下の5枚の写真は10月29日に上高地を散策しながら撮った風景写真です。
大正池の向こう側の遠方のカラマツ林をズームで撮りまた。
そして田代橋から梓川の上流に向かって右側の岸辺を歩きながらカラマツ林の写真を撮りました。
梓川の向こう側の遥か上の方には穂高連山が見える筈です。雲が多く、わずかに時々雪山の稜線が見えていました。
河童橋には相変わらず人が沢山いましたので敬遠しました。
このようにカラマツ林が見事に紅葉している風景は何度も上高地に来ていますが初めてです。写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。
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上高地には神々しい別世界のような風景が広がっています。明治の始めころイギリス人のウエストン卿が日本人の山案内人と徳合峠を越えて、神河内に降り立ったのです。
そのときの感動を想像する度に、私の胸も躍ります。
ウェストンは感動のあまり何度も徳合峠を越えて神河内へ足を運びました。人柄が良く山案内人に信頼されたと言います。このウェストンこそが日本へ近代登山を伝えた人だったのです。
日本山岳会が作った彼のレリーフが静かに梓川を見降ろしています。
神河内へは現在は梓川沿いに立派なバス道で上がりますが、以前はそんな道は無かったのです。神河内に降り立つには険しい北アルプスを越えて入らなければならなかったのです。
苦しい山歩きの後に神河内に立ったときの感動はバスで登った場合より格段に大きいのです。
私は23歳の夏に、JR大糸線の穂高駅から中房温泉に泊ました。そこから燕岳を乗り越して、大天井岳、西岳と尾根道を縦走し、槍の肩の小屋に一泊です。次の日は南岳へ尾根道を縦走してます。南岳からは最大の難所の大キレットを慎重に渡り北穂小屋に泊りました。そして最後に穂高からカラ沢を下り、梓川沿いに上高地に降り立ったのです。
そこには想像も出来ない神々しい光景が広がっていたのです。
清流の梓川。白い川瀬には茂る柳の木。白樺林。立ち枯れの木のある大正池。河童橋にのしかかるように聳えている明神岳。それを回り込むように蛇行する梓川。
すべてが夢心地のような風景です。
多くの人々は自分の思い出の上高地を持っていると思います。
「私の上高地」は、北アルプスを縦走して、疲れ果てた末に神河内に降り立った時に見たこの光景なのです。それこそが「私の上高地」なのです。
その後仕事が忙しくなって何十年も行きませんでした。
一昨日、カラマツ林の紅葉の中を歩きながらそんな50年以上も昔の事を想い出していました。この50年間にいろいろなことがありました。
何も考えていないのか、家内は無邪気に、小さな歓声をあげながら写真を撮って楽しんでいます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
秋山郷は13の山間集落の総称です。新潟県の8つの集落と長野県の5つの集落があります。すべて深い深い山奥にあり現在でも交通が不便で都会とは隔絶した文化を有している所です。
以下にWikipedea「秋山郷」の説明文をご紹介いたします。
出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E9%83%B7 です。
=========秋山郷とは==============
秋山郷(あきやまごう)は、新潟県中魚沼郡津南町と長野県下水内郡栄村とにまたがる中津川沿いの地域の名称。東を苗場山、西を鳥甲山に挟まれた山間地域で、日本の秘境100選の1つである。新潟県側に8つ、長野県側に5つの集落がある。
平家の落人伝説が残る(平家一門である平勝秀が落ち延びたとされる)。狩猟(特にクマ狩り)や焼畑を行っていたことでも知られる。また、交通・通信が不便で、豪雪地帯でもあったことから、独特の生活習慣が残されてきた。 江戸時代には、塩沢出身の文人鈴木牧之の著書『秋山記行]や『北越雪譜』、また昭和になってからは、地理学者の市川健夫によってこれらの自然や歴史、風俗習慣が紹介された。
交通の便が悪く、近年まで冬季には隔絶されるケースが多く何度も飢饉、飢餓が発生し、時に村全体が全滅した。 現在は国道405号線が津南町大割野から切明まで通っている。また、長野県側からは奥志賀林道から雑魚川林道に分岐し、切明まで繋がる林道が整備されており、飢饉、飢餓の危険はなくなったが、依然秘境の面影を止めている。 また、秋山郷は、湯量豊富な温泉郷としても有名である。各集落には、それぞれ独自の源泉があり、温泉施設や温泉宿が存在する。
また長野県側では、長野県の民放テレビが全く映らない地域や、映っても信越放送と長野放送のみという地域も存在した。これら地域では、2010年秋にケーブルテレビ(栄村ケーブルテレビ)が整備され、長野県の民放テレビ全局が視聴可能となった。
歴史
現在の長野県・新潟県の境は、近代以前の信濃国と越後国の境を引き継いだものである。 近世には、越後側は8集落で結東村という一村を形成していた。信濃側は、現在の栄村役場付近の、いわば麓の村ともいうべき箕作村の枝村とされていた。 秋山郷の名の由来と考えられている大秋山という集落が信濃側にあったが、1783年(天明3年)の飢饉によって一村8軒が全滅したと『北越雪譜』に記されている。
昭和の初めに秋山郷を測量隊が訪れたところ、村人から「源氏はまだ栄えているか?」と尋ねられたという逸話が残る。当地に平家の落人伝説があることと、里から隔絶された秘境であることから生まれた伝説であろうと思われる。
集落
新潟県
- 穴藤(けっとう)
- 逆巻(さかさまき)
- 清水川原(しみずがわら)
- 上結東(かみけっとう)
- 見倉(みくら)
- 前倉(まえくら)
- 中ノ平(なかのたいら)
- 大赤沢(おおあかさわ)
長野県
- 小赤沢(こあかさわ):長野県側の中心的集落。
- 屋敷(やしき):
- 上野原(うえのはら):
- 和山(わやま):
- 切明(きりあけ):秋山郷の最南部であり、最奥の集落。
見どころ
日本は山国と言いますが、こんな山奥に何故人間が住むのでしょうか?飢饉で全部が死に絶えたという歴史を繰り返しても、山奥に連綿と人が住むのは何故でしょうか?
