後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

空気の動きをゆっくり楽しむ飛行船の素晴らしさ

2010年02月28日 | 写真

帆走子さんは「ロスミナの風」という楽しいブログ( http://rusmina-2.cocolog-nifty.com/blog/を書いていらっしゃいます。その中で飛行船の短い紹介記事を見つけました。

小生も昔から飛行船にあこがれていました。夢のような空の乗り物です。

Oshida21_21_2 そこで、株式会社日本飛行船のHPを色々調べてみました。埼玉県の桶川にある本田飛行場を営業基地にして、全国を回っている飛行船を運行している会社です。皆様も時々ご覧になったことがあると存じます。そのHPから美しい写真を転載致します。

写真は現在、日本の空を飛んでいる、ツェッペリンNT号の写真です。お楽しみ頂ければ幸いです。写真は全て株式会社日本飛行船のHPを出典としています。(http://www.nac-airship.com/ )

空気の動きをゆっくり楽しむ飛行船に乗ったとご想像なさってお楽しみ下さい。

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下の左は第一次大戦以前に開発されたツェッペリン号で、右は1916年に所沢から大阪へ飛んだ軍用飛行船「雄飛号」の写真です。

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アメリカ人の強力なトヨタ支持論を直接、是非お聞きください(翻訳字幕付き)

2010年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム

アメリカの今回の公聴会は、昔から自働車会社の集中していたデトロイト地方の下院議員や韓国自動車会社に関係の深い民主党議員が中心になって、野党の共和党議員を弱い立場に落とすために開催されたと言われています。そのような側面は確かにあります。

しかし事故が起きてからのトヨタの対応が悪かったのも事実で、その失敗が政治的に利用されたのです。トヨタの責任は否定しようもありません。

ところが理路整然としたトヨタ支持論を堂々と述べているアメリカ人が居ます。そのビデオを是非ご覧下さい。翻訳の字幕付きです。

http://www.youtube.com/watch?v=oSCcC42G9DA&feature=topvideos

このビデオはBYOOLの会員でマイフレンドの0099さんが送って下さったものです。

この擁護論は従来のGMやフォード、クライスラー、オールズモビル、などなどの過去のリコールの回数の平均に比べてトヨタのリコール回数が非常に少なく、品質が良いことを証明しています。そしてトヨタの悪い点も否定していません。

このような公平、且つ客観的な意見をインターネットで公表出来るアメリカ、その自由と平等な社会に感心します。この自由と平等こそがアメリカの強さであり、決して軍事力だけが強いのではありません。

それにしてもトヨタ車は日本でも使っている人が多いのに豊田社長は日本では謝罪しないのは何故でしょうか?アメリカだけでなく世界へ広がっているトヨタ車のユーザーへ謝罪する方法を考えるべきと思います。アメリカだけが五月蠅いからアメリカだけで謝罪すれば良いと考えているとしたら豊田社長の人間的スケールの問題です。

それにしてもトヨタの支持者がアメリカに居ることは、他の分野の日本企業全体にとっても大きな励みになります。「品質の良い製品を誠意をもって供給すればユーザーは必ずその会社の支持者になる」ということを強く証明しているのです。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


私達が住んでいるこの青い水の惑星を実感できる写真をご紹介します

2010年02月27日 | 写真

ネットの上で感動的な写真を見つけることが出来ます。数日前にも趣味人倶楽部の会員の「うらん39さん」という方の写真を発見しました。一瞬電気に撃たれたような強い感銘を受けました。自分の住んでいるこの惑星がこんなにも美しいのです。

宇宙船から見た青い地球の写真を見て、成程美しい水の惑星だと感心したことが忘れられません。下にご紹介した「うらん39さん」の写真は地上から見た青い惑星の写真です。宇宙船から撮った地球の写真を想像しながら見ると、この星の上に生きている全ての生き物が貴重で、かけがえのないものと心に迫ってきます。貴方もその貴重な生き物のひとつなのです。この美しい惑星に生まれた幸をしみじみと感じさせる写真です。転載を許可して下さった「うらん39さん」へ感謝いたします。有難う御座いました。

