性格は隠しておき、善い一面だけ公表しようとするずるい目的が最大の原因です。しかし深く考えるとそれだけが原因ではありません。いつも書き出す前に自分へ言い聞かせていることは、「ブログは老若男女、色々な立場の人が読む」という事実です。どんな立場の人にも納得して貰うような公平で穏健な書き方を何時も考えています。この事に何時も腐心します。

このように書くと立派な執筆態度のように見えますが、そうではないのです。アクセス数を増大する為に、という不純な動機があるのです。この悪い動機に気がつかない読者こそ善良な人なのです。

それと、人間は誰でも悪い一面を持っています。せめてブログの上だけでも忘れたい一面です。そこで私は人間の悪い側面をなるべく書かないようにしています。そうすると読んだ方々が小生を善良な人格者と誤解します。嬉しい誤解です。

さてブログを書くと人間が豹変するでしょうか?悪い人間が善い人間へ変るのでしょうか?

ブログの上だけに限れば、書き方次第ではできます。

それでは実生活では?そうです、豹変なんて出来るはずがありません。しかし、人格者のように見える記事を毎日、毎日書いていると知らず知らずのうちにそれに近づこうとします。毎日書いて、テニオハの間違いを直すために何回か読みなおしていると書いてある内容に強い影響を受けます。まあ、私はその程度の人間なので仕方ありません。それだけがブログの良い効果です。

今日は皆様がネット上に文章を発表され、それがご自分へ良い影響が出るようにお祈りいたします。藤山杜人


防衛のための武力容認派平和主義者からのコメント

2009年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム

趣味人倶楽部というSNSの中で、会員の、ときめき様から深く考えさせられるコメントを頂きましたのでご紹介致します。

======ときめき様からのコメント================

はじめまして。
日本の自立という問題は、左翼、右翼の区別なく共通の日本国民としての当たり前のことのような気がします。
わたしも、以前は日本の独立、自立を主張する人々は右よりの覇権主義、武力による対外拡張主義が内面に潜んでいるから、自立や国益云々はナンセンスだと考えていました。
でも自問してみました。
自分の国のことを自分で決められない、自立していない国が、どうやって平和を実現できるのかなと。
戦後日本は他国を爆撃こそしていませんが、明らかに戦争をやっていると思います。中立ではありませんでした。燃料の補給、出撃基地の提供は戦争行為そのものだと思います。
武力が悪いのではなく、それを利用する政治家に政治を任している国民、自体が問題なのではないかと。
武力は自国民を防衛するためには必要だと思いますし、武装しない政府というのは、無責任な政府だと思います。
平和主義者イコール、非武装、憲法9条を守ることと同一視されますが、平和主義者にもアメリカからの自立、自立外交の推進を唱えて、防衛のための武力容認派平和主義者もいると思いますし、そういう平和主義者が必要ではないかという気がしています。(終わり)

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ああ、死ぬまで男女の違いは分からない

2009年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム

男と女の感じ方や考え方は違います。どのように違うのか?何故違うのか?それが理解出来ません。色々な問題が起きた時の対応が非常に違います。

最近、日本の軍隊をもっと戦力として使えるようにしよう。場合によってはアメリカ軍からも、もっと独自性を強めようとする意見が散見されます。

日本の平和を永久に守るための方法を男女に聞けばこんな答えが返って来ます。

女:「平和を守るには日本の自衛隊を解散し、世界中の軍備を無くせば良いのです」

男:「日本の平和を守るには現在以上自衛隊の即戦力を強化して他国の侵略を防止するのが最善の方法です」

もちろん男女に例外もあるし、上の意見は問題を明快にするために誇張して書いてあります。

大部分の女性の主張はいつも観念的で、具体性に欠けます。男性の意見は具体性は有りますが、「平和、平和」と、言いつつ戦争へつながる危険性があります。いつの時代にも「平和のための戦争」と称して戦争を始める国があります。

平和と軍備は密接に関係しています。ところが軍備の問題を議論し始めると女性は興味を失い考えようとしません。平和と軍備の問題に男女間の話し合いが出来ないのです。これこそが人類の不幸ではありませんか?