新潟県と長野県の県境にまたがる秘境の秋山郷はあまりにも山深いのでそこに人が住んでいるとは誰も知りませんでした。それが江戸時代に「北越雪譜」を書いて有名になった鈴木牧之が秋山郷に入り、「秋山紀行」を書き、人が飢饉にもめげず住み着いていることを報告しました。そして隔絶したの独特な風習を書いています。
秘境とはそういう場所なのです。
現在、秋山郷は舗装道路がついていますが大型バスは通行出来ません。津南町まで大型バスで行って、そこで小型バスや乗合タクシーに乗り換えて、山並み深く分け入ります。紅葉の山並みが幾重にも折り重なり、深い谷が小型バスを飲み込みそうで怖い道行きでした。
10月28日の午後にこの小型バスで観賞した紅葉の写真をお送りいたします。曇り日でしたので鮮明な写真が撮れませんでした。
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秋山郷を走り回っても人の住む集落は殆ど見えません。わずかに遥か彼方の谷底に2つほど見えただけです。
観光客はそこへ降りて行きません。観光収入などゼロです。ホテルも土産物屋も数軒あるだけです。観光客は大型ホテルの沢山ある志賀高原などに泊ります。
秘境ブームで多くの人が訪れる秋山郷の村落は江戸時代のままの生活を続けているのではないかと思ってしまいます。村落には観光客が下りて行きません。はるか谷底に質素な家々があるだけです。
しかし一方山々の紅葉は燦然と華やかに輝いているのです。
何か深く考えさせる旅でした。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
ブログでは写真や文章で構成される作品を不特定多数の人々へ公開しています。
その点は本の出版と類似の文化活動のようでもあります。
しかしブログ雑誌や本とは決定的に違うことがあります。
ブログでは、出版社や編集者抜きで、誰でもどのような作品でも多くの人々へ公表出来るのです。これはインターネット技術の発明によってはじめて可能になった新しい文化形態なのです。
自由と平等が民主主義の基本とするなら、ブログの使い方によっては、民主主義の発展に直接的に貢献できる新しい技術なのです。
ブログの特徴は個人の好みでいかように使っても自由なことです。
日記や備忘録として自分だけのためにだけ書く。同じ趣味の人だけの情報交換の為に書く。子育記録としても書く。グルメ情報の交換の目的で書く。美しい花々や風景の写真集にする。あるいは商品の宣伝にも使う。どのようにブログを使っても良いのです。
そして、さらにブログでは読者と著者の意見の交換が自由に出来るのです。
ブログの内容は新聞や週刊誌、単行本、写真集、美術全集と同じにようにすることも出来ます。あるいは音楽や映像の提供も出来ます。
最近よく見られる大型書店は、書籍のほかに音楽や映画のCDも売っていますが、ブログは大型書店が売っているものと同じような幅広い内容のものを提供出来るのです。
書店に並べてあるのもは全てお金を払って購入しなければいけないのですが、ブログにある作品はそれを読んだり聴いたりしても全て無料である。
もう一つの特徴はブログはなんとなく短命で良いようです。読み捨てにしても良いような性質を持っています。
一方、書籍は国会図書館で収集しているように、全てが永久保存される性質を有しています。
ブログと書籍を比較すると、短命と長寿命と言えるかも知れません。
ブログには上に書いたような実に便利な特徴があります。
しかしこの「便利な特徴」こそがブログの有している陥穽なのです。
インターネットをしていない人々は活字文化しか知りません。
そういう人々はブログを「たかがブログ」と言って、何となく軽蔑しがちです。
それももっともな気がします。
ブログには何か陥穽があるという感じがします。
しかし、それ以上にインターネット文化は自由と平等へ良い効果があると思います。
そんな詮索は別にして、楽しければ良いとも思います。
本でもブログでも、そしてそれを作っている人々も、いずれ土へ帰って行くのですから。
暇な老人の詰らないつぶやきです。(終わり)
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
秋の爽やかな季節になりましたね。コスモスの花を秋桜とも言うそうですが、その季節も過ぎ去ろうとしています。
