後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

晩秋の富士と山中湖の淋しい風景を見ながら般若心経を考えた

2016年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム




一昨日、以下のように「般若心経」に関する記事を書きました。題目と冒頭の数行だけを示します。

「佛教を簡単に理解する方法」
外国に行くとよく、「仏教とはどのような教えなのですか?」と聞かれます。
答は簡単至極です。お釈迦様が弟子のシャーリプトラ(舎利子)へ向かって話したことをまとめた「般若心経」の中の2つくらいの言葉を説明するのです。
「色即是空、空即是色」と「受・想・行・識亦復如是」という句です。
前者はこの世のことはすべて空しいという意味です。空しいからこの世なのですという意味です。
後者は全ての精神活動も、また同じく、実体は「空」ですという意味です。
そうするとキリスト教を知っている人は「この世のことに執着しないで天の神様やイエス様のことを愛せ」という教えと似ていますと言います。この理解も少し違うのですが、その辺で会話を終りにします。・・・以下省略。

そうしたらある方から次のようなコメントを頂きました。
・・・「色即是空、空即是色」すべて空と解釈することとはどのような生き方をすることなのか。そこに関心があります。・・・

難しい問題です。
そこで昨日、車を100Km走らせて、晩秋の富士と山中湖の淋しい風景を見ながら答えを考えて来ました。写真は昨日撮ったものです。
簡明な答えが出来ました。
お釈迦さまは人それぞれの人生をどのように生活し、どのように生きなさいと具体的には一切教えていません。
どちらにしても人間は食べるために作物を作ったり魚や獣を取ります。現在では食べるため、家族を養うために会社で働きます。
その具体的な暮らし方は時代が変われば変わります。住んでいる環境によっても違います。
そのような具体的な生き方についてはお釈迦様は一切言及しません。
しかし人間は働いていると失敗もあります。苦しい目にも会います。悲し出来事も起きます。
そんな場合に此の世のことはすべて空と解釈すれば気が楽になるのです。心が救われるのです。そしてまた働いて生きていく勇気が湧いてくるのです。
お釈迦様は「般若心経」で全ての人々の悩みや悲しみを救ったのです。どんな時代でも共通に起きる人間の悲劇から人々を生き返らせたのです。ですからこそお釈迦さまの教えは2500年もの長きに渡って世界宗教になったのです。

さて人間はさまざまです。どんな悲劇に会ってもお釈迦様の助けを必要としない人もいます。どんなに困難に遭遇しても自分自身の意志力でそれを克服出来ると信じている人もいます。宗教などは必要ありません。それはそれで良いのです。

ここで宗教という言葉が出ましたので一言書きたいことがあります。
私は「般若心経」に書かれている内容はお釈迦様の宇宙観と信じています。ですからそれは哲学です。宗教とは違います。
しかし内容がこの世の深い、深い真理です。
そこで多くの人はお釈迦様は人々の上に超越して立つ絶対的な存在と考えます。そしてお釈迦様を超越した存在として崇めたて祀ります。これが宗教的な行為です。こうして一つの哲学が仏教という世界宗教になったのです。
これにはお釈迦様もびっくりされていることでしょう。死に臨んで自分の遺骨は野に捨てて、お墓は作ってはいけないと言い残しました。仏像もすべての偶像も作るなと言い残したのです。約400年間、仏教には仏像がありませんでした。

仏像を作ったり、お寺を作ったりいろいろな宗派に別れたりするのは全て人間の弱さです。
そのような人間の弱さを持っていない人には「般若心経」は不要です。無視して良いのです。

最後に一言。私はカトリックです。しかし「般若心経」は大好きです。哲学と考えているので矛盾を感じません。
キリスト教でも教会を作ったり、いろいろな宗派に別れたりするのは全て人間の弱さです。
戦争をするのも全て人間の弱さです。宗教の限界、人間の限界を感じています。

ある方が・・「色即是空、空即是色」すべて空と解釈することとはどのような生き方をすることなのか?・・と質問を送ってきましたが、上記が私の答です。昨日、晩秋の富士と山中湖の淋しい風景を見ながら考えて来ました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





山々の葉が色づく季節が待たれます

2016年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム



この季節になると毎日、毎日、紅葉黄葉の風景に憧れるようになります。
東京の郊外に住んでいるので雑木林が多いのですが一向に紅葉する気配がありません。この近辺では11月の終りにならないと紅葉しないのです。
皆様のお住まいの所の紅葉の時期は何時頃でしょうか?
北海道や東北の山々は文字通り錦織りなす絢爛とした紅葉に覆われていることでしょう。
そんな風景が待遠しいので2010年の11月に撮った紅葉の写真を朝から眺めて楽しんでいます。
ここに示す紅葉の風景は山梨県の甲斐駒岳の山麓にある自分の小屋の付近で撮った写真です。
そして毎年、紅葉の風景を見ると、高校時代に習った漢詩を思い出します。紅葉を焚いて酒を温めるという白居易の漢詩です。
毎年この時期になると何故か決まって思い出すのです。

唐の詩人、白居易が昔遊んだ仙遊寺の林で紅葉を焚いて酒を温めたことを回想する漢詩です。
もう自分は遠方の仙遊寺の林へは行く事も無い。しかしそこへ帰って行く君が羨ましい。そんな内容の詩です。
この句は皆様も高校時代に習ったことがあると思います。平家物語にも出て来てよく知られている漢詩です。

寄題送王十八帰山仙遊寺   白居易

曽於太白峰前住
数到仙遊寺裏来
黒水澄時潭底出
白雲破処洞門開
林間煖酒焼紅葉
石上題詩掃緑苔
惆悵旧遊復無到
菊花時節羨君廻

その昔、私が太白峰の麓に住んでいた頃はよく仙遊寺へ出かけたものだ。
水が澄む秋の季節には、川淵の底まで透けて見え、白雲が切れた辺りに
仙遊寺の山門があった。また仙遊寺の林間では散り落ちた紅葉を焚いて
酒を煖めたり、緑苔を払った石の上に詩を書いたりしたものだ。
ああ残念ながら、昔遊んだあの地に私はもう二度とは行くことはないだろう。
菊の花の咲くこの季節に、そこに帰っていく君が羨ましいよ。
(以上の訳の出典は、以上の出典:http://plaza.rakuten.co.jp/1492colon/diary/200812110000/ です)

ついでに語句の解説も示しておきます。
・王十八・・・・排行(兄弟・従兄弟の順の十八番目)、の意。
・寄題・・・・・その場所から離れている地で詠ずる、の意。
・太白峰・・・・都長安の県城南方20kmにある秦嶺山脈の主峰のひとつ。
                海抜3767m、李白の「太白峰に登る」で有名。
・仙遊寺・・・・唐の都、長安の郊外にあった寺。
・黒水・・・・・秋の川の水、の意。
・曾遊の地・・・以前に遊んだ土地。
・潭・・・・・・川の淵、の意。
・惆悵・・・・・恨み嘆く、の意。

嗚呼、紅葉が待遠しいです。山に行って落ち葉を掃き集めて焚火を楽しみたいです。
でも焚火禁止の場所が多いので、自分の小屋の中の薪ストーブで落葉を焚きます。煙突から出る煙の良い香りが林間に漂います。
その雑木林も写真に示すように黄葉しているのです。
そんなことを思い出す今日この頃です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「今日の日記、カトリック小金井教会のミサに行ってきました」