一番強く平和を愛する女性が、男性へ意見を言わないのです。急に議論の舞台から降りてしまうのです。

男性はある国が他国の支配を受けているとき、その支配の内容を具体的に考えます。そしてそれぞれの具体的な支配され方の損徳を考えようとします。

アメリカ軍が日本に基地を持っている。自衛隊はアメリカ製の軍備を持っているので作戦は共同で、あるいはアメリカ軍の指揮下でしなければならない。このような具体的な支配のされ方が日本にとってどのような経済的な利得になるのだろうか?そしてその事は日本の平和にどのように貢献しているのでしょうか?

このように具体的に考えます。具体的に考えすぎるのが男の弱点かも知れません。女性の観念論も重要なのかも知れません。

このささやかな小文で男女の相違を解消しようとしているのではありません。平和や軍備という重大な問題には男女が協力しあって考え、平和を守るように一緒に努力出来るようにと祈るための文章です。  皆様はいかがお考えでしょうか?  (終わり)


他国を支配したい、支配されたくない、それが戦争の真の原因です

2009年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム

他の国を占領し、支配したい。支配された国はその支配へ抵抗して最終的には完全な独立を果たしいたい。人類の悲しい性(さが)です。

日本は1945年にアメリカ合衆国に占領され支配を受けました。その後1951年にはサンフランシスコ条約によって独立国家になります。しかし冷戦のお陰で、アメリカ軍は日本国中に広大な軍事基地を保有して来ました。

1989年のベルリンの壁の崩壊によって冷戦が終了します。しかし2009年に至る現在でもアメリカは基地を日本へ返還しようとしません。永久に保持しようとしている様子です。

この状態は、極端な見方をすればアメリカの軍事占領がいつまでも続いているとも誤解されやすい状態です。日本人の多くはこのような半分占領されているような状態が我慢できなくなりつつあるのかも知れません。人類はひとしく他国に支配されたくないという性(さが)を持っているのです。

すべてのアメリカ軍が引き揚げる。それに代わって強力な日本独自の軍隊で日本を防衛する。これこそが日本の完全独立です。日本人の心の琴線を震わせる強いメッセ-ジです。最近、日本のマスコミにアメリカも信用できない。日本はアメリカからもっと独立すべきだ。と、いう風潮の言葉がよく見かけます。人間の心情としてごく自然な意見と言えます。しかしそれが本当に正しい方向でしょうか?

いきなり話は飛びますが、ここで2000年まえの中近東の現在のイスラエル地方の状態を考えて見ましょう。キリストが居たころのユダヤの国、イスラエルの状態です。

その地方は強大なローマ帝国の領土でした。ローマ軍の占領下にあり、ローマから派遣されたポンティオ・ピラトという総督が治めていました。そしてユダヤ人の王へもある程度の自治権を与えていました。罪人を死刑にする重大な裁判権だけは総督に有りました。それでピラトはしぶしぶキリストを死刑にしました。民衆が死刑にしろと騒ぐので面倒くさくなっただけです。自分の統治期間に暴動のような不祥事が起きないようにしたかったのかも知れません。

さてキリストを刑場へ引き立て、死刑を執行したのはローマの一小隊でした。死刑執行後、キリストの着ていた衣服を兵隊が奪い合ったことまでリアルに福音書に書いてあります。

ローマ軍がイスラエルに駐留していて支配していた様子がありありと理解できます。

さて、このような状態では、当然ユダヤ民族がローマ軍を追い出したいと思うのが自然の心情です。福音書にはそのような記載はありません。しかしキリストを独立運動の首領と誤解した民衆がいたと書いてあります。

キリストが言います。私は地上のことよりも天国にいる神の愛を皆様へ話ししたいのです。地上のことは私の関知しないことです。カエサルの顔の描いてあるコインはカエサル(ローマ)へ返しなさい。

如何でしょうか?日本が将来どうのようにすべきかお分かりになりませんか?