皆様お元気でしょうか?いつもこのブログを見て頂きまして有難う御座います。
さて今日は日曜日です。そこでキリスト教に関連した心温まる3つのエピソードを書きました。感謝の気持ちで書きました。
私に個人的に会ってくれて、私を大切にしてくれた人々です。
塚本金明神父様や、ムニ神父様、山本量太郎神父様、そしてディン神父様や、その他の牧師様のことは何度も書いて来ましたので今日は割愛いたします。
心に残る3人を選びました。気楽にお読みください。
(1)ドイツのローテンブルグで会ったインド人のフェルナンデス君のこと・・・
それは1969年の夏から秋にかけてたった3ケ月間だけのお付き合いでした。
毎週日曜日に私を誘ってカトリックの教会へ行ってくれました。ドイツ語のミサなので理解出来ません。
ミサ後、一緒に昼食をたべました。メニューはチキンの半分をオーブンで焼いたものとパンとスープでした。
彼は細身で小柄なインド青年でした。英語で会話をしました。
しかしキリスト教のことは一切説明しません。ただニコニコと笑って食事をするだけです。
何も話しませんでしたが彼が私を非常に大切に思ってくれている事が分かります。彼の優しくて穏やかな笑顔を見て私は決心したのです。来年帰国したら日本で洗礼を受ける決心をしたのです。
(2)神田、ニコライ堂で会った金田一豊さんのこと・・・
宗教で一番注意しなければいけない事は狂信しないことと思っています。ですから私は仏教も勉強しますし、キリスト教の他の宗派の教会も広く訪問しています。
色々な神父様、牧師様とお会いしましたが、ニコライ堂で偶然お会いした伝道師の金田一豊さんの事が忘れられません。
ロシア正教の影響を深く受けた日本正教会の本部教会はニコライ堂です。
その歌ミサの藝術的美しさに惹かれて見物に行ったのです。2009年の11月の事でした。
初対面の私を昔からの幼馴染のように大切にしてくれました。
彼は聖職者ですからミサの最中は他の聖職者と一緒に祭壇の上に立っています。それが途中で祭壇を下りて、私のそばに来て、「どうですか?違和感を感じませんか?」と聞いてくれたのです。
それも3回もです。カトリックの私が正教会のミサへ自然に溶け込んでいるか気をつかってくれたのです。
正教会もカトリックも同じイエス様を拝んでいるので私は大らかな気分で歌ミサを存分に楽しみました。一緒に御祈りもしました。
ニコライ堂のことは、宗教に少しでも関心があったらニコライ堂の日曜礼拝を一度は見て下さい という記事にしました。
(3)ネットで知り合ったオカブさんの事・・・
このブログの左サイドバーに推薦したいブログとして「昼のガスパール」というブログがあります。
それを書いているのがオカブさんです。ヨーロッパ文化を愛し、ウィーンに何度も行っている方です。
ある時、下北沢の喫茶店で会いました。そして彼の行っている世田谷教会の礼拝へ誘ってくれたのです。
数週間後に三軒茶屋駅そばの世田谷教会の礼拝に出席しました。彼はその独立採算のプロテスタン教会の運営の責任者の一人でした。
牧師さんへも紹介してくれました。オルガンを弾いている奥様も紹介してくれました。オカブさんは宗派の違う私を非常に大切にして下さったのです。そして他の宗派の教会を訪問することを薦めてくれました。
そのお陰で小金井市内のメノナイト系の貫井南町教会の牧師様や日本キリスト教団の小金井教会の牧師様にもお会いし、親しくお話を聞くことが出来ました。どちらの牧師さんも初対面の私をとても大切に思ってくれたのです。
以上の文章の中に「私を大切にしてくれた」という表現が何度も書きました。そのことで、皆様は下手な文章だとお思いになったことと存じます。
実はこの大切に思われた体験こそが、私にとって「イエス様に愛されている」という体験と同じなのです。
イエス様の愛は神父様を通してだけ感じるのではありません。何気なくお会いした方々を通して感じることが出来るのです。
そういう事を私に感じさせてくれた全ての人々へ感謝しているのです。
ここでは3人の例だけを書いたのです。私の心の中の財産として大切にしている心温まるエピソードです。
今日はこの文章を読んで下さった皆様を心から大切もおもいます。そして、
皆様の周りに貴方を大切に思ってくれる人が多いことを心からお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