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電燈の無かった江戸時代や中世の夜の世界の恐ろしさ

2010年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム

電気の無い山林の中に小屋を作り、泊ってみると夜が恐ろしいのです。室内はローソクで少し明るいのですが、一歩外に出ると周りの雑木林は漆黒の闇です。風が木々の枝をゆすり不気味な音を立てています。時折、キキーと名も知らぬ鳥が鋭く鳴きます。懐中電灯を持って小屋から10mも離れると、理由も無く恐怖感が身を包みすぐに小屋へ逃げ帰ります。電燈のついている人家はそこから800mも向こうです。暗い林に遮られて燈火が見えません。そんな時にかぎって耳無し芳一の怪談を思い出したり、江戸の妖怪、ノッペラボウ、アズキババア、一つ目小僧の唐傘オバケなどを思い出します。彼等が突然生き返って、小屋の外を歩き回るのです。下の写真は小屋の窓から見た夕闇せまる雑木林の不気味な写真です。

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電燈の無かった時代の夜の森の恐さは日本にかぎったことではありません。 堀田善衛著の「路上の人」を読むと中世のヨーロッパの夜の森の恐怖が書いてあります。森を抜けて旅をする貴人や僧侶の従者として旅案内をするヨナという男の苦労が書いてあります。旅の苦難は森の闇だけでは無いのです。森に紛れて住んでいる追い剥ぎ達もいます。中世のヨーロッパは夜の闇が支配する世界だったのです。ヨナは森に闇が迫る前に泊る旅籠へ着くための近道を知っています。追い剥ぎとキノコ採りの村人との見分け方を知っています。

電燈があり、新幹線や飛行機で旅をする我々がそれの無かった時代の人々の自然へ対する恐れや闇夜の不気味さをつい軽々しく考えてしまいます。それは大きな間違いと思います。漆黒の闇の山林の中の小屋では魑魅魍魎が窓から入らないように鉄製の鎧戸をしっかり締めます。なるべく多くのローソクを点けます。そして江戸時代の農村や山村の人々の夜の過ごしかたを想像しながら、故も無く、何故か豊かな気分になります。そんな山林では月明かりが嬉しいのです。15夜の月は本当に明るくて夜でも出歩けるのです。月光がこんなに助かるということを初めて知りました。

私自身が経験したことですが、ドイツのある町で年に一回だけ電燈を消す日があります。そして子供達が作った提灯にローソクを灯し、町を練り歩くお祭りをします。毎年一回くらい日本全国が電燈を消す夜を持つようにすれば良いと思います。そんな夢を持っています。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


海上での事故や遭難は完全に自己責任です

2010年02月26日 | うんちく・小ネタ

昨日、霧の中をセイリングして色々考えてみました。自分の安全は自分だけで守り、他人様へ迷惑をかけてはいけません。そこで霧がかかった空気の見通しの距離を目測しながら進みました。見通しは方向によって1kmから2kmの間を変化しています。霞ヶ浦では高速船が走りませんからこれで十分安全です。毎日走る船の種類と航路も知っています。航路に近づかないでセイリングを楽しみました。下の写真の砂利運搬船が1時間毎に決まった航路を走っていました。他には遊びのモーターボートが1隻いましたが、こちらを気にして離れて走っています。あとは自分が落水しないように何時もより慎重に船内を動きました。

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海上での衝突は自己責任で回避します。遭遇する船のどちらに優先権があるという規則はありますが、大きな船が来たら小さい船が逃げるのが鉄則です。逃げないで衝突すれば小さい船が沈没します。命も落とします。この時非常に重要なことは小さな船は大きな船へ、どちらの方向へ逃げるかを大げさに教えることです。大きく舵を切り、船腹を大きな船に見せ、その後は走る方向を変えません。上のような砂利運搬船が見えたら、大きく舵を切り、こちらが逃げますと知らせます。相手は分かったというように反対向きへ船首を少しだけ動かします。その後はこちらが逃げ回ります。

見通しが良い時はこれで問題ありません。以前に、海上自衛隊のミサイル艦と漁船が衝突し、漁船が沈没しました。海難審判ではどちらも悪いという判決で、海上自衛隊がマスコミで非難されていました。しばらく年月が過ぎましたので私の本当の感じ方を書きます。どちらが良い悪いという問題ではなく、漁船の船長を尊敬できないと感じました。同じグループの他の数隻の漁船は海上自衛隊のミサイル艦を逃げて安全に航行していたのです。暗夜に海上を走る以上はレーダーなどで他の艦船を監視して、大きな船が来たら、いつでも逃げ回れる態勢で走るのが鉄則です。自衛隊の艦船は自分と同じくらい大きな船には注意しますが、小さな漁船は注意しないのが自然です。「小さな船が逃げ回る原則」のためです。