戦争を避けて、平和を守ろうとしたら、カエサルのものはカエサルへ返せば良いのです。アメリカの支配を追い返そうとして軍事力を独自に管理しようとすればどうなるでしょう?過去に日本の軍事占領を受けた北朝鮮や中国やフィリッピンなどアジアの国々は急に警戒を強めるでしょう。アジア地域の平和が危険にさらされる可能性があると思います。

ローマの隆盛は300年くらいでした。キリストの平和は2000年たっても変わらず世界に広がっています。憲法第9条の輝きも長い年月続くと思います。(終わり)

今日は、皆様も平和を守る賢明な方法をいろいろお考え下さるようにお祈りいたします。  藤山杜人  


日本は軍事国家?そして田母神氏についての一意見

2009年05月28日 | インポート

gatayanさんという方から下記のご意見を頂きました。現在の日本の世論が以前とは変わったのが本質的なもんだいです。と、明快にご説明なさっています。他の方々のコメントも是非頂きたいと思っています。gatayanさん有難う御座いました。

===========gatayanさんのコメンントです===========

田母神氏に関わっての最近の出版の状況については、非常に苦々しく感じています。
 おっしゃるように、彼自身、公的な立場を離れた人物なのですから、今どのような考えを持っていようと、或いはどのような発言をなされようとご自由に・・・と言うしか有りません。
 問題はその彼の発言をなぜかくも多くの出版社が取り上げるのかという一点に絞られると思います。
 出版社がそれ自体が一個の営業体である以上、営利を追求するのが当然であり、結果として売れると見込めるものをプロデュースし、大々的に売り出すのは、仕方のないことではあります。(そこに出版人としての一定の見識を示して欲しいのは山々ですが。)。
 となれば、その問題はさらになぜ出版社が「売れる」と見込むのか、という点が、考察の対象でありましょう。
 答えは端的に示すことが出来ます。
 多くの人々がそれを望んでいるからに相違ないでしょう。
 それは政治の世界においての力関係の変化が明瞭に物語っています。正面切って戦争を肯定する発言こそなけれ、その心中は「さもありなん」と思えるような人物が与党・野党にかかわらず頭角を示し、そうではない人々や党派が次第に埋没して言ってる事実は、国民の意思があってこそのものです。
 なぜこんなふうになってしまったのか、私には窺い知れません。戦後教育への反動なのでしょうか。地域によって温度差はあれ、平和の大切さはどのような教育現場でも語られてきたであろうし、親たちからも語って聞かされていました。 それが、何の効力も持たなかったのか。

 空しい思いにおそわれるのみです。

 しかしながら、息を消沈させてばかりもいられません。たとえ、影響力は小さくとも、この時代の流れに対しては常にアンチの立場でものを言って行きたいと思います。


暗い雨の日なので明るい気分になる写真をお送りします

2009年05月28日 | 写真

今日の東京地方は朝から黒雲が空を覆い、激しく雨が降っています。気圧も低いらしく気が滅入ってしまいます。そこで昨年の梅雨明けの乾燥した山の風景写真を1枚お送りいたします。

皆様の住んでいらっしゃる地域の今日の天気は如何でしょうか?

そのうちジメジメした梅雨になるのでしょう。そして夏が来て、1年がアッという間に過ぎてゆきます。時の流れが早く感じられるのは年のせいでしょう。(終わり)

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日本が軍事国家になる可能性と田母神氏(前航空幕僚長)について意見交換をお願い致します!