壇ノ浦で平家が東国の武士の源頼朝一派の義経に敗れ滅んだ背景には地方における小形領主を中心にした武士団の成長があったのです。
その実態は学校の歴史教育では詳しくは教えません。単に、「地方に武士が現れ、それを支配する領主が育っていったのです」という一行で終りです。
そこで八王子市の近辺ではどのような名前の領主が居たかを調べるために八王子市郷土資料館の展示を見てきました。
展示が武力集団を有する小形の領主の名前と歴史を簡潔に紹介しています。
馬を育てる牧場の主の小野氏・由比氏・立野氏・小川氏・石川氏が平安末期には多摩地方の領主でした。それが後に武蔵七党の一人の横山氏になるのです。そして鎌倉初期に横山党は37派に別れるのです。これらの名前は現在、多摩地方に地名として残っています。
その後は勢力の盛衰があり、長井氏、川口氏、由井氏などが勢力を持ちます。
しかし14世紀の後半に武蔵国守護代に任命された大石氏が広大な領地を持つようになり、武蔵国の西部と相模国の大部分の支配者となったのです。大石氏は香月城や滝上城の建設者として後世に名が残ります。
しかし小田原城に本拠を置く北条早雲とその息子たちが関東平野を席巻して、大石氏の広大な領地を占領してしまったのです。
北条氏康の3男の北条氏照は八王子城を作り八王子を支配していましたが、1590年(天正18年)に豊臣勢の前田利家と上杉景勝によってあっけなく滅ぼされたのです。
以上は1192年鎌倉幕府が出来る前後頃から1590年の八王子城の落城までの多摩地方の領主たちの興亡の概略です。
随分とめまぐるしく小型武力集団が出来たり、消えたりしたものです。この事は多摩地方だけではありません。京都や鎌倉以外の全国の地方、地方で同じような小型武力集団の興亡があったのです。
鎌倉時代と室町時代には天皇勢力が任命する守護が各地の租税を集めていたという理解は実態ではないと思います。
むしろ地方で成り上がった武力集団を従えた在地領主へ天皇が守護職や守護代という官位を与えていくばくかの税金を送って貰っていたという理解が実態に近いと思います。守護職や守護代は当然鎌倉幕府や室町幕府へも税金を送っていたと考えられます。
従って地方の領主は細心のバランス感覚の持ち主でなければ権力を維持出来なかった筈です。特に応仁の乱の後は世の中が乱れ、下剋上の時代になるのです。
武蔵国の守護代だった大石氏の苦労が偲ばれます。そして大石氏の領地を占領して、八王子城で権勢を誇った北条氏照の儚い落城を見るにつけても戦国時代の武将たちの苦しみや悲しみが身に沁みてきます。
下に八王子郷土資料館の説明板の写真を示します。
簡潔にして要領良く、平安末期から1590年の八王子城の落城までの多摩の歴史が書いてあります。(続く)
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参考飼料:北条氏照の生涯
出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E7%85%A7
天文9年(1540年)、北条氏康の3男として生まれ、聡明で武勇に優れていたと言われる。
永禄2年(1559年)、木曾義仲の後裔である武蔵国滝山城城主・大石定久の娘・比佐を娶り、養子縁組をして大石源三氏照と名乗り、家督を譲られる。後に姓を北条に復して大石氏を配下に組み入れる(自ら北条を名乗った確実な記録は疑問視されており、大石当主の立場を全うしたという説もある)。自領であった現・相模原市方面の各村への文書では「油井源三」を名乗っている。また、養父の死後に遺族を粛清したとされている弟の北条氏邦(藤田安房守氏邦)と違い、大石定仲ら定久の家族を取り立てている。
その後、氏照は父に従って、小田原城の戦い直後の永禄4年(1561年)には辛垣城の三田綱秀と、永禄7年(1564年)には里見氏と、天正2年(1574年)には簗田氏と戦い、主に東方を担当して後北条氏の勢力拡大に大きく寄与した。また、外交手腕にも秀でており、永禄12年(1569年)には、氏邦と共に上杉氏との越相同盟の実現などを画策、伊達家とも濃密な外交関係を築くなど活躍した。織田政権期には織田信長との同盟強化を望んだが、家中の反対意見と信長の横死によって充分に機能しなかった。