自衛隊の艦艇は航海灯をつけていたのですから前方を見ていれば回避出来たのです。船室内で仕事をしていたのでしょう。それでは衝突します。

「海上での安全は自己責任で守る」。これは万国共通の原則です。ですから船長には大きな責任があります。その一方で、船長には逮捕権があります。船内で結婚する夫婦の結婚証明書を発行する権利もあります。しかし自分の船が沈没すれば理由のいかんを問わないで100%船長だけの責任です。船長が沈没する船と運命を共にするのはその責任をとって死んで行く行為です。水の上は陸の上とは違う、まったくの別世界なのです。霧の中でヨットに乗っていると別世界ということが体験的に理解出来ます。海難審判では多くの場合、両方に注意義務を怠ったという判決になります。その背景には海上は別世界なので自己責任で安全を守りなさいというメッセージの意味もあると思っています。私の理解は間違っているでしょうか?どなたかにご指導を頂ければ嬉しく思います。(終り)


チャッピーさんの高画質写真をお楽しみ下さい

2010年02月26日 | 写真

趣味人倶楽部で高画質写真を発表されている方を見つけました。チャッピーさんという方です。転載のお許しを頂きましたので、その中から4枚だけご紹介します。

彼の写真機が高級カメラというだけではありません。全国へ旅して撮影場所に何時間も頑張って最高のシャッターチャンスで素晴らしい写真を撮っていらっしゃるのです。その努力と打ち込み方に感銘を受けます。写真は上から順に、松江の宍道湖の夕日、広島の厳島神社の大鳥井、夜のレンボー・ブリッジと屋形船、そしてシラサギの近影です。出典は、http://sumukuwabara.cocolog-nifty.com/photos/tyapp..です。

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====趣味人倶楽部でのチャッピーさんの自己紹介====

はじめまして。一昨年退職し、現在はデジタルカメラでの撮影を唯一の楽しみとしています。同じ趣味の方とお付き合いしたく、趣味人倶楽部へ入会いたしました。宜しくお願いします。下記写真集へお立ち寄りいただければ喜びます。マイアルバムの元アルバムです。http://sumukuwabara.cocolog-nifty.com/photos/tyapp..
陳謝:柄にもなく複数の写真に複数の方から拍手をいただくと、パソコンの前にいつも座っている訳ではないチャッピーは、どの写真のどの方にお礼を差し上げたのかが分からなくなってしまう昨今です。
還暦を過ぎて2年、まだまだ若いつもりでしたが、頭脳の細胞が少しずつ、いや大量に消滅し始めているのかもしれません。===以下省略==


日本人は率直に謝ります、欧米人は謝りまりません。何故でしょうか?

2010年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム

日本人は本来、謙虚で自分の失敗をすぐに認め、謝ります。しかし欧米人は傲慢で絶対に謝りません。こういう言い方を良く聞きます。

同じ人間なのに、こうも違うのは何故でしょうか?

日本人は相手が怒ったらろ、とりあえず、すぐに謝ります。そういう風に子供の頃から躾けられています。議論をしてどちらが正しいかを考えません。議論を始めると最終的に損をする結果になる事が多いのです。「謝罪」は社会的に要求されるてもいます。「謝罪」をすれば難問も解決することが多いのです。

欧米人が謝らないのには二つの理由があります。キリスト教国の人々は、「悪い事」をした時はまずイエス様へ謝り、許しを乞います。それが済むと、迷惑をかけた他人へ謝ることを忘れてしまいます。しかしこれは充分ではありません。イエス様は言います。汝の隣人を愛せよ、と。愛しているなら謝るのが自然です。それを怠るのは怠りの罪です。人間は本来傲慢な性向を持っています。イエス様に謝ったのだから迷惑をかけた相手には謝らなくとも良いと自分に都合よく考えます。

もう一つの理由は自分の失敗を認めたなら、責任を取って損害賠償をしなければなりません。そのような社会的契約がイスラム教、ユダヤ教、キリスト教を背景にした社会に昔から厳然と存在していました。

