後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

林間に紅葉を焚いて酒を煖める

2017年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム
この季節になると毎日、毎日、紅葉や黄葉の風景に憧れるようになります。
東京の郊外に住んでいるので雑木林が多いのですが一向に紅葉する気配がありません。この近辺では11月の終りにならないと紅葉しないのです。そこで富士山の5合目へ登ったり、奥多摩に行ったりして紅葉を楽しんでいます。
今年の富士山の紅葉は2017年10月19日に掲載した「富士山の今年の紅葉をお楽しみ下さい!」という記事でご紹介しました。
昨日は空高く風が舞い青空の輝く日でした。そこで奥多摩湖まで登って行って紅葉や黄葉の写真を撮ってきました。
ここにその写真をお送りいたします。













一番終りの写真は昨日の奥多摩湖の風景です。

さて皆様のお住まいの所の紅葉の時期は何時頃でしょうか?
北海道や東北の山々は文字通り錦織りなす絢爛とした紅葉に覆われていることでしょう。

そして毎年、紅葉の風景を見ると、高校時代に習った漢詩を思い出します。紅葉を焚いて酒を温めるという白居易の漢詩です。
毎年この時期になると何故か決まって思い出し、同じ漢詩を掲載しています。
去年は やはり10月31日の記事、「山々の葉が色づく季節が待たれます」でお送りしました、
同じ漢詩ですが何度読んでも、すがすがしい気分になるので又お送り致します。
唐の詩人、白居易が昔遊んだ仙遊寺の林で紅葉を焚いて酒を温めたことを回想する漢詩です。
もう自分は年老いて遠方の仙遊寺の林へは行く事も無い。しかしそこへ帰って行く君が羨ましい。そんな内容の詩です。
この句は皆様も高校時代に習ったことがあると思います。平家物語にも出て来てよく知られている漢詩です。

寄題送王十八帰山仙遊寺   白居易

曽於太白峰前住
数到仙遊寺裏来
黒水澄時潭底出
白雲破処洞門開
林間煖酒焼紅葉
石上題詩掃緑苔
惆悵旧遊復無到
菊花時節羨君廻

その昔、私が太白峰の麓に住んでいた頃はよく仙遊寺へ出かけたものだ。
水が澄む秋の季節には、川淵の底まで透けて見え、白雲が切れた辺りに
仙遊寺の山門があった。また仙遊寺の林間では散り落ちた紅葉を焚いて
酒を煖めたり、緑苔を払った石の上に詩を書いたりしたものだ。
ああ残念ながら、昔遊んだあの地に私はもう二度とは行くことはないだろう。
菊の花の咲くこの季節に、そこに帰っていく君が羨ましいよ。
(以上の訳の出典は、http://plaza.rakuten.co.jp/1492colon/diary/200812110000/ です)

ついでに語句の解説も示しておきます。
・王十八・・・・排行(兄弟・従兄弟の順の十八番目)、の意。
・寄題・・・・・その場所から離れている地で詠ずる、の意。
・太白峰・・・・都長安の県城南方20kmにある秦嶺山脈の主峰のひとつ。
                海抜3767m、李白の「太白峰に登る」で有名。
・仙遊寺・・・・唐の都、長安の郊外にあった寺。
・黒水・・・・・秋の川の水の意。
・曾遊の地・・・以前に遊んだ土地。
・潭・・・・・・川の淵の意。
・惆悵・・・・・恨み嘆くの意。

最近は野外で焚火をすることが禁止されています。
しかし紅葉の風景を見ると私の心の中では紅葉の焚火をします。ほどほどに煖められた酒でほろ酔いの気分になります。
そして紅葉を見ると一段と鮮やかな色になるのです。そんな想像をしながら昨日は奥多摩の紅葉の写真を撮ってきました。
かたわらに少々声をたてる家人がいるのが、緑苔を払った石の上に詩を書いた白居易の境地とはいささか違い過ぎますが。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

紀元前1万年頃には米の栽培が普及していた長江(揚子江)沿岸

2017年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム
中国のGDPが成長し、世界第二位になる過程で、中国のいろいろな学問分野も急速に発展してきました。
特に古代文明は中国の自慢したいものの一つであり、秦の始皇帝以前の各地の遺跡の研究が盛んです。その結果、驚くべき考古学的な発見が続いております。
今日は、最近の中国の考古学の研究から次の2つのことを見てみましょう。
(1)黄河文明よりも古い長江文明の存在が明らかになったこと。
(2)日本の縄文時代前期の紀元前1万年頃には長江沿岸では米の栽培が普及していたこと。
以上の2つの問題を作り、いろいろ調べていました。その結果、『知っておきたい中国の歴史』、(http://greenly.jp/s-chinese_history/category1/ )が客観的記述な上、分かり易い優れた説明であることを知りました。
そこでまずこの記述に従って最近明らかになってきた黄河文明と長江文明の関係をご紹介します。
中国大陸には西から東へ二本の大河が流れています。北部を流れる黄河、中部を流れる長江(揚子江)ですね。
従来、中国の農耕文明は黄河の流域で誕生し、後に長江から中国全土に広がって行ったと考えられていました。

しかし近年遺跡発掘の調査において、長江流域の農耕誕生は黄河文化よりも早く、大河流域を離れたところでも独自の農耕社会が発展していることが分かってきました。
中国古代文明は黄河文明だけではなかったのです。
近年の調査では、長江(揚了江)流域にも古代文明かあったことがわかってきました。
黄河流城では、紀元前6000年までにアワなどの雑穀を中心とした農耕がありましたが、同じ頃、長江の流域では稲を中心とした農耕がはじまっていたのです。
 紀元前5000年~4000年には、それぞれの流域で農耕技術が発達し、小さな村落が生まれた。黄河中流域には、文様のある彩文土器(彩陶)を用いる仰韶文化がおこりました。
紀元前3000年~2000年になると、地城間の交流が活発になり、黄河と長江を含む広い地域で、竜山文化か起こりました。竜山文化は、薄手で光沢のある3本足の黒陶の使用か特徴です。それぞれの地城では、支配者層が強大な権力を持ち始めていたと考えられています。これがその後の数多くの国々の始まりでした。

さて上に日本の縄文時代の前期には長江流域で米の栽培が普及していたと書きました。
縄文時代は、最近では紀元前約1万3,000年から紀元前約300年前までと考えられています。その間の日本人は竪穴式の家に住み、まだ農耕は始まっていないで、漁業や狩猟、そして採集で食料を集めていました。そのような時代に長江流域では水田を作り米を栽培し食べていたのです。
その証拠は何処にあるのでしょうか?
長江下流の河姆渡遺跡から大量の米や藁、もみの層や水稲栽培に使った骨製のスキが発見されたのです。焼けた米の炭素の同位体分析からこの遺跡は紀元前5000年頃のものと推定されたのです。日本の縄文時代のほぼ中期の遺跡なのです。
河姆渡遺跡では、人々は高床式の住居に住み、機織りをし、衣服は自給し、犬や豚を飼っていた痕跡も発見されたのです。
そして近年、長江の中流域からは、河栂渡遺跡よりさらに古い彭頭遺跡が発見され、紀元前1万年前後の水稲栽培の跡が発見されました。
紀元前1万年とは縄文時代の前期に相当します。
従来、稲作の発祥地は雲南・アッサム地方と考えられていましたが、最近では長江中流説が有力になったのです。
これにともなって、日本に渡ってきた稲作も、長江中流から朝鮮経由又は中国の福建、台湾、沖縄経由が有力視されるようになりました。
 