永禄10年(1568年)、武田信玄の家臣・小山田信茂(大石氏と同様に木曾源氏の後裔)らの軍勢が小仏峠を越え相模国に侵攻した。氏照は中山家範・横地吉信らに迎撃を命じたが、高尾山麗の廿里(現、八王子市廿里町、廿里古戦場)にて敗退。その後余勢を駆って押し寄せた武田勢に攻め立てられ、滝山城は三の丸まで陥落し氏照は二の丸で指揮をとったという。なおこのとき氏照と武田勝頼が槍をあわせたとも伝わる。このような氏照自らの奮戦により、最終的には武田軍に滝山城の攻略を断念させている。
氏照は平山城である滝山城の防御面での不利を悟り、武蔵国と相模国の境に大規模な山城を築いた。山城の山頂に八王子社が祀られた為、城は八王子城と名付けられた。なお八王子城周辺の「八王子」という地名はこれに由来する。
しかしこの八王子城も1590年(天正18年)に豊臣勢の前田利家と上杉景勝によってあっけなく滅ぼされたのです。
尚、北条氏康は、戦国時代の武将。相模の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院。
関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結び、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。世に相模の獅子と謳われる。
来年の春には衆議院の任期が終わるので必ず選挙があります。
誰が考えても民主党も自民党も「大阪維新の会」も「国民の生活が第一」も石原新党も公明党も単独で衆議院の過半数の当選者を獲得出来そうもありません。
従って2つ以上の政党が連合して総理大臣を決め、新しい内閣を組織しなければなりません。
今日はどの政党とどの政党が連合して政権をとるか考えてみました。
結論を先に書けば「大阪維新の会」と自民党が連合して新内閣を作るという可能性が一番大きいということです。以下にその理由を書きました。
=======新内閣が出来るまでのいろいろ=============
石原新党が出来て政党間の争いが激しくなって来ました。国民は茫然と眺めているだけです。橋下さんの大阪維新の会は原発反対、憲法改正、尖閣諸島の国際裁判所提訴、従来方針通り普天間基地沖縄内移転、などを主張しています。石原新党は原発賛成、現在の憲法は破棄、尖閣諸島領有確立、などを主張しています。
石原さんは最近、橋下さんと何度も会い、来春の選挙後に連携し、内閣総理大臣になろうとしています。そして橋下さんはその次の総理大臣で良いと言っています。
しかし石原さんと大阪維新の会の体質は本質的に違うと私は考えています。
石原さんは文学的才能にも政治的才能にも恵まれたエリートです。単にエリートだけなら良いのですが独断専行する性質を持っています。それは東京都知事のような立場なら向いていますが、大阪の庶民的性質を背負った維新の会のメンバーとはシックリ行かないと思います。石原さんのようなエリートは大阪人とシックリ行く筈がありません。
従って選挙後の石原新党と大阪維新の会の連合内閣は出来にくいと思います。
体質的に考えると「維新の会」は安部総裁の自民党と連合を組みやすいと考えられます。
安部さん個人は橋下さんと何度も会いお互いに親近感を持っているようです。政策の相違点はムニャムニャにして自民党と「維新の会」が多数派を形成して、総理大臣は安部さんか橋下さんになるでしょう。
但し安部さんは一回総理大臣をしているので橋下さんに譲るかも知れません。その可能性があるので「維新の会」のメンバー達は自民党と連携することを好みます。自民党にも関西選出の衆議院議員が当選する筈です。
所詮、石原さんのような独断専行的な人を嫌いな大阪人が中心になっているのいが「大阪維新の会」なのです。
それにしても来年の新総理大臣になろうとしている石原さんも橋下さんも国際外交の素人です。
必ずや日中関係は悪化します。日米関係も悪化します。その結果、日中経済協力が危機的状況になります。その経済損失の大きさは原発停止による経済損失より非常に大きいと考えられます。石原さんは経済的犠牲を覚悟の上で中国と争う決心をしているようです。
経団連の幹部が危惧しています。こんな政治状況のなかで過半数の取れない民主党の野田総裁はどのように対応するのでしょうか?
