後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

『雪の降るまちを思い出だけが 通りすぎてゆく』

2025年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム
私が東北地方に住んでいた頃、「雪の降るまちを」という歌謡曲が流行っていました。ですから雪景色の写真を見ると「雪の降るまちを」という歌を必ず思い出すのです。

「雪の降るまちを」は1952年にヒットした内村直也作詞、中田喜直作曲の歌でした。この曲は1951年にNHKラジオで放送された連続劇「えり子とともに」と一緒に放送されていました。

「雪の降る町を」の歌詞です。

雪の降る町を 雪の降る町を
思い出だけが 通りすぎてゆく
雪の降る町を遠い国から落ちてくる
この思い出を この思い出を
いつの日にか 包まん
あたたかきしあわせのほほえみ

雪の降る町を 雪の降る町を
足音だけが 追いかけてゆく
雪の降る町をひとり心に満ちてくる
この悲しみを この悲しみを
いつの日か ほぐさん
緑なす春の日の そよかぜ

雪の降る町を 雪の降る町を
息吹きと共に こみあげてくる
雪の降る町を 誰もわからぬわが心
このむなしさを このむなしさを
いつの日か 祈らん
新しき光ふる 鐘の音

この歌のYou Tube は以下にあります。
シャンゾン歌手の高英男、「雪のふるまちを」、https://www.youtube.com/watch?v=E3FjPLr8wMg

倍賞千恵子、「雪の降る町を」、 https://www.youtube.com/watch?v=tbk5shjbc-Q

雪の降る町を ダーク・ダックス、https://www.youtube.com/watch?v=_-53iLSJWfU

それにしても東京はめったに雪が降りません。しかし雪景色が懐かしいです。雪の積もった風景には詩情がありますね。ですから「雪の降るまちを」という歌謡曲を思い出すのでしょう。皆様はこの歌を覚えていらっしゃいますか?高齢の方は覚えていると思います。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は富山の市街地から眺める真っ白な北アルプス です。
写真の出典は、「北陸の冬の絶景を紹介」、https://www.jre-travel.com/article/00275/ です。

「雪に覆われた蔵王山と樹氷、霧氷、そしてドッコ沼の写真」

2025年01月31日 | 写真
私は何度も蔵王山に登りました。冬は山形県が側の懺悔坂の樹氷の間で毎年スキーをしました。私の一番想いの深い山です。
蔵王山は奥羽山脈の中にあって宮城県と山形県の県境にあります。火山活動によって出来た山です。

1番目の写真は宮城県の大河原町から見た阿武隈川の桜と雪に覆われた蔵王山です。蔵王山で一番高い頂は熊野岳です。その隣の刈田岳が二番目に高い山です。

2番目の写真は雪に覆われた冬の蔵王山の山頂です。火山口のお釜の水は冬でも凍りません。熊野岳と刈田岳のすぐ下にあります。
冬は高湯温泉からスキーを履いてドッコ沼へ登り、湖畔の山小屋に逗留します。

3番目の写真は冬の雪に覆われたドッコ沼です。ドッコ沼の湖畔にスキー客用の小屋がありました。何度か数日泊まってこの上の地蔵岳まで登り、帰りは懺悔坂の樹氷の間を滑り下りるのです。
ドッコ沼の上の懺悔坂から地蔵岳までが冬には樹氷地帯になるのです。地蔵からの帰りは大平コースを下ります。夕日を浴びた茜色の樹氷の光景が今でも私の網膜に焼き付いています。

4番目の写真は蔵王山の樹氷です。

5番目の写真は蔵王山の霧氷です。
毎年折に触れて遥かなる我が故郷の蔵王山を想います。冬の樹氷の姿を思い出します。夕日に映えた大平コースの樹氷を思い出します。
蔵王山は大きな火山です。火山ですのでその中腹や麓に幾つかの温泉も湧き出しています。遠刈田温泉、青根温泉、峩々温泉、高湯温泉です。

嗚呼、仙台を離れてから茫々60年以上になります。蔵王山は私にとって大切な故郷の山なのです。
故郷の山は一生私の心に中にあり我が人生を豊かにしてくれます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「クロード・モネの描いた雪景色」