ついでに良渚文化と三星堆遺跡のこともご紹介します。
良渚文化は長江流域、下流デルタ地帯で発見された紀元前3000~2000年の遺跡です。黄河流域の黒陶竜山文化の時期です。
この良渚遺跡では大規模な集落遺跡の中に宮殿又は神殿の祭壇があり、住居跡の分布や墓地の状況から、貴族と戦士と奴隷の階層に分かれていたことが確認できています。ここで良質な玉器が大量に出土したのも中国では初めてのことだそうです。
さらに長江上流に近い三星堆遺跡で発掘された異様な仮面や人頭像、立人像など特色のある青銅器でした。
三星堆文化は、黄河と長江両文化の影響を受けながら独自の文化を残したと言われています。

ここで上の文章に出てきた6つのキーワードを整理しておきます。
仰韶文化。竜山文化。河姆渡遺跡。彭頭山文化。三星堆遺跡。良渚遺跡。
これら6つのキーワードを検索して調べると最近の中国の考古学の急速な発展を知ることが出来ます。
その他、岡部隆志先生の講演記録(http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-okb/sub13-3.htm )も大変分かり易い素人向けのせつめいです。
3枚の写真を示します。

1番目の写真は 仰韶文化の彩陶です。紀元前5000年から紀元前3000年あたりに作られたものです。仰韶文化は彩陶で有名で、職人は美しい白、赤、および黒の彩陶で人面、動物、および幾何学模様を作成しました。

2番目の写真は三星堆遺跡の貼金銅人頭像です。金箔でできた金面を被せた青銅人頭像です。極めて古い時代に属する三星堆遺跡から出土しました。

3番目の写真は三星堆遺跡から出た目の飛び出た青銅縦目仮面です。異形を呈する神の仮面です。世界最大の青銅製仮面で、異形を呈する巨大な青銅製の仮面であり、三星堆文化の代表的な考古遺物の一つです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

カトリック小金井教会のディン主任司祭の最後のミサ

2017年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム
カトリック教会では主任司祭が数年で交代になります。
これまで7年間、主任司祭を務めて下さったヨセフ・ディン神父さまが11月1日からカトリック習志野教会の主任司祭に転任されることになりました。
今日はヨセフ・ディン神父さまが司式をする最後のミサです。
昨日からの激しい雨にもかかわらず聖堂には溢れるほどの信徒が参集して、静かにミサが始まりました、お説教はディン神父さまがなさいました。カトリックの教会では毎日ミサがあります。その上、日曜日は3回のミサがあります。
ですからディン神父さまは7年間で3700回以上のミサをなさったのです。
この3700回のミサの他に結婚式やお葬式のミサや桜町病院でのミサなどが多数ありました。
ディン神父さまはこのように多数のミサだけでなく子供の日曜学校や卓球大会の世話をなさってくれました。
兎に角、信者の面倒見のよい神父様でした。
ミサの折りの説教も印象深いものでした。特にディン神父さまの素朴な信仰心には圧倒されました。信仰の優れた指導者でした。
ディン神父さまはベトナム戦争後、南ベトナムで神学生でした。しかし弾圧を逃れ、ボートピープルとして日本に渡って来たのです。そして当時の白柳大司教の指導で東京大司教区の神父に叙階されたのです。それは25年前のことでした。
7年間にわたって誠心誠意、主任司祭のお仕事をされたディン神父さまへ信徒は全員感謝しています。
ミサ後の昼食を兼ねた送別会も和気藹々と楽しい会でした。神父様は何も召し上がらず会場をゆっくりと廻り一人一人に優しく励ましの言葉をかけていらっしゃいました。
写真に、9月10日のミサを司式するディン神父さまとミサ後の敬老会の写真をお送り致します。
ディン神父さま有難う御座いました!

1番目の写真はミサの様子です。
2、3番目の写真は聖なるパン片を配っているのディン主任司祭様の写真です。
右で聖なるパン片を配っているのはベトナム出身のディン助祭さんです。
ディン助祭さんは9月23日に叙階して正式に神父になったのです。
4、5番目の写真は77歳以上の信者の敬老の昼食会の風景です。
食後、聖歌を少しだけ歌いました。5番目の写真にはギターで伴奏しているディン主任司祭が写っています。小金井で7年余り主任司祭をして下さっていますが、ギターがお上手とははじめて知りました。









参考資料:http://catholic-i.net/koramu/%E3%80%8C%E5%B0%8E%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%A6%EF%BC%8D%E5%8F%B8%E7%A5%AD%E5%8F%99%E9%9A%8E25%E5%B9%B4%E3%81%AB%E6%84%9F%E8%AC%9D%E3%80%8D%E3%83%A8%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3/
「導かれて-司祭叙階25年に感謝」ヨセフ・ディン神父
  召命のきっかけは
 3月8日、司祭叙階25周年を迎えました。司祭の道を考えるきっかけは、生まれ故郷のベトナムの小教区で司牧実習をしていた神学生が、教会学校で子供の僕と遊んでくれたことでした。
 教会の広い前庭でサッカーを楽しんだ後、侍者(祭壇奉仕)や祈り方を指導していただいたおかげで、神学生の道に魅力を感じ、小神学校に入りました。まだ、司祭になろう、という気持ちはなく、「あの神学生のようになりたい」という素朴な気持ちでした。
  難民として日本に
 1975年、ベトナム戦争終結で南北ベトナムが一つの共産主義国となり、教会の施設(学校や病院など)が閉鎖されたり、国有化されたりしました。僕が入っていた小神学校も閉鎖され、家に帰らねばならなくなりました。
 司祭への道に再度、挑戦したい、という強い思いから、小さなボートで国を脱出したのは、1981年㋄29日の真夜中のことです。海の上で3日たち、水も食べ物も無くなった時、日本に向かっていた液化天然ガス(LNG)のタンカーに助けられ、日本に上陸しました。
  粕谷神父との出会い
 日本では、徳島県の造船所で2年ほど働いた後、日本に定住するために品川の国際救援センターに受け入れてもらい、日本語を「あいうえお」から習い始めました。そこで粕谷甲一神父さまとの出会いがあったのです。粕谷神父さまは、毎日曜日にミサを捧げにセンターに来られ、侍者や聖歌の伴奏などのお手伝いを通して、お話しする機会ができました。そして、ちょうど3か月の日本語コースを終えた時、「東京教区の神学生になりたくないか」と声をかけてくださり、数か月後、白柳誠一大司教さまと養成担当司祭の面接を受けるために、関口の司教館に連れて行ってくださったのです。
  白柳大司教のはからいで
 面接の時は、まだ日本語が十分でなく、お2人の質問が全部は聞き取れず、自分の考えも表現しきれませんでした。それでも、気持ちは伝わったので、受け入れていただけたのだと思います。
 東京教区には外国人の司祭がいましたが、教区として外国人神学生を受け入れたのは初めてで、だいぶ戸惑っておられたようです。東京神学院でも、初の外国人神学生の受け入れとなり、日本語で授業を受けられなかった僕のために日本語学校を探したり、神学院での生活に早く慣れるように色々気を配ったりしていただきました。
 今振り返ってみれば、「感謝でいっぱい」の一言に尽きます。
 もし粕谷神父さまに出会わなかったら、もし白柳大司教さまがおられなかったら、僕は東京教区の神学生になり、東京教区の司祭になることができなかったかも知れません。お2人とも留学され、外国での生活を経験されていたこともあり、お1人は僕に司祭にならないか、と声をかけ、もうお1人は僕が司祭になることを受け入れてくださったのだ、と思います。神は、お2人を通して、僕を助け、導いてくださったので、今、小金井教会で皆さんのために働き、皆さんと共に叙階25周年のお恵みをいただくことができました。ほんとうに感謝しております。

熱帯植物の写真をお楽しみ下さい

2017年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム
今週は次のような宗教に関する記事を二つ書きました。
「佛教を簡単に理解する方法」(2017年10月25日)
「キリスト教を簡単に理解する方法」(2017年10月27日)

一休みして今日は神代植物公園の大温室で撮った熱帯植物の写真をお送りします。一昨日撮りました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)