日本の政治の風景をみていると頭が混乱します。気持ちが暗くなります。
そこで下に東京港の明るい海の写真をお送りいたします。気分が晴れます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
上は晴海埠頭から見たレインボーブリッジで、下は築地運河に船の見える風景です。数日前に撮ってきました。
小金井市貫井神社には小さな支社のような弁天様があり、それを貫井神社下弁財天と称するそうです。私共は紛らわしいので、普通は大澤神社と呼んでいます。
今日はその近辺の散歩を楽しんできました。
この下弁財天は写真のような野川の傍にあります。
数年前までは随分と古い建物でしたが最近新しく改修されました。
この弁財天さまも世の荒波の影響を受けながら数百年も生き永らえて来たのです。
その近所を散歩していましたら下のような花々が道端に咲いていました。
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弁財天由来の説明文にある「神仏分離令」は重い問題を含んでいます。
そこでこのブログでも下のように4回の連載記事も掲載してあります。
こんな小さな祠も神仏分離令の影響を受けそうになったのです。
明治維新の時の価値観の変革の大きさが垣間見えるようです。
ご興味のある方はご覧になって下さい。
===参考資料:廃仏毀釈とは?=============
最後の記事には貫井神社のことが以下のように書いてあります。
・・・・・・今日は私の住んで居る小金井市にある貫井神社(貫井弁財天上社)とそれに隣接する神仏習合のお寺、貫井山真明寺を取材してきました。
江戸時代は同じ境内にあったのを、コンクリートの塀で東西に分けただけで両方とも生き延びたのです。そして貫井弁財天下社は何も影響がなかったのです。
どちらの境内にも明治元年の神仏分離令の事が石碑に明確に刻み込んでありました。明治8年に貫井弁財天は厳島神社と改名させられたのです。廃仏毀釈の嵐が終って、しばらくしてから現在の貫井神社という名前になったのです。
一方、貫井山真明寺の石碑には江戸時代には貫井弁財天の別當寺として典型的な神仏習合のお寺であったと書いてありました。そして全国の神仏習合の寺々が破壊されたのに、幸運にも本堂は江戸時代のままに存続出来たと書いてあるのです。・・・・・・
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誰でも現役の間は仕事が忙しく、公園のベンチにゆっくり座って景観を楽しむことが出来ません。私も公園と言えば日比谷公園を足早に横切ったり、休日に地元の小金井公園へ行くだけでした。
ところが引退して時間的な余裕が出来ると公園の「ありがたみ」やその存在価値の重要性が本当に深く理解出来るようになったのです。公園を設計する人々の思想や哲学が偲ばれて興味が尽きません。
そこで東京都の都立公園を調べて、一つ一つ訪問して、楽しんでいます。
調べてみると東京都の公園は、下に示すように実に驚くほど数があるのです。
随分訪問しましたが、それらは皆それぞれ特徴があって、何度行っても飽きることが無いのです。
東京都の年間予算6兆円のうちから相当の予算を公園に使っているに違いありません。
そして下の一覧表の他に海浜公園や都民の森などがあるのですから驚きの一語につきます。
以下に一例として一昨日行った浜離宮恩賜公園をご紹介したいと思います。
場所はJR新橋駅から徒歩20分くらいで、築地市場の南隣にあります。築地運河と海に囲まれた文字通りの海浜離宮です。
潮の出入りする潮入池が公園の中心にあり、その周囲に東屋や茶室を配しています。江戸時代からそのままの大木の緑が深遠な景観を作っています。
それでは海の魚が泳いでいる潮入池の写真から示します。
海に囲まれているので公園内にも舟が入れるように小さな運河があります。公園内で江戸時代の為政者たちが舟を浮かべて月見などしていた様子が偲ばれます。
上の運河の出入口は公園の北にある 築地運河にあり、木製の大きな門がついています。下の写真はその門の右側の風景です。
公園には潮入池があるだけでなく広大な花園もあります。
春先は一面の菜の花畑になります。季節が移るに従って、ポピー畑、ヒマワリ畑、そして秋には下の写真のようにコスモス畑になります。
この公園の西側は新橋方面になっていて高層ビルがひしめくように建っています。そこでその様子を示すようなコスモスの花の写真を撮ってみました。
この公園の特徴は江戸時代のどの将軍がどのように改造していったかをよく調べ説明板に明確に書いてあることです。そして江戸時代の離宮庭園を忠実に再現しているのです。
歴史は変わり、明治時代になると、この離宮は数々の重要な外交の舞台になったのです。下にその一例を示します。
この浜離宮の設計者は江戸時代の文化を忠実に伝えようとしているのです。江戸時代の権力者の文化です。そして江戸庶民の文化は隣のl築地市場に行けば感じられるのです。