2025年01月31日 | アート・文化
印象派のクロード・モネ、Claude Monet (1840-1926)は雪の情景を他の画家に比べて数多く描きました。
写真をお送り致します。出典は、http://bluediary2.jugem.jp/?eid=3517 です。
1番目の写真は、「The Cart, Alley under the Snow at Honfleur」1865 です。
2番目の写真は、「Snow at Argenteuil」1875 です。
3番目の写真は、「Lavacourt under Snow」1878-1881 です。
4番目の写真は、「Train in the Snow」1875 です。

「心を震わせる雪景色と雪女の恐ろしい物語」

2025年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム
冬は寒いから嫌と言う人が多いと思います。しかしそんな冬でも美しいものがあります。それは心を震わせるように美し雪景色です。今日はまず雪景色の写真をお送り致します。
この3枚の写真はインターネットにある多数の雪景色の写真から特に心震わせるような3枚を選びました。
雪景色は美しいのですがその寒さは怖ろしいものです。私は東北地方に生まれ育ったので雪の夜の凍えるような寝床の冷めたさを知っています。吹雪の夜は雪片が家の中まで舞い込んできたものです。
そして怖い雪女の話をよく聞いていました。東北地方の話では必ず最後に雪女が男へ冷たい息を吹きかけて凍らせ、殺すのです。
雪女の伝承は日本各地にあります。村がが雪女に会ういきさつは地方、地方で違いますが、最後は息を吹きかけられ殺されます。
この写真は鳥取県境港市の水木しげるロードに設置されている「雪女」のブロンズ像です。
その例として以下に小泉八雲の「雪女」をご紹介したいと思います。『怪談』の中で雪女伝説です。

・・・この話は武蔵の国、西多摩郡調布村の百姓が私に語ってくれたものである。
武蔵の国のある村に、茂作と巳之吉という2人の樵が住んでいた。茂作はすでに老いていたが、巳之吉の方はまだ若く、見習いだった。

ある冬の日のこと、吹雪の中帰れなくなった二人は、近くの小屋で寒さをしのいで寝ることにする。その夜、顔に吹き付ける雪に巳之吉が目を覚ますと、恐ろしい目をした白ずくめ、長い黒髪の美女がいた。巳之吉の隣りに寝ていた茂作に女が白い息を吹きかけると、茂作は凍って死んでしまう。

女は巳之吉にも息を吹きかけようと巳之吉に覆いかぶさるが、しばらく巳之吉を見つめた後、笑みを浮かべてこう囁く。「お前もあの老人(=茂作)のように殺してやろうと思ったが、お前はまだ若く美しいから、助けてやることにした。だが、お前は今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はないと思え」そう言い残すと、女は戸も閉めず、吹雪の中に去っていった。

それから数年後、巳之吉は「お雪」と名乗る、雪のように白くほっそりとした美女と出逢う。二人は恋に落ちて結婚し、二人の間には子供が十人も生まれた。しかし、不思議なことに、お雪は十人の子供の母親になっても全く老いる様子がなく、巳之吉と初めて出逢った時と同じように若く美しいままであった。

ある夜、子供達を寝かしつけたお雪に、巳之吉が言った。「こうしてお前を見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。あの日、お前にそっくりな美しい女に出逢ったんだ。恐ろしい出来事だったが、あれは夢だったのか、それとも雪女だったのか……」

巳之吉がそう言うと、お雪は突然立ち上り、叫んだ。「お前が見た雪女はこの私だ。あの時のことを誰かに言ったら殺すと、私はお前に言った。だが、ここで寝ている子供達のことを思えば、どうしてお前を殺すことができようか。この上は、せめて子供達を立派に育てておくれ。この先、お前が子供達を悲しませるようなことがあれば、その時こそ私はお前を殺しに来るから……」

そう言い終えると、お雪の体はみるみる溶けて白い霧になり、煙出しから消えていった。それきり、お雪の姿を見た者は無かった。・・・・
(上記は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E5%A5%B3 より)

この話は多摩川の上流の現在の青梅市のそばにあった調布村に伝わる話です。
小泉八雲の描く「雪女」の原伝説については、東京・大久保の家に奉公していた東京府西多摩郡調布村(現在の青梅市南部多摩川沿い)出身の親子から聞いた話がもとになっていることがわかっています。