2016年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はサレジオ会の吉田神父さまが司式と説教をして下さいました。
2番目の写真の左が吉田神父さまでその右が私どもの主任司祭のヨゼフ・ディン神父さまです。
今日の新約聖書はルカによる福音(19・1-10)です。
徴税人の頭のザアカイがイチジクの樹に登ってイエスさまを見物している場面です。樹の下を通りかかったイエスさまが「ザアカイ急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」と言ったのです。
ザアカイは悪人の自分へ声をかけてくれた上に、家に泊まりたいという話にすっかり感激し、今迄の悪行を反省し、改心したという場面でした。
新約聖書には悪人としてたびたび徴税人が登場します。
当時のユダヤ地方はローマ帝国の領土でローマ人の総督が治めていました。
しかし税金を取り立てて、ローマ総督に差し出す役はユダヤ人の徴税人が受け持っていたのです。
この徴税人はローマの権威をかさにきて、決まり以上の税金を巻き上げたり、脱税を見逃して賄賂を取ったりして私腹を肥やしていたのです。
すなわち当時のユダヤ人の間では大悪人として憎まれていた人でした。
そのような悪人でもイエスさまは見捨てないで救ってくれたのです。
悪人でも改心すれば天国へ行けるという信仰になったのです。
そんな悪人の中でイチジクの樹に登ったザアカイは有名な人でした。





佛教を簡単に理解する方法

2016年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム
外国に行くとよく、「仏教とはどのような教えなのですか?」と聞かれます。
答は簡単至極です。お釈迦様が弟子のシャーリプトラ(舎利子)へ向かって話したことをまとめた「般若心経」の中の2つくらいの言葉を説明するのです。
「色即是空、空即是色」と「受・想・行・識亦復如是」という句です。
前者はこの世のことはすべて空しいという意味です。空しいからこの世なのですという意味です。
後者は全ての精神活動も、また同じく、実体は「空」ですという意味です。
そうするとキリスト教を知っている人は「この世のことに執着しないで天の神様やイエス様のことを愛せ」という教えと似ていますと言います。この理解も少し違うのですが、その辺で会話を終りにします。

私自身は「般若心経」が大好きです。
とても短い上にお釈迦様の教えの全てが詰まっているのです。
その上、「般若心経」を読むと幼少の頃の楽しい思い出がよみがえって来るのです。幸せな気分になります。
祖父が兵庫県の山里のお寺の住職をしていました。毎年、夏になると一家でそこへ帰省しました。祖父母が歓迎しますから楽しい夏の思い出が残ります。その折、毎日のように祖父と一緒に本堂で唱えたのがこの「般若心経」と「大悲心陀羅尼」というお経でした。

このお経は玄奘三蔵法師がインドから持って来て、唐の長安の大慈恩寺で漢文に翻訳したものです。そして大雅塔に全てのお経を大切に保管したのです。余談ながら私は1982年にこの大雅塔に登りました。幸な時間が流れました。
それはさておき、玄奘三蔵法師が翻訳した漢文の「般若心経」を示します。

摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神咒、是大明咒、是無上咒、是無等等咒、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多咒。即説咒曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経
(般若心経は、「大般若経」という600巻の経典(約300万文字)の内容を、わずか276文字に凝縮したものです)

この漢文の意味は次のようになります。
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/hannya.htm

摩訶 般若 波羅蜜多 心経(まか はんにゃ はらみった しんぎょう)
偉大なる"悟りを開く智慧"の真髄

※摩訶=偉大なる
※般若=智慧
※波羅蜜多=悟りを開く、彼岸に至る
※心経=真髄

観自在菩薩 行深 般若 波羅蜜多 時、(かんじさいぼさつ ぎょうじん はんにゃ はらみった じ、)
観音様(かんのんさま)は、悟りを開くための修行を究められて、

※観自在菩薩=観音様。悟りを開いた明慧自在(みょうえじざい)の仏さま

照見 五蘊 皆空、(しょうけん ごうん かいくう、)
五蘊(形あるものと精神活動のすべて)は「空(くう)」であることを悟られ、

※五蘊=色(形あるもの)・受・想・行・識(精神活動)

度 一切 苦厄。(ど いっさい くやく。)
一切の苦しみから逃れられる道を示されました。

舎利子。色 不異 空、空 不異 色、色 即是 空、空 即是 色。(しゃりし。しき ふい くう、くう ふい しき。しき そくぜ くう、くう そくぜ しき)。
舎利子よ。形あるものはすべて「空」であり、「空」が形あるものの真の姿です。

※舎利子=お釈迦様の十大弟子のひとり(般若心経は、彼への呼び掛け)
※A不異B=AはBと異ならない
※A即是B=AはBである

受・想・行・識 亦復如是。(じゅ・そう・ぎょう・しき やくぶにょぜ。)
精神活動も、また同じ(く、実体は「空」)です。

※受=心が感受すること
※想=思いをめぐらすこと
※行=意志を持つこと
※識=認識・識別すること

舎利子。是 諸法 空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。(しゃりし。ぜ しょほう くうそう、ふしょうふめつ、ふくふじょう、ふぞうふげん。)
舎利子よ。この世にあるすべてのものの実体は「空」です。
生じることもなく滅することもなく、
汚れもせず清らかにもならず、
増えることもなく減ることもありません。

是故空中、無 色、無 受・想・行・識、(ぜこくうちゅう、む しき、む じゅ・そう・ぎょう・しき、)
故に、「空」が実体のこの世には、形あるものも、精神活動もありません。

無 眼・耳・鼻・舌・身・意、無 色・声・香・味・触・法。(む げん・に・び・ぜっ・しん・に。む しき・しょう・こう・み・そく・ほう。)
目も耳も鼻も舌も身体も精神もなく、(目から見える)形も(耳から聞こえる)声も(鼻で感じる)香りも(舌で感じる)味も(身体が感じる)触感も(精神が)感じ取ることもありません。

無 眼界、乃至、無 意識界。(む げんかい、ないし、む いしきかい。)
目に見える世界も、目に見えない意識の世界もありません。

無 無明、亦 無 無明 尽、乃至、無 老死、亦 無 老死 尽。(む むみょう、やく む むみょう じん、ないし、む ろうし、やく む ろうし じん。)
この世に無明はなく、無明が尽きることはありません
また、老死もなく、老死が尽きることもありません。

※無明=悟りを開いていないこと

無 苦・集・滅・道。無 智 亦 無 得。(む く・しゅう・めつ・どう。む ち やく む とく。)
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす道もありません。
また、教えを知ることもなく、悟りを得ることもありません。

以 無所得 故、菩提薩埵、依 般若 波羅蜜多 故、(い むしょとく こ、ぼだいさった、え はんにゃ はらみった こ、)
よって何も得ることがないため、菩薩(ぼさつ)さまは悟りを開いたが故に、

心 無罣礙、無罣礙 故、無有恐怖、遠離一切 顛倒夢想、究竟涅槃。(し んむけいげ、むけいげ こ、むうくふ、おんりいっさい てんとうむそう、くぎょうねはん。)
心に障りがなく、心に障りがないから、恐怖を感じず、一切の迷いから離れて、安らぎの極致へと到りました。

