1939年、ポーランドを占領したドイツ軍が全国に8ケ所の絶滅収容所を作り、270万人のポーランド在住ユダヤ人を殺戮し尽くしたことは前回書きました。カトリックの神父も処刑されていたのです。悲惨な収容所で、マキシミリアーノ・コルベ神父が一人のユダヤ人の命を助けるために処刑されたのです。その悲劇の国で生まれた一人の男がローマ法王になるのです。ヨハネ・パウロ2世です。イタリア人以外が法王になるのは445年ぶりです。
戦乱と絶滅収容所跡を見て育ったパウロ2世は世界平和の為に諸国を飛び回り、各地の信者とともに平和の祈りをします。そして1981年に日本にも来ます。日本のカトリック信者のために東京で盛大なミサをしてくれました。しかし彼の日本訪問にはもう一つの大きな目的があったのです。長崎へ行って日本の26聖人をはじめ多くの殉教者を讃え、そしてコルベ神父の活躍の跡を辿り、記念聖堂でお祈りをするという大きな目的です。コルベ神父は1930年から1936年まで長崎で働いていたのです。
長崎の西の郊外にある「本河内教会」には、コルベ神父の銅像があります。この写真はこの教会のHP(http://www1.odn.ne.jp/tomas/hongouti.htm )から転載しました。
コルベ神父の記念聖堂もあります。彼が作った「聖母の騎士修道院」もあります。コルベ神父の活躍を偲ぶものが沢山あるのです。ヨハネ・パウロ2世は長崎への旅を「巡礼の旅」とも言っていました。同じポーランド人のコルベ神父がユダヤ人を助けるために死んだのです。ヨハネ・パウロ2世がコルベ神父の銅像へ花輪を捧げ(右)、コルベ記念聖堂で祈っている様子(左)の写真を下にしめします。(写真の出典は、http://www.seibonokishi-sha.or.jp/in20.htm です。)
コルベ神父記念小聖堂の写真を左に示します。(写真の出典は上の写真とおなじです)
パウロ2世はこの直後の1982年にコルベ神父を聖人として公認しました。それまで聖人はキリスト教の信仰を捨てないために殉教した人々に限られていました。
それが異教徒の人の命を救う為に死んだ人も聖人として認めたのです。聖人にたいする新しい考え方を導入したのです。
パウロ2世は戦争に巻き込まれた悲劇の国に生まれ育ったのです。出国以来はじめて、1979年にポーランドの土を踏み、地面にぬかづいたのです。宗教の違いを先鋭化すると戦争の原因になると理解していました。違う宗教の人々と積極的に会い、友好を深め、世界平和のために協力し、努力したのです。
例えば日本へ来た時も、ローマ法王は神道信者の昭和天皇を表敬訪問しました。そしてキリスト教諸宗派の代表や仏教の諸宗派の代表と会い、異宗教や異宗派の友好関係が宗教人にとって非常に重要なことを真剣に説明しました。この事実は読売新聞の2009年11月10日号の10ページ目のヨゼフ・ピタウ「時代の証言者」に書いてあります。仏教界はヨハネ・パウロ2世の態度を理解し、歓迎します。特に成田山新勝寺は広島での法王の平和メッセージが素晴らしいからと、そのメッセージを取り寄せました。そして平和大塔を作り、法王の平和メッセージをカプセルに入れて塔の基壇の下に埋めたそうです。仏教とキリスト教の協力で平和を守る祈りをしたのです。
ヨハネ・パウロ2世はキリスト教の全ての宗派を再び融合・統一する努力もしました。例えば聖ピエトロ寺院での祭祀にはイギリス教会(聖公会など)のカンタベリー大主教と東方の正教会のコンスタンティノポリス総主教と一緒に司祭しました。東方の正教会とはギリシャ正教、そしてロシア正教、日本正教会などを含みます。2000年前のイエス様のころはこれらの別々の宗派は存在しなかったのです。そのもともとの状態へ戻し、正しいあり方に復帰しようとする運動をエキュメニズム(教会一致促進運動)と言います。ヨハネ・パウロ2世は、別々の宗派の存在がキリスト教としてあるべき状態でないという強い信念を持っていたのです。
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人
今回をもって「悲劇の国、ポーランド」の連載を終了とします。この拙い連載をお読み頂き、ポーランドへ想いを馳せて下さった全ての方々へ深い感謝をお送りいたします。
悲劇の国、ポーランドは人口の90%がカトリックの信者です。1991年に共産主義を止め、民主国家になって以来カトリック教会は勢いを取り戻しました。多くの国民の傷ついた心が、ヨハネ・パウロ2世によって癒されました。どんなにか強く癒されたか想像に余りあります。私の悲しみも少し救われました。