偶然そんな場所に並んでいるのも面白いと思っています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
=========参考資料===============
東京都が設置している庭園や公園の一覧表:
庭園
公園名 | 所在地 | 文化財指定 | 時代 | 人物 | 様式・特徴 |
---|---|---|---|---|---|
旧岩崎邸庭園 | 台東区 | 重要文化財(建造物) | 明治 | 岩崎久弥 | J.コンドル設計の洋館 |
旧芝離宮恩賜庭園 | 港区 | 特別史跡・名勝 | 貞享 | 大久保忠朝 | 回遊式泉水庭園 |
旧古河庭園 | 北区 | 名勝 | 大正 | 古河虎之助 | J.コンドル設計の洋館とバラ園 |
清澄庭園 | 江東区 | 東京都指定名勝 | 明治 | 岩崎弥太郎 | 回遊式林泉庭園 |
小石川後楽園 | 文京区 | 特別史跡・特別名勝 | 江戸 | 徳川光圀 | 水戸黄門ゆかりの大名庭園 |
殿ヶ谷戸庭園 | 国分寺市 | 東京都指定名勝 | 大正 | 江口定条 | 段丘崖を生かした回遊式林泉庭園 |
浜離宮恩賜庭園 | 中央区 | 特別史跡・特別名勝 | 江戸 | 徳川家宣 | 潮入りの回遊式築山泉水庭 |
向島百花園 | 墨田区 | 史跡・名勝 | 文化 | 佐原鞠塢 | 唯一現存する江戸時代の花園 |
六義園 | 文京区 | 特別名勝 | 元禄 | 柳沢吉保 | 代表的な江戸時代の大名庭園 |
公園(区部)
公園名 | 分類 | 開園面積 (ha) | 所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
青山公園 | 総合公園 | 3.8 | 港区 | |
赤塚公園 | 風致公園 | 25.0 | 板橋区 | |
上野恩賜公園 | 歴史公園 | 53.5 | 台東区 | 東京都直轄 |
宇喜田公園 | 運動公園 | 5.3 | 江戸川区 | |
浮間公園 | 総合公園 | 11.7 | 板橋区・北区 | |
大泉中央公園 | 総合公園 | 10.3 | 練馬区 | |
大島小松川公園 | 総合公園 | 24.8 | 江東区 | |
尾久の原公園 | 運動公園 | 6.1 | 荒川区 | |
葛西臨海公園 | 広域公園 | 79.9 | 江戸川区 | |
亀戸中央公園 | 総合公園 | 10.3 | 江東区 | |
砧公園 | 総合公園 | 39.1 | 世田谷区 | |
木場公園 | 総合公園 | 24.1 | 江東区 | |
駒沢オリンピック公園 | 運動公園 | 41.3 | 世田谷区 | |
猿江恩賜公園 | 運動公園 | 14.5 | 江東区 | |
汐入公園 | 総合公園 | 12.6 | 荒川区 | |
潮風公園 | 15.4 | 品川区 | ||
篠崎公園 | 広域公園 | 28.7 | 江戸川区 | |
芝公園 | 総合公園 | 12.2 | 港区 | |
石神井公園 | 風致公園 | 20.1 | 練馬区 | |
城北中央公園 | 運動公園 | 24.2 | 板橋区・練馬区 | 旧称・上板橋緑地 |
善福寺川緑地 | 緑地 | 19.0 | 杉並区 | |
善福寺公園 | 風致公園 | 7.8 | 杉並区 | |
祖師谷公園 | 総合公園 | 8.1 | 世田谷区 | |
台場公園 | 歴史公園 | 2.9 | 港区 | |
東京臨海広域防災公園 | 広域公園 | 6.5 | 江東区 | 国営公園と併設(計13.2ha) |
舎人公園 | 総合公園 | 51.3 | 足立区 | |
戸山公園 | 総合公園 | 18.6 | 新宿区 | |
中川公園 | 運動公園 | 12.0 | 足立区 | |
東綾瀬公園 | 15.8 | 足立区 | ||
東白鬚公園 | 10.3 | 墨田区 | ||
光が丘公園 | 総合公園 | 60.7 | 練馬区・板橋区 | |
日比谷公園 | 総合公園 | 16.1 | 千代田区 | |
水元公園 | 広域公園 | 81.9 | 葛飾区 | |
明治公園 | 総合公園 | 5.7 | 新宿区・渋谷区 | |
夢の島公園 | 総合公園 | 43.3 | 江東区 | |
横網町公園 | 1.9 | 墨田区 | 東京都慰霊堂・復興記念館 | |
代々木公園 | 総合公園 | 54.0 | 渋谷区 | |
林試の森公園 | 総合公園 | 12.0 | 目黒区・品川区 | 旧称・目黒公園 |
蘆花恒春園 | 風致公園 | 6.8 | 世田谷区 | 徳冨蘆花旧宅 |
和田堀公園 | 総合公園 | 18.9 | 杉並区 |
公園(多摩地域)
公園名 | 分類 | 開園面積 (ha) | 所在地 | 備考 |
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秋留台公園 | 運動公園 | 11.8 | あきる野市 | 秋川丘陵自然公園内 |
井の頭恩賜公園 | 歴史公園 | 38.3 | 武蔵野市・三鷹市 | 東京都直轄 |
大戸緑地 | 緑地 | 66.1 | 町田市 | |