三世 諸仏、依 般若 波羅蜜多 故、得 阿耨多羅 三藐 三菩提。(さんぜ しょぶつ、え はんにゃ はらみった こ、とく あのくたら さんみゃく さんぼだい。)
三世の仏さまも、このような智慧によって、完全なる悟りを開かれました。

※三世=過去・現在・未来
※阿耨多羅三藐三菩提=サンスクリット語の「アヌッタラ・サムヤック・サンボーディ」を漢字で表したもの。完全な悟りを開いた状態

故知、般若 波羅蜜多、是 大神 咒、是 大明 咒、是 無上 咒、是 無等等 咒、能除 一切苦、真実不虚。(こち、はんにゃ はらみった、ぜ だいじん しゅ、ぜ だいみょう しゅ、ぜ むじょう しゅ、ぜ むとうどう しゅ、のうじょ いっさいく、しんじつふこ。)
故に、悟りを開く智慧は、霊力のある咒文であり、明らかなる咒文であり、この上ない咒文であり、他に並ぶものがない咒文であり、一切の苦しみを取り除き、真実にして虚しいところがありません。

故説、般若 波羅蜜多 咒。即 説咒 曰、羯諦 羯諦 波羅 羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶。般若心経
悟りを開く智慧の咒文を説きましょう。その咒文いわく、「行こう、行こう、悟りの世界へ行こう。みんなで一緒に悟りの世界へ行きましょう。」以上が、"悟りを開く智慧"の真髄です。

※羯諦 ~ 菩提薩婆訶=「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハーガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハーガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」を漢字で表したもの。

このお経は日本人の文化の基調になりました。
今日の挿し絵がわりの写真は、長安の大慈恩寺の山門と大雅塔の写真に続いて東大寺とその中の大仏さまの写真と夜景です。
これからミサに行きます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料======================
西安の大慈恩寺;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%85%88%E6%81%A9%E5%AF%BA
隋の大興城にあった無漏寺(一説に浄覚寺)の故地に、648年(貞観22年)、皇太子の李治が、亡母(文徳皇后)追善のために建立したのが、大慈恩寺である。その名は「慈母の恩」に由来する。
各地から、良材を集め建てられ、その規模は、子院(塔頭)10数院を擁し、建築物は総数1,897間、公度僧だけで300名という大寺であった。帰朝した玄奘は、本寺の上座となり、寺地北西の翻経院で仏典の漢訳事業に従事した。当寺での、玄奘の訳経活動は、658年(顕慶3年)までの11年に及び、合わせて40部余の経典が漢訳された。玄奘の弟子である基(窺基)は、師から相承した法相宗を宣教し、「慈恩大師」と呼ばれた。
652年(永徽3年)、大雁塔が建立される。当初は、玄奘がインド・西域から持参した仏像や経典を収蔵するための塔であった(大雁塔の項を参照)。
唐代半ば以降、大慈恩寺の境内には、大きな戯場があり、俗講や見世物が行われていた。また、牡丹の名所としても知られ、それを詠んだ多くの漢詩が知られ、藤も植えられていた。春には、寺が所有していた南にある通善坊の「杏園」で杏の花が、夏には、寺の南池で蓮の花が咲き、秋には、柿がなり、紅葉につつまれたと伝えられる。









フィリピン大統領の親日家ぶりを嬉しく思う

2016年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、フィリピンのドウテルテ大統領が日本を正式に訪問し、親日家ぶりを発揮しました。
何故、こんなにも日本が好きで尊敬しているか少し調べてみました。
考えられる理由はフィリピンが1899年から1946年までアメリカの植民地としてその収奪に苦しんで来たのです。そのアメリカへ真珠湾攻撃で打撃を与えたのです。そして太平洋戦争のお陰で1946年に念願のフィリピンの独立が可能になったのです。
この理由で戦後フィリピンは親日国になったのはうなずけます。
アメリカ占領軍が日本軍の残虐ぶりを宣伝するために「バターン死の行軍」を利用し、フィリピン兵が多数死んだと報道していましたが大きな反日運動にはなりませんでした。
この構図は第二次大戦のお陰でイギリスから独立が出来たインドがいつも日本に感謝して来たのと同じ構図です。
しかし上の理由だけでドウテルテ大統領が熱烈に日本が好きなのではありません。
彼の出身地のミンダナオ島のダバオ市周辺には戦前、多数の日本人移民が入植して地域の経済発展に大きな貢献をした歴史があったのです。
兵庫県出身でマニラに住んでいた日本人実業家、太田恭三郎はダバオを開発したのです。
彼は1903年、広大な土地を開発する許可を受けてアバカ(マニラ麻)とココナツのプランテーションを作り上げました。
それ以来、ダバオには続々と日本人が移民し地域の経済を大きく発展させたのです。
詳しくは末尾の参考資料をご覧ください。
日本人はフィリピを日本軍が占領し残虐行為をしたと信じています。しかしそれは戦後のアメリカ占領軍のGHQの宣伝だと理解すべきかも知れません。
確かにマニラではそのようなことがあったのでしょう。しかしマニラから遠方のミンダナオ島では日本人の貢献に感謝していたのかも知れません。
そのダバオ市の市長を20年間務めたドウテルテ大統領が親日家になるのもそれなりの理由があるのです。
彼はフィリピンの国民の80%から支持されています。
中国や韓国が日本を恨むなかでフィリピンのような親日国があることは嬉しいものです。
しかし私の好きなオバマ大統領の悪口を言うのはいけません。
アメリカ軍基地を撤廃したかったら紳士的な外交交渉を展開すべきです。

今日の挿し絵がわりの写真はミンダナオ島のダバオ川の写真と1939年のダバオ日本人学校の写真とカトリックダバオ教会の写真と、1898年のアメリカ・フィリピン戦争の絵画を順々に示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料======
フィリピンがアメリカの植民地になった経緯;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
(1)米比戦争
アメリカ合衆国との間に米比戦争が勃発する。翌1899年1月23日にアギナルドはマロロス憲法を公布しフィリピン共和国(第一次共和国)を樹立、初代大統領に就任した。1900年には当時の首都マロロスが陥落し正規軍は解散、ゲリラ戦を展開するが、翌1901年3月、イサベラ州パラナンでアギナルドは米軍に捕らえられアメリカの主権を認めざるを得なくなった。1902年までにアメリカ軍がフィリピン主要部を占領し、アメリカ合衆国の植民地となった。「フィラデルフィア・レジャ」紙は、米比戦争の二年間でルソン島住民の六分の一が殺されたと当時報道しており、これは約61万6000人にのぼる[37]。
米比戦争には12万人のアメリカ兵が投入され、4500人のアメリカ兵の戦死者と20万人の一般のフィリピン人の死亡者を出した[38]末にゲリラ化した革命軍の制圧を続け、1901年7月にはアメリカ軍の軍政から民政移管が実現し、1902年7月に合衆国議会で成立したフィリピン組織法を法的根拠に、陸軍長官ウィリアム・タフトの主導によってフィリピンの植民地化が進んだ。