日本共産党の社会的影響の良し悪し

2017年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム
明治5年以後、日本政府は隠れキリシタンの取り締まりを止めました。それ以来、数多くの宣教師が日本にやってきてキリスト教を布教します。
しかし洗礼を受けているキリスト教信者は人口の3%を超えることはありません。
同じ様にカール・マルクスの共産主義も日本に導入され、1917年のロシア革命前後から日本でも共産主義者が活発に活動を始めました。
しかし戦前は治安維持法の弾圧を受け、日本共産党は気息奄々の状態でした。
戦後もマッカーサーに弾圧されました。
しかし現在でも日本共産党は健在です。
先の衆議院選挙でも20名前後の当選者があり、参議院の15名と合計すると35名前後の国会議員を保持しています。

考えてみますと、数の上では少数ですが、キリスト教も共産主義も日本人の考え方へ大きな影響を与えて来たと考えられます。
個人的なことで恐縮ですが私には親しい共産党員の友人がいました。代々木の党本部で働いいて徳田久一や野坂参三の仕事を手伝って来たのです。
その方とは山林の中の小屋の庭のテーブルでお茶を飲みながら共産党の話を何度も聞きました。もう老境で達観の境地のような静かな話ぶりでした。
日本では共産党を忌み嫌う人が多いようですが、私はそれ以来、日本共産党の社会に与えた影響を客観的に考えるようになりました。影響の良し悪しを客観的に考えたのです。

今日は日本共産党のことを少し考えてみたいと思います。
日本共産党の歴史や活動経過は以下のURLに詳細に示してあります。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A#1923.E5.B9.B4.E3.80.9C1945.E5.B9.B4
この資料によってまず共産党の概略を示します。
科学的社会主義を党の活動原理としています。当面は対米従属と大企業の支配に対する民主主義革命を、そして将来的には社会主義的変革を目指すとしています。
2017年1月現在約30万人の党員を抱え西側諸国で最大規模の共産党です。国会議員数は、衆議院議員12名、参議院議員14名でそれぞれ野党第3党、野党第2党でした。また、約2800人の地方議員を抱え、日本共産党が与党の自治体は2016年12月現在53あったそうです。

共産党は伝統的に暴力革命を目指してきましたので、その歴史的事実から現在でも私は共産党へは投票はしません。
しかし共産主義は日本の貧しい農民や貧者の立場に立って政治活動するという側面を堅持して来たのです。その考え方は日本の他の政党にも、そして日本人の考え方にも大きな影響を与えて来たと考えられます。これが共産党の良い影響の一つです。

しかしその一方で、自衛隊を否定したり天皇制に反対していた過去の活動を私は忘れることが出来ません。兎に角、日本の伝統文化を全く無視するような感じがするのは私だけでしょうか?

しかし一つだけ感動的なことがあります。それは政治活動の費用を党員の個人献金と機関紙の「赤旗」の売上金だけで賄っていることです。
他の全ての政党は政府から各党に配られる政党補助金と大企業からの献金で政治活動をしているのです。これでは大企業優先の政策になるのは当然ではないでしょうか?
日本共産党は党規約で政治資金を、党費、党の事業収入および党への個人の寄付などによってまかなうと規定しているのです。
内訳は事業収入が最も大きく収入の9割近くを占め、そのほとんどが「しんぶん赤旗」等の機関紙誌の購読料収入です。
そして企業・団体献金と政党助成金は受取りを一切拒否しているもです。
支出面でも機関紙誌の発行事業費が6割以上をしめています。
このように、機関紙事業の規模が大きいことが資金を大規模化させており、例年、総額は日本の政党としては最大級の200億から300億円規模に達していると言われています。
一般に、他の政党の議員は政治資金の面で、党からの交付よりも政治献金を含めた自己資金に依拠する傾向が強いのです。ここに収賄罪の原因があるのです。
しかし日本共産党の議員は党が政治資金を支えているので企業や団体とは関係なく活動が出来るのです。
如何でしょうか?この政治資金の清潔感は他の政党も手本にすべきではないでしょうか?

しかしどの政党に投票すべきはいろいろな要因を考慮して人それぞれ決めることです。
もし仮に日本共産党が政権を取れるほど強大になったら、逆にその弊害も大きくなるのでしょう。現在の規模くらいが丁度良いのではないでしょうか。
それにしてもキリスト教も共産主義も西洋が生んだ文化です。それが日本の社会に大きな影響を与えているのです。やはり西洋文化は偉大だと考えざるを得ません。

今日の挿し絵代わりの写真は秋深い小金井公園の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





心が疲れたらKITAHOさんの花の写真を見る

2017年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム
ここ数日、衆議院議員選挙に関して以下のような記事を掲載いたしました。
「秋の花々を見て、衆院選挙の混乱を憂いながら決めました!」
2017年10月20日掲載。 
「今回の衆議院選挙はドラマチックで面白かった!」
2017年10月23日掲載。 
「戦争への道を進む安倍政権とトランプ大統領の関係」
2017年10月24日掲載。 
このように政治に関連したことを書くと心が疲れます。どうしても権力欲にからんだ問題なので心が荒れるのです。嫌な後味が残ります。
このような時は「KITAHOのデジカメ散歩」の花々の写真を見ます。そうして写真の説明文を読みます。その説明文がしみじみとして心が洗われるのです。気分がスッキリします。
彼は横浜に住んでいて、山梨県の甲斐駒山麓に別荘を持っています。
その別荘を訪問したことがあります。日当たり良い斜面を庭にしていろいろな草花を育てているのです。
その「KITAHOのデジカメ散歩」(http://kitaho321.blog25.fc2.com/page-1.html )から秋の花や黄葉の写真をお借りして皆様へお送りしたいと思います。
また説明文も原文のままお送りします。説明文の中の「秘密基地」とは甲斐駒山麓にある別荘のことなのです。
いつも転載を快く許してくれるKITAHOさんに感謝しています。

1番目の写真はオオセンナリです。
アサガオのような大きな花・・・オオセンナリの花です。初夏からずーっと開花し続けています。
ホオズキのような果実をいっぱいに付け、もう終盤を迎えようとしていますが、その美しいアサガオのような花は健在です。

2番目の写真はヤマイモの黄葉です。
デッキの脇に育てています『ヤマイモ』が美しい紅葉を見せ始めています。デッキの脇ですから、風当たりも少なく、葉がボロボロになっていません。
日当たりも良好で、美しい紅葉を魅せてくれます。さらにムカゴの収穫ができ、おいしいムカゴご飯が楽しめるという一石二鳥のものです。ムカゴご飯はホクホクしたムカゴを美味しく炊き込め、秋の貴重な食べ物です。

3番目の写真は雨の日のイワシャジンです。
庭の花たちも、すっかり少なくなりました。その中で、雨に打たれながらも素敵なブルーを魅せ続けている『イワシャジン』に目が止まります。
先週、秘密基地に入った際に、嬉しさの余り、最初にアップしたのがイワシャジンでした。
夏の天候不順からか、虫の攻撃に遭い、無残な姿を見せていたイワシャジンだけに、こうして何輪もの開花に漕ぎ着けてくれ、嬉しかったですね。
雨に濡れたイワシャジンは、花弁の色合いがしっとりと、一層に鮮やかに見え、素敵。さらに、水滴の効果もあり、美しさも倍増です。

4番目の写真はジューンベリー(June berry)の紅葉です。
 今年の紅葉はどうもパッとしません。
大風が2度ほど襲来し、木々の葉がボロボロです。さらに追い打ちを掛けるように、雨続き。
雑木林はの多くの木々は、紅葉する前に、落ち葉として終焉を迎えています。
それでも・・・・ジューンベリー(June berry)の紅葉が美しく始まりました。