2002年には、秋川街道が多摩川をまたぐ青梅市千ヶ瀬町の「調布橋」のたもとに「雪おんな縁の地」の碑が立てられました。表側には碑文が刻まれ、裏側には「雪女」の和英両方の序文と小泉の肖像が刻まれた銘板が嵌め込まれています。

私は奥多摩へドライブに行く時この雪おんな縁の碑を何度も見ました。

今日はまず雪景色の写真をお送り致し、続いて小泉八雲の「雪女」をご紹介致しました。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「節分で豆をまく風習の歴史」

2025年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の伝統的な行事はほとんど全てが中国から伝承されたものです。
豆まき や七夕も中国の道教から伝えてられ、初めは宮中での行事でした。
節分や豆まきは中国の宮中の風習でした。
日本では江戸時代になると将軍家や 一般庶民も 節分行事をやりはじめたのです。
豆まきは邪気を追い払うために、古くから行われていたのです、
文献に現れる最も古い記録は、室町時代の応永32年(1425年)正月8日(節分)を記した文書があるそうです。
宮中の『看聞日記』には鬼を打ち払う為に豆をまいたと書かれているそうです。このことから室町時代には既に都の公家や武家で豆まきが習わしになっていたことがわかります。
その20年後に編纂された辞典『壒嚢鈔』(1445年または1446年成立)巻一の八十三には、宇多天皇の時代(867年-931年)、鞍馬山の僧正が鬼が出て来て都を荒らすので、炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れた伝説が記されているそうです。
豆には生命力と魔除けの呪力が備わっているという信仰があったのです。
豆を撒き、撒かれた豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べるという習わしもあります。
府中市の大國魂神社では毎年節分祭がありあす。以前に大相撲の横綱稀勢の里が来たこともありました。
稀勢の里はこの神社に、2006年から毎年姿を見せておりました。
一方、関脇の玉鷲は調布市の深大寺に来て豆まきをしてくれました。
約1万5千人の人出でにぎわったそうです。
 約1300年の歴史がある深大寺で、豆まき式は江戸時代に始まったと言われています。
大國魂神社と深大寺の写真をお送りします。
1番目の写真は豆まきが始まる前の大國魂神社の拝殿です。沢山の人が集まって始まるのを待っています、
2番目の写真は大國魂神社に来た横綱、稀勢の里の姿です。
3番目の写真は大國魂神社で豆をまいている稀勢の里です。

4番目の写真は調布市の深大寺です。

5番目の写真は深大寺で豆を手に持った玉鷲です。

日本には春の七草に始まって、節分と豆まき、雛祭り、春のお彼岸と墓参り、端午の節句、七夕と星祭り、お盆の灯篭流し、秋のお彼岸と墓参り、秋の七草、除夜の鐘、年越しソバなどなどの伝統行事があります。
このような伝統行事を大切にする女性と全然関心の無い女性とがいます。
私個人の好みを書けば伝統行事を大切にする女性が好きです。なにか奥ゆかしい女性のように感じるのです。

今日は節分の豆まきについて書いみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「2月2日は恵方巻きを食べる日」

2025年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

恵方の方角は年によって変わります。今年は「西南西」で西から少し南に傾いた方向です。恵方とは、その年の福徳を司る歳徳神がいる方角です。その方角に向かって願い事をしながら太巻き寿司を食べると一年の福を呼び寄せられるのです。 

15年以上まえにコンビニと海苔業界が組んで、「恵方巻き」を売り出して関西から全国に広がったとのことです。この節分の日に恵方巻きを丸かぶりして恵方の方角を見て黙って食べるのだそうです。

食べている間に家族の健康や幸福を祈るのです。あるいは今年こそ結婚できますように祈る人がいるかも知れません。安産を祈る人もいます。

祈るという行為は美しいものです。そして恵方という方角が重要な様子なので陰陽道に関係があると思いました。いろいろ調べました。

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1番目の写真は恵方巻です。写真の出典は、http://www.ueman.co.jp/masususiblog/2011/01/post-63.htmlです。