(2)桂・タフト協定
また、日露戦争において日本は日本海海戦での勝利を経て、ロシア軍もセオドア・ルーズベルトによる講和勧告を受け入れていた時期の1905年7月29日、タフトは来日し、日本の内閣総理大臣桂太郎との会談のなかで、アメリカは韓国における日本の支配権を承認し、日本はアメリカのフィリピン支配権を承認する内容の桂・タフト協定を交わす[39]。桂・タフト協定は、1902年の日英同盟をふまえたもので、以下の三点が確認された。
日本は、アメリカの植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する。
極東の平和は、日本、アメリカ、イギリス3国による事実上の同盟によって守られるべきである。
アメリカは、日本の朝鮮における指導的地位を認める。

(3)フィリピン全土平定
1907年にはフィリピン組織法の下でフィリピン議会が選出された。また、米軍は、スペイン主権下に入っていなかった南部のムスリムに対しても戦争を続け、1915年にはスールー王国とカーペンター=キラム協定(Carpenter-Kiram Agreement)を結んでアメリカ合衆国の主権を認めさせ、フィリピン全土を平定した。
1916年に米国議会でジョーンズ法(フィリピン自治法)を可決。同法では将来の独立が宣言され、上下二院の立法権を持つ議会の整備や、総督以外の行政機構、閣僚のフィリピン人化が進んだ。こうして米国は、経済的には米比二国間の相互関税免除を旨とした自由貿易体制を確立し、サトウキビとマニラ麻を中心としたフィリピンにおける輸出作物モノカルチャー化が進み、マニラ麻栽培のためにダバオ周辺には日本人移民が導入された。また、公教育の拡充を通して英語の普及が進んだ。
(以下省略)

ダバオ日本人社会の発展;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%90%E3%82%AA
ダバオの日本人街(1930年代)
ダバオの日本人学校(1939年)
兵庫県出身でマニラに住んでいた日本人実業家、太田恭三郎はこの地に目をつけ、1903年、広大な土地を開発する許可を受けてアバカ(マニラ麻)とココナツのプランテーションを作り上げた。当時日本や沖縄から多くの労働者がマニラとバギオを結ぶ高原道路・ベンゲット道路の過酷な工事に従事していた。太田は工事で疲労困憊した彼らをダバオに誘い農園で働かせた。マニラ麻は船舶用のロープの原料として飛ぶように売れ、太田はベンゲット道路で労働していた沖縄県人のリーダー・大城孝蔵とともに、農園と工場をあわせた「太田興業株式会社」を設立、これが日本人による最初のダバオでの会社だった。
1910年代、日本人移民、とくに大城孝蔵の呼び寄せによる沖縄県からの移民が増加し、第一次世界大戦景気でロープも大いに売れたこともあり1916年には1万人の日本人が住むに至った。大戦後不況で多くの日本人がダバオを離れたが、沖縄県出身者はとどまり、1938年にはダバオに1万8千人住んでいた日本人のうち沖縄県出身者が7割を占めた。太田は激増する農園需要と日本人移民の居住地を満たそうとバゴボ人の首長インタルから土地を獲得し、この場所に多くの人がとどまるように「民多留(みんたる)」と名づけた。ミンタルは日本人町になり、日本人学校、日本語新聞、日本領事館、病院、商店、売春宿、仏教寺院、キリスト教会、神社などが作られた。周囲には日本の商社の支援を受けた大手農園・工場や、一から作った中小農園など多くの農園会社が林立しダバオ湾岸には日本人経営のアバカのプランテーションが広がった。またコプラ、材木、漁業基地、雑貨の輸出入なども日本人によって手がけられた。
(以下省略)







「80歳にして想う日本民族とは(6)米国との戦争と民族文化の変貌」

2016年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム
老境になると、少しばかり此の世から離れて日本民族というものを客観的に眺められるようになります。
もう何年も書きたいと思っていることがあります。
それは太平洋戦争で日本がアメリカに徹底的に負けてしまったことです。
敗けただけではなくその後の6年間、全国の津々浦々をアメリカ軍が占領していたことです。
そしてさらにサンフランシスコ講和によって日本が独立した後もアメリカ軍の軍事基地が全国にあり続けているのです。
戦後の71年間、日本には圧倒的な軍事力を持ったアメリカ軍が駐留しているのです。
その上、日米間には安保体制が継続し強固な同盟関係にあるのです。

この状態は旧石器時代や縄文時代から始まる日本民族の歴史上、初めての大きな出来事でした。
この事態を人々はどのように受け止めているのでしょうか?

今日はその功罪を評価するのではなく、この初めてのアメリカとの深い関係によって日本民族の文化がどのように変貌してきたか概観して見たいと思います。
今迄のこの連載で日本民族の文化の特徴を幾つか指摘してきました。その中で第一回の連載記事、「80歳にして想う日本民族とは(1)その精神文化の基調をなす神道と仏教の混淆」では日本民族の文化の基底には仏教と神道があると書きました。
神道は旧石器時代や縄文時代の自然信仰が次第に鳥居を有する神社に発展してきました。そして仏教は538年に中国から伝来しました。
その後、唐の玄奘三蔵法師がインドに渡り16年後の645年に、657部の経典を長安に持ち帰ったのです。日本の仏教は現在も、全て玄奘三蔵法師が漢文に翻訳した教典によっているのです。
このような歴史を見ると日本民族の文化の基盤には神道と仏教があると言えます。

ところが一方、アメリカの文化はキリスト教のプロテスタン宗派に基盤を置いています。従ってアメリカ占領軍はキリスト教から派生した考え方によって日本の軍国主義を徹底的に絶滅させ、アメリカ流の国にしようとしました。勿論、占領軍はそれをキリスト教と関連があるとは意識しなかったと思います。それは日本人が常日頃、仏教を意識していないのと同じです。
日本へ男女平等の選挙権を与えました。聖書ではマグダラのマリアや女性が度々登場し大切にされています。
旧制の学校制度を廃止し、6・3・3・4年の新制の学校制度に変えました。
だれでも平等に教育にあずかれるようにしたのです。これらはヨーロッパのカトリックの影響を受けたエリート教育とは違います。
さらにキリスト教から派生した共産主義の影響もあって日本の地主・小作制度を廃止し農地解放を実施したのです。
キリスト教から派生した博愛主義が強調されました。
プロテスタント主義から派生した人間の平等と自由が日本に行きわたらせました。人権の重要性と個人の尊厳を日本民族へ押し付けるようにして教えました。
上記で「キリスト教から派生した」という表現を度々使いましたが、その理由はそれが聖書に書かれていなくてもキリスト教に関連あると考えられるからです。

大変、雑に言えば日本の敗戦によって民族文化が佛教的なものからキリスト教的な文化に変貌したと言えます。
少なくとも政治構造や学校制度のような表面的なことは全てアメリカ流に変わったのです。
そして日本では個人の人権が尊重される社会になったのです。

しかし上の書き方は雑過ぎます。
本当に人権が尊重されるなら「残業」で苦しむ個人はいなくなる筈です。これだけ日本がアメリカ流になったのならキリスト教徒になる人が増えるはずです。しかし日本人のキリスト教徒は全人口の3%で、一向に増える傾向がありません。
学校制度は大きく変わりましたが、学校では相変わらず知識を暗記させる江戸時代からの教育を続行しています。創造性を伸ばす教育は皆無です。
日本民族の物質文化は変わりましたが、精神文化は変わらないのです。
このように言ってしまえば、これも間違いです。