5番目の写真はRosa filipes 'Kiftsgate' のローズヒップです。
中国原産の原種バラ・キフツゲートが発見されたのが、イギリスのキフツゲート庭園というから驚きます。
暴力的な伸長力があり、うかつに手を出す訳にも行かないバラです。
もちろん、横浜の家ではまったくと言って良いほどの不可能。
そんな原種バラを育てたく、八ヶ岳南麓の秘密基地で。
このキフツゲート( Rosa filipes 'Kiftsgate')、秘密基地では既に7mを越しています。
10mの展開もあり得ると言いますので、それは恐ろしいほどの伸長力ですね。
春には一重の白花をバレーボール大の房咲きを見せ、秋にはそのローズヒップを見せます。
昨年、枝を思いっきり整理しましたので、ローズヒップの量はだいぶ少なくなりましたが、それでも、美しい姿を魅せてくれています。

6番目の写真はRosa filipes 'Kiftsgate' のローズヒップ(赤い実)です。

如何でしょうか?
皆様も気分良い一日になりますように祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

戦争への道を進む安倍政権とトランプ大統領の関係

2017年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム
戦後72年も経過すると日本人も次第に戦争の悲惨さを忘れがちです。そんな時代に安倍総理は安定した政権を作ったのです。そして彼は日本の軍備強化を進めています。その上、彼は日米共同作戦に熱心なのです。
選挙に大勝した安倍総理は自信を持って戦争への道を歩き出したのです。勿論、平和憲法も改正します。

今日は北朝鮮とアメリカの軍事衝突が起きる国際的な条件と、安倍政権の動きに関して考えてみましょう。
まず戦後72年間のアメリカの行った戦争を振り返ってみます。
起きた順序からまず朝鮮動乱があり、ベトナム戦争があり、湾岸戦争やイラク戦争などがありました。
朝鮮動乱ではその後半に中国の人海戦術で38度線まで押し返えさせられ北朝鮮が成立してしまったのです。
ベトナム戦争ではソ連が武器援助をし中国が食料援助をしたので、結局はアメリカが敗北し共産主義の北ベトナムが南北を統一したのです。
湾岸戦争やイラク戦争では多国籍軍を編成しロシアも中国も干渉しなかったのでアメリカが簡単に勝ってしまいました。
イラク戦争では反米のフセイン大統領を逮捕し、処刑しました。
キューバ革命後、アメリカのCIAはカストロ政権を転覆させようとしましたがソ連のキュ-バへの支援で失敗します。
アメリカは自分に刃向かう国家を必ず滅ぼそうと戦争をして来たのです。
国家だけでなくリビヤのカダフィ大佐を殺し、アメリカの同時多発テロを指導したビンラーデンをパキスタンで急襲し暗殺しました。そして反米のイスラム国を好戦的なベドウイン族を軍事支援して崩壊させたのです。対イスラム国の戦争ではロシアもアメリカに協力しています。
このようなアメリカの行なった戦争を振り返ってみると、アメリカは反米国家や反米の個人的指導者は例外なく攻めて滅ぼそうとします。
その相手に中国やロシアが軍事支援や食糧支援をしなければアメリカが勝つのです。
この冷厳な歴史をみるとアメリカは間違いなく北朝鮮へ対して軍事的攻撃をしたいと思っているに違いありません。
そのためには中国とロシアが中立を守ってくれる必要があります。
アメリカは中国へ南沙諸島を与えるかも知れません。ロシアが中東に大きな軍事基地を作ることを承諾するかも分かりません。アメリカは自国の安全と利益の増大にとって何が良い外交戦略か常に客観的に研究しているようです。
ですからアメリカの外交活動が成功して、ロシアと中国が中立を守ることに確信が持てれば、アメリカは躊躇なく北朝鮮を攻撃し占領するでしょう。
そのような米中関係と米露関係が出来ると北朝鮮とアメリカの戦争は間違いなく起きると想定されます。
戦争が起きれば安倍政権の日本は参戦するでしょう。人的損害を最小にしようとしても戦争には戦死はつきものです。北朝鮮のミサイルが日本を攻撃します。戦争の惨劇が起きるのです。

このように戦争の危機が迫っているのが日本を取り巻く国際情勢なのだと思います。
それでは戦争を避ける方法はあるのでしょうか?
可能性のある方法はあるに違いありません。その議論と精緻な研究がはたして日本でなされているのでしょうか?
単に安倍総理がトランプ大統領と一緒にゴルフをして仲良くなるだけで日本の平和が守れるのでしょうか?
アメリカ国内で白人至上主義を暗に支持しマスコミから人種差別主義者と非難されているトランプ大統領だけと親密になることははたして日本の国益になるのでしょうか?
今回の自民党の大勝の結果をみると、安倍政権の北朝鮮に対する戦略を危惧せざるを得ません。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日、小金井公園で撮ったユリノキの大木とユーカリの巨木の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)










今回の衆議院選挙はドラマチックで面白かった!

2017年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム
今回の衆議院選挙にはいろいろな人間的なドラマがあって面白いものでした。それと同時に政治家の権力欲と政党の関係の構図が明快に理解出来ました。マスコミに人気のある個人と、主義主張を掲げる政党の関係の中で候補者が右往左往する様子が面白かったのです。
そんなドラマの中で選挙結果は次のようになりました。
自民・・279議席
立憲民主・・50議席
希望・・49議席
公明・・29議席
共産・・11議席
維新・・9議席
社民・・1議席
こころ・・0議席
諸派、無所属・・26議席
この結果は自民圧勝で、希望の党が惨敗です。小池さんに排除された枝野さんの立憲民主党が勝利し、野党の第一党になったのです。
安倍さんの個人的な考えで解散しましたが、それが作戦勝ちになり、自民・公明で憲法改正の提案が出来る3分の2以上の議席を獲得したのです。
それにしても今回の選挙には数々のドラマチックな場面があり大変面白い選挙でした。
そのドラマの幾つかの場面を演劇の第一幕から第六幕に見立てて振り返ってみましょう。
第1幕;安倍総理が偉そうに登場し、この時期に解散すれば自民党の議席が増えると宣言し独断的に解散しました。
第2幕;美しい小池さんが登場し、解散が政権交代のチャンスと高らかに叫びます。そして小池さんが「希望の党」を結成し、自らその新党の代表になりました。ここまでは恰好が良かったのです。
第3幕;希望の党のマスコミ人気を見た前原さんは小池さんと何故か意気投合してしまったのです。民進党の希望者は希望の党の公認候補になって良いと事実上の合流を認めたのです。これはあれよあれよという展開で吃驚してしまいました。
第4幕;小池さんは民進党のリベラルな枝野さん達を排除して合流を拒否したのです。それに驚いた枝野さんたちが「立憲民主党」という新しい政党を立ち上げました。まさしく泥縄の政党作りです。
第5幕;その結果、東京選挙区の比例代表政党からは民進党が消滅し、その代わり立憲民主党と希望の党が入り、合計9つの政党になったのです。
第6幕、安倍総理が呵々大笑しながら出てきます。自民圧勝で、自民・公明で憲法改正の提案が出来る3分の2以上の議席を獲得したのです。憲法を改正し、軍備を強化し北朝鮮を打倒したいようです。恐れ入りました。
そして立憲民主党の枝野さんがマスコミに引っ張りだこです。小池さんいにいじめられた枝野さんに同情が集まっているのです。でも野党第一党といってもたった50議席しか無いのです。国会で力は振るえません。こういうのを蟷螂之斧と言うらしいです。

以上の舞台劇を見ていると感慨深いのものがあります。
飛ぶ鳥を落とす勢いだった小池さんの哀れな姿です。栄枯盛衰、世の習いです。
そして選挙運動では日本の将来を左右する重要な国際問題は誰も議論しないのです。
日本人は国際問題に関心が無いです。
それから政党には一応、主義主張が掲げてありますが、誰もそれを重要視しません。無視して政治家は権力欲に従って行動します。
小池さんに排除された枝野さんの立憲民主党が勝利したのは源義経に同情したような現象です。