恵方巻きは寿司店、食料品店、スーパー、コンビニで売り出します。かなり高額です。高級な具材を使っているのです。

恵方の方角のはるかかなたに歳徳神という陰陽道の姫神様がいて、人々の願いをかなえてくれるのです。その神さまの絵を下に示します。


2番目の写真は歳徳神という陰陽道の姫神様です。絵の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B3%E5%BE%B3%E7%A5%9E です。

「恵方巻き」という名前はコンビニ業界の商品名ですが、巻き寿司を節分の日にかぶりつき、歳徳神へ祈るという風習は大阪地方で江戸時代から連綿として行われてきたそうです。

以前、道教の庚申塔信仰の紹介をしましたが、恵方巻きも道教に関係が深い陰陽道の信仰形態です。

道教は日本へ浸みこんでいるのです。知らず知らずのうちに日本へ入って来た宗教なのです。

仏教もそうですが、いろいろな宗教が日本へ入ってきているのです。キリスト教の影響も深いのです。

日本人の70%は無宗教ですと自称します。しかし私はそれを信じません。本当に無宗教なら、恵方巻きがそんな多数に売れるはずがありません。

毎年節分には家内が孫たちにために10本も恵方巻きを作っていました。皆巣立ってしまいましたので、今年は買ってみようと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

=========参考資料=ーーーー=============

近年、関西を中心として立春の前日の節分の日に恵方を向いて「太巻きの丸かぶり」が行われる事がある。これを恵方巻きの風習として2000年頃から日本各地で宣伝やキャンペーンを開始するにあたり、日常的な16方位による簡便な説明をしており、甲とすべき所を「東北東」、丙とすべき所を「南南東」と言い換える例が多くなっている。甲・丙などといった方角表記になじみがなくなってきたためともされるが、これでは方角が正しくない。たとえば甲は東から北よりに15°だが、これは東北東(同じく22.5°)より7.5°右である。なお32方位で表した東微北(同じく11.25°)よりは3.75°左である。しかし、巻き寿司にこだわらない人がいるように、正確な恵方にこだわらない人や正しい方角を知らない人もいる。












「月山、羽黒山、湯殿山などの出羽三山の写真」

2025年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム
出羽三山は、山形県の中央にそびえる月山(1984m)、羽黒山(414m)、湯殿山(1500m)の総称です。三山といっても独立した三つの山があるわけでなく、月山を主峰に、峰続きの北の端に羽黒山があり、月山の西方に湯殿山があります。
 最近は寒い日々が続いています。特に夜はひどく冷え込みます。そんんな夜には森敦の「月山」という小説をを思い出します。
東北地方に生まれ育った私は「月山」に描かれた冬の寒さが身にしみてわかるのです。

冬を迎えると月山は吹雪や霧により下界と遮断されてしまう異世界なのです。

写真は月山、羽黒山、湯殿山などの出羽三山の雪景色の写真です。一番目の写真の中央の峯が月山です。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「森敦の月山」

2025年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム
森敦の「月山」は今も読み継がれる、芥川賞の名高い小説です。
出羽の霊山・月山の山ふところにある破れ寺に、ひとりの男がたどりつく。炉ばたでひたすら割り箸を作り続ける寺の男、女たちによる念仏のあつまり、庭を見せようと豪雪にもかかわらず雪かきにはげむ老人……。雪に閉ざされた山間のむらで、不思議な村人たちと暮しをともにするこの男が知った此の世ならぬ幽明の世界を描いています。

さて、この作品を私なりに解釈すると、これは森敦が自ら生まれ変わろうとするその姿を描いた作品である。
 この作品では、月山を「死者の行くあの世の山」として描いている。即ち、現世とは隔離された異世界として、月山を、そして「山ふところ」にある七五三掛(しめかけ)というを捉えているのである。実際冬を迎えることで、この山中の地は雪や吹雪や霧により、下界と遮断されてしまうのだ。
 そして、「わたし」はその異世界の中で数々の奇妙な体験をする。その中でも最たるものが、冬になってこの地にやって来た押売りたちが、吹雪の中で行き倒れになってしまうと、その死体をミイラにして観光の呼び物にする、という風習である(実際、注連寺では即身仏で有名な寺である)。・・・・以下省略。