日本民族の文化のなかで人間は平等だという精神は普及しました。自由に自分らしい人生を送るという考え方も定着しました。
そして障害者や弱者を差別しなという文化も育ちました。これらはすべてアメリカ文化の影響なのです。
ですから日本の精神文化もある部分は敗戦によって大きく変貌したのです。

私はいつも問題は提起しますが、答えは皆様に考えて頂くようにしています。
今日の問題は日本の敗戦によってその民族文化のどの部分が変わったのでしょうか?どの部分が変わらなかったのでしょうか?
上に書いたことは、その答えにいたるヒントに過ぎません。皆様からのご返事をお待ちしています。

今日の挿し絵がわりの写真は武蔵野公園の秋の風景と昨日、花屋さんで撮った花の写真とです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










「今日の日記、花を買いに行きました」

2016年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム
花屋さんの店先にはもうパンジーとシクラメンが溢れるように並んでいました。季節を先取りして冬の花々が飾られています。
真っ赤なシクラメンの鉢を買いました。

帰宅して家人へ上げましたら、もうこんな季節なのですねと喜んでいました。
花屋さんへ行く途中、武蔵野公園で車を停め、ススキの原の写真を撮りました。毎年、撮っている場所です。

こんなことをしていたら短い秋の日が暮れようとしています。今日も無事終わるようです。今日の日記でした。









昭和時代の陸軍士官学校を卒業した方の生涯

2016年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
大正生まれの方と親しくなりました。1年以上も前から通っているリハリビ施設で知り合ったのです。
いろいろ来し方のお話をお聞きしましたら、終戦前に陸軍士官学校を卒業された90歳くらいの方です。
私より10年位年上ですが、頭脳明晰で、運動能力が抜群なのです。
そこで好奇心の強い私はいろいろな質問をして文書でお答えして頂きませんかとお願いいたしました。
ブログなどへ掲載しますということでお書き頂いたのが以下の文章です。
昭和という時代を生き抜いた日本人の記録として若い皆様にお読み頂きたいと思い、ここに掲載いたします。
それは激動の昭和時代を生きたある日本人の赤裸々な記録です。
日本の平和を祈りながらお送りいたします。
===陸軍士官学校を卒業された方の生涯=====
1)何故、陸軍士官学校に入学したか?
私の父は私が小学校6年生、12歳の時亡くなりました。その後やっと旧制の中学校を終えましたが、それ以上の学費が続ぁず、官費の学校を選びました。
どうせ戦争で死ぬ身なら格好良く死にたいという刹那的な気持ちもありました。
時流に乗ったのかも知れません。自分では意識しませんでしたが、或いはオポチュニストだったのかも知りません。
2)陸軍士官学校でどんな教育を受けたか?
それはとてもストイックな教育を受けました。そしてサバイバル(Survival)の技術を体得させて貰いました。
戦術の他に物理や化学など普通もあり或る程度の教養を得ました。
課目に国際法、特に戦時国際法や」ハーグ協定などに関するものが無かったのが残念です。
3)終戦時の心境
内心、ほっとしました。生き延びたと思いました。本音でした。
しかし同期生の中の数人は腹を切って自殺しました。
私は楽観主義者なのか将来のことは余り考えませんでした。
その後、もう一度戦うのだというので、銃剣を研ぎ、小銃の実弾が支給され、実戦の準備をしましたが、結局沙汰止みになりました。
4)終戦後の大学入学と就職
終戦後、一時農業に従事しましたが、向学心黙しがたく、翌年大学を受験し無事入学出来ました。
当時、軍の学校を出た者入学者の1割以内という制限がありました。
昭和24年に大学を卒業し就職試験を受けました。就職試験は3社以内という規則があり、先に合格した会社に行くという決まりがありました。
私は、メーカー、商社、金融機関の1社ずつを受けて、一番先に決まった銀行に入りました。その銀行は国内よりも海外に店舗を持つ国策銀行でした。
父が外務省の官吏で海外勤務をしていたことも選択の一つでした。働きました。戦後の経済復興期で、深夜帰宅が1年以上続きました。
しかし肺結核になり、1年半以上の休職療養をしました。それ以来、人生を達観し、出世主義を放棄しました。
5)海外勤務
ブラジルのサンパウロ支店で4年間勤務しました。ラテンの国でのんびり出来ると思いましたが、当時、日本企業のブラジル進出が相次ぎ忙しい毎日でした。
ブラジル経済の狂乱期で、インフレ率が年間100%に近く苦労しました。
革命も経験しました。郷に入っては郷に従え仕事のやり方、処世の法を学びました。
6)日本の将来と日米安保体制について
アメリカ大統領候補のトランプ氏の演説を聞いていると、しきりに日本の防衛から手を引けと言っています。従って有事の際、果たして日本を護ってくれるのか心配です。
近隣諸国と仲良く出来ないものでしょうか。遠くの親戚よりも近くの他人という諺があります。中途半端な防衛で強大な中国に勝てるでしょうか。蟷螂の斧で向かうような気がしてなりません。スイスに学ぶべきだと思います。(終り)

あとがき、
以上の文章に付記したいことがあります。
まず陸軍士官学校は当時一番入学試験が難しい学校だったことです。ですから上の文章を書いて下さった方は非常に優秀な若者だったのです。
そして彼の楽観主義が幸いしました。何時までも軍国主義を引きずらないで直ぐに大学に入り、銀行に就職したのでず。そして1年半の闘病生活が人生観を変えたのです。
よく人は「激動の昭和時代」という言葉を用います。しかし激動の内容は人それぞれなのです。
上記の文章を読みしみじみと昭和という時代を思い返しています。

今日の挿し絵がわりの写真は旧甲州街道の小原宿から裏高尾の小仏峠へいたる道で、昨日、撮った風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「80歳にして想う日本民族とは(5)自然の風景や花々を愛する民族」

2016年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の自然は四季折々美しい姿を見せてくれます。そしてその山野には可憐な花々が季節のうつろいとともに次々と咲いてくれます。早春の梅の花に始まり、絢爛な櫻花、そして梅雨時になればアヤメやアジサイが野山を飾ります。庭にも咲き乱れます。
そんな花々や美しい自然の風景を日本民族は昔から愛してきたのです。
万葉集には自然の美ししさや花々の華麗な姿を歌った和歌が沢山あります。

「春の野に すみれつみにと 来しわれぞ 野をなつかしみ 一夜ねにけり」 山部赤人

自然の風景と言ってもいろいろです。
春霞にかすんだ田園風景、梅雨雲が中腹にかかった山々の遠景、長閑な春の海などなどいろいろな景観が楽しめるのです。そしてそれらの風景が季節の流れにともなってまた別な美しさを見せてくれるのです。
暑い夏が過ぎれば、秋が喨々と鳴るのです。その空に魂が吸われます。
山々の紅葉にも心が奪われます。
静かな山の湖の碧さとしれを縁取る紅葉した木々の様子も息を止めて眺めてしまいます。
高原の湖も良いものですが、豪快な滝の風景も良いものです。
ここで昨年の11月14日に撮った茨城県の袋田の滝の写真を示します。