これらの日本の政治的な風景には考えるべき問題があります。しかし今日はこれでお終いにします。

今日の挿し絵代わりの写真は先週の富士山へドライブに行った時に撮った写真です。湖の写真は河口湖です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)










北海道からのエゾシカ肉と連載記事、「狩猟の趣味の深さ」

2017年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム
インターネットを通して知り合った三重県の『でいしゅうさん』は若い時から狩猟の趣味を持っています。毎年、10月になると北海道の中標津や別海町のある道東地域に滞在してエゾシカ猟をしています。
昨日、エゾシカのロースやモモ肉を今年も沢山送ってくれました。早速、ロースの一片を直火で焼いて食べたら鹿肉の風味が実に美味しいのです。その野生の味から北海道の大自然を思い出しました。
子供や孫達や近所の人に新鮮な鹿肉を贈りました。
この『でいしゅうさん』に昨年お願いして「狩猟の趣味の深さ」という連載記事を7回に渡って書いて頂いたのです。
その連載記事をもう一度読んでみました。
狩猟の趣味は猟銃を使うので一般には近づきがたい趣味です。多くの人はその内容をご存知ありません。
そこで今日は狩猟の趣味とはどのような趣味なのかご説明したいと思います。
そしてその後で、でいしゅうさんが書いた7回の連載記事を紹介したいと思います。

まずご理解頂きたいことは、鳥猟と、エゾシカ猟と、イノシシ猟とは全く違うということです。
鳥猟では良く訓練した小型の猟犬一匹だけを連れ、独りで静かに、静かに山を歩き雉やコジュケイやヤマシギなどを猟銃でとるのです。
この孤独な趣味の面白さは猟犬を愛し、根気よく訓練する過程にあります。
そしていよいよ山に分け入った時には、人間と猟犬と鳥との間の抜き差し無い緊張感が漂うのです。
猟犬が藪に飛び込む。鳥が飛び立つ。その一瞬にバーンと銃声がこだまします。それだけで全て終わりです。
鳥猟は孤独です。静かです。しかし奥の深い趣味です。
驚くべきことに猟犬にとってはウズラも雉も遊びであって、食物でないという事実です。
そこが大切です。褒めたり、ビスケットはやりますが、猟犬の生涯では一度も肉は食べません。

1番目の写真はでいしゅうさんが鳥猟に使っていたココという名の猟犬の写真です。2014年に老衰で死にました。そのことをでいしゅうさんは次のように書いています。
・・・「 ココには小綬鶏、ヤマシギ、ウズラも獲らせてもらいました。
そのココは沢山の楽しい思い出を作ってくれて、13年間の生涯を終えたのです。
思い出すと可哀想です。そしていろいろな動物に囲まれている釈迦の涅槃図を思い出します。ココのそばには私しかいませんでした。それは2014年のある夏の日でした。
ココの墓は美しい自然石で作りました。」・・・

2番目の写真はでいしゅうさんが鳥猟に使っていた水平二連銃の写真です。一発だけで仕留めていたそうです。

さて次に本州でのイノシシ猟をご紹介します。
イノシシ猟は騒々しいい猟です。数人の勢子と犬たちが山裾からイノシシを追い上げて来ます。山上の獣道の脇に隠れた撃ち手が身じろぎもしないで根気よく待っています。
イノシシが獣道を駆けあがって来て、近くまで来ても撃ちません。10m以内に来た時、落ち着いて静かに引き金を引きます。ドンと低い銃声一発で大きなイノシシが転がります。
これがイノシシ猟です。
この猟では勢子たちと撃ち手の人間的な信頼関係が猟の成果を決めるのです。
でいしゅうさんは孤独な鳥猟を十年以上してから、イノシシ撃ちを始めました。
小さな鳥を狙うでいしゅうさんの猟銃の腕を信頼している勢子たちが、彼が待っている位置にイノシシを追い上げるのです。

3番目の写真は仕留めたイノシシを担いで山を下りようとしている勢子たちの写真です。

三番目に道東の中標津町や別海町での蝦夷鹿猟の内容をご紹介します。
この鹿猟では現地に短期間ながら住み着いて農家や牧場の人々と仲良くなることが一番重要なのです。人間的な信頼関係が出来るとエゾシカの出る場所と時間帯を教えてくれるのです。禁猟区と猟区の境界を正確に教えてくれます。そして自分の畑や牧草地に彼が4輪駆動自動車を乗り入れて、猟銃を発砲することを許してくれるのです。
厳寒の猟期に畑の端や牧場の端に林の中から出てくる大きな雄のエゾシカを射程の長い猟銃で仕留めるのです。
何日も吹雪の農道や林道を4輪駆動車で一人で走り回ります。角が3段にもなった大きな雄のエゾシカだけを選んで撃つのです。
静まり返った白樺林に一発の銃声が木霊します。
・・・「憎しみの微塵もなくて鹿を撃つ」 泥舟・・・
これがエゾシカ猟です。
撃ったエゾシカの血が畑や牧草地を汚したら、でいしゅうさんはスコップで叮嚀に土をかけ綺麗にしてから立ち去ります。
そして鹿は現地の仲間の家の隣のに運び丁寧にロースやモモ肉を取り出すのです。
でいしゅうさんは撃った鹿やイノシシは全て食べます。友人へ贈って食べて貰います。これが死んだ動物に対する供養だと信じているのです。

4番目の写真は北海道の禁猟区で悠々と草を食べているエゾシカの姿です。

5番目の写真はでいしゅうさんがエゾシカを撃っている道東の疎林の風景です。

あまり長くなるのでこれでお終いにします。
最後に「狩猟の趣味の深さ」と題した7回の連載記事の題目と掲載月日を示します。

でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(1)品性の良い犬の訓練」
2016年10月04日 
でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(2)猟犬への深い愛が狩猟の決め手」
2016年10月05日
でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(3)山間部集落の獣害とイノシシ猟」
2016年10月06日 
でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(4)猟銃の種類と狩猟文化」
2016年10月08日 
でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(5)勢子と撃手の緊迫した連携」
2016年10月09日 
でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(6)猪と鴨を美味しく食べるこだわりの料理法」
2016年10月10日 
でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(7)正しい狩猟文化への諸問題」
2016年10月16日

ご興味のある題目の記事をお読み頂けたら嬉しく思います。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

秋の花々を見て、衆院選挙の混乱を憂いながら決めました!

2017年10月20日 | 日記・エッセイ・コラム
今年は季節の進みが早いようです。野山はもう晩秋のようです。
昨日、都立薬草植物園を散歩しながら黄葉した睡蓮のモザイクのような模様や秋の花々の風景を楽しんで来ました。

散歩しながら明日、投票日を迎える衆院選挙の混乱につぐ混乱を憂いました。
希望の党を作りながら自分は立候補しない小池さんの投げやりな態度と、地域政党の限界を見極めないで無節操にも合流した前原さんの無定見がこの大きな混乱の原因ではないかと考えました。このままでは安倍さんの独り勝ちになるでしょう。
多くの国民はどの政党の候補者へ投票すべきか迷っていると思います。あるいは無所属の方が良いのでしょうか?
詳しい考察は後にして、まず都立薬草植物園の睡蓮の葉の黄葉や花々の写真を示します。