2009年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム

自衛隊の戦力を現場の判断で自由に使えるように法律を変えなさい。と、現職の幕僚長が政治運動をしたので防衛大臣によって辞めさせられました。その人が田母神氏です。

防衛の全てに関する事項に関して自衛隊の制服組は勝手に意見を言ってはいけない。これがシビリアン・コントロールなのです。田母神氏は、かつて関東軍が自由に軍隊を動かし日本を破滅へ導いたことを忘れているのでしょうか?

まあ、そんな人も居たのでしょう。辞めさせたのですから、これで一件落着と思っていました。ところが昨日、本屋さんへ行ったら、彼の軍国主義的内容の本が山のように積んであります。何種も本を出しているのです。出版社は売れ行きが良いから出すのです。

そしてそれらの本の広告が全国紙に大きなスペースで出ています。

「座して平和は守れず!」、「核ミサイルを打ち込まれても「戦争放棄」するのか?」、「クラスター爆弾禁止の大きな誤り」、などなど扇動的な活字が躍っています。

彼の本は、「アメリカも国連も頼りにならないから日本は本格的な軍事力を持って、それを即刻使えるように法律を変えなさい」と言っていると誤解させるような危険性があると思います。

日本は1945年の敗戦以来64年の長きにわたって、外国との紛争は平和的な外交交渉で解決してきましきました。アメリカの核武装の傘の下ではそれが可能だったのです。平和憲法を護持し、紛争の解決に武力を使わないと憲法に明記した唯一の国家です。

田母神氏は、そんな馬鹿馬鹿しい憲法は止めて、日本は紛争解決には武力も使うべし!と主張しているのです。自衛隊を辞めてから後なら、本を出すのも自由です。それこそ言論の自由です。

しかし、そのような本が大いに売れていることが心配なのです。多くの国民が田母神氏の主張に関心があり、それを支持しているのです。日本が重大な曲がり角に差し掛かっているのです。皆様は軍事国家への可能性のある道を踏み出そうとしている社会の雰囲気をどのように感じていらっしゃるでしょうか?

このブログの紙上でいろいろなご意見を交換出来れば嬉しいと思います。コメントを頂けたら、編集・整理をあまりしないで、後日ブログの本文へ掲載し、ご紹介したいと思っています。どうぞコメントをお送り下さい。 敬具、藤山杜人


無宗教の方々を尊敬します

2009年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム

日本には「私は無宗教です」と言う人が多いです。

1960年代のアメリカでは、「あなたの宗教は?」と聞かれたことがしばしばありました。この質問を深刻に考え込み、「無宗教です」と答える日本人が多かったものです。聞いたアメリカ人が暗い顔になります。「仏教徒です」、という答えを期待している場合が多かったのでした。この会話はそんな深刻な会話でないのです。日本で近所の人に会ったら、「どちらまで?」、「ちょっとそこまで」というやりとりと同じように軽い挨拶のようなものでした。

ベトナム戦争で負けたアメリカ。アメリカ人は無邪気でなくなりました。「貴方の宗教は?」などと気楽に聞かなくなったようです。ベトナム戦争後、アメリカ社会の雰囲気が変わりました。

1960年代までのアメリカ社会は陽気で、無邪気で、エチケットを良く守る楽しい社会の一面を持っていました。当時、「何故、無宗教はいけないのですか?」と聞き返し、気まずい雰囲気になったことを思い出しました。どうもハッキリしませんが、「無宗教は悪魔」と思い込んでいるようでした。それ以来、無宗教ということを考えるようになりました。カトリックの洗礼を1972年に受けてから、目から鱗で理解出来るようになったのです。