自然の風景や花々を愛するのは日本民族にかぎったことではありません。
しかし緑豊かな山々に囲まれ、花々が溢れるように咲いている国はそんなに多くはないのです。
その上、緑に覆われた列島は美しい海にかこまれているのです。
それは幸運なことです。日本民族はその美しい風景に魂を吸いとられ、一層強く自然を愛し、崇敬していると思います。
その一つの証左が小堀遠州が作った庭です。小堀遠州流派の庭です。
その庭には自然の風景が凝縮して再現されているのです。小さな池が石の置き方で大きな海に見えるのです。巧妙に作った小さな滝が雄大な袋田の滝を連想させるのです。
大自然が家の前に持ち込んであるのです。
その上、その庭を前にして静かに坐っているとお釈迦様の教えが見えて来るのです。
特にお寺の庭にはそのような庭園があります。

ひるがえって西洋の庭を見ると日本の庭の自然を凝縮した特徴が明瞭に理解されます。
西洋の庭は草木を幾何学の形に刈込ます。庭全体を対称美で飾ろうとしています。
ベルサイユ宮殿の広大な庭を思い出して下さい。美しい池や樹木がありますが、全て左右対称的に配置されています。嗚呼、西洋文化だと感銘を受けます。
しかし日本の庭は左右対称には作りません。自然そのままなのです。

やはり日本民族は自然の風景や花々を愛する民族だと言っても過言でないと信じています。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「80歳にして想う日本民族とは(4)和を尊ぶ社会の強みと弱点」

2016年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム
日本民族は昔から輝かしい文化を持っていました。しかし何事にも良い側面と悪い側面があるのは仕方の無いことです。
例えば日本の文化の特徴に和をもって貴しとなすというものがあります。この文化は日本の社会に浸透し、人々の考え方や行動のもとになっています。
この結果、日本の社会に大変良い影響を与えてきました。
一例を上げれば、日本の会社では社員が勝手なことを言わないで、会社の方針に従って一致団結して新製品の大量生産に努力し、品質の高い工業製品を製造して来たことです。その結果が戦後から1990年頃まで続いた日本の経済の高度成長なのです。
それだけではありません。
和をもって貴しとなすという文化のおかげで、家庭には言い争いの無い静かな平和があるのです。職場にも和気藹々とした平和があるのです。
この家庭の平和や職場の平和こそかけがえのない大切なものです。
しかしこの文化には悪い効果もあるのです。それは恐ろしい一面です。
今日はいろいろな悪い影響のうち、以下の二つだけを取りあげて簡単に書いてみたいと思います。
(1)和を強調し過ぎるあまり、協調性の無い人間を残酷にも排除しようとする。
(2)異なった意見を排除するので、日本の社会では独創的な芸術や新しい科学技術が生まれ難い。

さて、日本では和を強調し過ぎるあまり個性を尊重しません。学校でも会社でも他人と違う意見を言うことは悪いことだという風潮があります。協調性の無い人間はいじめられます。疎外されます。一人前の人格者とは見做されません。
その結果、個性の強い子供は学校で不登校になりがちになります。
協調性の無い人間は会社で偉くなれません。職場で正論を言う人は嫌われます。言っていることがどんなに会社の為になっているこどでも無視されます。そうして、「そういうことは課長になってから言え!」と叱られます。
不愉快なので会社を辞めます。これが苦難の人生の始まりになります。
日本の会社は正しいことを言う自由がないのです。課長は部長の言いなりです。当然、身分の低い社員は上役に従順になります。個人の自由が無いのです。会社の、ある部分だけを見れば軍隊に入隊するような決心がいるのです。
和をもって貴しとなすという文化の弊害は学校や会社の人間関係に限ったことではありません。
地域社会でもその悲劇が起きるのです。
一つだけ実例をあげます。
近所に会津出身の人が変わったデザインの家を建て引っ越してきました。家を建てる前に、いろいろとご迷惑をおかけしますと礼儀正しく挨拶にきました。好感の持てる男でした。引っ越してから親しくなって話を聞きました。
すると郷里の会津の悪口を何度も何度も訴えるのです。結論を書けば、「自分が他人と違い過ぎると、さんざんいじめられた」と言うのです。
会津では個人を尊重しないで、傷つけられたと言うのです。そして会津には二度と帰らないと言います。

さて(2)の話題に移ります。
イギリスに長く在住して、あちらの大学を卒業した石山 望さんが「日英の教育事情」3 という記事で書いていることを以下に抜粋します。出典は、https://smcb.jp/diaries/7139399 です。
・・・まず、大学の授業ですが、先生は、勿論、その教科に限り「全知の人」。
しかし、余程専門的なことでない限り、先生は、学生に「皆で、一緒に学びましょう。私ももっと知りたいのです」という感じを抱かせる、。これは日本の大学と大きな違いと思います。
従って、生徒は、先生から「君たち、どう思う?」と問われることが、常です。
生徒に考えさせるのですね。従って、生徒は、事前にかなり予習をしていかなければなりません。
「論文」に関しても同じ。
何を書くかという、目的意識ははっきりしていないといけないけれど、それは、勿論、ただ単に「感想」といったものではなく、自分の言っていることに、「裏づけ」がなければならない。それには、多々の文献を引用する。
そして、最後に結論として、”自分はこう思う”とはっきり言わなければならない。
他人からの受け売りではなく、自分独自の見解、。
「ある有名な人が、こう言っておられます。」
「あ、そう、。それはいいけれど、じゃ、アナタはどう思うの?」ということです。「それを、アナタの言葉で言ってください、」
英国人というのは、小さいときから、自分の思う所をはっきり言う習慣がついていますから、頭脳に「論理的思考」というのが生来備わっているのだと思います。こういうのは日本の教育とは全く違うと思います。
日本では、古来「和を以って尊しと為す」とか言います。
他の人と同じようにする、そして、自分一人だけが目立つ様なことはしないということが、美徳であり、美しいとさえ思われている程です。
日本人には、「独自の見解を持つ」という習慣が身についていないのです。もし、そういうお方がおられたら、目立ちたがりの勝手者と思われてしまうかもしれません。
昔、こんな話を聞いたことがあります。
日本のとある私立女子大でのこと。女性の米国人講師、何かのテストのとき、生徒の答案全てに全て「0点」をつけたそうです。
「これは、授業中に私の言ったこと。アナタ方から言われなくても、分っています。」・・・・
はっきり要約すれば日本の教育は知識を暗記させることです。これに反して欧米の教育は自分で考え、独自の見解を持てるような訓練をすることなのです。考える力をつけるのが欧米の教育なのです。
これでは日本の社会では独創的な芸術や新しい科学技術が生まれ難いのは当然ではないでしょうか?
皆様のコメントをお待ちしています。
今日の挿し絵がわりの写真は昨日、京王フローラルガーデンで撮った晩秋の花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






「今日の日記、晩秋の花の写真を撮りに行ってきました」

2016年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は青空が広がっています。午後から京王フローラル・ガーデンに晩秋の花の写真を撮りに行ってきました。
花々には夏の盛りの勢いが無く寂しげに咲いていました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