写真は月山です。
山形県のほぼ中央にあり、羽黒町、立川町、西川町とに境を接しています。
 

「私の大好きな富士山と清貧の思想」

2025年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム
日本に生まれ育った人々は日本人として誇りに思っていることが沢山あります。富士山もその一つです。それから「清貧の思想」も日本人は好きです。憧れています。
新春にあたり富士山の風景をご紹介して、続けて「清貧の思想」について小文を書いてみたいと思います。この2つは清らかさという点で深いところで関連があります。
さて富士山は世界文化遺産に認定されているのです。それは2013年のことでした。
認定された「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」には、それを証明する構成資産が全部で25箇所もあるのです。それらは富士山、富士五湖、忍野八海、北口富士浅間神社などです。
私も家内も富士山が好きなので何度も写真を撮りに行きました。そこで世界文化遺産の富士山の写真と北口富士浅間神社の写をお送りします。北口富士浅間神社は数年前に撮ったものです。

1番目の写真は山中湖の北岸から見上げた富士山です。広い駐車場があり、湖岸に沿って自転車道路があります。写真をゆっくり撮れる場所なので必ずここから富士山の写真を撮ります。
雪に覆われた富士山は神々しく見えます。自然に祈りたくなります。古来から、この山は信仰の対象だったということが納得されます。
2番目の写真はヨットのある富士山の風景です。このヨットはいつも沖に係留されています。富士山と沖に停泊しているヨットの風景が好きで何回も写真に撮りました。そのヨットも冬にはこうして陸揚げされているのです。
3番目の写真は北口富士浅間神社の本殿です。元和元年(1615)に鳥居土佐守に創建されました。一間社入母屋造、向拝唐破風造、檜皮葺屋根、安土桃山様式で 昭和28年、国指定重要文化財に指定されました。
4番目の写真は修験者と僧侶に導かれた富士講の行列です。富士山信仰の修験道の山行きの出発前の行列なのです。
「六根清浄、・・・」と唱和する声が杉並木に神秘的にこだましていました。

さて清貧が人生で重要なことは日本の古くからの文化です。
この世の一切の欲望を捨て、心の充実を求めるのが清貧の道です。仏教の教えでもあり、昔から西行,吉田兼好,松尾芭蕉などの書によって日本人の心に沁み込んでいます。
最近では中野孝次(1925年 - 2004年)の著書、『清貧の思想』がベストセラーになって1990年代に再び「清貧」という考えかたが脚光を浴びたものです。
中野孝次の著書の内容は,西行や芭蕉 など,いわば世捨て人の風雅の暮しを論じたもので、日本の伝統で、目新しいことではありません。しかし,ちょうどバブルがはじけた時期と重なり「清貧」の語が新鮮な響きをもって復活したのです。そのせいか驚くほどの反響があり、私も愛読したのです。
振り返ってみると、私は戦後の貧しい頃、新制中学校で金儲けは悪で、清く正しく生きなさいとさんざん教わりました。
金儲けは悪ということは間違いですが、清く正しく生きることは現在でも非常に重要だと信じています。
しかし人間は弱いもので清く正しく生きることほど難しいものはありません。実行出来ないのです。
しかし「清貧の思想」と合致する私の趣味をご紹介いたします。
それは山林の中の貧乏くさい粗末な小屋に通い樹林を眺める趣味です。贅沢な別荘の対極にある貧相な小屋です。
1974年に甲斐駒岳の麓に作りました。深い、深い森の中です。長い間、電気・水道・ガスの無い小屋でした。
山林の中の小屋に行くたびに私は清貧の思想を思い出し、すがすがしい気分になったものです。厳寒の夜に一番頼りになる有難いものは薪ストーブです。窓の外には小川の水音が響き天上には満天の星が輝いています。
この小屋を作った頃、森敦の「月山」いう小説が第70回芥川賞を受賞しました。
話は月山のふもとにある厳寒のお寺で冬を越すという話です。自分の冬の小屋の体験と同じなのです。
読むと寒さが一層身に沁みます。「月山」は深い内容の美しい作品として忘れられない小説でした。
私は富士山を誇りに思っています。清貧の思想は実行は出来ませんが、一生憬れの対象になっています。日本人の美しい精神のバックボーンとして誇りに思っています。

今日は富士山の風景をご紹介して、続けて「清貧の思想」について小文を書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)