アメリカで交通事故をおこしたら絶対に謝るなと言います。損害賠償が巨額になるからです。しかし公園や路上で、アメリカ人がぶつかりそうになると慎しやかに謝ります。路上や公園で軽くぶつかるのは損害賠償をしなくてよいからです。

昨日、アメリカ議会の公聴会で豊田社長はキチンと謝りました。そして二度と、今回のような失敗をして、トヨタ車のユーザーに迷惑をかけないようにすると約束しました。アメリカのマスコミは豊田社長の公聴会での謝罪を高く評価しました。

その事もあって、アメリカのトヨタ販売店やトヨタ工場で働いている人々が豊田社長を激励する会合をして、「我々は常に貴方の味方です」と言ったのです。豊田社長が感激のあまり泣き出していました。

欧米だろうが、イスラム教国だろうが謙虚に謝罪することは人間の美徳です。欧米でも謝罪は重要なことと考えられています。しかしそれをしないで傲慢の罪をおかす人々が多いのです。それだけに豊田社長の「損害賠償をする決心」に裏付けられた謝罪は高く評価されたのだと思います。

今回の豊田社長の態度は立派でした。ただもっと早く記者会見をして謝罪すればより良かったのかも知れません。豊田社長にとっても貴重な経験になったと信じています。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


土浦市は太平洋へつながっています

2010年02月25日 | うんちく・小ネタ

太平洋の漁業基地の銚子港から利根川を20km遡り、霞が浦の東の外浦へ入り、古い利根川を20km走り、霞ヶ浦へ入り、40km巡航するとJR土浦駅の東口につきます。合計80kmの航路です。今朝、ヨットの係留地へ行きましたら、銚子港の漁船が泊っていました。ヨットでもマストを倒して、幾つかの橋を潜って80km航行して行くと太平洋へ出られます。私は行ったことはありませんが、隣のヨットの亡くなった友人は何度か太平洋へ出て、九州までセイリングしていました。その友人を思い出して銚子から来た魚船の写真を撮りました。個人的な日記で恐縮です。

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霧の霞ヶ浦でセイリングをして来ました

2010年02月25日 | 写真

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今日は7時に家を出たので、9時40分にはセイルを上げられました。一面深い霧です。霧の中のセイリングはロマンチックです。キャビンの中のステレオでショパンのピアノ曲を聴きながら、霧の湖面を滑るように走ります。風が弱かったので舵を固定してキャビンの中で寛ぎながら走りました。

3時間も沖に出たのですが霧は晴れません。黒い点のように見える鴨類だけが湖上に存在するものでした。結局、帰港するまで深い霧が漂っていました。

このような霧の中のセイリングは久しぶりだったので、その楽しさに少し興奮しました。

ごく詰まらない写真ですが3枚お送りいたします。(終り)


日本が世界に誇れる都市、それは長崎です

2010年02月25日 | うんちく・小ネタ

日本には世界の人々へ誇れる町や自然が多くあります。江戸時代の町が保存されている高山や、合掌作りの白川郷もあります。富士山もあります。松島や天の橋立のような絶景もあります。

その一方で、宗教的な理由のために、キリスト教国の人々が尊敬している都市があります。それが長崎です。

日本人が260年間の禁教にもかかわらず信仰を守り抜いた所です。隠れキリシタンが明治維新の直後に外国人神父へ信仰を告白しました。26聖人の銅像があります。そして長崎で6年間活躍したコルベ神父が1982年に聖人になったのです。その時の列聖記念銅像もあります。その銅像へヨハネ・パウロ2世が花輪をささげに来ました。

そしてあのマザーテレサも来てくれたのです。一緒に御祈りしてくれたのです。下にその時の写真を掲載致します。出典は長崎市の本河内教会のHPからです。

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この長崎ヘアメリカは原子爆弾を落としたのです。その事で、心あるアメリカ人は罪深さを感じているはずです。原爆で廃墟になった長崎に、なにも起きなかったように教会が蘇り、祈りが静かに続いているのです。このような都市こそ、我々が世界中の人々へ誇れる都市と思います。いかがでしょうか?(終り)