「80歳にして想う日本民族とは(3)島国なので排他的文化を持つ」

2016年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム
誤解の無いように始めに強調いたしますが、私は排他的な文化が悪いと非難する意図が毛頭ありません。
日本人はその排他性のお陰で日本古来の輝かしい伝統文化を守り、平和に暮らして来られたのです。ですから排他性は良い側面も有していることを始めに強調したいのです。
しかし島国に住む日本民族は大陸に住む中国人や朝鮮半島の人と考え方が違います。ユーラシア大陸に住むモンゴル人、ペルシャ人、インド人、ヨーロッパ人と民族性が非常に違います。
この違いにはいろいろありますが、今日は排他性の有無に問題を絞って考えてみたいと思います。
この日本民族に強くみられる排他性は、その住んでいる所が孤立した島国であるということに由来するのは明らかです。
日本は太平洋や日本海やオホーツク海や南シナ海に囲まれているのです。他民族の移住は容易でありません。他民族の文化の導入も命がけで行わなけれいけません。例えば遣隋使や遣唐使の船の遭難はたびたび起こりました。多数の人命を犠牲にして隋や唐の文化を取り入れたのです。
海。そうです海こそ日本民族の排他性の源だったのです。そこで海の写真を見ながら日本民族のことを考えてみましょう。

1番目の写真は神奈川県の由比ヶ浜から江の島や富士山を撮った写真です。ここに写っている海は太平洋に開いた相模湾の海です。今年の6月に撮った写真です。

2番目の写真は太平洋そのもの写真を撮ろうとして茅ケ崎の浜から沖の太平洋を撮った写真です。同じように今年の6月に撮った写真です。

3番目の写真は日本海の写真です。北海道の西海岸の岩内から10月14日に撮りました。

4番目の写真は日本海に突き出している積丹半島の写真です。

5番目の写真は積丹半島の神威岬の写真です。海は日本海です。
沖を眺めても絶対に対岸の大陸は見えません。このように日本は絶海に浮かぶ列島からなっているのです。
ですから古くから他民族の大規模な移住もありませんでした。明治維新によって近代国家になった後も、かたくなに他国からの移民を受け入れませんでいた。
少数のアイヌ民族を除けば、日本民族は単一な民族からなる国になっているのです。
これを現在の世界の国々に比べてみると、非常にまれにみる単一民族国家なのです。この単一民族の結果、排他的な民族文化をもつようになったと考えられます。
私が日本人の排他性を体験的に深く理解したのは1962年のアメリカ留学の時でした。
留学先のオハイオに落ち着いてまずアメリカの豊かさに驚愕しました。これではアメリカとの戦争で日本が勝てる訳がないと何度もしみじみと思ったのです。
それからしばらく下宿先の近所や大学の構内を見回すと、そこには実に様々な人種の人々がいたのです。日本の学校で、人間は白人、黄色人、黒人の3種類に分けられると教わり、そのように信じていました。
しかしオハイオで見たのは白人、黄色人、黒人の3種類のどれにも当てはまらいないインド人、メキシコ人、南米系の原住民、南太平洋系の黒人とは言えない人々など実に多くの人種が混在していて、仲良く平和に暮らしているのです。
同級生のアメリカ人と次第に仲良くなり、ビールを一緒に飲むようになります。どこの国の人も酔えばお国自慢が始まります。
アメリカ人は自由と平等の国だとアメリカを縷々自慢します。どんな人種も、どんな宗教も差別しないと自慢するのです。
そしてアメリカの強みは世界中の全ての国々から移民を受け入れて来たことだと言うのです。別の言葉で言えばアメリカ人は絶対に排他的ではないと主張するのです。
そして「日本は移民を受け入れた来たか?」と聞くのです。受け入れないと答えると、日本は排他的な社会だといささか見下したような顔をします。酒席の雑談なので本気で反論しませんが、彼らの本音が出ているので面白いのです。
それなのに今年の大統領選挙では差別主義者のトランプ氏は共和党の候補になったのです。しかし幸いにもヒラリー氏が優勢な状況になってほっとしています。昔、アメリカの自慢をしていた同級生のためににも良かったと思います。
さて、このように書くとヨーロッパの国々は排他的だという人がいます。後年、ドイツに住んだことがありますが、驚いたことに、ドイツはトルコから、ギリシャから、そしてルーマニアなどの東欧圏から多数の移民を受け入れているのです。
中国でも多民族国家であることを宣伝材料にしているのです。共産党政権に従順な限り、イスラム教もキリスト教もチベット仏教も平等に大切にしているのです。北京に行ってみるとイスラム教徒の多数の回族が白い帽子をかぶり悠々と闊歩しているのです。
イスラム教のお寺も多数あります。大学には豚肉抜きの回族のための学生食堂が必ず別に作ってありました。
あまり長くなるので、今日はここで終わりにします。日本民族の排他的文化の具体的な内容や、その強みや弱みについては稿を改めて書いてみたいと思います。(続く)


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、独りでミサに行ってきました」

2016年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は家内は風邪なので、一人でカトリック小金井教会のミサに行ってきました。
10時からのミサに司式はイエズス会の山中大樹神父様がなさって下さいました。
1番目の写真で説教をされているのが山中神父さまです。
2番目の写真の祭壇の左に立っているのが主任司祭のヨゼフ・ディン神父様です。

今日の新約聖書朗読はルカによる福音書(18・9-14)です。
ファリサイ派のひとが自分は律法を守り正しい生活をしていると自画自賛しています。一方、徴税人は胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい!」と叫んでいます。
するとイエスさまはこの徴税人を許し大切にします。
そしてファリサイ派の人は正しくないと言われます。
「だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」が朗読の最後の文でした。
写真はカトリック小金井教会のミサ風景です。





80歳にして想う日本民族とは(2)天皇を中心にして団結して努力する民族

2016年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム
日本民族とは?という大きな問題を取りあげれば簡単に正解を書ける筈がありません。
ですから、この「80歳にして想う日本民族とは」と題する連載記事では正解を書こうという意図はまったく御座いません。
単に老後の暇に任せて、日本民族にまつわる想いを、脈絡も無く書き進めて行こうと思っています。
どうぞ気楽に読み流してお忘れになって頂けたら嬉しく思います。
さて日本民族と言えばどうしても取り上げるべきことがあります。
それは飛鳥時代、奈良時代から1300年以上も続く天皇制のことです。
それでは天皇制は厳密には何時始まったのでしょうか?
明確なことは律令国家になったとき天皇制が始まったと考えるべきかも知れません。
7世紀後半から中国の政治体制にならった律令制の導入が進められ、701年の大宝律令によって律令制が確立したのです。
日本という国号が決まり、その時の天皇によって明治とか昭和という元号が正式に定められたのです。そして歴代天皇に漢字の諡号が一括して与えられたのがこの時です。ですから現在の天皇制はこの時に始まったと考えるのが妥当ではないでしょうか。

この天皇制の確立の結果、天皇を中心とした中央集権制が確立したのです。そして710年には平城京に遷都します。
その後、時代が流れ、鎌倉幕府、室町幕府、そして江戸幕府が出来ました。
しかし歴代の天皇はこれらの幕府の上に立つ権威でした。足利尊氏の南北朝の時代は例外ですが、全ての幕府は天皇を上に頂き、天皇の委託によって政治を行って来たのです。
ですから日本民族の中心は歴代の天皇にあったのです。
これは世界の歴史には実にまれなことです。
中国でも朝鮮でも王朝が目まぐるしく交代するのに対して、日本では同じ血筋の天皇が脈々と続いて来たのです。
これこそが日本民族の特徴ではないでしょぅか。