周りを見回してみると無宗教の人々が多いものです。しかし善良で立派な人々です。昔のアメリカ人は「無宗教は悪魔と同じだ」と思い込んでいたのは完全に間違っています。

洗礼を受けて、宗教のことが深く理解できるようになりました。日本人が自分で無宗教と言う場合は、「そうですか。それも良いですね」と答えるようにします。それ以上の議論はしません。しかし私にとって無宗教の方々の多くは立派な仏教徒に見えます。色即是空、空即是色ですね。証明できない宗教の教義は信用してはいけない。偶像を拝んでもいけない。死ぬことは無に帰ることです。と、いうのがお釈迦様の教えでした。その教えを日本人が1500年の間信じてきたのです。無意識のうちに心の中にしみ込んでいます。丁度、空気のように意識する必要もなくなりました。

ですから日本人の多くは「無宗教です」と自分で信じています。自分でそうおっしゃるのですから反対しては礼儀上いけません。しかし私は、無宗教の方々を尊敬しています。それだけの話です。失礼しました。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。     藤山杜人


気楽にお墓を作る、そして散骨も良いです

2009年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム

引退すると時間が出来ます。人生のこし方を振り返ったり、趣味を楽しんだり出来ます。気力も衰えてきて、怒る元気も無くなってきます。周囲の人は、「老年になって人格が出来てきた」と、本気で褒めてくれます。本当は怒る気力が次第になくなってきただけです。その頃になると死んだ後に遺族に迷惑をかけないように自分のお墓をたてる気になります。数年前に気楽につくってしまいました。遺族が行きやすい交通の便のよい郊外の墓地です。どんな宗教でも良いそうです。中年になってからヨットを続けてきましたので、墓石には「風」という一字を大きく彫りつけました。広大な小平霊園のそばにある花の絶えない墓地です。良心的な墓石屋さんが運営・管理しています。時々家内と一緒に遊びに行って自分達の墓を見ます。四季折々花々が絶えないように墓石屋さんが栽培しています。小さな花の公園へ遊びに行った気分で楽しいです。

ところが最近、墓をつくらないで海や山へ散骨をする人々が増えて来たそうです。

「散骨の仕方」として検索すると、適切な案内があります。礼儀正しく、周囲の人々へも配慮して行う限り、特別な許可は不要なようです。今日、「人生いたるところに青山あり」という記事を掲載しましたところ、メルさんという方から義父の方の散骨の様子をコメントととしてご投稿してくださいました。以下にご参考までにご紹介いたします。

藤山様

おじいちゃん(義父)の散骨場面を載せてたブログをご紹介して頂いて、ありがとうございます。
父は東大の造船科を出て、初めは軍艦を設計していましたが、余力でヨットを設計しては、自分で作り、母が帆(セ-ル)を縫い、ブログの写真の下田から出たそうです。 その後は 亡き、石原裕次郎さんや、現石原都知事さんの船も設計したりするところまでいきました。

ヨットを自ら設計し、自ら乗り、設計した数は少なくとも60艇はあったそうです。

仲間に愛され、散骨の時は、たくさんのヨットが油壺の海に出て、皆さんに見守られながら、逝きました。(私のブログ、ヨット編に載せています。)

悲しみと、清々しい気持ちが入り交じって 涙したことが昨日の事のように思い出されます。

その後、おばあちゃん(義母)も同じ位置に散骨しました。
きっと今頃は海の底で二人仲良く、幸せに眠っていることでしょう・・メル 

(藤山からの補足:このおじいちゃんはヨット乗りには有名な渡辺修治さんです。ヨット専門誌の「舵」へ度々寄稿されていまいたので名随筆をお読みになった方も多いと思います)

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以上は海への散骨の実例です。どなたか山へ散骨された方で、もしその様子をお教えくださる方がいらっしゃいましたら嬉しく思います。

「風」という墓標の下に入るのも良いし、分骨して海や山へも散骨するのも良いとも思っています。すこし欲張りなことを考えて独りニヤニヤして楽しんでいます。

死んでしまえば無になる。墓も偶像も作るなと厳命して涅槃についたお釈迦様の教えに従えば墓も散骨も考えるべきではないのでしょう。さて、皆様をご自分のお墓のことを如何お考えでしょうか?

(終わり)