悲劇の国、ポーランド(9)ポーランド出身のローマ法王がコルベ神父を偲び長崎へ来る

2010年02月25日 | うんちく・小ネタ

1939年、ポーランドを占領したドイツ軍が全国に8ケ所の絶滅収容所を作り、270万人のポーランド在住ユダヤ人を殺戮し尽くしたことは前回書きました。カトリックの神父も処刑されていたのです。悲惨な収容所で、マキシミリアーノ・コルベ神父が一人のユダヤ人の命を助けるために処刑されたのです。その悲劇の国で生まれた一人の男がローマ法王になるのです。ヨハネ・パウロ2世です。イタリア人以外が法王になるのは445年ぶりです。

戦乱と絶滅収容所跡を見て育ったパウロ2世は世界平和の為に諸国を飛び回り、各地の信者とともに平和の祈りをします。そして1981年に日本にも来ます。日本のカトリック信者のために東京で盛大なミサをしてくれました。しかし彼の日本訪問にはもう一つの大きな目的があったのです。長崎へ行って日本の26聖人をはじめ多くの殉教者を讃え、そしてコルベ神父の活躍の跡を辿り、記念聖堂でお祈りをするという大きな目的です。コルベ神父は1930年から1936年まで長崎で働いていたのです。

Slide31 長崎の西の郊外にある「本河内教会」には、コルベ神父の銅像があります。この写真はこの教会のHP(http://www1.odn.ne.jp/tomas/hongouti.htm )から転載しました。

コルベ神父の記念聖堂もあります。彼が作った「聖母の騎士修道院」もあります。コルベ神父の活躍を偲ぶものが沢山あるのです。ヨハネ・パウロ2世は長崎への旅を「巡礼の旅」とも言っていました。同じポーランド人のコルベ神父がユダヤ人を助けるために死んだのです。ヨハネ・パウロ2世がコルベ神父の銅像へ花輪を捧げ(右)、コルベ記念聖堂で祈っている様子(左)の写真を下にしめします。(写真の出典は、http://www.seibonokishi-sha.or.jp/in20.htm です。)

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Korube041111 コルベ神父記念小聖堂の写真を左に示します。(写真の出典は上の写真とおなじです)

パウロ2世はこの直後の1982年にコルベ神父を聖人として公認しました。それまで聖人はキリスト教の信仰を捨てないために殉教した人々に限られていました。

それが異教徒の人の命を救う為に死んだ人も聖人として認めたのです。聖人にたいする新しい考え方を導入したのです。

パウロ2世は戦争に巻き込まれた悲劇の国に生まれ育ったのです。出国以来はじめて、1979年にポーランドの土を踏み、地面にぬかづいたのです。宗教の違いを先鋭化すると戦争の原因になると理解していました。違う宗教の人々と積極的に会い、友好を深め、世界平和のために協力し、努力したのです。

例えば日本へ来た時も、ローマ法王は神道信者の昭和天皇を表敬訪問しました。そしてキリスト教諸宗派の代表や仏教の諸宗派の代表と会い、異宗教や異宗派の友好関係が宗教人にとって非常に重要なことを真剣に説明しました。この事実は読売新聞の2009年11月10日号の10ページ目のヨゼフ・ピタウ「時代の証言者」に書いてあります。仏教界はヨハネ・パウロ2世の態度を理解し、歓迎します。特に成田山新勝寺は広島での法王の平和メッセージが素晴らしいからと、そのメッセージを取り寄せました。そして平和大塔を作り、法王の平和メッセージをカプセルに入れて塔の基壇の下に埋めたそうです。仏教とキリスト教の協力で平和を守る祈りをしたのです。

ヨハネ・パウロ2世はキリスト教の全ての宗派を再び融合・統一する努力もしました。例えば聖ピエトロ寺院での祭祀にはイギリス教会(聖公会など)のカンタベリー大主教と東方の正教会のコンスタンティノポリス総主教と一緒に司祭しました。東方の正教会とはギリシャ正教、そしてロシア正教、日本正教会などを含みます。2000年前のイエス様のころはこれらの別々の宗派は存在しなかったのです。そのもともとの状態へ戻し、正しいあり方に復帰しようとする運動をエキュメニズム(教会一致促進運動)と言います。ヨハネ・パウロ2世は、別々の宗派の存在がキリスト教としてあるべき状態でないという強い信念を持っていたのです。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人