小山内裏公園 | 総合公園 | 45.9 | 町田市・八王子市 | |
小山田緑地 | 緑地 | 40.0 | 町田市 | |
小金井公園 | 広域公園 | 77.5 | 小金井市 | |
小宮公園 | 総合公園 | 25.1 | 八王子市 | |
桜ヶ丘公園 | 広域公園 | 27.8 | 多摩市 | 旧多摩聖蹟記念館 多摩丘陵自然公園内 |
狭山公園 | 13.3 | 東村山市・東大和市 | ||
狭山・境緑道 | 8.4 | 小平市・東村山市・東大和市 | ||
浅間山公園 | 風致公園 | 8.3 | 府中市 | |
滝山公園 | 総合公園 | 25.9 | 八王子市 | 滝山自然公園内 |
玉川上水緑道 | 緑地 | 12.8 | 福生市・昭島市・立川市 ・小平市・三鷹市・武蔵野市 |
|
長沼公園 | 緑地 | 32.0 | 八王子市 | 多摩丘陵自然公園内 |
野川公園 | 広域公園 | 39.9 | 調布市・小金井市・三鷹市 | |
野山北・六道山公園 | 広域公園 | 140.8 | 武蔵村山市・瑞穂町 | |
八国山緑地 | 緑地 | 29.1 | 東村山市 | |
東伏見公園 | 総合公園 | 13.7 | 西東京市 | |
東村山中央公園 | 総合公園 | 12.1 | 東村山市 | |
東大和公園 | 緑地 | 18.4 | 東大和市 | |
東大和南公園 | 9.8 | 東大和市 | ||
平山城址公園 | 総合公園 | 6.5 | 八王子市 | |
府中の森公園 | 総合公園 | 16.8 | 府中市 | |
武蔵国分寺公園 | 総合公園 | 10.8 | 国分寺市 | |
武蔵野公園 | 風致公園 | 23.0 | 小金井市・府中市 | |
武蔵野中央公園 | 総合公園 | 10.0 | 武蔵野市 | |
武蔵野の森公園 | 広域公園 | 14.8 | 府中市・調布市・三鷹市 | |
陵南公園 | 運動公園 | 5.9 | 八王子市 | |
六仙公園 | 総合公園 | 0.4 | 東久留米市 |
戦後すぐに日本の学校制度が新しく変りました。占領軍総司令部の命令です
仙台市には新制中学校が幾つも出来、私共が入学した第十中学校(後に愛宕中学校と改称)は昭和22年に発足し、我々はその二期生として昭和23年に入学しました。
卒業以来61年になりますが同級会や同期会や卒業生全体の同窓会が仙台や東京で連綿として続いています。
特に東京での同窓会は「萩の会」という名前で一期生の内ケ崎儀一郎さんが長年幹事としてよく纏めてくれたおかげで毎回出席者も多く、楽しい会でした。2年毎の開催ですがもう7回も開催しています。その上、「萩の会」と正式な名前になる以前から一期生と二期生だけの同窓会が東京で何度もありました。すべて内ケ崎儀一郎さんの献身的な準備のお陰でした。
それが今回から幹事を6期生の佐藤統夫さんと赤川 綾さんへ交代し、案内も一期生から八期生まで拡大して開催したのです。
会場は一橋大学の如水会館で今日の12時から開催されました。出席者は当時の音楽の先生だった松坂美智子先生をはじめ合計36名でした。
一期生から八期生まで広い範囲の人が集まるので話が弾まないのではないかと危惧しながら出席して見ましたに
ところが少しアルコールがまわると談論風発で、愛宕中学校時代の思い出話に花が咲きました。卒業した時代が少しずつ違うので中学校の様子が変わります。それが又面白い話題になるのです。出席者の卒業年度に8年もの違いがあるのに、すっかり打ち解けて話がはずんだのです。
幸い私には4期生と7期生の弟が2人愛宕中学校を出ているのです。すぐ下の弟も仙台から出席しました。7期生の弟は欠席です。しかしこの2人の弟とよく遊んだ友達が私のところに来て懐かしそうに昔話を聞かせてくれるのです。
私どもの2期生は私と梶原千代子さんの2人だけでした。
出席者が2人だけだったのには理由があったのです。丁度2週間ほど前の10月14日に杉下茂美さんが幹事長で二期生の同期会を仙台の秋保温泉一泊で開催したのです。皆がそちらに出席したので今日の同窓会には来なかったようです。
そこで各学年の同期会の幹事同士が名簿を交換したり、同期会と同窓会の開催時期が重ならないようにしようという事になりました。
私自身は秋保温泉の同期会にも神田の如水会館での「萩の会」にも出席し、どちらも非常に楽しい思いをしました。
秋保温泉での同期会に関してはこのブログに以下のように3回の記事を掲載しました。
深い悲しみと、深い喜びの混じり合った感動・・・卒業後61年目の同窓会
友だちへの追悼・・・疎遠だった私のお詫び
懐かしい故郷の風景・・・片平丁、お霊屋下、鹿落坂、大年寺山、愛宕山
老い先も短い年齢になってみると同期会や同窓会が実に楽しくなります。健康である限りどちらも出席しようと決心をして幸せな気分で帰って来ました。
皆様は同期会や同窓会をお楽しみになっていらっしゃいますでしょうか?
下に今日の「萩の会」のスナップ写真をお送り致します。
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