1番目の写真は色とりどりに黄葉した睡蓮の葉のモザイク模様です。

2番目の写真はイヌサフランです。

3番目の写真はフヨウです。

4番目の写真はセイジです。

5番目の写真はチョウセンアサガオです。花の傍に丸い実もなっています。

6番目の写真は秋ソバの花です。

7番目の写真はコガネバナです。消炎剤や解熱剤に使えます。
このように美しく無心に咲いている花々を見たあとでドロドロした選挙の話は似つかわしいものではありません。
しかし明日は自分も投票に行きます。
そこで安倍さんの身勝手な解散の後で起きた混乱を明快に整理してみましょう。
(1)この時期に解散すれば自民党の議席が増えると判断したので安倍さんが独断的に解散しました。
(2)これを政権交代のチャンスと考えた小池さんが「希望の党」を結成し、自分がその新党の代表になりました。
(3)希望の党のマスコミ人気を見た前原さんは民進党の希望者は希望の党の公認候補になって良いと事実上の合流を認めたのです。しかし小池さんは民進党のリベラルな枝野さん達を排除して合流を拒否したのです。
(4)その結果宙に浮いた枝野さんたちが立憲民主党という新しい政党を立ち上げました。
(5)その結果、明日の比例代表政党の名前を書くべき政党名は以下の9の政党になったのです。
東京都選挙区の東京選挙管理委員会発表には以下の通りです、
http://www.h29syuugiinsen.metro.tokyo.jp/hirei/ichiran.html
日本共産党、
希望の党、
幸福実現党、
社会民主党
日本のこころ
立憲民主党
公明党
自由民主党
日本維新の会

支持政党なし、(衆議院議員定数、475)

以上が分かり易い整理です。
さて貴方は明日、個人名を書くべき投票は誰にしますか?政党名を書く比例代表では政党名はどの党にしました?

以上の混乱ぶりを見た多くの国民は幾つかの明快な事実が理解できたと思います。
(1)小池さんは本気で日本全体の将来を考えないで、都民ファーストだけに固執している。日本維新の会とともに地域政党の限界は地域のエゴにあることが判明した。視野が国際的でないのです。
(2)小池さんに排除される前に立憲民主党を作ったら枝野さんは立派な見識の持主と考えられたが、排除されてから泥縄式に立憲民主党をつくったので尊敬できない。
(3)上記のような野党勢力の醜い離合集散ぶりをみると、仕方が無いからやっぱり自民・公明の与党にへ投票しようという考え方が勢いを増している。

私は決めました。個人名の投票は仕方なく自民党の候補者にします。政党名は枝野さんの立憲民主党にします。
理由は2011年の福島原発爆発直後の当時の民主党政権の官房長官だった枝野さんの毎日の各地の放射能強度のテレビ発表が実に誠実だったからです。彼の国際感覚には疑問がありますが、人間として誠実な人です。そして国内政治家として優れた能力の持ち主と思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

小さな浜辺を探し、偶然素晴らしく美しい貝殻の博物館を発見!

2017年10月20日 | 日記・エッセイ・コラム
日本中の海岸は昔ながらの自然な砂浜がなかなかありません。岩の岸辺、そしてテトラポットの海岸が多いのです。
それでも、例えば鎌倉の由比ヶ浜や材木座の浜辺はよく昔のまま保存してあり、近くに大きな地下駐車場もあります。
由比ヶ浜の近所で生まれ、幼少の頃そこで育った家内は海を見ると必ずのように砂浜を探します。そして波打ち際を走ります。そのせいで私も海に行けば砂浜の岸辺を探すくせがついています。
今回の西伊豆や湯河原への旅でも波の打ち寄せる浜辺を探しました。
小田原から西の真鶴、湯河原、熱海、網代などの海岸は岩礁になっていて砂の波打ち際が無いのです。
よく考えたら真鶴駅前から南東に根気よく坂を下って行くと『岩』という名前の小さな浜辺があることを思い出しました。
この小さな砂浜は観光客の行かない隠れた砂浜です。
先日行った西伊豆と湯河原への旅の折りにも車で注意深く降りて行きました。
2003年にその小さな砂浜に下りていったことを思い出したのです。

1番目の写真は岩という名前の浜辺です。2003年にその小さな砂浜に下りていった時と全く同じ風景が広がっていました。

2番目の写真は岩海岸の左端にある岸壁です。波が白く砕けている光景は昔のままです。
そしてこの浜辺を見下ろすように2階建ての洋館が建っていたのです。玄関の右には「遠藤貝殻博物館」と小さな看板がかかっていました。

3番目の写真は当時あった「遠藤貝殻博物館」の写真です。今回行ったら取り壊し最中なのか作業用の覆いがかけてあり姿が見えませんでした。この写真は昔の博物館を記録した資料、(https://www.botanical.jp/library_view.php?library_num=308 )からお借りしました。
幼少の頃から砂浜で美しい貝殻を拾っていた家内が迷わず博物館に入ったのです。そこには世界中の美しい貝殻を蒐集し展示してあったのです。ガラスケースに入った色とりどりの貝殻が一面に輝いていたのです。貝殻がこんなに美しいとは知りませんでした。
遠藤さんは貝の研究をして世界の貝殻を蒐集したのです。その遠藤さんと、元気で上品な夫人が集めた貝殻の説明を丁寧にしてくれました。
そんな素晴らしい貝の博物館は岩海岸にはもう存在していません。
遠藤さんの未亡人が貝殻を全て真鶴町に寄贈して町立の「遠藤貝殻博物館」として真鶴半島の突端に一般公開しているのです。
調べてみましたら、その真鶴町立遠藤貝類博物館では 遠藤晴雄氏が生涯をかけて収集した4,500種50,000点の常設展示を行っているのです。
貝殻は真鶴半島の海岸で見つかるものから、日本各地、さらには世界の海からのコレクションです。
遠藤晴雄氏は1915年(大正5年)真鶴町生まれ、1929年から湘南の逗子開成中学に入学し貝に興味を持ちます。
その後、小学校や中学校の先生をしながら貝の研究を続けます。そして昭和天皇の海の生物の研究を支えていた京大の細谷角次郎教授に可愛がられ、葉山の御用邸に滞在される天皇陛下の収集に立ち会われたことも度々だったそうです。
学歴や博士号に関心が薄かったのでその生涯は民間の貝の研究者として過ごしました。最後は真鶴町の教育長を務めました。
現在の「遠藤貝殻博物館」の詳細は、そのホームページ、(https://www.endo-shellmuseum.jp/%e8%b2%9d%e5%8d%9a%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/ )に紹介してあります。

4番目の写真はこの博物館の展示の様子です。

5番目の写真はこの博物館の目玉ともいうべきオキナエビス貝の写真です。
この貝は日本にカンブリア紀(約5億4200万年前から約4億8830万年前まで)から現在まで生きているのです。
現在の生息域は深海に限られているようです。
調べてみると、オキナエビスガイ科の貝は主に水深 200-3000m の深海に底生生物として生息しているそうです。そしてオキナエビスの餌は主に海綿で、他に深海性のウミユリや八放サンゴなども食べるそうです。
このように5億年まえから現在まで、世界中に生きている貝を見ていると悠久の時の流れを感じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========================
浜辺で桜貝の美しい貝殻を拾った方々へ、さくら貝の歌のYouTube、を二つお送りします。
倍賞千恵子、https://www.youtube.com/watch?v=fF_J_KkZftI
鮫島有美子、https://www.youtube.com/watch?v=J91OKc9c2Ig
久しぶりにお聞きください。

富士山の今年の紅葉をお楽しみ下さい!