今回をもって「悲劇の国、ポーランド」の連載を終了とします。この拙い連載をお読み頂き、ポーランドへ想いを馳せて下さった全ての方々へ深い感謝をお送りいたします。

悲劇の国、ポーランドは人口の90%がカトリックの信者です。1991年に共産主義を止め、民主国家になって以来カトリック教会は勢いを取り戻しました。多くの国民の傷ついた心が、ヨハネ・パウロ2世によって癒されました。どんなにか強く癒されたか想像に余りあります。私の悲しみも少し救われました。


川合玉堂美術館へ行ったら是非河鹿園にお寄りください

2010年02月24日 | うんちく・小ネタ

JR御岳駅を降りると、左下に河鹿園という大正年間創業の古い旅館があります。その前が奥多摩の渓流で、その向側に玉堂美術館が見えます。建物が懐かしい木造で昭和初期の風流な内装です。そのような昔の風情の部屋に上がり昼食をとると楽しいものです。食事は電話で予約したほうが良い部屋に通されます。予約なしでも平日は良いようです。2月5日から3月28日までは我楽多市を開催中で、古い大きな座敷に茶器、陶器、など色々と楽しい小物が展示してあり購入できます。純益は今年も「国境なき医師団」へ寄付するようです。尚、廊下やロビーには宿泊した早川雪州、三国連太郎、古川緑波など映画俳優の色紙が展示してあります。玉堂の掛け軸も幾つかありました。玉堂美術館へお出かけの折にはお寄りするのもご一興と存じます。

なお河鹿円のHPは検索すると出てきます。電話は、0428-78-8218です。

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川合玉堂美術館訪問を心からお薦めいたします

2010年02月24日 | うんちく・小ネタ

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上の写真はJR御岳駅のそばの玉堂美術館の様子です。川合玉堂は明治6年愛知県に生まれ昭和32年に没しました。昭和19年から32年まで美術館のあるそばに住んでいました。奥多摩の自然を愛し、数々の傑作を世に送り出したのです。それで奥多摩の人々は郷土の誇りのように思っています。

01_100119img_011_2 紅梅白梅図は大きな六曲一双    、琳派風の絢爛たる力作のうちの2面です。昨日見た展示品の中で一番の圧巻でした。絵画の出典は川合玉堂美術館のHP(http://www.gyokudo.jp/)からです。

川合玉堂の絵画は自由闊達でのびやかです。上品で穏やかです。自然の風景、草木、小鳥などを愛する心が画面に温かい雰囲気をかもし出しています。

初め京都、円山四条派に学び、のち橋本雅邦に師事します。雅邦に学びながら次第に独自の境地を切り開いて行きます。544t8w1_2

この2枚の絵画は玉堂の生涯の傑作と絶賛される作品です。出典は、川合玉堂名画集http://www.u-canshop.jp/gyokudo/index_oad.html?cid=ovt133411です。上の絵は「行く春」で、下の絵は「彩雨」です。

「行く春」を何年も前に見たときの感動を忘れられません。ここに示した写真が小さすぎますので少々説明いたします。左から散りかけた桜花が画面中央へ伸びています。水豊かな山峡の流れに大きな水車を乗せた船が連なってしっかりと係留されています。激しい流れを使って水車を回す「水車船」なのです。船の中には臼がが並んでいて穀物を挽いているのが想像出来ます。雄大な自然と人々の生活が描がれているです。そして過ぎ行く春が時の流れのはかなさを暗示しています。

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絵は原画を見るに限ります。この写真も画質が粗いので少し説明いたします。この絵の下の方に2人の傘をさした女性が小さく描いてあります。それで雨が降っていると判然とします。その女性が精密に描いてあり、嫁と姑のように見えるのです。

勿論、傘の2人を見なくても風景が雨もよいに描いてあります。何か懐かしい風景がのびやかに描いてあります。玉堂の絵画の特徴を表している傑作です。

天才的な画家でも画風を変えようと苦悶する時期が一生の間に何度かあるものです。しかし玉堂にはその苦しみがなかったように見えるのです。自由に楽しみながら描いて一生を終えたのです。毎日、奥多摩を散歩してはスケッチし、画室に戻り絵筆をとり、楽しみながら描きました。その様子は美術館のロビーにある紹介ビデオで見ることができます。

是非一度、川合玉堂美術館へお出で下さい。新宿駅からJRで1時間30分です。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人