特に明治維新後、78年間は明治天皇や大正天皇、そして昭和天皇を中心にして、日本民族は一致団結して富国強兵に努力したのです。
その結果、日本は一流の近代国家になれたのです。
しかし維新後、78年目に日本は敗戦により全てを失ったのです。78年間、えいえいと培ってきたすべてが灰燼に帰したのです。
この悲劇の幕引きは昭和天皇の玉音放送でした。この事実こそが日本民族の心の中心に天皇があったという証拠ではないでしょうか。
そして「忍び難きことをしのび、堪え難きことをたえ」日本民族は団結して復興に努力したのです。それは民族の存亡をかける経済復興の戦いでした。
昭和天皇は国民を勇気づけるために全国の津々浦々を回り、街頭で帽子を振り国民を激励したのです。
その結果、戦後71年間の経済の高度成長が進行し、現在に至っているのです。

このありさまを素直に見ると、「日本民族の中心には天皇がいる」という表現に異議をさしはさむことは出来ないと存じます。
ですからこそ「日本民族とは天皇を中心にして努力する民族である」という言い方が妥当なのです。
しかしこの1300年も続く天皇制を廃止すべきと主張する人々もいます。
その代表的な一群は日本共産党の党員たちです。
そして天皇制は無駄に税金を浪費していると主張する共産党とは関係の無い人々の一群です。
しかし多くの日本民族は平成天皇も愛しています。生前退位の御意向に対して大多数の国民は天皇の努力に感謝して、生前退位に賛同したのです。これには政府も重い腰を上げざるを得ませんでした。

以上のように書くと私を右翼の国粋主義者という人がいると思います。
私は右翼でも国粋主義者もありません。
単に日本民族の歴史と他国の歴史を比較し文化人類学的に観察して、その結果をありていに書いたに過ぎません。
ですから現在の天皇制や宮内庁に対して強い反発も感じています。
天皇が真に国民を深く愛しているなら、神道だけでなく仏教も大切にすべきです。そしてキリスト教やイスラム教などに対しても好意的な発言をすべきです。神道だけを信じ、大切にしている考え方は如何なものでしょうか?
それともう一つ。古代の前方後円墳の多くを宮内庁が考古学的な根拠も無く天皇のお墓として発掘調査を厳禁している事実に疑問を感じます。この政策に対して世論を問い、善処すべではないでしょうか?
さて皆様は日本民族と天皇制に関して如何なご意見をお持ちでしょうか? コメントを沢山頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日の挿し絵がわりの写真は一昨日撮って来た神奈川県の相模湖の風景写真です。





80歳にして想う日本民族とは(1)その精神文化の基調をなす神道と仏教の混淆

2016年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム
私の悪い癖は理屈を書くことです。黙って写真だけを掲載すれば良いのですが、それにこじつけて針小棒大な理屈を書くという悪い癖を持っているのです。
このような書き出しで、昨日は、「日本民族と温泉文化・・・北海道北湯沢温泉のことなど」 という記事を掲載しました。
そして今日からは「80歳にして想う日本民族とは」と題する連載記事を始めようとしています。

先週の北海道の旅で積丹半島の熊笹の丘の中腹に腰を下ろして、静かに構想を練った連載記事です。
昨日の「日本民族と温泉文化・・・」という記事はこの連載の序論のようなものです。
お急ぎでない方はお付き合いのほどをお願いいたします。

しかしお急ぎの方の為に熊笹に覆われた丘と、そこから見下ろした日本海の風景の写真をまずお送り致します。









このような写真にある熊笹の丘の中腹の階段に1時間ほども腰を下ろしていました。西の方を見下ろすと秋の陽に輝く日本海が広がっています。
つい人生のあれこれを考えていました。そして気がつくと茫々80年です。その間、私は日本民族に篤い想いを持っていました。誇りに思ったり、民族の欠点に胸を痛めて来たのです。

それにしても日本民族とは何なんでしょうか?どのような文化を持っているのでしょうか?
隣の中国や朝鮮の民族とはどのように違うのでしょうか?
この疑問について思いつくままに連載風に書き進めて行きたいと思います。
老人が薄れゆく記憶で思いつくままに書く随筆ですので間違いや記述の混乱はお許し下さい。

さて日本民族の文化的基調は神道と仏教にあることには異論が無いと存じます。
神道は旧石器時代や縄文時代の自然信仰が次第に鳥居を有する神社に発展してきました。
出雲神社から派生した諏訪大社には縄文時代の信仰の巨大な御柱が現在でも祀られています。
その一方、仏教は538年に中国から伝来しました。
その後、唐の玄奘三蔵法師がインドに渡り16年後の645年に、657部の経典を長安に持ち帰ったのです。
日本の仏教は現在も、全て玄奘三蔵法師が漢文に翻訳した教典によっているのです。
この玄奘三蔵法師の教典はかなりお釈迦さまの教えを忠実に伝えています。

しかしながら日本には古来から神道があったのです。ですから新しく入ってきた仏教は神道と混淆したのです。それは良し悪しの問題ではなく、極く自然な現象でした。
80歳になった現在は神道と仏教の混淆を是認し、それこそが日本民族の精神文化の基調になっていると素直に理解する境地に至っています。その上、日本の仏教は神道の影響もあって多神教的な信仰になっていることもすなおに認めています。

日本の仏教では観音菩薩信仰や大日如来信仰や薬師如来信仰があります。
その上、弘法大師信仰や伝教大師信仰もあります。信仰の対象が沢山あってヒンズー教の多神教信仰に似ているのです。
それに対して仏教学者は信仰の対象が違っても唱える教典は同じお釈迦さまの教えを唱えているのだから一神教的な性質を持っていると強弁します。しかし大日如来や弘法大師が祀ってあるお寺にお参りする人々にとっては、お経の内容は理解していません。そんなことはどうでも良いのです。
お稲荷さんや神道の神々に無病息災、家内安全を祈るように大日如来さまや弘法大師様にお祈りしているのです。
このような宗教のあり方が日本民族の精神文化の基調になっているのです。

よく日本の知識階級は西洋人の真似をして宗教の混淆はいけないと偉そうに論陣をはります。
日本民族の文化を素直に観察しないで西洋の論客の手先になって自分が偉いと錯覚しているだけなのです。
そして多神教は原始的で劣っているので日本人は劣っていると自分の民族をおとしめます。

しかし私は地球上のどんな民族にも絶対に優劣は無いと信じています。勿論、どんな宗教にも優劣は絶対に無いのです。
ついでに言えば、中国は仏教と道教との混淆宗教です。朝鮮もそれに似ていますが、シベリア系の原始宗教も混淆しているのが特徴です。

今日は色即是空、空即是空というお釈迦さまの深甚な教えを説明しませでした。それが日本民族の無常観に大きな影響を与えたことについても一切言及しませんでした。それについては稿をらためて説明したいと考えています。あまり長くなるので今日はこの辺で終わりといたします。 (続く)


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)