2017年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム
一昨日までの5日間は秋の雨の日が続きました。そして昨日だけ晴れ上がり、今日から又6日間雨が続くという天気予報です。そこで昨日は富士山の5合目までスバルラインを登り紅葉の写真を撮って来ました。
まず河口湖から雲がかかった富士山の写真を撮り、3合目と4合目の紅葉の樹々の写真を撮りました。5号目まで登ると空は晴れ上がり富士山の頂上の方向の山肌が見えました。
そんな順序で10枚の写真をお送りいたします。紅葉の風景をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。



















このような美しい紅葉の風景を眺めていると騒がしい衆議院議員選挙のことや北朝鮮とトランプさんのいがみ合いが遠い世界のまぼろしのように感じられます。
大自然は静かで平和です。
春が来ると木々の枝に新芽が出て、やがて小さな葉がでます。
カッコーの声とともに新緑の林が皐月の風に揺れます。
夏になれば樹々が深緑になり青空に白い雲が湧き上がります。
何回か雨が樹々を濡らし冷たい秋の日々がやって来ます。
そうして今日お送りしたような紅葉や黄葉が華やかに山を飾るのです。
やがて枯葉となり、落ち葉して間もなく雪が降り一面の雪景色になります。
こうして毎年静かに四季がめぐり年月が流ていくのです。

この富士スバルラインを車で5合目に初めて登ったのは1964年でした。東京オリンピック開催に合わせて開通した直後に登った記憶があります。あれから茫々53年間の年月が流れました。いろいろな事がありました。
しかし昨日は全てを忘れて紅葉の樹々に見とれて来ました。
私は車の運転をして、写真は素早く動ける家内が撮ってくれました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===富士スバルラインに関する参考資料================
富士山五合目は、古くは江戸時代から富士登山(富士講)の玄関口として賑わったところで、富士スバルラインは1964年(昭和39年)に開業して以来、50年以上の歴史を持つ。山梨県営初の有料道路で、1964年東京オリンピック開催に合わせて開通した。富士山有料道路の開通により、山頂側の富士五合目は富士登山や富士観光の一大ポイントとなっている。五合目より下の吉田口などの登山道は利用者が減少することとなり、これにより登山道に所在する山小屋は衰退し、山小屋に安置されていた富士信仰に関する彫像の多くも山から下ろされ所在地を移転している。
7〜8月の夏期シーズン中は、平日でも富士登山客で大変混雑することから、交通渋滞の防止と環境保護のため、静岡県側の表富士周遊道路(富士山スカイライン)の登山区間とともにマイカー規制が実施される。冬季閉鎖はない。
富士スバルラインは、雄大な富士の自然と景観の中を走る道路として高い評価を受けて、同県道路線上にある河口湖大橋とともに、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」の「雄大な富士の道」として選ばれており、その顕彰碑は国道139号交点・スバル立体付近の沿道にある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1%E6%9C%89%E6%96%99%E9%81%93%E8%B7%AF


 白崎謙太郎 著、「西伊豆へのある帆走の思い出」

2017年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム
10月12日に掲載しました「遥かなる西伊豆、戸田、三津浜の海に憧れる旅」に対して白崎謙太郎さんが以下のようなメールを送って下さいました。ここに感謝してご紹介致します。
===白崎謙太郎 著、「西伊豆へのある帆走の思い出」===========
後藤さん・・良いご旅行でしたね。西伊豆の戸田に行かれたのに岬の先端にある「戸田号」の博物館に行かれなかったようなのは残念です。江戸末期来日中の帆走軍艦「ディアナ」号を失ったロシア人たちが戸田で日本人船大工を指導しながら洋式帆船を作りました。70フィートくらいの二本マストのスクーナーですが、ロシアのヨットクラブの制式艇のヨットの図面がありました。そこで雇用された日本人船大工は和船とは作りの異なる洋式造り驚愕でしたが、技術をしっかりおぼえその後の本の造船界のリーダーになりました。費用は徳川幕府が出してあげましたが、のちにその費用と「戸田」号と同じ艇を作って返してくれました。当時勝海舟や小野友五郎が学んでいた正式機関の「長崎海軍伝習所」でも洋式船の作り方を学びましたが、その時のオランダ人所長のカッティンディーケは「長崎海軍伝習所の日々」(素晴らしい本です)という本を書いていますが、その中で勝や小野のようなエリートばかりではなく漢字も読めないような船大工の若者なども隔てなく入所させ教えました。日本の洋式船の建造技術の二つのルーツです。戸田の記念館にはそこでしか入手できない戸田の建造記の本が売っています。
三十年近く前、渡辺修治さんの「どんがめ」36フィートと世界一周レースで優勝した多田雄幸さんの「オケラ5世』(43フィート)と並んで航海し西伊豆を走り、始めて戸田に入りました。私は多田さんの44フィートに乗りました。
一緒に松崎に寄港し、当地の「岡村造船所」の皆さんに接待を受けました。当時「どんがめ」のクルーだったイギリス人の青年が猟師から撮れたてのイワシを沢山分けてもらい「このイワシは崩御したばかりなので新鮮です」と言いました。丁度昭和天皇が崩御されたばかりだったので、その言葉を使ったのです。もちろんそれはその青年のシャレだったのですが。白崎
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添付の写真は、「遥かなる西伊豆、戸田、三津浜の海に憧れる旅」の記事に掲載された写真です。





老人は楽しい思い出を背負って旅立って行く

2017年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は、老人は楽しい思い出を沢山リュックサックに詰めてそれを担いで旅立っていくという話を書きます。
人生を振り返ってみると楽しかったことは種々あり、とても一つのリュックサックに詰められないかも知れません。
そこで二つだけにしましょう。
一つは家族との楽しい思い出です。沢山ありますがギューッと圧縮してリュックサックの底に詰めます。
もう一つは楽しかった趣味の思い出を一つだけリュックに詰めましょう。それ以上欲張っていろいろな思い出を詰め込むとリュックが重すぎて三途の川が渡れなくなるのです。
楽しかった趣味の思い出を一つだけ選ぶのですが、選ぶものは何でも良いのです。人それぞれ何でも良いのです。
私は迷わず25年間楽しんだヨットの趣味を選びます。
そんな人もいないかと考えてみました。そうしたらヨットの楽しい思い出を背負って旅立って行った人を思い出したのです。
私は1973年に山梨県の甲斐駒岳の麓の山林を100坪ほど買い、そこに小さな小屋を建てました。
その近所の別荘地に35フィート位のクルーザーヨットが置いてあったのです。1974年から置いてありました。

1番目の写真はその別荘の入口に置いてあったヨットの写真です。
標高1000m位の山の別荘地にはるばる海から別荘の主が大型トラックに積んで陸送してきたのです。

2番目の写真はヨットを後ろから見た写真です。使いやすい広いコックピットが付いていてセイリングのあと何度も仲間や家族と船上パーティをしたに違いありません。
そして洒落た窓の並んでいるキャビンは寝心地が良さそうです。コックピットの下側もベットが入るスペースになるので、4、5人は泊まれそうです。広いので2口コンロと流し、それから電動水洗トイレやチャートテーブルもついていそうです。音質の良いステレオ装置もあるかも知れません。
別荘の主が長年、太平洋の外洋の荒波を乗り越えて帆走を楽しんだヨットです。
しかし別荘の主が年をとり体力が無くなり、ヨットを止めて、別荘を建てたようです。その時、愛艇と別れがたく運び上げたのです。
山小屋へ行く度にこのヨットのことが気になって何度か見に行きました。出来たら持ち主にお会いして、このヨットの楽しい話を聞かせて貰おうと1974年に別荘を訪ねましたが人が居ません。森閑としてヨットだけが留守番をしていました。
そしてヨットはその後30年、40年と少しずつ朽ち果てていきました。ここに示す写真は2007年に撮ったものです。その後、このヨットは別荘地から消えてしまいました。
持ち主はこのヨットの楽しい思い出をリュックサックに詰めて、それを背負って旅立ってしまったのです。
現在でもこの別荘地のそばを通るときこのヨットと持主との交友をあれやこれやと考えています。そして旅立った人は幸せだったと確信するのです。
私も旅立つ時は自分のヨットの思い出を背負って行こうと考えています。

3番目の写真は私が持っていた26フィートの小さなアメリカ製のヨットの写真です。
強風で船体を傾けながら霞ヶ浦の土浦港を帆走している写真です。こんなに傾いても横倒しにならないのは船底にあるキールのお蔭なのです。岸壁に繫いであった古い浚渫船の上から家内が撮ったものです。

4番目の写真はある晴れた日に土浦港に帰って来た時の帆走の様子です。

5番目の写真は沖に向かって帆走しているヨットの写真です。強風の日だったのでメイン・セイルは上げないでジブだけで疾走しました。

6番目の写真はキャビンの中にある2口コンロと流しの写真です。

7番目の写真は寝室に使っていた前部の部屋の写真です。右側の鏡の掛かっている板壁の裏に電動水洗トイレがあります。
この前部の小部屋に布団を持ち込んで家内と何度も泊まった楽しい思い出があります。
また大学時代の同級生が7人ほどで、よく冷えたシャパンを 飲んだことも4回ほどありました。
息子と嫁や孫達とパーティをしたこともあります。
そして筑波市にある茨城県の研究センターの方々もヨットのパーティにご招待したこともあります。
このようにヨットには楽しい思い出が沢山あるのです。
それだけではありません。ヨットの構造が感動的なのです。
驚異的な構造は三角形の帆を揚げ降ろし出来るように設計されていることです。帆の形を三角形にすると船は風上にも登れる性能を持つのです。真っ直ぐ風上に向かって走ることは出来ませんが、45度の方向へは登れるのです。
そして船底についている重いキールのお陰で横滑りしなでヨットは風上に登れるのです。
もう一つのヨットの構造の素晴らしさは一つ一つの部品の完璧な機能と形の美しさにあります。無駄の無いワイヤーの張り方、そしてワイヤーを固定する滑車やシャックルの巧妙な設計にはヨーロッパ人の知恵と職人のわざが詰まっているのです。
そして海水の入り難い場所にキャビンへの入り口がついています。簡素な手動ウインチもあります。キャビン入口には波で揺れても水平になる磁石板(コンパス)もあります。
私はヨットを50歳から75歳までの25年間家内と共に趣味にしていたお陰で、ヨットの構造を通してヨーロッパ文化の奥深さを楽しむことが出来たのです。ヨットの趣味で私の人生観が変わりました。人生が豊かになったのです。
ですから私はヨットの楽しい思い出をリュックサックに詰め、それを背負って旅立とうと決めています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

中国人は日本を恨まず、尊敬すらしている

2017年10月14日 | 日記・エッセイ・コラム
先日の10月11日に、「豊かな朝鮮文化を少しだけ知ろう!」という記事を掲載しました。そして韓国にある世界遺産を紹介しました。その上で朝鮮に古代からあった郷歌のことや百済、新羅、高句麗の三国時代の『三国史記』や『三国遺事』のことも紹介しました。
日本に萬葉集や古事記や日本書紀、源氏物語があったように百済、新羅、高句麗の三国にも同じような文学作品や歴史書があったのです。
今日は中国の世界遺産を紹介し、続けて中国人は本音として日本を恨んでいないどころか尊敬すらしている様子を書きたいと思います。
1980年代に私を招待してくれた北京鋼鉄学院の故周栄章教授と東北学院の金応培教授の本音の対日感情をご紹介したいと思います。

さて中国には2017年7月現在、52件の世界遺産が登録されています。そして世界遺産登録の前段階となる暫定リストは、59件もあるのです。その全てを示すと長すぎますので36の文化遺産だけを下に示します。
36の文化遺産(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%81%BA%E7%94%A3 )
万里の長城(1987年)
北京と瀋陽の明・清王朝皇宮(1987年、2004年拡大)
莫高窟(1987年)
秦始皇帝陵及び兵馬俑坑(1987年)
周口店の北京原人遺跡(1987年)
承徳の避暑山荘と外八廟(1994年)
曲阜の孔廟、孔林、孔府(1994年)
武当山古建築(1994年)
ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群(1994年、2000年・2001年拡大)
廬山国立公園(1996年)
麗江古城(1997年)
平遥古城(1997年)
蘇州古典園林(1997年、2000年拡大)
頤和園(1998年)
天壇(1998年)
大足石刻(1999年)
青城山と都江堰(2000年)
安徽南部の古村落—西逓と宏村(2000年)
龍門石窟(2000年)
明・清王朝の皇帝墓群(2000年、2003年・2004年拡大)
雲崗石窟(2001年)
高句麗前期の都城と古墳(2004年)
マカオ歴史地区(2005年)
殷墟(2006年)
開平楼閣と村落(2007年)
福建土楼(2008年)
五台山(2009年)
「天地の中央」にある登封の史跡群(2010年)
杭州西湖の文化的景観(2011年)
上都遺跡(2012年)
紅河哈尼棚田群の文化的景観(2013年)
シルクロード : 長安-天山回廊の交易路網(2014年)
大運河(2014年)
土司遺跡群(2015年)
左江花山の岩絵の文化的景観(2016年)
歴史的共同租界、鼓浪嶼(2017年)

他に12の自然遺産と4つの複合遺産や5つの文化的景観などがあります。
さて写真に1981年に周栄章教授が私を案内してくれた文化遺産の写真を示します。

1番目の写真は私が一番好きな頤和園の風景です。

2番目の写真は北京にある天壇です。

3番目の写真は北京の北の承徳にある避暑山荘です。

4番目の写真は西安の郊外にある秦の始皇帝の陵墓の傍にある兵馬俑の巨大な博物館です。

5番目の写真は北京の南にある北京原人の洞窟の傍にある発掘品の博物館です。

6番目の写真は北京城(故宮、紫禁城)の写真です。

7番目の写真は明の13稜の入り口にある発掘品の展示館への楼門の写真です。

この他に周栄章教授は万里の長城や古い関門や農村の普通の農民の家の中まで案内してくれたのです。
私はそれまでヨーロッパの文化遺産はかなり見ていました。しかし中国の文化遺産は私を圧倒したのです。
北京の場末の北京ダックが美味だという店で冷えていないビールを飲みながら周栄章教授は本音の対日感情を吐露し始めました。
「日本人は偉い!明治維新で近代化して欧米の植民地政策を撥ね飛ばしたのが偉い!」、と言うのです。
彼は共産党軍とともに天津市を国民党軍から解放して、その後の行政の仕事をした共産党員でした。
「私は日本人を恨みに思っていません。真珠湾攻撃も欧米植民地政策に立ち向かった自然な行為です。そして敗戦後も工業技術の向上に努力し、日本はまた一等国に返り咲いたのです」と言います。
そして「この日本の歴史は中国人に自信を与えたのです。」と、このような勢いで日本を褒めてくれたのです。
しかし私が満州国の建国や南京虐殺の話を持ち出しました。そうしたら革命で追放された愛新覚羅溥儀皇帝がもう一度皇帝になろうとするのは自然で、そんな例は中国の歴史に何度もあると言ったのです。
「南京虐殺はいけませんが、それより非道な話は日清戦争のあとの21ケ条の過酷な要求です」と言うのです。

さて現在の中国はGDPが世界2位になり軍事力も強大になりアメリカに対峙するほどになっているのです。
一方、日本のGDPは世界3位です。そして日本は先進八ケ国首脳会議のメンバーになっているのです。日本は唯一のアジアの非白人国として先進八ケ国首脳会議に入っているのです。
18世紀以来、欧米の植民地主義に苦しんで来た中国人の本音としては、常に欧米に対抗して『中国・台湾・日本・韓国・北朝鮮』の漢字文化圏がどのように競争するかという考えを持っています。

これが私の中国観です。この文脈で私は尖閣諸島問題も慰安婦問題も北朝鮮問題も考えています。そうすると中国が北朝鮮を陰で支援していても不思議ではないと思えるのです。
このような視点で私は日本と中国・台湾・韓国・北朝鮮との関係を時々考えています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)